2021年08月21日

人魚


人魚の食いそこね、

という言い伝えがある。「八百比丘尼」http://ppnetwork.seesaa.net/article/482992577.html?1629313561で触れたように、

人魚の肉を食べると長命で、いつまで経っても歳をとらずにいる、

という言い伝えがある。これを指している(日本昔話事典)。

人魚の肉(あるいは九穴の貝、大じゃの肉)の料理を密かに覗き見た者が不気味に思って食べずに持ち帰り、たまたまそれを食べた一人が不老不死の寿命を得た、

といった類の話で、その中で名高いのが、

八百比丘尼(やおびくに)、
あるいは、
白比丘尼(しろびくに)、

と呼ばれる伝説である。この背景には、人魚の肉が、

不老不死の妙薬、

とする俗信があったと思われる。

「人魚」(和漢三才図絵).jpg

(「人魚」(和漢三才図絵) https://kihiminhamame.hatenablog.com/entry/2018/06/21/203000より)

「人魚」というと、

上半身が人間の女、下半身は魚体、

ということになる(広辞苑)が、この人魚像は、

おそらく西洋からの導入であり、江戸期以降に《和漢三才図会》や《六物新志》などの文献がこれを広めたらしい、

とある(世界大百科事典)。

最古の地理書『山海経(せんがいきょう)』(前4世紀~3世紀頃)には、

氐人(テイジン)国在建木西、其為人、人面而魚身、無足(海内南経)、

あるいは、

鯪鯉、人面、手足、魚身、在海中(海内北経)、

あるいは、

决决(ケツケツ)之水出焉、而東流注于河、其中多人魚、其状如䱱魚、四足、其音如嬰児、食之無癡疾(北山経)

とあり(日本伝奇伝説大辞典)、手足があったりなかったりする。「建木」(けんぼく)は、

中国の伝説にある巨木である。天と地を結ぶ神聖な樹だと考えられている。天地の中央に立っているとされ、『淮南子』(えなんじ)では、都広(とこう)山に生えており衆帝がこれによって上下をすると記されている。『山海経』では都広は天下の中央に位置する、

と記述されているhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BB%BA%E6%9C%A8、とある。

「䱱魚(ていぎょ)」は、

オオサンショウウオ科の魚、

を意味するが、「さんしょううお」の意では、

鯢(ゲイ)、

にもその意もあり、

䱱魚、
鯢魚、

は、「さんしょううお」を指す。そして、「鯢魚」の漢名に、

人魚、

がある(大言海)。

その面、猴に似て、其聲、小児の啼くが如し、

とある(仝上)。

貝原益軒編纂の『大和本草』(宝永七(1709)年)には、「䱱魚(ていぎょ)」は、

名人魚此類二種アリ江湖ノ中ニ生シ形鮎ノ如ク腹下ニツハサノ如クニ乄足ニ似タルモノアリ是䱱魚ナリ人魚トモ云其聲如小兒又一種鯢魚アリ下ニ記ス右本草綱目ノ說ナリ又海中ニ人魚アリ海魚ノ類ニ記ス、

とし、「鯢魚(げいぎょ)」は、

おおさんしょううお、

と訓まし、

溪澗ノ中ニ生ス四足アリ水中ノミニアラス陸地ニテヨク歩動ク形モ聲モ䱱魚ト同但能上樹山椒樹皮ヲ食フ国俗コレヲ山椒魚ト云四足アリ大サ二三尺アリ又小ナルハ五六寸アリ其色コチニ似タリ其性ヨク膈噎ヲ治スト云日本處〻山中ノ谷川ニアリ京都魚肆ノ小池ニモ時〻生魚アリ小ナルヲ生ニテ呑メハ膈噎ヲ治ス、

とあるhttps://onibi.cocolog-nifty.com/alain_leroy_/2019/06/post-58535d.html

ミミセンザンコウ.jpg

(ミミセンザンコウ https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B1%97%E7%94%B2%E7%9B%AEより)

「鯪魚(リョウギョ)」は、たぶん、

鯪鯉、

で、

リョウリ、

と訓むが、

イシゴヒ、
センザンコウ、

と訓ませ、

穿山甲(センザンコウ)、

の別名とされる。「鯪」は、

鯉、

の意(字源)で、「鯪鯉」は、

陸に棲息、甲鱗、鯉に似る故に名とす、

とある(大言海)。

形似亀而短小、又似鯉魚、有四足(本草)、

ともある。ややこしいのは、この「鯪鯉」の漢名にも、

人魚、

があることである(大言海)。ただ、これは、

陸鯪と混同したため、

ではないか、としている(仝上)が。

我が国では、推古二十七年(619)四月に、

近江國言、於蒲生河有物、其形如人、

とあり、七月に、

摂津国有漁夫、沈網於堀江、有物入網、其形如児、非魚非人、不知所名、

とある(日本書紀)。これが初出とされる(『和漢三才図会』(正徳三(1713)年)。これを受けて、

太子謂左右曰、禍始于此、夫人魚者瑞物也、今无飛莵出人魚、是為国禍、汝等識之、

とされた(聖徳太子伝暦)、とある。つまりは、人魚は、

祥瑞、

とされもするが(嘉元記)、

不吉、

とされもする(北條五代記)、ということである(日本伝奇伝説大辞典)。

平安時代中期の『和名抄』には、

人魚、一名鯪魚、魚身人面者也、

とある。

穿山甲(センザンコウ)、

はわが国にはいないので、「人魚」と目されたのは、

䱱魚、
鯢魚

と考えるのが、常識的なのだろう。

オオサンショウウオ.jpg

(オオサンショウウオ https://www.jataff.or.jp/monument/7i.htmlより)

『古今著聞集』には、伊勢国別保の浦人が、

大いなる魚の、かしらは人のやうにてありながら、歯はこまかにて魚にたがはず、口さしいでて猿に似たりけり、身は世の常の魚にてありける、

というものを三匹捕らえ、平忠盛に献上したが、忠盛は恐れて浦人に返した。浦人はそれを食べたが、味は良かったものの、格別の異常はなかった、とある(日本伝奇伝説大辞典)。古い時代は、怪獣のように見なしていたように見える。

人魚.bmp

(人魚 精選版日本国語大辞典より)

ただ、若狭国の乙見村の漁師が、

頭は人間にして、襟に鶏冠のごとくひらひらと赤きものをまとひ、それより下は魚、

なるものを見つけ、櫂で打ったところ死んでしまった。ところが、その後、大風・海鳴り・大地震が起こり、御浅岳のふもとから海辺まで地が裂けて、乙見村が陥没してしまった、とある(諸国里人談)。「人魚」を、

水神、

とみなしていた例もある(日本伝奇伝説大辞典)。

鳥山石燕・人魚.jpg

(「人魚」(鳥山石燕『今昔百鬼拾遺』) 鳥山石燕『画図百鬼夜行全画集』より)

参考文献;
鳥山石燕『画図百鬼夜行全画集』(角川ソフィア文庫)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
乾克己他編『日本伝奇伝説大辞典』(角川書店)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
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ラベル:人魚
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2021年08月22日

よわ


「夜半」は、

やはん、

と訓むが、

よは(わ)、

とも訓ます。「夜半(やはん)」http://ppnetwork.seesaa.net/article/482364862.htmlで触れたように、「よは」は、

夜、
夜は、

とも当て(大言海・岩波古語辞典)、

平安・鎌倉時代、多く和歌に使う雅語、

とあり(岩波古語辞典)、

風吹けば沖つ白波たつた山夜半(よは)にや君がひとり越ゆらむ(古今集)、

と、

夜、
真ふけ、
夜中、

の意である(広辞苑・岩波古語辞典)。語源は、

ヨマ(夜閒)の義(大言海・万葉考・雅言考・言元梯・国語の語根とその分類=大島正健)、
ヨフカ(夜深)の義(名語記・三余叢談・名言通・松屋筆記・日本語原学=林甕臣)、
ヨヒyofi(宵)、その母音交替形ユフyufu(夕)等々と同根の語(岩波古語辞典)、

