2021年08月01日
しび
「しび」は、
鮪、
と当てる。
マグロの成魚、
を指す(広辞苑)。「まぐろ」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/451639508.html)で触れたように、成長の度合いに応じて、「まぐろ(ホンマグロ・クロマグロ)」は、
かきのたね(稚魚)、
メジ(30~60センチの幼魚)、
シビ(成魚)、
等々という呼び名があるが、その呼び名は多様、たとえば、東京では、
コメジ(マグロの子)→メジ(4キロ~5キロ)→大メジ(7.5キロ)→チューボー(11~18キロ)→コマグロ(37キロ近く)→マグロ(56キロ以上)→大マグロ(それ以上)、
といい(たべもの語源辞典)、他に、
ヨコ・ヨコワ・メジ(幼魚)→ヒッサゲ・大メジ・チュウボウマグロ(20kg前後~40kg前後)→クロマグロ・クロシビ(大きな成魚)、
とか(https://www.olive-hitomawashi.com/column/2018/01/post-828.html)、
カキノタネ→ガンパァ、デンプク、シビコ→メジ、コメジ、マメジ、大メジ→チュウボウ(中鮪)、ダルマ→マグロ、
とか(http://www.tcs-net.ne.jp/~webm/sawada/maguro.html)等々、様々な名を持つ。
「しび」も、クロマグロ以外、
マグロ・ビンナガ・キハダ・メバチなどの類(岩波古語辞典)、
キハダ・ビンナガの別名(デジタル大辞泉)、
(沖縄で)メバチの別名(広辞苑)、
(行き・気縄で)ビンナガの別称(仝上)、
でもある。「しび」は、縄文時代の貝塚からマグロの骨が出土し、
大魚(おふを)よし斯毘(シビ)突く海人よ其が離(あ)れば うら恋しけむ志毘(シビ)突く志毘(古事記・歌謡)、
と詠われ、「大魚よし」は「鮪」の枕詞とされるほど、古い(岩波古語辞典)。これほどの大きな魚は、まとめて、
しび、
といっていたのかもしれない。「しび」の語源は、
繁肉(ししみ)の約転(大言海)、
「シビ(脹れる意)」です。よく肉ののった魚の意(日本語源広辞典)、
シシベニ(肉紅)の義(日本語原学)、
煮ると白くなるところからシロミ(白身)の義(名言通)、
ときによりシブイ(渋い)味がしてしびれるところから(本朝辞源)、
等々とあるが、「まぐろ」と限定している気配はない。
「まぐろ」は、
鮪、
黒漫魚、
金鎗魚、
眞黒、
𩻩、
等々と当てられ、
眼が黒いことから「眼黒(まぐろ)」とする説
と、
背が黒く海を泳ぐ姿が真っ黒な小山に見えることから「真黒(まぐろ)」とする説、
とがある。大阪では、
マグロをメグロと呼んでいる、
とか、滝沢馬琴編纂『兎園小説余禄』に、
天保三年壬辰の春二月上旬より三月に至りて目黒魚(まぐろうお)最下直なり、
とある等々(たべもの語源辞典他)からみて、「目黒」説が有力と思われる。
「しび」は、随筆『慶長見聞集』で、
しびと呼ぶ声の響、死日と聞えて不吉なり、
とするなど、その扱いはいいものとはいえなかったが、それは、「まぐろ」が、
総じて下賤の食用なれど、きわだを上、かじきを中、しびを下とする、
とされ(江戸語大辞典)、
延享(1744~48)の初頃は、さつまいも、かぼちゃ、まぐろは甚下品にて、町人も表店住の者は食する事を恥る躰なり、
とあるなど、江戸で、
マグロは下品なたべもの、
とされたためである(たべもの語源辞典)。天保二年(1831)の『宝暦現米集』に、文政(1818~30)から天保二年までに流行したものとして、
塩まぐろを止て、すき身が売れる、
とある(仝上)。「塩まぐろ」というのは、
魚を三枚におろして皮に庖丁をいれ、塩をたっぷりまぶしてすりこんだもの、
で、
初まぐろ根津へへなへなかつぎ込み、
と(根津は岡場所(私娼地)を指す)川柳で歌われるほど、最下級の魚であった(仝上)。
これを鮨ネタに使い始めたのは、
天保の頃、マグロが非常な大量で江戸市中にだぶついて捨てるような安価だったので、夷屋という鮨屋がマグロ鮨
握ったところ、珍物好きの江戸ッ子の人気になった、
とある(仝上)が、これは赤身で、トロ(http://ppnetwork.seesaa.net/article/453836534.html)は脂肪が多く、
しつこい下品な味、
とされた。
「鮪」(イ)は、
会意兼形声。「魚+音符有(外側を囲む)」。大きく外枠を描いて回遊する魚、または外枠の大きい魚の意、
とある(漢字源)。
参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
2021年08月02日
まくはうり
「まくは(わ)うり」は、
真桑瓜、
と当てる。漢名は、
甜瓜(てんか)、
香瓜(こうか)
他に、
味瓜(あじうり)、
都瓜(みやこうり)、
甘瓜(あまうり)、
梵天瓜(ぼんてんうり)、
唐瓜(からうり)、
麝香瓜、
等々ともいい(広辞苑)、
まくわ、
ふり、
ほぞち(熟瓜)、
いつつのいろ、
等々の名もある(たべもの語源辞典・精選版日本国語大辞典)。古くは、「うり」とは、
まくはうり、
を指した(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%AF%E3%83%AF%E3%82%A6%E3%83%AA)。
約2000年前の弥生時代の遺跡である唐古・鍵遺跡(奈良県磯城郡田原本町)では、土器に付着したウリの種子が見つかっている。橿原神宮外苑(奈良県橿原市)の上代井遺構からはウリの皮が、平城宮跡東方官衙地区(奈良市)からは種が、また西大寺食堂院井戸(奈良市)からは「瓜」と書かれた木簡と種が、それぞれ出土している、
とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%84%E9%87%91%E3%81%BE%E3%81%8F%E3%82%8F)。
「まくはうり」の名は、
二世紀頃から美濃国真桑村(岐阜県真正町、現本巣市)が良品の産地であった、
ことに由来する(仝上・広辞苑)。『嬉遊笑覧』に、
真桑瓜は農州真桑村の種を京都当時辺に栽ゑし故、夫を真桑瓜といひしが、今は一般にしか呼ぶなり、
とあり、
真桑村の種、
由来とする説(嬉遊笑覧・重訂本草綱目啓蒙)もあるが、同じことで、『御湯殿の上の日記』の天正三年(1575)六月二十九日に、
信長より美濃のまくわと申す名所のうりとて、二籠(ふたかご)進上、
とあり、『物類称呼』(1775)にも、
「真桑瓜は美濃国真桑村の産を上品とす、故に名づくとぞ、
とあり、
真桑村の産の物が上質だったから、
とする(塩尻拾遺・安斎随筆・本朝食鑑・箋注和名抄・天野政徳随筆・晴翁漫筆・壺蘆圃漫筆)のでいいようである。
山上憶良の、
瓜食(は)めば子ども思ほゆ栗食めばまして偲はゆいづくより来りしものぞ眼交(まなかひ)にもとなかかりて安眠(やすい)し寝(な)さぬ、
の「うり」も、これである。現在、
まくはうり、
と呼ぶのは、果皮が黄色の、
金マクワ、
を指す(たべもの語源辞典)。
「瓜二つ」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/458844314.html)で触れたように、
和語「うり」は、
朝鮮語ori と同源(岩波古語辞典)、
朝鮮語oi-ori(瓜)と同源(世界言語概説=河野六郎・万葉集=日本古典文学大系)、
とする説もあるが、
潤(うる)に通ず(あるく、ありく)。實に光澤あり(大言海)
ウルオウ(潤)の変化(日本語源広辞典)、
等々、水分の多さから来ているとしている説は多い。他にも、
ウルミ(熟実)の意か(東雅)、
口の渇きをウルホスより生じた語か(名言通・和訓栞)、
ウム(熟)ランの反(名語記)、
とあるが、そのみずみずしさの感覚から来た、と見たい。
「瓜」(漢音カ、呉音ケ)は、
象形文字で、
蔓の間にまるいうりがなっている姿を描いたもので、まるくてくぼんでいる意を含む、
とある(漢字源)。
(「瓜」 金文・戦国時代 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%93%9Cより)
なしの皮は下司にむかせろ、うりの皮は大名にむかせろ、
とか、
うりの皮は大名にむかせよ、柿の皮は乞食にむかせよ、
等々という諺がある(たべもの語源辞典・故事ことわざの辞典)。「うり」の皮は、厚めに向いたのが美味とされた。
参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
2021年08月03日
おちゃをひく
「おちゃをひく」は、
お茶を引く、
あるいは、
お茶を挽く、
と当て、
お茶引き、
お茶っ引き、
ともいう(江戸語大辞典)。
「おちゃっぴい」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/437429337.html)で触れたように、「おちゃっぴい」には、
(「おちゃひき」の転)働いても金にならないこと、
多弁で、滑稽な真似をする娘、おませな小娘、
の意味があり(広辞苑)、「おちゃっぴい」を、
おちゃひきの促訛、
とし、
お茶をひいた芸娼妓、売れ残った芸娼妓、
から来たとする説があった(江戸語大辞典)。
で、「おちゃをひく」は、
遊女や芸妓が客がなくひまで遊んでいる、
という意味とされ(広辞苑)、これが、
芸者、芸人などにも映りて云ふ、
と(大言海)、広がった。この由来には、いくつもの説がある。
暇なときには、葉茶臼にかけて粉にする仕事をしていたから(広辞苑)、
遊女が、客のないときに茶臼(ちゃうす)で葉茶をひく仕事をさせられたところから(デジタル大辞泉)、
売れ残った女郎に罰として茶をひかせたことから。また茶は静かにひくので居眠りが出る。遊女の売れ残りも暇で眠気に見えるので、戯言(ざれごと)でいったもの(麓の色)、
芸娼妓が客がなくて遊んでいることをいう。もとは留守番をしているものが茶を挽く習慣があったから(隠語大辞典)、
等々は代表的だが、
お茶を挽いた妓は大赦にあうた罪人をみるやうなここちで(娼妓絹籭(しょうぎきぬぶるい))、
お茶を引きても苦にせず(まさり草)、
などの例を見ると、開店休業状態の意のように見える(岩波古語辞典・広辞苑)。
茶を留守居の者に挽かせる習いがあり、茶を挽くといえば寂しい様子を連想するようになったところから(嬉遊笑覧)、
も同趣旨だろう。少し変形は、
湯女の、客なき者、客に供すべき散茶(ちらし)を碾きしに起こるとおぼしく、湯女の、新吉原に入りて、遊女となりしより(散茶(さんちゃ)と呼びき)、遍く行はるるやうになれるとなるべし(大言海)、
で、「散茶」とは、
ひいて粉にした茶、
つまり、
粉茶、
のことで、
散茶女郎、
というのがあり、
吉原の遊女の階級で、太夫・格子に次ぎ、梅茶の上、
とされ(広辞苑)、
昔、通常飲むお茶は、茶葉を袋に入れてそれを湯の中で振って抽出したが、散茶はそのまま湯を足すだけで飲めるため、「袋を振る必要がない=振らない=客を断らない」という意味で、散茶女郎と呼ばれた、
とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%95%A3%E8%8C%B6%E5%A5%B3%E9%83%8E)。
しかし、「茶を挽く」については別の説があり、
娼妓などの、客なくして休業することなり。これ徳川時代の初に、評定所に遊女を召し、茶弁当の給仕せしむ。爲に遊女、休業して、其の進むべき茶を挽きしに起こると云ふ(大言海)、
評定所の給仕をした吉原町の遊女が、前日から客を取らないで休み、茶などを挽かねばならなかったところから出た語(江戸づくし稿)、
等々とある。これだと、「茶を挽く」のは、客がないからではなく、公儀の御用の爲ということになる。
古の遊女は茶の湯の嗜みがあり、歴々の茶のお相手をしたので、それに召されず暇な傾城をこういうようになった(異本洞房語園)、
吉原の遊女の太夫が月に1回お奉行様にお茶を入れに行っていました。お奉行様の前で展茶(抹茶)を引くところから「お茶をひく」になり、そのとき太夫は商売が出来ないわけで、「お茶をひく」が暇をこいてるになった(http://www.ocha.tv/varieties/nihoncha_varieties/maccha/)
等々も、御上の御用で休業という意味では同趣になる。しかし、この場合、「お茶を挽く」のもつ、ちょっとみじめな含意はない。その他に、
大名お抱えの盲芸人が暇なときに茶を臼で挽いていたことから(岩波古語辞典)、
昔、中国で妃たちに主君が茶を献じさせ、夜伽の番を決めたもので、お茶を主君が召しあがった者がその夜の撰に入り、お茶を引いた者はその撰にもれたことから(ことばの事典=日置昌一)、
等々もある。後者の例は、
昔、支那で宮中に仕へるあまたの美妃が茶を献じて夜伽の番が決る。即ち茶を献じ得た者が其の夜の撰に入り、茶を引いた者が撰に洩れた。夜伽の番に当らないこと。客が無く張店を引く娼妓、座敷に招かれぬ芸者を、現今お茶を引いたといふ、
と付会する説もある(隠語大辞典)が、「お茶を引いた」というのは、「挽く」とは別の意味になる。
どれが妥当かは判別できないが、
元来、遊里のみにいう語にあらず、茶を挽くには平静閑暇の時をたっとぶところから、転じて徒然閑寂の意となり、これが遊里にはいったのであろう、
とあり(江戸語大辞典)、
茶の湯を習ふたしるしがあつて御茶ばかりひいているゆへか、どふやらにがい顔色(明和七年(1770)「蕩子筌枉解」)、
の用例もあり、遊里の言葉と限定するのは難があるのかもしれない。
「茶」(慣用チャ、唐音サ、漢音タ、呉音ジャ)は、
会意兼形声。もと「艸+音符余(のばす、くつろぐ)」。舒(ジョ くつろぐ)と同系で、もと緊張をといてからだをのばす効果のある植物。味がほろにがいことから、苦荼(クト)ともいった。のち、一画を減らして、茶と書くようになった、
とある(漢字源)。
「荼」(漢音ト、呉音ド)は、
会意兼形声。もと「艸+音符余(のばす、ゆるやかにする)」。からだのしこりをのばす薬効のある植物のこと。のち、一画を省いて茶と書き、荼(にがな)と区別するようになった、
とある(漢字源)。別に、
もと、荼(ト)に同じで、のげし、ちゃの意を表したが、のちに荼と区別して、「ちゃ」にはもっぱら省略形の茶を用いるようになった、
とも(角川新字源)、
(「茶」 成り立ち https://okjiten.jp/kanji141.htmlより)
会意兼形声文字です(艸+余の省略形)。「並び生えた草」の象形(「草」の意味)と「先の鋭い除草具」の象形(「自由に伸びる」の意味)から、伸びた新しい芽を摘(つ)んで飲料とする「ちゃ」を意味する「茶」という漢字が成り立ちました、
ともある(https://okjiten.jp/kanji141.html)。
なお、「茶」には、「茶々を入れる」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/440686901.html)で触れたように、「茶化す」「茶々を入れる」「ちゃらかす」「ちゃにする」等々といった、
