2021年07月01日

くどく


「くどく」は、

口説く、

と当てる。

また泣く泣く口説き申しけるには(保元物語)、

というように、

うらみがましくくどくどという、
愚痴っぽく言う、

という意味と、

経読み仏くどきまゐらせるるほどに(讃岐典侍日記)、

と、

心のうちを切々と訴える、

特に、

神仏に祈願して訴える場合にいう、

意味と、

此方よりくどきても埒のあかざることもあるに(好色一代男)、

と、

異性に思いのたけを訴えて言い迫る、

意とがある(広辞苑・岩波古語辞典)。

「口」漢字.gif

(「口」 https://kakijun.jp/page/0317200.htmlより)

「くどく」の「くど」は、

くどくど、くだくだの語幹を活用せしむ。苛々(いらいら)、いららぐ。連連(つらつら)、つららぐ、

とある(大言海)。「くどくど」は、

長ったらしいさま、
冗長なさま、

の意で、

話、文章が長々しくて煩わしい、
同じ事を繰り返す、

といった状態表現であるが、そこから、

何をくどくどして居るぞ(虎寛本狂言・靱猿)、
とか、
ああ、由ないことをくどくどと思うた事かな(狂言記・布施無)、

といったような、

ぐずくず、

くよくよ、

といった、

振舞いや思い切りの悪さを意味する価値表現の言葉として使われる。「くどくど」は、古く、

ぐとぐとと埒明かずといへば(仮名草子・悔草)、

と、

ぐとぐと、

と言ったり、

あそこのすみへいってもぐどぐど、ここのすみへ行ってもぐどぐどと、同じことを云ひて(虎明本狂言・宗論)、

と、

ぐどぐど、

といったりする(擬音語・擬態語辞典)。日葡辞書にも、

ぐどぐどとする、

と載る。これが方言に残り、

徳島県で「ぐとぐと」、山形・新潟・香川・愛媛で「ぐどぐど」というところがある、

とある(仝上)。類義語に、

くだくだ、
たらたら、
ぐだぐだ、

がある。「くどくど」が、

不必要なことを繰り返す、

のに対して、「くだくだ」は、

無用のことをわざと長々説明する様子、
要領を得ない様子、

であり、「ぐだぐだ」は、

長々とだらしなく言い続ける様子、

と、似ているのに対して、「たらたら」は、

不平・文句・お世辞などを並べ立てる様子、

を表すという違いがある(擬音語・擬態語辞典)。

「くどくど」は、「長い」の語幹を重ねた「ながなが」と同様、

形容詞「くどい」の語幹を繰り返した語、

とある(擬音語・擬態語辞典)が、「くどくど」は、

くだくだの転訛、

ともある(日本語源広辞典)。

「くだくだ」は、

刀を抜き、くだくだに斬りてぞ投げ出しける(仮名草子・智恵鑑)、

と、

細かに打ち砕いたさま、

つまり、

こなごな、

の意(岩波古語辞典)だが、

くだくだしゃべる、

というように、

言い方が明快さを書き、しつこくて長たらしいさま、

の意でも使う。

くだくだし、

という形容詞は、

クダはクダク(砕)と同根、

とあるので、

いかにも細かい、

という状態表現であるが、

くだくだしきなほ人の中らひに似たる事に侍れば(源氏)、

と、

いかにも細々しくて煩わしい、

という価値表現としても使う(仝上)。名義抄には、

細砕、クダクダシ、

と載る。

古語のくだくだしは、(「くどくど」の)語源に近い言葉です、

とある(日本語源広辞典)が、

こまごまと煩わしい、

意味が、

喋り方に転用されることはあり得る。現に、

クダクダシしい文章、

は、

くだくだしい物言い、

とも言い変えられる。

こうみると、「くどく」が、

くどくど、
ぐとぐと、
ぐどぐど、
くだくだ、
ぐだくだ、

といった擬態語から来たと見るのでよさそうに見えるのだが、異説がある。

口(言葉)+説く、

で、

ことばで説得する、

意とする説がある(日本語源広辞典・和句解・和訓栞)。

反復する擬態語が、動詞を作る時は、チラチラする、ヒラヒラする、グラグラする、の形を取り、大言海のような(苛々(いらいら)、いららぐ。連連(つらつら)、つららぐ等々)例は見られません。口を、クという音韻で表すことは他にも例があります(口調、異口同音)、

として、

口+説く、

を語源とするものである。確かに、

口説、
口舌、

と当てる「くぜつ」もある。「口説」は、

くぜち、

とも訓ませ、

おしゃべり、
言い争い、

の意もあり(日葡辞書に、「クゼツノキイタヒト」とある)。さらに、「口説」には、

男女間の言い争い、
痴話げんか、

の意もある(広辞苑)。ただ、「くぜち(口舌)」は、

口舌(こうぜつ)の呉音、

とある。「ク」と訓むことだけから、

口+説く、

とするのには決め手が欠ける。意味だけからいうなら、やはり、

くどくど、
ぐとぐと、
ぐどぐど、
くだくだ、
ぐだくだ、

等々の擬態語由来とみるのが妥当なのではないか。さらに、「くどくど」が、

形容詞「くどい」の語幹を繰り返した語、

とすれば、例えば、

くどい→くどくする→くどく、

と、形容詞から動詞化することはあり得る。

また、

「口説く」は当て字、

ともある(デジタル大辞泉)。当て字から語源を遡るのは先後逆となる。この当て字は、

口説(くどき)、

と呼ばれる、

琵琶法師の、平家語る曲節(ふし)、

の意で、

語る半ばに、特に調子を変えて、書簡などを語るところ、

を指す(大言海)。この、

平曲、

が、謡曲、浄瑠璃、長唄などへと流れていく。「平曲」では、

説明的な部分をいう。地の部分で、最も普通に用いられる曲節。旋律的でなく、また、音を装飾したり伸ばしたりすることもなく、語るような口調。中音域で、テンポも中庸。歌詞の内容は雑多であるが、多くの曲はこれで始まる、

意から、謡曲で、

拍子に合わない語りの部分。散文的である点は平曲と同じであるが、内容は悲嘆、述懐などで落ち着いた調子。音域も低い、

となり、浄瑠璃、歌舞伎音楽では、

悲嘆、恋慕、恨み、懺悔などを内容とする部分。特に恋する相手に心中の思いを訴えるものが多い。いわゆる「さわり」と呼ばれる曲中の聞きどころで、詠嘆的、抒情的。テンポが遅く旋律が美しい、

ものへと変じていく(精選版日本国語大辞典)。今日の「口説き」のイメージは、浄瑠璃の心情表現のイメージが強い。この「口説き」は、

くり返して説くという意味の動詞「くどく」の名詞化、

であり(世界大百科事典)、

口説く、

と当てたのは、この、

くどき、

からのような気がする。

「口」 金文・殷.png

(「口」 金文・殷 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%8F%A3より)

「口」(漢音コウ、呉音ク)は、

象形、人間の口やあなを描いたもの、

である(漢字源)。別に、

会意文字です(卜+口)。「うらないに現れた形」の象形と「口」の象形から、「うらない問う」を意味する「占」という漢字が成り立ちました。また、占いは亀の甲羅に特定の点を刻んで行われる事から、特定の点を「しめる」の意味も表すようになりました、

とする解釈もあるhttps://okjiten.jp/kanji1212.html

「口」成り立ち.gif

(「口」成り立ち https://okjiten.jp/kanji1212.htmlより)

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

ラベル:くどく 口説く
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2021年07月02日

おかぼれ


「おかぼれ」は、

岡惚れ、

と当てるが、「うぬぼれ」http://ppnetwork.seesaa.net/article/440529875.htmlで触れたように、「岡惚れ」の「岡」は、

岡目八目、

の岡であり、

傍目八目、

とも当てるように、

他人のすることを脇から見ていることをホカミ(外見、他見)といったのが、オカミ・オカメ(傍見、岡目)になって、第三者の立場でものを見ることをいう、

とある(日本語の語源)。「おかめ(をかめ)」を、

傍目(ヲカメ)、傍見(ヲカミ)、

とする(大言海)の他、

ホカメ(外目)、

とする(古今要覧稿・両京俚言考)ものもある。いずれも、同じ趣旨だが、この「岡」は、

傍の意だが、一説に、本に対する仮の意、

があるとするものもある(江戸語大辞典)。

「岡目八目」は、

当局者(当事者)迷、

の逆で、

傍で見ている者の方が、打っているひとより八目も先を見越している、という意だが、中国では、

当事者迷、旁观者清、

というらしい。

「岡惚れ」は、江戸期から使われたようだが、今日死語かもしれない。

傍から惚れる、

意で、

ちょっと接しただけで惚れること、深く接して人物を知ったうえでもないのに惚れること、

だが(江戸語大辞典)、

相手の心も知らず自分だけ密かに思慕すること、

の方がいい解釈に思える(岩波古語辞典)。だからか、

本惚れに対する仮惚れ、

の意とある(仝上)。また、

傍惚(おかぼ)れ、

とも当てる。

おかっぽれ、

と表記した方が、その軽さをよく言い表している。

で、他人が仲の好いのをはたでねたむことをホカヤキ(傍妬き)といったのが、

オカヤキ(傍妬き)、

に転音したのもこの類だ(日本語の語源)。これは、

岡焼餅、

ともいい、

本焼餅に対する仮焼餅、

の意で、

岡目焼餅(外目焼餅とも当てる)、

とも言うらしい(江戸語大辞典)。

やはり、「岡」を当てる、

岡持ち、

は、ホカモチバコ(他持ち箱)の転らしい(日本語の語源)。

また「岡」を当てる、俗に、

岡っ引き、

という、

町同心の手先に使われ、違法者を探知して、捕吏の手引きをする者、

つまり、目明しの異称である、

岡引、

は、

傍にいて手引すること、一説に、同心の捕縛するのが本引きで、これに対して仮引きの意、

とある(江戸語大辞典)。

「岡場所」の「岡」も、

公許の吉原に対して、その外の(「わきの」)場所、

の意で、やはり、

本場所に対して、仮場所の意、

があり、

寛延・宝暦頃(1748~64)から言い始めた呼称で、官許の遊里すなわち吉原以外の私娼地、

とある。別に、

さと・くるわ(廓)の対、

とある(江戸語大辞典)。全盛を極めたのは、安永・天明(1772~1789)期と化政期(1804~30)とで、その数86ヵ所に及んだ、という。後に、

品川・新宿・板橋・千住、

の四宿が準官許地とされ、それ以外は、寛政(1787~93)・天保(1841~43)両度の改革で禁廃された(仝上)、とある(仝上)。

「岡惚れ」は、

傍から惚れる、

でいいと思うが、異説がある。

ヲカは、小高い岡から遠望するという意(すらんぐ=暉峻康隆)、

はまだいいとして、

オカはカオ(顔)の倒置語で、カオボレ(顔惚)の意、また、岡は岡場所とする説もある(ことばの事典=日置昌一)、

というのはどうだろう。

「岡」 漢字.gif


「岡」(コウ)は、

会意。岡は「山+网(つな)」。网は網(モウ あみ)の原字であるが、ここでは綱(コウ つな)を示すと考えたほうがよい。固く真っ直ぐな意を含む、

とある(漢字源)が、別に、

形声文字です(网+山)。「網」の象形(「網」の意味だが、ここでは、「亢」に通じ(「亢」と同じ意味を持つようになって)、「アーチ形」の意味)と「山」の象形から、「アーチ形の山」、「丘」を意味する「岡」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji1952.html

「傍」 漢字.gif

(「傍」 https://kakijun.jp/page/1204200.htmlより)

「傍」(漢音ホウ、呉音ボウ)は、

会意兼形声。方は鋤の柄が両わきに張り出た形を描いた象形文字。旁は、それに二印(ふたつ)と八印(ひらく)を加え、両側に二つ開いた両脇を示す。傍は「人+音符旁(ボウ)」で、両脇の意。転じて、かたわら、わきの意を表す、

とある(漢字源)が、別に、

会意兼形声文字です〈人+旁〉。「横から見た人」の象形と「帆(風を受けるための大きな布)の象形と柄のある農具:すきの象形(並んで耕す事から「並ぶ・かたわら」の意味)」(「左右に広がった部分・かたわら」の意味)から、「かたわら」、「よりそう」を意味する「傍」という漢字が成り立ちました、

との解釈もあるhttps://okjiten.jp/kanji1175.html

なお、「ほれる」http://ppnetwork.seesaa.net/article/446808988.htmlについては触れた。

参考文献;
前田勇編『江戸語大辞典 新装版』(講談社)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
田井信之『日本語の語源』(角川書店)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

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2021年07月03日

白雨


「白雨」は、

はくう、

と読ますが、

しらさめ、

とも訓まし、

ゆうだち、

とも訓ます(雨のことば辞典)。ただ、

しろあめ、

と訓むと、

霙(みぞれ)、

を指し、冬の雨になる。

「白雨(はくう)」は、

白く見える雨、

とある(大言海・類語新辞典)。これは、

積乱雲から降ってくる夏の雨で、雨脚が太く強いため、雨滴が空中で分裂したり、地面に当たってしぶきとなるので、白く煙ったようになるところからその名がある、

とある(雨のことば辞典)。

歌川広重『東海道五十三次』より「庄野 白雨」.jpg

(庄野 白雨(歌川広重「東海道五十三次」)https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%91%E9%9B%A8より)

李白の詩に、

白雨映寒山(白雨寒山を映(おお)い)、
森々似銀竹(森々として銀竹に似たり)、

とあり(大言海・雨のことば辞典)。「銀竹」とは、

光線を浴び、光輝いている雨、

の意であり、

強い雨脚に雲間からの光が当たり輝いている様子が、まるで銀色の竹のようだ、

というのである(雨のことば辞典)。

蘓武の詩にも、

黑雲翻墨未遮山(黑雲墨を翻して未だ山を遮らず)、
白雨跳珠亂入船(白雨珠を跳らせて亂れて船に入る)、

とある(字源)。あるいは、

明るい空から降る雨、

の意かもしれない(デジタル大辞泉)。「夕立」http://ppnetwork.seesaa.net/article/456384452.htmlについては触れたが、

俄雨(にわかあめ)、
村雨(むらさめ)、
驟雨(しゅうう)、
繁雨(しばあめ)、

等々もほぼ同義となる。

「村雨」は、

群雨、
叢雨、
不等雨、

とも書く

ひとしきり強く降ってはやみ、また降り出す雨、

で、

群れた雨https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%91%E9%9B%A8
群雨(むらさめ)、不等雨(むらさめ)の義(箋注和名抄・大言海)、
ムラムラに降って、降らぬところもあるところから(日本釈名・東雅)、
ムラのある雨、降ってもすぐやむ雨(日本語源広辞典)、

等々という雨の降り方の、

繁粗むら気な雨、

を指している(雨のことば辞典)。「村雨」は、

秋に俄に降り出す雨(日本類語大辞典)、

ともあり、必ずしも夏季と限定されたことばではない(雨のことば辞典)、とある。

「繁雨(しばあめ)」は、雨の降り方が、

一時断続的に激しく降る雨、

で、

屡雨、
芝雨、

とも当てる。「俄雨」「村雨」と同義である。

「俄雨」は、

俄に降ってきてすぐやむ雨(広辞苑)、

で、

早雨(そうう)、
急雨(はやさめ/きゅうう)、
懸雨(けんう)、
驟雨(しゅうう)、
過雨(かう)、

とも言う(広辞苑・大言海・雨のことば辞典)。「懸雨(けんう)」も、

急に降り出す雨、

だが、

「懸」はかかる、ぶらさがる、また枝や葉が垂れ下がったものをいう。雨が、急に降りかかる、

意である(雨のことば辞典)。「驟雨(しゅうう)」は、

夏の俄雨、

で、「夕立」と重なるが、歳時記などでは、

夕立と別に驟雨を詠む、

ことも多くなったとある(仝上)。

急に降り出して、間もなく止む雨、

という意味では、

通り雨、

も、「俄雨」と同義である。

雲の流れに沿って雨脚が通り過ぎていく雨、

であり、

つうう、

とも訓み、

過雨(かう)、

ともいう。

俄に、ひとしきり降る雨、

でもあるが、

雨が通り過ぎるように降る、

という意味でもある(雨のことば辞典)。

山下白雨.jpg

(山下白雨(さんかはくう)(葛飾北斎「富嶽三十六景」) 山頂は快晴、山麓は一瞬の稲妻 https://www.adachi-hanga.com/ukiyo-e/items/hokusai049/より)

なお、「白驟雨(はくしゅうう)」は、

雨脚を白くしぶかせて降る秋の驟雨、

になる(雨のことば辞典)。また、

黒雨(こくう)、

というと、

真っ黒な雨雲から降ってくる雨、

で、

空が暗くなってしまうような土砂降りの雨や豪雨、

を指す(仝上・精選版日本国語大辞典)。

因みに、「あめ」http://ppnetwork.seesaa.net/article/459999594.htmlで触れたように、「雨」の語源は、大別すると、

「天(あま)」の同源説、

「天水(あまみづ)」の約転とする説、

にわかれる。しかし、

雨が多く、水田や山林など生活に雨が大きく関係している日本では、古くから雨のことを草木を潤す水神として考えられた。雨が少い場合は、雨乞いなどの儀式が行われ、雨が降ることを祈られた。「天」には「天つ神のいるところ」との意味があり、そのため雨の語源と考えられている、

