2021年06月21日

伊達



「伊達」は、当て字である。「いなせ」http://ppnetwork.seesaa.net/article/414618915.htmlで触れたように、

伊達者、

というような、

ことさら侠気を示そうとすること、
あるいは、
人目を引くように派手にふるまうこと、

という意(広辞苑)とともに、

あか抜けていきであること、
とか
さばけていること、

という含意もある、「だて」は、

タテ(立)の転、接尾語ダテの名詞化(岩波古語辞典・日本語源広辞典)、
「立つ」から、人目につくような形を表す(広辞苑)、

と、

タテダテシキの上下略しして濁る、男を立てる意。即ち男立、腕立、心中立などより移る。世には伊達政宗の部兵の服装華美なりしに起こると云へど、此語政宗の自体よりは古くありしが如し、且つ慶長の頃までは、伊達氏、イダテと唱へたり(大言海)、

の二説が有力である。

因みに、「伊達」を「イダテ」と訓むについては、伊達政宗が慶長一八年(1613)に、遣欧使節として派遣した支倉常長が元和六年(1620)に帰国した際持ち帰った、ラテン語で書かれた「ローマ市公民権証書」に、確かに、

IDATE MASAMVNE

とあるhttps://www.city.sendai.jp/museum/kidscorner/kids-10-3.html

伊達少将政宗.jpg

(月岡芳年作「魁題百撰相 伊達少将政宗」 https://www.touken-world-ukiyoe.jp/mushae/art0006460/より)

「だて」は、

タツ(立)の転、名詞・形容詞語幹などに付いて、そのさまをことさらとりたてて示す意、

であり、

いきがる、

意の、

男立、
心中立、

等々の他、

その意味を強め、またはそのことを取り立てて示そうとする場合、

洗い立て、
心安立て、
忠義立て、

等々とも使う。その「わざとらしさ」「誇らしげ」という意味では、「男立」と重なる。

「たてだてし」は、

立て立てし、

と当て、

心を立てとほす意、

とし、

世を逃れ身を捨てたれども、こころはなほ昔に変わらず、たてだてしかりけるなり(著聞集)、

と、

意気地を張ること強し、

とするが(大言海)、しかし、

たてたてし、

と訓み、

山伏はたてたてしきものをあさましき事なり(沙石集)、

と、

気性が激しい、

意とするものがある(岩波古語辞典)。意味から見れば、「たてだてし」は、

いきがる、

よりは、

はげしい気性、

の意の方がまさる気がする。

「だて」には、

伊達眼鏡、
伊達の薄着、

のように、

それが本来的な目的で着用されているのではないことを示す、

こともあり(実用日本語表現辞典)、やはり、

むやみにそうする意を表す接尾語「立て」が単独で用いられるようになったものだと考えられる。接尾語「立て」は、はっきりさせる意で用いられた動詞「立てる」の連用形に由来する、

というところだと思われる(仝上)。こうした、

いかにも~らしい様子を見せる、
ことさらにそのような様子をする、

という使い方の接尾語「だて」は、

室町末期に、名詞または形容詞として独立した、

とみられる(日本語源大辞典)。

東洲斎写楽「三世市川門之助の伊達の与作」.jpg

(東洲斎写楽「三世市川門之助の伊達の与作」 https://www.adachi-hanga.com/ukiyo-e/items/sharaku024/より)

「だてら」http://ppnetwork.seesaa.net/article/461527184.htmlで触れたが、「だてら」は、

女だてらに、

などといった使い方をするが、

接尾語「だて」+状態を表す接尾語「ら」、

で(デジタル大辞泉)、この「だて」は、

伊達、

と当てる「だて」で、「たつ」は、「縦」http://ppnetwork.seesaa.net/article/453257596.htmlにつながる。
そこで触れたように、「よこ」には、

横流し、
横取り、
よことま、

等々、正しからざる意味を含んでいるが、「立つ」は、

自然界の現象や静止している事物の、上方・前方に向かう動きが、はっきりと目に見える意。転じて、物が確実に位置を占めて存在する意、

と(岩波古語辞典)、「目立つ」という含意がある。この含意は、

立役者、
立女形、

の「立」に含意を残している気がする。

「立」 甲骨.png

(「立」(甲骨文字・殷) https://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%AB%8Bより)

「立」(慣用リツ、呉音・漢音リュウ)は、

会意。「大(ひと)+―線(地面)」で、人が両足を地につけて立ったさまを示す。両手や両足を添えて炉安定する意を含む、

とある(漢字源)。別に、

「立」 成り立ち.gif

(「立」成り立ち https://okjiten.jp/kanji181.htmlより)

指事文字です。「1線の上に立つ人」の象形から「たつ」を意味する「立」という漢字が成り立ちました、

とする解釈もあるhttps://okjiten.jp/kanji181.html

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

ラベル:伊達
posted by Toshi at 03:30| Comment(0) | 言葉 | 更新情報をチェックする

2021年06月22日

農民生活の実像


速水融『江戸の農民生活史』を読む。

江戸の農民生活史.jpg


本書は、旧美濃国安八郡西条(にしじょ)村(現岐阜県安八郡輪之内町(わのうちちょう))の西松家に伝えられた、安永二年(1773)から明治二年(1869)の九十七年間にわたる宗門改帳を用いて、江戸時代末期一世紀の、

「できるだけ詳細な人口統計を作成すると同時に、史料に登場する個々の男女や家族を追って、当時の人々の生活ぶりを再現しようと」

試みたものだhttp://library.rikkyo.ac.jp/_asset/pdf/archives/exhibition/exhibition1/jikata.pdf。本書の狙いは、

「個人や家族の行動追跡、および人口統計を通じてみた、江戸時代の農民生活史」

であると、著者は書く。そして、

「本書で提起されている歴史への視角は、単なる人口史ではない。成功しているか否かは、読者の判断に委ねるとして、筆者はひそかに、『新しい歴史』の試みを実践してみたつもりである。それは、ある時代の歴史を、徹底的に民衆生活、民衆の行動を通して解明しようとするものである。」

とし、それは、「歴史的存在としての江戸時代」を、

「できるかぎり客観的に、……とりあげ、そこに生きていた人々が、どのような生活をしていたのか、行動や思考をしていたのか、という立場から」

接近する方法があるべきではないか、と。

西条村は、

村高、704石9升2合、
戸数、78戸(慶応5年の宗門改帳、当初の94戸から減っている)、
五石以上、20戸(仝上、当初の24戸から減っている)、
二石以下、58戸(仝上、不明・その他4戸を含む。当初の80戸から減っている)、

という構成になる。

この宗門改帳に登場するのは、のべ約千九百人、

「地主もいれば水吞もいた。何十年にもわたる生涯をそこで送った人もいたし、他の村からやってきて一年きりで再び他の村へ行ってしまった奉公人もいた」

という西条村の住民の(一年単位の)実情が、

世帯の持高、
所持する家畜の種類、
出稼中の家族員の名前、年齢、奉公先、出稼期間、
結婚等で他所へ出た者の名前、年齢、嫁ぎ先、その年代、
婚姻、養子、奉公等によって村へ入ってきた者の、出身元、年代、

等々が、出入りを含めて記載されている宗門改帳を、

もとの史料にある世帯や個人に関する一切の情報を一枚の、

基礎シート化、

し、それをベースとして、目的別に、

静態人口統計シート、
世帯シート、
家族復元フォーム、
個人行動追跡シート、

と作成し、かなり細かな行動をフォローできる形にした。その意味で、個人ベースにまで、その人の生涯を追うことができる。勿論、宗門改帳の約百年の幅に登、退場する限りでのことだが。

