2021年07月21日

わざわひ


「わざわひ(い)」は、

災い、
禍、
殃、

等々と当てる(広辞苑)。

ワザは鬼神のなす業(わざ)、ハヒはその状(さま)をらわす、

とあり、

其の殃(わざはひ)に罹らむ(法華経)、

というように、

傷害・疾病・天変地異・難儀などをこうむること、
悪い出来事、
不幸な出来事、

の意である(仝上)。「わざ」http://ppnetwork.seesaa.net/article/482526535.html?1626633416は、

こめられている神意をいうのが原義、

であり(岩波古語辞典)、

もと、神のふりごと(所作)の意。それが精霊にあたる側の身ぶりに転用されたもの(国文学の発生=折口信夫)、

とあるのも同趣旨になる(日本語源大辞典)。「ワザ」は、

ワザハヒ(災)・わざをき(俳優)のワザ、

とある(岩波古語辞典)のは、

ワザワヒ(禍)の転用、曲之靈が禍を為すむというところからか(国語の語根とその分類=大島正健)、

と同趣旨で、「災害」「災い」を神の「しわざ」と考え、そこに神意を読み取る側の受け止め方ということになる。だから、単なる、

行為、

行事、

ではなく(大言海)、

人妻に吾(あ)も交はらむ、吾妻に人も言問へ、此の山を領(うしは)く神の昔より禁(いさめ)ぬわざそ(万葉集)、



神意の込められた行事・行為、
とか、
深い意味のある行為・行事、

というのがもとの用例に近い(広辞苑・岩波古語辞典)。

事柄に込められている神意(日本語源広辞典)、

つまり、

神わざ、

と受け止めた、という意味である。だから、「わざ」は、

人力の及ばない不気味な神意(日本語源広辞典)、
隠された神意(岩波古語辞典)、
神為(わざ)を活用す(大言海)、
神のしわざ(名言通)、
鬼神の行為(江戸語大辞典)、

ということになる。

問題なのは、「わざわひ」の「はひ」である。多く、

サキハヒ(幸)・ニギワヒ(賑)・ケハヒ(気配)のハヒに同じ、

とされる(大言海・岩波古語辞典)。その「ハヒ」は、

言霊のさきはふ国と語りつぎ言ひ継がひけり(山上憶良)、

と、接尾語として、

辺りに這うように広がる意を添えて動詞をつくる(岩波古語辞典)、

とある。だから、

そのさまをいう語(江戸語大辞典)となる。この「はふ」は、

這ふ、
延ふ、

と当て、

這い経るの意、

とある(大言海)。

這ふ⇔延ぶ、

と、

這ふは、延ふに通じ、延ふは這ふに通ず、

とあり(仝上)

蔓草や綱などが物に絡みついて伝わっていく、

意で(岩波古語辞典)、「ハヒ」は、この、

「はふ」の連用形です。 「はふ」 は 「延ふ」 で 〈蔓が延びていくように、物事が進む、広まる、行きわたる〉 というような意味、

とするのが大勢の解釈となるhttps://mobility-8074.at.webry.info/201508/article_18.html

だから、

「にぎはひ」の「ハヒ」、

も、

「さきはひ」の「ハヒ」、

も、

「けはひ」の「ハヒ」、

も、

這ふ、
延ふ、

の「ハヒ」で、「にぎはひ」は、

和やかな状態が打ち続き盛んになる意、人々が寄り集まり、和やかに繫盛する意(日本語源広辞典)、

となり、「さきはひ」は、

サク(咲)・サカユ(栄)・サカル(盛)と同根、生長の働きが頂点に達して、外に形を開く意(岩波古語辞典)、
サキ(幸、霊力)+ハフ(這)。よい獲物が続けてとれる、栄え続ける(日本語源広辞典)、
「幸、又福を訓むも、先の字に通えり」(和訓栞)、万葉集に見える幸延國の義なるべし、幸(サキ)の動く意なり(大言海)、

となり、「けはひ」(「気配」は後世の当て字)は、

ケ(気)+ハヒ(事のひろがり)。何となく感じられるさま(日本語源広辞典)、
ケは気、ハヒは延の義(和訓栞・国語の語根とその分類=大島正健)、
ケ(気)ハヒ(延)の義。ハヒは、辺り一面に広がること、何となく、辺りにスー感じられる空気(岩波古語辞典)、

となり、「ハヒ」を、

延ふ、
這ふ、

から来た、

広がる、
延びる、

という状態表現の言葉と見る。しかし、「ハヒ」を「ハフ」とつなげるのは音韻の類似性から来た付会なのではないか、という気がする。

だから、異説がある。

サチイハフ(幸祝ふ)は「イ」を脱落してサチハフ(幸ふ)になった。〈サチハヘ給はば〉(祝詞)。サチハフ(幸ふ)も子交(子音交替)[tk]をとげてサキハフ(幸ふ)になった。「栄える。幸運にあう」という意である。〈しきしまのやまとの国は言霊のサキハフ国ぞ〉(万葉集)。(中略)サキハフ(幸ふ)は、キハ[k(ih)a]の縮約でサカフ[fu](栄ふ)になり、さらにサカウ(kawu)を経てサカユ[ju](栄ゆ)に転音した。……サキハフ(幸ふ)の連用形サキハヒ(幸ひ)は子音[k]を脱落してサイハヒ(幸)になった、

とある(日本語の語源)。

この説に従うなら、「ハヒ」=「ハフ(這・延)は成立しない。

「サキハヒ」が、

サチイハヒ(幸祝ひ)、

なら、「ワザハヒ」は、

ワザイハイ(業祝ひ)、

と、神意を承けて祝う意となり、「ニギハヒ」は、

ニギイハイ(和祝ひ)、

とになるが、そもそも、

和(にぎ)を活用す、和(なぎ)に通ず、荒るるに対す(大言海)、

とするなら、

にぎはふ、

は一語であり、「にきはふ」は、「荒(あら)」の対である、

やわらぐ、

意の、

にぎ(和)、

を活用したものなのだとすると、「ハヒ」説は適用できない。「ニギ」を活用した動詞には、四段活用の、

にぎはふ(賑)、

の他に、

にぎぶ(賑 上二段活用)、
にぎははす(賑 他動詞)
にぎほほす(賑 形容詞)、

等々があり(大言海)、「ニギ」と「ハヒ」を分ける説自体が成り立たないかもしれない。

「ケハひ」も、また、

キイハヒ(気祝ひ)、

といえなくもない。「け(気)」は、

霧・煙・香・炎・かげろうなど、手には取れないが、たちのぼり、ゆらぎのでその存在が見え、また感じ取れるもの、

である(岩波古語辞典)。

「いはふ」は、

祝ふ、
斎ふ、

と当て、原義は、

吉事・安全・幸福を求めて、吉言を述べ、吉(よ)い行いや呪(まじない)をする、

意である。「わざわひ」の場合、ことに、

隠された神意に呪(まじない)する、

意の、

わざ+いはい、

はあり得る気がする。そして、憶説ながら、

サチイハフ→サチハフ(幸ふ)→サキハフ(幸ふ)、

とした転訛に倣うなら、

ワザイハフ(業祝ふ)→ワザハフ→ワザハヒ→ワザワイ、

という転訛もあり得るのかもしれない。もちろん、憶説に過ぎないが。

「わざはひ」に当てた漢字を見ておくと、

「災」 漢字.gif


「災」(サイ)は、

会意兼形声。巛(サイ)の原字は、川をせき止める堰を描いた象形文字。災は「火+音符巛」で、順調な生活を阻んで留める大火のこと。転じて、生活の進行をせき止めて邪魔をする物事、

とある(漢字源)。

「災」 漢字 成り立ち.gif

(「災」 漢字・成り立ち https://okjiten.jp/kanji95.htmlより)

別に、

会意兼形声文字です。「燃え立つ炎」の象形(「火」の意味)と「川のはんらんをせきとめる為に建てられた良質の木」の象形(「わざわい」の意味)から、火事のような「わざわい」を意味する「災」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji95.html

「禍」 漢字.gif


「禍(禍)」(漢音カ、呉音ガ・ワ)は、

会意兼形声。骨の字の上部は、関節骨がはまりこむまるい穴のこと。咼(カ 丸い穴)はそれと口印(穴)を合わせた字で、まるくくぼんだ穴のこと。禍は「示(祭壇)+音符咼」で、神の祟りをうけて思いがけない穴(落とし穴)にはまること、