とあるhttp://www.7key.jp/data/language/etymology/a/ame2.htmlように、「天」そのものと見るか、その降らせる水にするかの違いで、両者にそれほどの差はない。雨は、

天(アメ、アマ)と共通の語源、

であり、

アマ(非常に広大な空間)から落ちてくる水、

である(日本語源広辞典)。

参考文献;
倉嶋厚・原田稔編『雨のことば辞典』(講談社学術文庫)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

ラベル:白雨
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2021年07月04日

半夏生


「半夏生(はんげしょう)」は、禮記に、

仲夏之月(陰暦五月)、小暑至る、鵙(げき モズ)初めて鳴き、反舌(はんぜつ モズの異称)声無し。是の月や、…鹿角落ち、蝉始めて鳴き、半夏生じ、木槿栄く、

とあり(大言海・https://www.tomiyaku.or.jp/file_upload/100058/_main/100058_02.pdf)、「半夏生(はんげしょう)」は、

雑節の一つ、

で、

七十二候の一つ「半夏生」(はんげしょうず)、

から作られた暦日(暦法に基づいて定められた、暦の上の一日)である。

夏至から十一日目の称、

であり、太陽暦では七月二日(~七日日)頃までの5日間に当たる。現在の暦では、

太陽の黄道が100度に達するとき、

とされる(広瀬秀雄『暦(日本史小百科)』)。

田植えの終る頃、

で、この日を、

出梅(つゆあけ)、

といい、田植えの限とした(大言海)。一説には、

半夏(はんげ)、烏柄杓(カラスビシャク)が成長する頃、

とも、また、

半夏生(ハンゲショウ、カタシログサ)の葉が半分白くなって化粧しているようになる頃、

とも言われる(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%8A%E5%A4%8F%E7%94%9F・岩波古語辞典)。

近世には、

この朝毒気が降るといって、井戸に蓋をし、野菜を食べず、諸事を忌む日とした、

とある(岩波古語辞典)。南北朝、安倍晴明に仮託された陰陽道指南書『簠簋内傳』(ほきないでん)に、

半夏生、五月中十一日目、可註之、此日不行不浄、不犯婬欲、不食五辛酒肉日也、

とあるとか(大言海)。また、『俳諧歳時記』(享和三年(1803)刊)には、

半夏生、五月中より十一日なり。世俗、この日を期として竹の子を食わず、是竹節蟲を生ずるのゆゑ也、

とある。「竹節蟲(たけのふしむし)」は、

ななふし、

とも訓ませ、

七節、

とも当てる。

体長7〜10センチ。体や脚は細長く、竹の枝に似て、緑色または褐色。翅(はね)はない。コナラ・クマイチゴなどの葉を食べる、

とある(デジタル大辞泉)。「暦注」(暦本に記入される事項)の吉凶によれば、

この日は万物の生気を損耗するので、草木の種をまくには悪い日で決して成長しない、

とされる(広瀬・前掲書)

カラスビシャク.jpg


半夏(はんげ)の乾燥させた根茎は、『本草綱目』(1590)に、

蓋し夏の半に相当するという意味、

とされ、夏の半ばに生えるところから名付けられたという古くから使われる重要な生薬で、根茎を売って小銭をためたところから別名、

ヘソクリ、

ともよばれるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%A9%E3%82%B9%E3%83%93%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%82%AF

半夏生は、

半化粧、

とも言われる。名前は、

半夏生の頃に花を咲かせることに由来する、

とする説と、

葉の一部を残して白く変化する様子から「半化粧」、

とする説とがあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%B3%E3%82%B2%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%82%A6

ハンゲショウの葉.jpg


「雑節(ざっせつ」は、二十四節気、五節句などの暦日のほかに、

季節の移り変りをより適確に掴むために設けられた特別な暦日、

を指し、

節分(各季節の始まりの日(立春・立夏・立秋・立冬)の前日)、
彼岸(春分・秋分を中日(ちゅうにち)とし、前後各3日を合わせた各7日間)、
社日(しゃにち 産土神(生まれた土地の守護神)を祀る日)、
八十八夜(立春を起算日(第1日目)として88日目)、
入梅(梅雨入りの時期)、
半夏生(はんげしょう 夏至から数えて11日目)、
土用(四立(立夏・立秋・立冬・立春)の直前約18日間)、
二百十日(立春を起算日として210日目)、
二百二十日(立春を起算日(第1日目)として220日目)、

等々指した(広辞苑・https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%91%E7%AF%80)。

七十二候(しちじゅうにこう)は、

一年を72に分けた五日ないし六日を一候、

とするものだが、

二十四節気をさらに五日ないし六日ずつの3つに分けた期間、

になる。二十四節気の一気が、

15日、

なので、一候は、わずか五日程度、

そんなに気候が変わるわけはない、

はずである(内田正男『暦と日本人』)。

「二十四節気」は「をざす」http://ppnetwork.seesaa.net/article/481844249.htmlでも触れたが、

1年を春夏秋冬の4つの季節に分け、さらにそれぞれを6つに分けたもの、

で、

「節(せつ)または節気(せっき)」

「気(中(ちゅう)または中気(ちゅうき)とも呼ばれる)」

が交互にあるhttps://www.ndl.go.jp/koyomi/chapter3/s7.html。例えば、

春は、

立春(りっしゅん 正月節)、
雨水(うすい 正月中)、
啓蟄(けいちつ 二月節)、
春分(しゅんぶん 二月中)、
清明(せいめい 三月節)、
穀雨(こくう 三月中)、

で、夏の、

立夏(りっか 四月節)、
小満(しょうまん 四月中)、
芒種(ぼうしゅ 五月節)、
夏至(げし 五月中)、
小暑(しょうしょ 六月節)、
大暑(たいしょ 六月中)、

のうち、七十二候の「半夏生(はんげしょうず)」は、夏至の三等分、

初候 乃東枯(なつかれくさかるる 夏枯草が枯れる)、
次候 菖蒲華(あやめはなさく あやめの花が咲く)、
末候 半夏生(はんげしょうず 烏柄杓が生える)、

となる。中国由来だが、日本の気候風土に合うように何度も改訂され、今日は、明治七年(1874)の「略本暦」によっている。「半夏生(はんげしょうず)」は、中国由来のままである。

「半夏生」は、真夏の最中なので、

半夏正、

とも書く(広瀬・前掲書)。また、この時期は、

梅雨の真っ盛り、

なので(内田・前掲書)、この頃降る雨を、

半夏雨(はんげあめ)、
半夏水(はんげすい)、

といい、此の大雨で起こる洪水を、

半夏水(はんげみず)、

という(雨のことば辞典)。

参考文献;
広瀬秀雄『暦(日本史小百科)』(近藤出版社)
内田正男『暦と日本人』(雄山閣)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

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2021年07月05日

歯固め


かつての暦には日々の吉凶、禁忌などを記載した暦注というものがあった。たとえば、正月三箇日だと、第一日(元日、また元日が陽が悪いと二日になる)、

はかため(歯固め)・くらひらき(蔵開)・ひめはしめ(火水始)・きそはしめ(着衣始)・ゆとのはしめ(湯殿始)・こしのりそめ(輿乗初)、万よし、

第二日には、

馬のりそめ・ふねのりそめ・弓はしめ・あきなひはしめ・すき(鋤)そめ、万よし、

等々とある。

だいたい初日に入るものと、二日目に入るものと決まっているが、年によってどちらかになるものとがある、

とある(内田正男『暦と日本人』)。だから、享保五年(1720)の『天朝天文』(源慶安)は、

門出に凶とある日、主命なれば発足するに何事もなく帰国すること毎度なり。また役目なれば金神の方の国土に行きて在宅するに何の災いなきこと主人持し人々皆これなり、

と、「儒・仏・神ともに学者の用いざる」ような、「日に依って吉凶善悪」に振り回されることを嘲笑っている。

さて、この正月の「歯固め」は、

歯固(よはひかため)を、ハと読める語なるべし、

とある(大言海)ように、

正月から三日までの間、歯(よはひ)すなわち年齢を固める意味で歯の根を固め、健康増進を願って食べる食物、

のこと(岩波古語辞典)で、

元日に、餅鏡(もちひかがみ)に向かいて見る儀、後に、これを鏡餅に居ると云ふ、

とある(大言海)。「鏡餅」http://ppnetwork.seesaa.net/article/473055872.htmlで触れたように、大言海は、ここから、

元旦の歯固(はがため)のモチヒカガミを略して、カガミと云ひしに、再び、下に、モチを添えたる語ならむ、

と、「鏡餅」の語源を、

もちかがみ→かがみ→かがみもち、

としているが、室町後期の『世諺問答(せいげんもんどう)』(一条兼良)に、

元日の歯固めとて、鏡餅に向ふことは、歯と云ふ文字をよはひと読むなり。齢を固むる心なり。古今集の、あふみやの、鏡の山を、たてたれば、かねてぞ見ゆる、君が千歳は、の歌を吟ず(鏡餅の名も是より起る、御歯固めの餅は、近江國の火切(ヒギリ)の里より貢するを用ゐる)、

とあるので、深くつながることは確かである。『源氏物語』にも、

歯固めの祝ひして、餅鏡をさへ取り混ぜて、千年の蔭にしるき年のうちの祝ひ事どもして(初音巻)、

とある。

中国の『荆楚歳時記』(525年)に、

年頭に膠牙餳(こうがとう)という堅いあめを食べる風習、

が記されている(世界大百科事典)。日本にもこの風が伝わったもので、「歯固めの具」としてさまざまなものが用いられた。

たとえば、宮中では、正月に天皇へ供える膳には、

大根(おおね)・未噌漬瓜(みそづけうり)・糟漬瓜・鹿宍(しかのしし)・猪宍(いのしし)・押鮎(おしあゆ)・煮塩鮎(にしおあゆ)の七品をそろえる、

と定められていた(日本食生活史)。天皇は見るだけであったのは神供の形式であろう(世界大百科事典)、とされる。

平安末期の『江談抄』に、

元三之閒、供御薬御歯固、鹿或盛也、近代以雉盛之也(以上、今の雑煮餅也)。江家次第、一、供御薬「内膳自右青瑣門、供御歯固具……大根一坏、串刺二坏、押鮎一坏、煮鹽鮎一坏、猪宍一坏、鹿宍一坏」、

とある(大言海)。「歯固めの祝ひ」は、「供御薬儀(ミクスリヲクウズルギ)」と呼ばれる年中行事の一部として、

元日早朝に屠蘇(数種の薬草を組み合わせた屠蘇散を酒に浸してつくった薬酒)と共に硬い食べ物を口にして長寿を願う儀式、

なのであるhttp://heian.cocolog-nifty.com/genji/2006/01/post_2393.html。この七品が、平安後期には、「江家次第」によると、鹿宍の代わりに鴫(しぎ)を、猪宍の代わりに雉子を用いるように変わる。仏教と陰陽道の影響で、肉食を戒める傾向が強まったためである。なお、「屠蘇」http://ppnetwork.seesaa.net/article/479283275.htmlについては触れた。

『類聚雑要抄』より.jpg

(歯固めの品々を載せた台に鯛や鯉、鹿、押鮎などとが並んで鏡餅が描かれている(『類聚雑要抄』)https://uryu-tsushin.kyoto-art.ac.jp/detail/105より)

さらに、平安中期からは、

鏡餅、

も加えられるようになり、朝廷、公卿の家では、

五歳までの子の頭に餅を載せ、前途を祝う儀式をした、

とある(岩波古語辞典)。どの時点からか、「歯固め」における、

歯固めの具、

が、前述の、

大根・未噌漬瓜・糟漬瓜・鹿宍・猪宍・押鮎・煮塩鮎、

等々に代わって、

神前に供えた鏡餅を元日の朝食べて歯固めをする、

と、鏡餅を食べることに意味が変わっていったように見え、

年神に供えた鏡餅をそのまま歯固めと呼ぶところ、

すらあり、これを夏季まで保存し、6月1日に食べるところもある(百科事典マイペディア)、とある。

地方によってさまざまであるが、

くり、かや、大根、串柿、かぶ、するめ、昆布、

等々を「歯固めの具」として口にしたり(ブリタニカ国際大百科事典)、

元旦に串柿、搗栗、豆などを茶うけとして家族一同で茶を飲むこと(長野県の上、下伊那郡)、
正月に搗栗や飴を食べる(広島県や鳥取県など)、

だったりする(日本大百科全書)が、全国的に大根は共通して用いられているらしい。ただ、東日本を中心に、6月1日を、

歯固めの日、

として、

正月神前に供えた鏡餅を干して保存しておいたものを食べる、

地方がある。江戸末期の『諸国風俗問状答(といじょうこたえ)』にも、伊勢国白子(しろこ)領の答書によると、正月の鏡餅をしまっておいて食べる(日本大百科全書)とある。

「鏡開き」http://ppnetwork.seesaa.net/article/473083486.htmlで触れたように、「鏡開き」は、

正月十一日に鏡餅を下げて雑煮・汁粉などに作って祝う行事。もと武家で男子は具足、女子は鏡台に供えた鏡餅を下ろして祝ったのが、一般の風習となったもの、

であり(江戸語大辞典)、一般に、

正月に神(年神)や仏に供えた鏡餅を下げて食べる、日本の年中行事である。神仏に感謝し、無病息災などを祈って、供えられた餅を頂き、汁粉・雑煮、かき餅(あられ)などで食される、

ようになるのは江戸時代になってからであり、その意味で、「鏡餅」を「歯固めの具」とするのは、かなり新しい、と思われる。

正月に神(年神)や仏に供えた鏡餅を下げて食べる、日本の年中行事である。神仏に感謝し、無病息災などを祈って、供えられた餅を頂き、汁粉・雑煮、かき餅(あられ)などで食される、

という「雑煮」http://ppnetwork.seesaa.net/article/481191464.htmlも、「鏡餅」http://ppnetwork.seesaa.net/article/473055872.htmlと深くつながる。だから、「歯固め」に鏡餅がセットになった時から、正月の雑煮餅を祝う風習へと変化したという流れもありうるのである。

参考文献;
広瀬秀雄『暦(日本史小百科)』(近藤出版社)
内田正男『暦と日本人』(雄山閣)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

ラベル:歯固め
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2021年07月06日

鬼門


「鬼門(きもん)」は、

北東(艮=うしとら 丑と寅の間)の方位、

をいう。陰陽道で、鬼が出入りするといって、万事に忌み嫌う方角で、これをメタファに、

あそこは鬼門だ、

などと、

ろくなことがなくて嫌な場所、また、苦手とする相手・事柄、

についても言う(広辞苑)。

鬼門方向の造作、移徒(わたまし 転居)は絶対避けること、これを犯せば禍がたちどころに至る、

と広く世間に言われている(広瀬秀雄『暦(日本史小百科)』)とある。

この逆が、

裏鬼門(うらきもん)、

で、南西(坤=ひつじさる 未と申の間)を指す。これは、

人門、

という。これに対して、

北西(乾=いぬい 戌と亥の間)、

を、

天門、

東南(巽=たつみ 辰と巳の間)、

を、

風門、

という(広瀬・前掲書)。

比叡山は御所の鬼門に当たるので、多くの宗徒をおいて天下安全をまもらせた(仝上)が、江戸城は、鬼門にあたる方角に神田明神と寛永寺を配置、裏鬼門にあたる方角に増上寺を配置して守らせているhttps://www.library.metro.tokyo.lg.jp/portals/0/edo/tokyo_library/modal/index.html?d=5390

一般家庭では、艮(うしとら)の方角に桃の木を植えて、是に注連縄(しめなわ)を引き、清浄にすべき、とつたえている(広瀬・前掲書)が、これは「鬼門」の由来とかかわる。

御本丸方位絵図(ごほんまるほういえず) (2).jpg

(御本丸方位絵図 江戸城は、鬼門に神田明神と寛永寺、裏鬼門に増上寺を配置 https://www.library.metro.tokyo.lg.jp/portals/0/edo/tokyo_library/modal/index.html?d=5390より)

「鬼門」は、「山海経(せんがいきょう)」に、

東海の度朔山という所に三千里にわたって枝を張る大きな桃の木があって、東北に当たる所で繁った枝が少し切れて、多数の鬼がここから出入りしたので、これを鬼門といった。天帝が神荼(しんた)と欝塁(うつるい)という二神を遣わして鬼門に出入りする鬼を監視させた。そこで二神は出入りする鬼をとらえて、これを虎の餌にしたという。このことによって、黄帝は桃板を門の戸に立て、その上に神荼と欝塁の像を描いて凶鬼を防いだ、

