2021年06月01日

たぬき汁


「たぬき汁」は、

狸汁、

と当てるが、

狸の肉に大根・牛蒡などを入れて味噌で煮た汁、

の意と、

蒟蒻と野菜一緒に胡麻油でいため、味噌で煮た汁。上記の「たぬき汁」の代用とした精進料理、

の、二つの意味が載る(広辞苑)。蒟蒻による「たぬき汁」は、江戸時代から、その名で呼んでいる(たべもの語源辞典)とある。

寛永二十年(1643)の『料理物語』には、

味噌にて仕立候、妻は大根牛蒡、

とあり、文化十四年(1817)の『瓦礫雜考』には、

狸汁は、今の蒟蒻を味噌汁にて煮たるには非らず、

とある。この頃には、「蒟蒻仕立て」が隆盛だったのだろう。

たぬき汁.jpg

(たぬき汁 https://cookpad.com/recipe/4818959より)

「けんちん」http://ppnetwork.seesaa.net/article/477345064.htmlで触れたが、

普茶料理http://ppnetwork.seesaa.net/article/474648427.html
あるいは、
卓袱料理http://ppnetwork.seesaa.net/article/471380539.html

は、「普茶料理」が、

卓袱(しっぽく)料理の精進なるもの、

とあり(大言海)、料理山家集(1802)には、

普茶と卓袱と類したものなるが、普茶は精進にいひ全て油をもって佳味とす。卓袱は魚類を以って調じ、仕様も常の会席などと別に変りたる事なしといへども、蛮名を仮てすれば、式と器の好とに、心を付ける事肝要なり、

とあり、それで、

精進の卓袱料理、

といわれ(たべもの語源辞典)、「卓袱料理」もその精進版「普茶料理」、何れも中国からの伝来で、油を使うところが特徴である。

ただ、安永七年(1778)『屠龍工随筆』には、

狸を汁に煮て食ふに、其の肉を入れぬ先に、鍋に油を引きて炒りて後に、牛蒡大根など入れて煮るがよし、

とあり、同じく同書には、

蒟蒻などを油にていためて、牛蒡大根などまじへて煮るを狸汁、

ともあるので、もともと「たぬき汁」が油を使っていたとも、逆に精進系の蒟蒻版「たぬき汁」の影響のようにも見えるが、

獣肉食が禁止されていた仏僧によって、タヌキの代わりに凍りコンニャクをちぎって胡麻油で炒り、そこに良く擦ったおからを加え味噌汁にすると、味がそっくりになることから、これが精進料理として広まった、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%9F%E3%81%AC%E3%81%8D%E6%B1%81ので、前者のようである。宝暦頃(1751~64年)の『籰絨輪』に、

狸汁にばけるこんにゃく、

とあるので、広く蒟蒻版が広まっていたことになる。奈良奉行川路聖謨の日記『寧府紀事』の嘉永元年(1848年)1月25日に、

「宝蔵院は昨日稽古はじめなるに古格にて狸汁を食するよし也いにしへは真の狸にて稽古場に精進はなかりしが今はこんにゃく汁を狸汁とてくはするよし也」、

と記されている(仝上)、とある。

別に、

凍こんにゃくをむしって胡麻油で揚げたものを実とした豆腐かす(おから)の味噌汁、

も「たぬき汁」と呼ばれたようである(たべもの語源辞典)。

「たぬき」については、「狸寝入り」http://ppnetwork.seesaa.net/article/469925330.htmlで触れたれたように、

狸、
貍、

と当てる。

アナグマと混同され両者ともムジナ・貒(まみ)といわれる。ばけて人をだまし、また腹鼓を打つとされる、

とある(広辞苑)。「むじな」は、

狢、
貉、

とあてるが、「むじな」は、

アナグマ、

の異称。しかし、

混同して、タヌキをムジナとよぶこともある、

とある(広辞苑)。和名抄には、

「貉、無之奈、似狐而善睡者也」とあるが、

文明本節用集には、

「貉、ムジナ、狸類」

とある(岩波古語辞典)。「たぬき汁」では、どちらを食べていたのだろうか。

参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
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ラベル:たぬき汁 狸汁
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2021年06月02日

関係に関係する関係


キルケゴール(桝田啓三郎訳)『死にいたる病』を読む。

キルケゴール.jpg


20代の頃、冒頭の一節を読んだ衝撃は、よく覚えている。

「人間は精神である。しかし、精神とは何であるか? 精神とは自己である。しかし、自己とは何であるか? 自己とは、ひとつの関係、その関係それ自身に関係する関係である。あるいは、その関係において、その関係がそれ自身に関係するということ、そのことである。自己とは関係そのものではなくして、関係がそれ自身に関係するということなのである。」

いろんな読みはあるが、カウンセリングで、カウンセラーが、クライエントの、

自己対話、

に介入する関係とよく似ている。

自己対話そのものは、

即自と対自、

にしろ、

おのれ自身との対話、

にしろ、自己完結し、よく堂々巡りする。それは、精神としての、

関係に関係する関係、

を、おのれの中に持ちえていない、ということを意味する。だから、自己対話を対象化するとき、例えば、文章化したり、録音したりすることで、

関係に関係する関係、

が顕現できる。

「人間は無限性と有限性との、時間的なものと永遠なものと、自由と必然との総合、要するに一つの総合である。総合というのは、ふたつのもののあいだの関係である。このように考えたのでは、人間はまだ自己ではない」

のである。だから、デカルトの、

われ思う、故にわれあり、

の「われ」は、まだ関係でしかない。その関係に関係する「関係」そのものがなければ、自己ではないし、精神ではない、と言っているのである。

「ふたつのものの間の関係にあっては、その関係自身は消極的統一としての第三者である。そしてそれらふたつのものは、その関係に関係するのであり、その関係においてその関係に関係するのである。このようにして、精神活動という規定のもとでは、心と肉体との間の関係は、ひとつの単なる関係でしかない。これに反して、その関係かそれ自身に関係する場合には、この関係は積極的な第三者であって、これが自己なのである。
 それ自身に関係するそのような関係、すなわち自己は、自分で自分自身を措定したのであるか、それともある第三者に措定されてあるのであるか、そのいずれかである。」

キルケゴールは、第三者を、神と想定している。だから、

「それ自身に関係するそのような関係、すなわち自己」

は、

自分で自己自身を措定した、
のか、
ある他者(神)によって措定された、
のか、

のいずれかだと、という。

僕には、「神」との関係で、自己を実現しようとする方向は、どうも理解の外になる。で、勝手ながら、神に関わる部分を読みかえて、自己流に解釈してみた。

たとえば、キルケゴール流の、「心と肉体との間の関係」それ自身が関係する「関係」を、

キルケゴール①.jpg

(キルケゴールの神を念頭に置いた精神=自己)

 と図解してみた、「自己」とは、「心と肉体との間の関係」それ自身が関係する「関係」であり、その活動を「精神」とよぶ。しかし、「神」を想定しないとするとどうなるのか。

キルケゴール②.jpg

(神の代わりに「ありたい自己」を置いた精神=自己)

たとえば、「自分が自分自身と関係する」のを、「即自」と「対自」とする。「即自と対自」の関係自身が関係する「関係」を「私」とすると、「神」の位置に来るのは、仮に、「なりたい自己」「あるべき自己」となる。「関係」×「関係」は、うまく図解できないので、こんな図になるが、

「精神」は、「心と肉体との間の関係」それ自身が関係する「関係」、

であり、

「私」は、「即自と対自」の関係自身が関係する「関係」、

である。

本書の「死にいたる病」とは「絶望」を指すが、

「もし人間の自己が自分で自己自身を措定したのであれば、その場合は、自己自身であろうと欲しない、自己自身からのがれ出ようと欲する、というただひとつの絶望の形式しか問題となりえないであろう。すなわち、この公式こそ、全関係(自己)が他者に依存していることの表現であり、自己は自己自身によって均衡と平安に達しうるものでもなければ、またそのような状態にありうるものでもなく、自己自身と関係すると同時に、全関係を措定したもの(神)に関係することによってのみ、それが可能であることを表現するものである。」

だから、絶望における、

絶望してそうありたいと思う自己、
と、
絶望してそうありたくないと思う自己、

のうち、

絶望して、自分自身であろうと欲すること、

に、あらゆる絶望が還元できる、とする。では、

「絶望はどこからくるのか? 総合がそれ自身に関係するその関係からくるのである。それも、人間をこのような関係たらしめた神が、人間をいわばその手から手放されることによって、すなわち、関係がそれ自身に関係するにいたることによってなのである。」

とし、神からの自己疎外によってかくなった、ということは、「神」の中に「自分のあるべき姿」があると言っているように聞こえる。

だから、

「絶望するものは、何事かについて絶望する。一瞬そう見える。しかしそれは一瞬だけのことである。その同じ瞬間に、真の絶望があらわれる。あるいは、絶望はその真の相をあらわす。絶望するものが何事かについて絶望したというのは、実は自分自身について絶望したのであって、そこで彼は自分自身から抜け出ようと欲しているのである。(中略)あるいは、もっと正確にいえば、彼にとって堪えられないことは、彼が自分自身から抜け出ることができないということなのである。」

ということになる。

「自己について絶望すること、絶望して自分自身から抜け出ようと欲すること、これがあらゆる絶望の公式である。」

確かに、

「もし彼が絶望して自己自身であろうと欲するのなら、彼は自己自身から抜け出ることを欲していないのではないか。確かに、一見そう見える。
しかし、もっとよく見てみると、結局、この矛盾は同じものであることがわかる。絶望者が絶望してあろうと欲する自己は、彼がそれである自己ではない(なぜなら、彼が真にそれである自己であろうと欲することは、もちろん絶望とは正反対だからである)。すなわち、彼は彼の自己を、それが設定した力から引き離そうと欲しているのである。しかしそれは、どれほど絶望したところで、彼にはできないことである。絶望がどれほど全力を尽くしても、あの力のほうが強いのであって、彼がそれであろうと欲しない自己であるように、彼に強いるのである。
 しかし、それにもかかわらず、彼はあくまでも自己自身から、彼がそれである自己から、脱け出して、彼が自分で見つけ出した自己であろうとする。彼が自分で見つけだした自己であろうとする。彼の欲するような自己であるということは、それがたとえ別の意味では同じように絶望していることであろうとも、彼の最大の喜びであろう。ところが、彼がそれであることを欲しないような自己であることを強いられるのは、彼の苦悩である、つまり、彼が自己自身から抜け出ることができないという苦悩なのである。」

しかし、僕には、キルケゴール上記のように否定する、自己の措定した自己を目ざすほかに、人が自分を実現する道はないと思う。キルケゴールが批判してやまないヘーゲル左派の、フォイエルバッハは、

「神的本質(存在者)とは人間の本質の個々の人間―すなわち現実的肉体的な人間―の制限から引き離されて対象化されたものである。いいかえれば神的本質(存在者)とは、人間の本質が個々人から区別されて他の独自の本質(存在者)として直観され尊敬されているのである。そのために神的本質(存在者)のすべての規定は人間の本質の規定である。」

と喝破し、神とは、

人間自身の対象化、

あるいは、もっと踏み込むと、

人間の願望の対象化、

といってもいい。とすれば、キルケゴールの立てた「神」の位置に、「なりたい自分」「あるべき自分」を立てても、結局、その実体は変わらないことになるのではないか。

あるいは、堂々巡りする自己意識の自己回転を、どういう第三者の目によって、例えば、カウンセラーなのか、コーチなのか、あるいは、親しい友なのか、による自己対話への介入を必要とするということがあるのかもしれない。しかし、自力で、それが不可能とは思えない。

「自己は自己自身を見ることによって自己自身より以上のものを自己自身に与えることはとうていできない」

にしても、それが、生きる上の、自己格闘なのではないか、別の錯覚、というか、別の幻想という神を設定したところで、

「自己は始めから終わりまでどこまでも自己なのであって、自己を二重化してみたところで、自己より以上にも以下にもなりはしない」

のだから。

参考文献;
キルケゴール(桝田啓三郎訳)『死にいたる病』(桝田啓三郎編『キルケゴール(世界の名著40)』)(中央公論社)
フォイエルバッハ(船山信一訳)『キリスト教の本質』(岩波文庫)

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2021年06月03日


「籠」は、

かご、

とも訓むが、

こ、

とも、また、

ろう、

とも訓ませる。これは「籠」の漢音である。いずれも、

かご(籠)、

の意の、

竹や籐(とう)・藺(い)・柳・針金などで編んだり、組んだりした器物、

の意がある。

「籠」.jpg

(「竹籠」 デジタル大辞泉より)

ただ、「こ」には、

伏籠・臥籠(ふせご)、

の意、つまり、

伏せておいてその上に衣服をかける籠。中に香炉を置いて香を衣服に移したり、火鉢などを入れて服を乾かしたり暖めたりするのに用いる。竹または金属でできているもの、

の意もある(精選版日本国語大辞典)。あるいは、

富士籠
とも、
匂懸(におひかけ)、

とも言う(広辞苑・仝上)。

伏籠.bmp

(「伏籠」 精選版日本国語大辞典より)

また、「ろう」は、「かご」の意で、

印籠、
蒸籠(せいろう)、
灯籠、
薬籠、

等々の他に、

籠絡、
牢籠、

というように、

中にこめる、とりこむ、

意と、

籠居、
籠城、
参籠、

というように、

中に閉じこもる、

意もある。ただ、この意で使うのは、わが国だけの使い方のようである(字源・漢字源)。

ここでは「こ」と訓む、

籠、

である。これは、

籠(こ)もよ み籠(こ)もち ふくしもよ みぶくし持ち この丘(をか)に 菜摘(なつ)ます児(こ) 家聞かな 名告(の)らさね そらみつ やまとの国は おしなべて 吾(われ)こそをれ しきなべて 吾(われ)こそませ 我こそは 告(の)らめ 家をも名をも(雄略天皇)