とある(漢字源)。

「禍」 金文 戦国時代①.png

(「禍」 金文・戦国時代 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%A6%8Dより)

別に、

会意兼形声文字です(ネ(示)+咼)。「神にいけにえを捧げる台」の象形と「肉を削り取り頭部を備えた人の骨の象形と口の象形」(「削られ、ゆがむ」の意味)から、神のくだす「わざわい」を意味する「禍」という漢字が成り立ちました、

とあるhttps://okjiten.jp/kanji1667.htmlほうが、「禍」の字の背景がよくわかる。

「殃」 漢字.gif


「殃」(漢音ヨウ、呉音オウ)は、

会意兼形声。央(オウ)は、大の字に立った人の首の部分を枷でおさえつけたさま。真ん中を押さえて、くぼめる意を含む。殃は「歹(死ぬ)+音符央」で、人をおさえつけてじゃまをし、死なせることを示す、

とある(漢字源)。

「災」「禍」「殃」の違いは、

「禍」は、福の反なり、不仕合せにあふなり。淮南子「禍者福之所倚、福者禍之所伏」、
「災」は、時のまわりあわせなり、天地よりなすわざわひなり。左傳「天災流行」、また人火曰火、天火曰災と註す、
「殃」は、神の咎をうける義。易経「積不善之家、必有餘殃」、

とある(字源)。その意味で、「わざわひ」の「わざ」を神意とするなら、「禍」「災」よりは、「殃」を当てる方が正確なのかもしれない。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
田井信之『日本語の語源』(角川書店)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

ラベル:わざわひ 災い
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2021年07月22日

いはふ


「いはふ(いわう)」は、

祝う、
齋(斎)う、

と当て(広辞苑・岩波古語辞典)、

吉事・安全・幸福を求めて、吉言(よごと)をのべ、吉(よ)い行いや呪(まじな)いをする意が原義、

とあり(岩波古語辞典)、

類義語イツクは、神聖なものを大切に護り、それに仕える義、

とある(仝上)。しかし、「祝ふ」は、

吉事を祈り喜ぶ、

意だが(日本語源大辞典)、「齋ふ」は、

穢れを浄め、忌みつつしんで、よいことを求める、また、吉事を求めて神事を行う、

と区別する(仝上)。で、大言海は、「齋ふ」と「祝ふ」を別項立て、「斎ふ」は、

いまふ(齋)と通ず(齋(サイ)は、齋戒(ものいみ)なり)、かはち、かまち。しまし、しばし、

とし、

いつく(齋)、
いまふ(忌)、
斎祀、

と同義とし、

祝部(はふり)等が齋経(イハフ)社の黄葉(もみぢば)も標縄(しめなは)越えて散るといふものを(万葉集)、

と、

齋(い)み清まはり、謹みて祀る、

意とする。それが、広がり、

大船(おほぶね)に真梶(まかぢ)しじ貫きこの吾子を唐国(からくに)へ遣る伊波敝(いは)へ神たち(万葉集)、

と、

齋(いは)ひて守りまさむ、

意となり、さらに、

ちはやぶる神の御坂に幣(ぬさ)まつり伊波負(いはふ)命は母(オモ)父(チチ)がため(万葉集)、

と、

齋き守る、

意が、

祈願する、

という含意にシフトしている。だから、「祝ふ」は、この、

(「齋ふ」)の転、凶を齋(いは)ひ清めて、吉ならしる、

意となり、

ことほぐ、

意の、

真幸(まさき)くて妹が斎(いは)はば沖つ波千重(ちえ)に立つとも障りあらめやも(万葉集)、

と、

吉あらしめんとす、

という意になり、さらに、

鶴亀につけて、君を思ひ人をもいはひ(古今集・序)、
君がためいはふ心の深ければ聖(ひじり)の御代にあとならへとぞ(後撰集)、

と、

祝す、
賀す、

意となっていく。

「いつく(齋)」は、

イツ(稜威)の派生語。神や天皇などの威勢・威光を畏敬して、汚さぬように潔斎して、これを護り奉仕する意、後に転じて主人の子をを大切にして仕え育てる意、

とある(岩波古語辞典)。「いつ」は、

稜威、
厳、

と当て、

自然・神・(神がこの世に姿を現した)天皇が本来持つ、盛んで激しく恐ろしい威力、

とあり、

神霊の威光・威力、

を指す。漢書・李廣伝に、

威稜憺平隣国、

とあるのに、

李奇曰、神霊之威曰稜、

とある(大言海)。こうみると、「齋く」を、

イは齋(い)むの語根(齋垣(いみがき)、いがき。齋串(いみぐし)、いぐし)。ツクは、附くなり。かしづくと同じ。齋(い)み清まりて事(つか)ふる、

意(大言海)とするのと、

神や天皇などの威勢・威光を畏敬して、汚さぬように潔斎して、これを護り奉仕する(岩波古語辞典)、

とは重なる。

いまふ(忌)、

と同義としたのも、「いまふ(忌)」が、

忌むに反復・継続の接尾語ヒのついた形(岩波古語辞典 ヒは四段活用の動詞を作り、何回も繰り返す意を表す)、
イムの未然形の、イマを活用す(大言海)、

と解釈は異なるものの、

不吉なものとして避け嫌う、

意である。「いむ」は、

忌む、
齋む、

と当てるが、「いむ」は、

齋(イ)を活用、

した語であり、「齋」(い)は、

神聖であること、

の意であり、

ユユシなどのユの母音交替形、

である。「いむ」も、本来、

凶穢(けがれ)を浄め、慎む。神に事ふるに云ふ、

の、

齋(い)む、

が先で、それ故、

禁忌(タブー)、

の意から、

忌む、

の、

穢れを避け、嫌う、

意になった(大言海)。

神聖なもの・死・穢れたものなど、古代人にとって、はげしい威力をもつ触れてはならないもの、

となった(岩波古語辞典)のである。だからこそ、

汚さぬように潔斎して、これを護り奉仕する、

必要がある。で、「齋く」が、「いむ」から由来したとすると、「いはふ」もまた、

凶事を避け、吉事を招くところからイム(忌・齋)の延言(冠辞考続貂・和訓集説・国語の語根とその分類=大島正健)、
不浄を忌み嫌って、ハフリ(祝)マツル義から、イミハフ(忌栄・齋延)の約轉(言元梯・名言通・両京俚言考)、

という説はあり得るが、

イム(忌・斎)と同根、

とされる、

い(齋)、

があり、

イ(斎)に動詞化のハフのついた語(角川古語大辞典・小学館古語大辞典)、
イはユ(齋)と同語。ハフは行為を意味する活用語尾(日本古語大辞典=松岡静雄)、

が妥当だと思われる。ここで、「わざわひ」http://ppnetwork.seesaa.net/article/482558802.html?1626806502で問題となった「はふ」(這・延)が登場する。ただ、ここでは、

齋(いつ)く、

が転化して、

傳く、

とあてる「いつく」が、

神に云ふ語(齋く)の、愛護の意に移りたるなり、集韻「傳 音附近(チカヅク)也」、説文「相(タスク)也」、

とあり(大言海)、

かしづく、
大切にする、

意とある。「いはふ」の意味の広がりと重なるとみていい。この場合は、その意味では、

い(齋)+はふ(這・延)、

はあるのではないか、という気がする。「はふ」は、

さきはひ、
わざはひ、
にぎはひ、
あじはふ、

の、

辺りに広がる、

意である(岩波古語辞典)。

「祝」 漢字.gif


「祝」の字については、「風の祝」http://ppnetwork.seesaa.net/article/482454191.html?1626201854で触れたように、

「祝」 金文・西周.png

(「祝」 金文・西周 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%A5%9Dより)

「祝(祝)」(漢音シュク・シュウ、呉音シュク・シュ)は、

会意。「示(祭壇)+兄(人の跪いたさま)」で、祭壇でのりとを告神職を食を表す、

とある(漢字源)。

会意。示と、兄(神にのりとをささげる人)とから成る。神を祭る意を表す。転じて「いわう」意に用いる、

という説(角川新字源)と通じる。別に、

会意文字です(ネ(示)+口+儿)。「神にいけにえをささげる為の台」の象形と「口」の象形(「祈りの言葉」の意味)と「ひざまずく人」の象形から「幸福を求めて祈る」・「いわう」を意味する「祝」という漢字が成り立ちました、

