ドストエフスキー(小沼文彦訳)『カラマーゾフの兄弟ⅠⅡ』を読む。
ほぼ60年ぶりに読み直してみて、『大審問官』の動機となる、幼児たちの悲痛な声は覚えていたが、他は、殆ど忘れていることに気づいた。十代に読みこなせるものでもないが、いま読み直してみても、浅才、非才の僕には、読みこなす力はなく、圧倒されるほどの読後感は薄かった、というのが正直な感想だ。むしろ、僕は、この『カラマーゾフの兄弟』という、
作品の構造、
に目が向いた。それは、文学は、
何を書くか、
ではなく、
如何に書くか、
こそが、
テーマ、
であると、最近思うからである。
本書は、
「わが主人公アレクセイ・フョードロヴィッチ・カラマーゾフの一代記に取りかかるに当たり、私は、多少のためらいを感じている。」
で始まる。「私」は、ここでは、著者が設定した語り手、である。この「私」は、
カラマーゾフ一族、
の住んでいた架空の町、
スコトプリゴーニイェスク、
の住民でもある。そして、こう構想を語る。
「第一の小説はすでに十三年も前の出来事であり、小説と呼ぶのもおこがましい代物であって、単にわが主人公の青春時代初期における一瞬間に過ぎない。だが、どうしてもこの第一の小説をオミットするわけにはいかないのだ。第二の小説の中のいろいろなことがわからなくなる恐れがあるからである。」
つまり、『カラマーゾフの兄弟』という本作は、第二の、
十三年後のアリョーシャ、
の物語を語るための、
前段、
つまり、
十三年後のアリョーシャの物語のための物語、
だということを、語り手(「私」)は、明かしているのである。本作、
二十歳になったばかりのアレクセイ(アリョーシャ)・フョードロヴィッチ・カラマーゾフ、
の逸話は、
十三年後のアレクセイ・フョードロヴィッチ・カラマーゾフ、
を語るために欠かせない話なのだ、という構造になっている、と語り手は言っているのである。
そう見てみると、作品は、第一部は、
「『そして永久に、これから一生手を取り合っていきましょう! 万歳、カラマーゾフの』ともう一度感激したようにコーリャが叫んだ。そしてもう一度すべての少年が彼の叫び声に調子を合わせた。」
というくだりで終わり、一応、
閉じられている、
といえなくもないのだが、語り手の「私」によって語りはじめられた、作品全体は、そのまま、
開かれたまま、
であり、作品全体の構造から見ても、明らかに、
閉じられていない、
のである。つまり、
第二部のために作品空間が開かれている、
状態なのである。
それを図解してみると、下図のように、第二部を想定したように、全体構造の作品空間は、開かれているのである。
(作品としての『カラマーゾフの兄弟』の構造)
要するに、ドストエフスキー自身の構想がどうこうという前に、『カラマーゾフの兄弟』という作品の構造そのものが、この作品が未完であることを示している、と思えるのである。だから、小林秀雄が、
「およそ続編というようなものがまったく考えられぬほど完璧な作品」
と評しているのは、この『カラマーゾフの兄弟』そのものが自己完結していることを言っているだけで、「私」が語り出した、
この作品全体、
の未完性とは別の話である。
この作品全体の未完成を暗示するのは、作品構造だけではなく、内容的に見ても、『カラマーゾフの兄弟』が、長男、
ドミトリー(ミーチャ)・フョードロヴィッチ・カラマーゾフ、
の物語であり、
イワン・フョードロヴィッチ・カラマーゾフ、
と、
アレクセイ・フョードロヴィッチ・カラマーゾフ、
は、その対比として描かれている。さらに、此処には、父、
フョードル・パーヴロヴィッチ・カラマーゾフ、
と、
ドミトリー(ミーチャ)・フョードロヴィッチ・カラマーゾフ、
に対比するために、イワンの、
『大審問官』
と、アリョーシャの編んだとされる、
いまは亡き修道司祭ゾシマ長老の生涯、
とがセットになって、
無神論、
と、
信仰、
とが、対として描かれている。しかし、それはあくまで、
フョードル・パーヴロヴィッチ・カラマーゾフ、
と、
ドミトリー(ミーチャ)・フョードロヴィッチ・カラマーゾフ、
の世界が「地」として背景にあるからこそ生きてくる「図」だ。そして、裁判における、
検事の論告、
と、
弁護士の弁論、
とは、そうした「地」の世界、とりわけ、
ドミトリー(ミーチャ)・フョードロヴィッチ・カラマーゾフ、
の、
メタ物語、
となっている。つまり、「私」の語る、
物語の物語、
となっている。『カラマーゾフの兄弟』は、
フョードル・パーヴロヴィッチ・カラマーゾフ、
と、
ドミトリー(ミーチャ)・フョードロヴィッチ・カラマーゾフ、
の世界なのであって、ここでは、まだ、
アレクセイ・フョードロヴィッチ・カラマーゾフ、
は、ほんのちょい役でしかない。第二部は、第一部の、混沌とした、
ドミトリー・フョードロヴィッチ・カラマーゾフ、
と、
フョードル・パーヴロヴィッチ・カラマーゾフ、
の世界に対立する、あるいは、
拮抗する、
アレクセイ・フョードロヴィッチ・カラマーゾフ、
の世界があってはじめて、全体のバランスが取れるのではないか。僕は、『カラマーゾフの兄弟』の世界だけでは、作品全体は、
片肺飛行、
ではないか、という思いがあり、やはり、未完だと思う。
物語は作家が書きはじめるところで止まる、
という言葉がある(P・リクール(久米博訳)『時間と物語』)。語り手「私」は、
全ての物語の終ったところ、
に立ち、そこから、
語り始めている、
のである。つまり、「私」は、まだ、
その終わった時点、
へ戻ってきていないのである。
ところで、ミハイル・ミハイロヴィチ・バフチン『ドストエフスキーの詩学』のドストエフスキー論については「ポリフォニー」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/457548429.html)で、触れたが、
「世界について語っているのではなく、世界を相手に語り合っている」
かのようなドストエフスキーの開いた世界は、いわゆる現実の世界ではない。
言葉のみで成り立っている対話の世界、
である。ここでは、語り手も、対話し、登場人物も、対になって対話し、
『大審問官』
と、
『ゾシマ長老の生涯』
も対話し、
論告
と、
弁論
も対話し、
会話が世界をつくる、
のである。その対話も、
ドミトリー(ミーチャ)・フョードロヴィッチ・カラマーゾフの世界、
と対になっているはずの、
アレクセイ・フョードロヴィッチ・カラマーゾフの世界、
が示されているとはいいがたい気がするのである。
参考文献;
ドストエフスキー(小沼文彦訳)『カラマーゾフの兄弟ⅠⅡ』(筑摩書房)
ミハイル・バフチン『ドストエフスキーの詩学』(ちくま学芸文庫)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95