この学問的背景は、かつては、

歴史民勢学、

と訳され、今日、

歴史人口学、

とされる、残された史料から、人口学的な行動を統計的に処理して、

民衆の生活実態を知ろうとする、

ものである。

輪中地帯のこの地域の村では、

「一方に数戸の、おそらく開発地主とおもわれる大高持と、他方では多数の無高小作農という、両極構造がみられる」

が、この村も、土地保有状況は、

「常に全世帯の50パーセント以上は、持高二石以下および無高の小作層でしめられている」

当然二石以下では自作農とは言えず、小作農であると見ていい。一方持高二十石以上層は、総数として減少し、西松家が、四十二石から八十九石へと増大させている。

こうした村の経済構造を背景として、個々の行動追跡を見て行けるところが、この史料の特質で、たとえば、

小作農「伊蔵」の一家、

の、伊蔵の誕生から、その子供七人が出稼に出たり、そのまま村にとどまり続けたものなどの行方を追う。

「(出稼ぎに出た二人の他の)五人の子どもは、史料の最終年次まで出稼ぎにでることもなく、家にとどまった。(中略)もしこの家が純然たる小作農であったとすると、このように多数の子どもを抱えることは、困難であったはずである。(中略)しかし「伊蔵」は、江戸時代の階層では「水吞」だったとしても、商いを営んでいたか、何らかの技術をもつ職人か、副業による収入を得ていたという可能性もある。」

と、「水吞」という表記だけでは追えない部分に迫れる。しかし、その理由までは、宗門改帳からはうかがえない。

あるいは、分家して一家を構えた「重助」の三人の娘は、ひとりは、十三歳から二キロ先の村への奉公からはじまり、何ヶ所か奉公先を変え、明治二年に死去するまで奉公を続けた。いまひとりは十歳で隣村に奉公をし、何ヶ所か奉公した後、三十八歳で、絶家の危機に瀕した家を継承するために、家に戻り、独身のままとどまったのち、再び奉公を始め、大阪で生涯を閉じる。いま一人の娘は、隣村へ奉公の後、二十五歳で、(西条村の親村に当たる)楡俣村に嫁ぐ。

こうした、宗門改帳に登場する人々の生涯を追って行くと、

「彼らが意外に広い空間で生涯を送り、決して『土地に縛り付けられ』、生まれた村から外へ出なかったわけではないことが判明する。もちろん、その理由の多くは、奉公であり、好きこのんで出たわけではないだろう。中には、六歳・七歳という幼さで奉公に出された例もあった。いわゆる『口減らし』のため、あるいは『身売りとして』、奉公に出ざるを得なかった者もいたに違いない。」

しかし、著者は、

「個人個人の生涯を史料のうえで追うと、たとい彼らが生涯の多くを奉公人として生家から離れて送ったとしても、その一生を、暗いイメージで理解してしまうのは間違いではないか、という印象を強くもつようになった」

という。その理由の一つは、

「少なからぬ男女が、奉公を機縁として結婚し、家族形成を行っている」

ことである。たとえば、安永二年(1773)から明治二年(1869)の九十七年間に生まれて女子は490人、

「その内結婚したのが200人、結婚しなかった290人のうち、115人は三十歳未満で死亡、68人は三十歳未満で奉公などの理由で他所へ出、また天保十一年(1840)以降の出生者、いいかえれば、いまだ結婚の可能性のある者は、91人を数えるので、独身の女性は16人ということになる。この数は、出生率に比べれば、……独身率は非常に低かったことを物語っている。」

因みに、女性の結婚年齢は、上層程低く、下層では高く、小作層では、結婚年齢が20歳代に広く分布していて、これは、多数の奉公人が出稼ぎに出ているためとみられる、としている。

その理由に第二は、

「都市への奉公人が、丁稚奉公から出世し、都市で一家を構えて住みつく例もあった。たとえば、水吞の家に生まれた『和助』は、京都祇園の人形屋甚右衛門方に奉公していたが、天明二年(1782)、三十三歳のときの史料から、『喜兵衛』と名を改め、『京都町方借宅』という記載になり、天明八年からはこの村の史料からは姿を消してしまった。恐らく彼は、職業はわからないけれども、ともかく一家を構える京都町方の住民になったのだろう。」

と。小さな村であり、輪中という特殊な地域ではあるにしても、単なる統計的な構造だけではなく、生き生きとした一人一人の生涯まで追える「宗門改帳」というものの威力に感心させられる。

幕藩体制下の農民、ないし農村社会のありようについては、

藤野保『新訂幕藩体制史の研究―権力構造の確立と展開』http://ppnetwork.seesaa.net/article/470099727.html
渡邊忠司『近世社会と百姓成立』http://ppnetwork.seesaa.net/article/464612794.html
菊池勇夫『近世の飢饉』http://ppnetwork.seesaa.net/article/462848761.html
深谷克己『百姓一揆の歴史的構造』http://ppnetwork.seesaa.net/article/474047471.html
水林彪『封建制の再編と日本的社会の確立』http://ppnetwork.seesaa.net/article/467085403.html

でそれぞれ触れた。

参考文献;
速水融『江戸の農民生活史』(NHKブックス)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

posted by Toshi at 03:38| Comment(0) | 書評 | 更新情報をチェックする

2021年06月23日

一人一名


尾脇秀和『氏名の誕生~江戸時代の名前はなぜ消えたのか』読む。

氏名の誕生.jpg


本書では、

「日本人の人名の歴史を、古代から語り始めることをあえてしない。江戸時代の『名前』を出発点として、その時代における人名の常識がどんなもので、それがいかなる経緯で変化し、どのように今の『氏名』が生まれたか―。それを語りたいのである。」

とし、そのために、

「まず江戸時代の人々が無意識のうちに受容・共有していた、その時代の人名の常識」

から始め、それが王政復古により、朝廷の常識とする人名への人名の「王政復古」を強制される中での混乱を通して、結局、今日の「氏名」へと落ち着くまでの経緯を描く。

その混乱の収斂のありさまも滑稽だが、江戸時代の名前の常識は、改めて独自の世界だと驚かされる。

今日、

氏名、
あるいは、
姓名、

という呼び方で意味しているのは、例えば、

横浜太郎、

なら、

氏(あるいは姓)が、横浜
名が、太郎、

というのが、常識である。しかし、これは、明治五年五月七日の、

太政官布告、

で、

従来通称・名乗、両様用来候輩、自今一名たるへき事、

と、

一人一名、

とする旨の布告以降のことなのである。つまり、逆にいうと、江戸時代は、例えば、武士だと、

苗字+通称、

と、

本姓+名乗、

の両名を持っていた。それを、著者は、

壱人両名、

と呼ぶ。

江戸時代の人名の実態 (2).jpg

(江戸時代の人名の実態と名称 本書より)

苗字は、江戸時代、

苗氏、
名字、

等々と表記し、これを、

姓、
とか、
氏、

と呼んでいた。通称は、

遠山金四郎、

の、金四郎のような、下の名前で、

名、
とか、
名前、

と呼ばれた。この通称には、

①大和守とか図書頭というような正式の官名、
②主膳、監物、主計などの、疑似官名(江戸時代は官名を僭称できなくなっている)、
③熊蔵、新右衛門、平八郎などの一般的な通称、

