キルケゴール(桝田啓三郎訳)『死にいたる病』を読む。
20代の頃、冒頭の一節を読んだ衝撃は、よく覚えている。
「人間は精神である。しかし、精神とは何であるか? 精神とは自己である。しかし、自己とは何であるか? 自己とは、ひとつの関係、その関係それ自身に関係する関係である。あるいは、その関係において、その関係がそれ自身に関係するということ、そのことである。自己とは関係そのものではなくして、関係がそれ自身に関係するということなのである。」
いろんな読みはあるが、カウンセリングで、カウンセラーが、クライエントの、
自己対話、
に介入する関係とよく似ている。
自己対話そのものは、
即自と対自、
にしろ、
おのれ自身との対話、
にしろ、自己完結し、よく堂々巡りする。それは、精神としての、
関係に関係する関係、
を、おのれの中に持ちえていない、ということを意味する。だから、自己対話を対象化するとき、例えば、文章化したり、録音したりすることで、
関係に関係する関係、
が顕現できる。
「人間は無限性と有限性との、時間的なものと永遠なものと、自由と必然との総合、要するに一つの総合である。総合というのは、ふたつのもののあいだの関係である。このように考えたのでは、人間はまだ自己ではない」
のである。だから、デカルトの、
われ思う、故にわれあり、
の「われ」は、まだ関係でしかない。その関係に関係する「関係」そのものがなければ、自己ではないし、精神ではない、と言っているのである。
「ふたつのものの間の関係にあっては、その関係自身は消極的統一としての第三者である。そしてそれらふたつのものは、その関係に関係するのであり、その関係においてその関係に関係するのである。このようにして、精神活動という規定のもとでは、心と肉体との間の関係は、ひとつの単なる関係でしかない。これに反して、その関係かそれ自身に関係する場合には、この関係は積極的な第三者であって、これが自己なのである。
それ自身に関係するそのような関係、すなわち自己は、自分で自分自身を措定したのであるか、それともある第三者に措定されてあるのであるか、そのいずれかである。」
キルケゴールは、第三者を、神と想定している。だから、
「それ自身に関係するそのような関係、すなわち自己」
は、
自分で自己自身を措定した、
のか、
ある他者(神)によって措定された、
のか、
のいずれかだと、という。
僕には、「神」との関係で、自己を実現しようとする方向は、どうも理解の外になる。で、勝手ながら、神に関わる部分を読みかえて、自己流に解釈してみた。
たとえば、キルケゴール流の、「心と肉体との間の関係」それ自身が関係する「関係」を、
(キルケゴールの神を念頭に置いた精神=自己)
と図解してみた、「自己」とは、「心と肉体との間の関係」それ自身が関係する「関係」であり、その活動を「精神」とよぶ。しかし、「神」を想定しないとするとどうなるのか。
(神の代わりに「ありたい自己」を置いた精神=自己)
たとえば、「自分が自分自身と関係する」のを、「即自」と「対自」とする。「即自と対自」の関係自身が関係する「関係」を「私」とすると、「神」の位置に来るのは、仮に、「なりたい自己」「あるべき自己」となる。「関係」×「関係」は、うまく図解できないので、こんな図になるが、
「精神」は、「心と肉体との間の関係」それ自身が関係する「関係」、
であり、
「私」は、「即自と対自」の関係自身が関係する「関係」、
である。
本書の「死にいたる病」とは「絶望」を指すが、
「もし人間の自己が自分で自己自身を措定したのであれば、その場合は、自己自身であろうと欲しない、自己自身からのがれ出ようと欲する、というただひとつの絶望の形式しか問題となりえないであろう。すなわち、この公式こそ、全関係(自己)が他者に依存していることの表現であり、自己は自己自身によって均衡と平安に達しうるものでもなければ、またそのような状態にありうるものでもなく、自己自身と関係すると同時に、全関係を措定したもの(神)に関係することによってのみ、それが可能であることを表現するものである。」
だから、絶望における、
絶望してそうありたいと思う自己、
と、
絶望してそうありたくないと思う自己、
のうち、
絶望して、自分自身であろうと欲すること、
に、あらゆる絶望が還元できる、とする。では、