おどける、
ふざける、
という含意がある。「茶」の項自体、
遊里用語、交合、
人の言うことをはぐらかすこと、
ばかばかしい、
という意味が載り(江戸語大辞典)、それを使った、
茶に受ける(冗談事として応対する)、
茶に掛かる(半ばふざけている)、
茶に為る(相手のいうことをはぐらかす、愚弄する)、
茶に成る(軽んずる、馬鹿を見る)、
茶を言う(いい加減なことを言う)
等々という使われ方を載せていて、
ちゃかす(茶化す)、
はその流れにある。その含意の延長線上に、
「お茶を濁す」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/453997241.html)、
「茶目」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/453974476.html)、
「臍で茶を沸かす」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/441330515.html)、
「茶々を入れる」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/440686901.html)、
「お茶の子」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/451394732.html)、
「茶番」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/435545540.html)、
「ちゃら」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/439115094.html)、
等々の言葉がある。「お茶を挽く」にも、どこかそんな「からかう」含意があるような気がしてならない。
参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
前田勇編『江戸語大辞典 新装版』(講談社)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
2021年08月04日
おっしゃる
「おっしゃる」は、
仰る(デジタル大辞泉)、
仰しゃる(広辞苑)、
被仰る(大言海)、
等々と当てる。
言うの尊敬語、
仰せられる、
という意である。命令形と、「ます」のつく連用形は、
おっしゃい、
となる(広辞苑)。
仰有る、
とも当てる(デジタル大辞泉)ので、
オオセアルの約、オオシャルの約(広辞苑)、
仰せらるの約、おっしゃるの急呼、四段活用に転ず、イラセラルルの、イラッシャルとなると同じ(大言海)、
仰せ+ラルの変化(日本語源大辞典)、
御仕遣(おしゃる)の意(新編常陸国誌=中山信名)、
とあり、
仰せ+ある(有)説、
と
仰せ+らる説、
に分かれる。どちらとも決めがたく、
室町時代に現われた「おしゃる」(「おほす」+「やる」)が、江戸時代に「おっしゃる」となったとする説がある一方、二つとも同時的に例があるため共に「おほせある」また、「おほせらる」からと見る説もある。成立時期は、近世前期と見られる、
とある(日本語源大辞典)。
もとになった、
おほす(おおす)、
は、
仰す、
課す、
負す、
と当て(岩波古語辞典)、
オフ(負)の古い他動詞形。人に背負わせる意が原義。転じて、人に課し命じる意。さらに転じて貴人が名を付ける意、
とある(仝上)。
上位者が命令して負わせる、
意である(日本語源広辞典)。
仰す、
は、
命令を相手に背負わせる意(広辞苑)、
命令を負(おほ)する意(大言海)、
で、
言いつける、
意となる。
おほす(負)、
は、
背に負わしむ、
おほす(課)、
は、
徴す、
課す、
となる。「おほす」には、
生す、
と当て、
生(お)ひしむ、
もある(大言海)。
山吹は撫でつつ於保佐(おほさ)むありつつも君来(き)ましつつかざしたりけりおほしむ(万葉集)、
と、
これも、「おほす」の流れにあるように感じる。
「おっしゃる」は、言うの尊敬語には違いないが、「仰す」の原義「負ふ」のもつ、上の者が下の者に背負わせる、という含意が底流しているように感じられる。
「仰」(漢音ギョウ、呉音ゴウ、慣用コウ)は、
会意兼形声。卬(ギョウ あおぐ)は、高くたって見下ろす人と低くひざまずいて見上げる人との会意文字。仰はそれを音符とし、⇆の方向にかみ合う動作を意味する、
とあり(漢字源・角川新字源)、「あおぐ」意である。別に、
会意兼形声文字です(人+卬)。「横から見た人」の象形と「立つ人の象形とひざまずく人の象形」(「立つ人をあおぎ見る(上方を見る)」の意味)から、「あおぐ(頭をあげて見る)」、「見上げる」を意味する「仰」という漢字が成り立ちました、
という解釈もある(https://okjiten.jp/kanji1104.html)。
(「仰」 成り立ち https://okjiten.jp/kanji1104.htmlより)
参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
2021年08月05日
虎が雨
「虎が雨」は、
陰暦5月28日に降る雨、
をいう。
この日曾我十郎が死にそれを悲しんで愛人の遊女虎御前の涙が雨となって降ると伝える、
とある(広辞苑)。
虎雨、
虎の涙雨、
虎が涙、
虎少将の涙雨、
曽我の雨
ともいう(雨のことば辞典)。
赤穂浪士の討ち入り、
伊賀越えの仇討ち、
と並ぶ、
曾我兄弟の仇討ち、
に因む(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9B%BE%E6%88%91%E5%85%84%E5%BC%9F%E3%81%AE%E4%BB%87%E8%A8%8E%E3%81%A1)。『吾妻鑑』28日条に、
曽我十郎祐成(すけなり)・同五郎時致(ときむね神野の御旅館に推參し工藤左衛門尉祐経(つけつね)を殺戮す、
とある(仝上)。祐経を討ち果たすが、兄祐成は、戦いの最中討ち取られ、弟時致は捕らえられ、翌日処刑された。以来、命日には、虎御前の悲しんで泣く涙雨が降ると伝えられる。この日付は、
太陽暦の月遅れでいうなら6月28日に当たり、東京の雨の特異日として知られる、
とあり(雨のことば辞典)、一年で最も雨の降りやすい日となっている、という(仝上)。
この日は、必ずしも曽我兄弟の伝承とは関わるものではなく、この日を、
牡丹餅祈祷、
などと称して祭る所もあり、この日までに田植えを終えるものとして、
さのぼりの日、
とするところも多い(日本伝奇伝説大辞典)、とある。「さのぼり」とは、
早上り(サは稲の意)、
と当て(広辞苑)、
田植えがすんだ祝い、
たとえば、
田植えが終わって田の神を送る行事、または、そのときに行う飲食の行事のこと、
をいい(https://www.vill.higashishirakawa.gifu.jp/syoukai/gaiyo/archive/gyouji/june/?p=7)、
田の神には、きれいに洗った早苗三把と神酒、五目飯や朴葉寿司などを供えて祭り、田植えが終了したことを感謝します。そして、巡り来る秋の豊かな実りを願って、山へ帰る田の神を送る、
とある(仝上)。
さなぶり、
しろみて、
ともいう(広辞苑)。「さのぼり」の逆が、
さおり(早降り サは稲の意)、
田植えを始める日の祝い、
になる(仝上)。
早苗饗(さなぶり)、
という呼び方は、東北や関東に多く、四国や九州では、
早昇(さのぼり)、
と北陸、山陰、山陽では、
代満(しろみ)て、
という、とある(https://www.vill.higashishirakawa.gifu.jp/syoukai/gaiyo/archive/gyouji/june/?p=7・デジタル大辞泉)。
この日は、田の神、水の神に感謝して神送りする祭日、
と考えられていたが、
御霊(ごりょう)送り、
とも響き合い、曽我御霊の伝承と結びついた(日本伝奇伝説大辞典)という見方がある。たとえば、
御霊の音が似ているために「五郎(ごろう)」の名を冠したものも多く見られ、全国にある五郎塚などと称する塚(五輪塔や石などで塚が築いてある場合)は、御霊塚の転訛であるとされている。これも御霊信仰の一つである、
とされる(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E9%9C%8A%E4%BF%A1%E4%BB%B0)。柳田國男は、曾我兄弟の墓が各地に散在している点について「御霊の墓が曾我物語の伝播によって曾我五郎の墓になったのではないか」としている(仝上)。奥羽南部地方では、「虎が雨」の日、
三粒でも雨が降ると、曽我の雨といって、曽我五郎が苗代を踏み荒らすといい、それを防ぐために苗じるしの竹を立てる、
とある(雨のことば辞典)。まさに、五郎は御霊と化している。
(虎が雨の中の虎御前(歌川国貞「美人東海道 大礒之図」) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%99%8E%E5%BE%A1%E5%89%8Dより)
ところで、『吾妻鏡』によると、虎御前は、
則今日遂出家、赴信濃国善光寺、時年十九歳也、
とあるが、
出家して律師と号していた曾我兄弟の末弟が兄たちに連座して鎌倉へ呼び出され、7月2日に甘縄で自害、
した(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9B%BE%E6%88%91%E5%85%84%E5%BC%9F%E3%81%AE%E4%BB%87%E8%A8%8E%E3%81%A1)、とある。
参考文献;
倉嶋厚・原田稔編『雨のことば辞典』(講談社学術文庫)
乾克己他編『日本伝奇伝説大辞典』(角川書店)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
2021年08月06日
虎石
「虎石」は、
とらいし、
とも、
とらがいし、
と訓ます。「虎が雨」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/482781423.html?1628103511)で触れた、
曽我十郎の愛人であった虎御前が化したもので、美男でなくては持ちあげられないと伝える石、
である(広辞苑)。
虎ヶ石、
寅子石、
虎子石、
等々とも呼ばれる(日本昔話事典)。
(虎が石(葛飾北斎「東海道五十三次 大磯」) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%99%8E%E5%BE%A1%E5%89%8Dより)
本来は、虎の斑点がはいった石や、猛虎が嘯くような形の名石で、
虎斑の石、
と呼ばれる場合もあるが、『曽我物語』の流布によって、虎石といえば虎御前に因ませるものが多い(仝上)。たとえば、
富士の裾野へ仇討ちに赴いた十郎を心配するあまり、大磯の虎御前はこの地にたどりつき、いつまでも富士の裾野の方を眺め暮らし、遂に石と化した(足柄峠の伝説)、
とある(仝上)。『曾我物語』では、虎御前は曾我兄弟の死後、箱根で出家し廻国に出て、熊野その他各地の霊場を巡って兄弟の菩提を弔い曾我の里に帰って一周忌を営み、のちに2人の骨を首にかけ信濃の善光寺に納めたとされる。伝説としては、兄弟を弔って諸国を廻国して没した虎御前をまつったとする虎石も多く、福島県から鹿児島県にまで分布している(仝上・世界大百科事典)。
大磯の「虎石」は、
美男が持てば軽く持ち上がり、醜男では持ち上がらない、
とされるが、長野県上水内郡古里村の「虎御前石」は、
雨乞いの祈願に験ある霊石、
とされ、
雨が降る前兆には石の重さが十倍になる、
という(日本昔話事典)。静岡県富士市厚原の「虎ヶ石」は、
小川の中流にあり、この石を洗って祈願するといかなる病も治癒する、
と伝わり、福島県信夫郡山村では、
大磯の虎がやってきて、この石の面を麦の穂で撫でれば思う人の俤が見えると語った、
と伝わるなど、各地に種々の伝承がある。これらは、古の、
石占、
の面影を伝える、とする(仝上)。「石占」とは、
石の長さや重さをもって神意を問うもの、
で、
特定の行法をもつ巫女が従事した、
とされる。霊山の麓などに、
廻国行脚の比丘尼が石に化した、
と伝える、
姥石、
の伝説と重なるものと思われる(仝上)。だから、
各地に虎御前や曽我兄弟の墳墓が多く見られるのも、石占を職業とする多数の巫女の足跡を示すもの、
と推測されている(仝上)。『本朝神仙伝』や『元亨釈書』には聖山の禁を犯して吉野山に登ろうとした都藍尼(とらんに)の伝説を伝え、高野山、立山、白山にも同様な都藍尼の登山の伝説があることからすると、虎石、虎ヶ塚などの遺跡は、本来、
トラ、トラン、トウロなどと称された廻国の巫女の足跡、
ではないかと考えられている(仝上・世界大百科事典)。
虎ヶ塚、
虎小路、
虎石塚、
等々、大磯の虎石や曾我兄弟と無関係なものが結びつけられているが、
巫女石、
比丘尼石、
女房石、
遊女石、
等々とも呼ばれ、
結界の禁を破ったために石に化した、
とされる。こうした「姥石」の伝承に、『曽我物語』の流布によって虎越前に結びつけられたもののようである。
因みに、「都藍尼」(とらんに)とは、
「本朝神仙伝」によれば、大和吉野山の麓にすみ、仏法を学ぶとともに仙術も習得。女人禁制とされていた女人禁制の金峰山(きんぷせん)に、自分の術の力でのぼってみせるといい、挑戦するが、雷にあうなどしてはたせなかったという、
とある(日本人名大辞典)。同様の話は、
白山の融の姥(とおるのうば)、
立山の止宇呂(とうろ)、
等々とあり、たとえば、富山県中新川郡立山町では、
若狭小浜の尼僧が女人結界を犯し、伴った姉は杉と変じて美女杉となり、童女が恐れて進まないのを罵ったため、この尼僧の額には角が生え、石と化した、
とか、長野県上水内郡戸隠村では、
女人禁制の山に尼僧が登ったため石に化し、比丘尼石になった、
等々の伝承は、立山、戸隠などの霊山に残り、多くは、前述の、
トラ、トラン、トウロなどと称された廻国の巫女の足跡、
と重なるように、
登宇呂(とうろ)、
融(とおる)、
という尼僧とされるケースが多い(日本昔話事典)。いずれも、
禁制を犯して立ち入ろうとした女性が石と化した伝説、
となっている。虎石伝説は、こうした比丘尼伝説、姥石伝説の上に上書きされた感じである。
参考文献;
稲田浩二他編『日本昔話事典』(弘文堂)
乾克己他編『日本伝奇伝説大辞典』(角川書店)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
2021年08月07日
進化としての「死」
小林武彦『生物はなぜ死ぬのか』読む。
本書は、
そもそもなんで生き物は死ぬのか?
