2021年08月13日

女軍


長尾剛『女武者の日本史』を読む。

女武者の日本史.jpg


女軍、

は、

めのいくさ、
めいくさ、

と訓ませ、

女子の兵士・軍隊の意、

の意ともされるが、一説に、

男軍(おのいくさ)・女軍(めのいくさ)

は、

追手(おうて 大手)・搦手(からめて)、

の意で、

敵軍の後側に攻めかかる軍隊、

を、

女軍とする、

とする(精選版 日本国語大辞典)。

又女坂(めさか)に女軍(メノいくさ)を置き、男坂に男軍を置き(日本書紀)、

とあるのはそれであるが、『夏山雑談』(1741)は、

神武紀に、男軍(をいくさ)女軍(メイクサ)とあるは、正兵奇兵にて、追手搦手のことにや、

と解釈している。これは、

男浪(おなみ)、

に対して、

女浪(めなみ)、

というのと同じような使い方で、この説はあり得ると思う。本書は、表題に、

女武者、

とあるように、

女軍、

を、「女武者」の意として使っている。それにしても、

「我が国では、女軍という『戦う女性』が、古くから存在していた」

というのは、どうなのだろう。前述、

又女坂(めさか)に女軍(メノいくさ)を置き、男坂に男軍を置き(日本書紀)、

を文字通り、

女軍部隊、

の意と解釈しているが、果たしてそれでいいのかどうか、疑問である。それに、

神功皇后、
樟媛、
上毛野形名の妻、
薩摩比売、

等々は、どちらかというと積極的というよりは、夫の死や夫に代わって、という意味が強く、どうも、

女武者、

といっていいのかどうか。

巴御前、
坂額御前、

は確かに女武者であったと認めていい。それ以降、たとえば、南北争乱期の、

山名勢猛からず、七、八百騎か、そのうち女騎多し(園大暦)、

とあるように、戦国期になると、女性武者が目立つ。確かに、村上水軍の、

鶴姫、

上野隆徳の妻の、

鶴姫、

は、実際に戦闘に加わっている。しかしこれも、攻め立てられ防戦の中でのことで、初めから積極的に戦闘員として組み入れられていたというわけではない。

富田信高の妻(安濃津城)、
甲斐姫(忍城)、
立花誾千代(立花城)、
お田鶴(曳馬城)、
妙林尼(鶴崎城)、

等々も、籠城戦や父や夫の代わりに戦いの場に臨んだ例に過ぎない。

新徴組の女剣士の中沢琴、
会津婦女隊の中野竹子、
会津若松城のスナイパー山本八重、

は、しかし、積極的に戦に赴いたと言えばいえるが、中沢を除けば、籠城戦故の参戦という面がある。

本書が言うように、「女武者」としての、

女軍、

が例として皆無とは言わないが、その概念を広げ過ぎ、明治以後の、

自由民権の福田英子、
実践女学院の下田歌子、
東京女子医学専門学校の吉岡弥生、

までいくと、「女軍」の概念は、ぐずぐずになってしまっている。

信長公記にも、高遠城攻めにおいて、

諏訪藤右衛門女房、刀を抜き放ち、切ってまわり、比類なき活き前代未聞の次第なり、

とあるように、絶体絶命の籠城戦では、女性もまた戦力として働く、というのは別に戦国期までは当たり前だったのではないか。それを取り立てて、

女軍、

として言挙げしようとすると、無理が出てくる。

三田村鳶魚『武家の生活』http://ppnetwork.seesaa.net/article/445487389.htmlで、「武士道」について、

「武士が切腹をするということには、二通りの意味がある。その一つは、自分の犯した罪科とか過失とかに対して、自ら悔い償うためには、屠腹するということであり、今一つは、申し付けられて、その罪を償うということである。そして、そのいずれにしても、切腹は自滅を意味する。(中略)切腹は、…武士に対する処決の一特典にしか過ぎないのである。ただ自らその罪に対する自責上、切腹して相果てるというその精神だけは武士道に咲いた一つの華と言ってもよいが、武士道の真髄ではあり得ない。」