にある「こ」である。

「かご」の古形、

とされる。「こ」は、

コム(籠)の義、ケ(笥)に通じるか(大言海)、
ケ(笥)の転音(日本古語大辞典=松岡静雄)、

と、「笥」と関わらせる説がある。「け(笥)」は、

物を盛り、また入れる器、

の意で、特に、新撰字鏡(898~901頃)に、

箪 笥也、円曰箪方曰笥 太加介(タカケ=竹笥)、

とあるように(「簞」は、「簞食(タンシ)」というように、竹で編んだ丸い飯びつや「簞笥(タンス)」のように、はこの意)、

飯を盛る器、

で(精選版日本国語大辞典)、「け(笥)」は、

古形「瓮(カ)」の転、

とある(岩波古語辞典)。「か(瓮)」は、

甕、

とも当て、

平瓮(ひらか)、
斎甕(みか)、

のような複合語だけに見られる(仝上・大言海)。

か(ka 瓮)→け(ke 笥)→こ(ko 籠)、

と、

a→e、
e→o、

と母音交替した可能性はある。この三者の関係から考えると、

カゴ(籠)の義(名言通)、
カゴの上略(和句解)、

と「かご」とつなげる必要はなさそうな気がする。

「かご(籠)」は、

藍、

とも当て(岩波古語辞典・大言海)、

こ(籠)、

とも、

かたま(堅間)、
かため(堅目)、
かつま(かつみ)、

等々とも言う(仝上)が、

構籠(カキコ)の略か、壁(カベ)も、構隔(カキヘ)なるべし(大言海・日本語源広辞典)、
囲むの義(和語私臆鈔・和訓栞・言葉の根しらべの=鈴木潔子・国語の語根とその分類=大島正健・日本語源広辞典)、
カ(囲)+コ(込める)の変化(日本語源広辞典・日本釈名)、

等々、

竹で組んだ入れ物、
竹製の囲んだもの、
囲い込めるもの、

等々、入れ物を意識した語源か、

タカケ(竹笥)の転(言元梯)、
カタメ(堅目)の義(名言通)、

等々「竹」を意識した語源説があるが、「かご」は、

か(ka 瓮)→け(ke 笥)→こ(ko 籠)、

の変化の「か」と関わるとみていい。むしろ、

上代に〈こ〉と呼ばれていたことを考えれば、〈か〉の由来する言葉との合成語であることがわかる。すなわち〈か〉は竹の意とも堅の意ともいわれ、〈こ〉に形容的に冠している、

とする(世界大百科事典)ように、「かご」の「ご」は、

古形「こ」、

で、それに、「たけ」の「た」がついた、というのが妥当なのではあるまいか。鎌倉時代の『名語記』、

こころ流浪の行人のせなかに負たる籠をかこおひとなつけたり、

と、「かご」は「かこ」と清音であったのだから。

また、「タケ(竹)」http://ppnetwork.seesaa.net/article/461199145.htmlで触れたが、「たけ」には、

タは竹の意の朝鮮語(tai)からとする説、

もあり(日本語源大辞典)、「かご」や「こ」が「竹」と関わる以上、「竹」との関連は捨てがたい。もう一つ気になるのは、「竹」は、

篠竹以外、ほとんどが中国由来、

ということだ。「竹」とともに、「タケ」を示す言葉が入ってきたことを想定できるとすると、

中国音tikuがtake音韻変化した語(日本語源広辞典)、

もあり得る。その場合も「た」は「たけ」の「た」である。

「籠」 漢字.gif


「籠」(漢音ロウ、呉音ル)は、

会意兼形声。「竹+音符龍(ロウ 円筒状で長い)」。大蛇のような細長い竹かご、

とある(漢字源)。別の解釈に、

会意兼形声文字です(竹+龍)。「竹」の象形と「龍」の象形(「龍」の意味だが、ここでは、「つめこむ」の意味)から、「土を詰め込む竹かご(もっこ)」を意味する「籠」という漢字が成り立ちました、

という説もあるhttps://okjiten.jp/kanji1369.html

「籠」 成り立ち.gif

(「籠」 成り立ち https://okjiten.jp/kanji1369.htmlより)

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

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コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
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2021年06月04日

まさに


「まさに」は、

正に、
将に、
当に、

等々と当てる。

まさにその通り、

というように、

間違いなく、
確かに、

の意で使う(広辞苑)が、この場合、「ある事が確かな事実である」という意で、

見込み通りに(事が起こり行われて)、
とか、
(社会的に定められている通りに)当然のこととして、
とか、
期待通りに、
とか、

の「まさに」の意と、また、「実現・継続の時点を強調する」という意で、

ちょうど、
とか、
いまや、

という意の「まさに」の意とがあり(「将に」とも当てる)、「確かに」の意の「まさに」には、微妙な含意の幅がある(デジタル大辞泉・岩波古語辞典)。

「正」 漢字.gif

(「正」 https://kakijun.jp/page/sei200.htmlより)

さらに、漢文訓読から起こった用法として、

学生たる者正に学問に励むべきだ、

と、

まさに…べし、

などの形で、

当然あることをしなければならないさま、ぜひとも、

の意でも使い(「当に」とも当てる)、また、

飛行機が正に飛び立とうとしている、

と、

まさに…せんとする、

という形で、

ある事が実現しそうだという気持ちを表す、

意でも使う(「将に」とも当てる)し、反語的に、

いまの翁まさに死なむや(伊勢物語)、

と、

どうして…しようか、

というように、

思い通りにはならない、

意を表す(仝上)。なお、

漢文で予想を表す辞の「将」の訓としても用い、予想通りにの意。また漢文で「当」「合」「応」などの辞も「マサニ」と訓む。これらの漢文は、本来、二つの物や事がぴたり一致する意を含む点で「まさに」にあたる。「方」はきっちり、ちょうどの意でマサニと訓む。「まさに……すべし」とだけ呼応するのは後世の訓読で、平安初期には、「まさに……む」とか、命令形、時には過去形と呼応した例もある、

とある(岩波古語辞典)。

この「まさに」は、

マサ(正・当)の副詞形、

であり、

見込み・予定・期待通りにの意、転じて、ちょうど、ぴたりと、

の意である(岩波古語辞典)。つまり、

思いと現実が重なる、

のが、「まさに」の意で、「まさ」は、

正、
当、
雅、
昌、

等々と当てる(岩波古語辞典・日本語源広辞典)。「まさ」は、

マはメ(目)の古形、サは方向の意で、タタサ(縦)、ヨコサ(横)のサに同じ。目の向く方向の様子の意。転じて、見込み・予想・予定の意。類義語タダ(直)は、直接的、一直線的で、曲折の無い意、

とあり(岩波古語辞典)、

予想にぴたり一致し、的中した事態が実現するさま、また、当然の期待に合致するさま、

とあり(仝上)、

柾、

と当てると、

正目、

つまり、

木目の真っ直ぐなるものを指す(仝上)。

「正」 甲骨文字・殷.png

(「正」 甲骨文字・殷 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%AD%A3より)

当てた主な漢字を見ておくと、「正」(漢音セイ、呉音ショウ)は、

会意。「―+止(足)」で、足が目標の線めがけてまっすぐに進むさまを示す。征(まっすぐに進)の原字、

とある(漢字源)。別に、

会意文字です(囗+止)。「国や村」の象形と「立ち止まる足」の象形から、国にまっすぐ進撃する意味します(「征」の原字)。それが転じて(派生して・新しい意味が分かれ出て)、「ただしい・まっすぐ」を意味する「正」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji184.html

「正」 漢字 成り立ち.gif

(「正」 成り立ち https://okjiten.jp/kanji184.htmlより)

「正」は、まさしくと訳す、正面の義、偏の反なり、花正開といへば、花が十分の見頃になりたるなり、

とある(字源)。「正」は、時機のぴたり合う、という意のようである。

「将(將)」(漢音ショウ、呉音ソウ)は、

会意兼形声。爿(ショウ)は、長い台を縦に描いた字で、長い意を含む。將は「肉+寸(手)+音符爿」。もといちばん長い指(中指)を将指といった。転じて、手で物をもつ、長となって率いるなどの意味を派生する。またもつ意から、何かでもって処置すること、これから何かの動作をしようとする意などをあらわす動詞となった。将と同じく「まさに……せんとす」と訓読することばに、且(ショ)がある、

とある(漢字源)。別に、

会意兼形声文字です(爿+月(肉)+寸)。「長い調理台」の象形と「肉」の象形と「右手の手首に親指をあて脈をはかる」象形から、肉を調理して神にささげる人を意味し、そこから、「統率者」、「ささげる」を意味する「将」という漢字が成り立ちました、

とあるhttps://okjiten.jp/kanji1013.html

「将」 漢字.gif

(「将」 https://kakijun.jp/page/1049200.htmlより)

「且」も、確かに、

且為所虜(且に虜にせられんとす)

と使われ(史記)、「まさに……せんとす」と訓ますが、接続詞「かつ」の意で見ることが多い。「且」(漢呉音シャ、漢音シャ、呉音ソ)は、

象形。物を積み重ねたかたちを描いたもので、物を積み重ねること。転じて、かさねての意の接続詞となる。また、物の上に仮にちょっとのせたものの意から、とりあえず、間に合わせの意にも転じた、

とある(漢字源)。

「将」 成り立ち.gif

(「将」 成り立ち https://okjiten.jp/kanji1013.htmlより)

「将」は、既の反なり、欲然也と註す、まさに何々せんとすとかへり訓む、

とあり(字源)、論語に、

子曰、孟之反不伐、奔而殿、将入門、策其馬曰、非敢後也、馬不進也、

子曰く、孟之反(もうしはん)、伐(ほこ)らず。奔(はし)って殿(でん)たり。将(まさ)に門に入らんとす。
其の馬に策(むちう)って曰う、敢(あえ)て後れたるに非ず、馬進まざるなり。

とある。

「當」 漢字.gif



「当(當)」(トウ)は、

形声。當は「田+音符尚(ショウ)」。尚は、窓から空気の立ち上るさまで、上と同系。ここでは単なる音符にすぎない。當は、田畑の売買や替地をする際、それに相当する他の地の面積をぴたりと引き当て、取引をすること。また、該当する(枠組みがぴたり当てはまる)意から、当然そうなるはずであるという気持ちをあらわすことばとなった、

とある(漢字源)。別に、

「當」 簡帛文字.png

(「當」 簡帛文字・戦国時代 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%95%B6より)

会意兼形声文字です(尙+田)。「神の気配」の象形と「家の象形と口の象形」(「屋内で祈る」の意味)と「区画された耕地」の象形(「田畑」の意味)から、田畑に実りを願って事に「あたる」を意味する「当」という漢字が成り立ちました、

との解釈もあるhttps://okjiten.jp/kanji238.html

「當」 成り立ち.gif

(「當」成り立ち https://okjiten.jp/kanji238.htmlより)

「方」(ホウ)は、

象形。左右に柄の張り出した鋤をえがいたもので、⇆のように左右に直線状に延びる意を含み、東⇔西、南⇔北のような方向の意となる。また、方向や筋道のことから、方法の意が生じた、

とある(漢字源)。別に、

「方」 漢字.gif

(「方」 https://kakijun.jp/page/0458200.htmlより)

象形文字です。「両方に突き出た柄のある農具:すきの象形」で人と並んで耕す事から「ならぶ」、「かたわら」を意味する「方」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji379.html

「方」 甲骨文字 (2).png

(「方」 甲骨文字・殷 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%96%B9より)

「方」は、方位の方にて、その方に向ふ義。まさかりと訳す。花方開といへば、花がいまをさかりと咲けるなり、又方今と熟し、さしあたってと訳す、

とある(字源)。左伝に、

水潦(すいろう)方隆、疾瘧(しつぎゃく)方起、

とある(仝上)。

「方」 成り立ち.gif

(「方」 成り立ち https://okjiten.jp/kanji379.htmlより)

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
簡野道明『字源』(角川書店)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

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2021年06月05日

をざす


「を(お)ざす」は、

建す

と当てる。

北斗七星の斗柄が、十二支のいずれかの方角を指す。陰暦の正月は寅の方角を指し、二月は卯を指し、順次一年間に十二支の方角を指す、

とある(広辞苑)。この順で、

三月は、辰、
四月は、巳、
五月は、午、
六月は、未、
七月は、申、
八月は、酉、
九月は、戌、
十月は、亥、
十一月は、子、
十二月は、丑、

を指す。

「斗柄」は、

とへい、

と訓むが、

けんさき、

とも訓まし(大言海)、

北斗七星のひしゃくの柄の部分、

をいい、

大熊座のイプシロン・ゼータ・エータの三星、

を指し、古代から、

これのさす方向で時刻や季節を判別した、

とある(精選版日本国語大辞典)。別に、

斗杓(とひょう)、
斗杓(としゃく)、

ともいう(仝上)。

「をざす」は、

尾指すの意、

である(和訓栞・広辞苑・岩波古語辞典・大言海)。これは、

漢字「建」に、

北斗七星の柄が、ある方向を指す、

という意味があり、

建寅(月)(ケンイン 夕方、星が見え始める時刻に寅の方向を指す=正月)、
建卯(月)(ケンポウ 同上、卯の方向を指す=二月)、
建辰(月)(ムンシン 三月)、
建巳(月)(ケンシン 四月)、
建午(月)(ケンゴ 五月)、
建未(月)(ケクビ 六月)、
建申(月)(ケンシン 七月)、
建酉(月)(ケンユウ 八月)、
建戌(月)(ケンジュツ 九月)、
建亥(月)(ケンガイ 十月)、
建子(月)(ケンシ 十一月)、
建丑(月)(ケンチュウ 十二月)、