とある(仝上)。民間道教的な習俗らしいが、中国に日本的な「鬼門」の考え方はなく、日本だけで「鬼門」を深く嫌う、とある(仝上)。

「鬼」 漢字.gif


「オニ」http://ppnetwork.seesaa.net/article/461493230.htmlの「鬼」(キ)の字は、

大きなまるい頭をして足元の定かでない亡霊を描いた象形文字、

とある(漢字源)。中国語では、本来、

おぼろげなかたちをしてこの世に現れる亡霊、

を指す。中国では、

魂がからだを離れてさまようと考え、三国・六朝以降は泰山の地に鬼の世界(冥界)があると信じられた、

ともあり、仏教の影響で、餓鬼のイメージになっていった、と見られる(台湾では鬼門は「この世とあの世をつなぐ」ものとされ、旧暦7月(鬼月)に鬼門が開くといわれる)。

和語「おに」も、「鬼」http://ppnetwork.seesaa.net/article/461493230.htmlで触れたように、

和名抄「四声字苑云、鬼(キ)、於爾、或説云、穏(オヌノ)字、音於爾(オニノ)訛也、鬼物隠而不欲顕形、故俗呼曰隠也、人死魂神也」トアリ、是レ支那ニテ、鬼(キ)ト云フモノノ釋ニテ、人ノ幽霊(和名抄ニ「鬼火 於邇比」トアル、是レナリ)即チ、古語ニ、みたま、又ハ、ものト云フモノナリ、然ルニ又、易経、下経、睽卦ニ、「戴鬼一車」、疏「鬼魅盈車、怪異之甚也」、史記、五帝紀ニ、「魑魅」註「人面、獣身、四足、好感人」、論衡、訂鬼編ニ、「鬼者、老物之精者」ナドアルヨリ、恐ルベキモノノ意ニ移シタルナラム。おにハ、中古ニ出来シ語トオボシ。神代記ナドニ、鬼(オニ)ト訓ジタルハ、追記ナリ、

とある(大言海)。どうやら、鬼が島の鬼や、桃太郎の鬼は、後世のもので、そもそも「オニ」と訓んでいなかった。

恐ろしい形をした怪物。オニという言葉が文献にあらわれるのは平安時代に入ってからで、奈良時代の万葉集では、「鬼」の字をモノと読ませている。モノは直接いうことを避けなければならない超自然的な存在であるのに対して、オニは本来形を見せないものであったが、後に異類異形の恐ろしい怪物として想像された。それには、仏教・陰陽道における獄卒鬼・邪鬼の像が強く影響していると思われる、

とある(岩波古語辞典)。今日の「鬼」は、仏教や陰陽道の齎したものといっていい。『仮名暦略註』には、

鬼門、凡そ、方位の四隅に四門あり、……艮を鬼門とす、鬼門とは、陰惡の気の聚る所にして、百鬼出入りする門戸なり。故に、此方を犯す時は、百鬼善く世人を殺害す、

とある。まさに俗信である。

山片蟠桃は、

鬼門ということは、最澄、比叡山を開かんが為に言い出す処、あゝ憎むべし。山海経に曰く「東海度朔山に大桃樹り。蟠屈三千里、其の東北を鬼門という。万鬼の集まる所なり。二神あり、黄帝之を象り、桃枝を戸に立つ」と、これ鬼門の始めなり。史記にもこのことを云う。最澄、桓武帝をあざむき、王城の鬼門を守ると云うて、比叡山を創立す。東海度朔山は碣石(河北省)の東北にして、日本より西なり、……日本の東北にあらず、

と書く(「夢の代」)。最澄云々は誤解らしいが、下らぬ俗信にご立腹である。

しかし、この方角は、

陽神がきて、陰気が去っていく場所であるから、これを暦の節気に当てはめてみると、除夜に当たる。冬陰の殺気が退いて、春陽の生気が来る日であるからである。そこでわが国では、この日の夜には、家ごとに陽神の福を迎え、陰鬼の毒を追う行事を執り行う、

とある(広瀬・前掲書)。この、

福は内、鬼は外、

という節分の豆撒きは、宮中で大晦日の夜、悪魔を払い、疫癘を除くための、

追儺(ついな)の義式、

に由来する(仝上)。追儺は、

儺(だ、な)、
あるいは、
大儺(たいだ、たいな)、
駆儺。
鬼遣(おにやらい。鬼儺などとも表記)、
儺祭(なのまつり)、
儺遣(なやらい)、

等々とも呼ばれるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%BD%E5%84%BA

中国では、

熊の皮をかぶり黄金の四つ目の面をつけ、黒衣に朱裳(しゅしょう)を着した方相(ほうそう)氏という呪師が矛と盾を手にして、宮廷の中から疫鬼を追い出す作法を行った、

という(『周礼(しゅらい)』)。日本には、追儺は陰陽道の行事として取り入れられ、文武天皇の慶雲(きょううん)三年(706)に、諸国に疫病が流行して百姓が多く死んだので、土牛をつくって大儺(おおやらい)を行ったというのが初見(日本大百科全書)とある。『延喜式』によると、

宮中では毎年大晦日(おおみそか)の夜、黄金の四つ目の面をかぶり黒衣に朱裳を着した大舎人(おおとねり)の扮する方相氏が、右手に矛、左手に盾をもって疫鬼を追い払ったという(仝上)。

吉田神社での追儺.jpg

(吉田神社での追儺(『都年中行事画帖』) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%BD%E5%84%BAより)

「方相氏」(ほうそうし)とは、

「周礼」に見える周代の官名。黄金四目の仮面をかぶり、玄衣、朱裳を着用し、手に戈と楯を持って悪疫を追い払うことをつかさどったとされる。日本では、追儺の時に宮中の悪鬼を追い、また、葬送の時に、棺を載せた車を先導する役をした(「江家次第」 精選版日本国語大辞典)、

という。

舎人が鬼の紛争をして、これを内裏の四門をめぐって追いまわす。殿上人は桃の木の弓、葦の矢で鬼を射る、

とある(広瀬・前掲書)。

方相氏.bmp

(方相氏(ほうそうし) 精選版日本国語大辞典より)

これが、民間で行われる二月の節分の豆撒きにつながるが、大晦日に豆撒きを行う例もある。この除夜の追儺はおそらく大祓(おおはらえ)の観念とも結び付いて展開したものと思われるが、そのほか、寺の修正会(しゅじょうえ)や修二会(しゅにえ)の際にもこの鬼やらいの式が行われた、とある(仝上)。

ただ、日本の民俗における鬼に対する観念は、豆撒きも鬼を追い払うのでなく神への散供(さんぐ)と考えられ、単に疫鬼、悪鬼というだけでなく、むしろ悪霊を抑える力強い存在(善鬼)とみるようなところがある(日本大百科全書)、とする考え方は、日本の俗信化した「鬼門」の考え方とは相いれない所があるように思える。

確かに、昔話に登場する「鬼」も、ほとんど恐ろしいイメージで統一されているが、

鬼という国語が意味するものは、荒ぶる神と同様な超人的な神霊であった。各地の伝承には自然地形を創造した神、山の神として信仰される鬼の姿が見いだされる。風神・雷神といった荒々しい神も、多く鬼のイメージでとらえられている、

とあり(日本昔話事典)、「鬼」と「神」は表裏になる。しかし、「オニ」は、もともと、

隠(おに)で、姿が見えない、

意という(広辞苑)。『和名抄』に、姿の見えないものを意味する漢語「隠(おん)」が転じて、「おに」と読まれるようになったとあることは、前述した。見えないものに「鬼」の字を当てたのには、それなりに意味があった。なぜなら、「鬼」の字は、前述の通り、

大きなまるい頭をして足元の定かでない亡霊を描いた象形文字、

であり(漢字源)、中国語では、本来、

おぼろげなかたちをしてこの世に現れる亡霊、

を指すからである。それをかつては、わが国では、

もの、

と呼んだ。

存在物、物体を指す「もの」という言葉があって、それが人間より価値が低いと見る存在に対して「もの」と使う、存在一般を指すときにも「もの」という。そして恐ろしいので個々にいってはならない存在も「もの」といった。
古代人の意識では、その名を傷つければその実体が傷つき、その名を言えば、その実体が現れる。それゆえ、恐ろしいもの、魔物について、それを明らかな名で言うことはできない。どうしてもそれを話題にしなければならないならば、それを遠いものとして扱う。あるいは、ごく一般的普遍的な存在として扱う。そこにモノが、魔物とか鬼とかを指すに使われる理由があった(大野晋は「『もの』という言葉」)、

のでありhttp://www.fafner.biz/act9_new/fan/report/ai/oni/onitoyobaretamono.htm、折口信夫は、

かみ(神)と、おに(鬼)と、たま(霊)と、ものとの四つが代表的なものであった(「鬼の話」)、

といっているので、「得体が知れない存在物」で「物」としかいいようのないもの(藤井貞和)が、

神と鬼とに分化、

していったとも見えるが、平安時代以前は、

「かみ」「たま」「もの」の三つであって「おに」は入らない(大和岩雄『鬼と天皇』)、

ともあるhttp://www.fafner.biz/act9_new/fan/report/ai/oni/onitoyobaretamono.htm

ということは、ぼくには、「もの」が「かみ」「たま」「もの」に分化(というより、「もの」から「かみ」と「たま」が分化)し、さらに「もの」から「おに」が分化していった、というように見える。

そして、「鬼」については、

民俗学上の鬼で祖霊や地霊。
山岳宗教系の鬼、山伏系の鬼、例、天狗。
仏教系の鬼、邪鬼、夜叉、羅刹。
人鬼系の鬼、盗賊や凶悪な無用者。
怨恨や憤怒によって鬼に変身の変身譚系の鬼。

という五種類に分類(馬場あき子)されるらしいhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AC%BC。この、わが国の「鬼」像の、

神から凶漢まで、

の奥行きの中で見たとき、「鬼門」は、どこか、限定された底の浅い「鬼」像でしかないことに気づかされる。

もうひとつ、こういう「鬼」像とは別に、「鬼」http://ppnetwork.seesaa.net/article/430051927.htmlで触れたように、『日本書紀』が、

まつろわぬ「邪しき神」を「邪しき鬼(もの)」、

としている、得体の知れぬ「カミ」や「モノ」、あるいは、

化外の民、

が鬼として観念されていることを忘れてはならない。つまり、

鬼とは安定したこちらの世界を侵犯する異界の存在だという。鬼のイメージが多様なのは、社会やその時代によって異界のイメージが多様であるからで、まつろわぬ反逆者であったり法を犯す反逆者であり、山に住む異界の住人であれば鍛冶屋のような職能者も鬼と呼ばれ、異界を幻想とたとえれば人の怨霊、地獄の羅刹、夜叉、山の妖怪など際限なく鬼のイメージは広がる(岡部隆志)、

ということでもあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AC%BC。昔話の「鬼退治」の背景にはこんなこともあることも留意しておく必要がある。

参考文献;
広瀬秀雄『暦(日本史小百科)』(近藤出版社)
内田正男『暦と日本人』(雄山閣)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

ラベル:鬼門
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2021年07月07日

暦より暦注好き


広瀬秀雄『暦(日本史小百科)』読む。

暦.jpg


『隋書』東夷伝に登場した琉球が、

草木の栄枯をうかがって年歳とする、

といった、

四囲の自然界の様子の変化、

によって奇説を把握したという原始的方法は、それより数百年前の、魏志倭人伝(の裵松之の注)に、

其俗正歳四時を知らず。但々春耕・秋収を記して年紀と為すのみ、

と記された倭人の四季感とよく似ている。日本に、中国の暦と暦法が伝来するのは、さらに数百年後、欽明天皇十四年(553)、

醫博士(くすしのはかせ)・易博士(やくのはかせ)・暦博士(こよみのはかせ)ら、番(つがい)によりて上(もうで)き下(まか)れ。今上(かみ)の件(くだり)の色(しな)は、正に相代わらむ年月に当たれり。還使(かえるのつかい)に付(さず)けて相代わらしむべし。又、卜書(うらのふみ)・暦本(こよみのためし)・種種(くさぐさ)の薬物(くすり)、付送(たてまつ)れ、

と初めて「暦」が登場する。醫博士(くすしのはかせ)・易博士(やくのはかせ)・暦博士(こよみのはかせ)らを、

先進国百済から雇傭していた、

のである。この時の百済の国暦は、宋朝で作られた「元嘉暦」とされる。中国で制定された暦法が正史に載るのは、漢の武帝の太初元年(前104)に施行された、

三統暦、

であり、元嘉暦まで五百年余過ぎている。さらに、実際に暦法を実施したのは、七世紀に近い持統朝になる。しかも、このときは、古い、元嘉暦と儀鳳暦(と呼ばれたが実際は唐の第二暦「鱗徳暦」)である。以後、大衍(たいえん)暦(763)、五紀暦(857)、宣明暦(862)、と中国暦に準じて改暦したが、以後、貞享元年(1684)までの、823年間、日本では、古い宣明暦を使い続ける。

遣唐使廃止(894)以後、中国との文化交流が非公式のものになったせいもあるにしても、日本人の、この暦認識の鈍感さは、ある意味筆すべきものがある。

これは、日本人が、暦注に書かれた、

日の吉凶、

には敏感であったが、ある意味、天文や科学への鈍感さとも関わるのではないか、という気がしてならない。確かに、

宣明暦法は優秀な暦法であったが、その大きな欠点は、そこで採用されている太陽年の長さが約3.5分(0.0024日)長すぎることである。微小な違いであるが、800年以上も使っていると、この違いの八百倍、すなわち二日以上に達する。換言すると、太陽は一日に約一度角天上を移動するので、江戸時代のはじめには、宣明暦で推算される太陽の天上の位置は、実際の太陽の位置より、約二度角遅れた場所を指示していることになってしまう。これを「天上二日を違う」とよくいい表わされている……。(中略)月は太陽を、一日に約十二度角の速度で追いかけるので、太陽の位置二度に対して、日食の時刻の予報誤差は約0.2日(4、5時間)に過ぎない、

にしても、ようやく江戸時代になって、最新の元の授時暦(1280)への改暦の議論が漸く起こってくる。そして初めて、渋川春海が、授時暦をもとに、日本人による初めての暦法、

大和暦、

を完成させ、貞享元年(1684)、

貞享暦(じょうきょうれき)、

の勅命を受け、始めて国暦が採用されるに至る。以後、宝暦、寛政、天保の改暦をへて、明治五年(1872)、

太陽暦、

が採用される。その詔書に曰く、

朕惟フニ、我邦通行ノ暦タル、太陰ノ朔望ヲ以テ月ヲ立テ、太陽ノ躔度(てんど 天体運行の度数)ニ合ス。故ニ二三年間、必ス閏月ヲ置カサルヲ得ス、置閏ノ前後、時ニ季候ノ早晩アリ、終ニ推歩ノ差ヲ生スルニ至ル、殊ニ、中下段ニ掲ル所ノ如キハ、率(おおむ)ネ妄誕無稽(もうたんむけい)ニ属シ、人知ノ開達ヲ妨ルモノ少シトセス、蓋シ、太陽暦ハ、太陽ノ躔度ニ従テ月ヲ立ツ、日子多少ノ異アリト雖モ、季候早晩ノ変ナク、四歳毎ニ一日ノ閏ヲ置キ、七千年ノ後僅ニ一日ノ差ヲ生スルニ過キス。之ヲ太陰暦ニ比スレハ、最モ精密ニシテ、其便不便モ固リ論ヲ俟タサルナリ、依テ自今旧暦ヲ廃シ、太陽暦ヲ用ヒ、天下永世之ヲ遵行セシメン、百官有司、其レ斯旨ヲ体セヨ、

ともっともらしいが、ほとんど議論らしい議論をせず、しかも、

グレゴリオ暦の肝心な要素である「西暦年数が100で割り切れるが400で割り切れない年(400年間に3回ある。)を、閏年としない」旨の規定が欠落、

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B0%E3%83%AC%E3%82%B4%E3%83%AA%E3%82%AA%E6%9A%A6、このままでは導入された「新しい太陽暦」はグレゴリオ暦ではなく、さりとて日付が12日ずれているためユリウス暦そのものでもなく、「ユリウス暦と同じ置閏法を採用した日本独自の暦」となってしまう。また、布告の前文にある文面もおかしく、グレゴリオ暦で実際に1日の誤差が蓄積されるのに要する年数は約3200年であるにもかかわらず、「七千年ノ後僅ニ一日ノ差ヲ生スルニ過キス」としていた(仝上)、という杜撰な物であった。これは、当時参議であった大隈重信が、国庫窮乏のため、

太陽暦の採用によって、明治六年の閏月に対する官吏俸給の支出を節約し、同時に年初改正によって生じる明治五年十二月の俸給支出まで節約する、

という妙手として、改暦を採用した。つまり、

旧暦のままでは明治6年は閏月があるため、13か月となる。すると、当時支払いが月給制に移行したばかりの官吏への報酬を、1年間に13回支給しなければならない。これに対して、新暦を導入してしまえば閏月はなくなり、12か月分の支給で済む。また、明治5年12月は2日しかないことを理由に支給を免れ、結局月給の支給は11か月分で済ますことができる、

からなのである(仝上・内田正男『暦と日本人』)。それは、

王政維新の前に在りては、何れも年を以て計算支出せしといへども、維新の後に至りては月俸と称して、月毎に計算し支出することとなれり。然るに太陰暦は太陰の朔望を以て月を立て、太陽の躔度に合するが故に、二、三年毎に必ず一回の閏月を置かざるべからず。其の閏月の年は十三箇月より成れるを以て、其の一年だけは、俸給、諸給の支出額に比して十二分の一を増加せざるべからず(大隈重信『大隈伯昔日譚』)、