との説明https://okjiten.jp/kanji682.htmlは、より具体的である。

「斎」 漢字.gif


「齋(斎)」(とき)http://ppnetwork.seesaa.net/article/460543513.htmlで触れたが、

「齋」(漢音セイ、呉音セ)は、

会意兼形声。「示+音符齊(きちんとそろえる)の略体」。祭のために身心をきちんと整えること、

とある(漢字源)。別に、

会意兼形声文字です(斉+示)。「穀物の穂が伸びて生え揃っている」象形(「整える」の意味)と「神にいけにえを捧げる台」の象形(「祖先神」の意味)から、「心身を清め整えて神につかえる」、「物忌みする(飲食や行いをつつしんでけがれを去り、心身を清める)」を意味する「斎」という
漢字が成り立ちました、

とあるhttps://okjiten.jp/kanji1829.html

「斎」 成り立ち.gif

(「斎」 成り立ち https://okjiten.jp/kanji1829.htmlより)

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

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2021年07月23日


「時(とき)」は、幅広く「時間」を表し、

過ぎていく時間、
時刻、
時分、
期限、
時節、
時候、
時期、
時世、
時機
時代、
時勢、

等々と意味の幅が広い(岩波古語辞典・広辞苑)。ために、「とき」に当てると漢字も、

世、
刻、
季、
期、
秋、
節、
辰、
齋、

等々少なくない(字源)。

「月」http://ppnetwork.seesaa.net/article/444490307.htmlで触れたように、「月(つき)」は、

「古形ツクの転」

とあり(岩波古語辞典)、その語源は、

説1は、「毎月、光が尽きる」の尽きが語源、
説2は、「日につぐ明るさ」の次ぎが語源、
説3は、「トキ(時)」と同じ語源。満ち欠けが月という「単位時間」を表すツキ、

の三説あり、「とき(時)」の語源も、

説1は、「月の音韻変化」説。月の満ち欠けによって、時の動きを示すという説、
説2は、「解ける・溶けるのトキ」語源説。溶けていく過程に時間の移り行きを示すという説、
説3は、「疾き」説。早く過ぎ去るを示すトキ(疾き)で、時間の進行を示すという説、

の三説で、「とき」の説1が、「つき」の説3と同じ説ということになる(日本語源広辞典)。言語学上、

月と時が関係ある、

とされるのは、聖書に

ヱホバは月を作りて時をつかさどらせたまへり、

にあるように、

太陰が時の計測の基準となった、

ことに起因している(渡邊敏夫『暦のすべて』)といわれ、英語の time は、

「潮の満干」を意味する tide と同一の語根 ti- を持つ、

とされるhttps://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q11138393646

ただ、固有の暦法をもたない、古代日本で、時間という抽象概念を月とつなげたかどうか、些か疑問である。

常(とこ)の転(大言海・東雅)、
疾(とく)の意(大言海・名語記・和句解・日本釈名・名言通・柴門和語類集)、

のいずれかということになるが、正直しっくりこない。

辰(とき)の義(言元梯)、

もあるが、

星辰、

というように、

星座、
星宿、

の意味で使うのは、中国暦が入ってきて以降のことかと思われる。

「時」 漢字.gif


「時」(漢音シ、呉音ジ)は、

会意兼形声。之(シ 止)は足の形を描いた象形文字。寺は「寸(手)+音符之(あし)」の会意文字で、手足をはたらかせて仕事をすること。時は「日+音符寺」で、日がしんこうすること。之(いく)と同系で、足が直進することを之といい、ときが直進することを時という、

とある(漢字源)。別に、

会意兼形声文字です(止+日)。「立ち止まる足の象形と出発線を示す横一線」(出発線から今にも一歩踏み出して「ゆく」の意味)と「太陽」の象形(「日」の意味)から「すすみゆく日、とき」を意味する漢字が成り立ちました。のちに、「止」は「寺」に変化して、「時」という漢字が成り立ちました(「寺」は「之」に通じ、「ゆく」の意味を表します)、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji145.html

「時」 成り立ち.gif

(「時」 成り立ち https://okjiten.jp/kanji145.htmlより)

なお「とき」と訓ませる「斎」((http://ppnetwork.seesaa.net/article/460543513.html))については触れた。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
渡邊敏夫『暦のすべて―その歴史と文化』

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

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2021年07月24日

くら


「くら」には、

座、

とあてる「くら」の他、

鞍、

とも当て、

蔵、
倉、
庫、

とも当てる。どうも三者は、関連がありそうに思える。

「座」 漢字.gif

(「座」 https://kakijun.jp/page/1060200.htmlより)

「座」(漢音サ、呉音ザ)は、

会意兼形声。坐(ザ)は「人二つ+土」の会意文字で、人々が地上にすわって頭が高低ででこぼこするさまを示す。座は「广(いえ)+音符坐」で、家の中ですわる場所のこと、坐は動詞、座は名詞であったが、当用漢字で座に統一された、

とある(漢字源)。「すわる場所」の意から、「台座」のように、「器物を載せる台」の意や、星々の(集まる)場所の意味で、「星座」と使ったりする。

高御座.jpg


しかし、あくまで「座」は、

席、

の意で、

矢庫(やぐら 矢倉)、

のような、「くら(倉)」の意で使ったり、

高御座(たかみくら)、

というように、

位(くらい)、

の意で使ったり、

歌舞伎座、

のような芝居小屋の意や、

材木座、

のように、

商人の同業者組合の意や、

銀座、

のような、貨幣鋳造の機関の意で使うのは、わが国だけである。

和語「くら(座)」も、

御手座(みてぐら)、
矢座(やぐら→櫓・矢倉)、
鳥(と)座、
千座(ちくら)、

等々、

人や物を載せる台、また、物を載せる設備、

の意で使われることが多い(岩波古語辞典)。「御手座(みてぐら)」は、もとは、清音で(広辞苑)、

元来は神が宿る依代として手に持つ採物(とりもの)をさした。その後幣(ぬさ)の字を当てたため、幣帛(へいはく)と混用され、布帛、紙、金銭、器具、神饌(しんせん)など神に奉献する物の総称の意にも用いられた、

とあり(百科事典マイペディア)、記紀や風土記にみえる「磐座(いわくら)」が、

本来、神のいる場所をたたえる語であった。やがて祭りに際して神の依り代とされた岩石を特定してさすものと認識されるようになり、さらには石そのものを神体として祭祀対象とするようになる、

と、

依代の採物→神への奉献するもの、

となったように、

依代の岩→神体→神、

と、意味が広がったのに似ている。

「高御座(たかみくら)」は、もともと、

天皇のすわる高い座(人や物を載せる高い所)、

の意であったが、それ自体が、

高御倉天の日継(ひつぎ)と天皇(すめろぎ)の神の命(みこと)の聞こし食(を)す国のまほらに(万葉集)、

と、

皇位、

そのものを意味するように広がっている。これは、「くらい(位)」が、

座居(くらゐ)、

と当て、「くら(座)」に居ること、つまり、

高くしつらえた席に居ること、

から、

位階、

の意に転じたのと似ている。

「くら」が、

物を置く場所、

の意だから、その義の、

座、

を当てたと思われる。そこから、「物を納め置く」、

倉(蔵・庫)、

や、「人を乗せる」、

鞍、

へつながったと思えるが、その「くら」自体の由来は、

ク(処)から出た語か(日本古語大辞典=松岡静雄)、

がもっともらしく思えるが、

キヲル(来居)の義(茅窓漫録・和訓栞・言葉の根しらべの=鈴木潔子)、
キアル(来在)の義(名言通)、
クはクム(組)、ラはハシラ(柱)の略(和訓栞)、
クはクダル(下)関係ある語(国語の語根とその分類=大島正健)、

となると、どうも語呂合わせになっていて、はかばかしくない。

なお、「座」の字の成り立ちについては、上述とは別に、

会意兼形声文字です(广+坐)。「屋根」の象形(「家」の意味)と「向かい合う人の象形と土地の神を祭る為に柱状に固めた土の象形」(「すわる」の意味)から、家屋の中の「すわる場所」を意味する「座」という漢字が成り立ちました、

という説があるhttps://okjiten.jp/kanji1050.html。ここから考えると、もともと「座」にはない、

くら、

の意を持たせたのは、

磐座、
御手座、

のような、

座居(くらゐ)、

の、

いる場所の意から、一方で、

座居(くらゐ)→位、

と位階になり、他方で、

座居(くらゐ)→くら→それが居る場所→物を載せる場所・装置、

と、それぞれ転化したのではないか。だから、

座(くら)→座居(くらゐ)、

ではなく、

座居(くらゐ)→座(くら)、

が生まれたのではないか、と憶測したくなる。

「座」 成り立ち.gif

(「座」 成り立ち https://okjiten.jp/kanji1050.htmlより)

