2021年09月21日

虎落笛


「虎落笛(もがりぶえ)」というのは、

冬の烈風が柵・竹垣などに吹き付けて、笛のような音を発するのをいう、

とある(広辞苑)。

冬の烈風がこれに吹き付けるときに鳴る「ひゅーひゅー」という音、

を指す(日本大百科全書)が、

物理的には障害物の風下側にできるカルマン渦によって起こるエオルス音、

とある(百科事典マイペディア)。「カルマン渦」とは、

流体中を柱状物体が適当な速さで動く(物体が静止し流体が動いても同じ)と、物体の左右両側から交互に逆向きの渦が発生し、規則正しく2列に並ぶ。名称はカルマンにちなむ、

とあり(仝上)、同じ原理による、

むちの音、
電線に風が当たって生じる音、

等々を含めて「エオルス音」という(仝上)。

矢来.jpg

(矢来 武家戦陣資料事典より)

「虎落(もがり)」は、日葡辞書に、

モガリヲユウ、

とあるように、

軍(いくさ)などのときに、先端を斜めに削いだ竹を筋違いに組み合わせて、縄で繁く結い固めて柵としたもの、

とある(仝上)。

模雁、
茂架籬、

と当てることもある(世界大百科事典)。

矢来、
竹矢来、

と同じともある。竹を縦横に直交して組んだものは、

角矢来、

といい、切丸太を約30m間隔で掘立柱とし、根元には根がらみ貫(ぬき)、その上に通し貫を2本ほど水平に通して、縄で結びつけて固めたものは、

丸太矢来、
あるいは、
丸太柵、

ともいう(仝上)。ただ、「もがり」は、

モガリ竹ハ枝をソギてもくまじき也、又所々木の柱をたつる也(築城記)、

とあるように、

くいを打って横木を結び、それによせて竹の尖ったものを腰の高さに植え込んだもので、野獣の侵入を防ぐためのものであるが、防戦攻戦共に用いる。竹串を一面に埋め込んだりもする、

と、

逆茂木、

同様に、防戦用に設けられる。その場合、

虎狩落とし、

とも当てる。そうした備えを、

虎落落としの備え、

というらしく(武家戦陣資料事典)、

もがり竹百間に付貮千三百本、但フス竹共、

とある(仝上)。かなりの量を使う。

虎落.jpg

(虎落 武家戦陣資料事典より)

敵が落とし込むような穴を掘って底に鋭い竹や鉄を植え、……表面には布を張ってその上に木の葉や砂を撒いてカムフラージュする(図説 日本戦陣作法事典)、

とも、

竹片の先を鋭くとがらせて、これをたくさん敵の方に向けて地に植えたもので、仕寄(しよせ)道(攻め口)の濠内や、敵の寄せそうな土地に設備する(図説日本合戦武具事典)、

ともある。だから、

「虎落は竹を筋違に組み合わせて埋め立て、繁く縄をもって結び固るなり」(海国兵談)……では塀の上に設ける「忍び返し」や「竹矢来」になってしまう、

とある(仝上)のである。つまり、「虎落」は、本来、

竹矢来、

とは異なると言っていい。矢来は、

矢来垣、

というように、

竹や丸太を縦横に粗く組んだ、仮の囲い、

であり、

やらい(遣)から、

というように、あくまで、

追い払う、

ための柵である(精選版日本国語大辞典)が、虎落は、攻撃的な意図が、削いだ竹尖にうかがえる。

逆茂木.jpg

(逆茂木 武家戦陣資料事典より)

ちなみに、「逆茂木」は、

木の枝を無数に並べて植え込んだもので敵の進出しそうな所へ設ける。植え方は先を敵の方へ向け一面に植えると引き抜きがたく、これを翦り払っていると其処を飛道具で撃つからうっかり近寄れない。これを撤去するには焼草を多量に積んで焼き落とすより他に方法がない、

とある(武家戦陣資料事典)。「逆茂木」は、

逆虎落(さかもがり)の約、

とされる。

敵の侵入を防ぐために、棘木(いばら)の枝の、鹿角の如くなるを、逆立て、垣に結った柵、

で、

鹿砦(ろくさい)、
鹿角砦(ろっかくさい)、

ともいう。まさに、「虎落」と同じ目的である。

なお、「虎落」は、

こらく、

と訓むと、中国では、

粗い割り竹を連ねて作る垣のこと、

とあり(学研全訳古語辞典・デジタル大辞泉)、

トラをふせぐ柵の意、

ともあるhttps://www.kanjipedia.jp/kotoba/0002042500。しかし、『漢書』鼂錯伝に、

為中周虎落、

とあり、師古註に、

虎落者、以竹篾相連遮落之也、

とあるので、

踏み込むと足に刺さり、転がり落ちると身体に刺さる危険な道具で、穴を掘って底に鋭い竹を無数に並べ、虎が落ちると捉える仕かけ、

からこの名がついた(図説日本合戦武具事典)とあるので、本来は攻戦的な「虎落落とし」に近い。とすると、「もがり」に、

虎落、

を当てたのは慧眼かもしれない。「もがり」は、

竹を並べ行馬のごとく、毎節に枝を存し、物をかけほすに便りするをいふは、曲りの義なるべし(和訓栞)、
マガリ(曲)の義(言葉の根しらべの=鈴木潔子)、
もぎはもがり也、かり反ぎ也(和訓栞)、

等々もあるが、

捥木(もぎき)の義、夫木抄(鎌倉後期)に、「世の中は、關戸に防ぐ逆茂木の、もがれ果てぬる、身にこそありけれ」、これ、枝葉を捥がれたる竹木にわたれど、多くは竹なれば、タカモガリと云ふ(大言海)、
もがれ木の意(広辞苑)、

と、枝葉を払った竹を使うためだろう。ただ、

また竹の枝付きの立てかけたもの、

も「虎落」というらしい(日本大百科全書)が、これは、「虎落」が、本来の防御柵の意から、転じて、

枝のついた竹を並べて作った物干し、特に、高く設けた紺屋の干場、

を意味する(広辞苑)ようになってからのことだと思う。

枝のついた竹などを立て並べ、物を干すのに用いる.bmp

(枝のついた竹などを立て並べ、物を干すのに用いる「虎落」 精選版日本国語大辞典より)

昔は竹もがりの如くなりき、今は丸木を足場のようにつくれる、

とある(大言海)。

さらに、「もがり」は、

強請、
虎落、

と当てて、

金銀手に持たせ置かば、おそろしきもがりどもにかたられ(西鶴織留)、

と、

ゆすり、たかり、

の意で使うが、これは、

逆らう、
ゆする、

意の「もがる」の連用形からきている(デジタル大辞泉)。しかし、

虎落、

を当てたのは、どういう意図だったのか。

逆茂木、
逆虎落、

の意味からだろうか。

「虎」 漢字.gif


「虎」http://ppnetwork.seesaa.net/article/482959788.htmlで触れたように、「虎」(漢音コ、呉音ク)は、

象形、虎の全体を描いたもの、

である(漢字源)が、

儿(元の形は「几」:床几)にトラの装束を被った者が座っている姿、

とする説もあるhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E8%99%8E

「虎」 金文.png

(「虎」 金文・西周 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E8%99%8E

参考文献;
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
笹間良彦『武家戦陣資料事典』(第一書房)
笠間良彦『図説日本合戦武具事典』(柏書房)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
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ラベル:虎落笛 虎落
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2021年09月22日