の三種がある。しかし、大名・旗本などを中心に、

本姓(姓)、

というものがあり、

源、
とか、
藤原、
とか、

の「姓」を持つ。名乗は、

実名、
諱、
名、

とも呼ばれたが、通常、

「日常世界では使わないし、その機能も有していない」

ものだが、

本姓+名乗、

という、自身の系譜を表現する「姓名」として設定しておく必要があった。通常は使わなくても、

「正式な官名を名前とする大名と一部の旗本には、人生で一度くらい必要になる」

設定であった、とある。

しかし、この時、朝廷は別の常識、古代以来の官制に基づく、常識を持っていた。たとえば、

山部+宿禰+赤人、

というように、

氏(本姓)+姓(=尸 かばね)+名(実名)、

で表記される。つまり、

姓+実名、

こそが、その人の個人の名とするのである。官位は、あくまで、この姓に対して与えられる。

二つの人名の常識.jpg

(二つの人名の常識 本書より)

この朝廷の常識が、王政復古で復活されようとして、維新の五年間大混乱になるが、徴兵制導入とともに、

「『国家』が『国民』個人を一元的に管理・把握する」

必要があり、

明治八年二月、名字強制令、

で、全国民に「氏名」強制されることになる。これ以降、

苗字+名、

という「氏名」が常識になる。

「『苗字』の血縁的な意味とか、それを名乗る正当性とか、そんなものに、『国家』は何の関心もない。『国家』にとっての『氏名』とは、『国民』管理のための道具でしかない」

ものになったのである。この上に立って、

戸籍法、

が成立し、

「初回の徴兵は徴兵対象者の80%が徴兵を逃れた」という、

徴兵制、

の厳格化が可能となったのである。

近代氏名の成り立ち (2).jpg

(近代氏名の成り立ち 本書より)

著者が言うように、

「歴史上『名前(苗字+通称)』と『姓名(姓+実名)』、そして明治五年以降の『氏名』という三種類が存在」

したことになるのである。その認識も、今日ほとんど共有されていないが。

参考文献;
尾脇秀和『氏名の誕生~江戸時代の名前はなぜ消えたのか』(ちくま新書)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

posted by Toshi at 03:52| Comment(0) | 書評 | 更新情報をチェックする

2021年06月24日

下司


「下司」は、

げし、

と訓むと、

身分の低い官人、

の意で、

したづかさ、

とも訓ます。

平安末期から中世にかけて、荘園の現地にあって事務をつかさどった荘官、在京の上司(じょうし)に対して言う、

とある(広辞苑)、

沙汰人、

ともいう。より詳しく見ると、

荘園領主の政所で荘園のことを扱う上司、上司と荘園現地の間の連絡にあたる中司(預(あずか)り)に対して、現地で実務にあたるものを「荘の下司」(荘司)といった。所領を寄進した在地の領主(地主)がそのまま下司に任命される場合と、荘園領主から任命されて現地に赴任するものとがあった。下司は荘地・荘民を管理し、年貢・公事(くじ)を荘園領主に進済する。代償として給田(きゅうでん)・給名(きゅうみょう)を与えられたほか、佃(つくだ)を給されたり、加徴米や夫役(ぶやく)の徴収を認められたりした。平安末期には、在地の下司は世襲となり、国衙(こくが)領の郡司職(ぐんじしき)・郷司職(ごうじしき)を兼帯して、それらの職(しき)を足掛りにして在地領主として成長し武士化するものが多かった、

とあり(日本大百科全書)、この在地領主層を武家の棟梁として組織することによって成立したのが鎌倉幕府ということになるが、

下司のうちかなりの部分が御家人化し、彼らの下司職の多くは地頭職に切り替わっていった。地頭には本所の改替権が及ばず、また地頭と称さずとも御家人化した場合には、〈所々下司荘官以下、仮其名於御家人、対捍国司領家之下知〉と《御成敗式目》に見えるように、荘官としての一面を保持しつつも、むしろ荘田・荘民を自己の支配下にとり込み、独自の領主化をすすめた、

とある(世界大百科事典)。これが、国人領主になっていく。

「下司」は、

現地にあって公文(くもん)、田所、惣追捕使等の下級荘官を指揮し、荘田・荘民を管理し、年貢・公事の進済に当たる現地荘官の長をいう、

ともある(仝上)ので、

身分の低い官人、

とはいっても、貴族から見てのことでしかない。この「上司」が、今日、

上役(うわやく)、

の意で使われる。このため、「下司」も、

したづかさ、

と訓ませて、

部下、

下役、

の意で使う。

「下司」は、また、

げす、

と訓ませると、

下衆、
下種、

とも当て、

身分の低いもの、
使用人、

の意で使う。この場合は、

上種(じょうず)、
上衆(じょうず)、

の対として使われ(岩波古語辞典・広辞苑)、

上衆めかし、
上衆めく、

と、

上流の人らしい、
上流の人らしくふるまう、

といった意味で使う。だから、

下種(衆)⇔上種(衆)、

の対と、

下司⇔上司、

の対は、別々の意味であったと思われる。しかし、「げす」が、

げすな奴、
とか
げすな根性、

と、

身分の低い者、
とか
しもべ、

という状態表現でから、

卑しきこと、
鄙劣(卑劣)、

等々という価値表現に転じたことによって、似た、

下層の人、

の意と混同されたのか、「卑しい」意の「げす」に、

下種、
下衆、

とともに、

下司、

も当てるようになっている。「げす」は、

げすけずし、
げすし、

と、

いかにも身分が低いものがやりそうである、

という状態表現とともに、

見るからに卑しい、

という価値表現としても使う。

本来の「下衆(種)」は、

下+ス(衆・種)、

と(日本語源広辞典)、広く、

下賤の人、

の意であったと思われる。

ところで、「下司」には、

したづかさ、

と訓ませて、

長官(かみ)、
次官(すけ)、
判官(じょう)、
主典(さかん)、

という四階級の、

四部官、
または
四等官、

を指した。おなじ「かみ」「すけ」でも、省・職・寮・司という官制によって、「下司」が変わる。官名の階級を付け、

官名+(の)+四部官、

で、たとえば、「縫殿寮(ぬいのりょう)の長官(かみ)なら、

縫殿(ぬい)+の+頭(かみ)、

大膳職(だいぜんしき)の次官(すけ)なら、

大膳亮(だいぜんのすけ)、

土佐の国の判官(じょう)なら、

土佐掾(とさのじょう)、

と称する。この四部官をつけることを、「下司をつける」という(尾脇秀和『氏名の誕生~江戸時代の名前はなぜ消えたのか』)が、ここは憶説だが、荘園の荘官を「下司(したづかさ/げし)」と呼ぶ起源は、この四部官の「下司(したづかさ)」から来たのではないか、という気がしている。

「下」 漢字.gif

(「下」 https://kakijun.jp/page/0301200.htmlより)

さて、「下司」にあてる「下」(漢音カ、呉音ゲ)は、

指事。おおいの下にものがあることを示す。した、したになる意を表す、上の字の反対の形、

とある(漢字源)。

「下」 金文.png

(「下」 金文・西周 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E4%B8%8Bより)

別に、

指事文字です。甲骨文(甲骨文字)では、基準線の下に短い線を1本引く事で「した」を意味していました。それが変化し、現代の「下」という漢字が成り立ちました、

とあるhttps://okjiten.jp/kanji117.html。甲骨文字を見る限り、こちらの説の方に説得力がある。

「下」 成り立ち.gif

(「下」 成り立ち https://okjiten.jp/kanji117.htmlより)