という意味があることから、「建」を当てた、というか、「建」を「をざす」と訓ませた、とみられる。わが国では、たとえば、

建寅月、

を、

寅にをざす月、

というように訓ませた(広瀬秀雄『暦(日本史小百科)』)。

これを、

十二月建(げっけん)、

といい、

閏月(うるうづき)は二四節気の節による、

とある(精選版日本国語大辞典)のは、陰暦では、1年につき約11日ズレるため、それを解消するため、

二十四節気との関連で、2年ないし3年に1度ずつ閏月をおいて補正する、

ことを指している(仝上)。

戦国時代の『鶡冠子(かつかんし)』に、

斗柄指東、而天下知春、

とあるらしいが、江戸中期の『和漢三才図絵』に、

北斗……、劔峰時々替、以可知時刻及月建、以毎昏時、劔峰所指方、知月建即気令所旺也、如正月黄昏則指寅、二月昏則指油卯(正月為寅月、二月為卯月)、謂之月建、

とある。

太陽暦では一月一日から一年が始まるが、中国で始まった太陽陰暦(月の満ち欠けをもとにした太陰暦を基とするが、太陽の動きも参考にして閏月を入れ、月日を定める暦(暦法))は、農耕用であったので、二十四節気の立春を年初とする説がある。しかし、正月という月名は、正月中(雨水)で定まるが(雨水(うすい)は、二十四節気の第二。正月中(通常旧暦1月内)。冬至→小寒→大寒→立春→雨水→啓蟄→春分と続く)、立春は正月の中に在るとは限らない。しかし、理想的には、春は立春より始まるとして、

正月、二月、三月を春、
四月、五月、六月を夏、
七月、八月、九月を秋、
十月、十一月、十二月を冬、

と区分し、それぞれの季節に、

孟、
仲、
季、

を冠して、

孟春(正月)、
仲春(二月)、
季春(三月)、

と呼んできた(広瀬秀雄・前掲書)。漢の武帝の時代から、

雨水を含む月の第一日(朔)から暦年を数え始めるのが定着した、

とある(仝上)。以降二千年採用されてきたが、『史記』によると、それ以前、

夏正は正月をもってし、殷では十二月を以てし、周正は十一月を以てす、

とあり、夏は、

寅の月(一月)を正月とし、これを人正(じんせい)、

といい、殷では、

丑の年(十二月)を正月とし、これを地正、

といい、周では、

子の年(十一月)を正月とし、天正、

と、正月が分れていた(内田正男『暦と日本人』)。つまり、

冬至を含む月(十一月 冬至月)、
大寒含むその翌月(十二月 大寒月)、
雨水を含むその翌月(一月 雨水月)、

は、年初月になる資格がある、のだという(仝上)。この正月の三つの定め方を、

三正、

というらしい(仝上)が、これは、

夏の時代に北斗の尾は建寅月(雨水月)の夕刻には、垂直になって真北(子の方向)を指していたが、周の初期には、それが冬至の頃の夕刻になっていた、

という。つまり、

夕刻に、北斗の尾が垂直になる季節(月)が変わる、

「歳差」が生じていたためらしい(広瀬秀雄・前掲書)。わが国に入ってきたのは、

夏の正月、

つまり、

雨水月、

を正月としたもので、

建寅月、

という呼び方も、そのまま受け入れた(仝上)。

北斗七星.jpg


さて、「建」(漢音ケン、呉音コン)は、

会意。聿(イツ)は、筆の原字。筆を手で持つさまを表す。のち、筆の意の場合は、竹しるしを添えて筆と書き、聿は、これ、ここなりなど、リズムを整える助詞を表すのに転用された。ここでは、筆をまっすぐ手で立てたさま。建は「聿(ふで)+廴(進む)」で、体を真っ直ぐ立てて堂々と歩くこと、

とある(漢字源)。別に、

会意。廷(てい)(廴は省略形。朝廷)と、聿(いつ)(筆の原字。法律)とから成り、法律を定めて国を治める、転じて「たてる」意を表す、

という解釈(角川新字源)もあるし、

「建」 漢字.gif

(「建」 https://kakijun.jp/page/0956200.htmlより)

会意文字です(廴+聿)。「十字路の左半分を取り出し、それを延ばした」象形(「のびる」の意味)と「手で筆記用具を持つ」象形(「ふで」の意味)から、のびやかに立つ筆を意味し、それが転じて(派生して・新しい意味が分かれ出て)、「たつ・たてる」を意味する「建」という漢字が成り立ちました、

という解釈もあるhttps://okjiten.jp/kanji569.html

「建」は、

立てると、始むるとの意を兼ね、建国とは、国家を開き始むる義、易経に、

天造草昧、利建侯、

とある(字源)ので、「立つ」意からの解釈と、「始める」意からの解釈が並立することになるらしい。

「建」 成り立ち.gif

(「建」 成り立ち https://okjiten.jp/kanji569.htmlより)

参考文献;
内田正男『暦と日本人』(雄山閣)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
広瀬秀雄『暦(日本史小百科)』(近藤出版社)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
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2021年06月06日

笑笑


「笑笑」は、某内閣参与氏が、少し前、

「日本はこの程度の『さざ波』。これで五輪中止とかいうと笑笑」

とツイートし、物議をかもしたが、「笑笑」は、昨今、

わらわら、

と訓ますらしいが、本来は、

ゑみゑみ、

と訓ませる(岩波古語辞典・広辞苑・大言海)。

にっこりと、

といった、

笑みを含んださま、

に言う。

光の中に、年よりたる姥(うば)の、ゑみゑみとしたる形を現はして見えけり(古今著聞集)、

と、副詞として使うが、動詞として、

声たかくゑわらひなどもせで、いとよし(枕草子)、

と、

ほほえみ笑う、

意で、

笑笑(ゑわら)ふ、

とも使う。さらに、「笑笑」は、

声たかくゑわらひなどもせで、いとよし(枕草子)、

とあるように、

ゑわらひ、

とも訓ます(精選版日本国語大辞典)。これは、

つつましげならず、ものいひ、ゑわらふ(枕草子)、

と使われる、

動詞「えわらふ(笑笑)」の連用形の名詞化、

である(仝上)。「つつましげならず」とあるのは、この場合の「ゑわらふ」が、

ほほえみ笑う、

意ではなく、

声に出して笑う、

意だからである。

「ゑむ」は、「えむ」http://ppnetwork.seesaa.net/article/449771882.html))で触れたように、「わらう」が、

割れ、破れ、散る、

という眼前の表情変化から来た言葉であったhttp://ppnetwork.seesaa.net/article/449655852.html?1494102077と同様、「えむ」にも、

にこにこする、ほほえむ、

の意の他に、

蕾がほころびる、

さらには、

栗のイガが割れる、果実が熟して自然に割れる、

という意もある(広辞苑)。これは、「ゑむ」に当てた「笑」(ショウ)の字が、

会意。夭(ヨウ)は、細くしなやかな人。笑は「竹+夭(ほそい)」で、もと細い竹のこと。正字は「口+音符笑」の会意兼形声文字で、口を細くすぼめて、ほほとわらうこと。それを誤って咲(わらう→さく)と書き、また略して笑を用いる(漢字源)、

という経緯が関係しているのかもしれない。「咲」(ショウ)の字は、

「口+音符笑」が、変形した俗字。日本では、「鳥なき花笑う」という慣用句から、花がさく意に転用された。「わらう」意には笑の字を用い、この字(咲)を用いない(仝上)、

とある。

「笑」 漢字.gif


ただ大言海は、「ゑむ」に、二項立て、

笑む、
咲む、

と当てて、

口を開かんとする義。ゑらぐ(歓喜)に通ず、

とする、

心に愛ずることありて、顔にあらはれて、にこやかになる、笑ひをふくむ、ほほえむ(声を発せず)、

意と、

花咲き、蕾ほころぶ、

意を載せ、別に、

罅む、

と当て、

(笑むの義)裂け開く(栗毬(いが)など)、

の意とする。因みに、「ゑらぐ」は、

歓喜、

と当て、

笑む義、

とし、

いかんぞと天鈿目命かくゑらぐやとおぼして(神皇正統記)、
歓喜盈(えらぎます)懐、更欲貢人(雄略紀)

と、

笑み楽しむ、

意とする(大言海)。

どうやら、「えむ」も、「わらう」と同じく、表情の変化から来ているらしいことは推測がつくが、

口が開きはじめる、さける(日本語源広辞典)

では「えむ」の謂れの説明になっていない。といって、

ヱを発音するときは、口角が上がり、笑うときに似ているところから(国語溯原)、
口を開こうとする義、ヱラグの略(大言海)、
エエと、咲い出しそうな様子が顔に見える義デ、エミ(咲見)から(言元梯)、
ヱ(笑)が語根デ、ムは含むの略(類聚名物考・日本語原学)、
エミ(得見)か。自分の得たいものを得て見る時、喜びの表情が現れるから(和句解)、

等々の語源説も、どうも明快ではない。敢えて言うなら、語呂合わせではない、

ヱラグの略、

とする『大言海』の転訛説をとりたいhttp://ppnetwork.seesaa.net/article/449771882.html

「笑」の成り立ちとしては、

象形文字です。「髪を長くした若いみこの象形」から「わらう」を意味する「笑」という漢字が成り立ちました、

とする解釈もあるhttps://okjiten.jp/kanji383.html

「笑」 成り立ち.gif

(「笑」 成り立ちhttps://okjiten.jp/kanji383.htmlより)


参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
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2021年06月07日

そばだつ


「そばだつ」は、

峙つ、
聳つ、
喬立つ、
側つ、
屹つ、

等々と当てる(広辞苑・岩波古語辞典・大言海等)。古くは、

そばたつ、

と言った(仝上)。

たかくそびえる、

という意味だが、

かどが立つ、

という意もある。「そば」http://ppnetwork.seesaa.net/article/437123006.htmlは、古名は、「そばむぎ」で、その略とされる。語源は、

そば(稜・カド)、

で、

とがったカド(稜角)がある三角形の実の穀物、

が語源とされる。ただ「そばだつ」には、

攲つ、

と当てるものがあり、

斜めにたてる、

そびえたたせる、

意とあり、ともに、古くは、

そばたつ、

と言っていたようで、平安末期の『色葉字類抄』に、

欹 ソハタツ、

とあり、『名義抄』の鎌倉中期写しの『高山寺本名義抄』にも、

側 ソバタツ、

と清音形で挙げており、室町末期の『日葡辞書』では、

「Sobatatatsu」「Sobatatatsuru」に、それぞれ「Sobadatatsu」「Sobadatatsuru」としている、

ことから、

室町時代末期には、ソバダツ、ソバタツ両形、

があり、それ以前はソバタツと清音であった(岩波古語辞典)。両者は、

峙つ、
聳つ、
喬立つ、
側つ、
屹つ、

が、四段活用なのに対して、

攲つ、

は、下二段活用と、異なり、後者は、前者の

他動詞形、

とあり(大言海)、本来は、同じであった可能性がある。口語形は、

そばだてる、

になるが、

攲てる、

と当て、

そびえたたせる、

意の他に、

一方の端を高くする、

意があり、その派生で、

耳をそばだてる、
とか、
枕をそばだてる、

と、

注意力をそのほうへ集中させる、
とか、
聞き耳をたてる、

意も使う(デジタル大辞泉)。口語形では、

峙つ、
聳つ、
喬立つ、
側つ、
屹つ、

攲つ、

の区別は消え、

攲てる、

と当てている(広辞苑・デジタル大辞泉)。

「そばだつ」の語源は、

稜(そば)立つ、

から由来していることから考えても、普通は、

稜立つの義(大言海・名言通・日本語源=賀茂百樹)、

だが、

ソビエタツ(聳立)、ソバミタツの意(和訓栞)、

もあり得る。それは、「そば」は、

稜、
傍、
側、

等々と当て、

ソハ(岨)と同根、

とあり、「そは」は、

山の切り立った斜面、

を意味し、そのため「そば」は、

原義は斜面の義、また、鋭角をなしているかど、斜めの方向の意。日本人は水平または垂直を好み、斜めは好まなかったので、斜めの位置、尖ったかどの場所の意はやがて、はずれ・すみっこの意に転じ、さらに、すこしばかりのものなどを指すようになった。またはずれ所の意から、物の脇・物の近くの意を生じた。ソバ(蕎麦)、そびゆ(聳)も同根、

とあるからである(岩波古語辞典)。

攲  漢字.gif


当てている「攲」(イ)は、

形声。「欠(からだを屈める)+音符奇」、

とあり(漢字源)、「かたむく」「そばだつ」意で、「攲攲」で、物のそばだつ貌の意、とある(字源)。

「峙」 漢字.gif


「峙」(漢音チ、呉音ジ)は、

形声。「山+音符寺(ジ)」。「峙立というように、山が「そびえる」「そばだつ」こと(漢字源)。

「聳」 漢字.gif


「聳」(漢音ショウ、呉音シュ・シュウ)は、

会意兼形声。從(ショウ・ジュウ)は、縦に細長いこと。聳は、「耳+音符從」で、頭にくっついた耳たぶをたてに細長くたてること、

とあり(漢字源)、「聳立(ショウリツ)」と、そばだてる意だが、「聳懼(ショウク)」と、棒立ちになる意もある。「聳耳」というように、耳を聳つの意でも使う。

「喬」 漢字.gif

(「喬」 https://kakijun.jp/page/1217200.htmlより)