団七縞


「団七縞(だんしちじま)」は、

太い柿色の弁慶縞、

をいう(広辞苑)。

「団七」には、人形浄瑠璃・歌舞伎狂言の、

『夏祭浪花鑑(なつまつりなにわかがみ)』(延享二年(1745)、大阪竹本座初演)、

の、

団七九郎兵衛、

の「団七」と、歌舞伎狂言の、

『宿無団七時雨傘(やどなしだんしちしぐれのからかさ)』(明和五年(1768)、大阪竹田芝居初演)、

の、

団七茂兵衛、

の「団七」と、二系統がある。

団七縞.jpg


「団七縞」は、前者で、

義兄弟の契りを交わした団七九郎兵衛と一寸徳兵衛が、

団七九郎兵衛は柿色
一寸(いっすん)徳兵衛の浴衣は藍色、

と、お揃いの格子柄の浴衣を着て登場するhttps://www.suehiroya-suehiro.com/entry/2018/06/20/233000、とある。この、

帷子の模様、

の衣裳にちなんで呼ばれた(広辞苑)。

団七格子、

ともいい、

うすがきの団七じまのかたびら(文化十年(1813)『浮世風呂』)、

と、庶民の間で流行した(江戸語大辞典)。

嚆矢は、団七なる悪党が親殺しをした事件(雅俗随筆)を題材にした、

『宿無団七』(元禄十一年(1698)初代片岡仁左衛門初演)、

で、これ踏まえてできたのが、延享二年(1745)の魚売りの殺人事件(摂州奇観)を取り込んだ、浄瑠璃の、

『夏祭浪花鑑』

で、ここで、

団七九郎兵衛(だんしちくろべえ)、
釣船三婦(つりぶねのさぶ)、
一寸徳兵衛(いっすんとくべえ)、

の三人の侠客が描かれる。「団七」は、

文楽人形の中年の男のかしら(首)、

の名でもあるが、これは、この役に由来する(日本伝奇伝説大辞典)。それは、

太くたくましい立ち眉、ぎろりとしたどんぐり眼、横に張った小鼻、大きく開閉する目、ぐっと力んだところはいかにも豪快である。塗色は卵色。大団七と小団七とあって、大団七は「国性爺合戦」の和藤内、「御所桜堀河夜討」の武蔵坊弁慶などの時代物の荒立役に、小団七は「義経千本桜」のいがみの権太などに用いられる、

とあるhttps://www.arc.ritsumei.ac.jp/artwiki/index.php/%E5%9B%A3%E4%B8%83。もっとも、現在の団七の役には、「文七」をもちいる、とある(日本伝奇伝説大辞典)

大団七.jpg

(「大団七」 おおだんしち(関東)おおだんひち(関西) http://www.lares.dti.ne.jp/~bunraku/mystery/ningyou/tatiyaku/oodansit.htmlより)

小団七.jpg

(「小団七」 こだんしち(関東)こだんひち(関西) http://www.lares.dti.ne.jp/~bunraku/mystery/ningyou/tatiyaku/kodansit.htmlより)

「文七」.jpg

(「文七」  ぶんしち(関東)ぶんひち(関西) http://www.lares.dti.ne.jp/~bunraku/mystery/ningyou/tatiyaku/bunnsiti.htmlより)

文楽人形の頭(かしら)の「文七」とは、

大坂の侠客雁金文七(かりがねぶんしち)の人形に用いたのを始めとする。鋭い眼光と太い眉、引き締まった口もとをした主役の頭、

とある(精選版日本国語大辞典)。

『夏祭浪花鑑』は、歌舞伎でも演じられたが、これとは別に、明和五年(1768)に起きた、岩井風呂での殺人事件(伝奇作書)をもとに、団七茂兵衛を主人公に、元禄以来の団七狂言の系統に仮託したのが、

『宿無団七時雨傘』

であり、『夏祭浪花鑑』にあやかった作品ということになる(日本伝奇伝説大辞典)。この作品から、

団七、

には、

宿なし、

の意味が加わり、

上一入(ひとしほ)に富にこったる其末は皆団七(ダンシチ)の宿なしとなる(天保七年(1836)洒落本「意気客初心」)、

と使われる。

四代目 中村歌右衛門の団七.jpg

(四代目 中村歌右衛門の団七(五粽亭広貞) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%8F%E7%A5%AD%E6%B5%AA%E8%8A%B1%E9%91%91より)

「弁慶縞」は、

弁慶格子、

ともいうが、

紺と浅葱、紺と茶など二種の色糸を経(たて)・緯(よこ)の双方に使用した、碁盤目の縦横縞としたもの、

である(広辞苑)が、

山伏姿の弁慶の舞台衣装にちなんだ名称、

とある。守貞謾稿は、

白紺、或いは、紺茶、又、紺と浅木等、紺茶を茶弁慶、紺浅木を藍弁慶と云ふ、

とする。

弁慶縞.bmp

(弁慶縞 精選版 日本国語大辞典より)

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
乾克己他編『日本伝奇伝説大辞典』(角川書店)

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2021年09月23日

だんびら


「だんびら」は、

段平、

とあて、

段平物、

という言い方もする(広辞苑)が、

平広、

とも当てる(江戸語大辞典)、とある。

刀の幅の広いこと、

を指すが、単に、

刀、

の意でも使う(広辞苑)。

だびら、
だんぴら、

ともいう。

透間に切込むだんびらに眉間をわられて頭転倒(づでんだう)(延享四年(1747)浄瑠璃「義経千本桜」)、
かんねんしろと水も溜まらぬダンビラ物を、半七めがけてぬきくれば(文久(1861~64)「春秋二季種))

といった使い方をみると、どうも、

太刀、打刀などの刀の、幅広きモノの称、

とある(大言海)が、使用例は、広く、

刀、

そのものの意としか思えない(「かたな」http://ppnetwork.seesaa.net/article/450320366.htmlについては触れた)。

「だんびら」は、

「だびらひろ(太平広)」の変化した語(デジタル大辞泉・精選版日本国語大辞典)
ダビラビロの略転(貞丈雑記・松屋筆記・大日本国語辞典)、
タヒラヒロ(平広)の転(大言海)、
タヒラ(平)の変化した語か(俚言集覧)、

と諸説ある。確かに、江戸時代後期の有職故実書『貞丈雑記』にも、

太刀打刀なとでの幅広きを、だんびら物といふは、だびらひろという詞を略したるなり、……だびらひろといふは、太平広なるべし、大いに平くひろきなり、

とあり、

ダビラビロ(ダビラヒロ)→ダンビラ→だびら、

という転訛のようなのだが、どうも、もともとの意味が見えなくなっているのではないか、という気がする。確かに、

太平狭(だびらせば)、
太平広(だびらひろ)、

という言い方があるhttps://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1415878749らしいので、

刀の幅、

を指しているのには違いないが、日本刀の造り込みには、大別して、

鎬(しのぎ)造り、
と、
平(ひら)造り、

に分けられ、鎬造りは、ほとんどの日本刀はこの造り込みで作られており、

本造り、

ともいい、

鎬筋(刀身の側面(刃と棟の間)にある山高くなっている筋)と、横手(切先の下部にある線のことで、刀身と切先の境界線です。横手筋(よこてすじ)とも言う)のあるもので刀の基本形、

となるのに対して、平造りは、

鎬筋無く平面のもので、短刀や小脇差に多い、

とある(http://www.nihontou.net/kiso-meisyou1.htmhttps://www.touken-world.jp/tips/55304/他)。