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

ラベル:くら
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2021年07月25日


「くら」と当てる漢字、

座、

については「くら」http://ppnetwork.seesaa.net/article/482602676.html?1627065402で触れたように、

御手座(みてぐら)、
矢座(やぐら→櫓・矢倉)、
鳥(と)座、
千座(ちくら)、

等々、

人や物を載せる台、また、物を載せる設備、

の意で使われる(岩波古語辞典)が、

蔵、
倉、
庫、

とあてる「くら」は、その意味の延長線上で、

荒城田(あらきだ=新墾田)の鹿猪田(ししだ)の稲を倉に上げてあな干稲々々志(ひねひね)し我(あ)が恋(こ)ふらくは(万葉集)、

と、

穀物、商品、家財などを火災・水湿・盗難などから守り、保管・貯蔵するための建物、

の意で使うとみていい(広辞苑・日本語源広辞典・日本古語大辞典=松岡静雄・言葉の根しらべの=鈴木潔子他)。

土蔵、
倉庫、

と同義である(広辞苑・岩波古語辞典)。

物を納め置く座(クラ)の義、物置座の意、

とある(大言海)のが正確かもしれない。

古くは、校倉あり、又板蔵あり、皆木製なり。壁を土にて厚く塗り固めたるを塗籠(ぬりごめ)又は土倉、土蔵と云ふ、また穴蔵あり、

とある(仝上)。これで由来は尽きていそうだが、異説はある。

置くの義(日本釈名・東雅・和訓栞)、
オクラ(置坐)の義(言元梯)、
岩窟の義(国語の語根とその分類=大島正健)、
内部が暗いところから(和句解・家屋雑考)、

等々。しかし「くら」が、

座→倉・蔵・庫→鞍、

と、当て分けたと考えるのが自然に思える。

ただ、漢字では、「くら」の意の漢字は少なくなく、たとえば、「米蔵」の意では、

囷(キン・コン こめぐら)、
庾(ユ こめぐら)、
廩(リン こめぐら、穀蔵を倉、米蔵を廩と云ふ)、
牢(ロウ こめぐら、=廩)、
倉(ソウ こめぐら、穀蔵。丸きを囷と云ひ、方を倉と云ふ)、

の漢字があり、他に、

府(フ 朝廷の文書または財貨の蔵、ぜにぐら、府庫)、
廥(カイ まぐさぐら)、
窖(コウ あなぐら)、

と「くら」を使い分け、

座(ザ 席、居場所)、

には「くら」の意はなく、

庫(コ・ク 兵車(いくさぐるま)を入れ置くところ、武庫、兵庫。転じて、広く楽器・祭器・文書等のくら)、
蔵(ゾウ・ソウ 物品を納めて置く所)、

も、特定の意味があった(字源)。なぜ、「座」に、

くら、

の意が生まれたかは、「くら」http://ppnetwork.seesaa.net/article/482602676.html?1627065402で憶測したように、

座居(くらゐ)→くら→それが居る場所→物を載せる場所・装置、

から転化したと思えるが、その意味で、そこから、「くら」の意味が、

倉、
蔵、
庫、

と当て分けて、

倉庫、

の意となったと思われる。本来の漢字の意味とは別に、

倉、
蔵、
庫、

の使い分けは厳密ではないが、

武器庫、
書庫、

という使い方には、「庫」の意味が生きている気がするが、

宝庫、

となると、本来は「宝府」が正しいと思われる。

「倉」 漢字.gif

(「倉」 https://kakijun.jp/page/1007200.htmlより)

「倉」(ソウ)は、

会意。倉は「食の略体+口印(入れる所)」で、食糧となる新穀や青草を入れる納屋。転じて、青草の青い色の意となり、蒼(ソウ 青草の色)・滄(ソウ 青い水)・愴(ソウ 青ざめる)などの言葉を派生させる、

とある(漢字源)。ただ、別に、

象形。(建物を示す)の中にとびらのある形にかたどる。穀物を納めておく「くら」の意を表す、

とか(角川新字源)、

象形文字です。「穀物をしまう為のくら」の象形から「くら」を意味する「倉」という漢字が成り立ちました、

とありhttps://okjiten.jp/kanji723.html、象形文字の可能性がある。

「倉」 甲骨・殷.png

(「倉」 甲骨文字・殷 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%80%89より)


「蔵(藏)」(漢音ゾウ、呉音ソウ)は

形声。艸は収蔵する作物を示す。臧(ソウ)は「臣+戈(ほこ)+音符爿(ソウ・ショウ)」からなり、武器をもった壮士ふうの臣下。藏は「艸+音符臧」で、臧の原義とは関係がない、

とある(漢字源)。「秘蔵」とか「収蔵」とか「珍蔵」という言葉があり、「物を納めて蓄える」という意味が強い。

「蔵」 漢字.gif

(「蔵」 https://kakijun.jp/page/1522200.htmlより)

別に、

形声文字です(艸+臧)。「並び生えた草」の象形と「矛(ほこ)の象形としっかり見開いた目の象形」(「倉(ソウ)」に通じ(同じ読みを持つ「倉」と同じ意味を持つようになって)、「かくしてしまう」の意味)から、「かくす・かくしてしまう場所」、「くら」を意味する「蔵」という漢字が成り立ちました、

との解釈もあるhttps://okjiten.jp/kanji965.html

「蔵」 成り立ち.gif

(「蔵」 成り立ち https://okjiten.jp/kanji965.htmlより)

「庫」(漢音コ、呉音ク)は、

会意。「广(いえ)+車」で、車や兵器を入れて屋根をかぶせたくら。屋根をかぶせてかばう意味を含む、

とある(漢字源)。

「庫」 漢字.gif

(「庫」 https://kakijun.jp/page/1059200.htmlより)

別に、

会意兼形声文字です(广+車)。「屋根」の象形と「車」の象形から車を入れる「くら」を意味する「庫」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji484.html。「武庫」「兵庫」の意から、「宝庫」となり、「倉庫」と、意味が広がったと見える。

「庫」 成り立ち.gif

(「庫」 成り立ち https://okjiten.jp/kanji484.htmlより)

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
簡野道明『字源』(角川書店)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
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ラベル: くら
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2021年07月26日

やぐら


「やぐら」は、

櫓、
矢倉、
矢蔵、
兵庫、

等々と当てる。「倉」http://ppnetwork.seesaa.net/article/482616330.html?1627152341で触れたように、文字通り、

兵庫、

は武器庫の意なので、

閑曠(いたずら)なる所に兵庫(やぐら)を起造(つく)り(幸徳紀)、

と、

武器を納めて置く倉、

の意と考えられる(広辞苑)が、

矢を射るべき座(くら)の義、

とする考え方(大言海)もある。中世の城郭では専ら、

矢蔵、
矢倉、

と記され(西ケ谷恭弘『城郭』)、

飛道具武器である弓矢を常備していた蔵である。敵の来襲に即応できるように、塁上の角や入口に建てられた門上にその常備施設として作られたことに由来する、

とある(仝上)ので、臨戦態勢の中では、すぐに射かけられるように、高い所に「矢倉」が設置されたものと考えられる。だから、「やぐら」の意は、

四方を展望するために設けた高楼、

の意と(広辞苑)なり、

城郭建築では敵情視察または射撃のため城門・城壁の上に設けた、

という意に転じていく。既に、古代城郭に櫓があったことは、

鞠智(きくち)城の「不動倉」(文徳実録)、
秋田城の「城櫓二十七基、槨棚櫓六十一基」(三代実録)、

等々と、平安時代の歴史書に記述がある(西ケ谷恭弘・前掲書)。ただ、その構造は分からないという。

藤原千任(ふじわらのちとう)、義家を罵倒する.jpg


(藤原千任(ふじわらのちとう)櫓の上から義家を罵倒する(『後三年合戦絵詞』) https://www.yokotekamakura.com/gosan/gosan-emaki/#g001より)

