2021年08月20日
惣国一揆
和田裕弘『天正伊賀の乱―信長を本気にさせた伊賀衆の意地』を読む
「天正伊賀の乱」と呼ばれるものは、
天正七年(1579)年九月、北畠信雄が父信長に無断で伊賀に侵攻して大敗した第一次、
と、
天正九年(1581)年九月、信雄を総大将に、四方から大軍を侵攻させ、伊賀を焦土と化した第二次、
と、
天正十年(1582)年六月、本能寺の変に乗じて伊賀党の残党が蜂起した第三次、
と、三回あった、とされる。
信雄の大敗に烈火の如く怒った信長は、信雄に譴責状を認め、
三郎左衛門(柘植保重)をはじめ討死の儀、言語道断の曲事の次第に候、まことにその覚悟においては、親子の旧離許容すべからず候、
と叱責した。信長、信忠はじめ織田軍は、謀叛した荒木村重の有岡城攻囲の只中での、無謀な侵攻で、
他国の陣、あい遁るるによりて、
とあるように、上方出兵を回避するために、手近な伊賀侵攻をしたと、殊の外激怒した。
伊賀国は、
守護領国制が発達せず、在地領主がそのまま各地の小土豪となって割拠し、堡を築いたり、溝や土塁を廻らした居宅をもち、いわゆる国衆として、相互に均衡を保ちながら連合支配をおこなっていた、
とされ、
他国では見られないような階層の者までが城館を築いていた、
とあり、その数、
六十六、とも四十八
ともいわれる。その地侍、土豪、國衆が結束して、自ら、
惣国、
を名乗り、
伊賀惣国、
を結成し、敵を国内に入れないために、
惣国一揆掟、
という掟書を作成した。曰く、
他国より当国へ入るにおいては、惣国一味同心に防がるべく候こと、
国の者どもとりしきり候間、虎口(こぐち)より注進仕るにおいては、里々鐘を鳴らし、時刻を移さず、在陣あるべく候、しからば兵粮・矢楯を持たせられ、一途の間、虎口をくつろがざるように陣を張らるべく候こと、
上は五十、下は拾七をかぎり在陣あるべく候、
等々とあるように、
自己の力で虎口を守って、敵を国内に入れない、
とした。伊賀国内には、
六百を超える城砦群が確認、
されており、これが、油断して侵攻した信雄勢を大敗させた背景になる。
これは、例えば、加賀の、
百姓の持ちたる国、
山城の、
山城国一揆、
とも重なる。しかし、第二次侵攻で壊滅させられた、
国衆は、
ある意味、
「巨視的には古い荘園制度を最終的に一掃し、新しい封建国家をつくり出そうとする戦国大名の動きが、その総仕上げの段階に入ったことを物語っているという点で、我が国の歴史の画期をなす」
という位置づけ(新井孝重『黒田悪党たちの中世史』)、さらに、
「微視的に見ると、まさにこのことのゆえに、地域の個性として長い生命を維持してきた民衆自治があえなく押し潰され、終焉を迎えたということを顕著にあらわしてもいた」
という評価(仝上)とつながる。
中野等『太閤検地-秀吉が目指した国のかたち』(http://ppnetwork.seesaa.net/article/470611023.html)で触れたことだが、後年、佐々成政を切腹に追い込んだ、
肥後一揆、
は、ある意味では、信長政権に立ち向かった伊賀惣国と似て、秀吉政権の領国支配への、肥後の国衆たちの反乱と見ることができる。しかし、こうした地ならしによって、
「兵農分離」ではなく「士農分離」
と言われるように、
中世以来の、地侍、土豪という所有地を持った侍の在り方の解体、士・農の分離を意味する。在地に残った地侍。土豪は、百姓となることを意味した。
土地を失った伊賀者は、たとえば、天正十二年(1584)の薬師寺の記録に、
七条郷の寺院に、白昼。伊賀者が盗人に入ったが、搦め取られて引き渡された、
とあり、処刑されるべきところを、唐招提寺の長老の尽力で助命され、
タフサ(たぶさ)ヲキリハナシ了(おわんぬ)、
と、髻(もとどり)の切り落としで済まされた。
「落ちぶれた伊賀衆の成れの果てであった。もっとも忍びの者であれば、『盗人』は本業の一つであったともいえよう」
とはなかなか手厳しい。
参考文献;
和田裕弘『天正伊賀の乱―信長を本気にさせた伊賀衆の意地』(中公新書)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95