「司」(唐音ス、呉音・漢音ス)は、

会意。「人+口」。上部は、人の字の変形、下部の口は、穴のこと。小さい穴からのぞくことをあらわす。覗(のぞく)・伺(うかがう)・祠(神意をのぞきうかがう)の原字。転じて、司祭の司(よく一事をみきわめる)の意となった、

とある(漢字源)が、別に、

「司」 成り立ち.gif

(「司」 成り立ち https://okjiten.jp/kanji620.htmlより)

会意文字です。「まつりの旗」の象形と「口」の象形(祈りの言葉」の意味)から、祭事をつかさどる、すなわち、「つかさどる(役目とする)」を意味する「司」という漢字が成り立ちました、

とする解釈もあるhttps://okjiten.jp/kanji620.html

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
尾脇秀和『氏名の誕生~江戸時代の名前はなぜ消えたのか』(ちくま新書)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

posted by Toshi at 03:33| Comment(0) | 言葉 | 更新情報をチェックする

2021年06月25日

そうぞうしい


「そうぞうしい」は、

騒々しい、

と当てる。物音や人声が、

さわがしい、
やかましい、

の意だが、その状態表現のメタファで、大きな事件が続いて起こるなどして、

落ち着かない、
不穏である、

意でも使う(広辞苑・デジタル大辞泉)。文語では、「そうぞうしい」は、

さうざうし、

と表記するが、

騒々(さわざわ)の音便。さわづく、さうどく。さわがし、さうがし、

と、

さわざわの転訛、

とする(大言海)説がある。「さわぐ」http://ppnetwork.seesaa.net/article/465482949.htmlで触れたように、「さわざわ」は、

さわぐ(騒)のサワと同根、

とあり(岩波古語辞典)、「さわぐ」は、

奈良時代にはサワクと清音。サワは擬態語。クはそれを動詞化する接尾語、

とある(仝上)し、

音を云ふ語なり(喧喧(さやさや)と同趣)、サワを活用して、サワグとなる。サヰサヰ(潮さゐ)、サヱサヱとも云ふは音轉なり(聲(こゑ)、聲(こわ)だか。据え、すわる)、

ともあり(大言海)、「さいさいし」も

さわさわの、さゐさゐと転じ、音便に、サイサイとなりたるが、活用したる語、

と、「さわさわ」と関わり、

「万葉集の「藍左謂(さゐさゐ)」、「恵佐恵(さゑさゑ)」などの「さゐ・さゑ」も「さわ」と語根を同じくするもので、母韻交替形である、

ともある(日本語源大辞典)。

だから、「サワ」は、

さわさわ、

という擬態語由来と思われるが、今日、「さわさわ」は、

爽々、

と当て、

さっぱりとして気持ちいいさま、
すらすら、

という擬態語と、

騒々、

と当て、

騒がしく音を立てるさま、
者などが軽く触れて鳴る音、
不安なさま、落ち着かないさま、

の擬音語とがある。古くは、「さわさわ」は、

騒々しい音を示す用法(現代語の「ざわざわ」に当たる)や、落ち着かない様子を示す用法(現代語の「そわそわ」に当たる)もあった、

とある(擬音語・擬態語辞典)。古事記に、

口大(くちおほ)の尾翼鱸(をはたすずき)さわさわに(佐和佐和邇)引き寄せ上げて、

とあり、「さわさわ」の「さわ」は、

「騒ぐ」の「さわ」と同じもの、

とする(仝上)。で、「そうぞうしい」は、

騒々(さわさわ)+シ(形容詞化)、

というのが一つの説になっている(日本語源広辞典)。

ただ、室町末期の『饅頭屋本節用集』に、

「忩々 ソウゾウシ」とあること、

また、「日葡辞書」の表記が、

sôzô(ソウゾウ)であってsǒzǒ(サウザウ)でないこと、

等々から、

ソウゾウ(忩々)の形容詞化(疑問仮名遣)、

を是とすべきとする説があり(日本語源大辞典・精選版日本国語大辞典)、音韻からみると、後者に分がある気がする。

「忩」 漢字.gif


「忩」の異字体は、

悤、
怱、
匆、

とある(https://jigen.net/kanji/24553https://jigen.net/kanji/24553その他)。「忩」は、

忩(あわ)てる、
忩(いそ)ぐ、

等々と使い、「忩々(そうそう)」は、

怱々、
悤々、

とも当て、

あわただしいさま、
忙しいさま、
騒がしいさま、

を示す語とある(広辞苑・日本語源大辞典)。

事をはぶいて簡略にする、

という意もあり(岩波古語辞典)、手紙の最後に、

取り急いで走り書きした、

意で、

草々、
匆々、

と書くのと同じ使い方をする。いずれとも決める手がかりをもたないが、表記が、「日葡辞書」で、

sǒzǒ(サウザウ)、

でなく、

sôzô(ソウゾウ)、

であることは、もともと、

さうざうし、

ではなく、

そうぞうし、

であったことを推定させ、

さうざう→そうぞうし、

より、

そうそう→そうぞう(忩々・怱々)し、

の方が、説得力がある。

「忽」 漢字.gif


「忩」(ソウ)の異字体、「怱」(漢音ソウ、呉音ス・スウ)は、

形声。正字は、悤(緫の旁と同じ)で、「心+音符窗(ソウ)の略体」。窗(まど)はここでは意味に関係ない。急促の促(ソク せかす)の語尾が伸びたことば、

とある(漢字源)。

「騒」(ソウ)の字は、

「会意兼形声。蚤(ソウ)は『虫+爪』から成り、のみにさされてつめでいらいらと掻くことをあらわす。騒は『馬+音符蚤』で、馬が足掻くようにいらだつことをあらわす」

とある(漢字源)。さわぐ、意だが。いらだちや落着かないさまをも意味する。

「騒」 漢字.gif

(「騒」 https://kakijun.jp/page/1843200.htmlより)

別に、象形と頭が大きくグロテスクなまむしの象形(「虫」の意味)」(飛び跳ねる虫を上から押さえ爪でつぶすさまから、「のみ」の意味を表すが、ここでは、「飛び跳ねる」の意味)から、飛び跳ねる馬を意味し、そこから、「さわぐ」、「さわがしい」を意味する「騒」という漢字が成り立ちました。また、「愁」に通じ(「愁」と同じ意味を持つようになって)、うれえる(嘆き悲しんで訴え出る)の意味も表します、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji1231.html

「騒」 漢字 成り立ち.gif

(「騒」 成り立ち https://okjiten.jp/kanji1231.htmlより)

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

ラベル:そうぞうしい
posted by Toshi at 03:19| Comment(0) | 言葉 | 更新情報をチェックする

2021年06月26日

背向


「背向」は、

そがい

と訓ませる。

はいこう、

と訓むと、

背くこと向かうこと、
離れることと従うこと、

の意で、

向背、

と同義で、文字通り、

背を向ける、

意からのメタファと思われる。

そがい、

と訓むと、文字通り、

背(うしろ)の方、
うしろ向き、

の意で、

背面、

と重なる。古く万葉集に、

筑波根(つくばね)に曽我比(そがひ)に見ゆるあしほ山悪しかるとがもさね見えなくに

と、使われている。ここから、万葉集で、

わが背子(せこ)を何処(いづち)行かめとさき竹の背向(そがひ)に寝(ね)しく今し悔やしも

背中合わせ、

の意も、出てくる。

ソは背、ソムカヒの約か。ヒムガシがヒガシに転ずる類(岩波古語辞典)、
ソムカヒの略。ひむがし、ひがしと同趣(大言海)、

とある。「そ(背)」は、

セの古形、

とある(岩波古語辞典)。

ソはセ(背)の母音交替形。「万葉集」には「背」「背向」などとも表記され、ソムカヒの縮約と見られる。多くの場合、「に」を伴って「見る」「寝る」といった同志を修飾する、