鎬造り.gif


平造り.gif


その「平造り」の中で、

広い豪壮な平造り、

を、

大段平(おおだんびら)造り、

といい、

ダンビラ、

とも呼ばれているhttps://www.higotora.com/cp-bin/blogn/index.php?e=319、とある。そして、

平造りの御刀は、鎬造りでは鏡面仕上げされる鎬が無いため、地鉄の美しさ、鉄質の良さ、鍛えの質の高さを、存分に味わう事が出来ます、

ともあり(仝上)、。

大段平造り短刀、

を紹介している(仝上)。

日本刀各部名称.jpg

(日本刀各部位の名称 https://www.katanayasan.com/tousougu.meisho.htmlより)

こう考えると、「だんびら」は、

平造りの刀の一種、

を指していた、とみられる。ただ、「大段平」といった時、幅だけを指していない可能性もあり、

南北朝時代になると、馬上での打物戦(うちものせん)が盛んになります。打物とは、太刀や刀、薙刀(なぎなた)や槍など、打物と総称される武器での戦いです。そしてこの時代には太刀の刃長も伸びて三尺以上もある大段平(おおだんびら)が出現し、腰刀の刃長も伸びて二尺以上もある腰刀が現れます。こうして刃長が伸びた腰刀が後の刀へとつながったとする説もあります、

とあるhttp://www7b.biglobe.ne.jp/~osaru/kubunn.htm。ただ、

寸法が長く、身幅が広く、反りがやや浅い大段平、

は、

大段平大切先、

と呼び、

南北朝に入ると、戦闘方法が歩兵による集団戦へと移行し、騎馬の主人の回りを従者の歩兵が囲むという形になってきたため、その歩兵を払いのけるための大太刀が出現しました。これは薙ぎ払うための刀ですので、長さは二尺八寸(約85センチ)前後が定寸で、四尺、五尺といったものまであり、身幅が広いので重量軽減のため重ねを薄くしているのが特徴です。……身幅が広いので切先は必然的に大切先となります。このように長寸で身幅が広く大切先となった太刀を大段平(おおだんびら)、大太刀(おおだち)と呼びます、

とあるhttps://nbthk-sword.com/tag/%E5%A4%A7%E6%AE%B5%E5%B9%B3/。ただ、このような大段平は長すぎるので、

普通は馬上の武将は持たず徒歩で従う従者に持たせておいて、持たせたまま柄を握って引き抜くというようにして使います。ですから戦いの途中で従者がやられたり追い払われると役に立たず、また大太刀に対抗する鎗や薙刀が多用されて馬上での戦いが不利になってきたので、この大太刀の流行はごく短期間で終わっています、

ともある(仝上)。

ちなみに、「太刀」http://ppnetwork.seesaa.net/article/464272047.htmlで触れたように、「太刀」は、

刃長が二尺(約六〇センチ)以上、平安時代以降の鎬(しのぎ)(刃と峰との間に刀身を貫いて走る稜線)があり、反りをもった日本刀で、太刀緒を用いて腰から下げるかたちで佩用する。馬上での戦いを想定したもので、反りが強く長大な物が多い、

のにたいして、「打刀(うちがたな)」は、

指し刃を上向きにして腰に差す。室町時代後期武士同士の馬上決戦から足軽による集団戦が主になるにつれ、徒戦(かちいくさ)(徒歩による戦い)に向いた打刀が台頭した。反りは刀身中央でもっとも反った形(京反り)で、腰に帯びたときに抜きやすい反り方、

である。

姉川合戦図屏風 この図では騎馬武者が馬上で柄の長い大太刀を両手で振るっている.jpg

(柄の長い大太刀を両手で振るっている騎馬武者(姉川合戦図屏風) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%A4%AA%E5%88%80

ところで、刺身の切り方に、

平造り、

というのがあるのは、

そぎ造り、

に対して、

同じ形の刺身が重なっている様、

を言うらしいhttps://tabetemoraitai-ryouriha-arunodesuga.com/%E5%88%BA%E8%BA%AB%E3%81%AE%E5%88%87%E3%82%8A%E6%96%B9/。「ダンビラ」とは直接の関係ないとは思うが、「平(たいら)」に切るのを指している。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

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2021年09月24日

四万年の古層


藤尾慎一郎『日本の先史時代―旧石器・縄文・弥生・古墳時代を読みなおす』読む。

日本の先史時代-旧石器・縄文・弥生・古墳時代を読みなおす.jpg


「先史時代」とは、

文字資料が全くない時代、

を指す。本書は、

旧石器時代から縄文時代、弥生時代、古墳時代、

までを、

先史時代、

として扱っている。本書のキーワードは、

移行期、

という考え方にある。ひとくくりに、

弥生時代、

といっても、日本で最初に水田稲作を始めたのは、

「佐賀から福岡にかけての玄界灘沿岸地域の人々」

であるが、

「水田稲作が北海道と沖縄を除く九州・四国・本州全体で始まるまでに、700年近い歳月がかかっている」

とされる。しかも、東北部のように、いったん始めた水田耕作を、「気候変動によって」やめてしまい、

「南下してきた続縄文文化圏にはいる」

地域さえある。こうした700年(室町時代から現代までの時間に相当する)の、

「どこで縄文時代と弥生時代の線引きを行うのか」

が難しい。つまり、

「新しい時代のはじまりを出現・成立におくにせよ、普及・定着におくにせよ、時代を特徴づけるもっとも重要な指標がある程度広まって定着するまでに、一定の時間を要する」

のである。この期間を、

移行期(あるいは過渡期)、

と呼ぶ。この期間は、

「やがて終わることになる時代の要素と、現れ始めた次の時代の要素の両方が見られることが多く、かつどちらかの要素も圧倒的ではないという特徴がある。」

される。この期間を表現するのに、地域的な、

ぼかし、

つまり、

文化圏と文化圏の境の地域圏、

という、

地理的な中間様相、

を表現するもの(藤本強)と、時間的な、

エピ、

つまり、たとえば、「縄文的な要素も弥生的な要素も併せ持った時期」を、

エピ縄文、

というような、

過渡的様相、

を表現するもの(林謙作)とがある。本書は、日本列島の変遷を、

北の文化、
中の文化、
南の文化、

と三つの文化圏にわける考え方(藤本強)の、

中の文化、

を中心に扱っている。それでも、前述のように700年という時間差がある。日本列島は、

旧石器時代後期、

から始まり、列島に人が現れたのは、

3万7000年前、

そこから、

2万4000年前から1万8000年前の間、

は最寒冷期、

「大地は凍てつき、海水面は現在より120メートル余りも下がっていた。そのため、当時の日本列島は現在の姿とはかなり大きく異なっており、古北海道半島、古本州島、古琉球島という大きく三つの地域的単位からなっていた」

とされる。さらに、土器の出現するのが1万6000年前、

「この1万6000年前から、ほとんどの考古学者が縄文時代と認める1万1700年前までを、旧石器時代から縄文時代にかけての移行期」

とされる。これだけで、歴史時代の倍を超える。

「縄文時代のはじまりは、九州南部で『縄文化』が始まった1万5000年前~1万4500年前、隆線文土器が出現した段階にすべきというのが筆者の考えである。(中略)縄文化の波は、2000年あまりかけて東進・北上する。この時期こそ移行期」

に当たる。本州・四国・九州における縄文から弥生への移行期は、

「九州北部で灌漑式水田稲作が始まる前十世紀後半に起こる。」

とされるが、中部地域では、500年あまりも、

アワ・キビの栽培の段階が続く、

のである。だから、これと、「九州北部における水田耕作開始後の500年」と「同じ文化段階とみなすことが本当に可能なのか」という疑問が出てくるのは当然である。それに対して、

「弥生文化は、農耕が単に文化要素の一つに留まることなく、いくつかの文化要素が農耕文化的色彩を帯びて互いに緊密に連鎖的に影響し合いながら、全体として農耕文化を形成しているという『農耕文化複合』の概念で理解すべき」