中世の櫓建築の構造が分るのは、『後三年合戦絵詞』(貞和三年(1347)成立)の、

金沢柵の櫓、

で、

土塁の塀上に舞台状の出張りをつくり、掻楯(かいだて 垣楯 楯を垣のように並べたもの)をめぐらし見張り台としている、

とあり(仝上)、その櫓下の塀には拳大の石を縄で吊るした石落としがある。

『一遍上人絵伝』(正安元年(1299)成立)には、筑前国の武士の館が描かれ、館の門は、

櫓づくりの矢倉門、

で、

門上に舞台を作り、四方に低い板塀をめぐらし、掻楯を巡らしている。その後ろには、小さな切妻小屋があり、弓束が備えられている(仝上)。まさに、

矢倉、

が、

弓矢の兵庫、

であるとともに、

弓を射かける座、

でもあることを示していて、

櫓・矢倉・矢蔵は、見張り台として物見が置かれ、矢・弓などが常備され、戦闘面では、敵が最も集中する門、塀のコーナー、出張り部分に構えられた、

もの(西ケ谷恭弘・前掲書)で、

高(たか)櫓(矢倉)、
出(だし)櫓、
向(むかい)櫓、

等々と呼ばれ、

井楼(せいろう)、

と呼ばれる組み上げ式のものもあった。

逆井城跡公園井楼矢倉.jpg

(逆井城跡公園井楼矢倉 http://geo.d51498.com/nekko3rays/X-TD/td05sakai.htmlより)

これが恒常的な施設になっていくのは、戦国時代以降で、

走(はしり)櫓、
井戸櫓、
千貫櫓、

等々と呼ばれ、やがて、寺院建築の影響を受けて、

城郭の宮殿化に伴う装飾と実践を兼ね備えた設備、

となって、

隅櫓、
多聞櫓、

等々恒常化した建築物となっていく。

近世城郭の櫓群.jpg

(近世城郭の櫓群(大坂城の三重櫓と多門櫓) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AB%93_%28%E5%9F%8E%E9%83%AD%29より)

室町時代以降、井楼のように、軍船の上部構造物の「やぐら」が造られ、高く組み上げてつくった構造物を「やぐら」と呼ぶようになった。それが、

火の見櫓、

につながり、芝居・相撲・見世物など、興行の入口に設け、染幕を廻らしたものにも使う(広辞苑)。これは、

興行の官許の印、

であり、官許を得て興行を始めることを「櫓をあげる」といった。櫓には五奉行をかたどった5本の毛槍を横たえ大幣束を立て、興行主の紋を染め抜いた幕を張りめぐらした。開閉場を知らせる太鼓をこの上で打鳴らしたが、これを櫓太鼓といい、相撲興行でも用いられる、

とある(ブリタニカ国際大百科事典)。「櫓をあげる」ことができたのは、

正徳四年(1714)9月以降幕末まで、中村座の中村勘三郎、市村座の市村羽左衛門、森田座の森田勘弥の3人の座元だけである、

である(世界大百科事典)。

歌舞伎座の櫓.jpg

(歌舞伎座の櫓 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AB%93より)

相撲の場合、

相撲場の正面に、高く床を設け、幕を張り、太鼓を撃ちて人を集むる、

とあり、その太鼓が、

櫓太鼓、

となる(大言海)。炬燵の「やぐら」も、

炬燵櫓、

といったもので、木で組んだところからいったものとみられる(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AB%93・広辞苑)。

両国回向院の太鼓櫓.jpg

(両国回向院の太鼓櫓 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AB%93より)

「やぐら」と訓ませる漢字には、「櫓」以外に、

譙(ショ・ショウ 城門の上の物見、城樓)、
樓(ロウ ものみやぐら、城樓)、

がある(字源)。「譙樓」と使うし、「樓櫓」と使うので、ほぼ同義と見ていい。

「櫓」 漢字.gif


「櫓」(漢音ロ、呉音ル)は、

会意兼形声。「木+音符魯(ロ 太い、大きく雑な)」で、太い棒、

とある(漢字源)。別に、

形声文字です(木+魯)。「大地を覆う木」の象形と「魚の象形(「鹵(ロ)」に通じ(「鹵」と同じ意味を持つようになって)、「おろか」の意味)と口の象形」(「考えが足りない言い方」の意味だが、ここでは「露(ロ)」に通じ、「むきだしになる」の意味)から、屋根がなくむきだしになっている「物見やぐら」を意味する「櫓」という漢字が成り立ちました、

との解釈もあるhttps://okjiten.jp/kanji2506.html

「櫓」 成り立ち.gif

(「櫓」 成り立ち https://okjiten.jp/kanji2506.htmlより)

参考文献;
西ケ谷恭弘『城郭』(近藤出版社)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
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2021年07月27日

oT化の中で


桑島浩彰・川端 由美『日本車は生き残れるか』読む。

日本車は生き残れるか.jpg


自動車産業変化のキーワードは、

CASE、

とされる。

コネクテッド(connected)、
自動化(autonomous)、
シェアリング(shared)、
電動化(electric)、

の頭文字をとったものだ(世界的にはACESの方が使われるらしいが)。

ポイントは、

コネクテッド、

だと思う。家電業界が凋落したのと同じく、

ネットにつながった自動車、

の時代、

膨大な数のサービス(モビリティサービス)、

が生まれる。自動車は、

IoT(Internet of Things)、

の「oT」つまり、

ネットにつながったモノ、

になる。だから、

「IT業界の巨人たちが自動車産業にこぞって進出しようとしている」

のである。欧米・中国の自動車企業は、

「必死になって変わろうとしているし、ライバルとの提携・合併や優良資産・部門の売却など大胆な動きを貪欲に行っている。」

それに対して、日本企業の動きは鈍い。

欧米・中国のダイナミックな変化の努力をつぶさに描きつつ、対する日本の現状を描いていく。象徴的だと思うのは、たとえば、日産について、

「日産は、CASEのAやEの部分では最先端の技術を持ち、世界の自動車メーカーと互角以上に戦っているように見える。だが、誤解を恐れずにいえば、個々の要素技術には秀でていても、それらの技術を組み合わせて魅力ある商品としてパッケージした開発までできているか、という視点から考えるとやはり懸念は残る。」

という言及と、

「アメリカの家電・IT見本市であるCESや欧米のモーターショウに足を運ぶと、日本と海外の自動車関連企業の展示に大きな差があることに気づく。日本勢の展示は自社製品、つまり自分の会社のモノや技術がいかに優れているかを示す展示が多い。一方、日本勢以外、特に欧米勢のプレイヤーは『世界観』に関する展示や発表が多い。コネクテッドや自動運転など、新しい技術を用いることで、どのように人々の乗車体験や生活を変えていくのか、そのビジョンや具体的なユースケース(事例)が増えている。自動車を製造する『自動車』産業の展示から、自動車を使ったソリューション、モビリティ産業のビジョンの展示にシフトしているのだ。」

あるいは、

「日本のメーカーの方々と話をすると、『いま、最も注目する技術を教えてほしい』『将来的に勝てる技術は何か』という類の質問をいただくことが多い。あるいは、特定の技術を起点に将来の事業を描こうとする、いわゆる『ロードマップ信仰』のような例も多々ある。日本の技術力は高いし、一人一人のエンジニアは優秀だ。だが、そういう質問をすること自体が『技術』『モノづくり』の視点から自分の仕事を考えているように思える。求められるのは、自社の技術よりも、顧客価値の起点、すなわち社会的な課題や必要とされているニーズから、既存の技術をつなげて、サービスやそれを後押しする技術を創造する力なのだ。」

等々という指摘をみると、完全にネット時代に取り残された「モノづくり大国」という二十世紀的な世界に留まったままの姿が浮かぶ。それは、家電業界でみた姿とダブる。

著者は、

「日本の自動車産業は崩壊しない。ただし戦いのルールは大きく変化する。そして、新しいルールに適応できた企業だけが生き残ることができる。」

として、日本の自動車産業が克服すべき弱点を、

モノづくり信仰、
垂直統合へのこだわり、
自前主義、
電気・材料・IT系エンジニアの軽視、
形の見えないもの(ソフトウエア・サービス)にお金は払えない、

を挙げた。ソフト優位の時代は、もうはるか前から、既に「95時代」から考えても二十年以上たっている。しかも、ネット時代に、日本のパソコンメーカー、家電メーカーが、単なるハコモノ屋、部品屋として屈服していった姿を見ているのに、未だにこの体たらくである。

「デジタルの時代、コネクテッドの時代には、データをオープンに管理し、他社との連携を行うことでデータを共有し、適宜フィードバックを行うことで、よりユーザーが使いやすいプラットフォームに改良し、エコシステム全体の価値を高めていく――というビジネスモデルが一般化する。自動車産業にとっては、そのひとつの形態がコネクテッドになった時代のモビリティサービスなのだ。」

