2021年05月21日
メガトレンドの行方
山本康正『次のテクノロジーで世界はどう変わるのか』読む。
キャッチコピーに、
ハーバード大学院理学修士+38歳ベンチャー投資家にして元グーグル+京大特任准教授が描くテクノロジー基礎、
とある。そして、2年後のビジネスは、
AI(人工知能)+5G+クラウドのトライアングル、
を中心として進む、と提唱する。ここまでは、たぶん予想の範囲だろう。しかし、その中心に居るのは、アメリカの、
FAAN+M G(フェイスブック・アマゾン・アップル・ネットフリックス・グーブル+マイクロソフト)、
であり、それを猛追するのは、中国の、
BATH(バイドゥ・アリババ・テンセント・ファーウェィ)、
であり、日本は蚊帳の外どころか、生き残れるかどうか危ういと聞くと、薄々予感はしていたものの、脱力感が強い。確か、ソフトバンクの孫正義氏が、
「現在世界に300億円以上の価値がある未上場のAI関連企業が670社あるが、半分がアメリカ、半分の半分が中国。日本はなんと3社なんです」、
と指摘し、
「ハイテクジャパンと言われてたのが、完全に後ろのほうをついて行っている。なんとしても日本の政府、経済界、危機感を持っていますぐ取り組まなきゃいけない」
と訴えていたのを思い出す。
モノづくり日本、
などと20世紀的なことを言っている為政者では、この急激に進化する世界の潮流に乗れるはずはない。
著者は、近未来に起こるメガトレンドを、
データがすべての価値の源泉になる、
あらゆる企業がサービス業になる、
全てのデバイスが箱になる、
大企業の優位性が失われる、
収益はどこからえてもOKで、業界の壁が消える、
職種という概念がなくなる、
経済学が変わっていく、
と7つ上げている。ハードよりソフト、ソフトより、ネットの時代である。主導権は、ネット→ソフト→ハードウエアの順位となっている。レンタルビデオショップからスタートした、
ネットフリックス、
が、動画配信サービスの巨大帝国となり、いまや、自前の映画やドラマを作り、その予算が一兆円というと、ハリウッドすら、ネット動画配信サービスが凌駕する時代が来ている。となれば、もはやテレビは蚊帳の外になる。
数周遅れの、
モノづくり、
にこだわるということは、単なる部品屋になるということである。今日、既に多くの日本メーカーはiPhoneの部品屋になっているが、これが日本の趨勢ということになるのかどうか。
しかし、たとえば、アマゾンが、
カメラ付きの冷蔵庫モニター、
の特許を取っており、
「モニターが常に360度監視し、あらゆる食材のデータをとっていく。画素数が上がれば冷蔵庫の隅々の食材が何かを正確に特定できるので、ヌケ、モレがなくなり、食材の販売チャンスを逸することがなくなる。」
といって、アマゾンは、アレサ対応の電子レンジや冷蔵庫を開発・販売しているが、冷蔵庫を製造販売で稼ぐつもりはなく、あるいは、格安で冷蔵庫を提供し、別の分野で儲けようとするかもしれない。グーグルの無料メールサービスと同じである。そうなれば、家電メーカーは存在できない。同じことは、ベッドでも起こる。
「横になった回数、寝返りを打った回数、寝る位置、寝る姿勢など、睡眠中の全てのデータを集めることができる。」
そして、そのベッドを格安で提供する。そういう時代である。モノづくりでは生き残れない。
グーグルは世界中の図書館の本を1ページ単位でスキャンしている、
という。いま、ネットを制する者は、
データを制する者、
になりつつあることを承知しているからだ。中国の強みは、是非は別として、
「13億人という膨大な国内人口に加えて、プライバシーという概念がないに等しい」
ことだ。たとえば、AIの性能は、
データの量と優れたアルゴリズムの掛け算できまる、
という。データの価値に気づいている中国が、
「アメリカを超えるようなAIを持つのも時間の問題」
という。
新しいテクノロジーが開く未来に、著者が楽天的なのは当然としても、
「それでもテクノロジーは前に進めるべきだ。倫理は大事だが、後で考えればいいこともある。それよりも追いつけなくなったときのほうが致命的である。反対意見はあるだろうが、私はその立場をとる。」
には、ノイマンを思い出す。
高橋昌一郎『フォン・ノイマンの哲学』(http://ppnetwork.seesaa.net/article/480483995.html)で触れたように、非人道的な原子爆弾開発について、
われわれが生きている世界に責任を持つ必要はない、
と断言した。ノイマンの思想の根柢にあるのは、科学で可能なことは徹底的に突き詰めるべきだという「科学優先主義」、目的のためならどんな非人道的兵器でも許されるという「非人道主義」である。
ノイマンはこう言ったとされている。
我々が今作っているのは怪物で、それは歴史を変える力を持っている!……それでも私は、やり遂げなくてはならない。軍事的な理由だけでもだが、科学者として科学的に可能だとわかっていることは、やり遂げなくてはならない。それがどんなに恐ろしいことだとしてもだ。これははじまりにすぎない、
と。いまその恐ろしさは、制御不能なまでに拡散している。歯止めなきテクノロジー礼賛、利潤追求には、ちょっとたじろぐところがある。
参考文献;
山本康正『次のテクノロジーで世界はどう変わるのか』(講談社現代新書)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
2021年05月22日
たまご
「たまご」は、
卵、
玉子、
と当てる。
卵、
と
玉子、
の使い分けは、「卵」は、
生物学的な意味、
「玉子」は、
食材の意味、
と区別される(https://macaro-ni.jp/50053)が、生のものを、
「卵」、
調理されたものを、
「玉子」、
という使い分けがされるようになってきているという(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B6%8F%E5%8D%B5)。そのために、「たまご」から孵化する喩えで、
医者の卵、
と当てるが、
医者の玉子、
とは当てない。中国語でも、「卵(ルァン)」は、
生物学的な意味、
で、食材的な意味では、
「鶏蛋(ジータン)」、
と言う(https://macaro-ni.jp/50053)、とある。
ただ、「卵」と「玉子」の使い分けは、
ゆで卵、
とも、
ゆで玉子、
とも書き、
玉子焼き、
とも
卵焼き、
とも書かれ、必ずしも厳密ではない(https://macaro-ni.jp/50053)。
「たまご」の古語は
かひ、
あるいは、
かひこ、
あるいは
かひご、
である(大言海・岩波古語辞典)。
「かひこ」は、
卵子(大言海)、
か
殻子・卵(岩波古語辞典)、
とあて、「かひ」は、
卵、
と当てる(仝上)。「かひ」は、
カヒ(貝)と同根、
とある(岩波古語辞典)のは、
カヒは殻の意(岩波古語辞典)、
殻(カヒ)あるものの意(大言海)、
と、「たまご」の殻からきている。
殻、
は、
かひ、
と訓ませ、「貝」は、
殻(かひ)あるものの義、
とある(大言海)。つまり「かひ」は、
貝、
とも
殻、
とも、
当てている(岩波古語辞典)。「たまご」の「かひ」は、「殻」から名づけられ、
かひ(殻・貝)の子、
の意味になる(日本語源大辞典)。
蚕、
と当てる「かひこ」は、
飼ひ子、
で清音なのに対して、「卵子(殻子)」は、濁音、
かひご、
とされる(岩波古語辞典・日本語源大辞典)。平安中期の和名抄も、
卵、加比古(カヒゴ)、鳥胎也、
とし、平安末期の名義抄も、
卵、鳥殻、カヒゴ、
室町期の文明本節用集も、
卵、カヒゴ、
と、「かひご」とする(岩波古語辞典)。また、室町末期の日葡辞書も、
かひご、
であり、観音院本名義抄では、アクセントを異にする(日本語源大辞典)とある。「かひこ(蚕)」と「かひご(卵子・殻子)は区別されていた。
「かひこ」「かひご」の「こ」「ご」は、
子、
児、
卵、
とも当てるが、
愛しみ呼びて名づけたに起こる(大言海)、
に由来する愛称で(たべもの語源辞典)、
巣守子(毈)、稲子(蝗)、いささ子(魦)、
等々と同じ(大言海)、とある。
「たまご」という言葉は、室町期から使われ、江戸期に広く使われるようになったらしいが、
かひご→たまご、
と転訛したとは思えないので、
殻(かひ)子、
の「殻」のイメージではなく、外見の、
玉、
から来たのではないか、と思える。その意味で、
丸い球形のもの、真珠などに魂が宿っている、とする、
玉、珠、球は、魂(タマ)と同源、
とする説(日本語源広辞典)は捨てがたい。
「たま」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/462988075.html?1619562819)で触れたように、「たま」(玉・珠・球)は、
タマ(魂)と同根。人間を見守りたすける働きを持つ精霊の憑代となる、丸い石などの物体が原義、
とあり、「たま(魂)」は、
タマ(玉)と同根。未開社会の宗教意識の一。最も古くは物の精霊を意味し、人間の生活を見守り助ける働きを持つ。いわゆる遊離靈の一種で、人間の体内からぬけ出て自由に動きまわり、他人のタマと逢うこともできる。人間の死後も活動して人を守る。人はこれを疵つけないようにつとめ、これを体内に結びとめようとする。タマの活力が衰えないようにタマフリをして活力をよびさます、
とあり、「たまふり」とは、
人間の霊魂(たま)が遊離しないように、憑代(よりしろ)を振り動かして活力を付ける、
ことだ。憑代は、精霊が現れるときに宿ると考えられているものを指す。あるいは、憶説かもしれないが、「たま」の霊力が信じられなくなった時期が、「たまご」に、
たま、
を当てさせたのではあるまいか。本来「たま」は「魂」で、形を指さなかった。魂に形をイメージしなかったのではないか。それが、
丸い石、
を精霊の憑代とすることから、その憑代が「魂」となり、その石をも「たま」と呼んだことから、その形を「たま」と呼んだと、いうことのように思える。その「たま」は、単なる球形という意味以上に、特別の意味があったのではないか。しかし憑代としての面影が消えて、形としては、「たま」は、「丸」とも「円」とも差のない「玉」となったというのが、室町期のように思える。
形の丸については「まる」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/461823271.html)で触れたように、「まる(まろ)」「まどか」という言葉が別にあり、
「まろ(丸)」は球状、
「まどか(円)」は平面の円形、
と使い分けていたが、やがて、「まどか」の使用が減り、「まろ」は「まる」へと転訛した「まる」にとってかわられた。漢字をもたないときは、「まどか」と「まる」の区別が必要であったが、「円」「丸」で表記するようになれば、区別は次第に薄れていく。いずれも「まる」で済ませた。「たま」も、また、
まる、
との区別が薄らぐ。「たまご」と呼ばれ出したのは、そんな時期ではないか。
それと、もうひとつ、本来、「卵(殻)子」は、
かひご、
で、「蚕」は、
かいこ、
であったが、その区別が曖昧になってくる。そのため、室町期に、
玉の子、