とのためである。人々を混乱に陥れた太陽暦への改暦が、科学的な理由でも、近代化の理由でもなく、旧暦の閏月分を節約するという、姑息な理由なのである。

こう見ると、「暦」をめぐって、日本人が、中国暦から西洋暦へと、衣を着かえるように、脱ぎ変えただけだ、ということがよく分る。これは、ある意味、すべての領域で、いまもつづく、よく言えば変わり身の早さ、悪く言えば、思想も科学も、単なる衣装でしかない、ということを象徴しているように思える。社会科学が、いつまでも西洋を倣い、追従するだけなのは、結構根深いものがあるのである。

参考文献;
広瀬秀雄『暦(日本史小百科)』(近藤出版社)
内田正男『暦と日本人』(雄山閣)

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2021年07月08日

夜半


「夜半」は、

やはん、

と訓むが、

よは、

にも当てる(広辞苑)。

夜中、
真夜中、

の意であり、

子の時、
夜九ツ、

いまの午後十二時である(大言海)。「よわ」は、

夜、
夜は、

とも当て(大言海・岩波古語辞典)、

ヨマ(夜閒)の義(大言海・万葉考・雅言考・言元梯・国語の語根とその分類=大島正健)、
ヨフカ(夜深)の義(名語記・三余叢談・名言通・松屋筆記・日本語原学=林甕臣)、
ヨヒyofi(宵)、その母音交替形ユフyufu(夕)等々と同根(岩波古語辞典)、

等々の諸説があるように、

本来、現在のヨル(夜)の意で使用されたと考えられる。後に、ヨワは「夜半」と表記され、ヨナカ(夜中)の意で使用された、

とある(日本語源大辞典)。「夜半」という感じに引きずられて、「夜中」の意味に転化したと見える。

「夜」 漢字.gif

(「夜」 https://kakijun.jp/page/0850200.htmlより)

その意味では、

夜中、

も、

夜の最中(大言海)、
夜のなかば(広辞苑)、

という意味で、「夜半」のように、

子の時、
夜九ツ、

と、限定された時間ではなく、

宵の後で、暁にならないころ(広辞苑)、
宵が過ぎて、まだ暁に至らない時間(岩波古語辞典)、

という意味になり、上代の夜の時間区分、

ユフベ→ヨヒ→ヨナカ→アカツキ→アシタ、

の「ヨナカ」に当たる(岩波古語辞典)。「よひ」http://ppnetwork.seesaa.net/article/481438111.htmlで触れたように、「よる」中心にした時間の区分、

ユフベ→ヨヒ→ヨナカ→アカツキ→アシタ、

のうち、

ユフベ→ヨヒ→ヨナカ→アカツキ(アカトキ)、

と分けられ、

当時の日付変更時点は丑の刻(午前二時頃)と寅の刻(午前四時頃)の間であったが、「よなか」と「あかとき」(明時、「あかつき」の古形)の境はこの時刻変更点と一致している、

とある(日本語源大辞典)が、「よ」は、

よひ、
よなか、
よべ(昨夜)、

と「よ」は、「よる」が「ひる」に対し、暗い時間帯全体を指すのに対し、

特定の一部分だけを取り出していう、

とある(仝上)。「よべ」は、昨晩の意だが、昨晩を表す語としては、古代・中古には、

「こよひ」と「よべ」とがあった。当時の日付変更時刻は丑の刻と寅の刻の間(午前三時)であったが、「こよひ」と「よべ」はその時を境としての呼称、日付変更時刻からこちら側を「こよひ」、向こう側を「よべ」とよんだ、

とある(仝上)。つまり、「よる」の古形、

よ、

が、

ユフベ→ヨヒ→ヨナカ、

と区分されたことになるが、「よなか」が、

よべ→こよひ、

と、境界線を挟んで、使い分けられていたことになる。

この時間感覚は、

世俗の一昼夜と云ふは、明六つ時を一日の初めとし、次の朝の六つ時を終とす、

と(貞享暦(じょうきょうれき)の元文五年(1740)暦のことわり書)あるように、

夜明け(明け六ッ)から一日が始まると考えた(広瀬秀雄『暦(日本史小百科)』)ので、その境目が、「夜中」になる。それは、前夜に当たる「夜半」を過ぎて、「アカツキ」前までを指している。

時刻と方位.jpg

(時刻と方位・干支表 明解古語辞典(三省堂)より)

しかし「夜半」は、漢語である。

厲之人、夜半生其子、遽取火而視之、汲汲然惟恐其似己也(荘子)
夜半有力者、負之而走(仝上)、

と、やはり「夜中」の意である(字源・大言海)。

「夜」(ヤ)は、

会意兼形声。亦(エキ)は、人のからだの両脇にある脇の下を示し、腋(エキ)の原字。夜は「月+音符亦の略体」で、昼(日の出る時)を中心にはさんで、その両脇にある時間、つまり「よる」のことを意味する、

とある(漢字源)。ただ、

会意。「大」+「月」(白川静)、

とする説https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%A4%9Cもあり、

「夜」 金文・西周.png

(「夜」 金文・西周 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%A4%9Cより)

また、

会意兼形声文字です(亦+夕)。「人の両脇に点を加えた文字」(「脇の下」の意味)と「月」の象形から、月が脇の下よりも低く落ちた「よる」、「よなか」を意味する「夜」という漢字が成り立ちました、

と、やはり、「月」と絡める説があるhttps://okjiten.jp/kanji155.html

「夜」 成り立ち.gif

(「夜」 成り立ち https://okjiten.jp/kanji155.htmlより)

参考文献;
広瀬秀雄『暦(日本史小百科)』(近藤出版社)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

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ラベル:夜半
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2021年07月09日

深更


「深更(しんこう)」は、

夜の深(ふ)けたること、
夜更け、

の意であり(大言海)、

深夜、

のことである(広辞苑)。

月明深夜古樓中(元稹)、
とか
樓鼓辨深更(曹伯啓)、

などと詩にあるように、

深夜、

深更、

も漢語である(字源)。

「更」 漢字.gif


「更」(漢音コウ、呉音キョウ)は、

会意。丙は股(もも)が両側に張り出したさま。更は、もと「丙+攴(動詞の記号)」で、たるんだものを強く両側に張って、引き締めることを示す、

とある(漢字源)。

「更」は、

「㪅」の略字、

とありhttps://okjiten.jp/kanji1319.html、また、

𠭍、

とともに、異字体ともあるhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%9B%B4ので、その意味がよくわかる。

「更」 金文・殷.png

(「更」 金文・殷 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%9B%B4より)

別に、

会意文字です(丙+攴)。「重ねた台座」の象形と「ボクッという音を表す擬声語と右手の象形」(「手で打つ」の意味)から、台を重ねて圧力を加え固め平らにする事を意味し、そこから、「さらに(重ねて)」、「あらためる」、「かえる」を意味する「更」という漢字が成り立ちました、

とあるhttps://okjiten.jp/kanji1319.htmlように、「更」は、「更新」「更改」というように、「変わる」「改まる」という意であり、「変更」「更代(=交代)」というように、「代わる」である。

「更」 成り立ち.gif

(「更」 成り立ち https://okjiten.jp/kanji1319.htmlより)

しかし、「更」には、

初惠遠以山中不知更漏、乃取銅葉製器(唐國史補)、

とある、

「更漏」(こうろう)というように、

時を報ずる漏刻(みずどけい)、

の意があり(字源)、

更は、漏刻のかはる義、字典「因時變易刻漏曰更」、

とある(大言海)。「刻漏」とは「漏刻」の意である。それが「變易」すること、つまり変わることを「更」というとある。これは、中国にて、

一夜を、五つに分くる称、

の謂いであり、

初更、又一更、甲夜(こうや)は、午後八時、九時なり、
二更、又乙夜(いつや)は、十時、十一時なり、
三更、又丙夜(へいや)は、十二時、午前一時なり、
四更、又丁夜は、二時、三時なり、
五更、戊夜(ぼや)は、四時、五時なり、

とあるものの踏襲である。これを、

五夜(ごや)、

という(仝上)。また、

五更、

ともいい、

戊夜、

ともいう(仝上)。これを、

一夜五更、

というが、

漢魏以来、謂為甲夜、乙夜、丙夜、丁夜、戉夜、……亦云一更、二更、三更、四更、五更、皆以五為節(顔氏家訓)、

とある。ある意味、「更」は、夜全体を指しているので、「深更」は、その、

深まる夜、

の意でもある。「更」とは、

一更ごとに夜番が更代(交代)する義、

であり(日本大百科全書・精選版日本国語大辞典)、

午後7時ないし8時から、午前5時ないし6時に至るまで、順次2時間を単位に、

初更(甲夜、一鼓)、
二更(乙夜、二鼓)、
三更(丙夜、三鼓)、
四更(丁夜、四鼓)、
五更(戊(ぼ)夜、五鼓)、

と区切ったところから由来する(仝上)。

漏刻のかはる時(大言海)、

だから交替するのかもしれない。「漏刻」は、

管でつながった四つまたは三つの箱を階段上に並べ、いちばん上の箱に水を満たし、順に流下して最後の箱から流出する水を、浮箭(=矢 ふせん)を浮かべた容器に受け、矢の高さから時刻を知る、

とあり(百科事典マイペディア・世界大百科事典)、

1昼夜48刻に分け、4刻を1時(とき。辰刻)にはかる、

とある(ブリタニカ国際大百科事典)。「漏」は、

計時用の漏壺を指し、

刻は、

時間の単位(1日は100刻が標準であるが、120刻、96刻、108刻とした時期があった)、

を意味する(仝上)、とある。日本の漏刻は、中国で発明・使用されたものを真似て、

斉明六年(660)中大兄皇子が製作したという所伝が初見。令制では陰陽寮に2人の漏刻博士があり、漏刻によって時刻をはかり、守辰丁(しんてい、ときもり)に鐘鼓を打たせて時を報じた、

とある(仝上)ので、一更、二更……を、一鼓、二鼓……と呼んだものと思われる。

漏刻図.jpg

(漏刻圖(桜井養仙『漏刻説』) http://www.kodokei.com/la_011_3.htmlより)

「更」を、

歴(れき)、
経(けい)、

ともいった(仝上)、とあるのは、漏刻の水の流れからきたものと思える。

さらに、各一更の時間を、

五等分して、その各分割を一点、二点、三点、四点、五点と称える。もちろん各点は、一更の五分の一に当たる時間帯になる、

とあり(広瀬秀雄『暦(日本史小百科)』)、「夜半」http://ppnetwork.seesaa.net/article/482364862.html?1625688276は、三更の中央(三更三点の中央)、

に当たる。詩文などで、「夜半」を言うのに、

三更、

というのは、この意味である。

ただ、

一更、二更、三更、四更、五更、

も、

一点、二点、三点、四点、五点、

も、時刻点を指す言葉ではなく、夜間を五等分した時間帯、をいうので、何時に当たるかには幅がある。特に、江戸時代貞享暦(じょうきょうれき)が使われる時代(1684年以降)は、夜間は、

日暮れから翌日の夜明けまで、

を指したが、江戸初期は、

日没から日出まで、

を指し、季節によって、日暮、夜明けの時刻は異なるので、「更」の長さも異なる。便宜上、日没から日出まで夜間とした、更点時間帯と現在の時刻制度とは、年間を通してかなり変動する。

更点法現在時刻.jpg

(更点法と現在時刻 広瀬秀雄『暦(日本史小百科)』より)

で、例えば、現在の時刻で、一更は、

春秋は午後六時から八時半頃まで、夏は午後七時半から九時頃まで、冬は午後五時から七時半頃まで。戌(いぬ)の時、

二更は、

現在のおよそ午後九時から一一時頃。また、午後一〇時から午前零時頃、亥の刻、

三更は、

春は午後一〇時四〇分頃から零時五〇分頃まで、夏は午後一一時前頃から零時三〇分頃まで、秋は午後一〇時頃から零時三〇分頃まで、冬は午後一〇時二〇分頃から零時五〇分頃まで。子(ね)の刻、

四更は、

春は午前一時頃から三時頃まで、夏は午前零時半頃から二時すぎまで、秋は午前零時半頃から二時半すぎまで、冬は午前一時頃から三時すぎまで。丑(うし)の刻、

五更は、

春は午前三時頃から五時頃まで、夏は午前二時頃から四時頃まで、秋は午前二時半すぎから五時頃まで、冬は午前三時二〇分すぎから六時頃まで。寅の刻、

と、幅を持たせた時間帯になる(精選版日本国語大辞典)。

参考文献;
広瀬秀雄『暦(日本史小百科)』(近藤出版社)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)

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ラベル:深更 深夜
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2021年07月10日

弦月


「弦月(げんげつ)」は、

弓張月、

略して、

弓張、

とも言う。漢語である。後漢末の『釋名(くみょう)』に、

弦、半月之名也、其形一旁曲、一旁直、若張弓施弦也、

とある(字源・大言海)ように、

半月、

であり、

上弦の月、

下弦の月、

とがある。

「弦」 漢字.gif

(「弦」 https://kakijun.jp/page/0884200.htmlより)

「ついたち」http://ppnetwork.seesaa.net/article/481987745.html?1623608969で触れたように、「ついたち」は、漢語でいうと、

朔日(さくじつ)、

である。太陽太陰暦、つまり旧暦での、

毎月の初日(第一日)、

を指す。この「朔」の字を、

ついたち、

と訓ませた(広瀬秀雄『暦(日本史小百科)』・字源)。

朔(サク)、

というと、

月が太陽と同方向になった瞬間、

のことであるが、この「朔」の発生した日が、

朔日、

になる。この時の天にある月を「新月」という。但しこの日には、月は太陽と同方向にあるので、実際には月は見えない。「ついたち」の語源である「つきたち(月立ち)」は月の旅立ちの意味である。それは、

この日から月が毎日、天上を移り動く旅が始まり、第三日ぐらいには、夕方西空に低く、細い、いわゆる三日月が見え、一日、一日と日が経つに従って、月は満ち太りながら、夕方見える天上の位置は、東へ東へと移っていく。そこで毎日の月の入りの時刻はおそくなる。第七日か第八日になると、夕方の月は真南に見え、その時の月の形は、右側が光った半月で、これを「上弦の月」といい、この日を「上弦の日」または略して、単に「上弦」という。
上弦から七日か八日経つと満月の日となって、夕方に東からまんまるな「満月」が登ってきて、終夜月を見ることができる。月が西に沈むのは日の出の頃である。満月は毎月の第十五日ごろである。
満月を過ぎると、月の出は段々おそくなり、夕方にはたいてい月は見えない。その代わり、日の出の頃にまだ西の空に月が残っているのが見える。残月であり、この時の月は右側が欠けた形になっている。
第二十二、三日頃には、日出の頃の月は真南に見え、右半分が欠けた半月である。これを「下弦の月」といい、この日が「下弦」である。
それより以後、月はますます日出の太陽に近づき、第二十九日か第三十日には、月は太陽に近づきすぎるので、その姿は見えない。この日が「晦日」である、

という経緯を辿る(広瀬・前掲書)。要するに、

朔(新月)より望(満月)に至る閒なるを、上(かみ)の弓張(上弦)と云ふ、陰暦、七、八、九日の頃なり。望より晦に至る閒なるを、下(しも)の弓張(下弦)と云ふ、二十二、三、四の頃なり、

となる(大言海)。これらの「上」「下」は、月相における順序が先・後であることを意味し、1か月を3旬に分けたときの上旬・(中旬)・下旬と同様の用法であるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%A6%E6%9C%88

月の満ち欠けの図.jpg

(月の満ち欠けの図 内田正男『暦と日本人』より)

新月から次の新月までの1朔望月(約1ヶ月間)の中で、

最初に半月となる1つ目(太陽-地球-月とで成す角度が90度)を上弦の月(じょうげんのつき)、上弦月(じょうげんげつ)または単に上弦(じょうげん)と表現し、次に半月となる2つ目(太陽-地球-月とで成す角度が270度)を下弦の月(かげんのつき)、下弦月(かげんげつ)、または単に下弦(かげん)と表現する、

ということになる(仝上・広瀬・前掲書)。

上弦の月.jpg


「弓張月」の名は、

上弦・下弦ともにいう、

とされる(広辞苑・和訓栞・岩波古語辞典)が、

『大和物語』にある凡河内躬恒(おおしこうちのみつね)の、
てる月を弓はりとしもいふ事は 山べをさしてい(入、射)ればなりけり、
という醍醐帝への答申歌によると、弓張月というものは、山辺を指して没していくようすが、弓に矢をつがえて、山辺を指して射るようにみえるものだとしていることになる、

とある(広瀬・前掲書)。なぜなら、

上弦の月は夜半頃に西山に没するが、下弦の月が西山にかかるのは正午頃である、

からである(仝上)。確かに、弓張り月は、

上弦と下弦の両方の月を指す言葉かもしれないが、このことばで思い浮かべるのは、夕方見える上弦の月と解さざるを得ない、

という説明(仝上)は、説得力がある。

至日(しじつ)といえば夏至の日、冬至の日を共に指し得るが、実際の用例は冬至の日であるのと同趣である、

と(仝上)。

上弦の月(上)と下弦の月(下).jpg

(西山を指して入(射)る上弦の月(上)と西山に入る下弦の月(下) 広瀬秀雄『暦(日本史小百科)』より)