という現状の中、著者たちは、生き残りの有無を明言していないが、ネット時代に何週もの周回遅れのわが国の未来は、かなり厳しい、という言外の危惧を感じ取った。

なお、次世代テクノロジーの趨勢については、

山本康正『次のテクノロジーで世界はどう変わるのか』http://ppnetwork.seesaa.net/article/481602237.html

家電メーカーの凋落については、

大西康之『東芝解体-電機メーカーが消える日』http://ppnetwork.seesaa.net/article/450728442.html

で、それぞれ触れた。「モノづくり」に拘泥する日本の製造業は、ネット環境の中で、ほとんど現在の地位を保つのは難しい。今回、それが、モノづくりの頂点、自動車にも及ぶ。

IoTの、oTとなったとき、つまり、

ネットにつながったモノ、

になったとき、

「日本がグローバルに優位性を持っている領域は非常に少ない」

とは、自動車だけではなく、すべての製造業に及ぶ。すでに、家電メーカーの凋落が、それを証している。

参考文献;
桑島浩彰・川端 由美『日本車は生き残れるか』(講談社現代新書)

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2021年07月28日


「座(くら)」は、「くら」http://ppnetwork.seesaa.net/article/482602676.htmlで触れたように、

御手座(みてぐら)、
矢座(やぐら→櫓・矢倉)、
鳥(と)座、
千座(ちくら)、

等々、

人や物を載せる台、また、物を載せる設備、

の意で使われる(岩波古語辞典)が、

蔵、
倉、
庫、

とあてる「くら」は、その意味の延長線上で、さらに、

人や荷物を乗せるために牛馬の背に置く、

鞍、

も、

座(くら)の意から、

とある(広辞苑)ように、

馬上の座(くら)、

であり、「座(くら)」の意味の外延上にある。

「鞍」 漢字 .gif

(「鞍」 https://kakijun.jp/page/an15200.htmlより)

「鞍」は、

狭義には鞍橋(くらぼね)、

をいう(仝上)、とある。「鞍橋」は、

鞍瓦、

とも当て、

前輪(まえわ)、後輪(しずわ)を居木(いぎ)に取り付け、座の骨組みをなす部分、

をいい(仝上)、近代以前は、

馬の背に韉(したぐら 鞍)をかけ、鞍褥(くらしき)を重ねて鞍橋(くらぼね)をのせ、鞍覆(くらおおい)を敷いて両側に障泥(あおり 泥除け)を下げる、

という形で馬具を整える(世界大百科事典)。

鞍名称.jpg

(鞍の名称 笠間良彦『図説日本合戦武具事典』)

この鞍橋のことを一般に、

鞍、

という。

本来革製であったが、木製の鞍は中国の漢代に現れ(百科事典マイペディア)、日本へは古墳時代に中国から、

木製の地に金銅製や鉄製の覆輪および地板などを施した鞍、

が伝来、正倉院に朝鮮鞍式(大陸系)のものと和鞍式の二種類が残っている(ブリタニカ国際大百科事典)。平安時代には儀礼用の唐鞍(からくら)や移鞍(うつしくら)、日常用の水干鞍などと、多様な発展をとげ、公家用の鞍橋の装飾には螺鈿(らでん)、沃懸地(いかけじ)、蒔絵など官位に応じて定めがある(仝上)、という。

黒漆地桐鳳凰文蒔絵鞍.jpg

(黒漆地桐鳳凰文蒔絵鞍(江戸初期) https://www.touken-world.jp/search-harness/art0012420/より)

「鞍」(アン)は、

会意兼形声。「革(かわ)+音符安(上から下へ重みをかける)」、

とある(漢字源)。

「鞍」 成り立ち.gif

(「鞍」 成り立ち https://okjiten.jp/kanji2266.htmlより)

別に、

会意兼形声文字です(革+安)。「頭から尾までをはいだ獣の皮」の象形(「革」の意味)と「屋根・家屋の象形と安らぐ女性の象形」(「安らぐ」の意味)から馬などの背に置いて、乗る人を安定させる皮製の馬具「くら」を意味する「鞍」という漢字が成り立ちました、

とあるhttps://okjiten.jp/kanji2266.html

参考文献;
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
笠間良彦『図説日本合戦武具事典』(柏書房)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
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2021年07月29日

遊ぶ


「遊ぶ」というと、梁塵秘抄の、

遊びをせむとや生まれけむ戯(たはぶ)れせむとや生まれけむ遊ぶ子供の声聞けば我が身さへこそゆるがるれ、

という歌を連想する。まさに、

遊びに興じる、

という「遊び」の、

遊戯(遊び戯れる)、

の意味だ。

日常的な生活から別の世界に身心を解放し、その中で熱中もしくは陶酔すること。宗教的な諸行事・狩猟・音楽・有楽などについて広範囲に用いる、

という(岩波古語辞典)のは、かなり後のことではあるまいか。「遊び」を、

神遊び、

つまり、

神楽を演ずる、

意で使うのは、「神楽」http://ppnetwork.seesaa.net/article/482498778.html?1626461046で触れたように、神楽の由来である、

神前での舞や音楽、

と関わるからではあるまいか。

「遊」 漢字.gif

(「遊」 https://kakijun.jp/page/1268200.htmlより)

大言海は、「あそぶ」を、四項に分けてのせる。ひとつは、

遊、
游、

と当て、

己が楽しいと思ふことをして、心をやる、

と、

梅の花手折りかざして阿蘇倍ども、飽き足らぬ日は今日にしありけり(万葉集)、

と、いわゆる「遊びたわむれる」意とし、第二に、

神楽、

と当て、

葬送の時にするは、天岩屋戸の故事の遺風にて、死者の、奏楽をめでて、かへりくる事もやと、悲しみのあまりにするわざなりと云ふ、

とし、

瑞垣(みづかき)の神の御代より篠(ささ)の葉を手(た)ふさに取りて遊びけらしも(神楽歌)、

と、天鈿女命が岩戸の前で篠を持って舞ったことに由来する、

神遊びをする、
神楽をする、

の意とし、第三には、

奏楽、

と当て、

遊ぶより移る、楽は遊ぶ事の中に、最も面白きものなれば、特に云ふなりと云ふ、

とし、

時は水無月のつごもり、……宵は、あそび居りて、夜更けて、やや涼しき風ふけり(伊勢物語)、

と、

死者ありて管弦せしは、(第二項の)あそぶの遺風なりしなるべしと云ふ、

と注記する。第四に、

遊、
游、

と当て、

漢籍見訓みの語。遊(ユウ)の訓読、

とある。和語「あそぶ」にはない、漢字「遊」の、

志於道、拠於徳、依於仁、遊於藝(道に志し特に拠り仁に依り芸に遊ぶ)(論語)、

と、

学術を学ぶ、

意で使った。

どうやら、天鈿女命が天岩屋戸の前で、伏せた桶を踏みとどろかして踊りながら神々を哄笑させた「神遊び」を淵源とする、と考えると、「あそぶ」が、

上代以来、管弦のほか、歌舞、狩猟、宴席など、

にも言うが、本来は、

祭祀に関わるもの、

とみていいのではないか(日本語源大辞典)。その意味で、

日常性などの基準からの遊離が原義、

という(仝上)のは妥当に思える。

だから、「あそぶ」の語源を、足(アシ)から転じたとして、

足+ぶ(動詞化)の変化(日本語源広辞典)、
アシ(足)の転呼アソをバ行に活用したもの(日本古語大辞典=松岡静雄)、

と動作に限定するのは、天鈿女命の舞踏から考えて、あり得るとは思うが、どうなのだろう。微妙に祭祀からは外れる気がする。といって、

遊、游の漢字atから来たもの(語源類解=松村仁三)、
アソブ(息進振)の義(日本語源=賀茂百樹)、
もと禁中御遊のことをいった、あかすべ(明方)の義(名言通)、
遊ぶの「あそ」は「うそ」に通じ、内容の無い空虚な「嘘(うそ)」こそが遊ぶの原点https://narayado.info/japanese/asobu.html
アソフ(天染歴)の意(柴門和語類集)、
アソはアサオ(朝起)で、朝廷の遊びからおこった(国語本義)、
アススム(弥進)の義(言元梯)、

等々では語呂合わせが過ぎる。むしろ、

かしこしわが大君、なほしその大琴あそばせ(古事記)、

と、

アソブの未然形に尊敬の助動詞シのついた(岩波古語辞典)、

~なさる、

意で使う、

遊ばす、

が気になる。

貴人が音楽の演奏・狩り・遠出などをなさる意。転じて、広く貴人の行為の尊敬語として使う、

とある(仝上)。単なる「足運び」由来の「あそぶ」なら、尊敬語に転じるものだろうか。憶説だが、祭祀とのかかわりがあればこそではあるまいか。

因みに、「遊び」について、平安中期の『倭名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)』は、雜藝(ぞうげい)類に、