という言い方がされるようになる。「魂(たま)」の意味を失った「たま(玉)」の行き着いた先が、
玉の子→玉子、
なのである。
「卵」(ラン)は、
象形。丸く連なった、魚か蛙の玉子を描いたもの、
とされる(漢字源)。別に、
象形文字です。「たまご」の象形から、精子と卵子とが引き合って生じる「たまご」を意味する「卵」という漢字が成り立ちました、
とあるのは、少し穿ちすぎではあるまいか(https://okjiten.jp/kanji1052.html)。
(「卵」 成り立ち https://okjiten.jp/kanji1052.htmlより)
(「玉」 金文・殷 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%8E%89より)
「玉」(漢音ギョク、呉音コク)は、
象形。細長い大理石の彫刻を描いたもので、かたくて質の充実した宝石のこと。三つの玉石をつないだ姿とみてもよい。楷書では、王と区別して、ヽをつける、
とある(漢字源)。別に、
象形文字です。「3つの美しいたまを縦に紐(ひも)で通した」象形から「たま」を意味する「玉」という漢字が成り立ちました、
とある(https://okjiten.jp/kanji190.html)。
(「玉」 成り立ち https://okjiten.jp/kanji190.htmlより)
参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
ラベル:たまご
2021年05月23日
かいこ
「かいこ」は、
蚕(蠶)、
と当てる。古くは、
こ(蚕)、
といった。平安末期の『字類抄』に、
蠶、コ、
とある。万葉集には、
垂乳根(たらちね)の母が飼(か)ふ蠶(こ)の繭(まよ)隠(ごも)りいぶせくもあるか妹(いも)に逢はずして、
と(大言海は「飼」に「養」を当てる)、
飼(か)ふ蠶、
とあり、また、
なかなかに人とあらずは桑子(くはこ)にもならましものを玉(たま)の緒ばかり、
と、
桑子、
ともある。「こ」は、
子、
児、
卵、
等々と当てる。
おや(親)の対、
である。だから、すべて、
こ、
といった。だから、
桑子、
飼ふ蠶、
とあてる「こ」は、
籠・子・粉・海鼠などの意の「こ」との混同を回避しようとしたため(日本語源大辞典)、
というよりは、
子(こ)・卵(こ)の転義であろう(岩波古語辞典)、
あるいは、
子(こ)から分化、
したと見るべきではないか。あるいは、和語には、
こ、
という呼称しかなく、漢字を当てはめて、初めて、
子、
卵、
蚕、
粉、
と分岐できた(なまこの「こ」については、「なまこ」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/479450474.html)で触れた)。
卵の「こ」は、「たまご」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/481618276.html?1621622290)で触れたように、
かひ(殻・貝)の子、
であり、古く、
かひご、
と濁った。この「こ」も、
子、
である。「こ(子)」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/465595147.html?1619652563)は、
コ(小)の義(和句解・名言通・日本古語大辞典=松岡静雄・国語の語根とその分類=大島正健・広辞苑)、
小の義にて、稚子(チゴ)より起れる語なるべし(大言海)、
とあり、「こ」(粉)とも関わる。「粉」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/465595147.html?1619652563)で触れたように、「粉」は、やはり、
コはコ(小)の義から出た語(和訓栞・言葉の根しらべの=鈴木潔子・日本古語大辞典=松岡静雄・国語の語根とその分類=大島正健)、
となる。「小」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/445760046.html)は、
お(小川)、
さ(小百合、)、
しょう(小生)、
とも訓むが、訓み方は変わっても、この意味は、「小さい」「少ない」という、
状態表現、
であった(それが、貶めたり、蔑んだり、逆にみずからを謙ったり、という価値を加味した価値表現へ転化する)。
大人→子ども、
の対比の、
大→小、
の意味であったと考えられる。だから、「かいこ」(蚕)が、
飼い蚕、
飼い子、
となったりするのは、いずれも、
蚕(こ)=子(こ)、
とみなしていたからである。当然、
かいこ、
は、
家にて養ふに因りて、常に、養蠶(カヒコ)と云ふなり(大言海)、
とあるように、
かふこ(飼ふ蠶)、
つまり、
飼い蚕(広辞苑・デジタル大辞泉)、
飼い子(日本語源広辞典)、
から転じた。
「蚕」の歴史は、魏志倭人伝に、
その風俗淫らならず。男子は皆露紒し、木緜(ゆう)を以って頭に招(か)け、その衣は横幅、ただ結束して相連ね、ほぼ縫うことなし。婦人は被髪屈紒し、衣を作ること単被の如く、その中央を穿ち、頭を貫きてこれを衣(き)る。禾稲(かとう)・苧麻(ちょま)を種(う)え、蚕桑(さんそう)緝績(しゅうせき)し、細苧(さいちょ)・縑緜(けんめん)を出(い)だす、
とあるほど古く、すでに
蚕桑(さんそう)緝績(しゅうせき)、
とある(日本昔話事典)。
また、『古事記』には、高天原を追放されたスサノオ(須佐之男命)が、食物神であるオオゲツヒメ(大気都比売神)に食物を求めたところ、オオゲツヒメは、鼻や口、尻から様々な食材を取り出して調理して差し出した、とある(仝上・https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%82%A4%E3%82%B3)。『日本書紀』には、渡来人による記述伝承や、養蚕の奨励が見える(仝上)。
蚕は、
おかいこさん、
とうとさん、
ひめ、
おしろさま、おしらさま、
こごじょ、
等々と呼ばれ(仝上)、稲作同様、
豊穣を願う、
ということから、
女性原理、
に支配されている、とある(日本昔話事典)。ために、蚕由来にまつわる昔話は、
名馬と美しい姫の馬娘婚姻譚、
と、
流された継子の蚕影(こかげ)山縁起、
の二系統あり、
蚕神信仰、
と深くつながる、とある(仝上)。
「蚕(蠶)」(漢音サン、呉音ゾン・テン)は、
会意兼形声。蠶の上部は、間に潜り込む意を含む。蠶はそれを音符とし、虫ふたつを加えた字。桑の葉の間にもぐりこんで食う、群れをなす虫のこと、
とし、つけ加えて、
形声。「虫+音符天」。唐代から蠶の略字として用いられた、
とある(漢字源)。別に、
甲骨文は「蚕(かいこ)」の象形。篆文は会意兼形声文字。「座った人が顔をそむける象形と鼻や口から吐く息の象形」(「かくれる」の意味)と「頭が大きくグロテスクなまむし」の象形から、糸を吐いて自身を隠し、まゆを作る、「かいこ」を意味する「蚕」という漢字が成り立ちました、
とある(https://okjiten.jp/kanji1009.html)。
(「蚕」 成り立ち https://okjiten.jp/kanji1009.htmlより)
さらに、
形声。音は朁(さん)。「説文」に「絲(いと)を任(は・吐)く蟲(むし)なり」とあって「かいこ」をいう。甲骨文字はかいこを象形的にかいており、また、桑の葉の上に蚕の形の虫を加えているものがある。また甲骨文には蚕示(さんじ・蚕の神)を祀(まつ)ることをしるしているものがあり、三千数百年前の殷(いん)王朝の時代に養蚕(かいこを飼い育てて繭(まゆ)をとること)が行われていた。養蚕は農耕とともに重要な産業とされて、周王朝では王后夫人によって親蚕の儀礼が行われ、神衣、祭衣を織る定めであった、
ともある(白川静・https://jyouyoukanji.stars.ne.jp/j/6/6-060-san-kaiko.html)。
参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
稲田浩二他編『日本昔話事典』(弘文堂)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
2021年05月24日
天下の意味
渡邊大門『清須会議~秀吉天下取りのスイッチはいつ入ったのか?』読む。
信長横死後の織田家のありようを決めた「清須会議」で主導権を握った秀吉は、その後、
「(神戸)信孝、(柴田)勝家を葬り去り、小牧・長久手の戦いで(北畠)信雄・徳川家康を屈服させた」
とされる秀吉の天下取りの流れを、一次史料を中心に検証する、というのが本書の意図である。そして、賤ヶ岳の戦い、小牧・長久手の戦い、四国・九州征伐を経て、奥州仕置までを、本書は取り上げる。
人口に膾炙している俗説を修正しつつ書かれているが、今日、ほぼ知られていることが多い。その中で、
天下、
という意味が、どう変わっていくかが、秀吉の変化とともに面白い。
周知のように、信長は、
天下布武、
の朱印を使ったことが知られているが、今日、この天下は、
日本全国、
の意味ではないことが、明確にされている。天下布武に、
全国統一、
の意味はないのである。この時代における、
天下、
は、
将軍が支配する畿内、
を示し、それが共通認識であった。信長の天下の意味は、
①地理的空間においては、京都を中心とする世界、
②足利義昭や織田信長など、特定の個人を離れた存在、
③大名の直轄する「国」とは区別される、将軍の管轄領域、
④広く注目を集め、「輿論」を形成する公的な場、
に集約される、という。もし信長の「天下布武」が、「全国統一」を意味するなら、その朱印の押された手紙を受け取った大名にしてみれば、宣戦布告の意味になる。そんなことをわざわざするとは考えられない。信長の意識では、
畿内平定、
が一義的にあった、と見られる、という。しかし、いつ、
天下=全国統一、
になったのか。
秀吉の事跡をみていくと、天正十一年(1583)年から大坂城築城工事を始めるが、全国の大名に動員をかけ、一日五万人の人夫が工事に携わった、とされる。後に、家康の天下普請そのものである。このとき、秀吉は、
天下人、
を意識していた、と著者は言う。しかし、まだ、秀吉は、山城を中心とした、
畿内、
を掌握していたにとどまる。「天下」もその範囲である。
そして小牧・長久手の戦いを、越後・上杉、北関東・佐竹との友好関係によって北条を牽制し、
「秀吉は、局地戦での勝敗よりも、信雄・家康包囲網を形成し……包囲網はじわじわとボディブローのように利いて」
結局、
「実質的に悪条件を吞まざるを得なかった信雄・家康連合軍の敗北」
により、秀吉は、
従三位・権大納言に叙任任官、
される。この後、秀吉は、
官位の斡旋、
をし、信雄に、
正三位・権大納言、
を叙位・任官させる。まだ天下は、
畿内に留まる、
ものの、秀吉は、
天下人、
を意識し、天正十三年(1585)に、
関白、
に就任し、
豊臣、
という姓を賜る。この頃、秀吉は、足利将軍が用いた、
御内書(おないしょ)、
という書式を使用するようになる。「御内書」は、
