「虎」について、南方熊楠は、こんなことを言っている。
「虎の記載を学術上七面倒に書くより『本草綱目』に引いた『格物論』(唐代の物という)を又引するが一番手軽うて 解りやすい。いわく虎は山獣の君なり、状猫のごとくにて大きさ牛のごとく黄質黒章、鋸牙鉤爪鬚健にして尖り舌大きさ掌のごとく倒に刺を生ず、項短く鼻ふさがる、これまでは誠に文簡にして写生の妙を極め居る。さてそれから追々支那人流の法螺を吹き出していわく、夜視るに一目は光を放ち、一目は物を看る、声吼ゆる事雷のごとく風従って生じ百獣震え恐るとある。しかし全くの虚譚でもないらしく思わるるは予闇室に猫を閉じ籠めて毎度験すと、こちらの見ようと、またあちらの向きようで一目強く光を放ち、他の目はなきがごとく暗い事がしばしばあった。また虎嘯けば風生ずとか風は虎に従うとかいうは、支那の暦に立秋虎始めて嘯くとあるごとく、秋風吹く頃より専ら嘯く故虎が鳴くのと風が吹くのと同時に起る例が至って多いのだろう。」
と(「十二支考 虎に関する史話と伝説民俗」『南方熊楠作品集』)。同書には、種々虎伝承を伝えているが、たとえば、
人あり係蹄(わな)を置きて虎を得たるに、虎怒りて蹯(あしのうら)を決(き)って去る、虎の情その蹯を愛せざるにあらざれど、環寸(わずか)の蹯を以て七尺の躯を害せざる者は権なりとあって虎の決断を褒め居る(『戦国策』)、
とか、
廬陵の婦人蘇易なる者善く産を看る、夜たちまち虎に取られ、行く事六、七里、大壙(おおあな)に至り地に置き蹲りて守る、そこに牝虎あり難産中で易を仰ぎ視る、因って助けて三子を産ましめると虎がまた易を負うて宅へ還し、返礼に獣肉を易の門内に再三送った(『捜神記』)、
とか、
晋の郭文かつて虎あり、たちまち口を張って文に向うたんで視ると口中に骨哽(たて)り、手を以て去(と)ってやると明日鹿一疋持ち来って献じた。また都区宝という人父の喪で籠りいた時里人虎を追う、虎その廬に匿れたのを宝が簔で蔵しやって免がれしめた、それから時々野獣を負ってくれに来た(『淵鑑類函』)。
とか、
壮士水碓(みずぐるま)を守りしが虎に攫まれ上に坐らる、水碓飛ぶがごとく輪るを虎が見詰め居る内にその人甦った、手足圧えられて詮術(せんすべ)ない、ところが虎の陽物翹然(にょっきり)口に近きを見、極力噛み付いたので虎大いに驚き吼え走ってその人脱るるを得た(『五雑俎』)、
等々。虎と人間の生活が密接だった古代の中国や朝鮮とは異なり、日本には虎はいない。しかし、万葉集に、虎を詠ったものが三首ある。
虎に乗り古屋(ふるや)を越えて青淵(あをふち)に蛟龍(みつち)捕(と)り来(こ)む剣太刀(つるぎたち)もが(境部王)、
いとこ汝背(なせ)の君居(を)り居りて物にい行(ゆ)くとは韓国(からくに)の虎といふ神を生け捕りに八(や)つ捕(と)り持ち来(き)、その皮を畳み(たたみ)に刺し八重畳(やへたたみ)平群(へぐり)の山に四月(うづき)と五月(さつき)との間(ま)に薬猟(くすりがり)も仕(つか)ふる時にあしひきのこの片山に二つ立つ櫟(いちひ)が本(もと)に梓弓(あづさゆみ)八つ手挟(たばさ)み、ひめ鏑(かぶら)八つ手挟み、獣(しし)待つと我が居る時にさを鹿の来立(きた)ち嘆(なげ)かく……(乞食者)、
……太刀(たち)取り佩(は)かし大御手(おほみて)に弓取り持たし御軍士(みいくさ)を率(あども)ひたまひ斉(ととの)ふる鼓(つづみ)の音は雷(いかづち)の声(おと)と聞くまで吹き響(な)せる小角(くだ)の音も敵(あた)見たる虎(とら)が吠(ほ)ゆると諸人(もろひと)のおびゆるまでに捧げたる幡(はた)の靡(なびき)は……(柿本人麿)
日本人にとって虎の皮は海外との交易で輸入される唐物の代表とされ、『続日本紀』などに記録されている渤海使の献進物の中にも虎の皮が含まれている、とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%A9)。
