2021年07月12日

豪農の暮らし


山本光正『幕末農民生活誌』を読む。

幕末農民生活誌.jpg


本書は、

上総國望陀群大谷村(現千葉県君津市)の朝生家に伝わる日記、

をもとに、幕末の農民の日常生活を書いたものであるが、朝生家は名主を勤めているので、朝生家を中心とした、名主、百姓代、組頭といった、村方三役人層の、豪農の暮らしといった方が正確である。大谷村は、曲折はあったが、寛保二年(1742)以降幕末まで、黒田家三万石の久留里藩領である。

大谷村は、寛政五年(1793)の「明細書書上」によると、

村高二三二石六斗四升六合、

反別は、二四町七畝一九歩、

田、九町九反三畝六歩、
畑、一三町七反一三歩、
屋敷、四反四畝歩、
新高、四九石一斗八升二合(反別五町一反六畝二七歩)、

とある。

家数、五六軒、
人口、二三九人(男112、女127)、僧侶二人、

と小さな村である。

日記は、安政四年(1857)九月から明治二十六年(1893)まで、飛び飛びで、幕末は、安政四年から慶応三年(1867)まで、一年揃っているものはないので、他の年とつなぎ合わせながら、生活を追っている。当主は代々、

八郎兵衛、

を名乗る。安政四年の家族構成は、

八郎兵衛 四七歳、
妻 もと 三九歳、
父 八兵衛 六六歳、
母 かん 六五歳、
長男 卯之助 二〇歳、
長男妻 よね 一九歳、
長女 そめ一六歳、
次男 熊治郎 一〇歳、
馬一疋、

で、当主の、安政四年四七歳から、慶応三年五八歳までの約十年を追うことになる。

八郎兵衛の家では、

綿の栽培から機織りさらに着物の仕立てまでを行っていた。これら一連の作業は商売のためではなく基本的には自家用である。日記には綿摘みから糸紡ぎ・染色・機織り・着物拵え・針仕事が頻繁に記されている、

が、多くの衣類を新たに調達するのは婚礼の時である。たとえば、娘そめの婚礼支度の一部として、木更津まで買い物に出かけ、

上着小袖一反、紺縮緬 銀一二九匁九分、
茶縮緬巾に釈八寸 銀二三匁二分、
浦(裏)紅二丈二尺、銀二六匁四分、
黒朱(繻)子袖口一つ 銀三匁二分、

等々合わせて十両余の買い物をしている。さらに、次男熊治郎の婿入りの支度は、驚くほどである。

「浮絵駿河町呉服屋図」(歌川豊春).jpg

(「浮絵駿河町呉服屋図」(歌川豊春)明和五(1768)年 江戸駿河町・三井越後屋の店内https://www.bunka.pref.mie.lg.jp/MieMu/83010046697.htmより)

八郎兵衛は、江戸の京極氏藩邸内の金毘羅代参鬮に当たり、この代参を利用して熊治郎の衣類などを江戸で調達することにして、妻もとも同道、八郎兵衛が金四十二両二分と錢七百貫文余、もとが金十両余と錢二百貫文を持参して、駿河町越後屋で、

熊治郎祝儀衣類品々、

を、総額三一両一分購入し、続いて、上野広小路の松坂屋で、

唐桟織二反 二両一分一朱と錢一四〇文、

購入、その他、須田町で、

四書と縮緬切れ、

本石町で、

柳行李と脇差、

を購入している。越後屋で購入した反物を、久留里で仕立ててもらうことになるが、それを見ると、

八丈羽織地 一反、但し甲斐絹裏、
鉄納戸小袖表地 一反、
八丈紺地小袖 表地一反、
紺絹裏 二疋但し四反分、
絹ふとり 一反
荢麻(からむし)上下(裃) 一反、
鉄納戸合羽 一反 但し裏しふぞく付、
博多唐織帯 一筋 但し帯芯付、