等々の諸説があるように、

本来、現在のヨル(夜)の意で使用されたと考えられる。後に、ヨワは「夜半」と表記され、ヨナカ(夜中)の意で使用された、

とある(日本語源大辞典)。

「よる」の表現には、

よ(夜)、
と、
よる(夜)、

がある。

「よ」が複合語を作るのに対して、「よる」は複合語を作らない、

が(仝上)、古代の夜の時間区分の、

ユフベ→ヨヒ→ヨナカ→アカツキ→アシタ、

うち、「よる」は、

ユフベ→ヨヒ→ヨナカ→アカツキ(アカトキ)、

と区分され(岩波古語辞典)、

当時の日付変更時点は丑の刻(午前二時頃)と寅の刻(午前四時頃)の間であったが、「よなか」と「あかとき」(明時、「あかつき」の古形)の境はこの時刻変更点と一致している、

とある(日本語源大辞典)が、「よる」の古形、

よ、

が、

ユフベ→ヨヒ→ヨナカ、

と区分されたことになり、「よなか」が、

よべ→こよひ、

と、境界線を挟んで、使い分けられていた。

「よべ」は、昨晩の意だが、昨晩を表す語としては、古代・中古には、

「こよひ」と「よべ」とがあった。当時の日付変更時刻は丑の刻と寅の刻の間(午前三時)であったが、「こよひ」と「よべ」はその時を境としての呼称、日付変更時刻からこちら側を「こよひ」、向こう側を「よべ」とよんだ、

とある(仝上)。

「よ」は、

よひ、
よなか、
よべ(昨夜)、

と、「よる」が「ひる」に対し、暗い時間帯全体を指すのに対し、

特定の一部分だけを取り出していう、

とある(仝上)。とすると、「よは」は、

「よ」+「は」

で、「は」は、はっきりしないが、

端、

とあてる「は」なら、

邊に通ず、

とある(大言海)、

はた、へり、

の意の「は」か、

半(ハン)の音か、

とある(大言海)、

はした、

の意の「は」か、

と考えられ、「よる」の「へり」「はし」の意であり、

よひ、
よなか、
よべ(昨夜)、

のように、特定の時間を指していたのかもしれない。たとえば、「夜半(やはん)」が、

子の時、
夜九ツ、

という限定された時間を指しているように、「よは」も、

ここに壯夫《をとこ》ありて、その形姿《かたち》威儀《よそほひ》時に比《たぐひ》無きが、夜半《さよなか》の時にたちまち來たり(古事記)、

と、

さよなか、

と訓ませているように、かなり限定した時間を指していたように思える。

「よは」に当てた、

夜半、

は、漢語である。

厲之人、夜半生其子、遽取火而視之、汲汲然惟恐其似己也(荘子)
夜半有力者、負之而走(仝上)、

と「夜中」の意である(字源・大言海)。だから、「夜半(やはん)」に引きずられて、広く「夜中」の意味に転化したようである。

「夜半」を、

よなか、

と訓ませるのはそれだろう。

ちなみに、「よ」は、

ヨルの古形、「ひ(日・昼)」対、

太陽の没しているくらい時間、

を指し(岩波古語辞典)、

ヨ(節)の義、日(ヒル)と日(ヒル)との中間の意。闇(やみ)ヤに通ず(大言海・東雅)、
ヨ(間)の義、昼と昼の閒の義(言元梯)、

等々が語源とみられ、「よる」は、

昼の対、

で(岩波古語辞典)、

あかねさす昼は物思ひぬばたまのよるはすがらに音のみし泣かゆ(万葉集)

と、

奈良時代は副詞的に独立した形用いた、

が、

よ(「よる」の古形)+る(接尾語)(日本語源広辞典)、
よ(「よる」の古形)+る(助辞)(大言海・俚言集覧・国語の語根とその分類=大島正健)、

等々が語源とみられる。

「よは」は、

平安・鎌倉時代、多く和歌に使う雅語、

とされるように、

夜半の月(よわのつき 秋の季語)、
夜半の春(よわのはる 春の季語)、
夜半の夏(よわのなつ 夏の季語)、
夜半の秋(よわのあき 秋の季語)、
夜半の冬(よわのふゆ 冬の季語)、

等々と使われているhttps://word-dictionary.jp/posts/4535

「半」 漢字.gif

(「半」 https://kakijun.jp/page/0527200.htmlより)

「夜」については、「夜半」http://ppnetwork.seesaa.net/article/482364862.htmlで触れたので、「半」に触れておく。「半」(ハン)は、

会意。「牛+八印」で、牛は、物の代表、八印は両方に分ける意を示し、何かを二つに分けること、八(両分する)はその入声(ニッショウ 音)にあたるから、「牛+音符八」の会意兼形声と考えてよい、

とある(漢字源)。

「半」 成り立ち.gif

(「半」 成り立ち https://okjiten.jp/kanji348.htmlより)

別に、

会意文字です(八+牛)。「二つに分かれているもの」の象形と「角のある牛」の象形から牛のような大きな物を二つに「わける・はんぶん」を意味する「半」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji348.html

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
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ラベル:よわ 夜半 よは
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2021年08月23日

夜っぴて


「夜っぴて」は、

夜通し、
一晩中、

という意味になる(広辞苑)。

ヨッピトイの転、

とある(仝上)。「夜っぴとい」は、

夜一夜(よひとよ)の促訛、

とある(江戸語大辞典)。「夜一夜(よひとよ)」は、

夜一夜とかく遊ぶやうにて明けにけり(土佐日記)、

と使われ、

夜通し、
一晩中ずっと、

の意味である(岩波古語辞典)。

「夜」 漢字.gif

(「夜」 https://kakijun.jp/page/0850200.htmlより)

「夜っぴて」は、

夜っぴとへ、
とか、
夜っぴとい、
とか
夜っぴてへ、

と訛ったり、

よっぴと、

と略されたりする(江戸語大辞典)。

平安時代、「よもすがら」「よすがら」が主として改まった場面や静かな雰囲気を背景に使われ、和歌でも用いられたのに対して、「よひとよ」は日常的で、ややにぎやかな雰囲気を背景に使われる傾向があり、古くは和歌には使われなかった、

とある(日本語源大辞典)。

夜がな夜っぴて、

という使い方もする。「夜がなよっぴて」は、

夜がな夜一夜(よひとよ)、

ともいい、

日がな一日、

と対になる。「日がな」の「がな」には、諸説あるが、

だにの意に似たる辞、
あるいは、
おおかた、

とする説(大言海)がいい、要は、「日がな」http://ppnetwork.seesaa.net/article/438065587.htmlで触れたように、

朝から晩まで、終日、

の意で、

日+がな(強め)+一日、

ということなのだろう(日本語源広辞典)。

ひねもす、
ひもすがら、

という同義になる。「ひねもす」は、

日+助詞モ+ス(接尾語スガラの下略)、

とある。「すがら」http://ppnetwork.seesaa.net/article/420311540.htmlは、

一説に、スガは『過ぐ』と同根、ラは状態を表す接尾語、

とあり(広辞苑)、

名月や池をめぐりと夜もすがら、

というように、

初めから終わりまで途切れることなくずっと、

という時間経過を示していて、それが空間的に転用されと、

道すがら、

になったと考えられる。

何よりのお楽しみ、間(ま)がな隙(ひま)がな耽溺された(三田村鳶魚『武家の生活』)、

という用例がある。

間がなすきがな

という言い回しも載る(大言海)。「すき」は「隙」なのだろう。

少しの暇さえあれば、きりなしに、ひまさえあれば、

という意味になる。

「夜っぴて」の類義語、「夜もすがら」http://ppnetwork.seesaa.net/article/472977426.htmlは、

終夜、

とも当て(広辞苑)、

夢ぢにも露やおくらむよもすがらかよへる袖のひちてかわかぬ(古今集)、

と使われ、

夜も盡(すがら)の意、ひねもすの対、

ともある(大言海)。「ひねもす」http://ppnetwork.seesaa.net/article/445249637.htmlは、

終日、

と当て、

朝から晩まで、
一日中、

という意味で、

ひもすがら、

とも言う。まさに、古代の昼を中心にした時間の区分、

アサ→ヒル→ユフ、

の昼間を指す(岩波古語辞典)。

ちなみに、「夜」http://ppnetwork.seesaa.net/article/442052834.htmlの時間区分は、

ユフベ→ヨヒ→ヨナカ→アカツキ→アシタ、

となる(仝上)。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

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コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
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2021年08月24日

