2021年05月28日

亥の子餅


「亥の子餅」は、

いのこのもちひ、
能勢餅(のせもち)、

ともいい(広辞苑)、

「その夜さり、亥の子餅(もちひ)まゐらせたり」(源氏物語)

とある。また、

玄猪餅(げんちょもち)、
厳重(げんじゅう)、

とも呼ばれるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%A5%E3%81%AE%E5%AD%90%E9%A4%85

亥の子餅②.jpg


能勢餅、

といわれるのは、

明治三年(1870)まで、摂津国能勢(のせ)(現在の大阪府豊能町)にある木代村(きしろむら)・切畑村(きりはたむら)・大円村(おおまるむら)から、毎年、旧暦10月の亥の日に、宮中に亥の子餅を献上していた、

ためとみられる(仝上)。これは、

皇太子(応神天皇)の異母兄である香阪(かごさか)・忍熊(おしくま)の二王子が相謀り、皇太子を迎え討って殺害しようと大軍を率いた。上陸するのを待つ間、戦の勝敗を卜(ぼく)して(占って)、能勢(大阪府)の山に入り、「祈狩」(うけいがり)を催した。が、まもなく、大猪が現われ、香阪王に飛び掛った。香阪王は驚いて、近くの大樹によじ登ったが、猪は大樹の根を掘り起こし、遂に香阪王は死亡した。忍熊王はこの事を聞き、怪しみ恐れて、住吉に軍勢を退いた。その後、神功皇后が崩御し、皇太子(応神天皇)は即位したが、猪に危難を救われた事を思い出して、吉例として、詔を発して、能勢・木代村、切畑村、大円村より、毎年10月の亥の日に供御を行うように命じた、

という伝承があるため(仝上)とされ、亥の子餅の献上の起源であると言い伝えられている。

玄猪餅(げんちょもち)、
厳重(げんじゅう)、

といわれるのは、

亥の子、

は、

玄猪(げんちょ/げんぢょ)、

といわれるからで、

宮中にては、内蔵寮(くらりょう)より奉り、厳重(ゲンヂュウ)の餅と云ふと云ふ、玄猪の音の訛か、

とある(大言海)。

亥の子餅①.jpg


「亥の子餅」は、

古くは新米にその年に収穫された大豆、小豆、ささげ、胡麻、栗、柿、飴の七種の粉を混ぜて作られていた、

とかhttps://saketoneko.com/japaneseteaceremony/wagashi/inokomochi/、あるいは、

大豆、小豆、大角豆、胡麻、栗、柿、糖(あめ)の七種の粉入れた餅、

とあるがhttp://www.kanshundo.co.jp/okashi/sekku-event/inoko/、平安末期の百科全書『掌中歴』に、

大豆、小豆・大角豆・胡麻・栗・柿・糖で作った、

とある(日本食生活史)。

餅の薄皮に小豆が斑点状に透けて見え、これがイノシシの子供にある斑点に例えられ「亥の子餅」の名前がついた、

ともhttp://www.kanshundo.co.jp/okashi/sekku-event/inoko/

あるいは、逆に、

名称に亥(猪)の文字が使われていることから、餅の表面に焼きごてを使い、猪ないしその幼体に似せた色模様を付けたものや、餅に猪の姿の焼印を押したもの、単に紅白の餅、餅の表面に茹でた小豆をまぶした、

ともありhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%A5%E3%81%AE%E5%AD%90%E9%A4%85、決まった形や材料はないようである。江戸語大辞典には、

亥の子餅と称して牡丹餅を食べて祝う、

とある。

「亥の子」というのは、

十月の節句の称、

であり(大言海)、

十月の亥の日の行事、

であり(岩波古語辞典)、

亥の子まつり、
亥の子節句、

等々とも言い(日本昔話事典)、

十月は亥に建(をざ)す(北斗星の斗柄(けんさき)が十二支の亥の方角を指す)、其亥の日、亥の刻(午前9時~11時)に、上下餅を食ふ、之を亥の子餅と云ひ、万病を除くと云ふ。或は云ふ、猪は多子なれば、子孫繫昌を祝すと、