との説もある(設楽博己)。著者は、

「移行期の期間は西日本が前十世紀後半から前七世紀までの約300年、伊勢湾沿岸地域は前六世紀頃までの約400年、そしてもっとも長いのが中部・関東南部地方の約500年である。」

とし、この期間は、

縄文晩期文化、

とみなす。そして、

「二世紀中ごろ……を起点、……三世紀中ごろ……を終点として、弥生時代から古墳時代への移行期」

とみなす、とする。そこで現われてくるのが、

「100メートル以下の墳丘墓の登場と墳頂祭祀のはじまり」

である。古墳時代は、

三世紀中ごろ、

から始まる。

それにしても、昔習った縄文時代、弥生時代とは比べ物にならない、多様で変化に富んだ、長期間の、しかも地域差の大きい時代様相に驚かされる。

そう考えると、歴史時代を括っている(奈良時代、平安時代といった)「時代」区分に比べて、

紀元前三万年から四、五世紀の古墳時代まで、

という長大な時間を、中国文献などがあるので、歴史時代に入る古墳時代を別とすれば、

旧石器時代、
縄文時代、
弥生時代、

という数千年、数万年を一つの時代に括るのは無理があるのではないか、という気がしてならない。

参考文献;
藤尾慎一郎『日本の先史時代―旧石器・縄文・弥生・古墳時代を読みなおす』(中公新書)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
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2021年09月25日

国衆真田氏のサバイバル


丸島和洋『真田四代と信繁』を読む。

真田四代と信繁.jpg

本書の扱う「真田家」は、戦国大名・武田家に属した小さな「国衆(くにしゅう)」(在地領主)から出発した。本書では、

幸綱―信綱―昌幸―信之

の真田四代を追う。その意図を、「はじめに」で、

「真田家は、信繁の祖父幸綱の代に武田家に属した国衆であった。ところが、武田家が織田信長に滅ぼされてしまったため、信繁の父昌幸は真田家を保護してくれる戦国大名を求めて諸大名(徳川家康、上杉景勝、北条氏直)のもとを渡り歩き、最終的に豊臣秀吉に従う。
 天下人となった豊臣秀吉は、今までと異なり、国衆という自治領主を認めない方針をとった。だから従来の国衆は、①自治権を剝奪されて大名の家臣になるか、②改易されるかに分かれた。真田家は幸運にも、秀吉から独立大名として認められ、江戸時代を通じて大名として存続していくことになる。つまり国衆とは、戦国時代独自の存在なのである。
 だから真田氏の歴史を追うことは、戦国時代そのものを考えることにつながる。」

と述べ、

国衆としての真田家を確立した幸綱・信綱、

から、

近世大名としての礎を築く昌幸・信之(信幸)、

までを見ていく、と。それは、

「幸綱の活動がわかるようになる1540年頃から、松代藩祖となった信之が没する1658年までの約100年」

が対象になる。しかし、

「実は武田時代のことしかわかっていない」

という。ようやく近年、

「豊臣秀吉に従うまでの動向があきらかになった」

が、

「豊臣大名となって以降、江戸時代初期の真田家ついては、数えるほどしか研究がない」

中での、本書は、現在進行形での成果、ということになる。

真田昌幸.jpg


しかし『甲陽軍鑑』で、

(曾禰昌世・三枝昌貞と並んで)信玄の両眼、

と称され、

「信玄自身がその場に行かなくても、自分で見てきたかのように、状況分析の材料を報告すると讃えられている」

一方で、秀吉からは、

表裏比興者(ひょうりひきょうのもの)、

と評され、

裏表のある信頼できない人物、

と見なされてもいた、

真田昌幸、

が一番面白い。信濃の小県(ちいさがた)真田郷の国衆から、豊臣大名として列し、

昌幸の上田領3万8000石、
信幸の沼田領2万7000石、

を領し、さらに、豊臣秀吉の馬廻役となった、

信繁の1万9000石、

が加わるまでになっているのである。

特に武田家滅亡後の、生き残りをかけた、北条、上杉、徳川と、帰属先を変えつつ、対上杉の拠点として、徳川家に上田城を築城させ、対徳川の拠点としての上田城改修を上杉に行わせ、自ら、その城主におさまっていく経緯は、小さな国衆が、大きな戦国大名を手玉に取っているようで、痛快でもある。しかも徳川・北条間の和睦で、もめにもめた真田の沼田領問題では、秀吉の「沼田裁決」で、

沼田領の三分の一が真田領、
沼田領の三分の二が、北条領、

と決したのに、真田領に組み入れられた名胡桃城への北条の出兵が、小田原攻めのきっかけとなるなど、この地域での昌幸は、いわば台風の目になっていた。

真田信繁.jpg


昌幸についで面白いのは、やはり、俗に、

幸村、

と呼ばれる、

信繁の、大坂城合戦での活躍だろう。しかし、名にし負う、

真田丸、

は、

「真田丸築城は、信繁の発案ではなく、諸将の談合によって定められ、結果的に信繁が指名された」

とする説があり(北川遺書記)、

「信繁は手勢が少なすぎて守り切れないと北川次郎兵衛に相談し、後藤基次か明石全登の支援を仰ぎたいと申し出た。しかし次郎兵衛は、せっかく『真田が丸』と名付けるのだから、手勢が少なくとも自力で守るべきだと宥めた」

という。それを裏付けて、

「後藤基次が遊軍になったために信繁がはいった」

と記し(大阪御陣覚書)、真田方の軍記でも、

「出丸を受取」

とあり(真武内伝)、にもかかわらず、大阪冬の陣有数の攻防戦として、徳川方に相当の損害を与えたのだから、なかなか興味深い。

『諸国古城之図』摂津 真田丸.jpg

(真田丸絵図(浅野文書『諸国古城之図』(広島市立中央図書館蔵)。大阪城惣構(北)から離れた場所に築城された小さな城であり、複数曲輪から構成されている 本書より)

参考文献;
丸島和洋『真田四代と信繁』(平凡社新書)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
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2021年09月26日