現実に、

同じ月相の月でも、昇った直後と沈む直前とでは上下がほぼ逆になる。ただし、深夜と早朝を除く通常の生活時間帯に見える月の形は、上弦の月(18〜24時)の弦は上にあり、下弦の月(6〜12時)の弦は下にある、

のであるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%A6%E6%9C%88

下弦の月.jpg


さて、「弦」(漢音ケン、呉音ゲン)は、

会意兼形声。玄は、一線の上に細い糸の端がのぞいた姿で、糸のほそいこと。弦は「弓+音符玄」で、弓の細い糸。のち楽器につけた細い糸は絃とも書いた、

とある(漢字源)。別に、

会意兼形声文字です(弓+玄)。「弓」の象形と「両端が引っ張られた糸」の象形から、「弓づる」を意味する「弦」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji1648.html

「弦」 成り立ち.gif

(「弦」 成り立ち https://okjiten.jp/kanji1648.htmlより)

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
簡野道明『字源』(角川書店)
広瀬秀雄『暦(日本史小百科)』(近藤出版社)
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2021年07月11日

実盛送り


「実盛(さねもり)送り」は、特に、中部以西でいうが、

実盛祭、

ともいう(日本伝奇伝説大辞典)、

虫送り、

のことである。

ウンカ、ニカメイチュウなど、主として稲の害虫を村外に追放する呪術的な行事。毎年初夏のころ定期的に行う例と、害虫が大発生したとき臨時に行うものとがある、

とある(日本大百科全書)。

除蝗録 (2).png

(「除蝗(むしおひ)の図」(大蔵永常『除蝗録』) https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2536205より)

虫除け、
稲虫送り、

ともいい、

稲虫を数匹とって藁苞に入れ、松明を先頭にして行列を組み、鉦や太鼓をたたきながら、田の畦道を回って村(集落の意)境まで送って行く。そこで藁苞を投げ捨てたり、焼き捨てたり、川に流したりする。理屈からいえば、村外に追放しても隣村に押し付けることになるが、村の小宇宙の外は他界であり、見えなくなったものは消滅したと考えたのである、

とある(仝上)が、上総國大谷村の例では、

虫除けは村から村へと「虫除明神巡行」がおこなわれるが、大谷村へは隣村の川谷村から虫除明神が送られてくる。安政五年の場合、虫除明神が川谷村から送られてきたのは六月十日であった。虫除明神を迎え神事を執行するのは神官であるが、大谷村には神官がいないため、他所より来てもらっている……。十日の八つ半時(午後2時)頃神官が大谷村に到着すると、それを待っていたかのように川谷村から村境まで虫除明神がきているので迎えに来てほしいと連絡があった。神官・名主八郎兵衛・組頭そして若者中は早速迎えに行き、虫除明神を天王様(大杉神社の疱瘡や疫病除け・水上交通の守護神アンバサマ(安母様)の分霊を祀っている)に納め、神官に酒食を供している。翌十一日は名主・与頭が同席し、昨夜より泊まっている神官に朝食を供し、その後天王様で宝楽が行われ、……「虫除明神」の(村内の)巡行が始まり……虫除明神を次村へ送っている、

と、至極のんびりしたものである(山本光正『幕末農民生活誌』)が、別に静かだったわけではなく、

神社の前に集まり、焚火をして、一本一本各人が松明を持ち、田んぼの道を行列をくんで、青年達が太鼓を叩き、笛を吹きながら村境まで行って、松明をひとまとめにして、太鼓・笛で囃したてて燃え尽きたと同時に帰ってきた、

ともある(仝上)。

こうした呪術的儀礼は、

稲に虫がつくのは悪霊の所為と考え、あるいは、不幸な死を迎えた人間の怨霊の仕業と考え、虫をとらえたり、その人間をかたどった人形をつくり、高く掲げて田畑を回り、村境や川、海、山などにまで送り出す、

ものだ(ブリタニカ国際大百科事典・日本伝奇伝説大辞典)が、

中世の御霊信仰(ごりょうしんこう)と深い関係にある、

と考えられている(仝上)。御霊信仰(ごりょうしんこう)は、

人々を脅かすような天災や疫病の発生を、怨みを持って死んだり非業の死を遂げた人間の「怨霊」のしわざと見なして畏怖し、これを鎮めて「御霊」とすることにより祟りを免れ、平穏と繁栄を実現しようとする、

信仰のことであるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E9%9C%8A%E4%BF%A1%E4%BB%B0

古い例から見ていくと、藤原広嗣、井上内親王、他戸親王、早良親王などは亡霊になったとされる。こうした亡霊を復位させたり、諡号・官位を贈り、その霊を鎮め、神として祀れば、かえって「御霊」として霊は鎮護の神として平穏を与えるという考え方が平安期を通しておこった、

とある(仝上)例を見ると、ある意味で、非業の死に追いやった側に、恐れが大きいのかもしれない。

「虫送り」に、斎藤別當実盛https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%8E%E8%97%A4%E5%AE%9F%E7%9B%9Bが結びつけられたのは、

実盛が敵に襲われ深田に落ちて困っているのを農民が助けなかった、

からとも、あるいは、

実盛が稲の株につまずいて倒れたのが原因で敵に討たれた、

ために、その恨みによりイナゴなどの害虫となって稲を食い荒らすと信じられたから、とされ(江戸語大辞典・日本伝奇伝説大辞典・世界大百科事典)、稲を害する蝗・浮塵子(うんか)の類に、

実盛蟲、

の名を付けている(大言海・江戸語大辞典)が、

倭俗に、実盛蟲と称するあり、いなごに似て、小也、青色也、首は兜を着たるが如し、稲葉を食て、大に害す、夜、松明をともし、鐘鼓を鳴らして逐之、

とあり(大和本草)、

横から見ると、烏帽子をかぶった武士の姿に見える、

ともあるhttp://m.zukan.net/blog/2008/08/86-1.xhtml、「ウンカ」のようである。

ただ、江戸後期の『用捨箱』(柳亭種彦)には、

青色の蟲を夕顔別當と云ふも、夕顔の花の中へ潜り入り、我物顔にふるまふ故の名なり、……蝗(イナムシ)を、実盛と云ふも、原(もと)は、稲別當など云ひしを、坂東の農民、長井別當の名高きより、戯れに、実盛と、隠語のやうに云ひたるが、遂に、諸国へわたりしにはあらずや、

と書く(大言海)。長井別當とは、越前の住人でのち武蔵国長井に移り、長井別当と称した、斎藤別當実盛のことである。この説で言うなら、別當つながりで、

夕顔別當→稲別當→斎藤別當→実盛、

と、斎藤別當になったことになるらしい。実否は別にして、ありえる面白い説だ。勿論背景に御霊信仰があってのことだが。

そんなことで、「虫送り」には、

帯刀の侍姿の藁人形(実盛人形)を担ぎ歩く、

例もあるし、実盛が、木曾義仲の部将・手塚太郎光盛によって討ち取られたとされているため、

実盛と手塚太郎の人形が争う形をとる、

例もある。

「虫」 漢字.gif


「虫」は、「蟲」の略字とされているが、本来は別字である。

「虫」(漢音キ、呉音ケ)は、「まむし」の意であり、爬虫類の意味も表すが、

象形。蛇の形を描いたもの、

であり、

「蟲」(漢音チュウ、呉音ジュウ)は、「昆虫」の意であり、動物の総称で、「羽虫」は鳥類、「毛虫」は獣類、「甲虫」は亀類、「麟虫」は魚類、「裸虫」は人間と、動物の総称でもあり、

会意。虫を三つ合わせたもので、多くの蛆虫。転じていろいろな動物を表す、

とある(漢字源)。「蟲」(チュウ)は、別の字であるが、のち「虫」の字を「蟲」の略字としてもちいたものである(仝上)。

「蟲」 漢字.gif

(「蟲」 https://kakijun.jp/page/E5B3200.htmlより)

参考文献;
山本光正『幕末農民生活誌』(同成社)
乾克己他編『日本伝奇伝説大辞典』(角川書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

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2021年07月12日

豪農の暮らし


山本光正『幕末農民生活誌』を読む。

幕末農民生活誌.jpg


本書は、

上総國望陀群大谷村(現千葉県君津市)の朝生家に伝わる日記、

をもとに、幕末の農民の日常生活を書いたものであるが、朝生家は名主を勤めているので、朝生家を中心とした、名主、百姓代、組頭といった、村方三役人層の、豪農の暮らしといった方が正確である。大谷村は、曲折はあったが、寛保二年(1742)以降幕末まで、黒田家三万石の久留里藩領である。

大谷村は、寛政五年(1793)の「明細書書上」によると、

村高二三二石六斗四升六合、

反別は、二四町七畝一九歩、

田、九町九反三畝六歩、
畑、一三町七反一三歩、
屋敷、四反四畝歩、
新高、四九石一斗八升二合(反別五町一反六畝二七歩)、

とある。

家数、五六軒、
人口、二三九人(男112、女127)、僧侶二人、

と小さな村である。

日記は、安政四年(1857)九月から明治二十六年(1893)まで、飛び飛びで、幕末は、安政四年から慶応三年(1867)まで、一年揃っているものはないので、他の年とつなぎ合わせながら、生活を追っている。当主は代々、

八郎兵衛、

を名乗る。安政四年の家族構成は、

八郎兵衛 四七歳、
妻 もと 三九歳、
父 八兵衛 六六歳、
母 かん 六五歳、
長男 卯之助 二〇歳、
長男妻 よね 一九歳、
長女 そめ一六歳、
次男 熊治郎 一〇歳、
馬一疋、

で、当主の、安政四年四七歳から、慶応三年五八歳までの約十年を追うことになる。

八郎兵衛の家では、

綿の栽培から機織りさらに着物の仕立てまでを行っていた。これら一連の作業は商売のためではなく基本的には自家用である。日記には綿摘みから糸紡ぎ・染色・機織り・着物拵え・針仕事が頻繁に記されている、

が、多くの衣類を新たに調達するのは婚礼の時である。たとえば、娘そめの婚礼支度の一部として、木更津まで買い物に出かけ、

上着小袖一反、紺縮緬 銀一二九匁九分、
茶縮緬巾に釈八寸 銀二三匁二分、
浦(裏)紅二丈二尺、銀二六匁四分、
黒朱(繻)子袖口一つ 銀三匁二分、

等々合わせて十両余の買い物をしている。さらに、次男熊治郎の婿入りの支度は、驚くほどである。

「浮絵駿河町呉服屋図」(歌川豊春).jpg

(「浮絵駿河町呉服屋図」(歌川豊春)明和五(1768)年 江戸駿河町・三井越後屋の店内https://www.bunka.pref.mie.lg.jp/MieMu/83010046697.htmより)

八郎兵衛は、江戸の京極氏藩邸内の金毘羅代参鬮に当たり、この代参を利用して熊治郎の衣類などを江戸で調達することにして、妻もとも同道、八郎兵衛が金四十二両二分と錢七百貫文余、もとが金十両余と錢二百貫文を持参して、駿河町越後屋で、

熊治郎祝儀衣類品々、

を、総額三一両一分購入し、続いて、上野広小路の松坂屋で、

唐桟織二反 二両一分一朱と錢一四〇文、

購入、その他、須田町で、

四書と縮緬切れ、

本石町で、

柳行李と脇差、

を購入している。越後屋で購入した反物を、久留里で仕立ててもらうことになるが、それを見ると、

八丈羽織地 一反、但し甲斐絹裏、
鉄納戸小袖表地 一反、
八丈紺地小袖 表地一反、
紺絹裏 二疋但し四反分、
絹ふとり 一反
荢麻(からむし)上下(裃) 一反、
鉄納戸合羽 一反 但し裏しふぞく付、
博多唐織帯 一筋 但し帯芯付、

等々とあり、中に、

荢麻(からむし)上下(裃)、

が含まれており、脇差も含め、

熊治郎の婿入り先は時に裃を着用する家柄、

であったことが分る。

村で行う催事の他、

虫除け(虫追い)、
風除け、
雨乞い、

等々にも、村の中心人物としてかかわる。雨乞いは領主にとっても関心事で、文久元年(1861)日照りがひどく、

六月八日、殿様(九代黒田直和)が浦田村の「妙見寺」(現久留里神社)で雨乞い祈祷を行い、大谷村では一軒に付き一人が代参することになり、四ツ時(午前十時頃)神楽を持参して参詣、帰路村宿エビス屋で御神酒を飲む、八ツ半頃(午後二時)雨が降り、
九日、昼から「御しめり祝」になり、村一同休みとし年寄りは百万遍(百万回の念仏を唱えること)、若衆は村内三社に神楽奉納、
十日、大暑天気、
十一日、御天気、
十二日、大暑御天気、
十三日より三日間殿様が妙見様で雨乞祈祷をするというので、村役人相談のうえ判頭中(各戸の主人)が代参、
十九日には、三度目の殿様による雨乞祈祷が妙見様で行われることになり、朝方から名主を中心に村方の対応が相談され、「男は残らず出、白山様(白山神社)より妙見様へ弁当付にて神楽持参参納」と決まる、
二十日は神楽と百万遍(念仏)、
二十一日は若者の「千垢離(せんごり)」(何度も水垢離をとる)、
二十四日は殿様の四度目の雨乞祈祷を愛宕神社で行い、村中の家主・若者総出で七つ半時(午前五時頃)に村を出立し、愛宕神社に参って神楽を奉納、三社に百万遍を奉納。夜に入って若者中が山神社へ籠り雨乞祈願、
二十五日、若者たちは天王様へ巡行、
二十七日、上々天気、相模の大山へ雨乞いのため二名を代参に出す、
七月一日、藩主より各村が妙見様と愛宕様に雨乞を祈祷するよう命ずる。大谷村では一軒一人が代参に出かけ、村内では神楽と百万遍、
三日、大山代参が帰村、
四日、雨降り、
五日、村一同「御しめり祝」になり、一軒一人代参を出し、白山様、愛宕様、妙見様の村内三社に詣でる、

と、ようやく雨も本降りとなって、雨乞が終わる。各国との修好通商条約締結後、幕府にとって多難なこの年である。開国も、外国も、此処では雨乞いには勝てないのである。

さらに、元治元年(1864)も、七月一日すでに晴天がつづいていたようで、藩主は三日間妙見様で護摩祈祷を行うことになった。(中略)殿様の祈祷に対し、村方は一軒につき一人が代参することになり、名主である八郎兵衛は村方が妙見様へ代参する旨を役所に届け、四つ時(午前一〇時頃)村方の者を同道して妙見様に参詣している、

とある。それにしても、この元治元年は、将軍家茂が入京し、この七月には、蛤御門の合戦が起きているときである。この村の住民からは、いや、藩庁にも、幕末という時代も、その危機感もほとんど感じさせないのである。

唯一江戸幕府の動向が垣間見えたのは、安政五年(1858)の、

鳴物停止、

である。これは将軍家定薨御に伴い、藩から出された禁令であった。これだけである。

翌安政六年(1859)には、八郎兵衛が名主退役届を出し、伊勢・金毘羅参詣の旅に出ようとするのである。安政大獄の最中であるが、藩にも、当人にも、また、旅の途中にも、そうした危機をうかがわせる記述は、彼の『道中日記』には、どこにも見られない。いわば、社会の構造自体が大揺れの中、片田舎では、名主だけではなく、藩庁も、役人も、あるいは下々の一般の生活も、普段と変わりなく過ぎていく、というのが、驚異である。とりわけ、多くの名主・庄屋層が、時代に危機感を感じていたのは、『夜明け前』を繰るまでもないのだが、此処には、そうしたことは片鱗もうかがえない。かえって、それが興味深い。

なお、幕藩体制下の農民、ないし農村社会のありようについては、

藤野保『新訂幕藩体制史の研究―権力構造の確立と展開』http://ppnetwork.seesaa.net/article/470099727.html
渡邊忠司『近世社会と百姓成立』http://ppnetwork.seesaa.net/article/464612794.html
菊池勇夫『近世の飢饉』http://ppnetwork.seesaa.net/article/462848761.html
深谷克己『百姓一揆の歴史的構造』http://ppnetwork.seesaa.net/article/474047471.html
水林彪『封建制の再編と日本的社会の確立』http://ppnetwork.seesaa.net/article/467085403.html
速水融『江戸の農民生活史』http://ppnetwork.seesaa.net/article/482114881.html?1624300693

でそれぞれ触れた。

参考文献;
山本光正『幕末農民生活誌』(同成社)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

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2021年07月13日

風祭


「風祭(かざまつり)」は、

稲作に被害が生じないよう風神に祈る風鎮めの祭り、

とある。立春から数えて210日目の「二百十日」と、220日目の「二百二十日」。昔から強い風が吹くまたは天気が荒れる日とされ、(稲の花が咲き身をつけるころである)8月1日の八朔も含めて三大厄日とされているhttps://weathernews.jp/s/topics/201807/310145/という。