とある(大言海)。

千葉県、神奈川県から東海地方、さらに近畿以西全域、

に見られる。他方、

関東を中心にして、新潟、長野、山梨諸県で、旧暦10月10日に行い、

十日夜(とうかんや)、

と呼ぶ(日本昔話事典)。「亥の子」圏と「十日夜」圏の境界にある、東京、埼玉、神奈川、茨城では、

亥の子と言いながら、10月10日に行う、

ところがかなりあり(仝上)、両者が混在している。

この風習は、中国由来で、

この日に無病息災の祝いとして餅を食べる行事が行われていた、

という記録がある(仝上・http://www.kanshundo.co.jp/okashi/sekku-event/inoko/)が、日本では、貞観年間(859~874)には宮中行事として行なわれ、上記のように、『源氏物語』にも「亥の子餅」が登場する。

亥の子餅③.jpg

(「亥の子餅」 https://7jyo-kansyundo.shop-pro.jp/?pid=108724287より)

禁裏では、亥の子餅を群臣に下賜しており、

官職の高低により、下賜される亥の子餅の色(黒・赤・白)と包み紙の仕様に厳格な決まりがあった。亥の子餅の色は、公卿までは黒色の餅・四品の殿上人までは赤色の餅などである。また、3回にわたって、亥の子餅の下賜があったが、3度とも同じ色の餅ではなかった、

という(仝上)。室町幕府の年中行事にも、旧暦10月・上亥日に、

亥子祝い・玄猪餅進上、

があったが、江戸幕府も年中行事として、亥の子を祝する行事(玄猪の祝い)があり、幕府は、

大名・諸役人に対して、10月朔日、七つ半(午後5時)に江戸城への登城を命じ、将軍から白・赤・黄・胡麻・萌黄の5色の鳥の子餅を拝領して、戌の刻(午後7~9時)に退出する。玄猪の祝いに参加する将軍・大名・諸役人の服装は熨斗目長裃(のしめながかみしも)と規定されている。また、この日の夜は江戸城の本丸・西の丸の大手門・桜田門外・下乗所(げじょうしょ)に釣瓶(つるべ)式の大篝火(かがりび)が焚かれる、