等々とあり、中に、

荢麻(からむし)上下(裃)、

が含まれており、脇差も含め、

熊治郎の婿入り先は時に裃を着用する家柄、

であったことが分る。

村で行う催事の他、

虫除け(虫追い)、
風除け、
雨乞い、

等々にも、村の中心人物としてかかわる。雨乞いは領主にとっても関心事で、文久元年(1861)日照りがひどく、

六月八日、殿様(九代黒田直和)が浦田村の「妙見寺」(現久留里神社)で雨乞い祈祷を行い、大谷村では一軒に付き一人が代参することになり、四ツ時(午前十時頃)神楽を持参して参詣、帰路村宿エビス屋で御神酒を飲む、八ツ半頃(午後二時)雨が降り、
九日、昼から「御しめり祝」になり、村一同休みとし年寄りは百万遍(百万回の念仏を唱えること)、若衆は村内三社に神楽奉納、
十日、大暑天気、
十一日、御天気、
十二日、大暑御天気、
十三日より三日間殿様が妙見様で雨乞祈祷をするというので、村役人相談のうえ判頭中(各戸の主人)が代参、
十九日には、三度目の殿様による雨乞祈祷が妙見様で行われることになり、朝方から名主を中心に村方の対応が相談され、「男は残らず出、白山様(白山神社)より妙見様へ弁当付にて神楽持参参納」と決まる、
二十日は神楽と百万遍(念仏)、
二十一日は若者の「千垢離(せんごり)」(何度も水垢離をとる)、
二十四日は殿様の四度目の雨乞祈祷を愛宕神社で行い、村中の家主・若者総出で七つ半時(午前五時頃)に村を出立し、愛宕神社に参って神楽を奉納、三社に百万遍を奉納。夜に入って若者中が山神社へ籠り雨乞祈願、
二十五日、若者たちは天王様へ巡行、
二十七日、上々天気、相模の大山へ雨乞いのため二名を代参に出す、
七月一日、藩主より各村が妙見様と愛宕様に雨乞を祈祷するよう命ずる。大谷村では一軒一人が代参に出かけ、村内では神楽と百万遍、
三日、大山代参が帰村、
四日、雨降り、
五日、村一同「御しめり祝」になり、一軒一人代参を出し、白山様、愛宕様、妙見様の村内三社に詣でる、

と、ようやく雨も本降りとなって、雨乞が終わる。各国との修好通商条約締結後、幕府にとって多難なこの年である。開国も、外国も、此処では雨乞いには勝てないのである。

さらに、元治元年(1864)も、七月一日すでに晴天がつづいていたようで、藩主は三日間妙見様で護摩祈祷を行うことになった。(中略)殿様の祈祷に対し、村方は一軒につき一人が代参することになり、名主である八郎兵衛は村方が妙見様へ代参する旨を役所に届け、四つ時(午前一〇時頃)村方の者を同道して妙見様に参詣している、

とある。それにしても、この元治元年は、将軍家茂が入京し、この七月には、蛤御門の合戦が起きているときである。この村の住民からは、いや、藩庁にも、幕末という時代も、その危機感もほとんど感じさせないのである。

唯一江戸幕府の動向が垣間見えたのは、安政五年(1858)の、

鳴物停止、

である。これは将軍家定薨御に伴い、藩から出された禁令であった。これだけである。

翌安政六年(1859)には、八郎兵衛が名主退役届を出し、伊勢・金毘羅参詣の旅に出ようとするのである。安政大獄の最中であるが、藩にも、当人にも、また、旅の途中にも、そうした危機をうかがわせる記述は、彼の『道中日記』には、どこにも見られない。いわば、社会の構造自体が大揺れの中、片田舎では、名主だけではなく、藩庁も、役人も、あるいは下々の一般の生活も、普段と変わりなく過ぎていく、というのが、驚異である。とりわけ、多くの名主・庄屋層が、時代に危機感を感じていたのは、『夜明け前』を繰るまでもないのだが、此処には、そうしたことは片鱗もうかがえない。かえって、それが興味深い。

なお、幕藩体制下の農民、ないし農村社会のありようについては、

藤野保『新訂幕藩体制史の研究―権力構造の確立と展開』http://ppnetwork.seesaa.net/article/470099727.html
渡邊忠司『近世社会と百姓成立』http://ppnetwork.seesaa.net/article/464612794.html
菊池勇夫『近世の飢饉』http://ppnetwork.seesaa.net/article/462848761.html
深谷克己『百姓一揆の歴史的構造』http://ppnetwork.seesaa.net/article/474047471.html
水林彪『封建制の再編と日本的社会の確立』http://ppnetwork.seesaa.net/article/467085403.html
速水融『江戸の農民生活史』http://ppnetwork.seesaa.net/article/482114881.html?1624300693

でそれぞれ触れた。

参考文献;
山本光正『幕末農民生活誌』(同成社)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

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