「喬」(漢音キョウ、呉音ギョウ)は、

会意兼形声。喬は、高の字の上に、先端の曲がったしるしを加えた字で、上部が曲線をなしていること。また「夭(ヨウ 曲がる)+音符高」の会意兼形声文字とかんがえてもよい。高と同系だが、喬は先端がしなっている意を含む、

とあり(漢字源)、「喬木」というように、「高い」という意だが、そびえる意は薄い。

「側」 漢字.gif

(「側」 https://kakijun.jp/page/1106200.htmlより)

「側」(漢音ソク、呉音シキ)は、

会意兼形声。則は「鼎の略形+刀」の会意文字で、食器の鼎のそばに食事用のナイフをくっつけたたま。則が接続詞や法則(ひっついてはなれない掟)の意に転用されたため、側の字がその原義をあらわすようになった。側は「人+音符則」で、そばにくっつければ一方にかたよることから、そば、かたよるの意をあらわす、

とあり(漢字源)、「側目」というように、目を側(そば)むの意や、「盾を側だてて」というように、「立てて起こす」意がある。

「屹」 漢字.gif


「屹」(慣用キツ、漢音ギツ、呉音ゴチ)は、

会意兼形声。乞(キツ)は、下からむくっとおきてきたものが、上につかえて曲がるさまを描いた象形文字。屹は「
山+音符乞」で、山が空につかえるほど高くそそりたつさま、

とある(漢字源)。「屹立」というように、山がそばだつ意。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
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2021年06月08日

そびえる


「そびえる」は、

聳える、

と当てる。文語は、

聳ゆ、

である。

山などが高くたつ、

つまり、

そそり立つ、

意であるが、それの派生で、

身の丈がすらりとしている、

意でも使う。

「そびゆ」の「ソビ」は、

ソバ(稜)と同根、

とある(岩波古語辞典)。「そばだつ」http://ppnetwork.seesaa.net/article/481874947.html?1623004913で触れたように、「そば」は、

稜、
傍、
側、

等々と当て、

ソハ(岨)と同根、

とあり、「そは」は、

山の切り立った斜面、

を意味し、そのため「そば」は、

原義は斜面の義、また、鋭角をなしているかど、斜めの方向の意。日本人は水平または垂直を好み、斜めは好まなかったので、斜めの位置、尖ったかどの場所の意はやがて、はずれ・すみっこの意に転じ、さらに、すこしばかりのものなどを指すようになった。またはずれ所の意から、物の脇・物の近くの意を生じた。ソバ(蕎麦)、そびゆ(聳)も同根、

とある(仝上)。「そび」を使う言葉には、「聳える」意の、

そび(聳)く、

という動詞があるが、平安末期の『名義抄』には、

聳、ソビク・タナビク、

とあり、

黒くも空にそびきて(今昔物語)、

と、

雲などがたなびく、

意でも使った(仝上)。

その他に、「聳える状に云ふ」

そび(聳)け、

がある。平安後期の『字鏡』に、

聳、曾比介、

と載る(大言海)。また、

肩をそびやかす、

という「そび(聳)やかす」は、

聳えるようにする、

という意だが(広辞苑・大言海)、

背たけなどがすらりと伸びている、

という意の、

そび(聳)やく、

の他動詞形と思われる(岩波古語辞典)。

それを副詞的に使う、

そび(聳)やかに、

という、

聳え、のびやかなる状、

に使う言葉もある(大言海)。

こうみると、「そびえる」は、

「そびく」、「そびやか」と同根(角川古語大辞典)、

とともに、

ソバ(稜)と同根、

と、

そばだつ、

とも、

そば(蕎麦)、

ともつながる。

「聳」 漢字②.gif


「聳」(漢音ショウ、呉音シュ・シュウ)は、

会意兼形声。從(ショウ・ジュウ)は、縦に細長いこと。聳は、「耳+音符從」で、頭にくっついた耳たぶをたてに細長くたてること、

とあり(漢字源)、「聳立(ショウリツ)」と、そばだてる意だが、「聳耳」というように、耳を聳つの意でも使うのが、おもしろい。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

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ラベル:そびえる 聳える
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2021年06月09日

惠方


「惠方」は、

吉方(えほう)、

の当て字とある(大言海)。別に、

兄方、

とも当てる(デジタル大辞泉)。古くは、

正月の神の来臨する方角、

とされた(広辞苑)が、後に、暦法が中国より伝わり、

その年の歳徳神(としとくじん)のいる方角、

とされるようになる。暦は、『日本書紀』に、欽明天皇十四年(553)、

百済に対し暦博士の来朝を要請し、翌年2月に来た、

との記事があり、遅くとも6世紀には中国暦が伝来していたと考えられる。この頃の百済で施行されていた暦法は元嘉暦であるので、このときに伝来した暦も元嘉暦ではないかと推測される、

とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9A%A6・広瀬秀雄『暦(日本史小百科)』)。「歳徳神」は、

とんどさん、

とも言うが、

恵方神、
正月様、
神徳、
歳神、

等々とも呼ぶ。

歳徳神.png

(歳徳神(『安部晴明簠簋内傳圖解』) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%B3%E5%BE%B3%E7%A5%9Eより)

恵方の方角にいる神、

で、

陰陽道(おんようどう)でその年の福徳をつかさどるとされる。年により恵方の方角は変わる。なお節分では、恵方の方角に向かって恵方巻を食べる習わしがある、

とある(実用日本語表現辞典・デジタル大辞泉)。江戸中期の『鹽尻』に、

歳徳の方、俗にゑ方と云、吉方とかく事、伊勢守の記、寛正六年八月、今出川殿夫人産の所に見えたり、吉をゑとよむ事、住吉をすみのゑと讀むに同じ、

とある(大言海)。「歳徳神」は、

(安倍晴明編纂の)簠簋内伝(ほきないでん)云、歳徳とは頗梨賽女(はりさいじょ)にして、八将神の母龍王の妻なりと、

とある(諸国図会年中行事大成)。「八将神(はっしょうじん)」とは、

陰陽道で、さまざまな吉凶の方位をつかさどるという八神、

太歳(たいさい)、
大将軍、
太陰(たいおん)、
歳刑(さいけい)、
歳破(さいは)、
歳殺(さいさつ)、
黄幡(おうばん)、
豹尾(ひょうび)、

を指し、方位の吉凶をつかさどる、とされる。江戸時代の儒者・中井竹山は、松平定信の諮問に応えて、

「八将軍など、いつの時よりいいだせることにや。暦法にかつて預かるものなし。多分道士の方の名目にてあらんか。一向無精の妄誕(ぼうたん)なり」

と一蹴している(内田正男『暦と日本人』)。

歳徳神の所在方位、すなわち来る方位を、

明きの方(かた)、

という。これが、

惠方、

であるが、その方角は、その年の干支で、次のように、

甲(きのゑ)と己(つちのと)の年は、甲の方の寅卯(東)の閒(東北東)、
乙(きのと)庚(かのえ)の年は、庚の方申酉(西)の閒(西南西)、
丙(ひのえ)戊(つちのえ)辛(かのと)癸(みずのと)の年は、丙の方巳午(南)の閒(南南東)、
丁(ひのと)壬(みずのえ)の年は、壬の方亥子(北)の閒(北北西)、

と決まる(大言海・内田・前掲書)。因みに、今年(2021)は、

辛丑(かのとうし)、

なので、惠方は、南南東ということになる。

惠方の方位.png


兄弟(えと)の兄方なるにより吉方など云ひ、又恵なる意に寄せて。惠方などとも書く、

とある(大言海)。これは干支(えと/かんし)を、

甲(こう) 木の兄(きのえ)、
乙(おつ) 木の弟(きのと)、
丙(へい) 火の兄(ひのえ)、
丁(てい) 火の弟(ひのと)、
戊(ぼ) 土の兄(つちのえ)、
己(き) 土の弟(つちのと)、
庚(こう) 金の兄(かのえ)、
辛(しん) 金の弟(かのと)、
壬(じん) 水の兄(みずのえ)、
癸(き) 水の弟(みずのと)、

と呼ぶ際の、

甲(きのえ)の方、
庚(かのえ)の方、
丙(ひのえ)の方、
壬(みずのえ)の方、

と兄の方の意を指す(内田・前掲書)。因みに、この干支と十二支、

子(シ) ね 北 23~1時、
丑(チュウ) うし 1~3時、
寅(イン) とら 3~5時、
卯(ボウ) う 東 5~7時、
辰(シン) たつ 7~9時、
巳(シ) み 9~11時、
午(ゴ) うま 南 11~13時、
未(ビ) ひつじ 13~15時、
申(シン) さる 15~17時、
酉(ユウ) とり 西 17~19時、
戌(ジュウ) いぬ 19~21時、
亥(ガイ) い 21~23時、

を順次結びつけ、

甲子(きのえね)、

乙丑(きのとうし)、

から、

壬戌(みずのえいぬ)

癸亥(みずのとい)、

まで、六十の組み合わせができる(干支一循60年を一元という)。

ところで、「恵方巻」を食べる「節分」は、

各季節の始まりの日(立春・立夏・立秋・立冬)の前日、

を指すが、

江戸時代以降は特に立春(毎年2月4日ごろ)の前日、

を指す場合が多いhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AF%80%E5%88%86とある。天文学的にいうと、

太陽がその軌道上で南半球から北半球に入る時で、その時刻は東京天文台で計算される、

が、

二十四節気の時刻は四年ごとにほぼ近い値をとる。くわしく言えば四年前より45分くらい早くなるだけである。したがって四年前の時刻から45分引いた値が、夜半の0時、つまり日の境界近くにならない限り月日は簡単に決まる、

とある((内田・前掲書)。)

参考文献;
広瀬秀雄『暦(日本史小百科)』(近藤出版社)
内田正男『暦と日本人』(雄山閣)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

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2021年06月10日

マンガ史


澤村修治『日本マンガ全史~「鳥獣戯画」から「鬼滅の刃」まで』を読む。

日本マンガ全史.jpg


出版業界に携わった著者の、ある意味、日本における、

漫画の歴史、

であると同時に、漫画に関わる、

出版業界史、

の側面もある。著者が、本書執筆に当たっては、

「著者の個人的関心はなるべく控え、俯瞰的な叙述者に徹すべく努めた」

とある(あとがき)。にしても、新書版としては大部の500頁近い大作である。

見ものは、個人的関心と重なるが、『サンデー』『マガジン』という二大週刊誌が競い合っていた、60年代後半だ。ちょうど大学生の時期で、「おそ松くん」のギャグと、社会派「忍者武芸帖」、シュールな「ねじ式」を、ほぼ同時代に見ていた。

マンガ誌編集者にとっては、「ジャリマン」と卑下した時代、悪書としてやり玉に挙がっていた時代だが、その中で、後世、トキワ荘グループと言われた、手塚治虫の影響下の、寺田ヒロオ、赤塚不二夫、藤子不二雄、石森章太郎等々が活躍をし始めたころだ。60年代末に、

石子順造の『マンガ芸術論』(1967年)、

という、漫画を(たぶん初めて)芸術として論評した本が出たが、その中で、石森章太郎の『サイボーグ009』が完結を迎え(この後、再開されたが)、手塚治虫の『鉄腕アトム』が最終回を迎えたのを受けて、それぞれのラストを、

009は流れ星になり、鉄腕アトムは太陽に向かって飛んで行った、

という(ような)名文句で評したのをよく覚えている。

マンガ芸術論 (2).jpg

(石子順造『マンガ芸術論―現代日本人のセンスとユーモアの功罪』(1967年))

本書は、マンガ史全体を俯瞰する意図から、12~13世紀の、

鳥獣戯画、
信貴山縁起、

から、

鳥羽絵、
北斎漫画、

を経て、維新・明治期の

ポンチ絵、

から、大正期の、

岡本一平、

までが、前史になる。この頃から、

コマ割り、

四コマ漫画、

と、今日の新聞漫画へ続く道が開け、

のらくろ、

の田河水泡という山脈へと至る。「サザエさん」の長谷川町子は、田河の弟子だし、手塚治虫は、「のらくろ」を模写して技術を磨き、藤子不二雄にも強い影響を与えた。そして、

「戦争が終わると、日本の出版界は一気呵成に復興した」

という。その中で、田河の弟子、

杉浦茂(『猿飛佐助』)、

をはじめ、

山川惣治(『少年王者』)、
福井英一(『イガグリくん』)、

に続いて、

手塚治虫(『新宝島』『ジャングル大帝』)、

に引っ張られるように、

トキワ荘グループが、続々登場してくる、という流れから、戦後の漫画ブームが拡大していくのだが、この辺りは、現場の、二代漫画週刊誌、

サンデー、

マガジン、

との競争の、出版業界の内幕もののようにスリリングで面白い。いまは、メディアミックスから、他の分野と同じように、ネットの中から自らを売り出す時代へと転換しつつあり、所謂、

編集者、

とか、

プロデュース、

ということとは別のところから、新星が登場する時代のようで、その辺りはちょっと驚かされる。著者は、

「マンガは庶民の願望・欲望を反映したメディアだといわれる。主人公の微笑みはどこまでもやさしく、甘き夢を読者に見させてくれる。格好良さはストレートに表現される一方、意表を突くデフォルメが繰り返される。これらを表現するマンガ制作の現場では、美へ、醜悪へ向かって飽くなき闘争がなされてきたし、いまもなされている。人の心をうがち社会の裸身に迫るセンスに至る作品も珍しくない。庶民のなかから生まれた放恣な表現法でありながら、人間の真理をわしづかみにする迫力において、マンガは他の芸術ジャンルと比肩でき、ときに凌駕している」