我が国にはいないにもかかわらず、「強いもの」「何より恐ろしいもの」の代表として虎の入ったことわざや慣用句が膾炙している。たとえば、
雲は龍に従い風は虎に従う、
竜虎、
虎に翼、
虎を野に放つ、
虎の尾を踏む、
虎穴に入らずんば虎子を得ず、
虎視眈々、
前門の虎後門の狼、
虎の子渡し、
虎の威を借る狐、
張子の虎、
虎は千里往って千里還る、
虎は死して皮を留め人は死して名を残す
虎の子、
虎の巻、
等々。そして昔話にも、虎は構成要素とするものが、
狐と獅子と虎、
古屋の漏り、
があり、実際に見たことがないので、非常に恐ろしい獣として扱われている(日本昔話事典)。
そう考えると、和語「とら」は、外来語由来として、
タイ語系南方語起源か(広辞苑)、
朝鮮の古語、ツルポオムのツルの転は、トラなり。此のツルは毛の斑、蔓の義、彎曲の線にて、国語のツルと暗合す。ポオムは虎豹の類を称する語(白鳥庫吉の説)、
朝鮮語ホーラから(名言通・日本語源=賀茂百樹)、
トは虎をいう楚国の方言オト(於莵)から、ラは助語(箋注和名抄)、
朝鮮語から済州島を経て入ったタンラ(耽羅)の音韻変化(日本語源広辞典)
といった諸説がある。決め手はないのだが、
恐ろしくてトラ(捕)まえられぬから(和句解)、
逆に、
人を捕る意から(日本釈名・和訓栞)、
トル(採)義(言元梯)、
トリクラヒ(捕食)の義(日本語原学=林甕臣)、
といったこじつけから、
朝鮮語ホーラもしくはツルを起源として、「捕らえる」という日本語的解釈から「トラ」となった(語源由来辞典)、
というひねった解釈もある。しかし、外来由来とみて、
ホーラ、
ないし、
ツル、
の転訛と見るのが順当なのだろう。和漢三才図絵には、
虎、保牟、
とある。
(「雪中虎図」(葛飾北斎) https://bakumatsu.org/blog/2012/12/hokusai.html/hokusai_24より)
因みに、酔っぱらいを「虎」というのは、
四つ這いになって手が付けられない様子から(猫も杓子も=楳垣実)、
酒を女房詞でササというところから、ササを笹と解して、笹に酔うものの意で虎といった(すらんぐ=暉峻康隆)、
酔った者が張り子の虎のように首を左右に振るところから(上方語源辞典=前田勇)、
酔って暴れるところが猛獣ににているところから(たべもの語源抄=坂部甲次郎)、
と諸説ある。酔っぱらいの意の「虎」は、江戸時代から使われている、とある(日本語俗語辞典)。とすると、
水墨画に見られるように笹の横には虎がいることから、
と見立てるのが洒落ているとは思う。
「虎」(漢音コ、呉音ク)は、
象形、虎の全体を描いたもの、
である(漢字源)。
(「虎」 甲骨文字・殷 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E8%99%8Eより)
別に、
儿(元の形は「几」:床几)にトラの装束を被った者が座っている姿、
とする解釈もある(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E8%99%8E)。
なお、
「虎の尾」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/454576631.html)、
「虎嵎を負う」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/456719697.html)、
で、虎について触れたことがある。
参考文献;
南方熊楠『南方熊楠作品集』(Kindle版)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
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