競馬(くらべうま 和名久良閉宇麻=くらへうま)、
鞦韆(しゅうせん 和名由佐波利=ゆさはり ブランコのこと)、
雙六(すごろく 俗云須久呂久=すくろく)、
相撲(和名須末比=すまひ)、

等々23種、雜藝具に、

鞠(和名萬利=まり)、
紙老鴟(しろうし 世間云師勞之=しろうし。凧のこと)、
獨樂(和名古末都玖利=こまつくり。こまのこと)、

等々10種の「遊び」を挙げている(日本大百科全書)。

漢字「遊」(漢音ユウ、呉音ユ)は、

会意兼形声。原字には二種あって、ひとつは、「氵+子」の会意文字で、子供がふらぶらと水に浮くことを示す。もうひとつは、その略体を音符とし、吹き流しの旗の形を加えた会意兼形声文字(斿)で、子供が吹き流しのようにぶらぶら歩きまわることを示す。游はそれを音符とし、水を加えた字。遊は、游の水を辶(足の動作)に入れ替えたもの。定着せずに、揺れ動くの意を含む、

とあり(漢字源)、原義は、「きまったところに留まらず、ぶらぶらする」意である。別に、

会意形声。「辵」+音符「斿」、「斿」は「㫃」+音符「汓」、「汓」は子供が水に浮かぶ様、「㫃」は旗を持って進む様子であり、あわせて旗などがゆらゆら動く様を言う。「游」と同音同義、「游」は説文解字に採録されているが、「遊」は採録されておらず、「游」の水のイメージを、「辵」に替え陸上の意義にしたものかhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E9%81%8A

とあるのは、同趣旨だが、別に、

辵と、ゆれうごく意と音とを示す斿(ゆう)とから成り、ゆっくり道を行く、ひいて「あそぶ」意を表わす(新字源)、

会意兼形声文字です(辶(辵)+斿)。「立ち止まる足の象形と十字路の象形」(「行く」の意味)と「旗が風になびく象形」と「乳児(子供)の象形」から子供が外で「あそぶ」を意味する「遊」という漢字が成り立ちましたhttps://okjiten.jp/kanji416.html

等々の解釈もある。

「遊」 成り立ち.gif

(「遊」 成り立ち https://okjiten.jp/kanji416.htmlより)

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

ラベル:遊ぶ 神遊び
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2021年07月30日

雨乞い


「雨乞い」は、

雨+コヒ、

で、

ひでりの時、降雨を神仏に祈る、

意だが、別に、

請雨(あまごひき・あまひき・しょうう)、
祈雨(きう)、
雩(あまひき)、

等々ともいう(広辞苑・大言海)。「雩」は、

「あま」は、雨の意。「ひき」は、引き寄せるの意か、

とある(精選版日本国語大辞典)。ただ大言海は、「雩」の訓みは、

名義抄に、「雩、アマゴヒ、アマヒキ」とあるは、ここの請雨(あまごひき)の訓の、落字ならむか、

とし、本来、

請雨(あまごひき)不崇朝、遍雨天下(持統紀)、

と、

あまごひき、

と訓むとしている。

「雨」 漢字.gif

(「雨」 https://kakijun.jp/page/ame200.htmlより)

例えば、「請雨法」というと、

密教で、日照りのとき、諸大竜王を勧請 (かんじょう) して降雨を祈る修法、

つまり、

請雨経法、

を指し(デジタル大辞泉・広辞苑)、「祈雨法」(きうほう)というと、

雨乞いのために、密教で大雲輪経、大孔雀経等に基づいて降雨を祈る修法、

つまり、

請雨経法(しょううきょうのほう)、

を指す(精選版日本国語大辞典)というように、流儀があったらしい。

「雨乞い」には、

お籠り・踊・貰い水・千駄焚き、あるいは水神を怒らせる、

等々の仕方があり(岩波古語辞典)、たとえば、「雨乞踊」は、

鉦や太鼓をうちならし、念仏踊などをして、ひでりをもたらした邪霊を追い散らす、

「千焚き」「千駄焚(せんだた)き」は、

山上に薪をたくさん積み上げ、火を焚いて騒ぐ、

「貰い水」は、

水神が住むと伝える池や泉の水をもらいうけ、これを氏神や水源地にまいたりする、

「百升洗い」は、

升をたくさんあつめて、これを水神が住む池で洗ったりする、

等々(世界大百科事典)がある。

雨乞図絵馬額.jpg

(「雨乞図絵馬額(部分)」(天保十己亥年(1839)十月) https://kyoudou.city.katsushika.lg.jp/?p=10579より)

「豪農の暮らし」http://ppnetwork.seesaa.net/article/482424187.html?1626028105で触れたように、文久元年(1861)日照りがひどく、上総國望陀郡大谷村では、次のような雨乞いが続く。

六月八日、殿様(九代黒田直和)が浦田村の「妙見寺」(現久留里神社)で雨乞い祈祷を行い、大谷村では一軒に付き一人が代参することになり、四ツ時(午前十時頃)神楽を持参して参詣、帰路村宿エビス屋で御神酒を飲む、八ツ半頃(午後二時)雨が降り、
九日、昼から「御しめり祝」になり、村一同休みとし年寄りは百万遍(百万回の念仏を唱えること)、若衆は村内三社(白山様、愛宕様、妙見様)に神楽奉納、
十日、大暑天気、
十一日、御天気、
十二日、大暑御天気、
十三日より三日間殿様が妙見様で雨乞祈祷をするというので、村役人相談のうえ判頭中(各戸の主人)が代参、
十九日には、三度目の殿様による雨乞祈祷が妙見様で行われることになり、朝方から名主を中心に村方の対応が相談され、「男は残らず出、白山様(白山神社)より妙見様へ弁当付にて神楽持参参納」と決まる、
二十日は神楽と百万遍(念仏)、
二十一日は若者の「千垢離(せんごり)」(何度も水垢離をとる)、
二十四日は殿様の四度目の雨乞祈祷を愛宕神社で行い、村中の家主・若者総出で七つ半時(午前五時頃)に村を出立し、愛宕神社に参って神楽を奉納、三社に百万遍を奉納。夜に入って若者中が山神社へ籠り雨乞祈願、
二十五日、若者たちは天王様へ巡行、
二十七日、上々天気、相模の大山へ雨乞いのため二名を代参に出す、
七月一日、藩主より各村が妙見様と愛宕様に雨乞を祈祷するよう命ずる。大谷村では一軒一人が代参に出かけ、村内では神楽と百万遍、
三日、大山代参が帰村、
四日、雨降り、
五日、村一同「御しめり祝」になり、一軒一人代参を出し、白山様、愛宕様、妙見様の村内三社に詣でる、

と、ようやく窮地を脱する。

日本の「雨乞い」の型は、

①山頂で火をたく型、
②踊りで神意を慰め雨を乞う型、
③神社、神(仏)像、滝つぼなど、神聖なものに対する禁忌を犯し(たとえば汚す等)、神(仏)を怒らせて降雨を強請する型、
④神社に参籠(さんろう)し降雨を祈願する型、
⑤神社や滝つぼなどの聖地から霊験ある神水をもらってきて耕地にまく型、

の五つに分けられる、とする(日本伝奇伝説大辞典・日本民族辞典)。他に、

①氏神社境内の雨壺(小池)を清掃して注連縄を張るなど、祭場・祭具の浄化、
②雨乞天神の神輿を諸方に渡すなど、神出御、
③滝壺の岩に味噌を塗りつけたり、川に木刀を流すなど、神饌(しんせん 供物)・幣物(へいもつ 進物)、
④村中が出て氏神にお百度を踏むなど、神態(かみぶり かみわざ)、
⑤村人全員が集まって踊るなど、芸能、