「絶望はどこからくるのか? 総合がそれ自身に関係するその関係からくるのである。それも、人間をこのような関係たらしめた神が、人間をいわばその手から手放されることによって、すなわち、関係がそれ自身に関係するにいたることによってなのである。」
とし、神からの自己疎外によってかくなった、ということは、「神」の中に「自分のあるべき姿」があると言っているように聞こえる。
だから、
「絶望するものは、何事かについて絶望する。一瞬そう見える。しかしそれは一瞬だけのことである。その同じ瞬間に、真の絶望があらわれる。あるいは、絶望はその真の相をあらわす。絶望するものが何事かについて絶望したというのは、実は自分自身について絶望したのであって、そこで彼は自分自身から抜け出ようと欲しているのである。(中略)あるいは、もっと正確にいえば、彼にとって堪えられないことは、彼が自分自身から抜け出ることができないということなのである。」
ということになる。
「自己について絶望すること、絶望して自分自身から抜け出ようと欲すること、これがあらゆる絶望の公式である。」
確かに、
「もし彼が絶望して自己自身であろうと欲するのなら、彼は自己自身から抜け出ることを欲していないのではないか。確かに、一見そう見える。
しかし、もっとよく見てみると、結局、この矛盾は同じものであることがわかる。絶望者が絶望してあろうと欲する自己は、彼がそれである自己ではない(なぜなら、彼が真にそれである自己であろうと欲することは、もちろん絶望とは正反対だからである)。すなわち、彼は彼の自己を、それが設定した力から引き離そうと欲しているのである。しかしそれは、どれほど絶望したところで、彼にはできないことである。絶望がどれほど全力を尽くしても、あの力のほうが強いのであって、彼がそれであろうと欲しない自己であるように、彼に強いるのである。
しかし、それにもかかわらず、彼はあくまでも自己自身から、彼がそれである自己から、脱け出して、彼が自分で見つけ出した自己であろうとする。彼が自分で見つけだした自己であろうとする。彼の欲するような自己であるということは、それがたとえ別の意味では同じように絶望していることであろうとも、彼の最大の喜びであろう。ところが、彼がそれであることを欲しないような自己であることを強いられるのは、彼の苦悩である、つまり、彼が自己自身から抜け出ることができないという苦悩なのである。」
しかし、僕には、キルケゴール上記のように否定する、自己の措定した自己を目ざすほかに、人が自分を実現する道はないと思う。キルケゴールが批判してやまないヘーゲル左派の、フォイエルバッハは、
「神的本質(存在者)とは人間の本質の個々の人間―すなわち現実的肉体的な人間―の制限から引き離されて対象化されたものである。いいかえれば神的本質(存在者)とは、人間の本質が個々人から区別されて他の独自の本質(存在者)として直観され尊敬されているのである。そのために神的本質(存在者)のすべての規定は人間の本質の規定である。」
と喝破し、神とは、
人間自身の対象化、
あるいは、もっと踏み込むと、
人間の願望の対象化、
といってもいい。とすれば、キルケゴールの立てた「神」の位置に、「なりたい自分」「あるべき自分」を立てても、結局、その実体は変わらないことになるのではないか。
あるいは、堂々巡りする自己意識の自己回転を、どういう第三者の目によって、例えば、カウンセラーなのか、コーチなのか、あるいは、親しい友なのか、による自己対話への介入を必要とするということがあるのかもしれない。しかし、自力で、それが不可能とは思えない。
「自己は自己自身を見ることによって自己自身より以上のものを自己自身に与えることはとうていできない」
にしても、それが、生きる上の、自己格闘なのではないか、別の錯覚、というか、別の幻想という神を設定したところで、
「自己は始めから終わりまでどこまでも自己なのであって、自己を二重化してみたところで、自己より以上にも以下にもなりはしない」
のだから。
参考文献;
キルケゴール(桝田啓三郎訳)『死にいたる病』(桝田啓三郎編『キルケゴール(世界の名著40)』)(中央公論社)
フォイエルバッハ(船山信一訳)『キリスト教の本質』(岩波文庫)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95