「発給者の意思を示す直状形式の文書で、家臣の添状とセットになる。書止文言は、『也』で終わることが多く、『恐々謹言』のような丁寧なもので結ばれていない。尊大な形式の文書である。受け取った相手は、添状を書いた家臣に返事を送り、秀吉への披露をねがうことになる」
もので、
「御内書で出陣を依頼し、書止文言が『也』で終わる場合は、『出陣しろ、以上』というイメージ」
になり、その立場を優位に置き始め、同時期、文書中に、
「自敬表現を用いるようになる。」
自分に敬語を使うのである。後に家康も、これを真似る。
この時期、真田昌幸と徳川家康が対立、
上田城合戦、
で、徳川側は大敗する。この過程で、昌幸への書状で、秀吉は、
天下に対し事を構えている、
とし、家康討伐の旨を伝える。このとき、
天下=秀吉、
であった。結局家康は屈服し、上洛、臣従することになるが、まだ奥州、九州は臣従していないものの、ほぼ、この時点で、秀吉にとって、天下は、
日本全国、
になっている。これに伴って、全国の大名に、自分の、
「羽柴」氏、
や、下賜された姓、
「豊臣」姓、
を諸大名に与え始めると同時に、
官位による大名の序列化、
を図り、
序列の視覚化、
を行い、
「秀吉一門や有力な大名が一斉に公家成(くげなり)」、
をしていく。秀吉は、
「抽象的な意味での武家社会のトップである征夷大将軍よりも、関白・太政大臣という公家社会の頂点に位置し、公家のシステムを換骨奪胎して創出した、独自の武家官位制」
を作り上げていく。このシステムは、徳川時代にも踏襲される。
天正十六年(1588)に、島津義久に発給した書状に、
天下、
が用いられているが、この時、天下は、
日本全国、
を指す。これを嚆矢として、江戸初期には、
「天下は京都や畿内を意味しなくなり、日本全国を指す」
ようになる。
つまり、「天下」は、実質的な全国制覇に伴って、その範囲が広がり、自分自身を、その意味で、
天下人、
と意識するようになっていく、ということになる。
ちなみに、一般に、今日、
清須会議、
と言われているが、当時の史料には、そういう呼称はなく、その嚆矢は、中村孝也著『日本近世史』(大正六年(1917)刊)とされる。
参考文献;
渡邊大門『清須会議~秀吉天下取りのスイッチはいつ入ったのか?』(朝日新書)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
2021年05月25日
朱子学の解体プロセス
丸山眞男『日本政治思想史研究』を読む。
本書は、丸山眞男が、戦時中に書いたものを戦後に出版した、いわゆる、
処女作、
になる。特に、
第三章 国民主義の「前期的」形成
は「本論に入らぬうちに」、召集令状がきたため、出発のその日の朝までかかって「維新直前までを纏めた」ものである。そんな曰くは別として、少なくとも、
第一章 近世儒教の発展における徂徠学の特質並に其の国学との関係
第二章 近代日本政治思想における「自然」と「作為」
を核とした、荻生徂徠を分岐点にする「朱子学」の変質を追っている過半は、読みごたえがある。
その狙いを、
「封建社会における正統的な世界像がどのように内面的に崩壊して行ったかという課題」
の解明を通して、
「広くは日本社会の、狭くは日本思想の近代化の型(パターン)、それが一方西欧に対し、他方アジア諸国に対してもつ特質、を究明しようと思った。その際、とくに第一章において、いわゆる狭義の政治思想に限定せず、むしろ徳川封建社会に対する視座構造をなした儒教的(特殊的には朱子学的)世界観全体の構造的推移をなにより問題とした所以は、(中略)そのことが徳川封建体制の崩壊の必然性を思想的な側面から最も確実に実証すると考えた」
とする。そして、
「それは、近代性の程度では最低のレヴェルにまで下がって、その最も固定性の強い精神領域しかも最も『抽象的』な思想範型での内面的な崩壊がどこまで検証されうるかという一つの極限状況のエクスペリメントなのであって、この検証で、下部構造の変動の衝撃が認められれば、ヨリ流動的なヨリ政治的現実に接続する部面での解体過程や下部構造との関連は比較的容易に把握しうると考えた」
とする。この意図は、いわば、儒学そのもののもつ、
「子の父に対する服従をあらゆる人倫の基本に置き、君臣・夫婦・長幼(兄弟)といふ様な特殊な人間関係を父子と類比において上下尊卑の間柄において結合せしめている厳重なる『別』を説く」
思想の、「帝国の父としての配慮と、道徳的な家族圏を脱しえず従つて何らかの独立的・市民的自由を獲得し得ない子供としての臣下の精神と」によって構成された壮麗なる漢の帝国に最もふさわしい思想体系は、
「徳川封建社会の社会的乃至政治的構成が儒教の前提となった様なシナ帝国の攻勢に類型上対比しえたため」
徳川時代がもっとも儒教が飛躍し得た時代であった。それは、
「将軍乃至大名を頂点とし若党。仲間等武家奉公人を最下位とする武家の身分的構成、さらに武家の庶民に対する絶対的優越は恰も、儒教の理想とせる周の封建制度における天子・諸侯・卿・大夫・士・庶民といふ如き構成と類型的に相似してゐたから、そこにおける諸の社会関係は儒教倫理を以てイデオロギー的に基礎づけるには適切なものであった。」
と。たとえば、雨森芳洲は、こういう。
「人に四等在り。曰く士農工商。士以上は心を労し、農以下は力を労す。心を労する者は上に在り。力を労する者は下に在り。心を労する者は心広く志大にして慮遠し。農以下は力を労して自ら保つのみ。傾倒すれば則ち天下小にして不平、大にしては乱る。」
無為に食する武士の存在理由をこのように理由づけた。朱子学の実践倫理は、
修身斉家治国平天下、
つまり、
「古えの明徳を天下に明らかにせんと欲する者は先ずその国を治む。その国を治めんと欲する者は先ずその家を斉(ととの)う。その家を斉えんと欲する者はまずその身を脩(おさ)む。その身を脩めんと欲する者はまずその心を正す。その心を正さんと欲する者は先ずその意を誠にす。その意を誠にせんと欲する者は先ずその知を致(きわ)む。知を致むる者は物に格(いた)るに在り。物格りて后(のち)知至(きわ)まる。知至りて后意誠なり。意誠にして后心正し。心正しくして后身脩まる。身脩まりて后家斉う。家斉いて后国治まる。国治まりて后天下平らかなり。」
とする(『大学』)、
格物致知、
である。ここでは、
「朱子学の理は物理であると同時に道理であり、自然であると同時に当然である。そこに於いては自然法則は道徳規範と連続している。(中略)ここで注目すべきはこの連続は対等的な連続ではなく従属的なそれであることだ。物理は道理に対し、自然法則は道徳規範に対し全く従属してその対等性は承認されてゐない。」
ことがポイントになる。
林羅山に礎石を築いた朱子学は、伊藤仁斎、山鹿素行を経て、その変質のエポックは、
荻生徂徠、
である。それは、「道」を、
自然法則から人間規範を切り離した、
ことである。徂徠は言う。
「吾道の元祖は堯舜に候。堯舜は人君にて候。依之聖人の道は専ら国天下を治め候道に候。」
つまり、「治国平天下といふ政治性に在る」とする。それは、
「其代其代の開祖の君の料簡にて世界全体の組立に替り有之候故、制法替有之候」
と、自己の料簡による「作為」の根拠を示し、
他方、「徳」は、
「人各々道に得る所あるを謂ふ。(中略)故に各々其の性に近き所に随ひて養ひて以て其の徳を成さしむ。」
とし、治国平天下という公的側面から、個人の徳の涵養を切り離したのである。この影響は大きく、私的部分は、国学の本居宣長まで届く。
しかし、このことが幕末の幕藩体制崩壊へと思想的に繋がるかというと、そうは見えない。あくまで、幕府崩壊過程は、列強による外圧の齎した国内的攪拌の結末でしかないように見える。
しかも、あっけなく幕藩体制が崩れたのには、思想的よりは、国内の社会構造、経済構造の変質が大きい。一つは、藤野保『新訂幕藩体制史の研究―権力構造の確立と展開』(http://ppnetwork.seesaa.net/article/470099727.html)で見たように、
幕府の対大名政策の過程で、外様大名に対する改易・転封、徳川一門=親藩・譜代大名の全国への転封・配置の中で、殆どの大名が、植え替え可能な、
鉢植化、
し、大名家臣もまた、主の転封にともなって鉢植化していき、吉宗時代には、
殿様は当分之御国主、田畑は公儀之田畑、
といわれるに至る。それは、新たな全国統一政権ができれば、すべての土地を収公できることを意味する。
版籍奉還→廃藩置県、
を可能とする基盤ができていた、ということになる。
いまひとつは、渡邊忠司『近世社会と百姓成立』(http://ppnetwork.seesaa.net/article/464612794.html)で触れたように、
「近世の土地台帳である検地帳や名寄帳、あるいは免割帳などに記載された高持百姓あるいは本百姓の所持石高や田畑の反別が一石未満、また一反未満を中心に零細な百姓が圧倒的に多い」
ことの背景から、一年の決算毎に質屋を利用して、
「不勝手之百姓ハ例年質物ヲ置諸色廻仕候」
というように、それは、
「春には冬の衣類・家財を質に置いて借金をして稲や綿の植え付けをし、秋の収穫で補填して質からだし、年貢納入やその他の不足分や生活費用の補填は再度夏の衣類から、種籾まで質に入れて年越しをして、また春になればその逆をするという状態にあった」
ことの反映で、幕藩体制を支える年貢負担者である「零細小高持百姓の経営は危機的であった」ことを示している。
第三に、この危機的状態が、菊池勇夫『近世の飢饉』(http://ppnetwork.seesaa.net/article/462848761.html)で触れたような、徳川時代の慢性的な飢饉につながるのである。
この背景にあるのは、貨幣経済の浸透であるが、巨額の負債下の大名も、常時飢饉すれすれの農民も、もはやこのままの体制では、立ち行かなくなっていた。そこに、列強の外圧がやってきたのである。
思想的に見れば、「幕藩体制」は当たり前の自然法則とみなす朱子学が崩れ、自らの「作為」で体制の変革をなしうるという徂徠的考え方がバックボーンにあり、それが、こうした、
「下部構造の変動の衝撃が認められれば、ヨリ流動的なヨリ政治的現実に接続する部面での解体過程や下部構造との関連は比較的容易に把握しうると考えた」
という執筆意図とリンクしていくことは、確かである。
しかし、それにしても、通読して感じたのは、朱子学の流れを見ていると、ちょうど近代化以降西洋思想を取り入れ、それを受容し変容していく流れと対に見えてくる。いつも、その時代の先進国の思想を受容し、咀嚼することに汲々としていることだ。その意味で、三百年間、朱子学をめぐってしか思想は展開せず、遂に、独自の思想を生み出せていない(国学は思想の名に値しない)。それは、今日まで続く、社会科学の不毛とつながっているように思える。
「大学・中庸」については「修身斉家治国平天下」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/480516518.html)で、『論語』については、「注釈」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/479597595.html)で、『孟子』については「倫理」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/479613968.html)で、それぞれ触れた。