と称える。いま、

クールジャパン、

の中核とされた「漫画」だが、既に1990年代、

「マンガは伸長のピークアウトを迎えていた」、

とある。それでも、

「長期にわたりアクチュアリティを失わずにいた」、

その精気充満は、これからも期待できると、著者は言う。独自の、

マンガ文化、

の帰趨は、ある意味日本のエネルギーの帰趨を占う指標のようにも見える。

参考文献;
澤村修治『日本マンガ全史~「鳥獣戯画」から「鬼滅の刃」まで』(平凡社新書)
石子順造『マンガ芸術論―現代日本人のセンスとユーモアの功罪』(富士新書)

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2021年06月11日

暦注


内田正男『暦と日本人』読む。

暦と日本人.jpg


本書は、

暦注批判、

と、和製の、

暦法づくり、

をめぐる余話だが、「はじめに」で、

「本書が暦と日本人の生活を主題とする以上、暦注にかなりの頁を割くのは当然であろう。もちろん私は、暦注に関連する迷信は積極的に否定する立場を取り、懸命なお知り合いから、日の吉凶などをいう人が一人でも減ることを期待しながら執筆した」

とあるように、暦注に関しては、なかなか手厳しい。

「暦注」とは、

古暦の日付の下に付した注記、

つまり、

日時、方角の吉凶禍福に関する事項、

のことで、

暦本に記される事項、天象、七曜(木・火・土・金・水の五惑星と太陽と月)、干支、朔望、潮汐、二十四節気、

といった科学的・天文学的な事項や年中行事のほか、注記は二段に分かれ、

中段、

は、

北斗七星の星の動きを吉凶判断に用いた十二直(建・除・満・平・定・執・破・危・成・納・開・閉)、

下段は、

選日(十干十二支の組合せによってその日の吉凶を占う)・二十八宿(月・太陽・春分点・冬至点などの位置を示すために黄道付近の星座を二八個定め、これを宿と呼んだもの)・九星(一白・二黒・三碧・四緑・五黄・六白・七赤・八白・九紫)、

と、日の吉凶に関する諸事項を記した(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9A%A6%E6%B3%A8・広辞苑他)。

最後の正規の暦.jpg

(明治五年の暦(最後の正規の旧暦) 本書より)

暦注の大半は、暦ともに中国から伝来した、陰陽五行説、十干十二支(干支)に基づいたものであるが、特に最後の改暦となった、

明治五年の改暦、

以後、旧暦が廃止され、東京天文台も研究対象としていないので、それまでは、曲がりなりにも、天文方とかかわりがあり、たとえば江戸時代は、

「暦を立てるのに必要な、二十四節気や、朔、あるいは日食・月食などの天文学的計算は幕府の天文方で行い、これを京都の幸徳井家(土御門り次席のような立場にある)に送って暦注を付け、これを再び天文方が検査して、京都の大経師が彫刻し刷上げた写本暦を幕府から領主・奉行を経て暦屋に渡し、各地の暦屋でそれぞれ実用上の板木をほり、それを天文方が検閲する」

という手続きを毎年とっていた。その肝心の官許の暦法すら、江戸中期の、有職故実家・伊勢貞丈は、

「吉日、凶日、日に吉凶はなきことなり。吉日にも悪事をすれば刑罰免れがたし、凶日にも善事を行へば、褒賞せらる。(中略)是にて考うべし、暦に日の吉凶を記すは、吉凶もなき日に、強いて吉凶を付けたるなり」

といい、江戸後期の儒家・中井竹山は、

「世に中段と称する、建徐(たつ・のぞく 十二直)の名は暦法に古く見へたることなれども、是又甚だの曲説にて、その外、下段と称する吉日、凶日、みな言ふに足らざることどもとす」

といい、以後旧暦を配することになった、明治五年改暦の布告では、

「特に中下段ニ掲ル所ノ如キハ率(オオム)ネ妄誕無稽ニ属シ、人知ノ開達ヲ妨ルモノ少シトセズ」

として、消えたはずの「旧暦」が、明治十年代後半から、一枚刷りの暦などに、六曜(先勝・友引・先負・仏滅・大安・赤口)が載り始めた、とある。本家中国では六百年も前に暦書から消えたもので、江戸時代もほとんど載らなかった代物である。この決め方は、

「六曜は旧暦の月日で決まる。正月は先勝で始まるから、毎年元日はかならず先勝、七月一日も必ず先勝である。あとは二日友引、三日先負、四日仏滅、五日大安、六日赤口、そして七日はまた先勝である。」

となる。この順を晦日まで続けて行けばいい。しかし、

「晦日というのは旧暦では、小の月なら二九日、大の月なら三〇日のことで、その月が二九日か三〇日かどちらであるかは毎年計算によって決まるから暦を見ないと分からない」

しかし、

「いずれにしても正月は毎年五日、一一……がよい日(大安)で、よい日の前日は必ず悪い日(仏滅)だということになってあまり面白味はない」

もので、江戸時代にはやらなかったはずである。旧暦だと、

「毎年、同じ月日の下に同じ六曜」

が載ることになるが、ところが、今日の六曜は、太陽暦のカレンダーにつけられている。

「(上述の順で)割り当ててあると、旧暦の月替りの所で順序が狂うのが、しろうとには分からなくなるから迷信に神秘性を与える上でつごうがよい。」

らしいのである。迷信の迷信たる代表のような六曜にしてこれである。今日神社でもらう「神社暦」に、頁数を割いている「九星」は、本来、昔の暦注には載らず、暦注解説書にも説明されていないものらしい。

「星といっても、これも天文学とはなんの関係もない」

もので、縦・横・斜めの総和が15になる、いわゆる「魔方陣」の、

「九つの星を年によってぐるぐる回しして、どの星の生れはどのうのと、大いに技巧をこらしたもの」

で、ある意味、

「数字のおあそびに理窟をこじつけたもの」

と著者は一蹴する。ぐるぐる回すだけで、運否占うのは確かに少し滑稽かもしれない。

我々の日常に入り込んで、心をかき乱す、こうした「六曜」や「九星」の根拠をさらけ出し、ちょっと嗤ってみるのも悪くはない。

参考文献;
内田正男『暦と日本人』(雄山閣)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

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2021年06月12日

こよみ


「こよみ」は、

暦、

と当てるが、中国の旧い文献では、

歴、

の字を使っている(広瀬秀雄『暦(日本史小百科)』)、とある。

「暦」 漢字.gif

(「暦」 https://kakijun.jp/page/1441200.htmlより)

「暦」と「歴」は同系であるhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%9A%A6。「暦(曆)」(漢音レキ、呉音リャク)は、

厤(レキ)はもと「禾(カ 象形。穂の垂れた粟の形を描いたもの)をならべたさま+厂印(やね)」の会意文字で、順序よく次々と並べる意を含む。曆はそれを音符とし、日を加えた字で、日を次々と順序よく配列すること、

とある(漢字源)。別に、

会意兼形声文字です(厤+日)。「屋内で整然と稲をつらねる」象形と「太陽」の象形から、日の経過を整然と順序立てる事を意味し、そこから、「こよみ(天体の運行を測り、その結果を記したもの。カレンダー。)」を意味する「暦」という漢字が成り立ちました、

との解釈もあるhttps://okjiten.jp/kanji1292.html

「暦」 成り立ち.gif

(「暦」 成り立ち https://okjiten.jp/kanji1292.htmlより)

「歴(歷)」(漢音レキ、呉音リャク)は、

会意兼形声。厤は「厂(屋根)+禾(カ イネ)ふたつ」の会意文字で、禾本(カホン)科(イネ科 稲・麦・粟・稗等々)の作物を次々と並べて取り入れたさま。順序よく並ぶ意を含む。歷は、それを音符とし、止(あし)を加えた字で、順序よく次々と足で歩いて通ること、

とある(漢字源)。別に、

「歴」 漢字.gif

(「歴」 https://kakijun.jp/page/1450200.htmlより)

会意兼形声文字です(厤+止)。「屋内に稲(いね)を整然と並べた」象形と「立ち止まる足」の象形から、整然と並べた稲束を数え歩く事を意味し、そこから、「すぎる」・「かぞえる」を意味する「歴」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji705.html

「歴」 成り立ち.gif

(「歴」 成り立ち https://okjiten.jp/kanji705.htmlより)

「こよみ」は、「惠方」http://ppnetwork.seesaa.net/article/481909221.html?1623182699でも触れたが、『日本書紀』欽明天皇十四年(553)に、百済に対し暦博士の来朝を要請し、翌欽明十五年、百済国、

貢曆博士固徳正保孫、

とあり、遅くとも6世紀には中国暦が伝来していたと考えられる。また推古十年(602)には、

百済の僧勧勒(かんろく)が暦を献上した、

とあり、この頃の百済で施行されていた暦法は元嘉暦なので、伝来した暦も元嘉暦ではないかと推測される、とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9A%A6・広瀬秀雄『暦(日本史小百科)』)。日本では、元嘉暦から宣明暦までは中国暦を輸入して使った。渋川春海の手によって日本独自の暦法を完成させたのは、江戸前期の貞享暦からである(仝上)。

貞享暦.jpg

(貞享暦 (1729(享保14)年版) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9A%A6より)

百済の僧勧勒(かんろく)が献上した暦は、

こよみのためし、

と訓まれている。では、この「こよみ」の語源は何か。二つの説に分かれる。ひとつは、

カヨミ(日読)の転(東雅・嘉良喜随筆・類聚名物考・和語私臆鈔・名言通・和訓栞・日本古語大辞典=松岡静雄・神代史の新研究=白鳥庫吉・岩波古語辞典・広辞苑)、

で、いまひとつは、

コはキヘ(来歴)の転(大言海・俗語考)、

である。両者とも、

ヨミは読むで、数える、

意であることは一致している。たとえば、本居宣長は、

日を数へていくかといふも、幾来歴(いくけ)、暦をこよみとつけたるも、来歴数(けよみ)にて、一日一日とつぎつぎに来(き)歴(ふ)るを、数へゆくよしの名なり、

とし(真暦考)、大言海は、

けよみ→こよみ、
かよみ→こよみ、

の両転訛を採っている。

コは、ケ(来歴)の轉、カとも轉ず(二日(フツカ)、幾日(イクカ)。気(ケ)、香(カ)。處(カ)、處(コ))。ヨミは、読むにて、数ふること、酉(ユウ)の字を日読(ひよみ)のトリと云ふも、鶏(トリ)に別ちて、暦用のトリと云ふ也。和訓栞、コヨミ「日読の義、二日、三日と数へて、其事を考へ見るものなれば、名とせるなり」。暦は、歴の義。説文に「歴、過也」とあり、年、月、日を歴(フ)る意。経歴と別ちて、下を日にしたるなり、

とある。

け→こ、
か→こ、

という母音交替は、

a→o、
e→o、

の、「奥舌母韻間の母音交替」がありうるとし、

「大開の母韻の発音運動が弱化すると、下顎の開き(顎角)はせまくなる。そのとき、舌の後部の奥舌が軟口蓋に近づき、唇が左右からすぼまると、半開きのオ[o]の音がひびく」

とされる(日本語の語源)。ただ、

日読(かよ)みとか、来歴数(けよみ)とかであることは……たしからしいとは考えられるが、このような暦の理解は、比較的後世のものではないかと思う、

という説明は説得力がある(広瀬・前掲書)。なぜなら、「こよみ」は、

時間の流れを年・月・週・日といった単位に当てはめて数えるように体系付けたもの、

であり、

配当された各日ごとに、月齢、天体の出没(日の出・日の入り・月の出・月の入り)の時刻、潮汐(干満)の時刻などの予測値を記したり、曜日、行事、吉凶(暦注)を記した、

からである。それは、欽明紀にある、

暦博士、

とは、

現在の確認と未来の日次の予知技術に従事する人、

であり、この時輸入された中国暦法は、

観念論的数里体系であり、陰陽五行説のような形而上学的自然観に裏打ちされた非常に高度な文化所産であった、

ので、それまでの、

自然観に基づく本来の太陽暦、

を捨て去った。つまり、「こよみ」の、

けよみ(来歴数)、
かよみ(日読)、

という

カレンダー的な解釈、

は、それ以降の思想に基づくものだ、ということなのである。それ以前は、魏志倭人伝で、

其俗正歳四時を知らず、但但春耕・秋収を記して、年紀と為すのみ、

と、中国暦法(太陰太陽暦)を知らずといわれた時期の、

農耕をもとにした四季の捉え方、

にこそ、和語の、

こよみ、

という言葉は由来している、ということなのである(広瀬・前掲書)。つまり、これは「こよみ」http://ppnetwork.seesaa.net/article/455951678.htmlで触れたように、「暦」のある中国から見ると,

「春に耕し秋に収穫するのを一年と大ざっぱに考えている」

という程度ではあるが,季節と日々の巡りを,自然の流れの中で読んで(数えて)いたというふうに見られる。「暦」ではない,「こよみ」があったということである。

確かに、そうではなく、

日本語の「こよみ」は日を数える意である。長い時の流れを数える法が暦である。これに対し漢字の「暦」が意味するのは、日月星辰の運行を測算して歳時、時令などを日を追って記した記録である、

