2021年08月28日

旅と網目


ロラン・バルト『旧修辞学』を読む。

旧修辞学.jpg


本書は、「修辞学」の歴史に当たる、

旅、

と、

その分類にあたる、

網目、

とからなる。著者は、

古典時代の「修辞学」について、年代記的、体系的な見通しを与えてくれるような本か教科書があったら、

この著作は必要ではなかった、と述べている。それは、

まだ存在しないテクスト、

つまり、いままだない、

新「修辞学」、

を発想の始原としている、という。つまり、その新しいテクストに迫る一つの方法として、

テクストが何から発し、何に抗してみずからを探求してきているかを知ることであり、したがって、エクリチュールの新しい記号論と、何世紀もの間、「修辞学」と呼ばれてきた文学言語の古い実践と対決させること、

そのために、

予備的作業として、

本書のような、「修辞学」の便覧を必要とした、というのである。たしかに、修辞学の、

調査結果を簡単にまとめ、いくつかの術語と分類のおさらいをした程度の……知識をまとめただけのテクスト、

ではあるが、著者自身が、

この古い修辞学体系の力と精緻さ、ある種の命題の現代性に興奮し、感嘆しなかったというわけではない、

と書いているように、この整理とまとめは、凡百の要約とは趣を異にし、訳者が、

項目の選択、配列、整理等に、いかにもバルトらしい新鮮な解釈がみてとれる。……現代的視点で学ぶことのできる、

修辞学の歴史と体系になっている、と評するように、素人から見ても、随所にはっとさせる記述がある。修辞学の年代記風の「旅」とされた「修辞学史」の最後で、著者は、こうまとめている。

それは、知性と洞察力にとって魅惑的な対象であり、1つの文明が、その広大な領域全体を挙げて、権力の道具であり、歴史的闘争の場であるみずからの言語活動を分類するため、つまりそれを考えるために創出した壮大な体系である。その対象をそれが展開した多様な歴史の中に正しく置き戻せば、それを読むことは実に興味深いものである。しかし、それはまた、イデオロギー的対象であり、それに取って代わったあの《別物》の隆起によってイデオロギーに堕し、今日、必要不可欠な批判的距離をとることを余儀なくさせているものである、

と。しかし、修辞学は、

アリストテレス(そこから、修辞学は発した)といわゆる大衆文化との間に一種の根強い一致点がある、

ところが面白い。

アリストテレスの「修辞学」は、とりわけ、立証の、推論の、近似的三段論法(エンテューメーマ)の修辞学である。それは、意識的に程度を落とし、《公衆》の、つまり、常識の、世論のレベルに適用された論理学である。文学作品にまで範囲を広げれば(それが本来の姿ではなかったが)、それは作品の美学よりも、公衆の美学を含むことになるであろう。だから、それは、(中略)あらゆる(歴史的)差異を考慮に入れるならば、われわれの時代の大衆文化と称せられるものにうまく適合するであろう。その大衆文化では、アリストテレス的な《真実らしいこと》、つまり、《公衆が可能だと思うこと》が支配しているのである。

そのアリストテレス的な、

意識的に公衆の《心理》に従う良識の修辞学、

は、

あたかも、ルネッサンス以来、哲学として、また、論理学としては死に、ロマン主義以来、美学としては死んだアリストテレス主義が、格下げされ、拡散し、不分明になった状態で、西欧社会の文化的実践―民主主義を通じて、《最大多数》の、多数決原理の、世論のイデオロギーに基づいた実践―の中で、生きのびてきたかのようだ。あらゆる点で、一種のアリストテレスの通俗版が、なおも、歴史を貫く西欧の一つのタイプを、endoxa(通念に適う)の文明である(われわれの文明)を定義しているといえる。アリストテレス(詩学、論理学、修辞学)が、《マスコミュニケーション》によって送られる、説話的、弁論的、論証的、全言語活動に、(《真実らしさ》の概念を初めとする)完全な分析用格子を提供しているという明白な事実、彼が、応用科学を定義し得る、メタ言語の理想的な同質性を体現しているという明白な事実からも、どうして眼をそむけることができようか。だから、民主主義の体制では、アリストテレス主義は最良の文化社会学となるのであろう。

と。修辞学が本来持っていたのは、

真実らしくない可能なことよりも、可能でない真実らしいこと、

つまり、

現実に可能なことでも、世論という集団的検閲によって拒否されるならば、それを語るよりは、たとえ科学的に不可能であっても、公衆が可能だと思うことを語る、

ための、

技術、

なのである、と。

個人的には、

推論、

における、

演繹、

帰納、

が面白く、

実例は修辞学的な帰納である、特殊から別の特殊へと外に現われない普遍的なものの鎖に従って進むのである、1つの対象から種へと遡り、その種から新たな対象へと下るのである。

とあり、それは、

説得的な類似であり、類比による論証である。

とある。この幅は、

現実的なもの、

虚構的なもの、

があり、実例から喩、寓話までの幅がある。

他方、演繹は、

真実らしさ、あるいは、しるしに基づいた三段論法、

とされる。それは、

説得はできるが、証明はできない、

ものとされ、

蓋然的なこと、つまり、公衆が考えていることから出発する、もっぱら公衆と調子をあわせて(誰それと調子を合わせるというように)展開された修辞学的な三段論法である。それはもっぱら分析のためになされる抽象的演繹とは逆に、みせるという観点から(それは、いわば、見るに耐える見世物なのだ)、提出される、具体的な価値をもった演繹である。

ここに、どうも修辞学のもつ原点があるようなのである。

参考文献;
ロラン・バルト(沢崎浩平訳)『旧修辞学』(みすず書房)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

posted by Toshi at 04:02| Comment(0) | 書評 | 更新情報をチェックする