について、生物学の視点から考えていこうとしている。結論は、
死は生命の連続性の原動力、
つまり、
「生き物にとって死とは、進化、つまり『変化』と『選択』を実現するためにあります。『死ぬ』ことで生物は誕生し、進化し、生き残ってくることができたのです。」
ということになる。たとえば、
「化学反応で何かの物質ができたとします。そこで反応が止まったら、単なる塊です。それが壊れてまた同じようなものを作り、さらに同じことを何度も繰り返すことで多様さが生まれてきます。やがて自ら複製が可能な塊ができるようになり、その中でより効率良く複製できるものが主流となり、その延長線上に『生物』がいるのです。生き物が生まれるのは偶然ですが、死ぬのは必然なのです。壊れないと次ができません。」
というように。そのキーワードとして、本書で繰り返し出てくるのは、
ターンオーバー、
である。
turn over、
生まれ変わり、
である。言い換えると、
作っては分解して作り変えるリサイクル、
である、と著者は言う。
全ては常に生まれ変わり、入れ替わっていく、
これこそが、
進化、
であり、
遺伝子の変化と絶滅(=死)による選択が、……多様性を支えている、
のである。それを、
変化と選択、
というキーワードで著者は、生物絶滅を例に挙げる。
「現存している生き物は、DNAを遺伝物質としてタンパク質を合成するといったシステムが共通しているので、元となったオリジナルの細胞は1つだと考えられます。」
とある。つまり、
「最初はたった1つの細胞が、偶然、地球に誕生した」
ところから、今日の地上の多様な生き物へとつながったと考えられている。たとえば、著者は、
「その最初に誕生した1つの細胞(生物)の周りには、たくさんの『試作品』的な細胞(のようなもの)がありました。それらの試作品は、惜しいところで細胞にはなれませんでしたが、もしかしたら別の環境では細胞として成立したかもしれません。原始の細胞は、徐々に存在領域を広げていき、その中で効率よく増えるものが『選択』的に生き残り、また、『変化』が起こり、いろんな細胞ができ、さらにその中で効率よく増えるものが生き残る。この『変化と選択』が繰り返されてきました。」
と推測する。多細胞生物が誕生した10億年前から、五回、生物の、
大量絶滅、
が起きており、現在人間に起因する、
大絶滅、
が進行中といわれる。恐竜の絶滅で哺乳類の時代になったように、現在の絶滅の時代にも、数百万年もかかる変化の中で、
「新しい地球環境に適応した新種が現れて、地球の新しい秩序ができあがっていく」
が、そこに人類が生き残れるかどうかはわからない。それもまた、
変化と選択、
の一つに過ぎない。
「地球全体で見れば、全ての生物は、ターンオーバーし、生と死が繰り返されて進化し続けています。生まれてきた以上、私たちは次の世代のために死ななければならないのです。」
という言葉に、生き物を俯瞰してみたとき、長いスパンの中で、
死があるからこそ、変化があり、進化がある、
と思い知るのである。
参考文献;
小林武彦『生物はなぜ死ぬのか』(講談社現代新書)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
2021年08月08日
石
「石」は、岩石の意だが、
岩より大きく、砂より大きい鉱物質のかたまり、
とある(広辞苑)。ある意味、
何らかの原因で岩が割れていくらか小さくなったもの、
であり、小さな石は、
小石、
石より小さいが砂よりも大きいのは、
砂利、
などと呼ばれる(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3)、ともある。ありふれた物なので、
木石、
の意で、
濡れ事かいもく石じゃ(評判・役者大鑑)、
と、
くだらないもの、
の意で使うが、
石頭、
のように、
融通の利かないものの喩えにも使うし、
石下戸、
というように、
まったく、からっきし、
の意でも使う(広辞苑・岩波古語辞典)。「石」にまつわる諺も多い。
石に立つ矢、
石にかじりついても、
石の上にも三年、
のように、
固い意思の意で使うこともあるが、
石が流れて木の葉が沈む、
石に花咲く、
のように、
ありえないことの喩えにも、
石に灸、
石に謎をかける、
と、無益な意にも、
石で手を詰める、
と、進退窮まる意にも使う(広辞苑・故事ことわざの辞典)。
和語「いし」は、
イサゴ(砂=石子)・イソ(磯)・イスノカミ(石の上)・イシ(石)の、isago、iso、isu、isiに共通なis-という形が「石」の意の語源であろう(岩波古語辞典)、
というのが一番説得力がある。たとえば、「いさご」は、
砂、
砂子、
と当て、
微小な石、
つまり、
すなご、
とある(仝上)。新撰字鏡には、
磣、石微細而随風飛也、伊佐古(いさご)、又須奈古(すなこ)、
とある(仝上・大言海)し、「いそ(磯)」も、
石の轉なり、石をイソとも訓む(大言海・和訓栞・俚言集覧・南留別志)、
イソ(石)から出た語(万葉集講義=折口信夫)、
イソ(石添)の義(桑家漢語抄・和句解・日本釈名)、
イソ(石所)の義(言元梯)、
等々「いそ(磯)」を石」と絡める説は多いのである。「いしのかみ(石の上)」は、
いそのかみ(石の上)、
ともいい、「旧(ふ)る」「降る」にかかる枕詞として使われ、「いし」「いそ」が、転訛しやすい証に見える。他の説に、
イは発語の詞。シは沈むの意(仙覚抄)、
イは発語。シは下の意(東雅・和訓栞・言葉の根しらべの=鈴木潔子)、
イは発語。シはシメ(締)の略(名言通)、
等々、「イ」を発語とする説が多いが、「シ」の説明がこじつけに見える。
「い」は「岩」、「し」は小さいもの表し、岩の小破片から生じた語(語源由来辞典)、
は、説明になっていない。それなら、
イワの小断片だから、イシ(日本語源広辞典)、
の方が、「いわ(岩)」を、
イワ(ハ)、イシ、イソなどのイに、岩石関連の語根がある(仝上)、
とセットにしてみると、「いわ」も「いし」と関わることがわかって、説得力がある。
イと小の義をもつシとを結んで、岩の小破片から生じた物の名とした語(国語の語根とその分類=大島正健)、
も同趣旨である。こう見ると、「いし」が「いそ」「いわ」「いさご」と関わる言葉だということが、一層はっきりとしてくるように思われる。どうやら、
is-
が、関連語に共通する「語根」に思える。
(「石」 甲骨文字・殷 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%9F%B3より)
「石」(漢音セキ、呉音ジャク、慣用シャク・コク)は、
象形。崖の下に口型のいしはのあるさまを描いたもの、
とある(漢字源)。
象形、「厂」(カン:崖)+「口」(いしの形)、山のふもとに石が転がっているさまを象る(『説文解字』他通説)。会意、「厂」(崖)+「口」(祭祀に用いる器)(白川)、
とあるのも同趣旨(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%9F%B3)である。
参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
2021年08月09日
岩
「岩」は、
磐、
巌、
とも当てる(広辞苑)。
岩石、
の意だが、
石の大きいもの、特に加工せず表面がごつごつしているもの、
とある(仝上)。ただ、「いは(わ)」は、
石、
も当てている(岩波古語辞典)ので、大きさは相対的な意味しかないように見えるが、古事記に、
訓石、云伊波、
とあり(大言海)、和名抄に、
磐、大石也、以波、
とある(仝上)ので、「石」と「磐」を、大きさで区別していたのかもしれない。
「石」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/482824936.html?1628363773)で触れたように、「石」は、
イワ(ハ)、イシ、イソなどのイに、岩石関連の語根がある、
とあり(日本語源広辞典)、和語「いし」は、
イサゴ(砂=石子)・イソ(磯)・イスノカミ(石の上)・イシ(石)の、isago、iso、isu、isiに共通なis-という形が「石」の意の語源であろう(岩波古語辞典)、
とされるので、「いわ」の語根「イ」も、「いし」の、
is-
とのつながりが想定される。その意味で、「いわ」について、
イは接頭語。ハはホ(秀)から分化した語か。山の石すなわち岩の意で、磯の石すなわちイシに対する語(日本古語大辞典=松岡静雄)、
ハはハフ(延)の同義語で、拡がっている物を連想させる。その上にイを添えて、具体的に己が思想に浮かんでいる物の名とし、はじめて岩という語となる(国語の語根とその分類=大島正健)、
等々の諸説の「イ」も、「接尾語」ではなく、別の視界で見えてくるかもしれない。
ただ、「岩」「巌」「磐」は、
いはほ(いわお)、
とも訓ませる(広辞苑・大言海・岩波古語辞典)。ために、「いわ」の語源に、
イハホ(石秀)の略言(和句解)、
という説がある。「いはほ」については、
岩秀(いはほ)の義(大言海)、ホは秀出の意(古事記伝・言元梯・和訓栞)、
ホは穂の意(広辞苑)、
とあるので、むしろ、「いは」という言葉があって、それに「ほ」をつけて「いはほ」としたと見た方が自然な気がする。
「岩」はまた、
依代、
でもあり、神霊の代わりとして祀り、
磐座(磐倉・岩倉 いわくら)、
神籬(ひもろぎ)、
として信仰の対象とされた。
(山ノ神遺跡(奈良県桜井市) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A3%90%E5%BA%A7より)
そうしたことの名残りか、岩にはいろいろの奇瑞(きずい)伝説がつきまとっている。
おらび岩、
鸚鵡(おうむ)岩、
呼ばわり岩、
等々、この岩に向かって呼びかけると山彦となって返ってくるといわれている。
雨乞(あまご)い、
に効果のあるという岩石も各地にある。長野県南佐久郡田口村(現佐久市)の、
雨乞岩、
は天狗がいるといわれ、ここで雨乞いをする。同県東筑摩郡広丘(ひろおか)村(現塩尻市)には田川の水流の中に、
雨降石、
というのがあり、この石を動かすと雨が降るという(日本大百科全書)。
(天穂日命の神籬(六甲山) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E7%B1%ACより)
「岩」(漢音ガン、呉音ゲン)は、
会意。「山+石」。もと「巌(巖)」の俗字、
とある(漢字源)。別に、
会意文字です(山+石)。「連なった山」の象形と「崖の下に落ちている、石」の象形から、山を形成する「いわ」を意味する「岩」という漢字が成り立ちました、
ともある(https://okjiten.jp/kanji111.html)。
(「岩」 成り立ち https://okjiten.jp/kanji111.htmlより)
「巌(巖)」(漢音ガン、呉音ゲン)は、
会意兼形声。厳(嚴)の下部は、「厂(崖)+音符敢(カン)」の形声文字で、角だった崖のこと。嚴はそれに口二つを添えて、角張って厳しい言行を示す。巌は「山+音符嚴(ゲン)」で、いかつい岩。岩とまったく同じ、
とある(漢字源)。
別に、
会意形声。元字の巖は、「山」+音符「嚴」(ごつごつしたもの)であり、その略字体である「岩」は、「山」+「石」の会意、
ともある(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%B2%A9)。「嚴」(ごつごつしたもの)の意がわかりやすい。さらに、
会意兼形声文字です(山+厳)。「連なった、やま」の象形(「山」の意味)と「口の象形×2」(「きびしくつじつまを合わせる」、「きびしい」の意味)から、厳しい山を意味し、そこから、「高い」、「険しい」、「いわお」を意味する「巌」という漢字が成り立ちました、
との解釈もある(https://okjiten.jp/kanji2431.html)。
(「巌」 成り立ち https://okjiten.jp/kanji2431.htmlより)
「磐」(漢音バン、呉音ハン)は、
会意兼形声。「石+音符般(ハン 平らに広げる)」、
とある(漢字源)。「岩」ではあるが、「盤石」というように、「平らに大きくすわった石」の意がある。
別に、
会意兼形声文字です(般+石)。「渡し舟の象形と手に木のつえを持つ象形」(「大きな舟を動かす」、「大きい」の意味)と「崖の下に落ちている、いし」の象形から、大きい石「いわ」を意味する「磐」という漢字が成り立ちました、
との解釈もある(https://okjiten.jp/kanji2618.html)。
(「磐」 成り立ち https://okjiten.jp/kanji2618.htmlより)
参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
2021年08月10日
磯
「磯」は、
礒、
とも当てる。
浜つ千鳥浜よは行かず伊蘇(イソ)伝ふ(古事記)、
と、
海・湖などの水際で、石の多いところ、
あるいは、
伊蘇(イソ)の間(ま)ゆたぎつ山川絶えずあらば又もあひ見む秋かたまけて(万葉集)、
と、
水中から露出している岩石、
と意で(広辞苑)、
岩石で構成された海岸のこと、
とあり、
砂浜海岸、
と対比される、
岩石海岸、