という解釈がある(日本大百科全書)が、この、

日を数える、

という解釈自体が、カレンダー的感覚を前提にしているということなのである。

「こよみ」の語源説の、他の、

コマカ(細)に書いたものをヨム(読)ところから、コヨミ(小読・細読)の義(和句解・日本釈名・東雅・柴門和語類集・本朝辞源=宇田甘冥)、

にも、やはりカレンダー感覚がうかがえる。

参考文献;
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
田井信之『日本語の語源』(角川書店)
広瀬秀雄『暦(日本史小百科)』(近藤出版社)
内田正男『暦と日本人』(雄山閣)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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ラベル:こよみ
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2021年06月13日

ポンチ絵


「ポンチ絵」は、

寓意・諷刺の滑稽な絵・漫画、

の意(広辞苑)で、この言葉は、

1862年に横浜でイギリス人チャールズ・ワーグマンによって創刊された漫画雑誌『ジャパン・パンチ(The Japan Punch)』に由来する、

とされる。この雑誌は、

1841年にロンドンで創刊された雑誌『パンチ(Punch)』、

にならって創刊した。

時事的題材をもとにユーモラスな諷刺画を次々と掲載、大きな評判を呼んだ、

という『ジャパン・パンチ』の活動から、

ポンチ絵、

という言葉が生まれた(澤村修治『日本マンガ全史』)とされるが、正確には、本家の、

週刊誌《パンチPunch、or the London Charivari》

で掲載されていた戯画にならって、『ジャパン・パンチ』が創刊されたのだから、

1841年ロンドンで刊行された週刊誌《パンチPunch、or the London Charivari》に掲載された戯画にちなむ、

というべきかもしれない(百科事典マイペディア)。既に、明治一六年(1883)二月六日東京日日新聞には、

「ポンチ絵を善(よく)して人の似顔を写すに妙を得たり」

という記事があるので、幕末から、明治にかけて「ポンチ絵」という言葉が一般化していたことが分る。

ジャパン・パンチ.jpg

(『ジャパン・パンチ』 https://guchini.exblog.jp/18581584/より)

この「ポンチ」は、

Punch、

から、とされる。「パンチ」とは、

Showのかぎ鼻で猫背な人形、

とある(リーダーズ英和辞典)が、

もともと人形芝居に出演する主要人物たる男の名、

ともあり(大言海)、

人形芝居に戯謔(おどけ)をなす者、

を指し、転じて、

寓意有りて、世を諷する戯画をも云ふ、

とある(仝上)。だから、

鳥羽絵の類、

とある(仝上)。「鳥羽絵(とばえ)」は、

江戸時代から明治時代にかけて描かれた浮世絵の様式のひとつで、「江戸の漫画」とも言われる略画体の戯画のこと、

であるが、この名は、「鳥獣人物戯画」の作者と伝えられる、

鳥羽僧正覚猷、

に因んでいる(広辞苑)。

絵新聞日本地.jpg

(仮名垣魯文編輯出版・暁斎挿絵『絵新聞日本地』(えしんぶんにっぽんち) https://twitter.com/moshimofukiwo/status/661512198892556288/photo/1より)

この「ポンチ絵」の、

マンガ的表現、

は、明治の日本で流行し、ポンチ絵入りの新聞・雑誌が日本人によっても続々刊行された。河鍋暁斎・仮名垣魯文は、日本人初の漫画雑誌、

『絵新聞日本地』

を、明治七年(1874)に刊行したし、中江兆民の仏学塾でフランス語を教えていた、フランス人のG・ビゴーも、イギリスやフランスの雑誌に報道絵画を載せつつ、明治二十年(1887)に居留フランス人向けの風刺漫画雑誌、

トバエ(TÔBAÉ)、

を創刊した(澤村・前掲書)。

ジョルジュ・ビゴーの「魚釣り遊び」.jpg


狂斎とワーグマンに関係のあった小林清親も、ワーグマンの「THE JAPAN PUNCH」から派生した「清親ぽんち」シリーズを明治十四年(1881)から刊行。明治十五年(1882)頃からは「団々珍聞(まるまるちんぶん)」に毎号風刺画も描き始めていたhttp://artistian.net/kiyochika/

小林清親のポンチ絵.jpg

(小林清親のポンチ絵 http://artistian.net/kiyochika/より)

ある意味、北斎の「北斎漫画」の系譜が、伏流水のように地下を通底し、文明開化とともに、海外の「風刺画」に刺激されて、地上へ出てきたような趣である。この「ポンチ絵」という言葉が、

漫画、

へとシフトしていくのは大正時代である。今日、「ポンチ絵」という言葉は、

風刺漫画、

戯画、

の意味はほぼ消えて、製造業や、建築業では、

概略図、構想図。製図の下書きとして作成するものや、イラストや図を使って概要をまとめた企画書、

等々を指す意味で使われている。

ポンチ絵の例.jpg


多くのベテラン設計者は、「3D-CADの操作に入る前に、その辺にある紙の裏などにポンチ絵を描いている」と話す。設計コンサルタントでCADIC(京都府大山崎町)の筒井真作氏もその1人。「3D-CADが普及する前は、(製図板で製図に取り掛かる前に)『定規を使わずに手で描け』とよく言われた」(筒井氏)という。同氏によればCADや製図は清書であり、清書はすでに確定している内容をきれいに表現する行為だから、その前に製品をどのような構造や形状で実現するかが確定していなければならない。その設計内容の実質的確定の過程で描くのがポンチ絵である、

とあるhttps://xtech.nikkei.com/atcl/nxt/column/18/00138/031300754/ように、

下書き、

概略図、

の意味で使われている。

参考文献;
澤村修治『日本マンガ全史~「鳥獣戯画」から「鬼滅の刃」まで』(平凡社新書)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

ラベル:ポンチ絵
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2021年06月14日

ついたち


「ついたち」は、

一日、
朔日、
朔、

と当てる(広辞苑)が、大言海は、

月立、

と当てている。「ついたち」が、

ツキタチ(月立)→ツイタチ(朔日)、

と、

tukitati→tuitati、

とkの脱落した音便形と見られるからだ(日本語の語源)。似た例は、

つきたて(衝い立て)→ついたて、
タキマツ(焚き松)→たいまつ(松明)、
やきば(焼き刃)→やいば(刃)、

等々多い。いまは、

一日、

を指すが、

西方の空に、日の入ったあと、月がほのかに見えはじめる日をはじめとして、それから10日ばかりの間の称、

で、

月の初め、
上旬、
初旬、

の意である(広辞苑)。「一日」いう場合は、古くは、

閏二月のついたちの日、雨のどかなり(蜻蛉日記)、

とあるように、

ついたちの日、

といった(仝上)。

朔日(さくじつ)、

は、漢語である。詩経に、

十月之交、朔日辛卯、

とあるように、太陽太陰暦、つまり旧暦での、

毎月の初日(第一日)、

を指す。この「朔」の字を、

ついたち、

と訓ませた(広瀬秀雄『暦(日本史小百科)』・字源)。なお、単に、

朔(サク)、

というと、

月が太陽と同方向になった瞬間、

のことであるが、この「朔」の発生した日が、

朔日、

となる。

「朔」 漢字.gif


この時の天にある月を「新月」という。但しこの日には、月は太陽と同方向にあるので、実際には月は見えない。「月立ち」というのは月の旅立ちの意味である、

とある(仝上)。

ツキタチ(月起)の転(日本釈名・和語私臆鈔)、

も同趣旨である。

この日から月が毎日、天上を移り動く旅が始まり、第三日ぐらいには、夕方西空に低く、細い、いわゆる三日月が見え、一日、一日と日が経つに従って、月は満ち太りながら、夕方見える天上の位置は、東へ東へと移っていく。そこで毎日の月の入りの時刻はおそくなる。第七日か第八日になると、夕方の月は真南に見え、その時の月の形は、右側が光った半月で、これを「上弦の月」といい、この日を「上弦の日」または略して、単に「上弦」という。
上弦から七日か八日経つと満月の日となって、夕方に東からまんまるな「満月」が登ってきて、終夜月を見ることができる。月が西に沈むのは日の出の頃である。満月は毎月の第十五日ごろである。
満月を過ぎると、月の出は段々おそくなり、夕方にはたいてい月は見えない。その代わり、日の出の頃にまだ西の空に月が残っているのが見える。残月であり、この時の月は右側が欠けた形になっている。
第二十二、三日頃には、日出の頃の月は真南に見え、右半分が欠けた半月である。これを「下弦の月」といい、この日が「下弦」である。
それより以後、月はますます日出の太陽に近づき、第二十九日か第三十日には、月は太陽に近づきすぎるので、その姿は見えない。この日が「晦日」である、

とある(広瀬・前掲書)。漢語、

晦日(かいじつ)、

を、

つごもり、

と訓ませる。

ついたちの対、

であり、

月の下旬、

つまり、

毎月の下旬の十日ばかりの程の称、

の意であるが、

つごもりの日、

と使って、

最終日、

の意である。

みそか、

とも言うが、「みそか」は、

ミトカ/ミトヲカ(三十日)→みそか(晦日)、

の転訛とも(日本語の語源)、

ミソ(三十)カ(日)、

とも(日本語源広辞典)いう。小の月の最終日、

二十九日、

も、大の月の最終日、

三十日、

も、関係なく「みそか」と呼んでいる(広瀬・前掲書)が、特に、小の月の二十九日に終わるものは、

九日(くにち)みそか、

といい、十二月の盡日は、

おおみそか(大晦日)、

という(大言海)。

「ついたち」の語源から考えて、「つごもり」は、

ツキゴモリ(月隠)の約(大言海・広辞苑・日本語の語源)
ツキゴモリ(月籠)(岩波古語辞典・日本語源広辞典)、

の意とする説が大半である。平安後期の『字鏡』にも、「晦」を、

豆支己毛利、

と当てている(大言海)。しかし、

単純なキの音節の脱落によるツキゴモリ→ツゴモリという説は、他に類例がなく極めて疑問、

とする説(日本語源大辞典)がある。

意味上対をなすツイタチと音節数の平衡性を保つためにキが脱落したという見方もあるが、上代の複合語形成の原則からは、ツキタチ・ツキゴモリよりも、ツクタチ・ツクゴモリの方が自然であり、ツクゴモリ→ツウゴモリ→ツゴモリという変化過程も考えられる。ツキゴモリは興福寺本「日本霊異記」訓釈に見られ、天治本・享和本「新撰字鏡」にはツキコモリ・ツクコモリの両訓が見られるが、特にツクコモリの意味の限定は難しい。上代において、「ツク―」は「太陰」を表し、「ツキ―」し暦日の「つき」を表すという意義分化があった可能性もあり、意義の分裂に沿って語形の分裂が起こった可能性も否定できない、

とする。是非の判断する力はないが、「つく」は、

月、

を当てる、

つく(月)夜、
つくよみ(月読)、

等々と使われる、

月の古形、

とされ(岩波古語辞典)、

複合語の中に残った、

とあるのだから、

ツキゴモリ→ツゴモリ、

よりは、より古い形である、

ツクゴモリ→ツウゴモリ→ツゴモリ、

tukugomori→tuugomori→tugomori、

と、「ついたち」と同様に、やはり「k」の脱落で転訛していくほうが、

tukigomori→tugomori、

と、「ki」の脱落よりは可能性が大きいと見た。

さて、「朔」(サク)は、

会意。屰は、逆の原字で、さかさまにもりを打ち込んださま。また大の字(人間が立った姿)をさかさにしたものともいう。朔はそれと月を合わせた字で、月が一周してもとの位置に戻ったことを示す、

とある(漢字源)。別に、

会意兼形声文字です(屰+月)。「人をさかさまにした」象形(「さからう、もとへ戻る」の意味)と「欠けた月」の象形から、欠けた月がまた、もとへ逆戻りする「ついたち」を意味する「朔」という漢字が成り立ちました、

との解釈もあるhttps://okjiten.jp/kanji1774.html

「朔」 成り立ち.gif

(「朔」 成り立ち https://okjiten.jp/kanji1774.htmlより)

「晦」(漢音カイ、呉音ケ)は、

形声。毎(マイ)は「まげを結った姿+音符母」の会意兼形声文字で、母と同系であるが、とくに次々と子をうむことに重点を置いた言葉。次々と生じる事物を一つ一つ指す指示詞に転用された。晦は「日+音符毎(マイ・カイ)」、

とある。別に、

「晦」 漢字.gif


形声文字です(日+毎)。「太陽」の象形と「髪飾りをつけて結髪する婦人の象形」(つねに女性は髪の手入れが必要な事から「つねに」の意味だが、ここでは、「夢」に通じ(「夢」と同じ意味を持つようになって)、「暗い」の意味)から、「日が暗い」を意味する「晦」という漢字が成り立ちました、

の解釈もあるhttps://okjiten.jp/kanji2488.html

「晦」  成り立ち.gif

(「晦」 成り立ち https://okjiten.jp/kanji2488.htmlより)

参考文献;
広瀬秀雄『暦(日本史小百科)』(近藤出版社)
田井信之『日本語の語源』(角川書店)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

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2021年06月15日

鳥羽絵


「鳥羽絵」は、

鳥羽絵は江戸時代中期に大坂で流行った滑稽な絵、

https://www.library.pref.osaka.jp/nakato/shotenji/38_tobae.html

手足が異様に細長く、目は黒丸か「一」文字に簡略化され鼻も低く大きな口を持ち、誇張と動きがある、

とされる(仝上)。

軽筆鳥羽車(けいひつとばぐるま) (2).jpg

(『軽筆鳥羽車』(大岡春卜) https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2606327より)