とある(日本語源大辞典)。

ソムカヒ→ソガヒ→ソガイ、

という転訛ということになる。ただ、漢語に

背向(ハイコウ・ハイキョウ)、

という言葉があり、漢書・藝文志に、

形勢者、雷動風擧、後発而先至、離合背向、変化無常、以形疾制敵者也、

とあり(字源)、

背向=向背、

と注記されている。ために、

「前後」または「向かい合ったり背にしたりする」意の漢語「背向」の翻訳語、

と見る説もある(日本語源大辞典)。

「背」 漢字.gif


「背」http://ppnetwork.seesaa.net/article/405100495.html?1622501901については触れたことがあるが、「せ」の古形、

ソ(背)、

から語源を考えるしかない(岩波古語辞典)。

朝鮮語tïng(背)と同源(岩波古語辞典)、

は別として、

反(ソレ)の約(大言海・名言通)
ソ(外)の義(言元梯)、
シリヘの約シレの反(日本釈名)、
ソヘ(後方)の義(日本語原学=林甕臣)、
体の根の意で、ネ(根)の転か(国語蟹心鈔)、

等々の諸説がある中で、

本来「せ」は外側、後方を意味する「そ」の転じたもの、

とある(日本語源大辞典)ので、

ソ(外)の義(言元梯)、
ソヘ(後方)の義(日本語原学=林甕臣)、

辺りになるが、この原義から考えると、

背が高い、

というような、

背丈、

の意味はない。

ところが、

身の勢、極て大き也(今昔)、

というように、体つき・体格を意味する、

勢(せい)、

があり、これとの音韻上の近似から、

勢(せい)⇔背(せ)、

と混同されるようになった(日本語源大辞典)、とある。

「背」 小篆 漢.png

(「背」 小篆・説文・漢 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E8%83%8Cより)

「背」(漢音ハイ、呉音へ・ハイ、ベ・バイ)は、

会意兼形声。北(ホク)は、二人のひとが背中を向けあったさま。背は「肉+音符北」で、背中、背中を向けるの意、

とある(漢字源)。「北」は(寒くていつも)背中を向ける方角、とある(「北」は「背く」意がある)。また「背」の対は、「腹背」というように腹だが、また「背」は「そむく」意があり、「向背」(従うか背くか)というように「向」(=従)が対となる(仝上)。別に、

「背」 成り立ち.gif

(「背」 成り立ち https://okjiten.jp/kanji281.htmlより)

会意形声。「肉」+音符「北」、「北」は、二人が背中を合わせる様の象形。「北」が太陽に背を向けるの意から「きた」を意味するようになったのにともない、(切った)「肉」をつけて「せ」「せなか」「そむく」を意味するようになった、

ともあるhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E8%83%8C

「向」 漢字.gif

(「向」 https://kakijun.jp/page/0647200.htmlより)

「向」(漢音コウ、呉音キョウ)は、

会意。「宀(屋根)+口(あな)」で、家屋の北壁にあけた通気口を示す。通風窓から空気が出ていくように、気体や物がある方向に進行すること、

とある(漢字源)。別に、

会意。「宀」(屋根)+「口」(窓 又は 窓に供えた神器)、

ともありhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%90%91、さらに、

象形文字です。「家の北側に付いている窓」の象形から「たかまど」を意味する「向」という漢字が成り立ちました。
「卿(キョウ)」に通じ(同じ読みを持つ「卿」と同じ意味を持つようになって)、「むく」という意味も表すようになりました、

との解釈もあるhttps://okjiten.jp/kanji487.html

「向」 甲骨文字.png

(「向」 甲骨文字・殷 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%90%91より)

向、

と同義の「嚮」(漢音キョウ、呉音コウ)は、

「向(キョウ)+郷(キョウ)」で、ごちそうをはさんで左右から人が向かい合うさまを示す。むかう、むこうの方角へ動いて去るの意を含む、

とあり(漢字源)、「嚮導」(キョウドウ 目標目ざして導く)等々と使う。

「向」 成り立ち.gif

(「向」 成り立ち https://okjiten.jp/kanji487.htmlより)

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

posted by Toshi at 03:26| Comment(0) | 言葉 | 更新情報をチェックする

2021年06月27日

せがれ



「せがれ」は、

倅、
忰、

と当てる(広辞苑)が、


世椊、
忰子、

とも書く、

とある(岩波古語辞典)。「躮」は、

造字なり、

とある(大言海)。国字のようである(字源)。江戸中期の『書言字考』には、

忰、セガレ、本朝俗謂我子為忰、

とある(仝上)。

古くは女子にも用いた、

とある(広辞苑・デジタル大辞泉)。

ただ、漢字では、

忰、

倅、

は別字である。

「倅」 漢字.gif


「倅(伜)」(漢音・呉音サイ、漢音ソツ、呉音ソチ)は、

会意兼形声。卒は「衣+十」の会意文字で、法被を着た十人一組の雑兵や人夫をあらわす。小者の意を含む。倅は「人+音符卒」で、小者の意から、小さい人、添え役などの派生義をあらわす、

とあり(漢字源)、「せがれ」の意味はない。「助け役」「副官」の意で、周禮(夏官篇)、「遊倅」の註に、

子之未仕者、

とあり(大言海・字源)、

部屋住、

の意で使われる。

「悴」 漢字.gif


「悴(忰)」(漢音スイ、呉音ズイ)は、

会意兼形声。卒は、小者の雜卒のことで、小さい意を含む。悴は「心+音符卒」で、心やからだがやせて小さく細ること、

とある(漢字源)。「憔悴」とか「悴顔」というように、やつれ体で使う。「せがれ」に使うのは、

倅の誤用、

とある(字源・漢字源)。「悴」は、屈原「漁父辞」に、

屈原既放、
游於江潭、
行吟沢畔、
顔色憔悴、
形容枯槁、

に、

顔色憔悴、

と使われている(字源)。

「せがれ」は、

室町時代から見られる語、

とある(語源由来辞典)が、屈原の、

顔色憔悴、
形容枯槁(ここう)、

を、

「憔悴」「やせ」、「枯槁」を「かれ」と訓んだ(つまり痩せ枯れ)ところから、

とする説が結構ある(鋸屑譚・海録・俗語考・用捨箱・日本語源=賀茂百樹・猫も杓子も=楳垣実・日本語源広辞典他)。大言海も、

痩枯(ヤセカレ)の略。痩法師の意。乱世に、武勇を貴びしより、己れが子を卑下して、憔悴(ヤセガレ)と云ひしなり。此語、屈原の漁父辞に、顔色憔悴、形容枯槁(カレ 古調)とあるより出づ。悴の字を省きて、忰に作り、過りて、倅となれり。名義抄に、「顇、又倅、かじく」と見えたり、