のこととあり(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A3%AF)、
磯場(いそば)、
磯浜、
等々という、とある(仝上・世界大百科事典)。
岩礁性の海辺は、海藻をはじめ魚介類のかっこうの生息地となり、また砂浜に比べて海水の透明度が高いところから、古来より、もりややす、あるいはかぎで魚を突くミツキ、カナギ、イソネギなどと各地で呼ばれる磯漁の舞台、
とある(仝上)。
「いそ」に当てる「礒」(ギ)は、
会意兼形声。「石+音符義(かどばる)」、
で、「碕礒(キギ)」というように、
石の貌(字源)、
石の角張って突き出たさま(漢字源)、
をいい、本来、「礒」には、
いそ(磯)、
の意はない。玉篇(中国南北朝時代)には、
磯(キ)、水中の磧(イシハラ)也、本邦の古書に、多く礒の字を用ゐたり。唐韻「礒(ギ)、石巌也」等々あるより通用したるものか、
とあり(大言海)、これは、和語「いそ」の語源がかかわっているように思う。
(磯(犬吠埼) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A3%AFより)
「石」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/482824936.html?1628363773)で触れたように、和語「いそ」は、
イサゴ(砂=石子)・イスノカミ(石の上)・イシ(石)の、isago、iso、isu、isiに共通なis-という形が「いそ」の意の語源であろう(岩波古語辞典)、
とある。「いそ」と「いし」は同根である。だから、「岩のかたち」をいう、「礒」を、「「いそ」と訓ませたのではないか。また、
イシの轉(南留別志・俚言集覧・和訓栞)、
イソ(石)から出た語(万葉集講義=折口信夫)、
ともある。特に、「石」を「イソ」「イシ」と訓むについては、「降る」「振る」に掛かる枕詞、
石の上、
を、
いそのかみ、
とも、
いすのかみ、
とも、
訓ませる(岩波古語辞典)。和訓栞は、「いそ」は、
イシの転なり、石をイソとも讀む(あしこ、あそこ。石上(いそのかみ))、
としている(大言海)。
「いし」も「いそ」も、あるいは「いわ」も、同根と考えると、「いそ」に、
礒、
を当てるのは自然に思える。
イソ(石添)の義(桑家漢語抄・和句解・日本釈名)、
イシソヒ(石添)の義(名言通)、
イソ(石所)の義(言元梯)、
等々も同趣と見ていい。
「磯」(漢音キ、呉音ケ)は、
会意兼形声。「石+音符幾(近い、すれすれ)」で、みずぎわに近い石。また、波にもまれて石がすり減る、
とある(漢字源))。「磯」も、「波打ち際」の意はなく、「水が石に激しく当たる」意であり、海岸の意よりは、「石が流れに現われる川原」の意である。ただ、別に、
形声文字です(石+幾)。「崖の下に落ちている、いし」の象形と「細かい糸の象形と矛(ほこ)の象形と人の象形(「守る」の意味)」(「戦争の際、守備兵が抱く細かな気づかい」、「かすか」の意味だが、ここでは「機(キ)」に通じ(同じ読みを持つ「機」と同じ意味を持つようになって)、「布を織る機械:はた」の意味)から、はたで織り物を織る時のような音のする「いそ」を意味する「磯」という漢字が成り立ちました、
という全く異なる解釈もある(https://okjiten.jp/kanji2619.html)。
(「磯」 成り立ち https://okjiten.jp/kanji2619.htmlより)
参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
2021年08月11日
過大な負担に疲弊
成松佐恵子『名主文書にみる江戸時代の農村の暮らし』を読む。
本書は、二本松藩十万石の福島県安達郡南杉田村(現二本松市)の安斎家に伝わる文書類(地方文書 人別帳・検地帳・御用留等々)を通して、江戸中後期の農村の状況や人々の暮らしぶりを、
「ミクロな視点からとらえること」
を目的としている。江戸時代の名主役は、
「幕藩体制の末端に位置して命令系統の一翼を担い、それを村に触れて支配が円滑に行われるよう秩序を守る立場にあった。地方(じかた)支配を担当する郡奉行や代官は、…名主が存在することでその役目を果たし得たともいえる。名主は村の実情に通じ、村民の日常生活に立ち入って世話をし、一方年貢諸役の納入は、たとえ人口の減少や凶作が著しい場合でも村請として名主の肩にかかったきた……。」
ある意味、幕藩体制の矛盾が先鋭に現われるところといってもいい。
安達郡杉田村は、
二本松城へ一里という地に位置、
し、
石高3070石、
と大村であったことから、
「杉田川により北杉田・南杉田に分離され、さらに各々が街道に面しているかどうかで町と在の二手合(てあい 配下の意味で使われる)に分けられ、それぞれを一人の名主が支配していた。」
とある。南杉田村は、
東西30町、南北25町、
宝永二年(1705)の検地によると、総反別は、
田 88町8反6畝歩、
畑 97町9反28歩、
石高は、
1487石6斗8升、
とある。年貢の他、街道沿いは、道普請、宿駅の夫役等々があり、その他、大豆と油荏(あぶらえ えごまのこと)の上納が、それぞれ、
1石9斗(代米1.6石)、
2石e斗(同1.4石)、
割りつけられ、さらに、
夫錢(ぶせん 参勤交代の夫役の賃金を金納したもの)7貫54文、
真綿役専錢(真綿の上納を金納に代えたもの)10貫3文、
糠藁代(馬の飼料代)3両と錢887文、
山手役・木葉役(薪や柴、木の葉採取税)2両2分と錢700文、
等々四十朱以上の小物成(雜年貢)があった。この地は、郡山から、本宮、二本松、福島へと続く奥州街道沿いであり、
馬継ぎ、
が課され、月の半分を南北で請け負い、
「江戸へ向かう上り15日が北杉田、下り15日を南杉田が負担」
した。馬継ぎの必要がない場合は、
助郷、
として、人馬を提供した。
「白河以北の奥州街道は、北の南部・仙台のような大藩秋田・米沢など出羽国の諸藩を中心に江戸との往復に利用された」
が、さらに、
「松前の御鷹方関係の幕吏や、江戸後期以降となると蝦夷地をとりまく複雑化に伴って、視察を目的とした役人の往来も増え、同街道を通行する頻度や輸送量は増加の一途をたどった。」
とある。それは村方の負担の増大を意味した。各宿場には問屋場が設置され、
「人馬継立を行って人と物の輸送を管理していたが、交通量の増大に伴い各駅は難渋し、周辺の農村にその不足分を割り当て助郷を命じたことから、村々の疲弊を招く結果となった。」
南杉田村では、安永四(1775)年町在両名主が願い出て、
救籾、
の無利子拝借が翌年認められたが、これは、
籾を10ヵ年賦無利子拝借、
であり、
「それを貸し付け、利子を宿駅の維持費にあて、10年後に借籾を返納する」
というもの。農村の負担はそれだけではない。
「各藩とも、いわゆる士身分に属するものだけでは御供廻りや藩士の雑用を巻かないきれず、民間からかなりの数の奉公人を雇い入れている」
が、二本松藩では、それを、
家中奉公、
と呼び、
「石高に応じて各村に人数を割り当て、宛山人と称して徴集し、領内町村の諸役のひとつとなっていた。」
しかし、
「藩から下付される給金はいわゆる在奉公に比して少額であったことからそれを望む者が少なく、各村では補助金を出さざるを得なくなる。これを与内金と呼んでいる。当初は村が処理していたが、やがて代官の官吏へとかわり、村民税のような形で賦課が義務づけられるになる。」
何のことはない、租税が増しただけだ。疲弊する村々での、口減らしとしての、
間引き、
堕胎、
に、藩側も、人口減は、藩そのものの存続にかかわるとして、二本松藩では、
赤子養育手当、
を、延享二(1745)年より設けているのが注目される。
13歳以下の子が三人いて、4子目に1ヵ年米3俵、
6歳以下の子が3人いて、3子目に1ヵ年米1俵、
というもの。今日の児童手当とは異なり、三子目とか四子目と、数が増えること自体を目途としているのが露骨すぎるのだが。
ところで、同じ歴史人口学的なアプローチで人別帳から農民生活の実態に迫った速水融『江戸の農民生活史』については、「農民生活の実態」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/482114881.html)で触れた。
また、幕藩体制下の農民、ないし農村社会のありようについては、
藤野保『新訂幕藩体制史の研究―権力構造の確立と展開』(http://ppnetwork.seesaa.net/article/470099727.html)、
渡邊忠司『近世社会と百姓成立』(http://ppnetwork.seesaa.net/article/464612794.html)、
菊池勇夫『近世の飢饉』(http://ppnetwork.seesaa.net/article/462848761.html)、
深谷克己『百姓一揆の歴史的構造』(http://ppnetwork.seesaa.net/article/474047471.html)、
水林彪『封建制の再編と日本的社会の確立』(http://ppnetwork.seesaa.net/article/467085403.html)、
速水融『江戸の農民生活史』(http://ppnetwork.seesaa.net/article/482114881.html?1624300693)、
山本光正『幕末農民生活誌』(http://ppnetwork.seesaa.net/article/482424187.html)、
でそれぞれ触れた。
参考文献;
成松佐恵子『名主文書にみる江戸時代の農村の暮らし』(雄山閣)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
2021年08月12日
信長像
和田裕弘『信長公記―戦国覇者の一級史料』を読む。
いわゆる『信長公記』は、
「牛一の自筆本、写本を含めて数多くの伝本が伝わっている。『信長公記』の一部に相当する短編や残闕本などを含めると七十本以上が確認されている。」
という。『信長公記』は、
「足利義昭を奉じて上洛の師を起こした永楽十一年(1568)から、本能寺の変で斃れる天正十年(1582)までの十五年間を、一年一冊(一帖)ずつまとめた『本編』と、これに上洛以前のことを記した『首巻』を伴ったものとの二種類」
に大別される。
しかし、自筆本は、
建勲神社所蔵『信長公記』(建勲本) 本編のみ。信長の弟長益(有楽斎)系の織田家旧蔵、
池田家文庫所蔵『信長記』(池田本) 本編のみ。池田輝政が牛一に求めて入手、
『太田牛一旧記』(旧記) 大坂本願寺との戦いが中心、
『永禄十一年紀』 巻一に相当する部分のみ、
の四本とされる。短編には、
『信長公記』の中から、ある出来事だけを抜き出したと思われるもの、
「本編」が部分的に伝わっているもの、
「首巻」(上洛以前)だけのもの、
等々が確認されているが、短編としては、『永禄十一年紀』の他、
「安土城のことを記した『安土御天主之次第』、本願寺の大坂退去を記した『新門跡大坂退散之次第』などが確認されている。」
が、
「もともと短編として完成していたものを『信長公記』に組み込んだと思われる」
ものもあり、また、
「重要な出来事や牛一が直接見聞したものは短編としてまとめていた可能性もある。確認されていないが、『信長公記』の記述から推測すると、天正七年(1579)に信長は京都屋敷(二条御新造)を誠仁(正親町天皇皇太子)一家に譲ったが、その顛末を記したものや、天正三年の長篠の戦いをまとめたものなどが想定される。これらは『信長公記』とは違う書名で伝わっている可能性もある」
とあり、『信長公記』をめぐっては、まだまだ今後に残された課題は多い。
メモ魔として知られる牛一は、たとえば、信長の最後について、
「信長初めには御弓を取り合い、二・三つ遊ばし候えば、何れも時刻到来候て、御弓の弦切れ、その後御鑓にて御戦いなされ、御肘に鑓疵を被られ引き退き、この時までおそばに女ども付きそいて居り申し候を、女は苦しからず、急ぎ罷り出よと仰せられ、追い出させられ、すでに御殿に火を懸け焼け来たり候。御姿をお見せあるまじきとおぼしめされ候か、殿中奥深く入り給い、内よりお南戸の口を引き立て、情けなくお腹めされ候。女どもこの時まで居り申し候て様躰見申し候」(池田本)
とあるのも、逃れてきた女房衆から取材したことが分る。さらに『信長公記』の伝本の中には、肘の疵は鑓疵ではなく、鉄炮疵と改めてあるもの、手にしていたのは鑓ではなく、長刀としているものもあり、情報を得て書き換えた可能性がある。
太田牛一は、
「(尾張国)春日井郡山田庄のうちの天台宗の成願寺に育ったという。信長の弓衆として仕え、のち信長の重臣丹羽長秀の与力に転じた。」
と、信長の近くに従い、自身の『信長公記』奥書に、
「故意に削除したものはない。また、創作もしていない。もし、これが嘘なら天罰を受けるだろう」
と記し、他の軍記ものとは一線を画した信頼性の高さがある、とされる。だから、著者は、
「信長を敬愛し、その臣下であったことを誇りとした太田牛一が、もし『信長公記』を著していなかったら、今日、われわれが思い描く信長像は、奥行きのないもっと平板なものだったと思わざるを得ない。とくに信長の前半生は、残された史料も少なく、まとまった史料としては『信長公記』しかないといっても過言ではない。」