参考文献;
丸山眞男『日本政治思想史研究』(東京大學出版会)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
2021年05月26日
講義するドラッカー
リック・ワルツマン編『ドラッカーの講義(1943-1989)~マネジメント・経済・未来について話そう』、『ドラッカーの講義(1991-2003) ~マネジメント・経済・未来について話そう』を読む。
本書は、1943年から2003年までの、60年にわたる間の31回の講義をまとめたものだ。
訳者「あとがき」には、
「隠れていたドラッカーがあらわれた。」
というのが、本書を一言で言い表すものだ、と述べている。しかし、編者が「はじめに」でいうような、
「ドラッカーのバリトンのような声」
は、紙面では無理としても、あるいは、
「あらかじめ用意した講義用のノートにはまったく目もくれません。ときおり話をやめて自分の考えをまとめるその姿は、まるで大量の情報をダウンロードしているコンピューターさながら、再び元の話に戻ると、ダウンロードした事実や数字を織り込みながら時節を展開する」
様子は見えないにしても、
「ドラッカーの話はまさに変幻自在、実にさまざまな話題が飛び出します。原価会計の話がいつのまにか脱線してメソポタミアの都市国家の話になったかと思えば、高等教育や医療の歴史の紹介に移っています。どういうわけか、最後にはそうした話題を上手にまとめ上げてしまうのです。」
というドラッカーの講義の片鱗は、窺えなくもない、といった程度に、講義は印刷媒体用に、整理され過ぎているため、ドラッカーの講義の魅力は、紙面からは、感じ取れないのが残念である。もう少し、講義のままに、文字起こしすべきではなかったか、という気がしないでもない。
これと対比されるのが、『Harvard Business Review』誌に寄稿した33本の論文を完全収録した、
『P・F・ドラッカー経営論』(ダイヤモンド社、2006年)、
である。1950年から2004年までの論文を集約している。少なくとも、これを通読すれば、ほぼドラッカーの全てがわかる。しかし、残念ながら、本書は、講義ということもあるのか、全部を読んでも、ドラッカーの全体像はつかみにくい憾みがある。
それでも、ドラッカーの先見性を示す見事な話は結構ある。たとえば、
知識社会の到来、
と、そこでの、
知識労働者、
のありようについて語っているのは、
「今の私たちに見えているアメリカの教育の将来像」(1971年)、
で、
「学習は生涯続くものだと考えるようになります。最も大切な学習、つまり最も重要な本物の教育は、成人向けの生涯教育なのです」
と語り、ただし、
「ここで言う成人とは、既定の高等教育を受け、仕事や人生で際立った業績を上げ、成功を収めているひとのことです。」
とする。ここで言う、
生涯学習、
は、カルチャーセンターに通うレベルの意味では、もちろんない。それには、テクノロジーの急速な進歩に対応するという意味がある。しかし、それだけではない。たとえば、ドラッカーの上級経営講座で、
「どれくらいの頻度で学校にやって来るのか聞いてみました。すると、『少なくとも二年に一度ですね。変化についていくためには。三年か四年に一度は学校で基本を勉強し直さないと、取り残されてしまいますから』という答えが返ってきました。」(1999年「学ぶことから教えることへ」)、
とあり、しかもそれはハイテク業界ではなく、自動車業界、航空幾業界、工作機業界なのだとある。これはすべての業界に当てはまる。当然、
「ひとりひとりはスペシャリストになる必要があります。ただし、知識にはもうひとつ、奇妙な特質があります。それは、重要な新しい進歩はスペシャリストの専門分野から生れるのではない、という特質です。そうした進歩は、外部からもたらされるのです。」(1989年「知識の講義Ⅱ」)、
だから、
「基礎となる専門領域を維持しながら、その一方では外部で起こっているイノベーションの意味も的確に把握しなければならない」
のである。その上で、ドラッカーは、
「自分自身の居場所がわかっていますか」(1992年)、
「自分自身を経営する」(1999年)、
で、人類史上初めて、
「私たちは自分自身を経営する責任を負わされているのです」
と喝破し、だからこそ、これから必要なのは、学校の時期に、
「どのようにして学べばいいのかを学ばなければならない」
と(「教えることから学ぶことへ」)、指摘したのである。それは、ひとりひとりが
起業家、
とまでいかなくとも、
個人事業主、
の感覚がいるということである。これは、技術の大変革時代の今日こそ、まさに必要なことで、「メガトレンドの行方」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/481602237.html?1621535438)で触れたように(山本康正『次のテクノロジーで世界はどう変わるのか』)、
「『大学を卒業したら、もう勉強は無意味』という、30年以上前の昭和の時代の考え方から頭を切り替えよう」
と、主張していたが、まさに30年以上前に、ドラッカーは、
生涯学習、
を提唱していたことが分る。
この時のドラッカーの、
自主独立のスペシャリスト、
は、
「アイデンティティ」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/436220288.html)で触れた、
人生コースの個別化、
と重なるのである(マーク・L・サビカス『キャリア・カウンセリング理論』)。サビカスは、
「学校を卒業して就職すること、あるいは仕事から次の仕事に移動することは、会社に依存するというよりは、個人に依存する度合いが大きくなっています。」
とし、
「いまでもフルタイム雇用が主要な仕事の形態であり、長期のキャリアも存在しているが、階層体系的な組織が壊れつつあるのに続いて、臨時の仕事やパートタイムの仕事がますます常態化しつつある。デジタル革命によって、組織はマーケット状況に合わせてより小さく、よりスマートに、より機敏になることが要求されている。」
「組織は、標準的な仕事に非標準的な契約を混入させている。仕事は消えていないが、雇用数は減らすという手法によって、プロジェクトの開始と共に始り、製品の完成と共に終了する契約に変えることによって、雇用形態が変化している。」
「組織の中核で働いている労働者にとってさえ、確実で予測できるキャリアの筋道は消えつつある。確立された路線、伝統的な筋書きは消えつつある。今日の多くの労働者は、安定した雇用に基礎を持つ堅実な生活を発展させるのではなく、生涯を通じた学習を通じて、あるいは誰かが言ったように『生きるための学習』を通じて、柔軟性のある能力を維持していかなくてはならない。安定した生活条件のなかで計画を立ててキャリアを発展させるのではなく、変化しつつある環境の中で、可能性を見いだしながら、キャリアをうまく管理していかなくてはならない。」
それは、仕事が非標準化され、そのことによって、人生も、非標準化され、
「それぞれが行う仕事によって自分の安定した居場所をこの世の中に見出すことができなくなっている」。こういう時代に必要なのは、
「企業の提供する物語を生きるのではなく、自分自身のストーリーの著者になり、ポストモダン世界における転職の舵を自分で取らなければならない。」
であり、
人生コースの個別化、
が必要とする。それは、
自分の居場所、
は自分で見つける(1992年「自分の居場所がわかっていますか」)ことであり、
自分自身を経営する、
ということなのである(1999年「自分自身を経営する」)。
参考文献;
リック・ワルツマン編(宮本喜一訳)『ドラッカーの講義(1943-1989)~マネジメント・経済・未来について話そう』、『ドラッカーの講義(1991-2003)~マネジメント・経済・未来について話そう』(アチーブメント出版)、
ハーバート・ビジネス・レビュー編『P・F・ドラッカー経営論』(ダイヤモンド社、2006年)
マーク・L・サビカス『キャリア・カウンセリング理論』(福村出版)
山本康正『次のテクノロジーで世界はどう変わるのか』(講談社現代新書)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
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2021年05月27日
ジェノサイド
田中克彦『ことばは国家を超える―日本語、ウラル・アルタイ語、ツラン主義』読む。
本書は、
「ウラル・アルタイ研究から長い間離れていたことのもうしわけであり、ふたたびその入口にたちもどった今の感慨と心情から書いたもの」
とある(あとがき)ように、日本語の起源をめぐる、
ウラル・アルタイ説、
の歴史を辿り直す。その闊達な文章は読みやすいせいか、ウラル・アルタイ語に関わる系譜についての研究そのものよりも、それにかかわる人たちの人間模様がとりわけ面白かった。
日本語は、
膠着語、
と言われる。それは、
複数を表すのに「タチ、ラ、ドモ」のような語尾、
をつけたり、動詞だと、例えば、「飛ぶ」なら、「tob」という語幹に、
tob anai(飛ばない)、
tob imasu(飛びます)、
tob eba(飛べば)、
tob ô(飛ぼう)、
というように、「くっつけたり、又自由にとりはずしができる」タイプの言語とされる(ドイツの言語学者、ヴィルヘルム・フォン・フンボルトによって提唱された)。それが、
ウラル・アルタイ語、
に共通する特徴で、日本語が、ウラル・アルタイ語と共通に持つ14の特色というのがある。それは、
・語順に子音が連続することを避ける(だから日本語にはstr-(たとえばストライキ)のように子音が三つも重なって発音されることがない)、
・語頭にr音がこない、
・母音調和が存在する(上代特殊仮名遣いの甲類・乙類の違い)、
・冠詞が存在しない、
・文法的カテゴリーにおける性がない、
・動詞の活用変化の仕方(屈折(たとえば、see―saw―seen)がなく一律に膠着法による、
・(動詞につく)語尾の接辞が多い、
・代名詞の変化(日本語はテニオハの接尾による)、
・(前置詞ではなく)後置詞の存在、
・「モツ」という言葉がなく、(……に~がある)という異なる用法をとる、
・形容詞の奪格(~より)を用いる、
・疑問詞が文のあとにくる、
・接続詞の用例が少ない、
・言葉の順序(「限定詞」+「被限定詞」)及び、「目的格」+「動詞」の語順、
というものである。これをめぐっては、さまざまに論じられてきたが、
インド・ヨーロッパ語、
の祖語を探っていくような、
「『誰も一度も見たことがない祖語』を想像する」
という考え方に、著者は、言語は、
系統的類似よりは、類型的な共通性によってグループを成す、
という立場から、こう指摘している。