とする。「かじく」は、古くは「かしく」で、

悴く、

とあて、

痩せる、

意である(広辞苑)。しかし、

「憔悴」「やせ」、「枯槁」を「かれ」と訓んだ、

というのが付会に思えてならない。「子供」を卑下して、

痩法師、

というのは、「坊主」http://ppnetwork.seesaa.net/article/473899166.htmlで触れたように、

腕白坊主、

というような子供(男の子)を指すのと同様、

昔男児は頭髪を剃ったから、

法師、

ということも、

痩法師、

ということもあり得る。しかし、それと、

痩せ枯れ、

と呼ぶのとはつながらない。しかし、

中國で娘を称する蕉萃と同義か(書言字考節用集)、
セガラウ(拙郎)の義か(燕石雑記)、
兄子吾(日本語源=賀茂百樹)、
セカルル(世悴)の義(名言通)

等々、他には見るべき説がない。ここからは勝手な憶説だが、似た音の、

やつがれ(僕)、

という言葉がある。これは、

奴我(ヤッコアレ)の約、

とされる(古くは「やつかれ」と清音)。「アレ」は、

吾(我)、

である。この言葉との類縁性の方が、気になるのだが。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

ラベル:せがれ
posted by Toshi at 03:17| Comment(0) | 言葉 | 更新情報をチェックする

2021年06月28日

やつがれ


「やつがれ」は、

僕、

と当てる(広辞苑・大言海・岩波古語辞典)。また、

やつがり、

とも、とある(大言海)。和名抄に、

僕、夜都加利、

とある。

へりくだって、

わたしめ、

というような、

自分の謙称、

で、

上代は、男女に通じて用いた、

とある(広辞苑・大言海)。和名抄(平安中期)には、

奴僕、夜豆加禮、

とあり、名義抄(平安末期)には、

僕、ヤツカレ、ヤッコ、臣、ヤツカレ、

とある。

「僕」 漢字.gif

(「僕」 https://kakijun.jp/page/1403200.htmlより)

「やつがれ」は、

ヤッコアレの約(広辞苑・大言海・岩波古語辞典)、
ヤッコアレ(奴我)はコア[k(o)a]の縮約でヤツガレ(僕)になった(日本語の語源)、

とされるが、「ヤッコアレ」に、

奴吾(岩波古語辞典)、
奴我(広辞苑・大言海)、
臣我(箋注和名抄)、
臣吾(言元梯)、

と、微妙に当てる字を異にする。

近世以降になると、もっぱらある程度身分のある男性の、やや改まった場での文語的な用法として使われ、近世後期には、気どったり茶化したりする用法になった。これは明治初期まで引き継がれ、その後は書生ことばなどで、ややおどけた口調の語などに用いられている、

とある(日本語源大辞典)。今日では、特殊な例を除いて、「やつがれ」は使われないし、「僕」は、漢文脈の中でも、

古代から男子の、非常にへり下った表現として見られるが、訓読されるのが一般的であった、

とある(精選版日本国語大辞典)。つまり「やつがれ」「やつがり」と訓ませた。今日は、

ぼく、

と音読するが、これは、

江戸時代の漢文から「ぼく」の形で、対等もしくは目下の者に対する自称の代名詞として多用され、さらに明治時代から、書生・学生が「ぼく」と読んで用いるようになった。現代では特に少年男子の自称として広く用いられるが、改まったときは「わたくし」を用いる、

とある(仝上・デジタル大辞泉)。

「ヤッコアレ」の「やっこ」は、

や(家)ツ(連帯助詞)コ(子)の意、室町時代までは、ヤツコ。ヤッコとなったのは近世以降、

とある(岩波古語辞典・日本古語大辞典=松岡静雄・大言海・広辞苑)。「やっこ」は、

臣、
とも、
家人、
とも
僕、

とも当てる(大言海)が、「臣」と当てると、

生事之、死不殉、是不臣(やっこ)矣(安康紀)、

と、

臣(おみ)、君に仕ふる人、

の意であり、さらに、

住吉の小田を刈らす子賤(ヤツコ)かもなき奴(ヤツコ)あれど妹がみために私田(わたくしだ)苅る(万葉集)、

と、

奴婢、

の意でも使う(大言海・岩波古語辞典)。さらに、「家人」と当てとると、

竪(タタ)さにも彼(カ)にも横さも夜都故(やつこ)とぞ、吾(あれ)はありける主の殿外(とのと=御殿)に(万葉集)、

というように(「大伴の池主が主家の大伴家持の親しき家の子なるを」と注記)、

長上より其の下を親しみで言ふ語、

の意でも使う(大言海・広辞苑)。さらに、それが、「奴」「婢」と当てると、

奴僕、

でも使われ、さらに、代名詞として、古くは、

天皇招之、因問曰、汝誰也、對曰、臣(ヤツコ)是國神、名曰珍彦(神武即位前紀)、

と、

古へ、男女共に謙遜に用いる自称の代名詞、

とある。この場合、どちらが先かは分からないが、

身分の低い人、あるいは下男、

という状態表現から、自分をへりくだる、

謙称、

として使われたということなのだろう。「やつこ」が、「やっこ」となった江戸時代以降、

武家の下僕、

つまり、

中間、

を指し、

撥鬢(ばちびん)頭・鎌髭をはやし、ぽくとぅを指した。主人の行列に槍・長柄・挟箱を持ち歩いた奉公人、

の謂いである。近世初期に、

町奴、
武家奴、

等々と、

男立、

を指したこともある(岩波古語辞典・明解古語辞典)。

「六方」http://ppnetwork.seesaa.net/article/444986084.htmlで触れたように、「男立(男伊達)は、

六方、

ともいい、

奴風(やっこふう)、

を指し、

萬治、寛文の頃、江戸にありし男伊達の黨の穪。鶺鴒組、吉屋組、鐡砲組、唐犬組、笊籬(ざる)組、大小の神祇組、などありて、これを六法男伊達と云ひ、町々を徘徊せり。これ等のものを六法者とも云へり、

とあり(大言海)、三田村鳶魚は、

武家の奉公人で、身分の軽いものですが、これをすることを軽快であるとし、おもしろいとして、それを学んだものが旗本奴(江戸ッ子)、

とある。この、

男立(伊達)を気どるのを、「彌造」http://ppnetwork.seesaa.net/article/422606177.htmlで触れたように、

彌造(弥蔵)、

といい、

懐手をして、着物の中で握りこぶしをつくり、肩の辺りを突き上げる姿形。江戸後期、職人、博徒などの風俗、

とある。

「ヤッコアレ」の「アレ」は、
吾、
我、

と当て、

わたし、

の意だが、

ワレ(ware)の語頭のwが脱落した形か、平安時代以後はほとんど使われず、僅かに慣用句の中に残る、

とある(岩波古語辞典)。「われ」http://ppnetwork.seesaa.net/article/473288508.htmlについては触れた。

「僕」(漢音ボク、呉音ホク)』は、

会意兼形声。菐の原字は奴隷が供え物をささげるさまに、その奴隷の頭に入れ墨をする印を加え、下部に尻尾を添えた姿を描いた象形文字で、獣に近いさまを示す。僕は、それを音符として、人を加えた字で、荒削りで作法を知らない下賤の者の意を含む。転じて謙遜するときの一人称代名詞になった、

とある。「ぼく」の使い方よりは、「やつがれ」の方が、漢字の意味にはかなっていたことになる。

「僕」 甲骨文字.png

(「僕」 甲骨文字 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%83%95より)