と書いた。
その意味で多くのエピソードは、かなり知られているが、僕は本書で、信長に対しての反応が、
斎藤道三、
と
武田信玄、
がほとんど同じだったと書いたのが面白い。ひとつは、有名な道三と信長の初対面の場面で、湯漬けを食し、盃を交わした折、
附子(五倍子)を噛みたる風情にて、またやがて参会すべしと申し、
帰国の途に就いたが、
お見送り候、その時、美濃衆の鑓は短く、こなたの鑓は長く控え立ち候て参り候を、道三見申し候て、興を醒ましたる有様にて、有無を申さず罷り帰り候、
とあり、帰路、側近の猪子兵介(高就)が、
何と見申し候ても上総介はたわけにて候、
と言ったのに対して、
されば無念なることに候。山城が子供、たわけが門外に馬を繋ぐべきこと、案の内にて候、
と予言した。猪子は、後に信長側近として仕え、本能寺で信長に殉じた。
いまひとつは、武田信玄が、尾張の天永寺の天沢という天台宗の師僧が甲斐を通過時対面し、信長のことを聞いた折、
五倍子を噛みたる体、
だったと記す。牛一は同じ天台宗の僧として天沢と面識があった。
五倍子を噛んだような苦り切った様子、
の「五倍子(ごばいし)」とは、
付子(ふし)、
とも言う。
ヌルデ、
の別称だが、
ヌルデの若芽や若葉などにアブラムシが寄生してできる虫癭(ちゅうえい)(虫こぶ)、殻にタンニンを多量に含み薬用として用いられるほか、染織やインク製造に用いられる、
とある(デジタル大辞泉)。昔は、この粉を歯を黒く染めるのにも用いた(広辞苑)。タンニンは、
口に入れると強い渋味を感じさせる、
とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%83%B3%E3%83%8B%E3%83%B3)ので、
苦い、
とか、
苦々しい、
という含意になる。「苦々しい」とは、
心の中で、そのことをおもしろくなく感じる、
非常に不愉快だ、
たまらなくいやだ、
という意味になる(精選版日本国語大辞典)。それは、
嫌悪、
というより、
口に合わない、違和感、
というか、
自分の価値に反しているが、言い知れぬ脅威、
を感じる、という含意だろうか。道三の言葉を見る限り、信長への脅威が感じられているように見える。
参考文献;
和田裕弘『信長公記―戦国覇者の一級史料』(中公新書)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
2021年08月13日
女軍
長尾剛『女武者の日本史』を読む。
女軍、
は、
めのいくさ、
めいくさ、
と訓ませ、
女子の兵士・軍隊の意、
の意ともされるが、一説に、
男軍(おのいくさ)・女軍(めのいくさ)
は、
追手(おうて 大手)・搦手(からめて)、
の意で、
敵軍の後側に攻めかかる軍隊、
を、
女軍とする、
とする(精選版 日本国語大辞典)。
又女坂(めさか)に女軍(メノいくさ)を置き、男坂に男軍を置き(日本書紀)、
とあるのはそれであるが、『夏山雑談』(1741)は、
神武紀に、男軍(をいくさ)女軍(メイクサ)とあるは、正兵奇兵にて、追手搦手のことにや、
と解釈している。これは、
男浪(おなみ)、
に対して、
女浪(めなみ)、
というのと同じような使い方で、この説はあり得ると思う。本書は、表題に、
女武者、
とあるように、
女軍、
を、「女武者」の意として使っている。それにしても、
「我が国では、女軍という『戦う女性』が、古くから存在していた」
というのは、どうなのだろう。前述、
又女坂(めさか)に女軍(メノいくさ)を置き、男坂に男軍を置き(日本書紀)、
を文字通り、
女軍部隊、
の意と解釈しているが、果たしてそれでいいのかどうか、疑問である。それに、
神功皇后、
樟媛、
上毛野形名の妻、
薩摩比売、
等々は、どちらかというと積極的というよりは、夫の死や夫に代わって、という意味が強く、どうも、
女武者、
といっていいのかどうか。
巴御前、
坂額御前、
は確かに女武者であったと認めていい。それ以降、たとえば、南北争乱期の、
山名勢猛からず、七、八百騎か、そのうち女騎多し(園大暦)、
とあるように、戦国期になると、女性武者が目立つ。確かに、村上水軍の、
鶴姫、
上野隆徳の妻の、
鶴姫、
は、実際に戦闘に加わっている。しかしこれも、攻め立てられ防戦の中でのことで、初めから積極的に戦闘員として組み入れられていたというわけではない。
富田信高の妻(安濃津城)、
甲斐姫(忍城)、
立花誾千代(立花城)、
お田鶴(曳馬城)、
妙林尼(鶴崎城)、
等々も、籠城戦や父や夫の代わりに戦いの場に臨んだ例に過ぎない。
新徴組の女剣士の中沢琴、
会津婦女隊の中野竹子、
会津若松城のスナイパー山本八重、
は、しかし、積極的に戦に赴いたと言えばいえるが、中沢を除けば、籠城戦故の参戦という面がある。
本書が言うように、「女武者」としての、
女軍、
が例として皆無とは言わないが、その概念を広げ過ぎ、明治以後の、
自由民権の福田英子、
実践女学院の下田歌子、
東京女子医学専門学校の吉岡弥生、
までいくと、「女軍」の概念は、ぐずぐずになってしまっている。
信長公記にも、高遠城攻めにおいて、
諏訪藤右衛門女房、刀を抜き放ち、切ってまわり、比類なき活き前代未聞の次第なり、
とあるように、絶体絶命の籠城戦では、女性もまた戦力として働く、というのは別に戦国期までは当たり前だったのではないか。それを取り立てて、
女軍、
として言挙げしようとすると、無理が出てくる。
三田村鳶魚『武家の生活』(http://ppnetwork.seesaa.net/article/445487389.html)で、「武士道」について、
「武士が切腹をするということには、二通りの意味がある。その一つは、自分の犯した罪科とか過失とかに対して、自ら悔い償うためには、屠腹するということであり、今一つは、申し付けられて、その罪を償うということである。そして、そのいずれにしても、切腹は自滅を意味する。(中略)切腹は、…武士に対する処決の一特典にしか過ぎないのである。ただ自らその罪に対する自責上、切腹して相果てるというその精神だけは武士道に咲いた一つの華と言ってもよいが、武士道の真髄ではあり得ない。」
したがって、他人の忖度とは無縁である。しかし、では、これが男だけか、と言えばそうではない。吉宗の時代、松平(浅野)安芸守吉長の夫人、つまり、
「御内室は、加賀宰相綱紀卿の御息女也、生得武勇の心ある女性にて、乗馬打物に達し、殊に長刀鍛錬の聞えあり、召仕はるゝ女まで皆々勇気たくましく、殊に一騎当千の女ともいうべし」
という女性だったが、安芸守吉長が、吉原に通い、
「三浦屋四郎右衛門抱えの太夫花紫、同孫三郎抱えの格子歌野を落籍させて、屋敷へ引き取られました。その上に、芝神明前の陰間を二人までも請け出されました。(中略)請け出された遊女二人、陰間二人を、御帰国の節は、お供に召し連れられることにきめられました。(中略)こうなっては、夫人も、重ねて強諌なさらなければ済まない、と思し召したものか、外君に御対面なされ、大名が遊興のあまり、遊び者を請け出さるることも、あるまじき次第とはいわれまじけれども、永々の道中を国許まで召し連れらるることは、世間の耳目といい、殊には幕府への聞えもいかがなれば、これだけは何分にもお取止めなさるように、と切に進言されました。吉長は、この進言が大不機嫌であったという。」
結局夫人の諫言を聞き入れず、
「遊女・陰間が美々しい行装で、お供する」
ことになって、夫人は、
「お居間に夜闌くるまで燈火あかあかと照して、御弟加賀中将へのお文細々とお認めなされ、五十一歳を一期として、腹一文字に掻き切りて」
割腹するのである。その間のことを、鳶魚は、こう書く。
「武士の家では、自由恋愛などいうことはなく、それは不義者で成敗されます。決して、好いたの惚れたのという話はない。勿論、生理上必至なものとして婚姻するのではありません。夫婦は生活を愉楽するためではない。人道を行うために夫婦になったので、それはその家門を維持し、かつ繁昌させるため、当面に親を安んじ、子を育て、九族を和し、家風を揚げ、家名を輝かせる大切な戮力なのです。(中略)恋愛から出来た夫婦でなく、義理が仕立てた夫婦であった。互いにその一分を尊重する。それを蹂躍することは、他身を踏み潰すのでなく、自身を破毀するのだと思っておりました。吉長夫人前田氏も、外君の内行について、至当な進言が棄たるようになった時、婦道が立たなくなります。もし特別な秘密があってのこととしても、何とか夫人からの進言の出ぬように打ち開けられないにもせよ、相応な工夫がなければなりません。一旦進言が出ますと、一般に至当と見られることだけに、是非とも聴納されなければなりません。悋気とか嫉妬とか、そんなこととは違う。一身一己からのことでない。天下に公然たる婦道を行うのです。夫婦の間に局限した事柄ではありません。人間を維持する道義です。至当なことさえ聞かれない。それでは婦道が行えないとすれば、この頃しばしば承る面子などということとも違う。妻の一分が立たないとは倫理がすたること、女に生れて妻となる、夫にはなれない、そこに動かし難いものがあって、妻としてなすべきその職事は、天に受けた私ならぬ務めなのです。これを真ッ正直に考える、それを少し考え、あるいは全く考えない、時世の人は、少し考える者よりも、全く考えない者の方がはるかに多かったのです。」
つまり、「おのが一分」を立てる、という意味では、男も女もなかった、というのである。とすれば、攻めたてられた籠城戦で、一分を立てるために、おのれの身を捨てて戦うのは、別に同じ船にのったものとして当然のことと考えると、
女軍、
などという概念で、事々しく取り上げること自体が、無意味に思えてならない。
参考文献;
長尾剛『女武者の日本史』(朝日新書)
三田村鳶魚『武家の生活』(Kindle版)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
2021年08月14日
さすが
「さすが」は、
流石、
石流、
遉、
等々と当て字するが、中世の当て字(岩波古語辞典)で、和訓栞に、
世に、流石の字を、さすがと云ふ辞に用たり。流石は、晋の孫楚の故事に因れり、さすがによく牽合せりと云へり、
とあり(大言海)、晋書孫楚伝の、
漱石枕流(石に漱ぎ流れに枕す)、
の、
石に枕し流れに漱ぐというべきところを、「石に漱ぎ流れに枕す」と言い誤り、「石に漱ぐ」とは歯を磨くこと、「流れに枕す」とは耳を洗うことと強弁した故事、
から(広辞苑)、そのこじつけを「さすが」とみて、「流石」と当て字した(日本語源広辞典)、とある。
通俗に、流石の字を當つ、是は、小石は急流に流れはすれど、淀み淀みして流るる義にして、躊躇ふ意なるべし(孫楚が漱石枕流の説は付会甚だし)、有繋の字を當てたるあるは、繋る所ある義にて、関心の意にもあるか、
と見る説(大言海)もある。「さすが」の表記は、
中古は平仮名書きが普通であったが、中世では、「流草 サスガニ 大小同 流石 同 有繋 同」(運歩色葉集)など多様な漢字表記がなされた。特に「蒙求」の「孫楚漱石」にもとづくとされる「流石」の表記は近世期に一般化し、近代以降へと続いた、
ものである(日本語源大辞典)。
「遉」(漢音テイ、呉音チョウ)も、
会意兼形声。「辶+音符貞(占ってきく、たずねる)」、
で(漢字源)、
偵に通ず、
とあり(字源)、「うかがう」「たずねる」意で、「さすが」に当てるのは、わが国だけの用例となる。この字を当てた理由は、
偵に通じて、増韻「偵、廉視(かんがへみる)也」とあれば、熟視、熟慮、の意にもあらむか、
とする説(大言海)もある。
「さすが」は、
奈良時代の「しかすがに」のシカスガにあたる、平安時代以後の形。前にあった様子や事情から当然予想されるのとは相違矛盾する事態が現れた場合に使う語。当然の予想と相違する、よい事態が現れた場合にも使うところから、「何といっても、たいしたもの」という賞賛にも使うようになった、
とある(岩波古語辞典)。意味としては、
ある情況を一応認めはするが、事柄の本質から、それとは違う情況を認めるさま。そうはいうものの、そういってもやはり、
と、
しかるべき原因が当然の帰結を生んだこと、本性が発揮されたこと、実力や評判に背かないことについて感嘆するさま、何といっても、そういってもやはり、
となる(日本語源大辞典)。「しかすがに」は、
「シカ(然)する(為る)からに(接助)」は、流音を落としてシカスガニ(然すがに)になった。〈雪は降りつつシカスガニわがへの園に鶯ぞ鳴く〉(万葉集)、
とされ、さらに、シカ[s(ik)a]が縮約されて「さすが」になったことになる(日本語の語源)。
中古における「しか」と「さ」の副詞の交替によって「しかすがに」から副詞「さすがに」へ転じ、次に語尾を活用させて形容動詞となり、さらに「に」が付属語のように解された結果「さすが」が独立して副詞化した。中古では「さすがに」が「さすが」や形容動詞「さすがなり」よりも多く用いられており、中世から「に」を伴わない「さすが」が多くなる、
とある(日本語源大辞典)。「しかすがに」の、「しか」は、
然、スは有りの意の古語。ガは所の意。アリカのカの転。ニは助詞。平安時代以後、サスガニとなる(岩波古語辞典)、
然(しか)スルカラニの約略(大言海)、
と、少し解釈は異なるが、
そうであるところでの意が古い意味、転じてそうではあるが、それでも(岩波古語辞典)、
しかしながらに、然(さ)は云ふものの、然(しか)はあれども(大言海)、