タイマン


「タイマン」は、

怠慢、

ではなく、

タイマン、

と表記される。広辞苑には載らない。

対マン、

とも表記され、

助太刀無用の1対1の喧嘩、

とあり(実用日本語表現辞典)、

1対1で何かを行うことを、

サシで、

と言うこともあるが、こちらは、

差し向かい、

の略とされる(仝上)、とある。

man対manからできた語(デジタル大辞泉)、
man to manを変形させた「マン対マン」の上略(語源由来辞典)、

ともあり、どうやら、

マンツーマン(man to man)→マン対マン→対マン→タイマン、

と転訛したもののようであるhttps://dic.nicovideo.jp/a/%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%83%9E%E3%83%B3

不良少年少女が用いる語で、一対一の喧嘩のこと、

とあり、「一騎打ち」や「決闘」との違いは、

タイマンでは武器を持たずに己の拳で殴り合うことにある、

とあるhttps://dic.nicovideo.jp/a/%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%83%9E%E3%83%B3。したがって、

タイマンは拳一つで成り上がる不良たちの掟(ルール)のため、一対一という形式を守っても武器や凶器を使って戦うことはシャバい(カッコ悪い)行為に当たり、例えそれで勝ったとしても周囲からリスペクト(尊敬)を集めることはできない、

ともある(仝上)。これが流行ったのは、1980年代で、

「ツッパリ」と呼ばれる不良少年が好んで使った言葉である。当時は学校同士やグループ同士のケンカの際、最後は相手の権力者(大将・番長)とタイマンでケリをつけることが美徳とされた、

とあり(日本語俗語辞典)、一般化したのは、本宮ひろ志の漫画など当時の不良やツッパリ漫画でよく使われたからだ、ともある(仝上)。

正しいタイマンのやり方、

というのがあるらしく、

①メンチを切る(タイマンしたい相手の目を見て睨むこと ガンつける、とも)、
②タンカ(啖呵)を切る、
③殴る、

とある(https://dic.nicovideo.jp/a/%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%83%9E%E3%83%B3に譲る)。

これが、広く、

一対一での勝負や交渉、

の意にも使われるようになり、

一騎打ち、

の意と重なるようになる(デジタル大辞泉)。したがって、

「クエスト対象のモンスターとタイマンする」

というように、

対戦ゲームやFPSなどゲームにおいて、対戦相手や敵キャラと、仲間を呼んだり退いたりせずに1対1で戦うこと、

の意で広く使われているhttps://dic.nicovideo.jp/a/%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%83%9E%E3%83%B3

同義語「さし」は、

さしで話す、

と使うが、「さし」http://ppnetwork.seesaa.net/article/447797237.htmlで触れたように、

差し向いの略(江戸語大辞典・大言海)、

であり、「差し」は、接頭語で、

動詞に冠して語勢を強めあるいは整える、

とある(広辞苑)が、

遣るの意なる差すの連用形。他の動詞の上に用ゐること、甚だ多く、次々に列挙するが如し。……又、差しを、指す、擎す、刺すなど、四段活用の動詞に、當字に用ゐることも、多し、

とある(大言海)。

「さし」は、

射し・差し
刺し・挿し、
鎖し・閉し、
注し・点し、
止し、

等々と当て、後から「さし」に漢字を当てたにしても、同じ「さし」でも、区別があったから、異なる漢字を当てたと考えることができる。

最も古くは、自然現象において活動力・生命力が直線的に発現し作用する意。ついで空間的・時間的な目標の一点の方向へ、直線的に運動・力・意向が働き、目標の内部に直入する意、

とあり(岩波古語辞典)、一番多いのは、

差し、

だが、

その職務を指して遣はす意ならむ。此語、さされと、未然形に用ゐられてあれば、差の字音には非ず、和漢、暗合なり。倭訓栞「使をさしつかはす、人足をさすなど、云ふはこの字なり」、

とあり(大言海)、

当てる、遣わす、
押しやる、
突きはる、
将棋を差す、

といった意味で、

「刺す」と同源。ある現象や事物が直線的にいつの間にか物の内部や空間に運動する意、

とある(広辞苑)。

差し遣わす、
差し送る、
差し送る、
差し入れる、
差しかかる、

といった使い方になる。行動のプロセスそのものの意でもあるので、この使い方が一番多いのかもしれない。しかし、「さし」を加えることで、単に、強調する、ということではないはずだ。

渡す、
のと、
差し渡す、

のとでは、「渡す」ことに強いる何かを強調しているし、

出す、

差し出す、

も同じだ。

貫く、

刺し貫く、

でも、ただ貫いたのではなく、ある一点を目指している、という意味が強まる。

仰ぐ、

差し仰ぐ、

では、両者の上下の高さがより強調されることになる。「さし」が、

空間的・時間的な目標の一点の方向へ、直線的に運動・力・意向が働き、目標の内部に直入する意(岩波古語辞典)、

として強調されるということは、

自分の意思、
か、
他人の意思、

が強く働いている含意を強めているように思う。

許す、

差し許す、

あるいは、

控える、

差し控える、

と、意味なく、強調しているのではない。

差し向かい、

の「さし」も、意思が入っている、と考えると、納得がいく。

漢字「差」(漢音サ、呉音シャ)は、

会意兼形声。左はそばから左手で支える意を含み、交叉(コウサ)の叉(ささえる)と同系。差は「穂の形+音符左」。穂を支えると、上端はX型となり、そろわない。そのジグザグした姿を示す、

とある(漢字源)。

「差」 漢字.gif

(「差」 https://kakijun.jp/page/1054200.htmlより)

会意形声。「禾」+音符「左」、刈り取るために穂を左手でまとめるの意。支えた手と刈り取る刃物が交叉することか、

とあるhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%B7%AEのも、

会意兼形声文字です。「ふぞろいの穂が出た稲」の象形と「左手」の象形と「握る所のあるのみ(鑿)又は、さしがね(工具)」の象形から、工具を持つ左手でふぞろいの穂が出た稲を刈り取るを意味し、そこから、「ふぞろい・ばらばら」を意味する「差」という漢字が成り立ちました、

とあるのもhttps://okjiten.jp/kanji644.html、同趣旨。別に、

もと、会意。左(正しくない)と、𠂹(すい)(=垂。たれる)とから成り、ふぞろいなさま、ひいて、くいちがう意を表す。差は、その省略形、

との解釈もある(角川新字源)。

「差」 金文 .png

(「差」 金文・西周 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%B7%AEより)

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
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ラベル:タイマン サシ
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2021年08月25日

与太


与太者、
与太話、
与太郎、

等々と使われる、

与(與)太、

は、

与太婆アさまには困るよう(滑稽・旧観帖)、

と、

知恵の足りない者、
役に立たない者、
おろかもの、

の意か、

でたらめを言う、

意で、

与太を飛ばす、

というように、

でたらめ、
ふざけた、くだらないことば、

の意で使う(広辞苑)、とある。

ヨタ(知恵のたりないもの)をとばす、

と絵解きするものもある(日本語源広辞典)。

さらに、「よた」には、

Yota(ヨタ)ニ ツキアウナ(1886年「改正増補和英語林集成」)、

という用例もあり、

素行不良の者、ならず者、

と、ほぼ、

よた者、

の意でも使うようになっている(精選版 日本国語大辞典)。

「与太」の語源には、

「よたろう(与太郎)」の略(精選版日本国語大辞典)、

と、

「よたんぼう(酔坊)」の略(大言海)、

とがあり、

よたを飛ばすとは、つまらぬことをやり散らすの意、

とする(仝上)。しかし、「よたんぼう」は、

酔うた坊の訛(江戸語大辞典)、
擬人語、酔倒れに、坊を添えたる語(大言海)、

とあり、

よたんぼうの懦弱(たわい)なし(安永十年(1781)「傾城異見之規矩」)、

と、

酔っぱらい、

の意であり(仝上)、あるいは、酔っぱらいの「よたをとばす」ことが、もともと「よた」の始原なのかもしれないが、「よた」の使われ方の中には、「酔っ払い」の含意は消えている。

飴売与太郎 市村羽左衛門.jpg

(「飴売与太郎 市村羽左衛門」(歌川国明) https://ja.ukiyo-e.org/image/ritsumei/arcUP0098より)