別に、

会意形声説。「人」+音符「菐」(従者等の象形)。甲骨文は「其」(箕の象形)+「辛」(刑具の象形)+「人」+「尾」+数個の点。しもべがごみを盛った竹箕を持ち、掃除する姿に象る。奴僕、しもべが本義である。「其」は後に「甾」に変形、両手は「辛」の下に移り、人は偏へ、「辛」は「丵」に変形した。劉興隆によれば、「尾」には侮辱の意味が込められている、

とする説https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%83%95

「僕」 金文.png

(「僕」 金文 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%83%95より)

会意文字です(人+其+辛+廾)。「5本の指のある手」の象形と「農具:箕(み)」の象形と「入れ墨をする為の針」の象形と「両手」の象形から、罪人・奴隷が汚物を捨てているさまを表し、そこから、「しもべ」、「召使い」を意味する「僕」という漢字が成り立ちました、

とする説https://okjiten.jp/kanji2014.html

等々もある。

「僕」 成り立ち.gif

(「僕」 成り立ち https://okjiten.jp/kanji2014.htmlより)

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

ラベル:やつがれ
posted by Toshi at 03:33| Comment(0) | 言葉 | 更新情報をチェックする

2021年06月29日

贅六


「贅六」は、

ぜいろく、

とも、

ぜえろく、

とも訓ませる(広辞苑)。

贅は当て字、

で、

おめへがたのことを、上方ぜえろくといふわな(浮世風呂)、

と、

上方贅六、

という言い方をし、

関西人への蔑称、

とある(仝上)。

上方贅六、

は、

上方贅六(ざいろく)、

とも言う。

江戸で、上方の人をののしっていう称、

とある(仝上)。で、「ぜえろく」は、

才六(さいろく)、

が、

江戸風に訛ったもの、

ということになる(仝上)。しかし、江戸語大辞典は、

青少年を罵って言う語、

つまり、

小僧っ子、

の意味で、転じて、

なんだへ此せへ六め、手引をつれて出やアがれ(安永八年(1779)「廻覧奇談深淵情」)、

と、

人への罵語、

として使う、とある。とすると、

へへ、関東ぺいが。さいろくをせへろくと、けたいな言葉つきぢゃなあ(文化六~十年(1809~13)「浮世風呂」)、

というやり取りは、

江戸人が上方人をけなしていう語(岩波古語辞典)、

と、ことさら上方人を言挙げするというよりは、罵詈雑言の一種ということになる。

大言海も、「才六(ざいろく)」を、

毛才六(ケザイロク)とも云へば、毛二歳を上略して、擬人したる語(宿六、耄六)。未熟者の意なるべし。ケを略して云ひ、ザイは、濁音にて遺る、

とする。

毛才六(ケザイロク)、

ともいう。だから、本来、江戸人が上方を貶めて言う場合、

上方才六(贅六 ぜえろく)、

を、略して、

ぜえろく、

といった、と見える。つまり、

ぜえろく、

といった時は、

上方を貶めている、

と見られる(大言海)のである。

もともと人をののしって毛才六(けざいろく)(青二才)ということがあり、その才六が江戸っ子ことばでゼエロクとなり、擬人化されたといわれる。才六はばか、あほう、つまらぬ者の意。文化八年(1811)の『客者評判記』には、「上方の才六めらと倶一(ぐいち)にされちゃアお蔭(かげ)がねへ」などとある。関西が長い文化の伝統をもっているのに対して、江戸は新興都市であったから、コンプレックスの裏返しの心理とみることができよう。贅はよけいなものの意であり、六も宿六(やどろく)、甚六(じんろく)などのように、あまり役にたたない者に対して、卑しむ気持ちを表現したことばである、

とある(日本大百科全書)。つまり、

上方才六(上方さいろく)→才六(ざいろく)→ぜえろく(贅六)、

と転化していったものとみられる。

因みに、「毛才六(けざいろく)」は、

けさいろく、

ともいい、

ケは接頭語、異(ケ)の意、転じて、罵意を表し、

どこの馬の骨かもしれねへ毛才六(けさへろく)(天明四年(1784)「二日酔巵觶」)、

と、

青二才、
小僧っ子、

の意である。だから、

「せいろく」は上方で丁稚のことをいう隠語「さいろく」の江戸なまり(精選版日本国語大辞典)、

は如何であろうか。また、

さいころの目になぞらえて、小者のことを、揃って一の目の出る重一の裏の意の重六といったところから、ジューロクの訛、またサイロク(賽六)の転(日本の言葉=新村出・話の大事典=日置昌一)、

という説もあるが、江戸語大辞典は、

賽六説は付会、

とするように、少し考えすぎなのではないか。

「贅六」「宿六」「甚六」などに使う「六」は、「宿六」が、

宿の碌でなし(ろくでなし)、

の「ろく」から来た当て字らしい(精選版日本国語大辞典・日本語俗語辞典)ので、「甚六」も、

長男の甚六、

の謂いで、

順禄(じゅんろく)(世襲制度により順を追って家禄を相続すること)の転訛、

とされ(日本大百科全書)、

長男や長女がだいじにされてのんびりと育てられ、これといった才能もなく、また努力もしないで家禄を相続できたため、他の兄弟姉妹に比べてうすぼんやりしているさまをあざけっていった、

ところから、転じて、「甚六」を、

うすぼんやりした人やお人よし、愚か者、

をいう(仝上)ので、この「六」も、

ろくでなし、

の「ろく」の当て字とみられる。

「贅」 漢字.gif


「贅」(慣用ゼイ、漢音セイ、呉音セ)は、

会意。「貝+敖(余分の、有り余る)」で、よけいな財貨があまっていることをあらわす、

とある(漢字源)。

「才」 漢字.gif

(「才」 https://kakijun.jp/page/0333200.htmlより)

「才」(漢音サイ、呉音ザイ)は、

象形。才の原字は、川をせきとめる堰を描いた象形文字。その全形は、形を変えて災などの上部に含まれている。其の堰だけを示したのが才の字である。切って止める意を含み、裁(切る)・宰(切る)と同系。ただし、材(切った材木)の意味に用いることが多く、材料や素材の意から、人間の素質、持ち前を意味することとなった、

とある(仝上)。別に、

「才」 甲骨文字・殷.png

(「才」 甲骨文字・殷 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%89%8Dより)

象形文字です。「川の氾濫をせきとめる為に建てられた良質の木の象形」から「もともと備わっているよいもちまえ」を意味する「才」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji370.html

参考文献;
前田勇編『江戸語大辞典 新装版』(講談社)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

posted by Toshi at 03:35| Comment(0) | 言葉 | 更新情報をチェックする

2021年06月30日

くびったけ


「くびったけ」は、

首っ丈、
頸っ丈、

と当て、

くびたけの促音化、

とある(広辞苑)。

彼女に首ったけ、

というように、

ある思いに深くとらわれること、特に、異性に心をひかれ夢中になること、またそのさま、

の意(デジタル大辞泉)だが、今日、もはや死語に近いかもしれない。

もともとは、

くびたけ、

であり、

首丈、
首長、
首尺、

と当て、

足元から首までの高さ、

の意で、

思い何くびたけ沈む池の鴨(沙金袋)、

という句がある。それをメタファに、

頸丈まで深くはまり溺れる、

意で、

すっかり色香に迷って惚れ込む、

意になり、

くびったけ、

と使われる(岩波古語辞典)。

「くびたけ」は、濁って、

くびだけ、

とも言われるが(仝上)、「くびたけ」と同様に、

炬燵に首ッたけ(享和二年(1802)「綿温石奇効果条」)、

と、

足元から首のところまで、

の意と同時に、

あのお姫様にやあ、範頼様が首ッたけだそうだ(元治元年(1864)「谷凱歌小謡曲」)、

と、

深く惚れ込んでいる、

意でも使うが、もうひとつ、

帰りてへは首ッたけだが(安永九年(1780)「多佳余字辞」)、

と、

その気持ちが十分ある、

意の、

やまやま、

という意味でも使われていたようである。近世前期からら上方では、

「くびだけ」の形で用いられ、文字通り首までの長さを表し、さらに「首丈沈む」「首丈嵌まる」などの言い回しにも見られるように、この上なく物事が多くつもる意、あるいは、深みにはまる意から、異性に惚れ込む意で用いられた、