「アルタイ語は、たとえばツラン低地からアルタイ山地にかけての広い地域で遊牧民の諸言語が接触し合って、共通の類型的特徴をもつアルタイ諸語として形成されたのかもしれず、またそれがウラル諸語と長期のコンタクトをもったかもしれない。このようにして形成された諸言語を印欧比較言語学で行われたように、単一の祖語から分化したと考え、stoffliche Übereinstimmung(語彙や文法的道具などの実質的な一致〉を求めようとするのは誤った想像であって、止めた方がいいかもしれない。」
言語を、ダーウィンの進化系統樹に準えるのは、そもそもその仮定そのものが検証されなくてはならないのではないか。
ただ、僕は素人ながら、言語は、語彙や音韻や、発音だけではなく、
文章の構造、
あるいは、
語る構造、
を比較すべきだと思う。例えば、国語学者の時枝誠記氏は、日本語では、
における、「た」や「ない」は、「表現される事柄に対する話手の立場の表現」(時枝誠記『日本文法口語篇』)、つまり話者の立場からの表現であることを示す「辞」とし、「桜の花が咲く」の部分を、「表現される事物、事柄の客体的概念的表現」(時枝、前掲書)である「詞」とした。つまり、
「(詞)は、話し手が対象を概念としてとらえて表現した語です。「山」「川」「犬」「走る」などがそれであり、また主観的な感情や意志などであっても、それが話し手の対象として与えられたものであれば「悲しみ」「よろこび」「要求」「懇願」などと表現します。これに対して、(辞)は、話し手のもっている主観的な感情や意志そのものを、客体として扱うことなく直接に表現した語です」(三浦つとむ『日本語はどういう言語か』)。
つまり「辞」において初めて、そこで語られていることと話者との関係が明示されることになる。即ち、
第一に、辞によって、話者の主体的表現が明示される。語られていることとどういう関係にあるのか、それにどういう感慨をもっているのか、賛成なのか、否定なのか等々。
第二に、辞によって、語っている場所が示される。目の前にしてなのか、想い出か、どこで語っているのかが示される。それによって、〃いつ〃語っているのかという、語っているものの〃とき〃と同時に、語られているものの〃とき〃も示すことになる。
さらに第三に重要なことは、辞の〃とき〃にある話者は、詞を語るとき、一旦詞の〃とき〃〃ところ〃に観念的に移動して、それを現前化させ、それを入子として辞によって包みこんでいる、という点である。三浦つとむ氏の的確な指摘によれば、
「われわれは、生活の必要から、直接与えられている対象を問題にするだけでなく、想像によって、直接与えられていない視野のかなたの世界をとりあげたり、過去の世界や未来の世界について考えたりしています。直接与えられている対象に対するわれわれの位置や置かれている立場と同じような状態が、やはりそれらの想像の世界にあっても存在するわけです。観念的に二重化し、あるいは二重化した世界がさらに二重化するといった入子型の世界の中を、われわれは観念的な自己分裂によって分裂した自分になり、現実の自分としては動かなくてもあちらこちらに行ったり帰ったりしているのです。昨日私が「雨がふる」という予測を立てたのに、今朝はふらなかつたとすれば、現在の私は
予想の否定 過去
雨がふら なくあっ た
というかたちで、予想が否定されたという過去の事実を回想します。言語に表現すれば簡単な、いくつかの語のつながりのうしろに、実は……三重の世界(昨日予想した雨のふっている〃とき〃と今朝のそれを否定する天候を確認した〃とき〃とそれを語っている〃いま〃=引用者)と、その世界の中へ観念的に行ったり帰ったりする分裂した自分の主体的な動きとがかくれています。」(三浦、前掲書)
つまり、話者にとって、語っている〃いま〃からみた過去の〃とき〃も、それを語っている瞬間には、その〃とき〃を現前化し、その上で、それを語っている〃いま〃に立ち戻って、否定しているということを意味している。入子になっているのは、語られている事態であると同時に、語っている〃とき〃の中にある語られている〃とき〃に他ならない。つまり、「話し手の認識」(三浦、前掲書)を多層的に示しているのである。
これを、
「日本語は、話し手の内部に生起するイメージを、次々に繋げていく。そういうイメージは、それが現実のイメージであれ、想像の世界のものであれ、話し手の内部では常に発話の時点で実在感をもっている。話し手が過去の体験を語るときも、このイメージは話し手の内部では発話の時点で蘇っている。」(熊倉千之『日本人の表現力と個性』)
という言い方もできる。
こういう「語られていること」の構造の特色をも、比較しなければ、表面的な類比だけでは、生きた言葉の特徴を比較したことにはならないのではないか。そうした言及は、あまり見られなかったことが、疑問である。
ところで、本書のタイトルは、
ことばは国境を超える、
である。しかし、国家によって、たとえば、中国が、ウイグルや内モンゴルでやっているような、
言語を消滅させる政策、
によって、かつて日本が、アイヌ人に日本語教育を強いて、アイヌ語を絶滅させたように、いま、
言語のジェノサイド、
を行われている。著者は、こう書く。これは、
「ウイグル語やモンゴル語のように非文明語は、―いずれもアルタイ語だ! ―ウイグル人、モンゴル人本人にとっても迷惑な言語だから、なるべく早く、こんな劣った言語はやめて漢語(シナ語)に入れ替えたほうが本人たちのしあわせになるのだという信念があるのかもしれない。「脳の中のことばの入れかえ」―これは200年ほど前のフランス革命時代にフランス人たちが考えたことの再現だ」
とし、1794年の国民公会でバーレルが、
「我々は、政府も、風俗も革命した。さらに言語も革命しよう。連邦主義と迷信は低地ブルトン語を話す。亡命者と共和国への憎悪はドイツ語を話す。反革命はイタリア語を話す。狂信者はバスク語を話す」
と、「おくれたヤバンな民族のことばは誤った思想のタネであり、これをやめさせて文明語に入れ替えれば、その民族にとってもいいことだ」という優越思想の反映である。問題なのは、
「これはチョムスキーの言語観とも食い違っていない。人間はすべて、普遍文法を身につけて生まれているから、どんな言語でもとりかえられる。かれらの身につけたできの悪い母語を、りっぱな文明語と入れ替える」
と、しかも、
「日本にも同様な考えを抱く人は決して少なくないかもしれない。私の言語学はこのような単純な考えを抱く人たちとの思想的なたたかいだ」
と。
「人間の考え方、さらには考える力は言語に依存するのみならず、言語によって限定される」
という、ウィトゲンシュタインは、
「人は持っている言葉で見える世界が違う」
といった、民族の言葉を絶滅させることは、
民族の文化、
の絶滅であり、それは、
民族そのものの、
を、消滅させることである。まさに、いま中国のしていることは、
ジェノサイド、
そのものである。
参考文献;
田中克彦『ことばは国家を超える―日本語、ウラル・アルタイ語、ツラン主義』(ちくま新書)
時枝誠記『国語學原論』(岩波書店)
三浦つとむ『日本語はどういう言語か』(講談社学術文庫)
「言葉の構造と情報の構造」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/prod0924.htm)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
2021年05月28日
亥の子餅
「亥の子餅」は、
いのこのもちひ、
能勢餅(のせもち)、
ともいい(広辞苑)、
「その夜さり、亥の子餅(もちひ)まゐらせたり」(源氏物語)
とある。また、
玄猪餅(げんちょもち)、
厳重(げんじゅう)、
とも呼ばれる(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%A5%E3%81%AE%E5%AD%90%E9%A4%85)。
能勢餅、
といわれるのは、
明治三年(1870)まで、摂津国能勢(のせ)(現在の大阪府豊能町)にある木代村(きしろむら)・切畑村(きりはたむら)・大円村(おおまるむら)から、毎年、旧暦10月の亥の日に、宮中に亥の子餅を献上していた、
ためとみられる(仝上)。これは、
皇太子(応神天皇)の異母兄である香阪(かごさか)・忍熊(おしくま)の二王子が相謀り、皇太子を迎え討って殺害しようと大軍を率いた。上陸するのを待つ間、戦の勝敗を卜(ぼく)して(占って)、能勢(大阪府)の山に入り、「祈狩」(うけいがり)を催した。が、まもなく、大猪が現われ、香阪王に飛び掛った。香阪王は驚いて、近くの大樹によじ登ったが、猪は大樹の根を掘り起こし、遂に香阪王は死亡した。忍熊王はこの事を聞き、怪しみ恐れて、住吉に軍勢を退いた。その後、神功皇后が崩御し、皇太子(応神天皇)は即位したが、猪に危難を救われた事を思い出して、吉例として、詔を発して、能勢・木代村、切畑村、大円村より、毎年10月の亥の日に供御を行うように命じた、
という伝承があるため(仝上)とされ、亥の子餅の献上の起源であると言い伝えられている。
玄猪餅(げんちょもち)、
厳重(げんじゅう)、
といわれるのは、
亥の子、
は、
玄猪(げんちょ/げんぢょ)、
といわれるからで、
宮中にては、内蔵寮(くらりょう)より奉り、厳重(ゲンヂュウ)の餅と云ふと云ふ、玄猪の音の訛か、
とある(大言海)。
「亥の子餅」は、
古くは新米にその年に収穫された大豆、小豆、ささげ、胡麻、栗、柿、飴の七種の粉を混ぜて作られていた、
とか(https://saketoneko.com/japaneseteaceremony/wagashi/inokomochi/)、あるいは、
大豆、小豆、大角豆、胡麻、栗、柿、糖(あめ)の七種の粉入れた餅、
とあるが(http://www.kanshundo.co.jp/okashi/sekku-event/inoko/)、平安末期の百科全書『掌中歴』に、
大豆、小豆・大角豆・胡麻・栗・柿・糖で作った、
とある(日本食生活史)。
餅の薄皮に小豆が斑点状に透けて見え、これがイノシシの子供にある斑点に例えられ「亥の子餅」の名前がついた、
とも(http://www.kanshundo.co.jp/okashi/sekku-event/inoko/)、
あるいは、逆に、
名称に亥(猪)の文字が使われていることから、餅の表面に焼きごてを使い、猪ないしその幼体に似せた色模様を付けたものや、餅に猪の姿の焼印を押したもの、単に紅白の餅、餅の表面に茹でた小豆をまぶした、
ともあり(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%A5%E3%81%AE%E5%AD%90%E9%A4%85)、決まった形や材料はないようである。江戸語大辞典には、
亥の子餅と称して牡丹餅を食べて祝う、
とある。
「亥の子」というのは、
十月の節句の称、
であり(大言海)、
十月の亥の日の行事、
であり(岩波古語辞典)、
亥の子まつり、
亥の子節句、
等々とも言い(日本昔話事典)、
十月は亥に建(をざ)す(北斗星の斗柄(けんさき)が十二支の亥の方角を指す)、其亥の日、亥の刻(午前9時~11時)に、上下餅を食ふ、之を亥の子餅と云ひ、万病を除くと云ふ。或は云ふ、猪は多子なれば、子孫繫昌を祝すと、
とある(大言海)。
千葉県、神奈川県から東海地方、さらに近畿以西全域、
に見られる。他方、
関東を中心にして、新潟、長野、山梨諸県で、旧暦10月10日に行い、