二十四節気の「処暑」(八月二十三日から九月六日頃)のうち、七十二候「禾乃登」(こくものすなわちみのる)の頃(九月二日から六日頃)が、稲が実り、穂を垂らす頃なので、この日を中心にして風の害を防ぐための風鎮めが広く行われた。古く、万葉集にも、

山嵐の風な吹きそ打越へて名に負へる杜(=龍田神社)に風祭せな、

と詠われる。

風の神祭、

とも、また神社やお堂にお籠りする、

風日(かざひ)待ち、
風籠り、

等々とも言う(風と雲のことば辞典)が、

富山で行われる、

おわら風の盆、

(上記歌の「杜」である)奈良県龍田大社で行われる、

風鎮大祭、

長野県の、

とうせんぼう祭り、

長野県諏訪神社の、

薙鎌を立てての風祭、

熊本県阿蘇神社の、

風鎮祭、

等々も「風祭」である(仝上)。

風三斗、

という諺があり、

お風が吹くと稲の収穫が一反歩当たり、三斗も減る、

といったり、

ひと吹き百万石、

といい、

台風が一度上陸すると、稲が強風や冠水に見舞われて、百万石減産となる、

といわれる。出穂直後の柔らかい稲穂は特に強風に弱いのだという(風と雲のことば辞典)。

上総國望陀郡大谷村では、

風除(よ)け、

といい、風除けを行う日は特に決まっていなかったらしいが、数日前から名主、組頭らが風除け準備の御神酒手配をしている。その数が、

酒壱本代金三分弐朱 十駄十八両弐分銀三匁、

と、途方もない数である。家数五十六戸、二三九人の人口の村である。で、

安政五年(1858)の場合には六月十七日に風除けを行い、二百十日は七月二十四日であった。元治元年(1864)の場合、風除けは七月二十六日に行われ、二百十日は七月晦日であった。元治元年(1864)の風除けは、……若者中の(村内)三社に神楽奉納が行われたが、このほかに持明院で宝楽亀頭が行われている。七月晦日には名主八郎兵衛が村役人や勘定人を呼び寄せ風除け御神酒を振舞い、持明院にも酒食を渡している、

とある(山本光正『幕末農民生活誌』)が、

風籠り、風日待などといって、神社やお堂に忌籠(いみごも)り精進(しょうじん)する形が最も一般的で、各戸から1人ずつ出て飲食しながら祈願したり、念仏を称えたり、100万遍の数珠繰りをする、

とか(ブリタニカ国際大百科事典)、

獅子舞(ししまい)や囃子(はやし)を奉納して無事を祈ること、大注連縄(おおしめなわ)を村の入口に張り渡して風の悪霊の入来を防ぐこと、大声で騒ぎたてたり、藁人形に悪神を負わせて辻や村境に送り出そうとする、

とか、

社寺からの風除(よ)けの神札を田畑に立てることや、草刈鎌を庭先高く掲げて吹く風を切り払おうとする呪術、

とか(日本大百科全書)、あるいは、

関東から東北にかけては、風穴ふたぎといって団子をつくって家々の神棚に供える(ブリタニカ国際大百科事典)、

等々を行う。

風神は、古くは、神代紀に、

唯有朝霧而薫満之哉、乃吹撥之気化為神、號曰級長邊命、亦曰級長津彦命、是風神也、

とあるように、

伊弉諾尊・伊弉冉尊の子、級長津彦(しなつひこ)尊、

が、

風の神、

とされる(『古事記』は志那都比古神(しなつひこのかみ)、『日本書紀』は級長津彦命(しなつひこのみこと)と表記、神社の祭神として志那戸辨命、志那都比売神、志那都彦神等々とも)。

龍田大社(奈良県生駒郡)の祭神は天御柱命・国御柱命であるが、社伝や祝詞では天御柱命は志那都比古神、国御柱命は志那都比売神(しなつひめのかみ)のこととしている。志那都比古神は男神、志那都比売神は女神である。伊勢神宮には内宮の別宮に風日祈宮(かざひのみのみや)、外宮の別宮に風宮があり、どちらも級長津彦命と級長戸辺命を祀っている、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%8A%E3%83%84%E3%83%92%E3%82%B3。後世は、

風神雷神、

と、雷神と対になし、

風袋を担いで天空を駆ける姿、

をイメージされるようになる(風と雲のことば辞典)。

北野天神縁起絵巻の風神.jpg


また、風の神様を、

風の三郎、
風の又三郎、

とも言い、新発田近辺の阿賀北地域では、子供たちが、

「風の三郎さん 風吹いてくりやんな くりやんな」

と唱和して地域を練り歩いた風習もみられたhttps://www.heri.co.jp/01mon/pdf/ni-gaku/1709-ni-gaku.pdf、とあり、風祭の一種である。地域によっては、

富山県には風の神を祀る「ふかぬ堂」という風神堂が十数か所あるし、新潟県には風の三郎なるものを祀る小祠、

がある(日本大百科全書)し、

風袋を背負っている風神の石像、

も少なくない(仝上)、とある。

かつては、山から吹き下ろす風を求めて「たたら」に利用しようとする製鉄業者などの風に対する別の観念の存在したことも、予想される、

ともあるのは興味深い(仝上)。

参考文献;
山本光正『幕末農民生活誌』(同成社)
倉嶋厚監修『風と雲のことば字典』(講談社学術文庫)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
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2021年07月14日

風の祝


「風の祝(はふり)」は、

風の神を祭る祝(はふり)、

を指し、

風を鎮めるために、風神を祀る神官、

とある(広辞苑・大言海)。

風の祝子(はふりこ)、

ともいう(仝上)、とある。最初に風鎮めの神事を行ったのは持統天皇五年(691)とされる(風と雲のことば辞典)。

鎌倉中期の教訓説話集、『十訓抄』(じっきんしょう/じっくんしょう)に、

信濃國は、きはめて風はやき所なり、これによりて、諏訪明神の杜に、風の祝といふものを置きて、深くこめすゑて、いはひ置きて、百日の閒尊重することなり、

とある(大言海)。平安末期の歌人『散木奇歌集』(源俊頼の自撰(家集)に、

けさみればきそ路の桜咲きにけり風のはふりにすきまあらすな、

とある(精選版日本国語大辞典)が、この歌が、後に『清輔袋草紙』に収められた際、選者の藤原清輔は、

信濃國は極風早き所也、仍(よっ)てスハ(諏方)の明神の社に、風祝と云物を置て、是を春の始に、深物に籠(こもり)居て、祝して百日之間尊重するなり、然者(しかれば)其年凡(およそ)風閑にて、農業爲吉也、自らすきま(隙間)もあり、日光も令(漏れ)見つれば、風不納(おさまらず)……、

とあるhttp://kodaisihakasekawakatu.blog.jp/archives/16253850.html。で、「すきまあらすな」と詠んだものらしい。

「祝」 漢字.gif


「はふり」は、

祝、

と当て(岩波古語辞典は「はぶり」と訓ませる)、

神主・禰宜の次位で、祭祀などにしたがった人、

の意とされ(岩波古語辞典・広辞苑)、

祝子(はふりこ)、
祝人(はふりと)、

ともいい(「祝人」も「はふり」と訓ますこともある)、

巫女、

にもいう、とある(仝上)。

「はふり」は、

はぶる(放る)と同根。罪・けがれを放(ばふ)る人、

の意(岩波古語辞典)とあり、大言海も、

穢れを放(はふ)る義か、

としている。「はふる」に当てる漢字には、いくつかあり、

葬(はぶ)る、
屠(はぶ)る、
放(はぶ)る、
羽振(はぶ)る、
羽触(はふ)る、
溢(はふ)る、

なのか(岩波古語辞典)、

葬(はふ)る、
屠(はふ)る、
放(はふ)る、
投(はふ)る、
羽振(はぶ)る、
溢(はふ)る、

なのか(大言海)、濁音の有無ははっきりしないが、

放る、

には、

かかる道の空(=道端)にてはふれぬべきやあらむ(源氏)、

と、「捨てる」意で、

大君を島にはぶらば(古事記)、

と、放ち捨てる意とある(明解古語辞典)。また、

葬る、

も、

言さへぐ、百済の原ゆ、神葬(かみはふ)り、葬りいまして(万葉集)。

とある(大言海)が、名義抄には、

殯、ハブル、

とある(岩波古語辞典)。ここからだけ判断するのは臆断かもしれないが、古く、

はふる→はぶる→はうぶる→はうむる→ほうむる、

と転訛したのではあるまいか。とすると、濁音か否かを少し脇に置くなら、

祝(はふ)り、

は、

放(はふ)るの連用形の名詞化、

であり(日本語源大辞典)、「放(はふ)る」は、

葬(はふ)る、

に通じる。「葬る」は、

古へ、死者を野山へ放(はふ)らかしたるより起こると、

とある(大言海)。さらに、

屠(はふ)る、

も、

切りはふる、

とあり(大言海)、

切ってばらばらにする、
放り出す、

意であり(岩波古語辞典)、

放る、

とも当てている(仝上)。その意味で、

溢る、
も、
羽振る、

も、意味は「放る」とつながる、といえる。大言海は、逆に、「放(はふ)る」が、

溢(はふ)るの転、

としているほどである。

「祝(祝)」(漢音シュク・シュウ、呉音シュク・シュ)は、

会意。「示(祭壇)+兄(人の跪いたさま)」で、祭壇でのりとを告げる神職を表す、

とある(漢字源)。

「祝」 甲骨文字・殷.png

(「祝」 甲骨文字・殷 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%A5%9Dより)

会意。示と、兄(神にのりとをささげる人)とから成る。神を祭る意を表す。転じて「いわう」意に用いる、

という説(角川新字源)と通じる。

「祝」 成り立ち.gif

(「祝」 成り立ち https://okjiten.jp/kanji682.htmlより)

別に、

会意文字です(ネ(示)+口+儿)。「神にいけにえをささげる為の台」の象形と「口」の象形(「祈りの言葉」の意味)と「ひざまずく人」の象形から「幸福を求めて祈る」・「いわう」を意味する「祝」という漢字が成り立ちました、

との説明https://okjiten.jp/kanji682.htmlは、より具体的である。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
金田一京助・春彦監修『明解古語辞典』(三省堂)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

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2021年07月15日

伊勢参り


旅の文化研究所編『絵図に見る伊勢参り』読む。

絵図に見る伊勢参り.jpg


本書は、寛政九年(1797)に刊行された『伊勢参宮名所図会』を読み解きながら、江戸時代の伊勢参りの実像に迫っている。『伊勢参宮名所図会』は、

「一八世紀初頭からの伊勢参宮案内記の伝統を承けて刊行された」

もので、

「多様であった参宮の経路を代表的なふたつに集約し、その道中の場所が担う歴史を絵図とともに詳細に詳述した点で、それまでの類書とは一線を画していた。この本の出現によって、伊勢神宮は実に豊富なイメージと共に統一された。」

とあるほどの強い影響力を持った。「豪農の暮らし」http://ppnetwork.seesaa.net/article/482424187.html?1626028105でも触れたが、上総國望陀群大谷村(現千葉県君津市)の、戸数56軒の小村の豪農は、嘉永二年(1849)、安政六年(1859)と、伊勢、西国金毘羅詣での旅をしていた。凡そ五十余日の旅である。江戸時代、

一生に一度の伊勢参り、

とされ、年間100万人、宝永二年(1705)の「おかげ参り」流行の時は、362万人もの参詣者があったとされる(本居宣長『玉勝間』)。『伊勢参宮名所図会』のような本が、手引きともなり誘因にもなったと推測される。

背景には、社会・経済的な安定と、例えば、伊勢講のような仕組みがある。「講」は、

「講費を分担して積み立て、……伊勢までの往復の旅費と伊勢で神楽奉納を行う祈祷料となる。そして、それは代参者によって運用される。代参者は、何人かずつが輪番制で毎年変わっていくので、何年かに一度は講員がもれなく行ける」

というものであった。こうした参詣者側の条件とは別に、「庶民の旅」を発達させた要因に、

街道と宿場の整備、

が、参勤交代の制度と合わせて、幕府主導で国家事業として進められ、

(旅の)安全性、

という装置が、

「望みうる最良の水準が確保された」

ことが一つ、いまひとつ、

制度系、

の要因として、

手形の一般化、

がある。

「いわゆる道中手形であるが、庶民の場合は往来手形。それが檀那寺や氏神神社から、つまり僧侶や神主から発行されるようになった。(中略)それは、旅の利便をはかるある種の合理性をももって自然に発生し、広まった習慣であった。街道と諸設備が整備されたとはいっても、徒歩行である。それなりに難行であることに変わりはない。不慮の事故のなかで、もっとも厄介なのは死亡である。その場合も、檀那寺の手形があれば、もよりの寺で(宗旨を問わず)密葬してくれることになるのである。」

「伊勢参宮宮川渡しの図」(歌川広重).jpg

(「伊勢参宮宮川渡しの図」(歌川広重) http://museum.isejingu.or.jp/sp/museum/collection/05176.htmlより)

庶民の伊勢参りを支えたのは、

御師(伊勢では、オンシ)、

の存在である。本来神職であっが、神人の性格をなくして商人化する。

「神宮との組織的な関係を断絶し、それぞれに独立した『口入れ神主』と化し……、全国的に師檀(御師と檀家)関係を組織化して、参宮者の旅を万端斡旋する……。御師の数は、……江戸中期には600から700家ぐらい……いた、と類推できる。各御師は、すでにカスミともいう檀那場を決めていた。カスミの内にある家を檀家とか檀那という。安永六年(1777)の『私祈祷檀家帳』には、国別の信者数が掲げてある。それを総計すると約419万戸である。御師を通じて集計した数字であるから多少の誇張もあるだろうが、それにしても驚くべき数字である。日本全体の七~八割に相当するであろうか。」

そうした組織化された檀家を相手に、

「御師の第一の商業活動は、毎年一度、檀家に『大神宮』と銘された神札(大麻ともいう)を配布することであった。大麻は、檀家が伊勢に参って天下泰平、五穀豊穣の祈願をすべきところを、御師がすでに代行して祈願したものとする証印である。(中略)
大麻に次ぐ御師の第二の商品は、音物(いんもつ)であった。いわゆる伊勢みやげである。杉原紙・鳥子紙・油煙(炭)・帯・櫛・海苔・茶・伊勢暦など、……こうしたみやげは、当初は商品として売買されたのではなく、多額の初穂(祈祷料)を出してくれた人への添えもの(答礼)だった。」

こうして檀家との結びつきを強めた御師の大きな収入源は、

「伊勢に参宮する檀家の人たちに宿を提供することであった。御師の家に泊まる檀家は、御供料(神饌料)・神楽料・神馬料を払うのが習わしであった。」

いずれも伊勢神宮とは関係がない。しかし、参宮に訪れた、

「檀家の人たちに対しては、下へも置かない接待に徹した。檀家の一行が宮川を渡ってくると、年配の手代が慇懃に出迎える。御師の家の門前に着くと、ただちに入浴をすすめる。そして一行が髭を剃り、髪を結いなおし、用意された羽二重の着物にあらためて座敷に落ち着いたとき、主人が出てきてうやうやしく挨拶をし、遠路の労をねぎらう。そのあと食事となる。これまた鯛に鮑に海老に灘の生一本などの二の膳、三の膳。」

こうした大盤振る舞いの「宣伝効果」をも意識した御師は、

元祖旅行総合業、

であるが、それだけでなく、

「庶民の旅の手続き上の難儀を代行するだけでなく、伊勢においては旅館業やみやげもの店も兼ね、祈祷神楽も行う。無論檀家と講社の管理は万全で、講費の管理まで代行」

する、伊勢参宮の綜合サービス業でもあった。

前述の「豪農の暮らし」http://ppnetwork.seesaa.net/article/482424187.html?1626028105でも、名主を引退して伊勢の旅に出た「八郎兵衛」は、山田に入ると、御師の小林太夫方に到着するが、

未六月廿三日四ツ時小林太夫様え着仕候、

と旅日記に書いていた。

さて、伊勢に入り、斎宮村から、宮川の渡しのある小俣の途中の上野村に、かつて明野の原とよばれた野があり、東明星、中明星、新明星と呼ばれるところには茶屋があり、繁盛していた、という。

「明星の茶屋化粧(ば)けといふおんなども」

と(大馬金蔵『伊勢参宮道中記』)、茶の女でありながら、遊女まがいのなりをして、接客していたらししい、とある。

明星(伊勢街道の風景).jpg

(明星(伊勢街道の風景) https://www.bunka.pref.mie.lg.jp/MieMu/82944046631.htmより)

中川原は宮川の渡しの東に位置し、山田町の入口にある。ここに、片旅籠茶屋と呼ばれる施設があり、御師の手代が参詣人を出迎える場所になっていた。左側で挨拶しているのが御師の手代。家族と思しい参詣人を出迎えている。

中川原(御師の手代の出迎え).jpg

(中川原(御師の手代の出迎え) https://www.bunka.pref.mie.lg.jp/MieMu/82944046631.htmより)