与太郎、

というと、落語などで出てくる、

愚か者、

の代名詞だが、

操り・浄瑠璃社会の隠語、

ともあり(広辞苑・江戸語大辞典)、

うそ、でたらめ、
うそつき、

の意とし、

おまへもえぐい与太郎云ひじゃ(天明四年(1784)「二日酔巵觶」)、

の用例の原注に、

「与太郎とはうそつきの事」(大阪下りの芸妓の言)、

とあり(江戸語大辞典)、

与太郎あがく、

という言い回しが、

操り・浄瑠璃社会の隠語として、

嘘を言う、

意で、

おめーが昨夜(よんべ)癪をおこして大さわぎをしたと与太郎あがいたらの、きもをつぶしたよ(文化九年(1812)四十八癖)、

などと使われている。

与太者、

というと、今日では、

愚か者、
役に立たない者、
なまけもの、

の意味よりは、

よたもん、

と言ったりして、

手の付けられない不良の徒、
素行不良の若者、
やくざもの、

という意味が強い(広辞苑・精選版日本国語大辞典)。この意味で使い出したのは、比較的新しく、「よた」に「与太者」の意味が付き加わり出した時期から見ると、明治前後と思われ(改正増補和英語林集成(1886))、大正頃は多く、

よたもん、

といわれ、昭和にはいっては、

よた公(こう)、

ともいわれた、とある(精選版日本国語大辞典・日本語源大辞典)。

「與」 漢字.gif

(「與」 https://kakijun.jp/page/yo13200.htmlより)

漢字「與(与)」(ヨ)は、

会意兼形声。与は牙(ガ)の原字と同形で、かみあった姿を示す。與はさらに四本の手を添えて、二人が両手で一緒に物を持ち上げるさまを示す。「二人の両手+音符与」で、かみあわす、力を合わせるなどの意を含む、

とある(漢字源)。

会意形声。「与」+音符「舁」、「与」はものがかみ合っている姿を意味し「牙」の原字に共通。「舁」は四方から手を差し伸べものを担ぐ様、

とあるのが上記説明を補足してくれるhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E8%88%87

「與」 金文 .png

(「與」 金文・西周 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E8%88%87より)

別に、

旧字は、会意形声。舁(よ)(持ち上げる。は変わった形)と、(ヨ)(くみあう。は変わった形)とから成る。力を合わせて仲間になる、ひいて、ともにする、転じて「あたえる」意を表す。借りて、助字に用いる。常用漢字は與の略字として用いられていたのの変形による(角川新字源)、

会意兼形声文字です(牙+口+舁)。「かみ合う歯」の象形と「口」の象形と「持ち上げる手」の象形と「ひきあげる手」の象形から、手や口うらを合わせて互いに助け合う事を意味し、そこから、「くみする(仲間になる)」、「あたえる」を意味する「与」という漢字が成り立ちましたhttps://okjiten.jp/kanji1356.html

等々の解釈もある。

「與」 成り立ち.gif

(「與」 成り立ち https://okjiten.jp/kanji1356.htmlより)

参考文献;
前田勇編『江戸語大辞典 新装版』(講談社)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
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2021年08月26日

夜泣石


「夜泣石」は、

夜になると石が泣き出す、という伝説を有する石、

のことで、旧東海道沿いにある、

小夜の中山の夜泣石、

は古くから知られている(広辞苑)。

夜泣き石 (小夜の中山).jpg


遠江国掛川市佐夜鹿の小夜の中山(さよのなかやま)峠にある石、

である。夜になると泣くという伝説があり、

遠州七不思議、

のひとつhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%9C%E6%B3%A3%E3%81%8D%E7%9F%B3_%28%E5%B0%8F%E5%A4%9C%E3%81%AE%E4%B8%AD%E5%B1%B1%29、とある。因みに、七不思議には、

夜泣き石(掛川市佐夜鹿、小夜の中山)
桜ヶ池の大蛇(御前崎市佐倉)
池の平の幻の池(浜松市天竜区水窪町池の平)
子生まれ石(牧之原市西萩間、大興寺)
三度栗(菊川市三沢)
京丸牡丹(浜松市天竜区春野町)
波小僧(遠州灘)
片葉の葦(菊川市三沢)
天狗の火(御前崎市)
能満寺のソテツ(吉田町片岡、能満寺)
無間の鐘(掛川市東山、粟ヶ岳)
柳井戸(浜松市北区引佐町)
晴明塚(掛川市大渕)、

が当てられているhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%A0%E5%B7%9E%E4%B8%83%E4%B8%8D%E6%80%9D%E8%AD%B0、とか。

「夜泣石」は、

うなり石、
おなり石、

などとしても知られ、岩が泣き声をあげるだけでなく、

人に話しかけたり、音を発したりする、

ものもある。これを、

岩に神霊や精霊が宿り、その想うところを表現しようとするとき鳴動する、

と考えられ、

岩自体を神格化、

してきた背景に根ざしている(日本昔話事典)、とみられる。

「小夜の中山の夜泣石」は、京都東山から鎌倉に赴くまでの道中の体験や感想を記した、仁治三年(1242)の『東関紀行』以来、多くの文献に載り、安永二年(1773)の「煙霞綺談」西村白鳥(西村白鳥)、文化二年(1805)の『石言遺響』(曲亭馬琴)等々にも似た話が載る。

妊婦が山賊に殺されて、石の下に埋められてから子を産んだ。その幽霊が夜毎に子の食物を買い歩き、その悲しみの声と赤児の声が旅人を悩ませた、

という(仝上)。この話が、いわゆる、

子育て幽霊、

という昔話の話材なっていく。「子育て幽霊」は、

飴買い幽霊、

ともいい、岡本綺堂『中国怪奇小説集』http://ppnetwork.seesaa.net/article/444432230.htmlで触れたように、中国の志怪小説(「志怪」とは、「怪を志(しる)す」)由来と思われ、小夜の中山の夜泣石の伝説も、中国から輸入されたものらしく、宋の洪邁の「夷堅志」のうちに同様の話がある。

馬琴の記したものによると、この話は、

生まれた子は夜泣き石のおかげで近くにある久延寺の和尚に発見され、音八と名付けられて飴で育てられた。音八は成長すると、大和の国の刀研師の弟子となり、すぐに評判の刀研師となった。
そんなある日、音八は客の持ってきた刀を見て「いい刀だが、刃こぼれしているのが実に残念だ」というと、客は「去る十数年前、小夜の中山の丸石の附近で妊婦を切り捨てた時に石にあたったのだ」と言ったため、音八はこの客が母の仇と知り、名乗りをあげて恨みをはらしたということである、

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%9C%E6%B3%A3%E3%81%8D%E7%9F%B3_%28%E5%B0%8F%E5%A4%9C%E3%81%AE%E4%B8%AD%E5%B1%B1%29、因縁話に変わっている。なお、久延寺の和尚が飴で子を育てたという伝説から、

子育て飴、

という、琥珀色の水飴が小夜の中山の名物となっている(仝上)、という。

一般的には、

女人が非業の死をとげた、

という伝説だが、これに、本来別個の

赤児の伝説、

とが結合して、夜泣石が子育ての信仰の対象となり、夜泣きが治るとか、丈夫になるなどの霊験を伝えることになった(日本昔話事典・日本伝奇伝説大辞典)、とみられる。

夜泣石 鳥山石燕.jpg

(「夜泣石」 「遠州佐夜の中山にあり、むかし孕婦この所にて盗賊のために害せられ、子は胎胞の内に恙なく、幸に生長してその讎を報しとかや」(鳥山石燕『今昔百鬼拾遺』 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%9C%E6%B3%A3%E3%81%8D%E7%9F%B3_%28%E5%B0%8F%E5%A4%9C%E3%81%AE%E4%B8%AD%E5%B1%B1%29
長野県更級郡上山田町には、

姥塚の夜泣石、

があり、姥捨山に捨てられた老婆が石に化して、たびたび鳴動して夜泣した、といい、福井県丹生郡朝日町では、比丘尼が谷外に突き落とされ大石の下になって死に、以来大石は夜泣きするといい、長野県下伊那郡上郷村には、

子泣石、

があり、

山崩れで子供が大石に押しつぶされ、その石から毎夜子供の啼く声がするという。こうした岩石は、総じて、

境の神、

を象徴し、道祖神的な役割を担っているのではないか、という見方もある(日本昔話事典)。類似の伝説に、木が夜泣する(その木を削ると夜泣を止める呪いになる)という

夜泣松、

石に向かって声を出すと、木魅のように音が返ってくる、

鸚鵡石、

等々もある(日本昔話事典)。

参考文献;
鳥山石燕『画図百鬼夜行全画集』(角川ソフィア文庫)
稲田浩二他編『日本昔話事典』(弘文堂)
乾克己他編『日本伝奇伝説大辞典』(角川書店)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
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2021年08月27日

