2021年06月22日
農民生活の実像
速水融『江戸の農民生活史』を読む。
本書は、旧美濃国安八郡西条(にしじょ)村(現岐阜県安八郡輪之内町(わのうちちょう))の西松家に伝えられた、安永二年(1773)から明治二年(1869)の九十七年間にわたる宗門改帳を用いて、江戸時代末期一世紀の、
「できるだけ詳細な人口統計を作成すると同時に、史料に登場する個々の男女や家族を追って、当時の人々の生活ぶりを再現しようと」
試みたものだ(http://library.rikkyo.ac.jp/_asset/pdf/archives/exhibition/exhibition1/jikata.pdf)。本書の狙いは、
「個人や家族の行動追跡、および人口統計を通じてみた、江戸時代の農民生活史」
であると、著者は書く。そして、
「本書で提起されている歴史への視角は、単なる人口史ではない。成功しているか否かは、読者の判断に委ねるとして、筆者はひそかに、『新しい歴史』の試みを実践してみたつもりである。それは、ある時代の歴史を、徹底的に民衆生活、民衆の行動を通して解明しようとするものである。」
とし、それは、「歴史的存在としての江戸時代」を、
「できるかぎり客観的に、……とりあげ、そこに生きていた人々が、どのような生活をしていたのか、行動や思考をしていたのか、という立場から」
接近する方法があるべきではないか、と。
西条村は、
村高、704石9升2合、
戸数、78戸(慶応5年の宗門改帳、当初の94戸から減っている)、
五石以上、20戸(仝上、当初の24戸から減っている)、
二石以下、58戸(仝上、不明・その他4戸を含む。当初の80戸から減っている)、
という構成になる。
この宗門改帳に登場するのは、のべ約千九百人、
「地主もいれば水吞もいた。何十年にもわたる生涯をそこで送った人もいたし、他の村からやってきて一年きりで再び他の村へ行ってしまった奉公人もいた」
という西条村の住民の(一年単位の)実情が、
世帯の持高、
所持する家畜の種類、
出稼中の家族員の名前、年齢、奉公先、出稼期間、
結婚等で他所へ出た者の名前、年齢、嫁ぎ先、その年代、
婚姻、養子、奉公等によって村へ入ってきた者の、出身元、年代、
等々が、出入りを含めて記載されている宗門改帳を、
もとの史料にある世帯や個人に関する一切の情報を一枚の、
基礎シート化、
し、それをベースとして、目的別に、
静態人口統計シート、
世帯シート、
家族復元フォーム、
個人行動追跡シート、
と作成し、かなり細かな行動をフォローできる形にした。その意味で、個人ベースにまで、その人の生涯を追うことができる。勿論、宗門改帳の約百年の幅に登、退場する限りでのことだが。
この学問的背景は、かつては、
歴史民勢学、
と訳され、今日、
歴史人口学、
とされる、残された史料から、人口学的な行動を統計的に処理して、
民衆の生活実態を知ろうとする、
ものである。
輪中地帯のこの地域の村では、
「一方に数戸の、おそらく開発地主とおもわれる大高持と、他方では多数の無高小作農という、両極構造がみられる」
が、この村も、土地保有状況は、
「常に全世帯の50パーセント以上は、持高二石以下および無高の小作層でしめられている」
当然二石以下では自作農とは言えず、小作農であると見ていい。一方持高二十石以上層は、総数として減少し、西松家が、四十二石から八十九石へと増大させている。
こうした村の経済構造を背景として、個々の行動追跡を見て行けるところが、この史料の特質で、たとえば、
小作農「伊蔵」の一家、
の、伊蔵の誕生から、その子供七人が出稼に出たり、そのまま村にとどまり続けたものなどの行方を追う。
「(出稼ぎに出た二人の他の)五人の子どもは、史料の最終年次まで出稼ぎにでることもなく、家にとどまった。(中略)もしこの家が純然たる小作農であったとすると、このように多数の子どもを抱えることは、困難であったはずである。(中略)しかし「伊蔵」は、江戸時代の階層では「水吞」だったとしても、商いを営んでいたか、何らかの技術をもつ職人か、副業による収入を得ていたという可能性もある。」