とある(仝上)。

一般に収穫を見合わせ、初亥の日か、第二の亥の日に行われるが、地方によっては、

初亥の日を武士の亥の子、
二番目を百姓の亥の子、
三番目を上人の亥の子、

などという(日本昔話事典)。農村では、亥の子の神を、

田の神、
作神、

と信じたところも多く、田の神と同様に、

亥の子の神も去来する、

と考え、たとえば、鳥取、兵庫県辺りでは、

旧暦二月の春亥の子に神が田に降り、十月の亥の子に家に帰る、

といい、これを迎えるために亥の子餅や牡丹餅、二股大根を供える、とある(仝上)。

昔話に、

猪婿入り、

という話があり、これは、

猪が田に水を入れたり、田の中の石を除けたりして手伝い、ほうびに人間の娘を嫁にもらう、

話だが、これは、「猪」が、

土地の精霊的存在、

として仰がれ、ときに、

山の神が白い猪となって現れ、人に怒りをなすこともある、

とあり、猪が、

田の神、

とみなされていたことを反映していたとみられる(仝上)。

亥の日には、田畑に入ってはならない、

という言い伝えは、亥の子の神が、

農作物の作神として信仰されていた、

と関わると考えられるhttp://www.pleasuremind.jp/EVENTS/COLUM120C.html

亥の子の行事で特徴的なのは、

亥の子づき、

だが、これも、そうした田の神との関りがうかがえる。たとえば、

子どもたちが、藁ぼて(竿の先に刈り取った藁を束ねたものを結び付けたもの)、石で地面を突いて回り、家々から、餅、ミカン、銭などを貰い歩く、

が、「藁ぼて」は、

亥の子槌(づち)、
藁鉄砲(刈り取り後の稲を縄で固く巻いて棒状にした)、

等々と呼ばれたり、何本もの荒縄で縛った丸石は、

石亥の子、

と呼ばれるhttps://saketoneko.com/japaneseteaceremony/wagashi/inokomochi/。このとき、

「亥の子餅をつかんものは鬼を生め蛇を生め」などと唱え言をし、祝儀を貰うと、「繁昌せい」と祝い、もらえなければ、「貧乏せい」などと悪態をつく、

とある(日本昔話事典)。唱え言や歌は、地域によって異なり、例えば埼玉県には、

「トーカンヤ、トーカンヤ、朝そばきりに昼団子、ヨーメシ食ったらひっぱたけ(秩父地方)」
「トーカンヤ、トーカンヤ、十日の(または“イノコの”)ぼた餅生でもいいから十(とう)食いたい(入間地方、川越市周辺)」

等々というのもあるhttps://agri.mynavi.jp/2018_11_15_47823/

「石」で地面をたたくのは、

農作物の敵であるモグラやネズミなどの害獣を駆除する、

ほかhttps://agri.mynavi.jp/2018_11_15_47823/

土地の邪霊を鎮め、土地の神に力を与えて豊かな収穫を祈るというおまじない、

ともされているhttp://www.i-nekko.jp/nov/2013-110114.html

亥の子づき.jpg

(前大津宰判殿敷村の「いのこ」(長州藩編纂の地誌「防長風土注進案(天保十三年(1842)」) http://archives.pref.yamaguchi.lg.jp/user_data/upload/File/doubutsu13.pdfより)

「亥の子」の日を、

秋じまい、

といい、

この日より囲炉裏を開いて、炉、炉燵(こたつ)、を開き、火鉢もこの日より出した(仝上)。これは、「亥」が、

陰陽五行説で水性にあたる、

ことからhttp://www.kanshundo.co.jp/okashi/sekku-event/inoko/、火災を逃れるという考えから、とされる。茶の湯の世界でも、この日を、

炉開きの日、

とし、茶席菓子 として「亥の子餅」を用いる(仝上)。

ところで、「亥」(漢音ガイ、呉音カイ)は、

象形。いのしし、または豚の骨格を立てに描いたもので、骨組み、骨組みが出来上がる意を含む。豕(シ 豚)の字と似ているが、亥は豚そのものではなく、豚の骨組みを示す。骸(ガイ 骨組み)・孩(ガイ 骨格のできた幼児)・核(果実の骨組み、固い殻や芯に)含まれる。また十二進法の体系(骨組み)が全部張り渡った所に位置する数だから、十二番目を亥(ガイ)という、

とある(漢字源)。十二支に取り入れられて、「骨組み」原義が失われたが、「骸」「核」にその意を残しているということになるhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E4%BA%A5

「亥」 甲骨文字.png

(「亥」 甲骨文字・殷 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E4%BA%A5より)

なお、「雑煮」http://ppnetwork.seesaa.net/article/481191464.html?1619376849で触れたように、わが国で、「餅」http://ppnetwork.seesaa.net/article/474462660.htmlを祝賀に用いる風習は古く、

元日の鏡餅http://ppnetwork.seesaa.net/article/473055872.html
上巳の草餅http://ppnetwork.seesaa.net/article/477094915.html
雛祭りの菱餅http://ppnetwork.seesaa.net/article/479150270.html)、
端午の粽http://ppnetwork.seesaa.net/article/474481098.html
十月の亥の子餅、

等々年中行事となっているが、

三月三日の草餅、
五月五日の粽、柏餅、

は中世になってからであり、

雑煮、

は江戸時代になってからであり、やっと、

正月の鏡餅、雑煮餅、
三月上巳の草餅、菱餅、
五月五日の粽、
十月亥の日の亥の子餅、

と年中行事に欠かせないものになっていった。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
稲田浩二他編『日本昔話事典』(弘文堂)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

posted by Toshi at 03:31| Comment(0) | 言葉 | 更新情報をチェックする