したがって、他人の忖度とは無縁である。しかし、では、これが男だけか、と言えばそうではない。吉宗の時代、松平(浅野)安芸守吉長の夫人、つまり、

「御内室は、加賀宰相綱紀卿の御息女也、生得武勇の心ある女性にて、乗馬打物に達し、殊に長刀鍛錬の聞えあり、召仕はるゝ女まで皆々勇気たくましく、殊に一騎当千の女ともいうべし」

という女性だったが、安芸守吉長が、吉原に通い、

「三浦屋四郎右衛門抱えの太夫花紫、同孫三郎抱えの格子歌野を落籍させて、屋敷へ引き取られました。その上に、芝神明前の陰間を二人までも請け出されました。(中略)請け出された遊女二人、陰間二人を、御帰国の節は、お供に召し連れられることにきめられました。(中略)こうなっては、夫人も、重ねて強諌なさらなければ済まない、と思し召したものか、外君に御対面なされ、大名が遊興のあまり、遊び者を請け出さるることも、あるまじき次第とはいわれまじけれども、永々の道中を国許まで召し連れらるることは、世間の耳目といい、殊には幕府への聞えもいかがなれば、これだけは何分にもお取止めなさるように、と切に進言されました。吉長は、この進言が大不機嫌であったという。」

結局夫人の諫言を聞き入れず、

「遊女・陰間が美々しい行装で、お供する」

ことになって、夫人は、

「お居間に夜闌くるまで燈火あかあかと照して、御弟加賀中将へのお文細々とお認めなされ、五十一歳を一期として、腹一文字に掻き切りて」

割腹するのである。その間のことを、鳶魚は、こう書く。

「武士の家では、自由恋愛などいうことはなく、それは不義者で成敗されます。決して、好いたの惚れたのという話はない。勿論、生理上必至なものとして婚姻するのではありません。夫婦は生活を愉楽するためではない。人道を行うために夫婦になったので、それはその家門を維持し、かつ繁昌させるため、当面に親を安んじ、子を育て、九族を和し、家風を揚げ、家名を輝かせる大切な戮力なのです。(中略)恋愛から出来た夫婦でなく、義理が仕立てた夫婦であった。互いにその一分を尊重する。それを蹂躍することは、他身を踏み潰すのでなく、自身を破毀するのだと思っておりました。吉長夫人前田氏も、外君の内行について、至当な進言が棄たるようになった時、婦道が立たなくなります。もし特別な秘密があってのこととしても、何とか夫人からの進言の出ぬように打ち開けられないにもせよ、相応な工夫がなければなりません。一旦進言が出ますと、一般に至当と見られることだけに、是非とも聴納されなければなりません。悋気とか嫉妬とか、そんなこととは違う。一身一己からのことでない。天下に公然たる婦道を行うのです。夫婦の間に局限した事柄ではありません。人間を維持する道義です。至当なことさえ聞かれない。それでは婦道が行えないとすれば、この頃しばしば承る面子などということとも違う。妻の一分が立たないとは倫理がすたること、女に生れて妻となる、夫にはなれない、そこに動かし難いものがあって、妻としてなすべきその職事は、天に受けた私ならぬ務めなのです。これを真ッ正直に考える、それを少し考え、あるいは全く考えない、時世の人は、少し考える者よりも、全く考えない者の方がはるかに多かったのです。」

つまり、「おのが一分」を立てる、という意味では、男も女もなかった、というのである。とすれば、攻めたてられた籠城戦で、一分を立てるために、おのれの身を捨てて戦うのは、別に同じ船にのったものとして当然のことと考えると、

女軍、

などという概念で、事々しく取り上げること自体が、無意味に思えてならない。

参考文献;
長尾剛『女武者の日本史』(朝日新書)
三田村鳶魚『武家の生活』(Kindle版)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

posted by Toshi at 04:17| Comment(0) | 書評 | 更新情報をチェックする