十日夜(とうかんや)、
と呼ぶ(日本昔話事典)。「亥の子」圏と「十日夜」圏の境界にある、東京、埼玉、神奈川、茨城では、
亥の子と言いながら、10月10日に行う、
ところがかなりあり(仝上)、両者が混在している。
この風習は、中国由来で、
この日に無病息災の祝いとして餅を食べる行事が行われていた、
という記録がある(仝上・http://www.kanshundo.co.jp/okashi/sekku-event/inoko/)が、日本では、貞観年間(859~874)には宮中行事として行なわれ、上記のように、『源氏物語』にも「亥の子餅」が登場する。
禁裏では、亥の子餅を群臣に下賜しており、
官職の高低により、下賜される亥の子餅の色(黒・赤・白)と包み紙の仕様に厳格な決まりがあった。亥の子餅の色は、公卿までは黒色の餅・四品の殿上人までは赤色の餅などである。また、3回にわたって、亥の子餅の下賜があったが、3度とも同じ色の餅ではなかった、
という(仝上)。室町幕府の年中行事にも、旧暦10月・上亥日に、
亥子祝い・玄猪餅進上、
があったが、江戸幕府も年中行事として、亥の子を祝する行事(玄猪の祝い)があり、幕府は、
大名・諸役人に対して、10月朔日、七つ半(午後5時)に江戸城への登城を命じ、将軍から白・赤・黄・胡麻・萌黄の5色の鳥の子餅を拝領して、戌の刻(午後7~9時)に退出する。玄猪の祝いに参加する将軍・大名・諸役人の服装は熨斗目長裃(のしめながかみしも)と規定されている。また、この日の夜は江戸城の本丸・西の丸の大手門・桜田門外・下乗所(げじょうしょ)に釣瓶(つるべ)式の大篝火(かがりび)が焚かれる、
とある(仝上)。
一般に収穫を見合わせ、初亥の日か、第二の亥の日に行われるが、地方によっては、
初亥の日を武士の亥の子、
二番目を百姓の亥の子、
三番目を上人の亥の子、
などという(日本昔話事典)。農村では、亥の子の神を、
田の神、
作神、
と信じたところも多く、田の神と同様に、
亥の子の神も去来する、
と考え、たとえば、鳥取、兵庫県辺りでは、
旧暦二月の春亥の子に神が田に降り、十月の亥の子に家に帰る、
といい、これを迎えるために亥の子餅や牡丹餅、二股大根を供える、とある(仝上)。
昔話に、
猪婿入り、
という話があり、これは、
猪が田に水を入れたり、田の中の石を除けたりして手伝い、ほうびに人間の娘を嫁にもらう、
話だが、これは、「猪」が、
土地の精霊的存在、
として仰がれ、ときに、
山の神が白い猪となって現れ、人に怒りをなすこともある、
とあり、猪が、
田の神、
とみなされていたことを反映していたとみられる(仝上)。
亥の日には、田畑に入ってはならない、
という言い伝えは、亥の子の神が、
農作物の作神として信仰されていた、
と関わると考えられる(http://www.pleasuremind.jp/EVENTS/COLUM120C.html)。
亥の子の行事で特徴的なのは、
亥の子づき、
だが、これも、そうした田の神との関りがうかがえる。たとえば、
子どもたちが、藁ぼて(竿の先に刈り取った藁を束ねたものを結び付けたもの)、石で地面を突いて回り、家々から、餅、ミカン、銭などを貰い歩く、
が、「藁ぼて」は、
亥の子槌(づち)、
藁鉄砲(刈り取り後の稲を縄で固く巻いて棒状にした)、
等々と呼ばれたり、何本もの荒縄で縛った丸石は、
石亥の子、
と呼ばれる(https://saketoneko.com/japaneseteaceremony/wagashi/inokomochi/)。このとき、
「亥の子餅をつかんものは鬼を生め蛇を生め」などと唱え言をし、祝儀を貰うと、「繁昌せい」と祝い、もらえなければ、「貧乏せい」などと悪態をつく、
とある(日本昔話事典)。唱え言や歌は、地域によって異なり、例えば埼玉県には、
「トーカンヤ、トーカンヤ、朝そばきりに昼団子、ヨーメシ食ったらひっぱたけ(秩父地方)」
「トーカンヤ、トーカンヤ、十日の(または“イノコの”)ぼた餅生でもいいから十(とう)食いたい(入間地方、川越市周辺)」
等々というのもある(https://agri.mynavi.jp/2018_11_15_47823/)。
「石」で地面をたたくのは、
農作物の敵であるモグラやネズミなどの害獣を駆除する、
ほか(https://agri.mynavi.jp/2018_11_15_47823/)、
土地の邪霊を鎮め、土地の神に力を与えて豊かな収穫を祈るというおまじない、
ともされている(http://www.i-nekko.jp/nov/2013-110114.html)。
(前大津宰判殿敷村の「いのこ」(長州藩編纂の地誌「防長風土注進案(天保十三年(1842)」) http://archives.pref.yamaguchi.lg.jp/user_data/upload/File/doubutsu13.pdfより)
「亥の子」の日を、
秋じまい、
といい、
この日より囲炉裏を開いて、炉、炉燵(こたつ)、を開き、火鉢もこの日より出した(仝上)。これは、「亥」が、
陰陽五行説で水性にあたる、
ことから(http://www.kanshundo.co.jp/okashi/sekku-event/inoko/)、火災を逃れるという考えから、とされる。茶の湯の世界でも、この日を、
炉開きの日、
とし、茶席菓子 として「亥の子餅」を用いる(仝上)。
ところで、「亥」(漢音ガイ、呉音カイ)は、
象形。いのしし、または豚の骨格を立てに描いたもので、骨組み、骨組みが出来上がる意を含む。豕(シ 豚)の字と似ているが、亥は豚そのものではなく、豚の骨組みを示す。骸(ガイ 骨組み)・孩(ガイ 骨格のできた幼児)・核(果実の骨組み、固い殻や芯に)含まれる。また十二進法の体系(骨組み)が全部張り渡った所に位置する数だから、十二番目を亥(ガイ)という、
とある(漢字源)。十二支に取り入れられて、「骨組み」原義が失われたが、「骸」「核」にその意を残しているということになる(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E4%BA%A5)。
(「亥」 甲骨文字・殷 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E4%BA%A5より)
なお、「雑煮」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/481191464.html?1619376849)で触れたように、わが国で、「餅」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/474462660.html)を祝賀に用いる風習は古く、
元日の鏡餅(http://ppnetwork.seesaa.net/article/473055872.html)、
上巳の草餅(http://ppnetwork.seesaa.net/article/477094915.html)、
雛祭りの菱餅(http://ppnetwork.seesaa.net/article/479150270.html)、
端午の粽(http://ppnetwork.seesaa.net/article/474481098.html)、
十月の亥の子餅、
等々年中行事となっているが、
三月三日の草餅、
五月五日の粽、柏餅、
は中世になってからであり、
雑煮、
は江戸時代になってからであり、やっと、
正月の鏡餅、雑煮餅、
三月上巳の草餅、菱餅、
五月五日の粽、
十月亥の日の亥の子餅、
と年中行事に欠かせないものになっていった。
参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
稲田浩二他編『日本昔話事典』(弘文堂)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
2021年05月29日
にる
「にる」は、
煮る、
煎る、
烹る、
と当てる(大言海)が、「にる」は、「雑煮」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/481191464.html?1619376849)でも触れたが、
に(煮 上一段)、
で、万葉集に、
食薦(すごも)敷き青菜煮持ち来(こ)梁(うつはり)に行騰(むかばき)掛けて休むこの君、
とあり(岩波古語辞典)、あるいは、
にる(煮 上一段)、
でも(大言海)、万葉集に、
春日野に煙(けぶり)立つ見ゆ娘子(をとめ)らし春野のうはぎ採みて煮らしも、
にゆ(煮 下二段)、
でも(仝上)、
昔より阿弥陀佛に誓ひにて、ニユルものをばすくふとぞ知る(宇治拾遺)、
と、古くから、
煮、
を当ててきた。しかし、「煮切り」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/480550074.html)で触れたように、「煮」(慣用シャ、呉音・漢音ショ)は、
会意兼形声。者は、コンロの上で木を燃やすさまを描いた象形文字で、火力を集中して火をたくこと。のち、助辞にもちいられたため、煮がつくられて、その原義をあらわすようになった。「火+音符者」。暑(熱が集中してあつい)と縁が深い、
とあり(漢字源)、「煮沸」というように、「たぎらせる」意で、「容器に入れて湯の中でにる」意である。別に、
会意兼形声文字です(者(者)+灬(火))。「台上にしばを集めつんで火をたく」象形(「にる」の意味)と「燃え立つ炎」の象形から、「にる」を意味する「煮」という漢字が成り立ちました(https://okjiten.jp/kanji1199.html)、
でも、
会意形声。者は庶と古く同声であるため、この両者が声符として互易することがあり、庶蔽の庶はもと堵絶の意であるから者に従うべき字であり、庶は煮炊きすることを示す字であるから、庶が煮の本字である。本来、者は堵中に隠した呪禁の書であるから、これに火を加えて煮炊きの意に用いるべき字ではない(白川)、
でも(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%85%AE)、今日の「煮炊き」の意味ではなかったと思われる。
「にる」の意の漢字には、
煮、
烹、
煎、
があり、三者は、
「煎」は、火去汁也と註し、汁の乾くまで煮つめる、
「煮」は、煮粥、煮茶などに用ふ。調味せず、ただ煮沸かすなり、
「烹」は、調味してにるなり。烹人は料理人をいふ。左傳「以烹魚肉」、
と、本来は使い分けられ(字源)、漢字からいえば、「にる」は、
狡兎死して走狗烹らる、
の成句があるように、「煮る」は「烹る」でなくてはならないが、当初から、「煮る」を用いていた可能性がある(広辞苑・大言海・岩波古語辞典)。
ついでながら、「烹」(漢音ホウ、呉音ヒョウ)は、
会意。亨(キョウ)は、上半の高い家と下半の高い家とが向かい合ったさまで、上下のあい通うことを示す。烹は「火+亨(上下にかよう)」で、火でにて、湯気が上下にかよい、芯まで通ることを意味するにえた物が柔らかく膨れる意を含む、