子育て幽霊


「子育て幽霊」は、

飴買い幽霊、

ともいい、

妊婦が死んで埋葬されてから出産し、幽霊となって飴などを買い求めてその子を育てる、

という話で、

東北から奄美大島まで全国に分布している(日本昔話事典)。落語では、

幽霊飴、

となっている。この話の典型例は、

一文商いの飴屋へ、毎晩決まった時刻に、一文をもった女が飴を買いに来る。六晩目に、不思議に思った飴屋の主人が女の後をつけると、墓場にきて、そこに赤子の泣き声がする。棺の中の六道銭を使って毎夜飴を買って育てていたが、今夜で錢が尽きたという、女の嘆く声を聞いて、墓の主に知らせる。墓を掘ると、赤子が目をぱちくりしていたので、連れてきて育て、改めて母親を弔う(越後黒姫)、

で、この基本形に、細部で各地各様の変形が見られ、多く、特定の寺院や人名と結び付けた伝説の形をとる(仝上)、とある。

安田米斎画『子育て幽霊図』 (2).jpg

(「子育て幽霊図(部分)」(安田米斎) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%90%E8%82%B2%E3%81%A6%E5%B9%BD%E9%9C%8A

幽霊の買い求めるものには、飴のほか、

団子、
餅、
菓子、
砂糖、
牛乳、
乳の粉、
酢、

等々、代金も、一文から、

二文、
三文、
六文、
一厘、
一銭、
十銭玉、

等々、時代を反映して、さまざま。そして、赤子が、

高僧になった、

とする例も多い(仝上)。有名なのは、

通幻寂霊(つうげん じゃくれい (1322~91年))、

で、通幻の門下には通幻十哲と呼ばれる優れた禅僧を輩出し、全国に開基した寺院8900寺とされる。

因みに、「六道銭」とは、

死者を葬る時棺にいれる六文の錢、

の意で、俗に、

三途の川の渡し錢、

とされるが、

金属の呪力で悪例の近づくのを避けようとしたのが起源、

とある(広辞苑)。これは中国由来の考え方で、六道銭と呼ぶのは仏教による。

日本国内における墓地への銭貨の埋納は、和同開珎の時代にすでに見られるが、数は5枚の整数倍で、結界または土地神(土公神)に対する土地購入の対価と考えられている、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AD%E9%81%93%E9%8A%AD。六道思想が広まった中世以降、6枚の例が増えるが、6枚が通例となったのは、近世になってからである(仝上)。

「夜泣石」http://ppnetwork.seesaa.net/article/483101232.html?1629920079で触れたことと重なるが、岡本綺堂『中国怪奇小説集』http://ppnetwork.seesaa.net/article/444432230.htmlにある、宋代の『夷堅志』「餅を買う女」とほとんど同じ話である。それは、次のような話である。

街に近い餅屋へ毎日餅を買いにくる女があって、彼女は赤児をかかえていた。それが毎日かならず来るので、餅屋の者もすこしく疑って、あるときそっとその跡をつけて行くと、女の姿は廟のあたりで消え失せた。いよいよ不審に思って、その次の日に来た時、なにげなく世間話などをしているうちに、隙をみて彼女の裾に紅い糸を縫いつけて置いて、帰るときに再びそのあとを附けてゆくと、女は追ってくる者のあるのを覚ったらしく、いつの間にか姿を消して、赤児ばかりが残っていた。糸は草むらの塚の上にかかっていた。近所で聞きあわせて、塚のぬしの夫へ知らせてやると、夫をはじめ一家の者が駈けつけて、試みに塚を掘返すと、女の顔色は生けるがごとくで、妊娠中の胎児が死後に生み出されたものと判った。夫の家では妻のなきがらを灰にして、その赤児を養育した。

まさに、「子育て幽霊」と話の骨子は同じである。

日本各地につたわる話を、

説法による真実性を増すためにでっちあげ説、
飴の販売促進のための飴屋による宣伝説、
禁忌を破り子を生した僧の外分を保つための保身説、
墓場に捨てられた赤子が拾われた場合の出所説、

等々https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%90%E8%82%B2%E3%81%A6%E5%B9%BD%E9%9C%8Aと、話の由来をあげつらうことはできるが、江戸時代(寛文年間1660年代)に、

『伽婢子(おとぎぼうこ)』
『狗張子(いぬはりこ)』

が、志怪小説の翻案として出されている。中国で志怪小説『夷堅志』に取り上げられたのが、宋代なので、日本で流布する600年前になる。やはり、中国伝来と考えていいようである。

別に、「子育て幽霊」の話は、親の恩を説くものとして多くの僧侶に説教の題材として用いられたりもしており、

死女が子供を生む話はガンダーラの仏教遺跡のレリーフにも見られ、日本で流布している話の原型は『旃陀越国王経』であるとされる。幽霊があらわれて7日目に赤ん坊が発見される件に注目し、釈迦を生んで7日で亡くなった摩耶夫人のエピソードとの関連を指摘する、

という説もある(仝上)。それが、中国の志怪小説に流れ、それが日本で流布する原型になった、ということなのかもしれない。因みに、

ゲゲゲの鬼太郎、

も、死んだ母親から墓場で生まれたとされ、元々は、

墓場の鬼太郎、

であったhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B2%E3%82%B2%E3%82%B2%E3%81%AE%E9%AC%BC%E5%A4%AA%E9%83%8E、とか。

「子育て幽霊」伝説の多くは、「異常死葬法」の発生を説くものがある。曰く、

身ごもって死んだときにはその子を育てるだけの金を棺に入れる、
六文銭を入れる、
死んだに妊婦は胎児と見ふたつにして葬る、

等々こうした習俗の理由説明を説いている(日本昔話事典)。

なお、妊婦の妖怪「うぶめ」http://ppnetwork.seesaa.net/article/432495092.htmlについては触れた。

「飴」 漢字.gif


なお、「あめ(飴)」http://ppnetwork.seesaa.net/article/460068884.htmlで触れたように、「飴」(漢呉音イ、漢音シ、呉音ジ)は、

会意兼形声。「食+音符台(人工を加えて調整する)」。穀物に人工を加て柔らかく甘くした食物、

とあり(漢字源)、別に、

会意兼形声文字です(食+台)。「食器に食べ物を盛りそれに蓋をした」象形と「農具:すきの象形と口の象形」(「大地にすきを入れて柔らかくする、やわらか」の意味)から、やわらかな食品「あめ」を意味する「飴」という漢字が成り立ちました、

との解釈もあるhttps://okjiten.jp/kanji2275.html

参考文献;
稲田浩二他編『日本昔話事典』(弘文堂)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

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2021年08月28日

旅と網目


ロラン・バルト『旧修辞学』を読む。

旧修辞学.jpg


本書は、「修辞学」の歴史に当たる、

旅、

と、

その分類にあたる、

網目、

とからなる。著者は、

古典時代の「修辞学」について、年代記的、体系的な見通しを与えてくれるような本か教科書があったら、

この著作は必要ではなかった、と述べている。それは、

まだ存在しないテクスト、

つまり、いままだない、

新「修辞学」、

を発想の始原としている、という。つまり、その新しいテクストに迫る一つの方法として、

テクストが何から発し、何に抗してみずからを探求してきているかを知ることであり、したがって、エクリチュールの新しい記号論と、何世紀もの間、「修辞学」と呼ばれてきた文学言語の古い実践と対決させること、

そのために、

予備的作業として、

本書のような、「修辞学」の便覧を必要とした、というのである。たしかに、修辞学の、

調査結果を簡単にまとめ、いくつかの術語と分類のおさらいをした程度の……知識をまとめただけのテクスト、

ではあるが、著者自身が、

この古い修辞学体系の力と精緻さ、ある種の命題の現代性に興奮し、感嘆しなかったというわけではない、

と書いているように、この整理とまとめは、凡百の要約とは趣を異にし、訳者が、

項目の選択、配列、整理等に、いかにもバルトらしい新鮮な解釈がみてとれる。……現代的視点で学ぶことのできる、

修辞学の歴史と体系になっている、と評するように、素人から見ても、随所にはっとさせる記述がある。修辞学の年代記風の「旅」とされた「修辞学史」の最後で、著者は、こうまとめている。