と意味は重なる。「しか(然・爾)」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/480132942.html)で触れたように、「しか」は、
シはサと同義の副詞、カは接尾語、
とある(広辞苑)が、
指示代名詞「し」+接尾語「か」から(デジタル大辞泉)、
指示語「し」に接尾語「か」のついたもの(日本語源大辞典)、
とあるので、「し」は指示詞とみていい。さらに、
代名詞シと状態を示す接尾語カとの複合。すでに述べた状態を指示する語。上代では歌にも使われたが、平安時代には漢文訓読に使い、平安女流文学ではこれに当たる語は「さ」で、「しか」は男性の言葉として使われることが多い、
とある(岩波古語辞典)。そして、
和文では平安以後「さ」が多くなるが、「さ」が発生した後でも、「しか」は漢文訓読語として、依然として使われた。室町以後は一般には減少し、「かく」から変じた「こう」や、「さ」から変じた「そう」などがこれに代わっていく、
とある(日本語源大辞典)。
指示語「し」+接尾語「か」
の、接尾語「か」は、
カアヲ・カボソシなど接頭語のカと同根、
とあり、確かに、
物の状態・性質を表す擬態語などの下につき、それが目に見える状態であることを示す、
とあるが(仝上)、
のどか、
ゆたか、
なだらか、
等々の用例から見ると、ちょっと違う気がして、少し疑問が残る。といって、
其気(そけ)の転(大言海)、
シは発語、カは古語カレ(故)のカと相通ず(国語の語根とその分類=大島正健)、
シカ(息香)の義。息は水、香は火をいい、万事は皆水火をもととするため、種々品々をさしてシカという(柴門和語類集)、
イカスガ、またはサスガの略(類聚名物考)、
というと、あまりにもひねくりすぎて首をかしげる。
ただ、「か」が、
接頭語「か」と同根、
とある(岩波古語辞典)。接頭語「か」は、
アキラカ・サヤカ・ニコヨカなど、接尾語カと同根、
とあり、
か細し、
か弱し、
等々のように、
目で見た物の色や性質などを表す形容詞の上につき、見た目に……のさまが感じられるという意を表す、
とあり、
転じて、ケ(気)となる、
とある。接尾語「か」も、
後に母音変化を起こして、「け」となり、「あきらけし」「さやけし」などのケとして用いられ、「さむげ」などのゲに転じた、
とある(仝上)。とすると、
其気(そけ)の転(大言海)、
はあり得るが、しかし「しか」の「し」が指示詞なら、「か」は、
ありか(有處)、
すみか(住處)、
かくれが(隠處)、
の、
處、
とあてる接尾語「か」ではあるまいか。「か」は、
處(こ)に通ず、
とあり(大言海)、「しか」は、
指示「し」+か(處)、
の方が、意味が一貫する気がする。
参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
2021年08月15日
暦
渡邊敏夫『暦のすべて―その歴史と文化』読む。
「暦」とは、
日を数える、
ものであり、
時の流れを数える
ものである。そして、その
時の流れを数える方法、
を、
暦法、
という。そして、その、
暦法に基づいて推算して、将来予知される公の時令を記したもの、
が、
暦書、
である。孟子のいう、
天之高也、星辰之遠也、苟求其故、千歳之日至、可坐而致也(天の高き、星辰の遠き、苟も其の故(こ)を求めば、千歳の日至(にっし 冬至)も、坐(い)ながらにして致(し 知)るべきなり)、
とはそのことを言っている。
「暦法というものは人類の生活に必要な自然の周期日・月・年を、いかに調節して日を数えるかにある。時の流れを区切る周期には、天文学的に日・月・年があるが、生活に密接な関係ある日とは、昼夜の交替する太陽日であり、太陰の満ち欠けの周期である朔望月は29.530589日、季節の循環する太陽年(回帰年)は365.24220日である。
暦法の原理は、これら三種の整数的関係にない周期を適当に組み合わせて、簡単で季節に遅速を生じない、社会生活に便利な暦を造ることにある。」
そして、
「暦法に必要な朔望月・太陽年は一日の整数倍にないために、これを調節することに問題があり、その調節の仕方によって、多種多様な暦法が生まれてくる」
ことになる。最初に発生した暦法は、
太陰の朔望だけによって日を数える太陰暦法、
である。しかし、
「太陰の運行だけに基礎を置く太陰暦法では、太陽による季節の循環する太陽年よりは、約11日ほど短いから、太陰暦法で日を数えていると、この暦の日付は、我々の太陽暦とは季節がだんだんずれていく。(中略)太陰暦法にしたがって日を数え、季節を合わしていくためには、太陰の運行に太陽の運行を考慮にいれなければならない。朔望月と太陽年とは整数的関係にないから、これをいかに調節していくか……この調節の仕方によって、太陰太陽暦法には、数多くの暦法がうまれてくる」
ことになる。
「太陽年と朔望月の比は12.36827であるから、十二箇月の太陰年と十三箇月の太陰年を適当に組み合わせて、この端数をなくしていけばよいわけである。(中略)この比の小数部分を近似する分数として、1/2、1/3、3/8、4/11、7/19、123/334、……を得る。(中略)7/19のものは、十九太陽年に七回の閏月を挿入して、十三箇月の一太陰暦年を七回置くもので、これを十九年七閏法といっている。西紀前433年、ギリシャのメトン(Meton)の発見にかかるもので、メトン法とも呼ばれる。中国では章法と呼んでいる。19太陽年(6939.6018日)は235朔望月(12月×12+13月×7=235付 6939.6884日)にほぼ等しい。」
しかし、
「太陰の運行をまったく計算に入れないならば、残るものは太陽の運行だけに基づく太陽暦法である。一太陽年は365.24220日で、この端数を切り捨てて、暦年として365日の一年を長く用いていると、1500年で約一年の狂いを生ずる。」
これを調節するためには、
「太陽年の端数は近似的に1/4、7/29、8/33、31/128、101/417、……の分数で近似的に表される。最初の1/4は四年に一回一日の閏日を付け加えて、一暦年を366日とすることで、一年の平均の長さを365.25日とする。」
これが、
ユリウス暦、
である。しかし、
「ユリウス暦の一年の長さは365.25日であるが、実際の太陽年はこれより11分14秒短い。したがって、ユリウス暦法に従って閏日を置いていると、百年で18時間余り、一千年で8日近くの相違をきたす」
ことになる。で、ユリウス暦の置閏法を改めて、
「西暦紀元年数が四で割り切れる年を閏年とする。ただし百で割った商が四で割り切れない年は平年とする。閏日は2月28日の翌日に挿入する。」
という、
グレゴリー暦が登場する。
「この置閏法によると、グレゴリー暦法の一年の平均は、(365日×303+366日×97)÷400=365.2425日となり、太陽年との差は、0.0003012日となり、百年について0.03日、一万年で三日となる。」
長く中国暦を使い続け、宣明暦は、貞観四年(862)から貞享元年(1684)の改暦まで、823年も、古い暦法を使い続けるという日本の鈍感さは、特筆に値するが、それが、
「暦道・天文道が世襲制になり、中国暦を鵜吞みにするだけで、暦學に関心が薄かった」
ことが理由とすると、もはや唖然とするほかはない。にもかかわらず、というか、それ故にこそというか、なじんだ、太陰太陽暦法を太陽暦法に改暦した時、農村では、評判が悪かったという。そもそも、季節感のもとになる、
「二十四節気は太陽の運行によって季節を調節するために設けられたもので、太陰太陽暦の旧暦時代には必要であったが、現在の太陽暦によれば、毎年一日ぐらいの相違はあっても、一定しているので、何の不自由もないのである。」
本多利明が、
月輪が晦日になく、満月が十五日にありても耕作の助にも何にもならぬことに、年々新頒暦を作りだす、
と旧暦を批判していた通り、
太陽暦なら年々新頒暦を計算して出す必要はない、
のである。ましてや、暦注の日々の吉凶には、ほとんど何の根拠もないのである。
参考文献;
渡邊敏夫『暦のすべて―その歴史と文化』(雄山閣)
小林勝人訳注『孟子』(岩波文庫)
内田正男『暦と日本人』(雄山閣)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
2021年08月16日
土用
「土用」は、梅雨明けの夏の土用だけを言っているが、
暦法で、立夏の前18日を春の土用、立秋の前18日を夏の土用、立冬の前18日を秋の土用、立春の前18日を冬の土用といい、その初めの日を土用の入りという、
と(広辞苑)、一年に四度あり、春の土用は、二十四節気の、
清明の後の十三日(四月十七日)より十八日間にして、終れば立夏、
夏の土用は、同じく、
小暑の後十三日(七月廿日)より立秋に至る、
秋の土用は、同じく、
寒露の後十三日(十月廿日)より立冬に至る、
冬の土用は、同じく、
小寒の後十三日(一月十七日)より立春に至る、
とある(大言海)。
本来土用は五行説をもっともらしく成立させるために考え出されたもので、五行の五から四季の四を引くと一余ってしまう。これではうまく対応させられないので土用なるものを案出した。
一年三六五日を五で割って七三日、この七三日を、春と木、夏と火、秋と金、冬と水とを結びつけた各にあてがう。五行の真ん中の土の七三日を四分の一に分け、一八日余りとし、これを各季節の終わりに配当して、これを、土が司る土用とした、
とある(内田正男『暦と日本人』)。
この由来は中国だが、
太陽系の天体、水星・金星・火星、木星・土星の五星は古来から知られた惑星で、天空上におけるその運行は複雑で、……古代人にとっては五惑星の運行は神秘的なもので、五星の運行が地上百般の現象と、何らかの関係があるのではなかろうか、という考えから、森羅万象がすべて五惑星の木・火・土・金・水の精気によって影響されるという思想が生まれた(渡邊敏夫『暦のすべて―その歴史と文化』)。
これが、五行説である。中国では、立春、立夏、立秋、立冬にそれぞれ始まる春・夏・秋・冬にも、木・火・土・金・水の五行を割り当てようとした。そこで、春・夏・秋・冬の、
各季の五分の一の長さをその終わりから削り取って、五行の中央に位置する土の支配するところとする、
つまり、
各季の長さ91.310日からその五分の一の18.262日をとって、土の司るところ、
としたものである(仝上)。したがって、
各季節九十一日余の終り十八日余が土に属する、
ということになった。だから、
春の土用、
夏の土用、
秋の土用、
冬の土用、
とあるのだが、夏の土用が、五行説からいってももっとも土気が旺んなるため、今日夏の土用だけが、普通に言われるようになった、と思われる。
夏の土用の入りは大体七月二十日ころであるが、夏の土用に入って最初の丑の日が、
土用丑、
である。夏の土用に入って三日目を、
土用三郎、
といい、古来、
この日の天候が快晴なら豊年、雨ならば凶年、
とされてきた(仝上)。
今日の暦では、太陽が黄経、
27度に達した時が春の土用の入り、
117度に達した時が夏の土用の入り、
207度に達した時が秋の土用の入り、
297度に達した時が冬の土用の入り、
とされる(仝上)。
「土用」の語源は、
土王の義。王の字を避けて用をもちいる(梅窓筆記・和訓栞・日本語源広辞典)、
と、
ドワウ(土旺)の訛り(大言海)、
の二説あるが、
土旺用事の略、
とある(渡邊・前掲書)。「土旺用事」とは、
土(つち)が旺(さかんに)なり用事(働き・支配)をする、
意で(https://madokawindow.com/557.html)、
土がもっとも働く時、
である。五行説から考えれば、これが妥当ではないか。
古来、土用の期間は土いじりをしてはいけないと言われてきました。……陰陽道の神の中の一人に土公神(どくしん・どくじん)という神様がいます。土公神は土を司る神様で、土用の期間は土を支配するとされていたため、土公神が土を支配している期間は土いじりをしてはいけないと言われています(https://kishimojin.net/archives/12139)、
とも、
土用の間は土の気が盛んになるとして動土・穴掘り等の土を犯す作業や殺生が忌まれた。ただ土用に入る前に着工して土用中も作業を続けることは差し支えないとされ、「土用の間日(まび)」には土用の障りがないとされた(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%9F%E7%94%A8)、
ともある。
(「鰻登り」(北斎漫画) https://www.unagi-koubou.jp/contents/blog/1819.htmlより)
なお、暑い時期に栄養価の高いウナギを食べるという習慣は古代に端を発するらしいが、土用の丑の日に食べる習慣となったのは、文政五年(1822~23)当時の話題を集めた『明和誌』(青山白峰著)によれば、安永・天明の頃(1772~88年)よりの風習である、
とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%9F%E7%94%A8%E3%81%AE%E4%B8%91%E3%81%AE%E6%97%A5)。
「土」(慣用ド、漢音ト、呉音ツ)は、
