「亥の子餅」は、
いのこのもちひ、
能勢餅(のせもち)、
ともいい(広辞苑)、
「その夜さり、亥の子餅(もちひ)まゐらせたり」(源氏物語)
とある。また、
玄猪餅(げんちょもち)、
厳重(げんじゅう)、
とも呼ばれる(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%A5%E3%81%AE%E5%AD%90%E9%A4%85)。
能勢餅、
といわれるのは、
明治三年(1870)まで、摂津国能勢(のせ)(現在の大阪府豊能町)にある木代村(きしろむら)・切畑村(きりはたむら)・大円村(おおまるむら)から、毎年、旧暦10月の亥の日に、宮中に亥の子餅を献上していた、
ためとみられる(仝上)。これは、
皇太子(応神天皇)の異母兄である香阪(かごさか)・忍熊(おしくま)の二王子が相謀り、皇太子を迎え討って殺害しようと大軍を率いた。上陸するのを待つ間、戦の勝敗を卜(ぼく)して(占って)、能勢(大阪府)の山に入り、「祈狩」(うけいがり)を催した。が、まもなく、大猪が現われ、香阪王に飛び掛った。香阪王は驚いて、近くの大樹によじ登ったが、猪は大樹の根を掘り起こし、遂に香阪王は死亡した。忍熊王はこの事を聞き、怪しみ恐れて、住吉に軍勢を退いた。その後、神功皇后が崩御し、皇太子(応神天皇)は即位したが、猪に危難を救われた事を思い出して、吉例として、詔を発して、能勢・木代村、切畑村、大円村より、毎年10月の亥の日に供御を行うように命じた、
という伝承があるため(仝上)とされ、亥の子餅の献上の起源であると言い伝えられている。
玄猪餅(げんちょもち)、
厳重(げんじゅう)、
といわれるのは、
亥の子、
は、
玄猪(げんちょ/げんぢょ)、
といわれるからで、
宮中にては、内蔵寮(くらりょう)より奉り、厳重(ゲンヂュウ)の餅と云ふと云ふ、玄猪の音の訛か、
とある(大言海)。
「亥の子餅」は、
古くは新米にその年に収穫された大豆、小豆、ささげ、胡麻、栗、柿、飴の七種の粉を混ぜて作られていた、
とか(https://saketoneko.com/japaneseteaceremony/wagashi/inokomochi/)、あるいは、
大豆、小豆、大角豆、胡麻、栗、柿、糖(あめ)の七種の粉入れた餅、
とあるが(http://www.kanshundo.co.jp/okashi/sekku-event/inoko/)、平安末期の百科全書『掌中歴』に、
大豆、小豆・大角豆・胡麻・栗・柿・糖で作った、
とある(日本食生活史)。
餅の薄皮に小豆が斑点状に透けて見え、これがイノシシの子供にある斑点に例えられ「亥の子餅」の名前がついた、
とも(http://www.kanshundo.co.jp/okashi/sekku-event/inoko/)、
あるいは、逆に、
名称に亥(猪)の文字が使われていることから、餅の表面に焼きごてを使い、猪ないしその幼体に似せた色模様を付けたものや、餅に猪の姿の焼印を押したもの、単に紅白の餅、餅の表面に茹でた小豆をまぶした、
ともあり(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%A5%E3%81%AE%E5%AD%90%E9%A4%85)、決まった形や材料はないようである。江戸語大辞典には、
亥の子餅と称して牡丹餅を食べて祝う、
とある。
「亥の子」というのは、
十月の節句の称、
であり(大言海)、
十月の亥の日の行事、
であり(岩波古語辞典)、
亥の子まつり、
亥の子節句、
等々とも言い(日本昔話事典)、
十月は亥に建(をざ)す(北斗星の斗柄(けんさき)が十二支の亥の方角を指す)、其亥の日、亥の刻(午前9時~11時)に、上下餅を食ふ、之を亥の子餅と云ひ、万病を除くと云ふ。或は云ふ、猪は多子なれば、子孫繫昌を祝すと、
とある(大言海)。
千葉県、神奈川県から東海地方、さらに近畿以西全域、
に見られる。他方、
関東を中心にして、新潟、長野、山梨諸県で、旧暦10月10日に行い、
十日夜(とうかんや)、
と呼ぶ(日本昔話事典)。「亥の子」圏と「十日夜」圏の境界にある、東京、埼玉、神奈川、茨城では、
亥の子と言いながら、10月10日に行う、
ところがかなりあり(仝上)、両者が混在している。
この風習は、中国由来で、
この日に無病息災の祝いとして餅を食べる行事が行われていた、
という記録がある(仝上・http://www.kanshundo.co.jp/okashi/sekku-event/inoko/)が、日本では、貞観年間(859~874)には宮中行事として行なわれ、上記のように、『源氏物語』にも「亥の子餅」が登場する。
禁裏では、亥の子餅を群臣に下賜しており、
官職の高低により、下賜される亥の子餅の色(黒・赤・白)と包み紙の仕様に厳格な決まりがあった。亥の子餅の色は、公卿までは黒色の餅・四品の殿上人までは赤色の餅などである。また、3回にわたって、亥の子餅の下賜があったが、3度とも同じ色の餅ではなかった、
という(仝上)。室町幕府の年中行事にも、旧暦10月・上亥日に、
亥子祝い・玄猪餅進上、
があったが、江戸幕府も年中行事として、亥の子を祝する行事(玄猪の祝い)があり、幕府は、
大名・諸役人に対して、10月朔日、七つ半(午後5時)に江戸城への登城を命じ、将軍から白・赤・黄・胡麻・萌黄の5色の鳥の子餅を拝領して、戌の刻(午後7~9時)に退出する。玄猪の祝いに参加する将軍・大名・諸役人の服装は熨斗目長裃(のしめながかみしも)と規定されている。また、この日の夜は江戸城の本丸・西の丸の大手門・桜田門外・下乗所(げじょうしょ)に釣瓶(つるべ)式の大篝火(かがりび)が焚かれる、
とある(仝上)。
一般に収穫を見合わせ、初亥の日か、第二の亥の日に行われるが、地方によっては、
初亥の日を武士の亥の子、
二番目を百姓の亥の子、
三番目を上人の亥の子、
などという(日本昔話事典)。農村では、亥の子の神を、
田の神、
作神、