それは、知性と洞察力にとって魅惑的な対象であり、1つの文明が、その広大な領域全体を挙げて、権力の道具であり、歴史的闘争の場であるみずからの言語活動を分類するため、つまりそれを考えるために創出した壮大な体系である。その対象をそれが展開した多様な歴史の中に正しく置き戻せば、それを読むことは実に興味深いものである。しかし、それはまた、イデオロギー的対象であり、それに取って代わったあの《別物》の隆起によってイデオロギーに堕し、今日、必要不可欠な批判的距離をとることを余儀なくさせているものである、

と。しかし、修辞学は、

アリストテレス(そこから、修辞学は発した)といわゆる大衆文化との間に一種の根強い一致点がある、

ところが面白い。

アリストテレスの「修辞学」は、とりわけ、立証の、推論の、近似的三段論法(エンテューメーマ)の修辞学である。それは、意識的に程度を落とし、《公衆》の、つまり、常識の、世論のレベルに適用された論理学である。文学作品にまで範囲を広げれば(それが本来の姿ではなかったが)、それは作品の美学よりも、公衆の美学を含むことになるであろう。だから、それは、(中略)あらゆる(歴史的)差異を考慮に入れるならば、われわれの時代の大衆文化と称せられるものにうまく適合するであろう。その大衆文化では、アリストテレス的な《真実らしいこと》、つまり、《公衆が可能だと思うこと》が支配しているのである。

そのアリストテレス的な、

意識的に公衆の《心理》に従う良識の修辞学、

は、

あたかも、ルネッサンス以来、哲学として、また、論理学としては死に、ロマン主義以来、美学としては死んだアリストテレス主義が、格下げされ、拡散し、不分明になった状態で、西欧社会の文化的実践―民主主義を通じて、《最大多数》の、多数決原理の、世論のイデオロギーに基づいた実践―の中で、生きのびてきたかのようだ。あらゆる点で、一種のアリストテレスの通俗版が、なおも、歴史を貫く西欧の一つのタイプを、endoxa(通念に適う)の文明である(われわれの文明)を定義しているといえる。アリストテレス(詩学、論理学、修辞学)が、《マスコミュニケーション》によって送られる、説話的、弁論的、論証的、全言語活動に、(《真実らしさ》の概念を初めとする)完全な分析用格子を提供しているという明白な事実、彼が、応用科学を定義し得る、メタ言語の理想的な同質性を体現しているという明白な事実からも、どうして眼をそむけることができようか。だから、民主主義の体制では、アリストテレス主義は最良の文化社会学となるのであろう。

と。修辞学が本来持っていたのは、

真実らしくない可能なことよりも、可能でない真実らしいこと、

つまり、

現実に可能なことでも、世論という集団的検閲によって拒否されるならば、それを語るよりは、たとえ科学的に不可能であっても、公衆が可能だと思うことを語る、

ための、

技術、

なのである、と。

個人的には、

推論、

における、

演繹、

帰納、

が面白く、

実例は修辞学的な帰納である、特殊から別の特殊へと外に現われない普遍的なものの鎖に従って進むのである、1つの対象から種へと遡り、その種から新たな対象へと下るのである。

とあり、それは、

説得的な類似であり、類比による論証である。

とある。この幅は、

現実的なもの、

虚構的なもの、

があり、実例から喩、寓話までの幅がある。

他方、演繹は、

真実らしさ、あるいは、しるしに基づいた三段論法、

とされる。それは、

説得はできるが、証明はできない、

ものとされ、

蓋然的なこと、つまり、公衆が考えていることから出発する、もっぱら公衆と調子をあわせて(誰それと調子を合わせるというように)展開された修辞学的な三段論法である。それはもっぱら分析のためになされる抽象的演繹とは逆に、みせるという観点から(それは、いわば、見るに耐える見世物なのだ)、提出される、具体的な価値をもった演繹である。

ここに、どうも修辞学のもつ原点があるようなのである。

参考文献;
ロラン・バルト(沢崎浩平訳)『旧修辞学』(みすず書房)

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2021年08月29日

未来の萌芽


クーリエ・ジャポン編『変貌する未来―世界企業14社の次期戦略』を読む。

変貌する未来 世界企業14社の次期戦略.jpg


本書は、「クーリエ・ジャポン」に掲載された記事から、「ビッグテックはどこに向かうか」というテーマで、

フェイスブック、
グーグル、
アマゾン、
マイクロソフト、アップル、

を、「新しい潮流」というテーマで、

スペースX、
ネットフリックス、
ショッピファイ、
リヴィアン、
ビオンテック、

を、「国際企業が見る世界」というテーマで、

トタル、
パランティア、
TSMC、
アリババ、
シリコンバレー(クリーンテック2.0)、

と、

CAFAM(ガファム)をはじめ、宇宙、エンタメ、モビリティ、医療、エネルギーなど多岐にわたる分野の、レガシー企業から新興企業まで、

を取り上げたものを収録している。

「はじめに」で、本書のテーマは、

世界企業、

であるとしている。この中に、日本企業は入っていない。世界的な新たな潮流からは完全に置き去りになっているという象徴のように感じる。

味の薄いインタヴューもあるので、全てが突っ込み十分とはいかないが、この中で、面白かったのは、「反アマゾン同盟」と名づけられている、eコマースの、

ショップ・フライ、

であり、新型コロナワクチンを開発した、トルコ系ドイツ人科学者夫妻が起業した、

ビオンテック、

であり、CIA、クレディ・スイス、エアバス等々がそのソフトウエアを利用する、データ分析の、

パランティア、

であり、ファブレス企業の受託先として、半導体受託生産で独り勝ちする、

TSMC(台湾積体電路製造)、

である。まさに、唯一という独自性で、その存在価値を高めていると言っていい。

フェイスブックのザッカバーグのように、

コミュニケーションとテクノロジーを交差させること、

を重視し、

「たとえば大脳皮質の視角野では、感情や人間同士の関係性を読み取っています。あなたの眉毛が1ミリ動けば、僕は新たな感情を捉えてすぐに気づきます。ぼくの息づかいが変われば、あなたも同じように気づくでしょう。……「ミラーニューロン」…はいま起きていることに関心を寄せながら、周囲の人々を感情移入しようとするものです。
 でもそういう役割を果たすテクノロジーはまだありません。……僕が改善したいのは、まさにそこなんです。」

と、VR(仮想現実)は未来のテレビ、AR(拡張現実)は未来の形態として、人と人を近づけることを目指すのもあれば、

AI、

を軸に、ネットとつなぐ自動運転、スマートホーム等々を連携するグーグル、さらに、

AIファースト、

を掲げ、「ビッグAI」とともに、

スモールAI、

にも着目するマイクロソフト等々のCAFAMの技術的な未来像よりは、スペースXの、イーロン・マスク(テスラのCEOでもある)の、

小惑星の衝突や疫病の流行といった有事に備え、火星にコロニーを建設したい、

と本気で考え、民間ではじめて宇宙船の打ち上げに成功した例が、いろいろな意味で興味深い。それに対比されるのが、相次いで個人的な宇宙旅行を実現した、

米アマゾン創業者のジェフ・ベゾス、
ヴァージン・グループ創業者のリチャード・ブランソン、

は、

ヨーロッパが大洪水に見舞われ、北米では記録的な酷暑になるなど、気候変動が原因と思われる自然災害に多くの人が苦しむ中、先を競うように宇宙旅行をする億万長者に対して、否定的な声も少なくない、

とされるhttps://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2021/08/post-96826.php。金持ちには金持ちとして為すべきことがある、というのは、ある意味、

ノブレス・オブリージュ(noblesse oblige)、

の伝統である、

身分の高い者はそれに応じて果たさねばならぬ社会的責任と義務がある、

という欧米社会における基本的な道徳観である。だから、ベゾスに対しては、

「いずれはロボットに置き換えられる運命の従業員たちが、トイレ休憩さえとれずにペットボトルで用を足している間に、せっせと富をため込んでいる腹立たしいほどの大富豪」

との評(深夜テレビ番組の司会者、スティーヴン・コルベア)が出るのである。

参考文献;
クーリエ・ジャポン編『変貌する未来―世界企業14社の次期戦略』(講談社現代新書)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

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2021年08月30日

久米仙人


「久米仙人(くめのせんにん)」は、

久米寺の開祖、

と伝えられる人であるが、

大和の国の人、……吉野郡の龍門寺に籠りて、仙の法を行ひ、仙人と成りて、空に昇りて、飛渡る閒に、吉野川の邉に、若き女の、衣を洗ふとて、衣を掲げて、白き脛をあらはしたるを見て、心、穢れて其女の前に落ち、遂に夫婦と成りて、凡人となりしと云ふ、