とする整理もある(高谷重夫『雨乞習俗の研究』)。

宮中にては、

祈雨の御祭事を、雨乞の祭と云ひ、又蔵人を遣され、御神泉苑にて、雨乞せしめらるるを、雨乞の使いと云ひ、又、陰陽師をして、五龍祭を行はせらるるを、雨乞の祭と云ふ、

とある(大言海・日本伝奇伝説大辞典)。古くは、皇極天皇元年(642)、

戊寅。羣臣相謂之曰。随村々祝部所教。或殺牛馬祭諸社神。或頻移市。或祷河伯。既無所効。蘇我大臣報曰。可於寺寺轉讀大乘經典。悔過如佛所訟。敬而祈雨。庚辰。於大寺南庭嚴佛菩薩像與四天王像。屈請衆僧。讀大雲經等。于時。蘇我大臣手執香鑪。燒香發願。辛巳。微雨。壬午。不能祈雨。故停讀經。八月甲申朔。天皇幸南淵河上。跪拜四方。仰天而祈。即雷大雨。遂雨五日。溥潤天下。(或本云。五日連雨。九穀登熟。)於是。天下百姓倶稱萬歳曰至徳天皇(書紀)、

とあり、

旱魃ありしを、百済僧道蔵雨乞ひして雨を得(天武十二年)、
神名樋山の石神は多岐都比古神にして、旱天に雨乞する時は必ず雨を降らし給ふ(出雲國風土記)、

等々もある。

葛飾北斎「雨乞ひ」.jpg


「雨」(ウ)は、

象形。天から雨の降るさまを描いたもので、上から地表を覆って降る雨、

とある(漢字源)。

「雨」 甲骨文字.png

(「雨」 甲骨文字・殷 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E9%9B%A8より)

因みに、「あめ」http://ppnetwork.seesaa.net/article/459999594.htmlで触れたように、和語「あめ」の語源は、大別すると、

「天(あま)」の同源説、

「天水(あまみづ)」の約転とする説、

にわかれる。しかし、

雨が多く、水田や山林など生活に雨が大きく関係している日本では、古くから雨のことを草木を潤す水神として考えられた。雨が少い場合は、雨乞いなどの儀式が行われ、雨が降ることを祈られた。「天」には「天つ神のいるところ」との意味があり、そのため雨の語源と考えられている、

とあるhttp://www.7key.jp/data/language/etymology/a/ame2.htmlように、「天」そのものと見るか、その降らせる水にするかの違いで、両者にそれほどの差はない。雨は、

天(アメ、アマ)と共通の語源、

であり、

アマ(非常に広大な空間)から落ちてくる水、

である(日本語源広辞典)。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
乾克己他編『日本伝奇伝説大辞典』(角川書店)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

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2021年07月31日

自力救済


神田千里『戦国乱世を生きる力』を読む。

戦国乱世を生きる力.jpg


戦国時代を象徴するキーワードは、土一揆、一向一揆、國一揆の、

一揆、

であり、その、

一味同心、

であり、その拠って立つ、

自力救済、
自検断(じけんだん)

である。その中心にいるのは、

地下人(じげにん)、

と呼ばれる一般民衆であり、その象徴的存在が、

足軽、

である(「足軽」http://ppnetwork.seesaa.net/article/462895514.htmlについては触れた)。

戦国乱世といわれた十五世紀半ばから十六世紀末までの150年間は、

「ほとんど毎年のように不作、飢饉、疫病の流行、ないしその原因となるような旱魃、風水害、地震など災害があり、例外は10年に満たない。」

とされる。こうした災害を生き延びるには、

「村を立て稼ぎに行くこと、ことに大名などに従軍して戦場で稼ぐこと」

であった。こうした中で、

「生きのびるためにはまた、集団の規律に従わなくてはならなかった。当時の村も町も住民たちが組織をつくり自治を行っていた。権威を失墜させた『御上(おかみ)』が少しもあてにならず、日常の治安さえ守ってくれない時代としては……頼れるものは自分たちの力のみ、だから当時の民衆の多くは生まれながらに自治の担い手であった。」

自治とは、

「自分自身の所属する集団の力を結集してすべてを仕切ることである。平たくいえば自分の命を含めていっさいを委ねる自前の親分を創り出すことである。」

とある。象徴的なのは、

土一揆(つちいっき)、

である。たとえば、寛正三年(1462)に京都を襲った土一揆では、

「大将の蓮田兵衛のもとに東福寺門前・宇賀辻子・南禅寺門前になどの寺領、伏見・竹田など京都の南の村から、あるいは遠く丹波国須智村から、さらに法苑寺など寺院内部から三々五々結集して徳政一揆が蜂起した」

のであり、それは、足軽集団が、

「文明三年正月ごろ、遍照心院領の住民で足軽大将の馬切衛門五郎というものが京都の八条で足軽の募集をおこなった。」

という形成過程と類似しており、

「足軽集団と土一揆とはきわめてよく似た方法で結成」

された、臨時のプロジェクトチームのようなのである。

「大義名分の中味はそれぞれに異なっていても、土倉・酒屋からの略奪という目的、大義名分(土一揆は「徳政」、足軽は「兵粮米確保」)をふりかざしての略奪という行動形態」

では、土一揆も足軽も類似しており、対する土倉を初めとする町衆も、

「明応四年(1495)の土一揆蜂起の折には、土倉の軍勢や町人たちが土一揆と戦っている。両者の合戦で、当初、土一揆の優勢が伝えられ、必ず徳政が行われるとまで噂されたが、その後、土倉の軍勢が優位にたち、もはや徳政はない、との噂が流れた。土倉をはじめとする京都住民の軍勢が情勢を大きく左右するようになっていたのである。」

と、やはり自衛行動をとる。このことは、守護や大名に対する国衆も同じような自衛行動をとる。たとえば、山城国一揆では、国衆が守護代が各荘園から「年貢・諸公事物」などから五分の一を徴収するために入部しようとしたところ、国衆の面々は、

「向日神社で談合を行い『五分の一』を支払う代償に『当郡(乙訓郡)を国持』に、つまり国人ら自らの管轄とし、守護代の入部を謝絶することに決定」

したのである。それは、

「『国』の秩序を維持すべき守護家が内部抗争に明け暮れ、その動員した軍隊が『国』の寺院や民家を放火し襲撃し、『国』の住民が甚大な被害をこうむることはみずから解決すべき『惣国の大義』であった」

と。それは村々にとっても同じであった。

「むろん彼らの一揆蜂起は、自分自身の利害に基づいたものである。自分たちの利益になると思えば領国の大名にも忠義を尽くす。反対に謀叛のほうが利益になると思えば、今川氏真を見限り徳川家康に味方した遠江住民のようにする。自分たちの安全保障にとって、より利益となるほうについて武力行使をするのである。」

戦国大名の存在理由は、

「何より戦乱、災害に対処する危機管理能力」

であるのは、彼らが、領民を守ってくれる力があるかどうかが、敵国からの略奪、簒奪から身を守れるかどうかがかかっているからである。

戦国大名は、

家来として臣従する領内の武士たちの団結した総意に擁立されて、権力の座についており、

それを、

一揆結合による推戴、

とされる。たとえば、島津友久ら嶋津一族が連署した、

一揆契約状、

には、

談合の時心中を残さず述べるべきである、

という一項があるが、それは蓮如の、

わが心中をば同行のなかで打ち出しておけ、

という言葉にも通じ、さらにそれは、信長の勝家宛ての条書の、

信長の命令を必ず聞く覚悟が大事である。だからといって納得できない命令にへつらって従うようなことをしてはならない。納得できない場合は申し出よ、聞き届け、それにしたがうであろう、

という言葉にもつながる、

一味同前、

という、共通した時代精神のようである。

一味同心、

とは、

揆を一(いつ)にする、

という一揆の、

「通常の手段では対処することのできない困難にぶつかったときに、この『一味同心』の団結によって対処した。」

とされる。それは、村人や土一揆だけではなく、一向一揆にも、国人にも、通底する時代精神であったことが分る。

本書は、戦国時代を、

地下人、

の側から、どう身を守り、どう生き抜いていったかを、従来の戦国武将の視点からではなく描いたところに新しさがある。共通する自立した、

自力救済、

のマインドを描いている。その意味で、

「乱世の芯の主役は戦乱のなかを逃げまどった民衆である、とすら思えてくる。彼らの一人一人が、何かめざましい働きをした、ということはないが、めざましい働きをした戦国大名や一揆、そして天下人を動かしたのは、彼ら民衆ではなかろうか。織田信長や豊臣秀吉、あるいは武田信玄や上杉謙信がいかに偉大だったかを考える以上に、民衆が偉大な彼らにいかに無言の圧力を加えていたかを考える必要があるように思われる。」

という言葉は、戦国時代の、民衆から、村衆・町衆・国衆と、

それぞれの自力救済という層の上に乗った戦国大名、

という実態を考えるとき、重みがある。

参考文献;
神田千里『戦国乱世を生きる力』(ちくま学芸文庫)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

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