仙人


「仙人」は、

僊人、

とも当てる(広辞苑)が、「仙」は「僊」の俗字である。「仙」は、

もとも「僊」「遷」につくり、僊人とは遷り棲む人を意味し、遷り棲む所が山であるところから「䙴」を「山」に改め、「仙人」の語ができた、

とある。中国最古の字書(後漢)『説文解字(せつもんかいじ)』に、「䙴」は、

高きに升(のぼ)るなり、

とあり、遷も、

高きに登渉する、

とある。僊の本義も、

飛揚升高、

で、いずれも、

高い所に昇ること、

であった(日本大百科全書)。そこで僊人とは、

人間が高い所に昇って姿を変えた者と考えていた、

と思われる。仙の字も、後漢末の辞典『釋名』には、

老而不死曰仙、仙僊也、僊入山也

とある(仝上・大言海)ので、世俗を離れて山中に住み、修行を積んで昇天した人を仙人と考えていた、と思われる。『史記』封禅書では、

僊人、

『漢書』芸文志では、

神僊、

と表記している(仝上)。

平安時代の漢字字書『類聚名義抄』では、

「僊」をヒジリ、「神仙」を「イキボトケ」、

平安末期の古辞書『伊呂波字類抄』では、「仙人」を、

亦僊と作す、

とあり、鎌倉末期の辞書『平他字類抄(ひょうたじるいしょう)』では、「仙」を、

ヒシリ、セン、

と訓し、鎌倉初期の歌学書『八雲御抄』では、「仙」を、

山人ともいふ、

と訓じている(仝上)。

いわゆる「仙人」と呼ぶものには、

道教における神仙、
と、
仏教における仙人、

とに大別される(日本伝奇伝説大辞典)。

道教の「仙人」は、

神仙(しんせん)、
真人(しんじん)、
仙女(せんにょ)、

ともいい、

中国本来の神々や修行後、神に近い存在になった者たちの総称。神仙は神人と仙人とを結合した語とされる。仙人は仙境にて暮らし、仙術をあやつり、不老不死を得たもの、

とかhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%99%E4%BA%BA

漢民族の古くからの願望である不老不死の術を体得し、俗世間を離れて山中に隠棲し、天空に飛翔することができる理想的な人をいう、

とか(日本大百科全書)とあるが、

戦国時代から漢代にかけて、(仙人の住むという東方の三神山の)蓬莱・方丈・瀛州(えいしゅう)に金銀の宮殿と不老不死の妙薬とそれを授ける者がいて、それを渇仰する、

神仙説、

がさかんになり、『史記』秦始皇本紀には、

斉人徐市(じょふつ)、上書していう、海中に三神山あり、名づけて蓬莱(ほうらい)、方丈(ほうじょう)、瀛州(えいしゅう)という。僊人(せんにん)これにいる。請(こ)う斎戒(さいかい)して童男女とともにこれを求むることを得ん、と。ここにおいて徐をして童男女数千人を発し、海に入りて僊人を求めしむ、

と記されている。この斉人の方士「徐市」は、徐福ともいい、始皇帝の命を受け、3、000人の童男童女と百工を従え、財宝と財産、五穀の種を持って東方に船出した、とされる。因みに、「瀛洲(えいしゅう)」は、転じて、日本を指し、「東瀛(とうえい)」ともいう。

六朝(りくちょう)以後は、

道教に摂取され道家の理想とする想像上の人物、

を指すようになった(日本伝奇伝説大辞典)、とある。だから、仙人や神仙は、

もともと神である神仙たちは、仙境ではなく、天界や天宮等の神話的な場所に住み暮らし、地上の山川草木・人間福禍を支配して管理、

するものであったが、道教の不滅の真理を悟り、

自分の体内の陰と陽を完全調和し、道教の道(タオ)を身に着けて、その神髄を完全再現することができる、

というものに変わったことになるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%99%E4%BA%BA。六朝時代、服用する仙薬などによっていろいろな段階があるとされ、晋の『抱朴子(ほうぼくし)』では、

天仙、
地仙、
尸解仙(しかいせん 魂だけ抜けて死体の抜け殻となるもの)、

の三つに区分し、

案ずるに仙経に云はく、上士は形を挙げて虚に昇る、これを天仙と謂ひ、中士は名山に遊ぶ、これを地仙と謂ひ、下士は先ず死して後に脱す、之を尸解仙と謂ふ、

とある(日本伝奇伝説大辞典)。

赤松子 (5).jpg

(赤松子(せきしょうし)  http://www2.otani.ac.jp/~gikan/11_1situ_01.htmlより)


仙人になる方法として、

導引(どういん 呼吸運動)、房中術(ぼうちゅうじゅつ)、薬物、護符、精神統一、

などがあるとしている(日本大百科全書)。仙人の伝を記した最初の書は、前漢末に劉向(りゅうこう)が撰したとされる『列仙(れつせん)伝』では、

赤松子(せきしょうし)、
馬師皇(ばしこう)、
黄帝(こうてい)、
握佺(あくせん)、

等々70余人が記されている。その後も、葛洪(かっこう)撰『神仙伝』、沈汾(ちんふん)撰『続仙伝』、杜光庭(とこうてい)撰『仙伝拾遺(せんでんしゅうい)』、曽慥(そぞう)撰『集仙伝』等々があり、清の『古今図書集成』「神異典」には、上古より清初までの仙人1153人が網羅されている、とか(仝上)。

仙人の方術には、

身が軽くなって天を飛ぶ、
水上を歩いたり、水中に潜ったりする、
座ったままで千里の向こうまで見通せる、
火中に飛び込んでも焼けない、
姿を隠したり、一身を数十人分に分身したりして自由自在に変身する忍術を使う、
暗夜においても光を得て物体を察知する、
猛獣や毒蛇などを平伏させる、

等々があるとかhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%99%E4%BA%BA。この「方術」、なんとなくしょぼい感じがするのは、ぼくだけだろうか。

八仙渡海図.jpg

(八仙(鍾離権、呂洞賓、韓湘子、李鉄拐、張果老、曹国舅、藍采和、何仙姑)渡海図 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%99%E4%BA%BAより)

仏教における仙人、つまり、

インドの仙人、

は、

梵語Ṛṣi、

の訳で、

大仙、
仙聖、
仙、

とも称し(日本伝奇伝説大辞典)、

聖仙、
聖人、
賢者、

とも漢訳されている(日本大百科全書)。インドにおいては、「リシ」とは、

ヨーガの修行を積んだ苦行者であり、その結果として神々さえも服さざるをえない超能力(「苦行力」と呼ばれる)を体得した超人、

であり、また、

神秘的霊感を以て宗教詩を感得し詠むという。俗界を離れた山林などに住み、樹木の皮などでできた粗末な衣をまとい、長髪であるという、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%82%B7。「中阿含」には、

七古仙、

「仏本行集」には、

七大仙、

等々が載るが、ヒンズー教の経典『マハーバーラタ』では、

マリーチ、
アトリ、
アンギラス、
プラハ、
リトゥ、
プラスティヤ、
ヴァシシュタ、

が七聖賢とされている。彼らは基本、

外道(仏道以外)の修行者で、世俗との交わりを断ち、山中にてむ諸道の法を修め、悟りを得た者、

をいい、その修行は、

仙聖とは梵行を修する人なり(大方等大集経)、
王は阿私仙の言を聞きて歓喜雀躍し、即ち仙人に随ひて所須を供給し、菓を採り水を汲み、薪を拾ひ食を設け、乃至身を以て床座と為す(法華経)、

とある(日本伝奇伝説大辞典)。

寺院のリシのレリーフ.jpg

(寺院のリシのレリーフ https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%82%B7より)

中国およびインドの仙人は日本にも伝わり、天平年間(729~749)に三仙人、

大伴(おおとも)仙人、
安曇(あずみ)仙人、
久米(くめ)仙人、

の伝説がみえている(日本大百科全書)とあり、虎関師錬(こかんしれん)の『元亨釈書(げんこうしゃくしょ)』神仙の項には、

白山明神(はくさんみょうじん)、
新羅(しんら)明神、
法道(ほうどう)仙人、
陽勝(ようしょう)仙人、

等々13人が記されている(仝上)。大伴(おおとも)仙人、安曇(あずみ)仙人、久米(くめ)仙人という名を見ると、「久米仙人」http://ppnetwork.seesaa.net/article/483162515.htmlで触れたように、『扶桑略記』にも、

本朝往年有三人仙。飛龍門寺。所謂大伴仙、安曇仙、久米仙也。大伴仙草庵。有基無舎、余両仙室。于今猶存、

とあり、古代氏族とのつながりを推測させる。

本来は、道教の仙人と仏教の仙人は別ものであるが、「久米仙人」が、久米寺創建とつながるように、わが国では区別されていない。たとえば、『日本霊異記』の役小角(えんのおづぬ)説話では、

孔雀博士の呪法を修め不思議な霊術の力を身につけ、現世で仙人になって天を飛んだ、

とあるように、道教の仙人が仏教の中に取り入れられている(日本伝奇伝説大辞典)。

「仙」 漢字.gif

(「仙」 https://kakijun.jp/page/0509200.htmlより)