と信じたところも多く、田の神と同様に、
亥の子の神も去来する、
と考え、たとえば、鳥取、兵庫県辺りでは、
旧暦二月の春亥の子に神が田に降り、十月の亥の子に家に帰る、
といい、これを迎えるために亥の子餅や牡丹餅、二股大根を供える、とある(仝上)。
昔話に、
猪婿入り、
という話があり、これは、
猪が田に水を入れたり、田の中の石を除けたりして手伝い、ほうびに人間の娘を嫁にもらう、
話だが、これは、「猪」が、
土地の精霊的存在、
として仰がれ、ときに、
山の神が白い猪となって現れ、人に怒りをなすこともある、
とあり、猪が、
田の神、
とみなされていたことを反映していたとみられる(仝上)。
亥の日には、田畑に入ってはならない、
という言い伝えは、亥の子の神が、
農作物の作神として信仰されていた、
と関わると考えられる(http://www.pleasuremind.jp/EVENTS/COLUM120C.html)。
亥の子の行事で特徴的なのは、
亥の子づき、
だが、これも、そうした田の神との関りがうかがえる。たとえば、
子どもたちが、藁ぼて(竿の先に刈り取った藁を束ねたものを結び付けたもの)、石で地面を突いて回り、家々から、餅、ミカン、銭などを貰い歩く、
が、「藁ぼて」は、
亥の子槌(づち)、
藁鉄砲(刈り取り後の稲を縄で固く巻いて棒状にした)、
等々と呼ばれたり、何本もの荒縄で縛った丸石は、
石亥の子、
と呼ばれる(https://saketoneko.com/japaneseteaceremony/wagashi/inokomochi/)。このとき、
「亥の子餅をつかんものは鬼を生め蛇を生め」などと唱え言をし、祝儀を貰うと、「繁昌せい」と祝い、もらえなければ、「貧乏せい」などと悪態をつく、
とある(日本昔話事典)。唱え言や歌は、地域によって異なり、例えば埼玉県には、
「トーカンヤ、トーカンヤ、朝そばきりに昼団子、ヨーメシ食ったらひっぱたけ(秩父地方)」
「トーカンヤ、トーカンヤ、十日の(または“イノコの”)ぼた餅生でもいいから十(とう)食いたい(入間地方、川越市周辺)」
等々というのもある(https://agri.mynavi.jp/2018_11_15_47823/)。
「石」で地面をたたくのは、
農作物の敵であるモグラやネズミなどの害獣を駆除する、
ほか(https://agri.mynavi.jp/2018_11_15_47823/)、
土地の邪霊を鎮め、土地の神に力を与えて豊かな収穫を祈るというおまじない、
ともされている(http://www.i-nekko.jp/nov/2013-110114.html)。
(前大津宰判殿敷村の「いのこ」(長州藩編纂の地誌「防長風土注進案(天保十三年(1842)」) http://archives.pref.yamaguchi.lg.jp/user_data/upload/File/doubutsu13.pdfより)
「亥の子」の日を、
秋じまい、
といい、
この日より囲炉裏を開いて、炉、炉燵(こたつ)、を開き、火鉢もこの日より出した(仝上)。これは、「亥」が、
陰陽五行説で水性にあたる、
ことから(http://www.kanshundo.co.jp/okashi/sekku-event/inoko/)、火災を逃れるという考えから、とされる。茶の湯の世界でも、この日を、
炉開きの日、
とし、茶席菓子 として「亥の子餅」を用いる(仝上)。
ところで、「亥」(漢音ガイ、呉音カイ)は、
象形。いのしし、または豚の骨格を立てに描いたもので、骨組み、骨組みが出来上がる意を含む。豕(シ 豚)の字と似ているが、亥は豚そのものではなく、豚の骨組みを示す。骸(ガイ 骨組み)・孩(ガイ 骨格のできた幼児)・核(果実の骨組み、固い殻や芯に)含まれる。また十二進法の体系(骨組み)が全部張り渡った所に位置する数だから、十二番目を亥(ガイ)という、
とある(漢字源)。十二支に取り入れられて、「骨組み」原義が失われたが、「骸」「核」にその意を残しているということになる(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E4%BA%A5)。
(「亥」 甲骨文字・殷 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E4%BA%A5より)
なお、「雑煮」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/481191464.html?1619376849)で触れたように、わが国で、「餅」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/474462660.html)を祝賀に用いる風習は古く、
元日の鏡餅(http://ppnetwork.seesaa.net/article/473055872.html)、
上巳の草餅(http://ppnetwork.seesaa.net/article/477094915.html)、
雛祭りの菱餅(http://ppnetwork.seesaa.net/article/479150270.html)、
端午の粽(http://ppnetwork.seesaa.net/article/474481098.html)、
十月の亥の子餅、
等々年中行事となっているが、
三月三日の草餅、
五月五日の粽、柏餅、
は中世になってからであり、
雑煮、
は江戸時代になってからであり、やっと、
正月の鏡餅、雑煮餅、
三月上巳の草餅、菱餅、
五月五日の粽、
十月亥の日の亥の子餅、
と年中行事に欠かせないものになっていった。
参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
稲田浩二他編『日本昔話事典』(弘文堂)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95