絵図の外宮は、三枚セットの俯瞰図になっていて、今は入れない玉串御門前まで参拝し、その参拝の様子も、土座礼(チベットの五体投地、中国や韓国の膝突礼に通じる)であることが面白い。

この図の添え書きに、

「天子の御参宮ハ持統帝聖武帝五白川帝」

とあり、天皇の参宮が定例化したのが明治以後のことだとわかる。

外宮の正宮.jpg

(外宮宮中之図(其の二) https://www.bunka.pref.mie.lg.jp/MieMu/82944046631.htmより)

御師の館で執行する神楽は、宮中の「御神楽(みかぐら)」に対し、

里神楽、

である。祈願主の料物(神楽料)に応じて、大々神楽、大神楽、小神楽の区別があり、それによって、

「楽人(男性)、舞人(女性)の人数が決まる、とある。神主は御師が務める。

神楽の様子.jpg

(「神楽の様子」 https://www.bunka.pref.mie.lg.jp/MieMu/82944046631.htmより)

「間の山(あいのやま)」は、外宮と内宮の間にある山を言う。坂道で、妙見町の東にある坂と、東古市町を挟んだ先の牛谷という坂も、間の山と呼ばれ、この坂に挟まれたのが、古市の遊郭になる。

間の山には、参詣者に錢を乞う芸人や女乞食が多く集まった、とある。全体の人の流れと逆方向に、右端に、御師と手代が描かれている。古市まで参詣客を送り届けた帰りか、とある。

間の山の雑踏.jpg


内宮と外宮の間にある遊郭。古市の人家342軒、妓楼が70軒、遊女は1000人を超えたという。下の方に羽織を着た御師の手代が坐っている。遊郭の案内役も務めた、とある。

伊勢参宮大神宮にもちょっとより、

という川柳がある。俗に、

往きの精進、帰りに観音ご開帳、

といった。遊郭で遊ぶのは定番であった。遊郭での伊勢音頭がショーのように演じられるようになり、その遊び方が定着すると、女性客も遊郭に訪れた、とある。

古市のにぎわい.jpg


内宮の絵図も三点セット。名称と本文を突き合わせて行けば、参詣の順路が分ると掛けになっていた。

内宮の正宮.jpg


『伊勢参宮名所図会』は、五巻六冊、付録一巻二冊の絵入り大本にもかかわらず、評判がよかったらしく、享和二年(1802)、嘉永元年(1848)にも刊行された、という。見ているだけで、その歴史と背景が分り、旅心を誘われたことは疑いない。

参考文献;
旅の文化研究所編『絵図に見る伊勢参り』(河出書房新社)
『伊勢参宮名所図会』https://www.bunka.pref.mie.lg.jp/MieMu/82944046631.htm
山本光正『幕末農民生活誌』(同成社)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
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2021年07月16日


「かぜ」は、

風、
風邪、

と当てるが、「風」の意味に、いわゆる「風が吹く」の意や、「風」をメタファにした、「風向き」の意や、~風といった「やり方」の意といった「風」の意味の外延の中に、

風を引く、

として、「風邪」の意もある(広辞苑)。「風」は、

空気の流動、

の意だが、

奈良朝以前には、風は生命のもとと考えられ、風にあたると受胎すると思われていた。転じて、風が吹くと恋人が訪れてくるという俗信があった。また、明日香・初瀬など、それぞれの山々に風神がいて風を吹かすものとされていた、

とある(岩波古語辞典)。

「風」 漢字.gif


「かぜ」は、平安時代末期の古辞書『色葉字類抄』に、

風、かざ、

とあるように、古形が、

カザ

であり、

風向(かざむ)き、
風車(かざぐるま)、
風穴(かざあな)、
風花(かざはな)、
風音(かざおと)、
風雲(かざぐも)、
風祭(かざまつり)、
風花(かざはな)、

等々と、複合語だけに残っている、

とある(岩波古語辞典)。ただ、大言海は、逆に、「かざ」は、

かぜ(風)の転、

とし、

早稲(わせ)、わさだ(早稲田)。船(ふね)、ふなばたなどの例、

としている。確かに、複合語となることで、

kazehana→kazahana、

と、

a→e、

間の母音交換は、「手綱」の、

tetuna→taduna、

というような音韻変化はあり得る(日本語の語源)ので、是非は判別しがたいが、大言海は、「かぜ」は、

気風(かじ)の転、

とし、「気(か)」は、

気(け)の転、

とし、

竹、たかむら。酒、さかづき、

を例とし、

か(香)、か(臭)、かをる(薫)、かまく(感)、かぶる(感染)などのカ、

とする。そして、「風(じ)」は、

かぜ(風)の古名、

とする。神代紀に、

吹撥之気、化為神、號曰級長戸邊(しなとべ)命、

を例に挙げ、

「荒風(あらし)」、「旋風(つむじ)」、「風巻(しまき)」、転じて「ち」。「東風(こち)」「速風(はやち)」。叉転じて「て」。「疾風(はやて)」、

と、

し(じ)→ち→て、

と転じたとする。「し→じ→ぢ→ち」を考えると、

si→di→ti→te、

という転訛はありえるかもしれない。

ち(風)→て(風)、

の転嫁が認められる(岩波古語辞典)のなら、

し(風)→じ(風)→ぢ(風)→ち(風)、

もあり得るのかもしれない。

さらに、「か」は、

アキラカ・サヤカ・ニコヤカなど、接尾語のカと同根、

とあり、

カ細し、カ弱し、

のように、

目で見た物の色や性質などを表す形容詞の上につき、見た目に……のさまが感じ取れる意を表す、

とあり(岩波古語辞典)、

転じてケ(気)となる、

と、結果として大言海とは真逆ながら、

カ⇔ケ、

の転訛を言っており、「け(気)」は、

潮気立つ荒磯にはあれど行(ゆ)く水の、過ぎにし妹(いも)が、形見とぞ来(こ)し(万葉集)、

のように、

霧・煙・香・炎・かげろうなど、手には取れないが、たちのぼり、ゆらぐので、その存在が見え、また感じられるもの、

を示すとある。「かぜ」を、

気風(かじ)の転、

とする大言海説に、一応の理が立つ気がする。

「カ(気)+ゼ(風)」で、空気の動きの意(日本語源広辞典)、
カは大気の動き、ゼは風、すなわちジと同胞語で、カジ(気風)の転(音幻論=幸田露伴)、

とするのも、同趣旨である。

キハセ(気馳)の義(日本語原学=林甕臣)、

も、似た発想である。

中国古代の「風」は、大気の物理的な動きとともに、肉体に何らかの影響を与える原因としての大気、またその影響を受けたものとしての肉体の状態を意味した。日本での「かぜ」は、もともと大気の動きである、

とある(日本語源大辞典)。

因みに、「風邪」との関係については、

(風邪の)意の用例は平安初期からみられ、おそらくは中国語「風」の移入か、

とみている(仝上)。「風」には、「風疾」とか「風者百病之長邪」という言い方をする(漢字源)。

(風邪が)風の影響をうけるとすることは、「風を引く」の例でわかるが、その症状は必ずしも感冒には限らず、腹の病気や慢性の神経性疾患なども表していた。又、身体以外に、茶や薬などが空気にふれて損じ、効き目を失うことを「カゼヒク」といったことが、日葡辞書から知られる。「風邪」は、漢籍では病気名とはいえず、日葡辞書でも、「Fûja」は、「ヨコシマノカゼ」で、体に影響する「悪い風」とされている。近世では「風邪」は一般に、「ふうじゃ」と読まれ、感冒をさすようになった。病気の「かぜ」に「風邪」を当てることが一般的になったのは明治以降のことである、

とある(仝上)。因みに、「風邪(フウジャ)」は漢語、

かぜひき、

をさす(字源)。

大難之将生也、猶風邪之中人(道徳指帰論)、

とある(仝上)。

「風」(漢音ホウ、呉音フウ・フ)は、

会意兼形声。風の字は大鳥の姿、鳳の字は大鳥が羽搏いて揺れ動くさまを示す。鳳(おおとり)と風の原字は全く同じ。中国では、おおとりを風の遣い(風師)と考えた。風はのち「虫(動物の代表)+音符凡(ハン・ボン)」。凡は広く張った帆の象形。はためきゆれる帆のように揺れ動いて、動物に刺激を与える「かぜ」をあらわす、

とある(漢字源)。同趣旨の解釈は、

もと、鳳(ホウ、フウ)(おおとり)に同じ。古代には、鳳がかぜの神と信じられていたことから、「かぜ」の意を表す。のち、鳳の鳥の部分が虫に変わって、風の字形となった、

がある(角川新字源)。

「風」 甲骨文字・殷.png

(「風」 甲骨文字・殷 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E9%A2%A8より)


「風」 金文・西周.png

(「風」 甲骨文字・殷 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E9%A2%A8より)


「風」 簡牘文字.png

(「風」 簡牘文字・戦国時代 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E9%A2%A8より)

ただ、これと真逆なのが、

形声。「虫」(蛇、竜)+音符「凡」を合わせた字で、「かぜ」を起こすと見なされた蛇が原義(「虹」も同様で意符が「虫」)。「凡」は「盤」の原字で、盥盤の側面の象形。「虫」に代えて「鳥」を用いた文字が「鳳」であり、両方とも「かぜ」の使いとされた、

という解釈https://ja.wiktionary.org/wiki/%E9%A2%A8。別に、

会意兼形声文字です(虫+凡)。甲骨文では「風をはらむ(受ける)帆」の象形(「かぜ」の意味)でしたが、後に、「風に乗る、たつ(辰)」の象形が追加され、「かぜ」を意味する「風」という漢字が成り立ちました、

と「帆」を始原とする説もあるhttps://okjiten.jp/kanji100.html。しかし、「風」の字の変遷を見ると、原字は、「鳳」に見える。

「風」 成り立ち.gif

(「風」 成り立ち https://okjiten.jp/kanji100.htmlより)

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

ラベル: 風邪
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2021年07月17日

神楽


「神楽」は、文字通り、

神前に奏される歌舞、

つまり、

手に榊などの採物(とりもの)を持ち、そこへ神を招き、歌舞を捧げて、神を楽しませて、天に送る舞楽、

で(岩波古語辞典)、

神座(かむくら・かみくら)の転、

とされる(広辞苑・大言海・岩波古語辞典)。

カミ(ム)クラ→カングラ→カグラと転じたる語、

とある(大言海)。「座(くら)」は、

神おろしをするところ。この舞楽に使う榊や篠などに神が降下するので、その榊・篠・杖・弓などをカミクラと称したのが、後にこの舞楽全体の名となった、

とある(岩波古語辞典)。「採物」とは、

神楽の時、舞人が手に持って舞うもの。本来、神の降臨する場所、すなわち神座(かぐら)としての意味を持ち、森の代用としての木から、木製品その他の清浄なものにも広がった。榊葉(さかきば)・幣(みてぐら)・笹・弓・剣・ひさごなどが使われる、

とある(仝上)。かつては、

神が降臨した際に身を宿す「依り代」としての巨石や樹木、高い峰を祭祀の対象物、

とし、やがて、人の手が加えられた、

神座、

が設けられhttp://www.tohoku21.net/kagura/history/kigen.html、神座に、神を迎え、祈祷の祭祀を行うことになる。さらにそれが「採物」に代用されるようになる、ということになる。で、「神楽」は、

神座遊(かみくらあそび)の略にて、神座の音楽、

意となる(岩波古語辞典)。

神座を設けて神々を勧請(かんじょう)して招魂・鎮魂の神事を行ったのが神楽の古い形で、古くは、

神遊(かみあそび)、

とも称した、とある(日本大百科全書)。「遊ぶ」は、

楽しきわざをして、神の御心を和み奉ること、

とあり、「あそび」に、

神楽、

を当て(大言海)、

瑞垣の神の御代よりささの葉を手(た)ぶさに取り手遊びけらしも(神楽歌)、

とあるように、

神楽を演ずる、

意でもある(岩波古語辞典)。本来神楽は、

招魂・鎮魂・魂振に伴う神遊びだった、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E6%A5%BDのはその意味である。この起源は、

天照大御神の、天岩屋戸に隠(こも)りたまひし時、神々集まりて、岩屋の前に、榊・幣など種種の設けをして、天鈿女(うずめの)命、桙(ほこ)と篠とを採り、わざをぎの態をしなどして、慰め奉り、遂に、大神を出し奉りし事、

に始まる、とされる(大言海)。「わざをぎ」は、

伎楽(大言海)、
俳優(岩波古語辞典・広辞苑)、

と当てるが、古くは、

ワザヲキ、

と清音(広辞苑)、

ワザヲキ(業招)が原義(岩波古語辞典)、
神為痴態(ワザヲコ)の転と云ふ、ワザは神わざ(為)、わざ歌(童謡)のワザなり。ヲコは可笑(おか)しと通ず(大言海)、

とその由来の解釈は少し異なる(大言海は「俳優」と当てるのは、「俳優侏儒、戯於前」(孔子家語)、神代紀に、ワザヲキに俳優の字を充てたるに因りて誤用せる語、としている)が、

天鈿女命、則ち手に茅纏(ちまき)の矟(ほこ)を持ち、天の石窟戸(いわやど)の前に立たして、巧みに俳優(わざをき)す(日本書紀)、

とあるような、岩戸隠れで天鈿女命が神懸りして舞った舞い、

に淵源する、

手振り、足踏みなどの面白くおかしい技をして歌い舞い、神人をやわらげ楽しませること、またその人、

とあり(広辞苑)、

役者、

の意味にもなる(嬉遊笑覧)ので、

俳優、

と当てる方が妥当に思える。ほぼ、

神遊び、

と意味は重なる。考えれば、「あそぶ」http://ppnetwork.seesaa.net/article/464241062.htmlで触れたように、「あそぶ」自体が、

神楽(かみあそび)→神楽(あそび)→奏楽(あそび)→遊び、

と転じてきたものなのであり、

足+ぶ(動詞化)(日本語源広辞典)
アシ(足)の轉呼アソをバ行に活用したもの(日本古語大辞典=松岡静雄)、

語源としているのである。

岩戸神楽乃起顕.jpg

(「岩戸神楽乃起顕」(歌川豊国) http://www.natsume-books.com/list_photo.php?id=150860

神楽は、

宮中の御神楽(みかぐら)すなわち内侍所御神楽(ないしどころのみかぐら)

と、

民間に行われる里神楽、

に大別されるようである。民間の神楽は、今日、

巫女が祈祷の舞を舞う巫女神楽、
神座となるべき採物をとって舞う採物神楽(出雲流神楽)、
清めの湯立てを主とする湯立神楽(伊勢流神楽)、
獅子を権現と崇め獅子を舞わすことによって祈祷する獅子神楽(山伏神楽・太神楽(だいかぐら))、

の四系統とされる(日本伝奇伝説大辞典)。

「豪農のくらし」http://ppnetwork.seesaa.net/article/482424187.html?1626028105で触れた、旧上総國滂沱郡大谷村(現千葉県君津市)の小さな村にも神楽はあり、

村の祈祷において重要な役割を果たしていたのが神楽であった。大谷村の神楽は伊勢系のようであるが、ほとんどの神事・祈祷に関わっていたといってよい。神楽は若者中によって演じられる、

とある(山本光正『幕末農民生活誌』)。

神楽の様子.jpg

(神楽(『伊勢参宮名所図会』) https://www.bunka.pref.mie.lg.jp/MieMu/82944046631.htmより)

因みに、「神楽」は、万葉集の諸歌では、

神楽波(ささなみ)の滋賀、

等々と、

「ささ」とよみ、鎮魂の呪具たる採物(とりもの)の笹の葉ずれの音(本居宣長)、

とか、

鈴の音(本田安次)、

等々とされ(世界大百科事典)、まだ神楽は形が整ってはいなかったhttp://www.tohoku21.net/kagura/history/kigen.html、とみられている。

神事芸能を内容とする初見は大同二年(807)撰の『古語拾遺』の、

猨女(さるめの)君氏、供神楽之事、

である。猨女君は天鈿女命の子孫であり、鎮魂を司っていたので、ここに出てくる神楽も、鎮魂祭を指しているものとされている(仝上)。

神楽の文字が使われ出すのは、

石清水(いわしみず)八幡宮の初卯の神楽や、賀茂神社臨時祭の還立(かえりだち)の神楽のように9世紀末から10世紀初頭にかけてである、

とある(世界大百科事典)。

宮中では先行神事芸能としての琴歌神宴が行われており、10世紀に入って御遊(ぎよゆう)ないし御神楽(みかぐら)が清暑堂において行われ、1002年(長保4)に内侍所(ないしどころ)御神楽が成立した、

とされている(仝上)。

参考文献;
旅の文化研究所編『絵図に見る伊勢参り』(河出書房新社)
山本光正『幕末農民生活誌』(同成社)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
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ラベル:神楽
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2021年07月18日

下剋上


黒田基樹『下剋上』読む。

下剋上.jpg


本書は、著者によると、

「戦国大名家でみられた、家臣が主君に取って代わるという典型的な下剋上を中心に、主要な下剋上の事例について取り上げたものである。そしてそのことを通じて、戦国時代に広範に見られた、下克上の性格と特徴を明らかにするとともに、それが生み出されていき、さらにはそれが封じ込められていく、いわば戦国時代を生み出し、終焉へと向かわせた社会状況の変化とその要因を見いだそうとしたもの」