「仙」(セン)は、

会意。「人+山」で、山中に住む人を表す会意兼形声と考えてもよい。仙は僊の後に作られた略字、

で、

長生きした末、魂が体から抜け去って空中に帰した者、

の意で、秦から後漢のはじめにかけては「僊人」と書いた。さらに、

人間界を避けて山中に入り霞と露を食べて不老不死の術を修行した者、

の意で、三国・六朝の頃から、「仙人」と書くようになった、とある(漢字源)。

「僊」 漢字.gif


「僊」(セン)は、

会意兼形声。西(セイ・セン)の原字は、水が抜け出るざるを描いた象形文字。䙴(セン)は「両手+人のしゃがんだ形+音符西(みずがぬけるざる)」の会意兼形声文字で、人が修行のすえ、ざるや穴からぬけでるように、魂の抜け去る術を心得ること。僊はそれを音符として人を加えた字で、その修行を積んだ人を示す、

とある(仝上)。つまり、仙人を指す。

「遷」 漢字.gif

(「遷」 https://kakijun.jp/page/1526200.htmlより)

「遷」(セン)は、

会意兼形声。䙴(セン)は「両手+人のしゃがんだ形+音符西(みずがぬけるざる)」の会意兼形声文字で、人がぬけさる動作を示す。遷はそれを音符とし、辶を加えた字で、そこから脱け出し中身が他所へうつること、

とあり(漢字源)、「うつる」意だが、

もとの場所・地位をはなれて、中身だけが他へ移る(「遷移」「左遷」等々)、

意であり

魂が肉体から離れて、自在に遊ぶようになった人、

つまり仙人も意味する(仝上)。

「遷」 成り立ち.gif

(「遷」 成り立ち https://okjiten.jp/kanji1965.htmlより)

別に、
形声。辵と、音符䙴(セン)とから成る。高い所に上がる意を表す。転じて「うつす」意に用いる、

とする説(角川新字源)、

会意兼形声文字です。「立ち止まる足・十字路の象形」(「行く」の意味)と「2人が両手で死体の頭部をかかえ移す」象形(「移す」の意味)から、「移す」を意味する「遷」という漢字が成り立ちました、

とする説https://okjiten.jp/kanji1965.htmlもある。

参考文献;
乾克己他編『日本伝奇伝説大辞典』(角川書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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ラベル:仙人 僊人 神仙
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2021年09月27日

助六


「助六」は、浄瑠璃や歌舞伎の登場人物、およびこれを主人公とした作品の通称だが、もともとは、

延宝(1673~81)または宝永(1704~11)頃、大坂千日寺であったという町人萬屋(よろずや)助六と島原の遊女揚巻(あげまき)の心中事件、

で、ただちに、浄瑠璃・歌舞伎に脚色・上演された(広辞苑・日本大百科全書)。

助六は、

侠客、
あるいは、
男伊達、

とされる。

島原の遊女揚巻のもとに通い詰め、親に勘当される。親からもらった縁切金千両で揚巻を請け出し、二人の間にできていた子供を親の門前に捨て子し心中した、

との巷説が伝わる(団十郎の芝居)、という(日本伝奇伝説大辞典)。これを見る限り、伊達とも粋とも関係なく、放蕩息子の成れの果てのようにしか見えない。しかし、

京坂の助六は、江戸の幡随院長兵衛と並び称されるほどの侠客だったという。これが総角(あげまき)という名の京・嶋原の傾城と果たせぬ恋仲になり、大坂の千日寺で心中した、

ともありhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A9%E5%85%AD

浅草の米問屋あるいは魚問屋の大店に大捌助六(おおわけすけろく)あるいは戸澤助六(とざわすけろく)、心中ではなく喧嘩で殺された助六の仇を気丈な総角が討ったものだとする説、

等々異説も多く、真相はやぶの中。ただ、芝居では、

江戸の古典歌舞伎を代表する演目のひとつ。「粋」を具現化した洗練された江戸文化の極致として後々まで日本文化に決定的な影響を与えた。歌舞伎宗家市川團十郎家のお家芸である歌舞伎十八番の一つ、

とされる(仝上)。

事件直後、京坂では事実に沿った情話として脚色され、

『大坂千日寺心中』(元禄十三年(1700) 竹本内匠利太夫)、
『助六心中紙子姿』(宝永三年(1706) 安達三郎左衛門)
『萬屋助六二代(かみこ)』(享保二十年(1735) 並木丈助)、
『紙子仕立両面鑑(かみこじたてりょうめんかがみ)』(安永五年(1768) 菅(すが)専助)、

と人形浄瑠璃として上演され、『助六心中紙子姿』は、大阪で、同じ宝永三年(1706)、

『京助六心中』

として、歌舞伎で上演される。この宝永三年を、

十三回忌の上演、

とすると、

助六・揚巻の心中事件は元禄七年(1694)、

と考えられる(日本伝奇伝説大辞典)、としている。

上方での助六像は、

当時の名優坂田藤十郎の夕霧劇における紙衣姿の芸や、「傾城仏の原」の長せりふを取り入れ、和事味の濃い形象として創り上げられた、

とある(仝上)。この素材が江戸に移され、

男伊達としての助六像、

が創成され、

心中情話、

から、

男伊達の敵討もの、

へ変貌する。その嚆矢は、正徳三年(1713)の、

『花館愛護桜(はなやかたあいごのさくら)』

で、

(説経浄瑠璃の)愛護若の世界に揚巻助六心中を組み込んだもの、

で(日本伝奇伝説大辞典)、助六には、二代目市川団十郎が扮した。この助六が、江戸中の評判になり、髪の結い方まで、

助六風、

が流行った、という(仝上)。この段階では、助六は、

大道寺田畑之助、

という名であったが、享保元年(1726)の、

『式例和曾我(しきれいやわらぎそが)』

で、

助六実は曽我五郎時致(ときむね)、

とされ、

曽我もの、

の中に取り込まれることになり、以後踏襲されていく(仝上)。この時の二代目団十郎の紛争は、

紫の鉢巻、蛇の目傘に紙子姿、

で、上方の傾城買いやつしを、江戸風に演じて成功した、という。

助六所縁江戸櫻.jpg

(助六所縁江戸櫻(天保三年三月 江戸市村座の「八代目市川團十郎襲名披露興行」における『助六所縁江戸櫻』。中央に七代目市川團十郎改メ五代目市川海老蔵の花川戸助六、左は五代目岩井半四郎の三浦屋揚巻、右は五代目松本幸四郎の髭の意休) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A9%E5%85%ADより)

助六は日本一の色男、

と川柳に詠まれた、

伊達な風俗、
威勢のいい啖呵、
侠気と雅気、

の助六像は、江戸庶民に愛され続け、助六狂言は幕末まで50回以上上演され、天保三年(1832)七代目団十郎によって、市川家の家の芸とされた、とある(仝上)。この年の、

『助六所縁江戸櫻』(すけろくゆかりのえどざくら)

で、

七代目の倅・八代目市川團十郎の襲名披露興行で、八代目は外郎売で登場、この興行ではじめて「歌舞妓狂言組十八番之内」の表現が使われる。後の「歌舞伎十八番」である、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A9%E5%85%AD

現行助六の扮装は、

紫縮緬の鉢巻きを締め、杏葉(ぎょうよう)牡丹の紋をつけた紅絹(もみ 真赤に無地染めにした薄地の平絹)裏の黒小袖、緋縮緬の襦袢を「一つ前」(一つにまとめて前を合わせること)に着る。一つ印籠、尺八、鮫鞘の脇差を腰につけ、蛇の目傘を持つ。顔は白粉地で、紅でめばりを入れる「剥身隈(むきみぐま)」という隈取り。高さ二尺四寸の大下駄をはき、左小褄を取って出る、