大坂の狩野派の大岡春卜筆といわれる《軽筆鳥羽車》3冊本(1720)は古例に属す、

とあり(世界大百科事典)、「鳥羽絵」は、

まず大坂で流行し、《絵本水や空》(1780)や《絵本古鳥図賀比》(1805)の作者松屋耳鳥斎が代表的。江戸でも、鍬形蕙斎(くわがたけいさい)、葛飾北斎、歌川広重などが鳥羽絵を試みている、

とある(仝上)。

耳鳥斎.jpg


鳥羽絵を洗練させたとされる大坂の耳鳥斎(松屋半三郎)は、

安永から天明期(1722~1788)を最盛期として寛政(~1801)まで活躍した。略筆体で人間の手足を細く描いた個性的な鳥羽絵 で知られており、滑稽の才に富み、極めて軽妙な筆使いによって、粗画でその意を表すのに妙を得た。天明期には耳鳥斎の扇面が非常に流行した略筆体で人間の手足を細く描いた個性的な鳥羽絵 で知られており、滑稽の才に富み、極めて軽妙な筆使いによって、粗画でその意を表すのに妙を得た。天明期には耳鳥斎の扇面が非常に流行した、

というhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%80%B3%E9%B3%A5%E6%96%8E

鳥獣戯画の筆者に擬せられる鳥羽僧正(覚猷)にちなんでこう呼ばれる、

という(仝上)が、

春卜と云ふ画工、戯画を畫き出し、鳥羽絵と称して、遂に其名となる、

とある(大言海)。あるいは、自称したのかもしれない。

ざれ絵、
おどけ絵、

ともいう(精選版日本国語大辞典)。

略画的タッチで人物や動物などを滑稽に描く、

ところは、

漫画、

そのものである。その後、

北尾政美の『略画式』、

葛飾北斎の『北斎漫画』、

等を経て

ポンチ絵(http://ppnetwork.seesaa.net/article/481972090.html?1623523206

G.ビゴ-の時局風刺雑誌『トバエ』、

へと続いて行くことになる。

『トバエ』の表紙.jpg

(ビゴー自身を戯画化ピエロの載る『トバエ』の表紙 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B3%A5%E7%BE%BD%E7%B5%B5より)

「トバエ」という言葉は、

漫画、

の意味で大正期まで使われていくことになるhttps://www.library.pref.osaka.jp/nakato/shotenji/38_tobae.html

竹原信繁(春潮齋)『鳥羽絵扇能的.jpg

(竹原信繁(春潮齋)『鳥羽絵扇能的(とばえ おうぎのまと)』 https://www.osaka-art-museum.jp/sp_evt/edonogigaより)

鳥羽絵本の流れは、その影響を受けたと考えられる江戸の「北斎(ほくさい)」や「国芳(くによし)」、そしてその流れをくむ「暁斎(きょうさい)」などに受け継がれていくが、歌川国芳には、

例えば落書きを真似て人物を描いた「荷宝蔵壁のむだ書」のユニークな釘書きの戯画や、「人あつまって人になる」のような、多くの人間が絡み固まっているのが人の顔に見えてくる感じがする1枚がある。まるで、ジュゼッペ・アルチンボルドの着想をどこかで見たのかと思うようなシュルレアリスム風の戯画シリーズさえ存在する、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B3%A5%E7%BE%BD%E7%B5%B5

歌川国芳による寄せ絵.jpg

(歌川国芳による寄せ絵 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B3%A5%E7%BE%BD%E7%B5%B5より)

葛飾北斎の鳥羽絵.jpg

(葛飾北斎の鳥羽絵 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B3%A5%E7%BE%BD%E7%B5%B5より)

「ポンチ絵」http://ppnetwork.seesaa.net/article/481972090.html?1623523206で触れたように、フランス人ビゴーは、1887年に居留フランス人向けの風刺漫画雑誌に、『トバエ』(TÔBAÉ)と命名して創刊した。

漫画、

という言葉は、北斎が、

北斎漫画、

で使ったが、コミックの訳語として、

漫画、

を最初に使ったのは、明治30年代前半、北澤楽天とされる(澤村修治『日本マンガ全史』)が、大正時代まで、

鳥羽絵、

という言葉は使われ、「漫画」という言葉が優勢になるのは、ようやく昭和初期になってからとされる(仝上)。

なお、歌舞伎の舞踊に、

鳥羽絵、

というのがあるが、

半裸の下男が枡を持って鼠を追いかけ、すりこぎに羽が生えて飛んでいる図を舞踊化したもの、

だが、これは、

本名題『御名残押絵交張 (おんなごりおしえのまぜばり) 』。九変化の一つ。文政2 (1819) 年江戸中村座で、3世中村歌右衛門(1世中村芝翫)が初演。2世桜田治助作詞、清沢万吉(1世清元斎兵衛)作曲、藤間勘助ほか振付。当時流行の、体を痩身に、手足を細長く描く鳥羽絵の趣を舞踊曲に仕立てたもの。山東京伝作『絵兄弟』の戯画を典拠とし、大店の台所を舞台に下男とぬいぐるみのねずみの滑稽なやりとりが描かれる、

とある(ブリタニカ国際大百科事典)。

参考文献;
澤村修治『日本マンガ全史~「鳥獣戯画」から「鬼滅の刃」まで』(平凡社新書)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
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書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

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2021年06月16日

金輪際


「金輪際(こんりんざい)」は、

金輪際ごめんだ、

と、

(多く、あとに打消しを伴って)強い決意をもって否定する意を表す語として、

絶対に、断じて、

の意で使う。あるいは、

聞きかけたことは金輪際聞いてしまはねば、気がすまぬ(膝栗毛)、

と、

どこまでも、とことん、

という意味でも使う(広辞苑・デジタル大辞泉)。これは、

金輪際、

という言葉が、

金輪奈落、
金剛輪際、

ともいい、仏語の、

金輪、

からきている。「金輪」とは、

この世界の地層の名、其最下底にあるものは風輪なり、其上に水輪あり、水輪の上に金輪あり、これ即ち地輪(大地)なり。其下水輪に接する所を金輪際と云ふ、

とある(大言海)。つまり「金輪際」は、

大地がある金輪の一番下、水輪に接するところ、

から来た言葉で、

地層のどんづまり、

を指し、そこから、

金輪際の敵、憎しといふはきやつがこと(浄瑠璃・鑓の権三重帷子)、

のように、

物事の極限、ゆきつくところ、

の意で使い、それを副詞的に使うと、上述のように、

金輪際嫌だ、

と、否定を強調する使い方になる。

『倶舎論』には、

安立器世閒(きせけん)、(世界)風輪居下、……次、上水輪、……水輪凝結為金、……於金輪上有九大山、妙高山王處中而住、

とある。妙高山とは須弥山(しゅみせん)の訳名とある(大言海)。「須弥」が漢字による音訳で、「妙高」は意訳となるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A0%88%E5%BC%A5%E5%B1%B1らしい

須弥山の図 (2).png

(須弥山の図 『天文図解』(元禄2(1689)年刊) https://www2.dhii.jp/nijl_opendata/NIJL0201/049-0284/より)

「金輪(こんりん)」は、

仏教的宇宙観、

に根ざしているのである。それによると、世界は、

有情世間(うじょうせけん)とよばれる人間界、

と、それを下から支えている、

器世間(きせけん)とよばれる自然界、

とに分類され、後者は、

風輪、
水輪、
金輪、

三つからなっている(日本大百科全書)。それは、

虚空にとてつもない大きさの風輪というものが浮かんでいる。その風輪の上に、風輪よりは小さいがなおかつ無限大に近いような水輪というものがあって、またその上に金輪がある。もちろん厚みも大変なものである。その金輪の上に九つの山がある。その中央にそびえるのが須弥山である。その高さは今の尺度でいうと56万キロメートルあるという。この山の南側に贍部(せんぶ)洲という名前の場所がある。ここがわれわれ人間どもの世界である、

というものである(内田正男『暦と日本人』)。「金輪」の厚みも、須弥山並にある、という。だから、その底、

金輪際、

までは底の底という感じである。古い図ではわかりにくいが、この層は、

三輪、

と呼ばれ、

虚空(空中)に「風輪」という丸い筒状の層が浮かんでいて、その上に「水輪」の筒、またその上に同じ太さの「金輪」という筒が乗っている。そして「金輪」の上は海で満たされており、その中心に7つの山脈を伴う須弥山がそびえ立ち、須弥山の東西南北には島(洲)が浮かんでいて、南の方角にある瞻部洲(せんぶしゅう)が我々の住む島、

http://www.tendai.or.jp/houwashuu/kiji.php?nid=90、三つの円盤状の層からなっている、とする。

仏教的宇宙.gif


いちばん下には、

円盤状つまり輪形の周囲の長さが「無数」(というのは1059に相当する単位)ヨージャナ(由旬(ゆじゅん)。1ヨージャナは約7キロメートル)で、厚さが160万ヨージャナの風輪が虚空(こくう)に浮かんでいる、

その上に、

同じ形の直径120万3450ヨージャナで、厚さ80万ヨージャナの水輪、

その上に、

同形の直径は水輪と同じであるが、厚さが32万ヨージャナの金でできている大地、

があり、その金輪の上に、

九山、八海、須弥四洲(しゅみししゅう)、

があるということになる(日本大百科全書)

「須弥山」をとりまいて、

七つの金の山と鉄囲山(てっちさん)があり、その間に八つの海がある。これを九山八海という。

周囲の鉄囲山(てっちせん)にたたえた海水に須弥山に向かって東には半月形の毘提訶洲(びだいかしゅう、あるいは勝身洲)、南に三角形の贍部洲(南洲あるいは閻浮提)、西に満月形の牛貨洲(ごけしゅう)、北に方座形の倶盧洲(くるしゅう)、

がありhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A0%88%E5%BC%A5%E5%B1%B1、われわれの住んでるとされる「贍部洲(せんぶしゅう)」は、インド亜大陸を示している、とされる(仝上)。その天竺図には、

須弥山(しゅみせん)の南方海上に浮かぶとされる大陸(南贍部州 なんせんぶじゅう)を、中天竺、北天竺、東天竺、南天竺、西天竺の五つの地域に分けて描き、その上に玄奘が辿った旅の道筋が朱線で示されている、

というhttps://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/455179

天竺図は、

天竺(インド)で生まれた仏教が震旦(中国)を通して本朝(日本)にもたらされたという地理的・歴史的な関係が表されている、

と考えられており、この三国によって世界が形成されているという見方を

三国世界観、

というhttps://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/455179、とある

天竺之図 (2).JPG


確かに、金輪と水輪の境目の「金輪際」は、贍部洲(南洲あるいは閻浮提)からみれば、

遥かな底の底、

になるわけである。

参考文献;
内田正男『暦と日本人』(雄山閣)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
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2021年06月17日

とことん


「とことん」は、

とことん頑張る、

のように、副詞的に使い、

最後の最後、
とか、
徹底的に、

の意味で使うが、別に、

日本舞踊で足拍子の音、

の意で、転じて、

踊りの意、

でも使う(広辞苑)、とある。しかし、「とことん」は、「大言海」「岩波古語辞典」「江戸語大辞典」には載らない。比較的新しい言葉ではないか、と思う。

類義語「とんとん」というのは、擬音語で、

つづけて軽く打つ音、

の意だが(仝上)、そこから、

とんとん拍子、

のように、

物事が中断せず順調に進行する様子、

の意に用い(擬音語・擬態語辞典)、さらに、

収支とんとんだ、

というように、

二つのものがほぼ同程度である、

意でも使う。これは、「とんとん」の擬音に、

軽いものが続けて調子よく当たる音、

で、たとえば、

俎板の上で物を刻む音、

木製のものが当たる音、

の意(仝上)から来ているように思える。この「とんとん」の「とん」は、

軽いものがはずみをつけて一回当たる音を表す、

とあり(仝上)、それが、

とんとん、

と畳語することで、連続を表現する。これは、江戸時代から、

玄関の戸をとんとんと、たたく(浄瑠璃「夕霧阿波鳴門」)、

というように使われ、さらに、

とんとん、
とことん、

と、叩く音に変化をつけた使われ方になる。この「とことん」は、

わしどもやるべい、みんなそれからトコトントコトンと、はやしてくれさっしゃい(十返舎一九「東海道中膝栗毛」)、

と、囃子詞として使われている。

東海道中膝栗毛.jpg

(「東海道中膝栗毛」より https://hamasakaba.sakura.ne.jp/111c/1101/sub1101.htmlより)

また、「とことん」の「とこ」は、

とことこ、

と、

すたすた、

の対になる、

狭い歩幅で、足早に歩いたり走ったりする、

擬態語としてつかわれる「とこ」である。この「とこ」は、

とこまかしてよいとこりゅう、

と、「よいところりゅう」に、

よい所流、

と当て、

ちょぼくれちょんがれちゃらまか流、とこまかしてよい所流(安政四年(1857)「七偏人」)、

と、

掛け声「とこまかして」「よいとこ」を武芸の流儀にいいなした戯語、

とある(江戸語大辞典)。

どうやら、「とことん」の「とん」も、「とこ」も拍子を取る掛け声のようである。だから、「とことん」を、

舞踊の「トコトン」は「床(とこ)」と「トン」という擬音が語源https://www.yuraimemo.com/1410/
トコは床で、底の意。トンはそこを叩く音(上方語源辞典=前田勇)
日本舞踏で「トコトントコトン」という足拍子の音を意味し、転じて踊りの意味となった語で、近世には民謡などの囃子詞として用いられた(語源由来辞典)、