とある(漢字源)。「割烹」(切ったりにたり、料理する)と使い、「湯気を立ててにる」意である。やはり「煮る」は、「烹る」がふさわしいようだ。ただ、
会意。「亨」+「火」、「亨」の古い字体は「亯」で高楼を備えた城郭の象形、城郭を「すらりと通る」ことで、熱が物によくとおること(藤堂)。白川静は、「亨」を物を煮る器の象形と説く。ただし、小篆の字形を見ると、「𦎫」(「亨(亯)」+「羊」)であり「chún(同音:純)」と発音する「燉(炖)(音:dùn 語義は「煮る」)」の異体字となっている。説文解字には、「𦎫」は「孰也」即ち「熟」とあり、又、「烹」の異体字に「𤈽」があり、「燉」に近接してはいる、
とあり(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%83%B9)、「烹る」と「煮る」の区別は、後のことらしい。「煎」(セン)は、
会意兼形声。前の「刂」を除いた部分は「止(あし)+舟」の会意文字。前はそれに刀印を加えた会意兼形声文字で、もと、そろえて切ること。剪(セン)の原字。表面をそろえる意を含む。煎は「火(灬)+音符前」で、火力を平均にそろえて、鍋の中の物を一様に熱すること、
とある(漢字源)。「水気がなくなるまでにつめる」「水気をとる」意で、「いる」意でもある。別に、
形声文字です(前+灬(火))。「立ち止まる足の象形と渡し舟の象形と刀の象形」(「前、進む」の意味だが、ここでは、「刪(セン)」に通じ(同じ読みを持つ「刪」と同じ意味を持つようになって)、「分離する」の意味)と「燃え立つ炎」の象形から、「エキスだけを取り出す為によく煮る」、「いる(煮つめる、せんじる(煎茶))」を意味する「煎」という漢字が成り立ちました(https://okjiten.jp/kanji2170.html)、
とあり、「水気を飛ばす」意になり、「煎薬」と、「煮出す」意でも使う。
しかし、和語「にる」は、
水などを加え、火にかけて熱を通す(広辞苑)、
沸かして熱を徹す、火にかけて沸かす(大言海)、
水を加えたものを火にかけ、水を沸かして熱をとおす(日本語源大辞典)、
といった意味で、今日の、
食物を汁と一緒に火に掛け、調味して、その沸騰した汁で柔らかくして食べられるようにする、
という意よりは、
沸かす、
含意が強かったように思われる。その意味で、
烹る、
よりは、
煮る、
を当てたのかもしれない。とすると、和語「にる」の語源は、
煮るときの音ジイルから(言元梯)、
なべ釜に入るる意から(和句解)、
というよりも、
熱(にぎ)の意(大言海)、
というのがふさわしいと思えるが、
ニバ・ニグ(熟)の音韻変化(日本語源広辞典)、
と同種の語源説を採るもの以外、
にぎ(熟)、
は他の辞書にはなく、「やわらぐ」意の、
にぎ(和)び、
が、
あら(荒)び、
の対としてある(岩波古語辞典)だけである。しかしここから類推すると、
「にぎ」は、
和、
熟、
と当て、
和(なぎ)に通ず、荒(アラ)の反、
とするのは(大言海)、「にぎ」は、
熟蝦夷(にぎえみし)、
荒蝦夷(あらえみし)、
の対になり、
熟飯(にぎいひ)、
という言葉があり、
姫飯(ヒメイヒ)、
つまり、強飯(こはいひ)の対になり、「和(なぎ)」は、
凪ぐ、
和ぐ、
で、
和(なご)やか、
の、
なご(和)と同根(岩波古語辞典)、とつながるのである。その意味で、
ニギ→ニグ→ニル、
の転訛は、意味から見てもあり得る気がする。
柔らかくなる、
意である。
和稲(にぎしね 荒稲(あらしね)の対)、
和布(にぎめ 和海藻)、
の「にぎ(和)」ともつながるのである。
参考文献;
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
2021年05月30日
たく
「たく」は、
炊く、
焚く、
と当てるが、「炊」は、
かしぐ、
とも訓ませる。「かしぐ」は、
爨ぐ、
とも当てる。室町時代までは、
かしく、
と清音で、室町末期の『日葡辞書』も、
ヒャウラウ(兵糧)モナウテメシヲモカシカヌウチニ、
と、声音である。
カシグ、
と濁音になったのは、江戸時代以降とされる(明解古語辞典)。
「たく」は、もともと、
火を燃やす、
意で、
海人少女(あまをとめ)漁(いさ)りたく火のおぼほしく都努(つの)の松原思ほゆるかも(万葉集)、
とあるように、
暖を取り、香をくゆらし、食物を煮、塩を取るなど、或る目的のために火を使う、
意味であった(岩波古語辞典)。つまり、
飯を煮る、
も、
香をくゆらす、
も、
塩焼き、
も、
火を燃やす、
も、
すべて、
たく、
であった。
「粥」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/474375881.html)で触れたように、弥生時代、米を栽培し始めるが、この時は、
脱穀後の米の調理は、…玄米のままに食用にした。それも粥にしてすすったのではないかと想像される。弥生式土器には小鉢・碗・杯(皿)があるし、登呂からは木匙が発見されている、
とある(日本食生活史)。七草粥は、この頃の古制を伝えている(仝上)、とみられる。
弥生時代の終わりになると、甑(こしき)が用いられ、古墳時代には一般化する(日本食生活史)。3世紀から4世紀にかけて朝鮮半島を伝い、日本にも伝来した、と見られ(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%91)、「甑」は、中国で、
新石器時代に袋状をなした三脚を有する鬲(れき)や、底部に若干の穴をほったこしき(瓦+曾)、また鬲と甑を結合させた甗(こしき)などがあった。甑は漢代に使用され、それが南満・朝鮮半島を経て、米の流入とともにわが国に伝わった、
とある(日本食生活史)。『周書』に、
黄帝が穀を蒸して飯となすとか、穀を烹(に)て粥となす、
とあり(仝上)、穀類を煮たり蒸したりすることを古くは、
炊(かし)ぐ、
といい、のち、
炊(た)く、
というようになった。〈たく〉は燃料をたいて加熱する意と思われる。飯の炊き方には煮る方法と蒸す方法とがあり、古く日本では甑(こしき)で蒸した強飯(こわめし)を飯(いい)と呼び、水を入れて煮たものを粥(かゆ)といった。粥はその固さによって固粥(かたがゆ)と汁粥(しるかゆ)に分けられた、
とあり(世界大百科事典)、
飯を固粥(かたかゆ)または粥強(かゆこわ)とよび、今日の粥を汁粥(しるかゆ)といった。また固粥は姫飯(ひめいひ)とも称した。蒸した飯は強飯(こわいい)である、
とある(たべもの語源辞典)ように、飯は、
甑(こしき)、
を用いて蒸してつくられた(たべもの語源辞典)。伊勢物語に、
飯をけこ(ざる・かご)の器物に盛ってたべる、
とあるが、蒸した強(こわ)い飯であったことがわかる(仝上)。だから、「甑(こしき)」の語源は、
カシキ(炊)の転(大言海・東雅)、
あるいは、
米をかしぐ器の意(名語記・日本釈名)、
動詞「かし(炊)く」と同源か(小学館古語大辞典)、
カシキ(炊)からできた(時代別国語大辞典-上代編)、
炊籠(カシキコ)からコシキになった(たべもの語源辞典)、
等々とされるのである(http://ppnetwork.seesaa.net/article/478420647.html)。つまり、上代、
米を蒸したものを常食としていたので、「かしく」は、「米を蒸すこと」をいった、
のである。しかし、
中古末頃からカタカユが常食となったため、「かしく」は、「米を炊くこと」を言うようになった、
とある(日本語源大辞典)。平安後期の「江家(ごうけ)次第」には、
固粥は高く盛られて箸を立てることが見えている。固粥は姫飯ともいわれ、後世の飯(いい)であると思われる。飯や粥には米だけのものではなく、粟飯(あわい)・黍飯(きびい)もあった。貴族は汁粥を多く食べていたようであるが、平安末期になると正規の食事でも固粥(飯)を用いた、
とある(日本食生活史)。固粥よりも、水の量が多く、柔らかく炊いたものが、
粥、
で、後世の粥に当たる。
粥には白粥・いも粥・栗粥などがある。白粥は米だけで何も入れてない粥である。いも粥はやまいもを薄く切って米とともに炊き、時に甘葛煎(あまかずら)を入れてたくこともある。大饗(おおあえ)のときにそなえて貴族の食べるものである。小豆粥は米に小豆を入れ塩を加えて煮たもの。栗を入れてたいたものが栗粥である。さらに魚・貝・海藻などを入れて炊く粥もあった、
とある(仝上)。鎌倉時代は、平安時代を受け継ぎ、蒸した強飯が多かったようである。
米を精白して使うことは公家階級のわずかな人々の間に行われた程度であった。それも今日の半白米ぐらいである。玄米食は武家や庶民の間に用いられ、一般的であった。今日の飯と粥に当たる姫飯(固粥)と水粥(汁粥)とは僧侶が用い…たが、鎌倉末期になり、禅宗の食風がひろまると強飯は少なくなり、…今日の習慣にように姫飯を常食とする傾向になった、
とある(仝上)。鉄製の鍋釜ができるのは、室町以降だが、ようやく、
固粥を飯と言い、汁粥を粥、
というようになる(たべもの語源辞典)。
「かしぐ」は、従って、
甑、
と深くつながり、
米を蒸すのに用いるコシキ(甑)と関係のある語か(筆の御霊・松屋筆記)、
ケシキ(食敷)の転。下に藁を強いて食物を蒸したことから(名言通)、
は、「甑」が、
カシキ(炊)の転(大言海・東雅)、
動詞「かし(炊)く」と同源か(小学館古語大辞典)、
等々と裏返しである。どちらが先かは、判然としないが、「かしく」は、
ケ(食)の活用語か(日本語源=賀茂百樹)、
カシはケシ(食為)の転呼。クは飲食に関する原語(日本古語大辞典=松岡静雄)、
よりは、
コシキ(甑)+ク(動詞化)。甑にかけて蒸す(日本語源広辞典)、
の方が、まだ納得できる。
昔かなえ(鼎)の上に甑をのせて飯をかしいだことが『空穂物語』にある。室町時代になると、かなえを「かま」とよんだ。飯はかしぐといい、粥は煮るというが、かしぐとは甑をつかうからであろう、
とある(たべもの語源辞典)のが、「甑」と「かしく」の関係をよく示す。
ちょうど「こしき」が「かま」に転じるころ、「いひ」が「めし」という言葉に転換する時期になる。それが鉄製の鍋釜が普及する江戸時代となる(http://ppnetwork.seesaa.net/article/471966862.html)。
「たく」が、
飯を炊く、
という意で、
煮る、
とか、
加熱する、
とか、
湯を沸かす、
意で使うのは、かなり新しく、
もともと、ニル、カシクになっていた意味領域に、中世後期からタクが意味領域を拡大して侵出していったと考えられる。飯についてはタクといい、汁物(野菜)など飯以外の物についてはニルという現代共通語の体系が、近世から近代にかけて成立した、
と見られる(日本語源大辞典)。江戸語大辞典では、
飯をたく、
を、
副食物を煮るの対、
としているのは、そういう背景がある。ところで、飯の上手な炊き方を示す言葉に、
はじめチョロチョロなかパッパ、ジュウジュウいうとき火を引いて、赤子泣くとも蓋とるな、
というのがある。はじめは弱火で釜全体を温め、中頃は強火で加熱する。沸騰したら火を弱め、最後は蓋を取らずに余熱で蒸らすという意味だが、この炊き方は、
炊き干し、
と呼ばれる(https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/40806)とある。この炊き方は、