というのが定形だが、当時の十八大通https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E5%85%AB%E5%A4%A7%E9%80%9Aの一人、蔵前の札差、

大口屋暁雨の吉原通い、

を写したとされる(日本伝奇伝説大辞典)。

大口屋暁雨.jpg

(大口屋暁雨 明治三十年東京歌舞伎座初演の『侠客春雨傘』、九代目市川團十郎の大口屋暁雨 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A9%E5%85%ADより)

大口屋暁雨は、

実在が確認できる人物で、寛延から宝暦(1748~1764)年間に江戸の芝居町や吉原で豪遊して粋を競った18人の通人、いわゆる「十八大通」の一人に数えられている、

とある。二代目團十郎の贔屓筋だったことから、二人は親交を深めるようになり、江戸では次第に「團十郎の助六は大口屋を真似たもの」という噂が広まる。暁雨の方も助六そっくりの出で立ちで吉原に出入りし、「今様(いまよう)助六」などと呼ばれてご満悦だったという、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A9%E5%85%AD)。

なお、「伊達」http://ppnetwork.seesaa.net/article/482098884.html、「いなせ」http://ppnetwork.seesaa.net/article/414618915.html、については、触れた

参考文献;
乾克己他編『日本伝奇伝説大辞典』(角川書店)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

ラベル:助六
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2021年09月28日

助六寿司


「助六寿司」は、

いなり寿司と巻物を詰め合わせたもの、

をいうhttps://shokuiku-daijiten.com/mame/mame-967/らしい。

由来は、「助六」http://ppnetwork.seesaa.net/article/483608359.html?1632685332で触れた歌舞伎の「助六」で、はじめて「歌舞妓狂言組十八番之内」の表現が使われた、天保三年(1832)の『助六所縁江戸櫻(すけろくゆかりのえどざくら)』が著名だが、助六の愛人の「揚巻」の、

揚巻の「揚」を油揚げのいなり寿司、
揚巻の「巻」を海苔で巻いた巻き寿司、

と準えて、この二つを詰め合わせたものを、

助六寿司、

と呼ぶようになった、とされる(仝上・語源由来辞典)。また、一説には、

助六のする紫の鉢巻を巻き寿司、
揚巻を油揚げを使ったいなり寿司、

に見立てたともされ(https://shokuiku-daijiten.com/mame/mame-967/・語源由来辞典)、

揚巻の名にちなみ、この演目の幕間に出すために作られた弁当、

という説もある(仝上)。

助六寿司.jpg


江戸前寿司においては、単に「海苔巻き」と言えばかんぴょう巻きを意味するが、「かんぴょう」を「おかる」と呼んだのも、仮名手本忠臣蔵の「お軽勘平」からきたというhttp://onoguchi.co.jp/blog/2018/08/06/947/。これも、似た由来である。

ただ、稲荷寿司と巻き寿司の詰め合わせのことを「助六」と呼ぶようになったのは江戸時代中期からとされ、この背景には、倹約令が出され、江戸前の魚を使った握り寿司に代わって安価な稲荷寿司や巻き寿司が江戸の人々に親しまれていた、という経緯があり、この二つを詰め合わせた寿司折が登場し、油揚げの「揚げ」と巻き寿司の「巻き」から、

揚巻、

と呼ばれるようになったhttps://macaro-ni.jp/56491とする説があり、これに、当時大流行していた「助六由縁江戸桜」に登場する、

揚巻、

とが重なり、歌舞伎の助六の人気にあやかって、

助六、

と呼ぶようになった(仝上)とある。どうも経緯から見ると、こちらの方がありそうだが、どうなのだろう。

「歌舞妓狂言組十八番之内」の表現が使われた『助六所縁江戸櫻(すけろくゆかりのえどざくら)』は天保三年(1832)である。「いなりずし」の発案は、天保四年(1833)の天保の飢饉の後、天保七、八年(1836、7)と飢饉があった、その頃、

名古屋で油揚げの中に鮨飯を詰める稲荷鮨が考えた、

とある(たべもの語源辞典)。異説では、

愛知県豊川市にある豊川稲荷の門前町で、天保の大飢饉の頃に考え出された、

ともある(由来・語源辞典)。

1836(天保7)年の天保の大飢饉の直後に幕府から「倹約令」が出て、当時流行っていた握り寿司などを禁止された時期がありました。その時、油揚げを甘辛く煮て、質素だけれどもおいしい「いなり鮓」(当時は「いなり“鮓”」と明記されていました)が広く食べられるようになったようです。…もっとも、当時は飢饉ですからお米ではなく、おからを詰めていたそうです、

ともあるhttps://www.gnavi.co.jp/dressing/article/21424/。飢饉に「おから」の「いなりずし」が流行ったのである。これが嚆矢である。

また、海苔巻きは、延享三年(1750)刊行「料理山海郷」で、料理として紹介され、天明七年(1787)刊行『七十五日』では、既に江戸の手を汚さない寿司として、すし屋メニューの一つとなっていることが紹介されている、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%B7%E8%8B%94%E5%B7%BB%E3%81%8D。海苔巻きの方が早いようだが、いずれにしても、「助六」芝居の流行期と対比すると、「いなりずし」の成立はその後だし、「巻ずし」の成立はかなり早い。芝居の流行にあやかって、洒落て、

助六寿司、

と、歌舞伎の「助六」に準えた、ということはありえるのではないか。その方が江戸ッ子らしい。

なお、「すし」http://ppnetwork.seesaa.net/article/456254952.html、「稲荷ずし」http://ppnetwork.seesaa.net/article/469221526.htmlについては触れた。

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コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
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ラベル:助六寿司
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2021年09月29日

幕府再興の夢


鈴木由美『中先代の乱―北条時行、鎌倉幕府再興の夢』を読む。

中先代の乱-北条時行、鎌倉幕府再興の夢.jpg


「中先代(なかせんだい)」とは、

北条氏を「先代」、
足利氏を「当御代(とうみだい)」、

と呼び、

「その中間にあたる時行を『中先代』と称したと考えられる」

とされる。「時行(ときゆき・ときつら)」とは、最後の執権、

北条高時、

の次男である。

正慶(しょうきょう)二年(元弘三年 1333)五月鎌倉幕府が滅亡時、高時の遺児、

万寿(邦時 九歳)、
亀寿(時行 五歳)、

は、それぞれ伯父(母の兄)五大院宗繁、高時被官諏訪盛高によって逃げのびたが、兄邦時は、宗繁に密告されて新田義貞によって殺された。時行は、二年後、建武二年(1335)六月、諏訪頼重・時継らに奉じられて、信濃で挙兵、総勢五万もの大軍となり、足利一族の護鎌倉将軍府の軍を、武蔵女影原(おなかげはら)、小手指ヶ原(こてさしがはら)、武蔵国府で撃破、武蔵井出沢(いでのさわ)で、足利直義を破ると、七月、鎌倉に攻め入った。

中先代の乱、

である。

建武政権期(鎌倉幕府滅亡の正慶二年(元弘三年 1333年)5月22日から後醍醐天皇が吉野に南朝を開いた延元元年(建武三年 1336年)12月まで)に各地で反乱がおきたが、特に足利尊氏が建武政権離脱までに起きた反乱は全国にわたり、全26件、うち北条与党の反乱は半部を占める。時行の鎌倉攻めのように、大きな勢力となった背景には、