象形。土を盛った姿を描いたもの。古代人は土に万物を生み出す充実した力があると認め、土をまつった。このことから、土は充実したの意を含む。また、土の字は社の原字であり、やがて土地の神や氏神の意となる。のち、各地の代表的な樹木を形代として土に代えた、
とある(漢字源)。
(「土」 成り立ち https://okjiten.jp/kanji80.htmlより)
参考文献;
渡邊敏夫『暦のすべて―その歴史と文化』(雄山閣)
内田正男『暦と日本人』(雄山閣)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
ラベル:土用
2021年08月17日
虎
「虎」について、南方熊楠は、こんなことを言っている。
「虎の記載を学術上七面倒に書くより『本草綱目』に引いた『格物論』(唐代の物という)を又引するが一番手軽うて 解りやすい。いわく虎は山獣の君なり、状猫のごとくにて大きさ牛のごとく黄質黒章、鋸牙鉤爪鬚健にして尖り舌大きさ掌のごとく倒に刺を生ず、項短く鼻ふさがる、これまでは誠に文簡にして写生の妙を極め居る。さてそれから追々支那人流の法螺を吹き出していわく、夜視るに一目は光を放ち、一目は物を看る、声吼ゆる事雷のごとく風従って生じ百獣震え恐るとある。しかし全くの虚譚でもないらしく思わるるは予闇室に猫を閉じ籠めて毎度験すと、こちらの見ようと、またあちらの向きようで一目強く光を放ち、他の目はなきがごとく暗い事がしばしばあった。また虎嘯けば風生ずとか風は虎に従うとかいうは、支那の暦に立秋虎始めて嘯くとあるごとく、秋風吹く頃より専ら嘯く故虎が鳴くのと風が吹くのと同時に起る例が至って多いのだろう。」
と(「十二支考 虎に関する史話と伝説民俗」『南方熊楠作品集』)。同書には、種々虎伝承を伝えているが、たとえば、
人あり係蹄(わな)を置きて虎を得たるに、虎怒りて蹯(あしのうら)を決(き)って去る、虎の情その蹯を愛せざるにあらざれど、環寸(わずか)の蹯を以て七尺の躯を害せざる者は権なりとあって虎の決断を褒め居る(『戦国策』)、
とか、
廬陵の婦人蘇易なる者善く産を看る、夜たちまち虎に取られ、行く事六、七里、大壙(おおあな)に至り地に置き蹲りて守る、そこに牝虎あり難産中で易を仰ぎ視る、因って助けて三子を産ましめると虎がまた易を負うて宅へ還し、返礼に獣肉を易の門内に再三送った(『捜神記』)、
とか、
晋の郭文かつて虎あり、たちまち口を張って文に向うたんで視ると口中に骨哽(たて)り、手を以て去(と)ってやると明日鹿一疋持ち来って献じた。また都区宝という人父の喪で籠りいた時里人虎を追う、虎その廬に匿れたのを宝が簔で蔵しやって免がれしめた、それから時々野獣を負ってくれに来た(『淵鑑類函』)。
とか、
壮士水碓(みずぐるま)を守りしが虎に攫まれ上に坐らる、水碓飛ぶがごとく輪るを虎が見詰め居る内にその人甦った、手足圧えられて詮術(せんすべ)ない、ところが虎の陽物翹然(にょっきり)口に近きを見、極力噛み付いたので虎大いに驚き吼え走ってその人脱るるを得た(『五雑俎』)、
等々。虎と人間の生活が密接だった古代の中国や朝鮮とは異なり、日本には虎はいない。しかし、万葉集に、虎を詠ったものが三首ある。
虎に乗り古屋(ふるや)を越えて青淵(あをふち)に蛟龍(みつち)捕(と)り来(こ)む剣太刀(つるぎたち)もが(境部王)、
いとこ汝背(なせ)の君居(を)り居りて物にい行(ゆ)くとは韓国(からくに)の虎といふ神を生け捕りに八(や)つ捕(と)り持ち来(き)、その皮を畳み(たたみ)に刺し八重畳(やへたたみ)平群(へぐり)の山に四月(うづき)と五月(さつき)との間(ま)に薬猟(くすりがり)も仕(つか)ふる時にあしひきのこの片山に二つ立つ櫟(いちひ)が本(もと)に梓弓(あづさゆみ)八つ手挟(たばさ)み、ひめ鏑(かぶら)八つ手挟み、獣(しし)待つと我が居る時にさを鹿の来立(きた)ち嘆(なげ)かく……(乞食者)、
……太刀(たち)取り佩(は)かし大御手(おほみて)に弓取り持たし御軍士(みいくさ)を率(あども)ひたまひ斉(ととの)ふる鼓(つづみ)の音は雷(いかづち)の声(おと)と聞くまで吹き響(な)せる小角(くだ)の音も敵(あた)見たる虎(とら)が吠(ほ)ゆると諸人(もろひと)のおびゆるまでに捧げたる幡(はた)の靡(なびき)は……(柿本人麿)
日本人にとって虎の皮は海外との交易で輸入される唐物の代表とされ、『続日本紀』などに記録されている渤海使の献進物の中にも虎の皮が含まれている、とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%A9)。
我が国にはいないにもかかわらず、「強いもの」「何より恐ろしいもの」の代表として虎の入ったことわざや慣用句が膾炙している。たとえば、
雲は龍に従い風は虎に従う、
竜虎、
虎に翼、
虎を野に放つ、
虎の尾を踏む、
虎穴に入らずんば虎子を得ず、
虎視眈々、
前門の虎後門の狼、
虎の子渡し、
虎の威を借る狐、
張子の虎、
虎は千里往って千里還る、
虎は死して皮を留め人は死して名を残す
虎の子、
虎の巻、
等々。そして昔話にも、虎は構成要素とするものが、
狐と獅子と虎、
古屋の漏り、
があり、実際に見たことがないので、非常に恐ろしい獣として扱われている(日本昔話事典)。
そう考えると、和語「とら」は、外来語由来として、
タイ語系南方語起源か(広辞苑)、
朝鮮の古語、ツルポオムのツルの転は、トラなり。此のツルは毛の斑、蔓の義、彎曲の線にて、国語のツルと暗合す。ポオムは虎豹の類を称する語(白鳥庫吉の説)、
朝鮮語ホーラから(名言通・日本語源=賀茂百樹)、
トは虎をいう楚国の方言オト(於莵)から、ラは助語(箋注和名抄)、
朝鮮語から済州島を経て入ったタンラ(耽羅)の音韻変化(日本語源広辞典)
といった諸説がある。決め手はないのだが、
恐ろしくてトラ(捕)まえられぬから(和句解)、
逆に、
人を捕る意から(日本釈名・和訓栞)、
トル(採)義(言元梯)、
トリクラヒ(捕食)の義(日本語原学=林甕臣)、
といったこじつけから、
朝鮮語ホーラもしくはツルを起源として、「捕らえる」という日本語的解釈から「トラ」となった(語源由来辞典)、
というひねった解釈もある。しかし、外来由来とみて、
ホーラ、
ないし、
ツル、
の転訛と見るのが順当なのだろう。和漢三才図絵には、
虎、保牟、
とある。
(「雪中虎図」(葛飾北斎) https://bakumatsu.org/blog/2012/12/hokusai.html/hokusai_24より)
因みに、酔っぱらいを「虎」というのは、
四つ這いになって手が付けられない様子から(猫も杓子も=楳垣実)、
酒を女房詞でササというところから、ササを笹と解して、笹に酔うものの意で虎といった(すらんぐ=暉峻康隆)、
酔った者が張り子の虎のように首を左右に振るところから(上方語源辞典=前田勇)、
酔って暴れるところが猛獣ににているところから(たべもの語源抄=坂部甲次郎)、
と諸説ある。酔っぱらいの意の「虎」は、江戸時代から使われている、とある(日本語俗語辞典)。とすると、
水墨画に見られるように笹の横には虎がいることから、
と見立てるのが洒落ているとは思う。
「虎」(漢音コ、呉音ク)は、
象形、虎の全体を描いたもの、
である(漢字源)。
(「虎」 甲骨文字・殷 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E8%99%8Eより)
別に、
儿(元の形は「几」:床几)にトラの装束を被った者が座っている姿、
とする解釈もある(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E8%99%8E)。
なお、
「虎の尾」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/454576631.html)、
「虎嵎を負う」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/456719697.html)、
で、虎について触れたことがある。
参考文献;
南方熊楠『南方熊楠作品集』(Kindle版)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
ラベル:虎
2021年08月18日
とらえる
「虎」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/482959788.html?1629140731)で触れたように、和語「とら」の語源説に、
恐ろしくてトラ(捕)まえられぬから(和句解)、
逆に、
人を捕る意から(日本釈名・和訓栞)、
トル(採)義(言元梯)、
トリクラヒ(捕食)の義(日本語原学=林甕臣)、
等々と、「捕らえる」と関連づける説がある。その是非は別として、「とらえる」は、
捕(ら)える、
捉える、
執える、
と当て(広辞苑・岩波古語辞典・大言海)、文語は、
とらふ(下二段)、
である(広辞苑)。「とらふ」は、
トリ(取)アフ(合)の約(岩波古語辞典)、
ト(取)リア(敢)ウの約(広辞苑)、
トリ堪(ア)フ。無理に……するの意の補助動詞アフ(下二段)が接して約音現象を起こしたものか(時代別国語大辞典-上代編)、
トリサヘヲフ(取塞追)の義、またトリオサヘル(取押然)の義(日本語原学=林甕臣)、
等々の諸説がある。ただ、
トル(取)の義から(和句解・名言通・国語の語根とその分類=大島正健)、
取る、又捕るの延(大言海)、
等々といった、「取る」の転訛とするには、「捕らえる」の意味の、
手でしっかりつかむ、しっかり握る、
意から、
人や動物を取り押さえて逃げないようにする、
召しとる、捕縛する、
と、より強い含意に広がり、それをメタファに、
視野・知識などの中にしっかり納める、
意となり、そこから、
好機などを自分のものとする、
物事の本質・特徴などを把握する、
映像・音などをはっきり感じ取る、
ある部分を取り立て問題にする、
等々の意につながっていく(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E3%81%A8%E3%82%89%E3%81%88%E3%82%8B・広辞苑・デジタル大辞泉)のを見ると、「取る」とは違うニュアンスがあり、
トリ(取)アフ(合)の約、
よりは、
ト(取)リア(敢)ウの約(広辞苑)、
トリ堪(ア)フ。無理に……するの意の補助動詞アフ(下二段)が接して約音現象を起こしたもの、
等々意識的に「つかむ」意味が強調されているように思われる。
わが命長く欲しけく偽りをよくする人を執(とら)ふばかりを(万葉集)、
の「とらふ」には、そんな執着が感じられる。
接頭語「取り」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/444210858.html)で触れたように、「とる」は、
取る、
採る、
捕る、
執る、
撮る、
録る、
等々と当て、
て(手)と同源(広辞苑)、
手の活用(大言海)、
タ(手)の母音交換形トを動詞化した(岩波古語辞典)、
で、
ものに積極的に働きかけ、その物をしっかり握って自分の自由にする意。また接頭語としては、その動作を自分で手を下してしっかり行い、また、自分の方に取り込む意。類義語ツカミは、物を握りしめる意。モチ(持)は、対象を変化させずそのまま手の中に保つ意、
とある(岩波古語辞典)。だから、「とる」は、
手+る(動詞をつくる機能のル)、
で、
①物の全体をしっかり手中に収めて自分のものにする、
②手を動かして、物事を思う通りに操作する、
③物事を手許へ引き寄せて、こちらの自由にする、
④物事をこちら側の要求・基準に合うように決定する、
と用例を分けられる(岩波古語辞典)ことからみると、「とらふ」は、意識的につかむ意の「取る」をさらに、強化しているという含意と見える。
「捕」(漢音ホ、呉音ブ)は、
形声。「手+音符甫(ホ)」で、手を対象にぴったり当てること、
とあり(漢字源)、「逮捕」「捕縛」等々と使う。別に、
(「捕」 成り立ち https://okjiten.jp/kanji1216.htmlより)
会意兼形声文字です(扌(手)+甫)。「5本の指のある手」の象形と「草の芽の象形と耕地(田畑)の象形」(「田に苗を一面に植える」の意味)から、苗を手にとる事を意味し、そこから、「しっかり手にとる」を意味する「捕」という
漢字が成り立ちました、
とあり(https://okjiten.jp/kanji1216.html)、「甫」の意味がよくわかる。
「捉」(漢音サク、呉音ソク)は、
会意兼形声。足(ソク)は、伸縮するあしのこと。蹙(シュク)・縮(シュク)と同系で、ぎゅっと縮む意を含む。捉は「手+音符足」で、手の筋肉を具っと縮めてつかむこと、
とある(漢字源)。「補足」等々という使い方をする。別に、
(「捉」 成り立ち https://okjiten.jp/kanji2068.htmlより)
形声文字です(扌(手)+足)。「5本の指のある手」の象形と「人の胴体の象形と立ち止まる足の象形」(「足」の意味だが、ここでは、「束(ソク)」に通じ(同じ読みを持つ「束」と同じ意味を持つようになって)、「たばねる」の意味)から、「手で縛る」、「とらえる」を意味する「捉」という漢字が成り立ちました、
との解釈もある(https://okjiten.jp/kanji2068.html)。