とする説が、語源としての大勢である。ただ、それはあくまで、

足拍子、

囃子詞、

であって、そこからは、

とことん話し合う、

という意の、

最後まで、
とか、
徹底的、

という意味は出てこない。そこで、明治初年(1986)に大流行した『とことんやれ節』の、

トコトンヤレトンヤレナ、

が、

軍歌でもあったことが関係し、軽快さと威勢の良さも手伝って、「徹底的」「最後まで」の意に転じた、

とする説がある(語源由来辞典他)。しかし、

とことんやれとんやれな、

は、あくまで囃子言葉にすぎず、今日的な含意を、この文句から引き出す(たとえぱ「とことんやれ」だけ抜き出すような)ことは、無理筋ではないか。それならば、「とことん」自体が、舞踊の足拍子由来であるのなら、

「床をトンと踏む」です。踊りの所作の、最後の足拍子まで、きちんとし終えるに由来する(日本語源広辞典)、
踊りの最後に踵で踏む足拍子「とことん」を用いることが多い。踊りの所作を最後まできちんとやりとげることを「とことんまでする」と言ったhttps://mobility-8074.at.webry.info/201605/article_39.html

と、踊りの足拍子に淵源すると考えた方が、自然ではあるまいか。

参考文献;
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
山口仲美編『擬音語・擬態語辞典』(講談社学術文庫)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

ラベル:とことん
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2021年06月18日

テロル


磯部涼『令和元年のテロリズム』読む。

令和元年のテロリズム.jpg


本書は、令和に改元された直後に起きた「川崎無差別殺傷事件」、その四日後に、その事件を意識した、「元農水事務次官長男殺害事件」、その二ヶ月後に起きた、「京都アニメーション放火殺傷事件」、改元後三ヶ月の間に立て続けに起きた、この三つの事件の点と線をつなぎ、現在の日本の深部に迫ろうとするものだ(思えば、この一か月前には、池袋の元官僚による暴走自動車による11人殺傷の交通事故が起きている)。

本来、改元は、昔から、

時代をリセットする、

意味があった。「令和」は、「人々が美しく心を寄せ合う中で分化が生まれ育つ」意味が込められていると、当時の首相は説明したが、それをあざ笑うような事件の連続だった。しかし、平成改元の年にも、

三月に「女子高生コンクリート詰め殺人事件」
七月には「連続幼女誘拐殺人事件(宮崎勉の逮捕)
十一月には「坂本弁護士一家殺人事件」(七年後、オーム真理教によるテロとして顕在化)、

と、平成時代全体を通底する様相を呈した事件で始まった。著者は、

(平成の)「8050問題を始めとする、前元号=平成の間、先送りにされた問題を露呈させた」、

と書く。「川崎事件」は、まさに「7040/8050」問題の顕在化そのものに他ならない。しかし、無差別殺人ではあるが、これを、

テロリズム、

と呼ぶのは何故か。著者は、テロの定義からは外れるが、と断ったうえで、

「岩崎隆一(川崎事件の犯人)による無差別殺傷事件は、“ひきこもり”“高齢化社会”“7040/8050問題”といった政治的問題を社会に突きつけた点でテロリズムだったと言えないだろうか」

という。テロリズムは、明確に定まった定義はないが、共通する要素として、

①目的として何らかの「政治的な動機」をもつこと、
②目的達成の手段として、(直接の被害者等のみならず)より多くの聴衆に対する「恐怖の拡散」を狙っていること、
③そのために「違法な暴力」あるいは暴力による威嚇を利用すること、

を挙げる(内閣情報分析官・小林良樹氏)。この定義からは、外れるが、平成20年の秋葉原無差別殺傷事件を、

「絶望を映す身勝手な『テロ』」

という指摘がある(東浩紀氏)。その理由を、

「ネットでの(この事件に対する)共感の声がロスジェネ(ロスト・ジェネレーション。バブル崩壊後の氷河期、いわゆる「失われた10年」に社会に出た世代)の運動に代表されるような若年層の怒りと繋がっている」
「この問題は社会全体で考えるべきであるというメッセージを発する必要がある」

等々として、

「社会全体で考えるべき」事件こそが、テロリズムとして捉えられる事件、

とする主張に準拠している、とみられる。明確な政治的課題にまで昇華して意識できていない、

もやもやした不満、

の発露のレベルにとどまっている、という意味では、

「潜在的なテロリズム」

なのかもしれない。しかし、「テロル(terror)」は、ドイツ語で、

恐怖、

の意である。通常は、

あらゆる暴力手段に訴えて政治的敵対者を威嚇すること、

という意で使われるが、ここには、社会全体を敵とみなした、

敵意、

だけは感じ取れる。その敵意は、

不特定多数に向けられる恐怖、

を誘う。その点で、オーム真理教によるテロリズムも、明確な政治的目的があったわけではなく、

この社会全体へのすさまじい敵意、

のみがあったという意味では、通底しているのである。

川崎事件に刺激されて、息子が同じような事件を起こすのではという危機意識から殺害に及んだ、と元農水事務次官が動機を語っているのを信ずるかどうかは別として、「川崎無差別殺傷事件」と「元農水事務次官長男殺害事件」とは、顕在化した、

8050問題、

という意味で共通している。しかし、「京都アニメーション放火殺傷事件」は、自作をパクられたという妄想的な動機があるにしても、秋葉原事件と似た、

明確な敵意、

を顕在化させた印象がある。その意味では、アメリカで起きる、

銃の乱射事件、

と通底するものを感じる。象徴的なのは、犯人の青葉真司について、

「青葉のような労働者は、移民労働者にとって代られた」

という記述である。秋葉事件の犯人も、派遣切りにあった、

プレカリアート(不安定な労働者)、

であった。今日非正規労働者は四割に及ぶ。それは、ひとくくりに言うことは乱暴だが、ある意味、アメリカの、

プアホワイト、

に近い。かれらの多くは、トランプ支持者と重なる。この「プア・ホワイト」(白人貧困層)の過激グループは、ユダヤ人、黒人、ヒスパニックなどに対する憎悪をむき出しにしたテロが増えている。彼らもまた、

移民に仕事を奪われる、

レベルの労働者群になる。これは、

格差拡大の負の連鎖、

の結果でもある。今日の日本の、

格差拡大、
と、
非正規労働者の増大は、

間違いなく、負の連鎖の結果の、

社会への敵意、

を増殖させる。そんな懸念が、本書を通じて強まった。

参考文献;
磯部涼『令和元年のテロリズム』(新潮社)

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2021年06月19日

やれやれ


「やれやれ」は、意味に幅がある。もともとは、

感動詞「やれ」重ねて強調した語、

であり、「やれ」は、

呼びかける時、相手の注意を引く時、ふと心づいた時、困った時、他に同情する時などに発する声、

とあるが、

やんれの音便(大言海)、

あるいは逆に、「やんれ」が、

やれの転(岩波古語辞典)、

ともあり、もともとは、

やよ、

と同じく、

呼びかける声であり、「やよ」が、

やよ時雨物思ふ袖のなかりせば木の葉ののちに何を染めまし(新古今)、

と、

やあ、
とか、
やい、
とか、
もしもし、

と、呼びかける声であったように、また「やよ」が、

げにもさあり、やよ、げにもさうよのと(狂言記)、

のように、

囃子の声、
あるいは、
掛け声、

である以上、「やれ」もまた、

やれ、どうよく者、やるまいぞ(狂言記)、

やれ、ほんさに凪ぎるやら、

と、

掛け声、

の意がある。ただ、「やれ」には、

やんれ、

やよ、

にはない、

やれ、人にてありけりとて、河に投げ入れてけり(雑談集)、
やれ、一息つこうか、
やれ、困った、

というように、

おや、
とか、
あれっ、

といった、

ふと気づいた時や驚いた時などに発する声、

の意がある。

人に向けた発声、
が、
自分自身に向けた発声、

つまり、

つぶやき、

に近い、

思わず漏らす言葉、

に転じた、とみることができる。

だから、「やれ」を重ねた、

やれやれ、

にも、

やれやれ小僧ども、あの道無殿のお供の人に、よく酒をすすめよ(室町末期「人鏡論(ジンキョウロン)」)、

と呼びかける声の意の他に、

いやはや、

といった含意のつぶやきで、

ヤレヤレメデタイ(日葡辞書)、
やれやれありがたい、

のような、

安心したり深く感じたりしたときに、思わずこぼす言葉であったり、

やれやれ、ここで一服、
やれやれ、困ったものだ、

と、

疲労した時、あるいはあきれ果てた時にもらす言葉としても使う。これは、「やれ」と同じく、

人に向けていた声掛け、

を、

自分自身に向けた声掛け、

に転じたものとことができる。

宮 熱田神事.jpg

(「宮 熱田神事」 歌川広重・東海道五拾三次 https://www.adachi-hanga.com/ukiyo-e/items/hiroshige054/より)

人に向けた声掛けとしては、

やれかれ、
やれこれ、
やれそれ、

等々の類義語がある(江戸語大辞典)。

やれ、
も、
かれ、
も、
これ、
も、
それ、
も、

共に、促したり、はやしたりする言葉である。

ただ、「やれやれ」には、今日、金融・証券用語に、

高値つかみで損をし、売りたくても売れなかったのが、相場がまた上がってきて安心する、

意で使う。そういう人を、

ヤレヤレ筋、

ヤレヤレ筋が売って手仕舞うことを、

ヤレヤレ筋の売り、

というhttps://www.daiwa.jp/glossary/YST1781.html、とある。「やれやれ」の漏れた吐息に近い言葉で「やれやれ」の意味の外延に入っている。

因みに、「やれやれ」の「やれ」については、

やよ、

やんれ、

といった感動詞由来ではなく、

やる(遣る)の命令形、

という説(日本語源広辞典)がある。「やれ」の元を辿れば、

命じてやらせる、

意がなくはないかもしれないが、命令形の含意と、掛け声の「促す」含意とは少し差がある気がする。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
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ラベル:やれやれ
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2021年06月20日

伊達巻


「伊達巻」は、

といた卵に白身魚のすり身を加えて甘みと塩で味付けした卵焼き器で厚焼きにしてから巻き簀(す)で渦巻状に巻いたもの、

で(たべもの語源辞典)、

伊達巻玉子、

とも呼ぶ(仝上)。正月料理や祝い事には欠かせない料理となっている。

この「伊達巻」には、

水分が多くジューシーなタイプ、
と、
水分が少なめでカステラのような食感のもの、

と二つのタイプがありhttps://www.kamaboko.com/column/2208/

主に江戸時代に長崎に伝来した「カステラ蒲鉾」という料理が伊達巻の始まり、

との説もある(仝上)のは、

スポンジケーキ状に焼くにはオーブン(天火)の存在が不可欠であることから、ポルトガルのロールケーキである「トルタ・デ・ラランジャ」の技法が応用された、

と考えられているhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E9%81%94%E5%B7%BBからである。

伊達巻.jpg


「伊達巻」には、

女性が和服の着くずれを防ぐために締める幅の狭い帯。博多織などのしっかりした布で作り、端をはさみ込んでとめる、

の意もある。これは、

だてじめ、

ともいう(広辞苑)が、正確には、

伊達巻の両端を結ぶことができるようにしたもの、

が、

伊達締め

になる(デジタル大辞泉)。結ぶ部分以外に芯を入れるものが多い。伊達締めは、

紐の一種、

だが、伊達巻きは、

幅の狭い単帯(ひとえおび)、

になるhttps://oiwai-kimono.com/kihon/datejime.html#datejime_datemaki。とはいえ、「伊達巻」も「伊達締め」も、着物の表に出して見せるものではない。「伊達締め」は、

長襦袢の胸元をととのえるためと長着のお端折(はしより)を始末するために用い、二巻きして端をはさみこむ。正絹で中央が堅く織られている博多織がかさばらずに使いよい。伊達巻は倍ほどの長さでぐるぐる巻きつけて体型の補整も兼ね、花嫁衣装の着付などに用いる、

ともある(世界大百科事典)。

だてまき.jpg


食べ物の「伊達巻」を、

女性用の和服に使われる伊達巻きに似ていることからこう呼ぶようになった、

とする説がある。

着物の伊達巻と料理の伊達巻の形が似ていること、また着物の伊達巻の巻く時の動作と、伊達巻を巻く時の動作が似ている、

ことかららしいhttps://www.kamaboko.com/column/2208/

しかし、他に、「いなせ」http://ppnetwork.seesaa.net/article/414618915.htmlで触れた、

伊達者、

というような、

ことさら侠気を示そうとすること、
あるいは、
人目を引くように派手にふるまうこと、

という意(広辞苑)とともに、

あか抜けていきであること、
とか
さばけていること、

という含意もある、

伊達、

からつけられたとする、

伊達巻も鮮やかな黄色をしていて、食べ物の中でも人目をひく色合いであることから「派手な卵焼き」として伊達巻と名付けられたと言われています。 また、当時のおしゃれな若者である「伊達者」が着用していた着物の柄と形と似ていたことから、伊達巻という名前がついたとされています、

という説もある(仝上)。他に、伊達政宗が好物だったというのもあるが、これは付会にすぎるようだ。

伊達者の含意と着物の「伊達巻」を重ねて、

伊達は人目を引く派手なこと、粋であること、外見を飾ることといった意味を持っている。伊達巻は料理としてこの伊達の要素を兼ね備えている。しかも、厚焼玉子をうず巻状に巻くこの動作は、婦人が用いる伊達巻という幅の狭い帯を締めることにも似ている。これで伊達巻という名がついた、

という説明がいい(たべもの語源辞典)。

伊達(外見、見栄え)+巻き、

で、見栄えの派手さと伊達巻を巻くイメージの二重重ねということでよさそうである。

参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

ラベル:伊達巻
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