「全国的な規模で建武政権に対しての不満が存在していた」

ためであり、

「地方の武士がその地域に縁の薄い北条氏を担いででも反乱を起こしたのは、現状を打破するためであり、それだけ現状が耐え難かったのであろう。」

だから「中先代の乱」では、あれほどの大勢力に膨れ上がった。しかし、僅か20日間ほどで、東上した尊氏に敗れてしまう。それなのに、「中先代」などと、

「なぜ鎌倉幕府の執権『先代』北条氏と室町幕府を開いた『当御代』足利氏と同列に置かれたのだろうか。」

著者は、こうその理由を挙げる。

「源頼朝の幕府開創以来150年にわたって武家政権が置かれた鎌倉という土地は、鎌倉幕府滅亡後も、足利氏を含めた武士にとって特別なものであった。それはこの法律の制定をもって室町幕府の開創といわれている『建武式目』に、鎌倉は、『武家にとっては、もっとも縁起が良い土地というべきである』と謳われていることからも明らかである。時行が『先代』の北条氏・『当御代』の足利氏と同質と見なされたのは、時行が短期間であっても源頼朝以来、武家政権が置かれていた鎌倉の地を占領することができたからであろう。」

と。しかし、この理由づけには、ちょっと納得できない。

総勢五万余で東下した足利尊氏は、19日には鎌倉を奪還し、時行は、

廿日先代、

と言われたという。その後、尊氏は後醍醐天皇の帰京命令に従わず、12月に、両者は決裂する。尊氏は、持明院統の光厳上皇の院宣を手に入れ、結果として、

武家の棟梁、

として、建武政権への不満を吸収していくことになる。

「尊氏も、中先代の乱を鎮圧した実力で鎌倉を占領したことにより、周囲が尊氏を武家政権の首長として認識し、『将軍家』とよばれることになった」

し、それが、

「足利氏が北条氏と同様の武家政権の指導者、『先代』の次の『当御代』と呼ばれるようになった契機も同じであっただろう。」

と著者は言うが、そうだろうか。「当御代」と呼んでいるのは、ニュートラルな言い方ではなく、その表現からみて、室町幕府側から見ている。その御代から見て、北条の「先代」だけにしないのは、意味があるのではないか。ただ鎌倉占拠だけではなく、尊氏の鎌倉攻めが、建武政権から離脱する重大な契機になったからではないか。その意味で、「当代」(当御代と敬っている)の「室町政権」当事者から見て、

中先代、

と敢えて言ったのではないか、という気がしてならない。

ところで、その時行は、延元二年(建武四年、1337年)、義良親王を奉じて奥州から上洛する北畠顕家軍に参加している。つまり、南朝方に加わっている。この理屈がよく分からないが、時行はまだ九歳、周囲で支える者たちの思いなのだろう。それは、

足利憎し、

である。その理屈を、

「鎌倉時代の足利氏は、将軍に仕える御家人であった。(中略)足利氏は北条氏の家来ではないが、北条氏の側には、得宗が足利氏の嫡子の烏帽子親となって名前の一字を与え、北条氏の娘を嫁がせるなどして、足利氏を優遇してきたという意識があったのではないか。
 事実、尊氏の初名『高氏』の『高』は得宗北条高時から名の一字を賜ったものであり、……彼の妻も執権赤橋守時の妹登子であった。その足利氏が自家を裏切ったことこそが、時行や北条一族にとって何よりもゆるせなかったのではないだろうか。
 直接鎌倉を攻め、幕府を滅ぼした新田義貞に対しても、後醍醐天皇の命令に従ったのだから憤りは持たなかった、と述べたように、この後、時行は新田義貞の子義興・義宗と行動をともにしている。」

とある。しかし、「北条」も「足利」も、御家人としては同列である。足利は北条の家臣ではない。

「譜代の家臣であれば主人とともに死ぬもの」

という武家社会の通念は当てはまらないのではないか。しかし、時行は、南朝方として戦いつづけ、正平七年(文和元年 1352年)捉えられ、処刑される。享年25、幕府滅亡後20年、時行と行動を共にしてきた、

長崎駿河四郎、
工藤二郎、

得宗被官の二人も共に処刑された。

「一族再興のための戦いにその大部分を費やした生涯は、鎌倉幕府が滅びてから20年を迎える日の二日前に閉じた」

とある。

参考文献;
鈴木由美『中先代の乱―北条時行、鎌倉幕府再興の夢』(中公新書)

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2021年09月30日

πの計算史


柳谷晃『円周率πの世界―数学を進化させた「魅惑の数」のすべて』読む。

円周率πの世界.jpg


円周率πとは、

円周の長さと円の直径の比、

である。例の、

3.1415926……、

と続く、おなじみの数である。しかし、

「πが正確にいくつなのかを計算すること自体がきわめて難しいのです。古代文明の人たちも、そのことを熟知していて、πに近い値、すなわち近似値を懸命に計算していました。」

πが正確に理解されたのは、

πは無理数である、

と証明され、

πは代数的ではない、

ことが明らかにされ、ようやく、1982年、リンデマンが、

πは超越数、

であることが照明して初めて、πというものが明確になったとされる。超越数(ちょうえつすう)とは、

代数的数でない複素数、すなわちどの有理係数の代数方程式の解にもならない複素数、

とされるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%85%E8%B6%8A%E6%95%B0が、本書では、ウォリスの言葉を引いている。

「分数ではなく、通常の方程式の根になる無理数でも虚数でもなく、何か別な表現が必要だ」

と。それが、

n次方程式の根にならない、

超越数、

ということになる。これによって、古代から続く、三つの作図問題の一つとされる、

円積問題、

与えられた円と同じ面積をもつ正方形の辺の長さを作図する、言い換えると、√πの作図をする、

ということは不可能であることが、結論づけられることになる。この問題を解決するのに、2200年の歳月を要した、とはそのまま数学の歴史そのものの成果ということになる。

2019年、グーグルに努める日本人が、πの値を、

31兆4000億桁まで計算して世界記録を更新、

したという。しかし、

「誰が、これほどの精密なπの近似値を使いうるのか」

というほどの数値だが、かほどに

「円周率という数値が私たち人類を魅了してきたか」

という証のようなものである。本書は、そんな「π」との格闘の歴史を辿る。

πの近似値の出し方としては、アルキメデスの方法が有名である。

「最初に、正六角形の周りの長さを円周の近似値として使います。この時の円周率の近似値は3で、正六角形の一辺が、その外接円の半径であることからわかります。(中略)正六角形から頂点を2倍にして、正12角形をつくります。さらに、正24角形、正48角形と頂点の数を増やしていきます。アルキメデスは正96角形まで計算しました」

と。この500年後の中国・魏の数学者、劉徽(りゅうき)は、

正192角形、

まで計算し、

正192角形の面積:314+64/625、

さらに、等比級数の計算方法を使って、

314+4/25、

という値を求めていた。「これらの数字をすべて100で割ると、円周率の近似値になり」、小数に直すと、

3.1416、

となる。さらに、今日われわれの使う、

円周率、

という言葉を使っている『隋書』に載る祖沖之は、πの値を、

3.1415926<π<3.1415927

と示した。この計算を得るためには、

正24576角形、

の辺の長さを計算しなくてはならない、とわかっている。これに近い値を出すには、1573年のオットーまで待たねばならない。つまり、祖沖之の計算力は、ヨーロッパの1000年先を行っていた、ということになる。

もちろんこれは、アルキメデスの発想の延長線上にあるので、この発想を脱するためには、ニュートンと、ライプニッツの微分・積分の登場を待たねばならない。

参考文献;
柳谷晃『円周率πの世界―数学を進化させた「魅惑の数」のすべて』(ブルーバックス)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

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