とある(大言海)。

『和州久米寺流記』には、

毛堅仙、

『本朝神仙伝』には、

堅仙人、

とあるが、久米仙人に関する話は、

『七大寺巡礼私記』
『和州久米寺流記』
『元亨釈書』
『扶桑略記』

等々の仏教関係だけでなく、

『今昔物語集』
『徒然草』
『発心集』

その他にも記述があるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%85%E7%B1%B3%E4%BB%99%E4%BA%BA。『徒然草』第八段「世の人の心惑はす事」には、

世の人の心惑はす事、色欲には如かず。人の心は愚かなるものかな。
匂ひなどは仮のものなるに、しばらく衣裳に薫物すと知りながら、えならぬ匂ひには、必ず心ときめきするものなり。九米の仙人の、物洗ふ女の脛の白きを見て、通を失ひけんは、まことに、手足・はだへなどのきよらに、肥え、あぶらづきたらんは、外の色ならねば、さもあらんかし、

とある。仙人は、「手足・はだへなどのきよらに、肥え、あぶらづきたらんは、外の色ならねば」、

心穢れて、

通力を失ったのである。

しかし、普通の人となった「仙人」は、高市郡(たけちこおり)の都を設営するたって、その工事に、人夫として駆り出されることになる。

久米仙人の図 ① 月岡雪鼎.jpg

久米仙人の図② 月岡雪鼎.jpg

(久米仙人の図(月岡雪鼎 https://rupe.exblog.jp/19378689/より)

『今昔物語』巻11第24話「久米仙人始造久米寺語」では、

然る間、久米の仙、其の女と夫妻として有る間、天皇、其の国の高市の郡に都を造り給ふに、国の内然るに(ぶ)を催して、其の役とす。然るに、久米、其の夫に催出されぬ。余の夫共、久米を、「仙人、々々」と呼ぶ。行事官の輩有て、是を聞て問て云く、「汝等、何に依て彼れを仙人と呼ぶぞ」と。夫共、答て云く、「彼の久米は、先年龍門寺に籠て、仙の法を行て、既に仙に成て空に昇り飛び渡る間、吉野川に女、衣を洗ひて立てりけり。其の女の褰(かか)げたる脛白かりけるを見下しけるに、本其の心穢れて忽ち其の女の前に落て、即ち其の女を妻として侍る也。然れば、其れに依て仙人とは呼ぶ也」。
行事官等、是を聞て、「然て止事無かりける者にこそ有なれ。本仙の法を行て、既に仙人に成にける者也。其の行の徳、定て失給はじ。然れば、此の材木、多く自ら持運ばむよりは、仙の力を以て、空より飛しめよかし」と、戯れの言に云ひ合へるを、久米、聞て云く、「我れ、仙の法を忘れて年来に成ぬ。今は只人にて侍る身也。然許の霊験を施すべからず」と云て、心の内に思はく、「我れ、仙の法を行ひ得たりきと云へども、凡夫の愛欲に依て、女人に心を穢して、仙人に成る事こそ無からめ。年来行ひたる法也。本尊、何(いかで)か助け給ふ事無からむ」と思て、行事官等に向て云く、「然らば、若やと祈り試む」と。行事官、是を聞て、「烏滸(をこ)の事をも云ふ奴かな」と思乍ら、「極て貴かりなむ」と答ふ。
其の後、久米、一の静なる道場に籠り居て、身心清浄にして、食を断て、七日七夜不断に礼拝恭敬して、心を至して此の事を祈る。然る間、七日既に過ぬ。行事官等、久米が見えざる事を、且は咲ひ且は疑ふ。然るに、八日と云ふ朝に、俄に空陰り暗夜の如く也。雷鳴り雨降て、露物見えず。是を怪び思ふ間、暫許(とばかり)有て、雷止み空晴れぬ。其の時に、見れば、大中小の若干の材木、併ら南の山辺なる杣より空を飛て、都を造らるる所に来にけり。其の時に、多の行事官の輩、敬て貴びて久米を拝す、

と後日譚を記す。で、

其の後、此の事を天皇に奏す。天皇も是を聞き給て、貴び敬て、忽に免田卅町を以て久米に施し給ひつ。久米、喜て、此の田を以て其の郡に一の伽藍を建たり。久米寺と云ふ是也。
其の後、高野の大師、其の寺に丈六の薬師の三尊を、銅を以て鋳居へ奉り給へり。大師、其の寺にして大日経を見付て、其れを本として、「速疾に仏に成るべき教也」とて、唐へ真言習ひに渡り給ける也。然れば、「止事無き寺也」となむ、語り伝へたるとや、

と久米寺創建譚へつながるのである。『七大寺巡礼私記』、『和州久米寺流記』によると、

聖武天皇(在位 724~49)の命により東大寺に大仏殿を建立(竣工 758)する際、久米仙人は俗人として夫役につき、材木の運搬に従事していた。周囲の者が彼を仙人と呼んでいるのを知った担当の役人は、……「仙人ならば神通力で材木を運べないか」と持ち掛けた。七日七夜の修行ののち、ついに神通力を回復した彼は8日目の朝、吉野山から切り出した材木を空中に浮揚させて運搬、建設予定地に着地させた、

ということになっているhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%85%E7%B1%B3%E4%BB%99%E4%BA%BA。別に、『和州久米寺流記』では、その後百数十年、久米寺に住んだ久米仙人と妻はどこかへ飛び去ったという後日談を記し(仝上)、

ある日忽然と久米仙がいずかたかへ飛び去った後、残された妻は久米を恋い慕って死し、七箇日に当たる日、久米が帰って妻のために呪願すると、妻は蘇生し夫婦とも西方を指して飛び去った、

とあり、

世に伝へて云はく、仙人は十一面観音、嫗は大勢至菩薩なり、

と割注があるという(日本伝奇伝説大辞典)。

ただ、『扶桑略記』は、

本朝往年有三人仙。飛龍門寺。所謂大伴仙、安曇仙、久米仙也。大伴仙草庵。有基無舎、余両仙室。于今猶存、

と、仙人は三人であると記し、久米仙が、飛行中落下し、その大和国高市郡に精舎を建て、丈六の金銅薬師仏と日光月光像を鋳て据え奉った、とあるのみで、女人も、川の名も示さないで、久米寺創建の旨のみ記す(日本伝奇伝説大辞典)。

ここに出る、

大伴、安曇、久米、

は、古代氏族の名であり、久米寺は、大和志料によると、

白橿村大字久米にあり、

とあり、現在の橿原市久米町にある。畝傍山の南にあるこの辺りは、古く久米部が居住していたらしい。大和平定の功により、久米部が賜った地という(守屋俊彦「久米の仙人」)。久米寺は、氏族久米部の氏寺ではなかったか、という推測も成り立つ(仝上)。

『元亨釈書』では、

入深山学仙法。食松葉服薛荔。一且騰空。飛過故里。会婦人以足踏浣衣。其脛甚白。忽生染心。即時墜落、

とあり、この地が「故里」であったとある。『和州久米寺流記』では、だから、

此毛堅仙常自龍門嶽飛通葛木峯。於其途中久米河有洗布之下女。仙見其股色愛心忽発。通力立滅落于大地畢、

と、故里の久米川に落ちたことになる(仝上)。だから、この、

久米の仙人が、久米川のあたりで女の白いはぎをみて落下した、

というのが、原形ではないか(仝上)、という推測が成り立つようだ。

春潮 久米仙人.jpg


ただ、この久米仙人説話については、『菩薩処胎経』(巻第七緊陀羅品第三十)にある、

ある人、深山にあって仙人の法を学び能く成就して五百の弟子をもっていたが、仏の出世を聞きこれを拝せんものと山を出て空を飛び、王宮の後園の浴池を過ぎたとき、多くの采女たちが池で洗浴するのを見て染愛の心をおこし、通力を失って薗中へ墜落した、

という話が、酷似しているとして、

久米の事と甚だ相似せり、

と記しているものがある(元禄十五(1702)年『本朝高僧伝』)、という(日本伝奇伝説大辞典)。仏典由来ということは、あり得るかもしれない。

参考文献;
佐藤弘夫『日本人と神』(講談社現代新書)
乾克己他編『日本伝奇伝説大辞典』(角川書店)
守屋俊彦「久米の仙人」(甲南女子大学研究紀要)