とある(日本語源大辞典)ので、

首まで沈み込む、
首まで嵌まる、

という状態表現が、それをメタファに、

思いの深さ、

を言い表すようになった、とみられる。近世中期以降、

江戸を中心に「くびったけ」の形で用いられるようになった、

とある(仝上)。

「くびったけ」と同義の言葉に、江戸では、

くびっきり(首っ切り)、

という言い方も使われた(江戸語大辞典)。やはり、

足元から首のところまで、

の意で、

炬燵に首ッきりはいって居たりする(寛政六年(1794)「金々先生造化夢」)、

と使い(仝上)、また「くびったけ」と同様、

近頃は旦那に首ッきりと云ふもんだから(天保十年(1840)「娘太平記操早引」)、

と、

深く惚れ込んでいること、

の意でも使った(仝上)。

「くびったけ」の「くび」は、

頸、
首、

と当てる(広辞苑)が、大言海は「くび」の項を、

首、

頸、

で分けて立てている。「頸(くび)」は、

凹(くぼ)みの約(和訓栞)、陰門をツビと云ふも、窄(つぼ)の約なり。後(うしろ)くぼ、項(うなじ)のくぼ、ぼんのくぼの名もあり、

とし、

頭(かしら)と體(からだ)と細く接ぎ合ふ所、

の意とし、「首(くび)」は、

頸(くび)より上の部を云ふ意より移る、

とし、

かしら、あたま、

に意とする(「あたま」http://ppnetwork.seesaa.net/article/454155971.htmlについては触れた)。

「首」 漢字.gif


というのは、「くび」は、古くは、

頭と胴とをつなぐくびれた部分。のち頸部切り取った頭部すなわち頸部から上全体をもいうようになった、

とあるので、「くび」の対象が、頸部から頭部全体に広がって

頸→首、

となったからなのである(岩波古語辞典)。「かぶり」http://ppnetwork.seesaa.net/article/463972279.htmlで触れたことだが、これは、「あたま」が、

当間(あてま)」の転で灸点に当たる所の意味や、「天玉(あたま)」「貴間(あてま)」の意味など諸説あるが未詳。 古くは「かぶ」「かしら」「かうべ(こうべ)」と言い、「かぶ」は 奈良時代には古語化していたとされる。「かしら」は奈良時代から見られ、頭を表す代表 語となっていた。「こうべ」は平安時代以降みられるが、「かしら」に比べ用法や使用例が狭く、室町時代には古語化し、「あたま」が徐々に使われるようになった。「あたま」は、もとは前頭部中央の骨と骨の隙間を表した語で、頭頂や頭全体を表すようになったが、まだ「かしら」が代表的な言葉として用いられ、「つむり」「かぶり」「くび」などと併用されていた。しだいに「あたま」が勢力を広げて代表的な言葉となり、脳の働きや人数を表すようにもなった、

とあり(語源由来辞典)、

かぶ→かしら→こうべ→(つむり・かぶり・くび)→あたま、

と変遷した中で、「あたま」の呼称の中で、「くび」も使われている。

「頸」 漢字.gif


「くびったけ」の「たけ」は、「たけ」http://ppnetwork.seesaa.net/article/461350623.htmlで触れたように、

丈、
長、

と当てると、

物の高さ、縦方向の長さ、

となり、

動詞「たく(長く)」と同源、

であり、

岳、
嶽、

と当てると、

髙くて大きい山、

の意となり、

「たか(高)」と同源(中世「だけ」とも)、

とある(以上広辞苑)。しかし、「たけ(長・闌)」は、

タカ(高)と同根。高くなるものの意、

とあり(岩波古語辞典)、単に物理的な長さ、高さだけではなく、時間的な長さ、高まりも指し、「たけなわ」http://ppnetwork.seesaa.net/article/456786254.htmlで触れたように、

長く(タク)は、高さがいっぱいになることの意で使います。時間的にいっぱいになる意のタケナワも、根元は同じではないかと思います。春がタケルも、同じです。わざ、技量などいっぱいになる意で、剣道にタケルなどともいいます、

という意味も持つ(日本語源広辞典)。だから、

タカ(高)と同根。高い所の意、

である「たけ(岳・嶽)」ともほぼ重なる。

丈も
長も、
岳も、
嶽も、

かつては、「たけ」だけで済ませていた。文脈依存の文字を持たない祖先にとって、その区別は、その場にいる人にわかればいいのである。そう考えると、

「たけ(茸)」http://ppnetwork.seesaa.net/article/461300903.html?1535312164

も、

「たけ(竹)」http://ppnetwork.seesaa.net/article/461199145.html

も、すべて、

たけ、

であり、長さ、髙さ、という含意を込めていたのではないか。

さて「首」(漢音シュウ、呉音シュ)は、

象形。頭髪のはえた頭部全体を描いたもの。抽(チュウ 抜け出る)と同系で、胴体から脱け出したくび。また道(頭を向けて進む)の字の音符となる、

とある(漢字源)。

「首」 甲骨文字・殷.png

(「首」 甲骨文字・殷 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E9%A6%96より)

別に、

「首」 金文・西周.png

(「首」 金文・西周 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E9%A6%96より)

象形文字です。「髪と目を強調した」象形から「くび」を意味する「首」という漢字が成り立ちました、

とする解釈もあるhttps://okjiten.jp/kanji15.html

「頸」(漢音ケイ・ギョウ、呉音キョウ)は、

会意兼形声。巠は機織り機のまっすぐなたて糸を描いた象形文字で、經(経)の原字。頸はそれを音符とし、頁(あたま)を加えた字で、まっすぐたてに通るくび筋、

とある(漢字源)。

「首」成り立ち.gif

(「首」成り立ち https://okjiten.jp/kanji15.htmlより)

「丈」(漢音チョウ、呉音ジョウ)は、会意。手の親指と他の四指とを左右に開き、手尺で長さをはかることを示した形の上に+が加わったのがもとの形。手尺の一幅は一尺をあらわし、十尺はつまり一丈を示す。長い長さの意を含む、

とある(漢字源)。

「丈」 漢字.gif

(「丈」 https://kakijun.jp/page/0304200.htmlより)

別に、

「丈」 金文 西周.png

(「丈」 金文・西周 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E4%B8%88より)

象形文字です。「長い棒を手にする」象形から、長さの単位「十尺(約3.03メートル。ただし、周代の制度では、約2.25メートル)」を意味する「丈」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji1320.html

「丈」 成り立ち.gif

(「丈」 成り立ち https://okjiten.jp/kanji1320.htmlより)

なお、「くびったけ」の類義語、「ぞっこん」http://ppnetwork.seesaa.net/article/456564500.htmlについては触れた。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

posted by Toshi at 03:57| Comment(0) | 言葉 | 更新情報をチェックする