水が多い最初のうちは「煮る」状態だが、水が少なくなってくると「蒸す」状態になる。つまり、「煮る」と「蒸す」を組み合わせた調理法、
であるが、これが定着したのは、江戸時代から、とされる(仝上)。
漢字「焚」(漢音フン、呉音ブン)は、
会意、「林+火」で、林が煙を噴き上げて萌えることを示す、
とある(漢字源)。別に、
(「焚」 甲骨文字 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%84%9Aより)
会意文字です(林+火)。「木が並び立つ」象形と「燃え立つ炎」の象形から「林を火で焼く」を意味する「焚」という漢字が成り立ちました、
ともある(https://okjiten.jp/kanji2571.html)。ほぼ同義である。
(「焚」 成り立ち https://okjiten.jp/kanji2571.htmlより)
「炊」(スイ)は、
欠(ケン)は、人が背をかがめ、口を開けてしゃがんださま。炊は「火+欠」で、しゃがんで火を吹き起こすさま、のち、広く、火を起こして煮たきすること、
とある(漢字源)。別に、
会意兼形声文字です(火+吹くの省略形)。「燃え立つ炎」の象形(「火」の意味)と「人が口を開けている」象形(「吹く」の意味)から、火を吹いて「飯をたく」を意味する「炊」という漢字が成り立ちました、
ともある(https://okjiten.jp/kanji1570.html)。
(「炊」 成り立ち https://okjiten.jp/kanji1570.htmlより)
「爨」(サン)は、「飯を炊く」意の、
炊爨(スイサン)、
という言葉があるように、「かしぐ」意で、
会意。「かまどの形+臼(両手)+両手+火」で、両手でもって木を竈の下に入れて、火を燃やすさまを示す。かまどの狭い穴にたき木を入れ込む動作を指す言葉、
とある(漢字源)。和語で、
爨(さん)、
というと、
おさんどん、
つまり、
飯を炊く女、
の意になる。「おさん」については、「権助」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/478489648.html)で触れた。
なお、「めし」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/471966862.html)については、触れた。
参考文献;
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
渡辺実『日本食生活史』(吉川弘文館)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
2021年05月31日
自由民権・社会主義・民本主義
林茂『近代日本の思想家たち―中江兆民・幸徳秋水・吉野作造』を読む。
本書は、
「近代日本における民主主義の側に立つ政治思想の歴史を、とくに三人の人物をとりあげることによって、あとづけてみたいと考えた」(あとがき)
との意図で書かれている。それは、
「近代日本における思想一般ではない。また、政治思想一般でもない」(仝上)
ものである。取り上げたのは、
中江兆民、
幸徳秋水、
吉野作造、
の三人である。生年は、中江兆民は、
弘化元年(1847)、
幸徳秋水は、
明治四年(1871)、
吉野作造が、
明治十一年(1878)、
であり、吉野作造の生まれたころ、
「中江兆民は自由民権論の先達の一人としてすでに一部の人々に知られていた。幸徳秋水は土佐で少年の日をすごしていた。」
というのが、時代における三者の位置関係になる。
この百五十年の間、
「日本は三たび民主主義思想の先例を受けた。初めには自由民権運動の形で、つぎは大正の民本主義として、さらに太平洋の敗戦後における、「民主化」として」、
と著者は「はじめに」で語る。しかし、列強の脅威の中での開国・維新後の民権運動と、敗戦による「民主化」は、共に外圧の中での、いわば他力によるものだ。唯一、大正の普通選挙運動そのものが、日本で、ただひとつ、
国民自身の手で勝ち取ったもの、
のように僕は思う。その意味で、「普通選挙運動」に至る民主主義思想の流れを見ることは、「与えられた」民主主義が、ほぼ形骸化し、衰弱している今日、とりわけ意味があるように思えてならない。
兆民中江篤介(とくすけ)は、
東洋のルソー、
と呼ばれ、自由民権運動の最大の指導者であった。『三酔人経綸問答』で、こう言っている。
「政治の本旨は、国民の意嚮に循由し、国民の知識に適当し、国民をして安靖の楽を保ちて、福利の利を獲しむるにある。もしにわかに国民の意嚮にしたがわず知識に適しない制度を用いるときは、国民の安靖の楽と福祉の利とは得られない。
専制から立憲に、立憲から民主にと進むのはまさに政治の発展する順序である。専制政治から一足飛びに民主政治に入るというようなことは、けっしてその順序ではない。」
と。著者は、兆民の、
「その胸奥において、理論的には、共和制を支持しつつ、当時の日本の段階において、実現されるべきものはイギリスに類する立憲君主制であるとしていたと見るのがあたるであろう。」
と位置づける。国会開設運動に力を入れ、早くから普通選挙論者であった兆民は、
輿論の代表の場としての国会の地位、
を重視した。
「そうして、政党や議員をその背後から擁護し、声援するものとして、輿論、一般人による輿論の地位を大きく位置づけたのであった。輿論は彼にあっては、『第二の君主』であった。それは『第一の』というのをはばかって言ったものとしか受けとれない。」
やがて、政党政治家に愛想をつかすことになっても、
人民への愛情と輿論の重視信頼、
は変わらなかった。
秋水幸徳傳次郎は、兆民最大の弟子である。秋水の名は、中江兆民から与えられた。秋水は、こう書いている。
「小生は幼年の頃より、最も急進なる、最も過激なる、最も極端なる非軍備主義、非国家主義、無政府主義の書を愛読致候。此書や欧米文書の翻訳には無之、純乎たる我東洋人の著述にして、而して東洋人多数の尊敬措かざる所に候。即ち、老子、荘子の書、釈迦の経典にて候」
と。著者は、社会主義者となった秋水の素地を、
「変革する時代とその中で没落していく階級、自由民権思想とその運動の洗礼、とりわけその理論的指導者の一人であった中江兆民との深い接触、儒教的教養、これがその素地であった。彼はみずから儒教から社会主義に入ったとしたこともある。」
と記す。当初、三申小泉策太郎が言うように、
衆議院議員、
になる志を持ち、犬養毅、谷干城ら政治家とも接触し、議会主義政策を取って、
普通選挙、
実施も主張した。しかし徐々に社会主義にシフト、安倍磯雄らと社会民主党を結成し、『平民新聞』発禁に関連して、編集人として責任を問われ、投獄されるが、それについて、著者は、秋水は、
「『マルクス派の社会主義者』として入獄したが、『過激なる無政府主義者』となった出獄した」
と評する。出獄後、渡米するが、帰国後、「余が思想の変化」と題して、
「普通選挙や議会政策では真個の社会的革命を成遂げることは到底出来ぬ、社会主義の目的を達するには、一に団結せる労働者の直接行動(デレクトアクシヨン)に依る外はない。」
と主張し、
普通選挙による議会制民主主義、
による変革から、
直接行動、
による変革へと舵を切る。だが、三年後、大逆事件に連座して、逮捕され、半年後処刑された。今日、この事件自体が、
国家によるフレームアップ、
ということが明らかにされているが、秋水自身、手紙の中で、無政府主義者の革命運動とは、
「唯来らんとする革命に参加して応分の力を致すべき思想智識を養成し、能力を訓練する総ての運動」
と言っており、著者は、こう述べる。
「直接行動が議会を経ないからといって、それは議会をあてにしないということであって、直接行動なら何でもやるというのではない。」
にもかかわらず、
「検事や予審判事たちは、彼秋水の話に『暴力革命』という名目をつけ、『決死の士』などという言葉を考え出し、『無政府主義の革命は皇室をなくすことである。幸徳の計画は暴力で革命を行ふのである。故に、これにくみしたものは大逆罪を行はうとしたものにちがひない』という三段論法をとった」
と。証拠ではなく、でっちあげた「計画」を、予断で裁いたといっても過言ではない。
吉野作造は、生涯、東京帝国大学教授を辞した後も、講師として大学で教鞭をとり続けた。その業績は、
国内の政治、並びに社会問題、
だけではなく、
明治文化史(『明治文化全集』30巻の刊行に尽力)、
中国問題(清国政府に招かれて北洋法政学堂の共感などを務めた)、
欧米の政局問題(イギリス、ドイツ、フランス等に留学している)、
がある。しかし彼を有名にしたのは、「憲政の本義を説いて其有終の美を済(な)すの途を論ず」をはじめとする一連の論文で、
民本主義、
を説き、「その実現が日本における立憲政治を達成する所以である」ことを主張したことである。それは、
「近代政治にあっては、……いわゆる輿論を実質的に創成するものは少数の哲人であるが、これを形式的に確定するものは民衆である。この点において、近代政治の理想とするところは絶対的民衆主義とは相容れない。一般民衆それ自身がただちにすべての問題の決定者たる能力を完全に備えているとするような説明は、とうてい承認しうるところではない。実際の運用から見ても、今日の民衆はつねに少数専門の指導者を必要とし、いわゆる指導者はまた民衆とふだんの接触を保つことによって、ますます自分の聡明をみがいている。ようするに、民衆は指導者によって教育され、指導者は民衆によって鍛錬される。近代政治の理想は最高最善の政治的価値のできるだけ多くの社会的実現を保障するところにある。その数ある特徴のうち、最もいちじるしいものは民衆の意向を重んずるという点にある。」
とし、その意味で、これを、
民本主義、
と呼んだ。そのための制度として、下院における、
普通選挙の実現、
と、
政党内閣制の樹立、
を主張した。しかし、この民本主義は、
「主権が人民に在ることを否定するものであった。すなわち、リンカーンの『人民・人民による・人民のための政治』という語のうち、『人民の』を認めないものであった。」
中江兆民の「輿論」観と比べても、遥かに後退している観を否めない。にもかかわらず、官憲の圧迫、迫害を受け、憲兵の機関紙では、「デモクラシー」自体も標的にされ、吉野作造も「根を絶やし」とするほど名指しされた。
吉野作造は、『中央公論』を舞台に20年にわたって、政治を論じ続けた。実践家というよりは、思想家・評論家であるが、その主張が、
大正デモクラシー、
を盛り上げ、
普通選挙、
を実現する立役者となった。吉野作造は、晩年、
路行かざれば到らず、事為さざれば成らず、
と言っていたという。
中江兆民―幸徳秋水―吉野作造、
は、こう通読してみれば、辛うじて、かぼそい民主主義の道を通してきた、ということができる。特高、憲兵、軍部、右翼等々の恫喝、脅威にさらされながら、文字通り命がけに。
参考文献;
林茂『近代日本の思想家たち―中江兆民・幸徳秋水・吉野作造』(岩波新書)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95