と、「水吞」という表記だけでは追えない部分に迫れる。しかし、その理由までは、宗門改帳からはうかがえない。
あるいは、分家して一家を構えた「重助」の三人の娘は、ひとりは、十三歳から二キロ先の村への奉公からはじまり、何ヶ所か奉公先を変え、明治二年に死去するまで奉公を続けた。いまひとりは十歳で隣村に奉公をし、何ヶ所か奉公した後、三十八歳で、絶家の危機に瀕した家を継承するために、家に戻り、独身のままとどまったのち、再び奉公を始め、大阪で生涯を閉じる。いま一人の娘は、隣村へ奉公の後、二十五歳で、(西条村の親村に当たる)楡俣村に嫁ぐ。
こうした、宗門改帳に登場する人々の生涯を追って行くと、
「彼らが意外に広い空間で生涯を送り、決して『土地に縛り付けられ』、生まれた村から外へ出なかったわけではないことが判明する。もちろん、その理由の多くは、奉公であり、好きこのんで出たわけではないだろう。中には、六歳・七歳という幼さで奉公に出された例もあった。いわゆる『口減らし』のため、あるいは『身売りとして』、奉公に出ざるを得なかった者もいたに違いない。」
しかし、著者は、
「個人個人の生涯を史料のうえで追うと、たとい彼らが生涯の多くを奉公人として生家から離れて送ったとしても、その一生を、暗いイメージで理解してしまうのは間違いではないか、という印象を強くもつようになった」
という。その理由の一つは、
「少なからぬ男女が、奉公を機縁として結婚し、家族形成を行っている」
ことである。たとえば、安永二年(1773)から明治二年(1869)の九十七年間に生まれて女子は490人、
「その内結婚したのが200人、結婚しなかった290人のうち、115人は三十歳未満で死亡、68人は三十歳未満で奉公などの理由で他所へ出、また天保十一年(1840)以降の出生者、いいかえれば、いまだ結婚の可能性のある者は、91人を数えるので、独身の女性は16人ということになる。この数は、出生率に比べれば、……独身率は非常に低かったことを物語っている。」
因みに、女性の結婚年齢は、上層程低く、下層では高く、小作層では、結婚年齢が20歳代に広く分布していて、これは、多数の奉公人が出稼ぎに出ているためとみられる、としている。
その理由に第二は、
「都市への奉公人が、丁稚奉公から出世し、都市で一家を構えて住みつく例もあった。たとえば、水吞の家に生まれた『和助』は、京都祇園の人形屋甚右衛門方に奉公していたが、天明二年(1782)、三十三歳のときの史料から、『喜兵衛』と名を改め、『京都町方借宅』という記載になり、天明八年からはこの村の史料からは姿を消してしまった。恐らく彼は、職業はわからないけれども、ともかく一家を構える京都町方の住民になったのだろう。」
と。小さな村であり、輪中という特殊な地域ではあるにしても、単なる統計的な構造だけではなく、生き生きとした一人一人の生涯まで追える「宗門改帳」というものの威力に感心させられる。
幕藩体制下の農民、ないし農村社会のありようについては、
藤野保『新訂幕藩体制史の研究―権力構造の確立と展開』(http://ppnetwork.seesaa.net/article/470099727.html)、
渡邊忠司『近世社会と百姓成立』(http://ppnetwork.seesaa.net/article/464612794.html)、
菊池勇夫『近世の飢饉』(http://ppnetwork.seesaa.net/article/462848761.html)、
深谷克己『百姓一揆の歴史的構造』(http://ppnetwork.seesaa.net/article/474047471.html)、
水林彪『封建制の再編と日本的社会の確立』(http://ppnetwork.seesaa.net/article/467085403.html)、
でそれぞれ触れた。
参考文献;
速水融『江戸の農民生活史』(NHKブックス)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95