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2021年08月31日

おのづから


「おのづから(おのずから)」は、

自(づ(ず))から、

あるいは、

自然、

と当てる(岩波古語辞典)が、

己(おの)つ柄(から)、

の意(広辞苑・岩波古語辞典)とあり、

ツは連体助詞、

カラは生まれつきの意(岩波古語辞典)、
「から」はそれ自身の在り方の意(広辞苑)、
オノ(己)+ヅ(の)+から(原因)で、自分自身から(日本語源広辞典)、

あるいは、

己之従(オノヅカラ)の義、其物事のあるままよりの意(大言海)、
オノレ(己)ヅカラの義(名語記・名言通)、
オノレ(己)カラの義、ツは休め字(和句解・日本釈名)、

は、ほぼ同趣旨、また、

オノテカラ(己手故)の義(言元梯)、
オノガテカラ(己手自)の義(俚言集覧)、
オノレミヅカラ(己自)の義(雅言考)、

等々は、「おのづから」の語意から推し量ったように感じられる。

「おのづから」は、

山辺(やまのへ)の五十師(いし)の御井(みゐ)はおのづから成れる錦(にしき)を張れる山かも(万葉集)、

のように、

自然の力、生まれつきの力、

の意であり、そこから、抽象化した、

この言葉の歌のやうなるは楫取(かじとり)のおのづからのことばなり(土佐日記)、

と、

もとからあったもの、ありのままのもの、

の意となり、

あながちに(更衣を)お前さらずもてなせ給ひしほどにおのづから軽きかたにも見えしを(源氏物語)、

と、

自然の成り行きで、成り行きから当然に、

の意となり、そこから、

おのづから來などもする人の簾(す)の内に人人あまたありて物など言ふに、ゐ入りて(枕草子)、

と、それを内からではなく、外から見れば、

たまたま、

の意へと転じていくのはあり得る。つまり、

物事がもとからあったそのままに→物事が行われていくうちにひとりでに→自然に→(外から見れば)たまたま、

と意味が少しずつシフトしていく形になる。

「おのづ(ず)から」の「づから(ずから)」は、

み(身)づから、
手づから、
心づから、

等々と共通で、

連体格を示す「つ」と体言「から」、

で(日本語源大辞典)、「つ」は、

奈良時代に多く用いられた助詞で、位置とか、存在の場所とかを示すことが多い、

とある(岩波古語辞典)。

天つ神、
國つ神、
内つ宮、
外つ宮、

等々と使われたが、平安時代になると「つ」は、

目(ま)つ毛、
わたつみ、

等々にのみ用例として残るだけになっている(仝上)。「から」は、語源は、

名詞「から」、

とされる。この「から」http://ppnetwork.seesaa.net/article/464302432.htmlは、前に触れたように、

族、
柄、

と当てるが、

満州語・蒙古語のkala、xala(族)と同系の語。上代では「はらから」「やから」など複合した例が多いが、血筋・素性という意味から発して、抽象的に出発点・成行き・原因などの意味にまで広がって用いられる。助詞カラもこの語の転、

であり、

この語は現在も満州族。蒙古族では社会生活上の重要な概念であるが、日本の古代社会には、ウヂ(氏)よりも一層古く入ったらしく、奈良時代以後、ウヂほどには社会組織の上で重要な役割を果たしていない。なお朝鮮語ではkyöröi(族)の形になっている、

とあり(岩波古語辞典)、助詞「から」は、この名詞「から」由来で、

「国から」「山から」「川から」「神から」などの「から」である。この「から」は、国や山や川や神の本来の性質を意味するとともに、それらの社会的な格をも意味する。「やから」「はらから」なども血筋のつながりを共有する社会的な一つの集りをいう。この血族・血筋の意から、自然のつながり、自然の成り行きの意に発展し、そこから、原因・理由を表し、動作の出発点・経由地、動作の直接続く意、ある動作にすぐ続いていま一つの動作作用が生起する意、手段の意を表すに至ったと思われる、

とある(仝上)。だから、「おのづから」の「おの」は、

「おの(己)」は反射指示(「……自身」)、

であり、「おのづから」は、

他からの作用の有無にかかわらずそれ自身の本質によって、

の意となる(日本語源大辞典)、とある。

「おのづから」に当てる、

自(づ)から、

は、

みづから、

とも訓ませる。

ミ(身)ツカラの転、ツは助詞、からはそれ自体の意(広辞苑)、
身つからの意。ツは連体助詞。カラは自体の意(岩波古語辞典)、
ミツカラ(身之自)の義(東牖子・大言海)、

等々とあり

万葉集に入らぬ古き歌、みづからのをも奉らしめ給ひてなん(古今集)、

と、

自分自身、

の意で使う(広辞苑)。「みづから」の「つ」も「から」も「おのづから」の「づから」と同じである。

竹内整一『「おのずから」と「みずから」』http://ppnetwork.seesaa.net/article/415685379.htmlで、「おのづから」と「みづから」については対比したが、

「おのずから」が、

「オノ(己)+ヅ(の)+カラ(原因、由来)」

で、ひとりでに、という意味なのに対して、「みづから」は、

「身+つ(助詞)」

で、それ自体、つまり、自分から、の意となる。しかし、

みずから

おのずから

も、

自から、

と当てることについて、そこには、

「おのずから」成ったことと、「みずから」為したことが別事ではないという理解がどこかで働いている、

のではないかという指摘があった。その一例として、

「われわれは、しばしば、『今度結婚することになりました』とか『就職することになりました』という言い方をするが、そうした表現には、いかに当人「みずから」の意志や努力で決断・実行したことであっても、それはある『おのずから』の働きでそう“成ったのだ”と受けとめるような受けとめ方があることを示しているだろう。」

を挙げる(竹内整一『「おのずから」と「みずから」』)。そこには、諸々の出来事は、

「『おのずから』の働きで成って行くのであって、『みずから』はついに担いきれない」

という、責任が取りきれない、という考え方に通じていく。それを、

「『みずから』は『おのずから』に解消されてしまっている」

との指摘であった。それと似た例は、

すいません、

がある。「すいません」http://ppnetwork.seesaa.net/article/398895440.htmlで触れたように、「すいません」には、「済まない」ことを済ませよう(済ませてもらおう)とする、何となく曖昧な(心理的な)逃げがあって、本当の詫びとは思えないところがあるように、僕は感じる。謝る意思があるなら、

御免なさい、

か、感謝なら、

ありがとう(ございます)、

であり、どこかニュートラルな(心理的な)逃げの表現に思えてならない

「自」 漢字.gif


「自」(漢音ジ、呉音シ)は、

象形。人の鼻を描いたもの。「私」がというとき、鼻を指さすので、自分の意に転用された。また出生のさい、鼻を先にして生れ出るし、鼻は人体の最先端にあるので、「……からおこる、……から始まる」という起点をあらわすことばとなった、

とある(漢字源)。

「自」 甲骨文字.png

(「自」 甲骨文字・殷 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E8%87%AAより)

「己」(漢音キ、呉音コ)は、

象形。己は、古代の土器のもようの一部で、屈曲して目立つ目印の形を描いたもの。はっと注意をよびおこす意を含む。人から呼ばれてはっと起立する者の意から、おのれを意味することになった、

とある(漢字源)。この解釈に対して、

糸巻きの象形で、自分の意味は仮借による(白川)、

と対立説を挙げhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%B7%B1

象形。先端を引き出した糸筋の形にかたどり、糸のはし、ひいて、はじめの意を表す。「紀(キ)」の原字。借りて、「おのれ」の意に用い、また、十干(じつかん)の第六位に用いる、

との解釈もある(角川新字源)。

「己」 漢字.gif

(「己」 https://kakijun.jp/page/0329200.htmlより)

更に、この「糸巻」説は、

象形文字です。「3本の横の平行線を持ち、その両端に糸を巻き、中の横線を支点とする糸巻き」の象形。「紀」の原字で、糸すじを分ける器具の意味を表しましたが、借りて(同じ読みの部分に当て字として使って)、「おのれ(自分)」を意味する「己」という漢字が成り立ちました、

とも詳説されるhttps://okjiten.jp/kanji974.htmlが、穿ち過ぎではないか。甲骨文字を見ると、

土器に書かれた矢印で、注意を呼び起こすことから、自分を意味するようになった、

とする説(漢字源)が妥当に思えるが。

「己」 甲骨文字.png

(「己」 甲骨文字・殷 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%B7%B1より)

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)

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