とある。取り上げているのは、

主家山内上杉家の上杉顕定に反旗を翻した、上杉家家宰である長尾景春、
伊豆国主の堀越公方足利家を滅亡させて伊豆国主となった伊勢宗瑞(北条早雲)、
斯波家の重臣でありながら越前で主家から自立し、越前国主になった朝確孝景、
京極家の出雲守護代から、実質出雲支配を果たした尼子経久、
父子二代で、美濃を土岐家から簒奪した斎藤利政(道三)、
大内義隆の家宰から反乱を起こし、義隆・義尊節を殺害した陶晴賢、
細川家家臣から自立し、足利将軍をも追放して天下(京畿)を支配した三好長慶、
足利義昭を追放し天下を統治しようとした織田信長、
主家織田家を凌駕し、屈服させ天下人になった羽柴秀吉、
主家豊臣秀頼を滅ぼし、天下人となった徳川家康、

である。

今日当たり前に使っている、

下剋上、

という言葉は、「中世から当時の史料や軍記物語で使用されているが」、

実際の使用例は少ない、

という。

「主に公家の日記や寺社の文書にわずかにみえるにすぎず、そこでは百姓が領主の支配内容に異論を示したり、身分の下位の者が上位の者を紛争の際に殺害した行為などについて表現している」

のであり、それは、

「身分が下位にあったにもかかわらず、実力によって身分上昇を果たす」、

成り出者、

を指し、それを、

身上がり(身分上昇)、

と、批判している文脈で表現されている。それは、

身分秩序の再編、

の中で、

「家臣が主君を排除する行為だけではなく、百姓が領主支配に抵抗したり、下位の者が上位の者を殺害したり、あるいは分家が本家に取って代わったり、身分の下位の者が上位者を追い越して出世していく」

等々、意味する範囲は広い。共通しているのは、

「下位の者が、主体性を以て、実力を発揮して、上位の者の権力を制限したり、それを排除したりすること」

である。

しかし意外なことに、明智光秀のような、

主殺し、

の例は少なく、陶晴賢でも、主家一族の晴秀を立てているし、多くは、尼子経久、斎藤利政、織田信長等々のように、追放するにとどめている。それは、

「主君の一族を擁した主家家臣によって反撃され、滅亡」

させられるからである。

「主殺しの場合、それだけでは主家家中の同意を獲得することは難しく、反対勢力の反撃を受けるリスクが高かった」

のである。

しかし、信長が「天下人」の地位を確立したころには、戦国大名が淘汰され、

「奥羽では伊達・最上・南部、関東では北条・佐竹・里美、中部では武田・徳川、北陸では上杉、中国では毛利、四国では長宗我部、九州では大友・島津・竜造寺」

等々となり、

「もはや家臣がとって代わる下剋上はみられなくなっている。」

それは、

「個々の戦国大名家の領国の広範化、その継続性により、戦国大名家としての枠組みが確固たるものなっていた」

ため、

「戦国大名家を主宰する当主家とその分身である一門衆の地位が確立したため、まずは一門衆による当主交替、一門衆による当主への対抗という方法がとられ、もはや家臣による下克上の余地はなくなっていた」

からである。つまり、それは、新たな身分秩序が確立した、という意味になる。そして、次は、全国の秩序確立としての、

天下人による戦国大名家の従属化や討滅、

による新たな全国秩序となり、

「服属した戦国大名は、もはやそれ以前のような完全な自立的国家ではなくなり、統一政権の『惣無事』論理によって戦争権を制御された存在に変化」

していく。

豊臣政権→徳川政権、

の政治秩序形成は、官位を手段として、

「大名家の政治的地位は、政権からあたえられた官位によって表現される」

ことになっていく。そして、

「大名家の家政をめぐる内部紛争が生じたとしても、それはあくまでも内紛として処理され、自力による解決で終わらせることはできず、最終的に政権の処理によって決着」

されることになる。

このことは逆にいうと、いわゆる「下剋上」というものが、戦国時代特有の、

自力救済、

の手段の一環として遂行された、ということを意味しているように思える。しかし、秩序が確立してしまうと、その余地はなくなってしまった、ということに他ならない。

戦国の終りとは、土豪だけでなく、百姓・町人の、

自力救済、

の剥奪でもある。

村や町の「自力救済」については、
「小さな共和国」http://ppnetwork.seesaa.net/article/468838227.html
「自力救済」http://ppnetwork.seesaa.net/article/467902604.html
で触れた。

参考文献;
黒田基樹『下剋上』(講談社現代新書)
仁木宏『戦国時代、村と町のかたち』(山川出版社)

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ラベル:下剋上 黒田基樹
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2021年07月19日

わざ


「わざ」は、

技、
業、

と当てる。大言海は、

所為、
態、
事、

を当てているが、意味によっては、

藝、
術、

を当てる(日本類語大辞典)ことがあるのは、推測できる。ただ、

こめられている神意をいうのが原義、

とあり(岩波古語辞典)、

もと、神のふりごと(所作)の意。それが精霊にあたる側の身ぶりに転用されたもの(国文学の発生=折口信夫)、

とあるのも同趣旨になる(日本語源大辞典)。「ワザ」は、

ワザハヒ(災)・わざをき(俳優)のワザ、

とある(岩波古語辞典)のは、

ワザワヒ(禍)の転用、曲之靈が禍を為すむというところからか(国語の語根とその分類=大島正健)、

と同趣旨で、「災害」「災い」を神の「しわざ」と考え、そこに神意を読み取る側の受け止め方ということになる。だから、単なる、

行為、

行事、

ではなく(大言海)、

人妻に吾(あ)も交はらむ、吾妻に人も言問へ、此の山を領(うしは)く神の昔より禁(いさめ)ぬわざそ(万葉集)、



神意の込められた行事・行為、
とか、
深い意味のある行為・行事、

というのがもとの用例に近い(広辞苑・岩波古語辞典)。

事柄に込められている神意(日本語源広辞典)、

つまり、

神わざ、

と受け止めた、という意味である。「かみわざ」は、

神業、
神事、

と当てる。古くは、

カムワザ、

と訓み、

神のしわざ、

の意だが、180度ひっくり返って、

神に関する公事、神事、

の意になる(広辞苑)。

だから、「わざ」は、

あしひきの山にしをれば風流(みやび)なみわがするわざをとがめたまふな(万葉集)、

と、単なる、

しわざ、
行い、

の意味にも使う(広辞苑)が、

意識的に何事かすること、

ならひ学びてなしうるわざ、

というような含意から、

それ失せたまひて、安祥寺にて御わざをしけり(伊勢物語)、

と、

仏事・法要、

の意味だったり、

釣魚(つり)するを以て楽(わざ)とす。……遊鳥(とりのあそび)するを樂(わざ)とす(書紀)、

と、

仕事、
職とすること、

の意となり(岩波古語辞典・広辞苑)、それがさらに極まれば、

闌(た)くるといふ事をわざよと心得て上手の心位とは知らざるか(至花道)、

と、

方法、
技術、

となり、

藝、
腕前、

の意となっていく(広辞苑)。このときは、

技、

を当て、それ以外は、

業、

を使うのが普通(広辞苑)、とある。天治字鏡(平安時代)には、

伎、和佐、

とある(大言海)。

ただ、「わざ」を神意とつなげず、

為す、

という意味から、

「態」の転用でシワザ(為態)の意から(日本古語大辞典=松岡静雄・日本語源=賀茂百樹)、
ワ(腕)サマ(様)からの転(語源辞典・形容詞篇=吉田金彦)、

とする説がある。しかし、当てる漢字はともかく、

ワザヲキ

の「ワザ」であることを考えると、「神」との関り抜きの説は、採りがたい気がする。

「伎」 漢字.gif

(「伎」 https://kakijun.jp/page/0611200.htmlより)

「伎」(漢音キ、呉音ギ)は、

会意兼形声。支は、細かく分かれた枝を手(叉)に持つ姿。古くはキと発音した。伎は「人+音符支(キ・シ)」で、人間の細かいわざ、技をあやつる人の意を表す、

とある(漢字源)。「技」(細かいわざ)、「岐(細かい分かれ道)」と同系。「わざ」の意では、「技」と同義である(仝上)。

「伎」 小篆  漢.png

(「伎」 小篆・漢 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E4%BC%8Eより)

別に、

会意兼形声文字です(人+支)。「横から見た人」の象形と「竹や木の枝を手にする」象形(「枝を支え持つ」の意味)から、枝を持って演ずる事を意味し、そこから、「わざおぎ(映画・演劇などで、劇中の人物を演ずる人)」を意味する「伎」という漢字が成り立ちました、

とあるのが、具体的であるhttps://okjiten.jp/kanji2093.html

「技」 漢字.gif


「技」(漢音キ、呉音ギ)は、

会意兼形声。支(シ)は、細い枝を手にもつさま。技は「手+音符支」で、細い枝のような細かい手細工のこと、

とある(漢字源)。

「技」 小篆 漢.png

(「技」 小篆・説文(漢) https://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%8A%80より)

別に、

会意兼形声文字です(扌(手)+支)。「5本指のある手」の象形と「竹や木の枝を手にする」象形(「木の枝をささえ持つ」の意味)から、枝を持ちたくみにふるまう事を意味し、そこから、「わざ」を意味する「技」という漢字が成り立ちました、

とあるhttps://okjiten.jp/kanji775.html

「業」 漢字.gif

(「業」 https://kakijun.jp/page/1366200.htmlより)

「業」(漢音ギョウ、呉音ゴウ)は、

象形。ぎざぎざのとめ木のついた台を描いたもの。でこぼこがあってつかえる意を含み、すらりとはいかない仕事の意となる、

とある(漢字源)。

象形。かざりを付けた、楽器を掛けるための大きな台の形にかたどる。ひいて、文字を書く板、転じて、学びのわざ、仕事の意に用いる(角川新字源)、

象形。「のこぎり状のぎざぎざの装飾を施した楽器を掛ける為の飾り板」の象形から「わざ・しごと・いた」を意味する「業」という漢字が成り立ちましたhttps://okjiten.jp/kanji474.html

とある説明がわかりやすい。

「業」成り立ち.gif

(「業」成り立ち https://okjiten.jp/kanji474.htmlより)

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

ラベル:わざ
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2021年07月20日

わざをぎ


「わざを(お)ぎ」は、「神楽」http://ppnetwork.seesaa.net/article/482498778.html?1626461046で触れたように、

伎楽、
俳優、
伶、

等々と当てる(大言海・岩波古語辞典・広辞苑)が、古くは、

ワザヲキ、

と清音(広辞苑)、

ワザ(業)ヲキ(招)が原義(岩波古語辞典)、

とある。「をぐ」は、

招く、

と当て、

神や尊重するものなどを招き寄せる、

意とある(仝上)。

正月(むつき)立ち春の来たらばかくしこそ梅ををきつつ楽しき終へめ(万葉集)、

とあるように、神に限った使い方をするわけではない。

「わざ」http://ppnetwork.seesaa.net/article/482526535.html?1626633416は、

こめられている神意をいうのが原義、

であり(岩波古語辞典)、

もと、神のふりごと(所作)の意。それが精霊にあたる側の身ぶりに転用されたもの(国文学の発生=折口信夫)、

とあるのも同趣旨になる(日本語源大辞典)。「ワザ」は、

ワザハヒ(災)・わざをき(俳優)のワザ、

とある(岩波古語辞典)のは、

ワザワヒ(禍)の転用、曲之靈が禍を為すむというところからか(国語の語根とその分類=大島正健)、

と同趣旨で、「災害」「災い」を神の「しわざ」と考え、そこに神意を読み取る側の受け止め方ということになる。だから、単なる、

行為、

行事、

ではなく(大言海)、

人妻に吾(あ)も交はらむ、吾妻に人も言問へ、此の山を領(うしは)く神の昔より禁(いさめ)ぬわざそ(万葉集)、


神意の込められた行事・行為、
とか、
深い意味のある行為・行事、

というのがもとの用例に近い(広辞苑・岩波古語辞典)。

事柄に込められている神意(日本語源広辞典)、

つまり、

神わざ、

と受け止めた、という意味である。

天岩戸神話の天照大御神(春斎年昌画).jpg

(天岩戸神話の天照大御神(春斎年昌画) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E5%B2%A9%E6%88%B8より)

ワザは神意。神の為すこと。オギは招ぎで、神意を招くのが原義(古事記伝・嬉遊笑覧・日本芸能史ノート=折口信夫)、

とするのはその意味である。

ワザヲキ(態招・伎招)の義。身振りなどで神を招くところから(筆の御霊・言元梯・名言通・和訓栞・国語の語根とその分類=大島正健・日本の祭り=柳田国男・芸能辞典)、
ワザの原義は神意、威力ある神霊、また、それを発現させる呪術のことで、オギはヲグ(招く)の名詞形(世界大百科事典)、
ワザ(事柄の中の人力の及ばない神意)+オキ(招く)、神を招く人。神意を招き寄せるため、神前で滑稽な芸をすること(日本語源広辞典)、

とするのも同趣である。しかし、大言海は、

神為痴態(ワザヲコ)の転と云ふ、ワザは神わざ(為)、わざ歌(童謡)のワザなり。ヲコは可笑(おか)しと通ず、

とし、

神憑(かんがかり)の可笑しき態(わざ)、

とする。そして、「わざをぎ」に、

俳優

と当てるのは、

孔子家語(こうしけご)・相魯篇「俳優侏儒、戯於前」。神代紀に、ワザヲキに俳優の字を充てたるに因りて誤用せる語、

とする。その是非はともかく、「わざをぎ」が、

天鈿女命、則ち手に茅纏(ちまき)の矟(ほこ)を持ち、天の石窟戸(いわやど)の前に立たして、巧みに俳優(わざをき)す(日本書紀)、

とある、

天照大神の天岩屋戸に隠(こも)りたまひし時、其前にて天鈿女命の為したる態を云ふ、

に淵源する、

手振り、足踏みなどの面白くおかしい技をして歌い舞い、神人をやわらげ楽しませること、

であるとするなら、「語義」は別として、大言海説もまんざら悪くはない気がする。

ただ、そうした、

神懸りして舞った舞い、

自体から、

それをする人、

の意になったとするなら、

俳優、

と当てるのは、かなり後世のことではないかという気はする。その意味で、「俳優」の意味に、

滑稽なしぐさで歌舞などを演じる芸人、

が最初に来るのは、その由来に因っている(広辞苑)。

「俳」 漢字.gif

(「俳」 https://kakijun.jp/page/1010200.htmlより)

「俳」(漢音ハイ、呉音ベ)自体、

会意兼形声。非は、羽が右と左に逆に開いたさま。扉(ヒ 左右に開くとびら)と同系のことば。俳は「人+音符非」で、右と左に分かれて掛け合いの芸を演じる人、のち役者をいう、

とあり(漢字源)、

右と左とで並んで掛け合いの芸をしてみせる人、道化役、

の意味がある。「優」(漢音ユウ、呉音ユ)は、

会意兼形声。憂の原字は、人が静々としなやかなしぐさをするさまを描いた象形文字。憂は、それに心を添えた会意文字で、心が沈んだしなやかな姿を示す。優は「人+音符憂」で、しなやかにゆるゆるとふるまう俳優の姿、

とあり(漢字源)、やはり役者の意である。「俳優」は、

倡優(しょうゆう)、

とも当て、

滑稽な動作をして歌い舞い、神や人を慰め楽しませること。また、それをする人。道化師・芸人・役者・俳優などといった職業人の古称、

とありhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E4%BF%B3%E5%84%AA、古く中国では、

君主の側にはべって主人を楽しませることを職掌とする者、

を指し、

優、
優人、
倡優、
優倡、
俳倡、

ともいい(字源・仝上)

小人・巨人等、何らかの身体的特徴を持ち、歌・音楽・雑伎などを身に付けていた、

ともある(仝上)。

朔好詼諧、武帝以俳優蓄之(漢書)、

とあるのもそれであるが、起源は、天鈿女命の所作である、

神を招(お)ぐわざ、

と同様と考えていいのだろう。

「伶」 漢字.gif

(「伶」 https://kakijun.jp/page/0721200.htmlより)

「わざをぎ」と訓ませる「伶」(漢音レイ、呉音リョウ)は、

会意兼形声。令は、清らかなお告げ、伶は「人+音符令(レイ)」で、澄んだ音の音楽を奏する人、清らかな姿をした俳優などのこと。清澄の意を含む、

とある(漢字源)。「伶優」とすると、役者の意になる。蘓武の詩に、

力盡病騏驥、伎窮老伶優、

とある(字源)。

「伶」 説文・漢.png

(「伶」 小篆 説文・漢 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E4%BC%B6より)

別に、

会意兼形声文字です(人+令)。「横から見た人」の象形(「人」の意味)と「頭上に頂く冠の象形とひざまずく人の象形」(「ひざまずき神意に耳を傾ける」の意味)から、「わざおぎ」を意味する「伶」という漢字が成り立ちました、

とあるhttps://okjiten.jp/kanji2321.htmlが、このほうが「わざをぎ」の原義に近い気がする。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

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