「執」(慣用シツ、呉・漢音シュウ)は、
会意。「手かせ+人が両手を出して跪いた姿」で、すわった人の両手に手かせをはめ、しっかりとつかまえたさまを示す、
とある(漢字源)。「執着」といった使い方をする。
(「執」 成り立ち https://okjiten.jp/kanji1355.htmlより)
参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
2021年08月19日
八百比丘尼
「八百比丘尼」は、
やおびくに、
と訓むが、
はっぴゃくびくに、
とも訓ませ、
白比丘尼(しらびくに)、
とも呼ばれる、
800歳まで生きた長命の比丘尼、その姿は17~8(あるいは15~6)歳の様に若々しかった、
といわれる、
長寿伝説、
の一つである。「白比丘尼」のシラ(白)は、
再生するという古語であり、シラ比丘尼の長寿は、巫女の特つ霊力とかかわるものであろう、
とされる(朝日日本歴史人物事典)が、別に、
少女の白肌のままだったから、
ともされる(世界宗教用語大事典)。
「八百比丘尼」が、全国を旅したという伝説は各地に残っていて、八百比丘尼伝説は、
北海道と九州南部以南を除くほぼ全国に分布している、
といわれ(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E7%99%BE%E6%AF%94%E4%B8%98%E5%B0%BC)、日本海側では、能登・越後から出雲・隠岐にかけて分布していて、
海上交通によって伝播されたもの、
とされる(日本伝奇伝説大辞典)。太平洋側では、土佐須崎、播磨・安芸、内陸部の会津・尾張にも伝えられ、その伝説は、
全国28都県89区市町村121ヶ所にわたって分布しており、伝承数は166に及ぶ(石川・福井・埼玉・岐阜・愛知に多い)、
という(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E7%99%BE%E6%AF%94%E4%B8%98%E5%B0%BC)が、これら伝説の中心と目されているのは、北陸から能登地方である(朝日日本歴史人物事典)。
長寿の原因を、多くの伝説は、
人魚、
わずかな例では、
九穴の貝(「あわび」とされる)、
を食したことに帰している(日本伝奇伝説大辞典)。若狭の伝承によると、
今浜の須崎村において余所から来た漁師が人魚を調理して村人たちに馳走した。村人たちは怪しんで食べる真似をした。一人の者が肉を袖に入れて持ち帰り棚にのせておいたところ、その妻が食べてしまった。容色が若返って海仙になり、七世余り生きながらえて諸国を遊行ののち小浜に住んだ(笈埃随筆)、
とか、
小浜の長者たちの集まりがあって、今度は海辺の人の所で催すことになった。その日、長者たちは迎えの船に乗り込んだ。途中水中に潜るように感じたが、無事家に到着した。ふと炊事場をのぞくと少女のようなのを俎上にのせて料理している。みなが焼き物に箸をつけずにおくと、帰り際に土産を持たせてくれた。その焼き物を高橋長者の娘が食べてしまい、数百年も歳をとらず生きて八百比丘尼と呼ばれた。海辺の人とは竜宮城の人で、焼き物は人魚の肉であった(拾椎雑話)、
とある(仝上)。別に尾張の伝説では、
昔この辺りが浜辺であったころ、漁師が首から上が人間で後は魚という奇魚を捕らえた。土地のものが気味悪がっていると、通りがかりの旅人が災難を逃れるための庚申祭を教えてくれた。その通りに祭事を営んだところ、小娘が奇魚の肉片を食べて不老長寿の身となる。やがて、髪をおろして諸国を巡り歩いたのちに若狭の国に至り、八百歳にしていきながら洞窟に入った、
とある(仝上)。若狭小浜の空白寺(くういんじ)は八百比丘尼が最後に住んだところとされ、門前に入定窟とされる洞窟がある。
(八百比丘尼入定洞(福井県小浜市空印寺) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E7%99%BE%E6%AF%94%E4%B8%98%E5%B0%BCより)
『康冨記』(文安六年(1449)5月26日の記事に、若狭国から上洛し、
白髪の巫女めいた老尼が都に現れ、みずから若狭白比丘尼とも八百歳老尼とも称した、
という話が載り、
二百余歳の比丘尼、
とある(日本昔話事典)。この話は、当時かなり喧伝され、『臥雲日件録』『唐橋綱光卿記』等々にも記されている。
自らをその長命の女と称して巡行している女、
がいたらしいことを推測させる記事で、源平の時代を見てきたように話すものもいた、ともある。
ただ、比丘尼伝承で、釣で手に入れたという話は少数派で、多くは、
異人饗応譚、
とされる(仝上)。たとえば、
ある男が、見知らぬ男などに誘われて家に招待され供応を受ける。その日は庚申講などの講の夜が多く、場所は竜宮や島などの異界であることが多い。そこで男は偶然、人魚の肉が料理されているのを見てしまう。その後、ご馳走として人魚の肉が出されるが、男は気味悪がって食べず、土産として持ち帰るなどする。その人魚の肉を、男の娘または妻が知らずに食べてしまう。それ以来その女は不老長寿を得る。その後娘は村で暮らすが、夫に何度も死に別れたり、知り合いもみな死んでしまったので、出家して比丘尼となって村を出て全国をめぐり、各地に木(杉・椿・松など)を植えたりする。やがて最後は若狭にたどり着き、入定(にゅうじょう)する。その場所は小浜の空印寺と伝えることが多く、齢は八百歳であったといわれる、
とか(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E7%99%BE%E6%AF%94%E4%B8%98%E5%B0%BC)、
父親が山中で異人に会い、招かれて隠れ里に行ったが、人魚の肉を御馳走され、食べずに持ち帰ったのを何も知らない娘が食べて長命を得た(本朝神社考)、
とか(日本昔話事典)、といったものとされる。しかも「庚申講」の肴とされるところに、この伝説が、
庚申講の夜に語られたもの、
と思わせる(日本伝奇伝説大辞典)、とある。新潟県佐渡市南部の旧羽茂(はもち)町地域の八百比丘尼伝説では、
庚申講に加わった男が次の講に人々を招く。台所をのぞくと人魚を料理している。だれも手をつけないが、ある人が捨て忘れて家に持ち帰ったのを、その家の娘が食べてしまう。娘は年をとらないわが身をかえってはかなみ、生地を離れて諸国を巡り、八百歳で若狭の地で入定した、
とされている(日本大百科全書)。
殆どの伝承で、八百比丘尼は、最後に空印寺の岩窟に籠って入定(にゅうじょう)することになっているが、「八百比丘尼」は、
岩窟の前に椿の花を挿し、この枝が枯れたら私も死ぬだろうと言い残して中に消えた、
という。この椿の木について、
八百比丘尼を名乗り、唱導ないしこの物語の伝播に与った……比丘尼がおり、所々に実を播き枝を指し、その成長ぶりをみて神意を卜する風習があったのではないか、
とする説(柳田國男)、また、
女の唱導者が椿を持ち歩いて春の言触れをした、
とする説(折口信夫)などがあり、この唱導者は、
熊野念仏比丘尼と山から里へ鎮魂に訪れるいわゆる山姥の結合したもの、
とみる見方もある(仝上)。
北陸から東北地方にかけての沿岸部には、椿がまとまって茂る聖地が点在している。椿は、春の到来を告げる花とみなされ、椿の繁茂する森は信仰の対象となっていた。旅をする遍歴の巫女が、椿の花を依代にして神霊を招いたものと想像されている、
とある(朝日日本歴史人物事典)のが妥当かもしれない。また、
この比丘尼たちが地に挿した箸や杖が老木になった、
という伝承も多く残り、彼女たちが残したとされる塚や石塔も多い。これは、
巡行する巫女・修験者たちが木を植え、石を立てる風習を持ち、挿木取木の秘術を知っていた、
とする説もある(日本昔話事典)。
(比丘尼 比丘尼 (『職人尽歌合』) https://www.benricho.org/Unchiku/edo-syokunin/07-1769syokuninzukushiutaawase/02.htmlより)
因みに、「比丘尼」とは、
パーリ語 bhikkhunī、サンスクリット語 bhikṣuṇīの音訳(苾蒭尼(びっしゅに)とも音訳する)、
つまり、
出家して具足戒(三四八戒)を受けた女子、
である(精選版 日本国語大辞典)、
尼(あま)、
尼僧、
をいう。
びくにん、
ともいう。具足戒とは、
「具足」は近づくの意で、涅槃に近づくことをいう。また、教団で定められた完全円満なものの意とも、
あり(仝上)、
比丘、比丘尼が受持する戒律。四分律では、比丘は250戒、比丘尼は348戒を数える、
とある。
具戒、
大戒、
ともいう。日本では一般に、
出家得度して剃髪し染衣を着け、尼寺にあって修行する女性、
を指す(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%BC)とあり、
尼法師、
尼御前(あまごぜ)、
尼前(あまぜ)、
とも呼ばれる。
参考文献;
乾克己他編『日本伝奇伝説大辞典』(角川書店)
稲田浩二他編『日本昔話事典』(弘文堂)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
ラベル:八百比丘尼
2021年08月20日
惣国一揆
和田裕弘『天正伊賀の乱―信長を本気にさせた伊賀衆の意地』を読む
「天正伊賀の乱」と呼ばれるものは、
天正七年(1579)年九月、北畠信雄が父信長に無断で伊賀に侵攻して大敗した第一次、
と、
天正九年(1581)年九月、信雄を総大将に、四方から大軍を侵攻させ、伊賀を焦土と化した第二次、
と、
天正十年(1582)年六月、本能寺の変に乗じて伊賀党の残党が蜂起した第三次、
と、三回あった、とされる。
信雄の大敗に烈火の如く怒った信長は、信雄に譴責状を認め、
三郎左衛門(柘植保重)をはじめ討死の儀、言語道断の曲事の次第に候、まことにその覚悟においては、親子の旧離許容すべからず候、
と叱責した。信長、信忠はじめ織田軍は、謀叛した荒木村重の有岡城攻囲の只中での、無謀な侵攻で、
他国の陣、あい遁るるによりて、
とあるように、上方出兵を回避するために、手近な伊賀侵攻をしたと、殊の外激怒した。
伊賀国は、
守護領国制が発達せず、在地領主がそのまま各地の小土豪となって割拠し、堡を築いたり、溝や土塁を廻らした居宅をもち、いわゆる国衆として、相互に均衡を保ちながら連合支配をおこなっていた、
とされ、
他国では見られないような階層の者までが城館を築いていた、
とあり、その数、
六十六、とも四十八
ともいわれる。その地侍、土豪、國衆が結束して、自ら、
惣国、
を名乗り、
伊賀惣国、
を結成し、敵を国内に入れないために、
惣国一揆掟、
という掟書を作成した。曰く、
他国より当国へ入るにおいては、惣国一味同心に防がるべく候こと、
国の者どもとりしきり候間、虎口(こぐち)より注進仕るにおいては、里々鐘を鳴らし、時刻を移さず、在陣あるべく候、しからば兵粮・矢楯を持たせられ、一途の間、虎口をくつろがざるように陣を張らるべく候こと、
上は五十、下は拾七をかぎり在陣あるべく候、
等々とあるように、
自己の力で虎口を守って、敵を国内に入れない、
とした。伊賀国内には、
六百を超える城砦群が確認、
されており、これが、油断して侵攻した信雄勢を大敗させた背景になる。
これは、例えば、加賀の、
百姓の持ちたる国、
山城の、
山城国一揆、
とも重なる。しかし、第二次侵攻で壊滅させられた、
国衆は、
ある意味、
「巨視的には古い荘園制度を最終的に一掃し、新しい封建国家をつくり出そうとする戦国大名の動きが、その総仕上げの段階に入ったことを物語っているという点で、我が国の歴史の画期をなす」
という位置づけ(新井孝重『黒田悪党たちの中世史』)、さらに、
「微視的に見ると、まさにこのことのゆえに、地域の個性として長い生命を維持してきた民衆自治があえなく押し潰され、終焉を迎えたということを顕著にあらわしてもいた」
という評価(仝上)とつながる。
中野等『太閤検地-秀吉が目指した国のかたち』(http://ppnetwork.seesaa.net/article/470611023.html)で触れたことだが、後年、佐々成政を切腹に追い込んだ、
肥後一揆、
は、ある意味では、信長政権に立ち向かった伊賀惣国と似て、秀吉政権の領国支配への、肥後の国衆たちの反乱と見ることができる。しかし、こうした地ならしによって、
「兵農分離」ではなく「士農分離」
と言われるように、
中世以来の、地侍、土豪という所有地を持った侍の在り方の解体、士・農の分離を意味する。在地に残った地侍。土豪は、百姓となることを意味した。
土地を失った伊賀者は、たとえば、天正十二年(1584)の薬師寺の記録に、
七条郷の寺院に、白昼。伊賀者が盗人に入ったが、搦め取られて引き渡された、
とあり、処刑されるべきところを、唐招提寺の長老の尽力で助命され、
タフサ(たぶさ)ヲキリハナシ了(おわんぬ)、
と、髻(もとどり)の切り落としで済まされた。
「落ちぶれた伊賀衆の成れの果てであった。もっとも忍びの者であれば、『盗人』は本業の一つであったともいえよう」
とはなかなか手厳しい。
参考文献;
和田裕弘『天正伊賀の乱―信長を本気にさせた伊賀衆の意地』(中公新書)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95