「時雨」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/471497019.html)で触れたように、「時雨」は、
しぐれ、
ではなく、
じう、
と訓ます。というか、「時雨」は、漢語であり、
ほどよいときに降るよき雨、
を意味し、禮記にも、
天降時雨、山川出雲、
とある。それが転じて、
時雨之化(じうのか)、
というように、
教化の普く及ぶをいう。草木の好雨を得て発生するに喩う、
意で使う、とある(字源)。由来は。『孟子』(盡心)の、
君子之所以教者五、有如時雨之化者、有成徳者、有達財者、有答問者、有私淑艾者、此五者、君子之所以教也、
である。「しぐれ」の意で使うのはわが国だけである。
「しぐれ」は、
日本海側や京都盆地、岐阜、長野、福島などの山間部では突然、空がかげったかと思うとハラハラと降りだし、短時間でサッとあがり、また降り出すといった雨、
とある(https://japanknowledge.com/articles/kkotoba/37.html)。これは、
大陸から日本海や東シナ海を渡って吹いてくる冬の北西季節風の気温は、海面の温度よりもはるかに低い。すると、この風は海面から水蒸気をもらうとともに、下から暖められて対流を起こし、団塊状の積雲や積乱雲をたくさんつくる。冬型気圧配置の日に、テレビの気象衛星の雲画像で、日本海や黄海・東シナ海に白い「雲の筋」がたくさん映っているが、それはこれらの雲が風に流されて無数の行列になったものである。(中略)その「雲の行列」の一つ一つが通過するたびに、1~2時間の周期で降ったりやんだりを繰り返す、
ためである(雨のことば辞典)。これが雪になると、
雪しぐれ、
となり、霧なら、
霧しぐれ、
となる(芭蕉の句に、霧しぐれ富士を見ぬ日ぞ面白き、と詠んでいる)。
「しぐれ」は、
時雨雲が来るとにわかに暗くなって冷たい雨が降り、あたりは荒涼とした冬景色になる。雲が過ぎると、先刻の雨がうそのように青空から日が射して、
の繰り返しである(仝上)。11月初旬の立冬の前後、
大陸性高気圧が勢力を増し、北西の季節風が吹き始める。これが「木枯し」となるわけだが、この風が中央脊梁山脈にあたって吹き上げ、冷やされた空気が雲をつくり降雨する。これの残りの湿った空気が風で山越えしてくるときに降る急雨が時雨なのである、
とあり(https://japanknowledge.com/articles/kkotoba/37.html)、
したがって江戸の昔から、一時的に軽い雨脚で降り過ぎていく雨を時雨といったりしてきたが(「深川は月も時雨るる夜風かな」杉風)、本来の意味では関東平野に時雨はない、
とある(仝上)。しかし、「しぐれ」は、
時雨(しぐれ)の雨、間(ま)なくな降りそ、紅(くれなゐ)に、にほへる山の、散らまく惜(を)しも時待ちて、ふりし時雨の、雨止みぬ、明けむ朝(あした)か、山のもみたむ
と、万葉集にうたわれているように、古くからある言葉だが、
初冬の景物、
として固定化するのは鎌倉以降である、という(仝上)。特に、
神無月ふりみふらずみ定めなき時雨ぞ冬のはじめなりける(後撰集)、
の歌から、神無月の景物として固定化することになった、ともある(仝上)。それが、
世にふるもさらに時雨の宿りかな(宗祇)、
世にふるもさらに宗祇のやどり哉(芭蕉)、
笠もなきわれを時雨るるかこは何と(同)、
旅人と我が名呼ばれん初霽(しぐれ)(同)、
時雨るるや我も古人の夜に似たる(蕪村)、
等々と、俳諧の時代になって、
秋時雨、梅雨時雨、初時雨、朝時雨、夕時雨、小夜時雨、北時雨、北山時雨、むら時雨、片時雨、横時雨、片時雨、山茶花しぐれ、
等々、時雨のさまざまな様態を示す言葉が生まれ、さらに涙、松風、木の葉、川音、虫の音等々を時雨と見立て、
涙の時雨、袖時雨、袂の時雨、松風の時雨、木の葉の時雨、川音の時雨、蝉時雨、虫時雨、露時雨、
等々がつくり出された、とある(仝上・雨のことば辞典)。これを、
偽物のしぐれ、
というらしい(雨のことば辞典)が、
見立て、
は歌の本領ではないのか。「偽」とは、どうなのだろう。たとえば、
靑しぐれ、
青葉しぐれ、
のように、
木々の青葉から滴り落ちる水滴を「しぐれ」に見立てた言葉や、
梅雨時雨、
と、梅雨の季節の、降ったりやんだりを指す言葉は見立てだが、「しぐれ」時期にも、
時雨明かり、
時雨傘、
時雨癖、
時雨心地、
時雨月、
時雨虹、
時雨(の)色、
時雨三日、
と、さまざまな「しぐれ」風景に関わる詞が作り出されている。「しぐれ」のもつイメージが喚起するものだろう。
こうみてくると、「しぐれ」の語源は、
志ぐれの雨の略、
とあり(大言海)、その動詞「志ぐる」は、
志は、風雨(シ)、クルは、暮る、時雨と書くは、時(しばしば)降る雨の意。時鳥(ほととぎす)の如し、
とする説もある(仝上)が、もっとシンプルに、
「過ぐる」から出た語で、通り雨の意(広辞苑・日本語源広辞典)、
過ぎ行く雨であるところから、スグル(過)の転(語源をさぐる=新村出)、
あるいは、
「秋の末から冬の初めにかけて降ったり止んだり定めなく降る通り雨をスギフル(過ぎ降る)雨といった。ギフ[g(if)u]の縮約でスグル・シグル(時雨る、下二)になった〈けしきばかりうちシグレて〉(源氏 紅葉賀)。連用形の名詞化がシグレ(時雨)である。〈長月のシグレにぬれとほり〉(万葉)(日本語の語源)、
という、
すぐる→しぐれ、
と転訛したとみるのが、自然のように思われる。
(木曾街道 沓掛ノ驛 平塚原 雨中之景(渓斎英泉) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%93%E6%96%8E%E8%8B%B1%E6%B3%89より)
「しぐれ煮」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/471476208.html)というものがある。これは、
生姜を加えた佃煮の一種、
貝類のむきみにショウガ・サンショウなどの香味を加えて醤油・砂糖などで煮しめた料理、
というように(広辞苑)、今日は、生姜を入れた佃煮を、「時雨煮」と呼んでいるが、本来は、
蛤のむき身に生姜を加え、佃煮にしたもの、
を指す(たべもの語源辞典)。時雨蛤の命名は、芭蕉の高弟(で、芭蕉の遺書を代筆した)各務支考(かがみしこう)だとされる。
「時雨とは、晩秋から初冬にかけて降ったり止んだりする雨、曇りがちの空模様を言う。通り雨の『過ぐる』が語原とも。しぐれは『し』と『くれ』に分けて、『くれ』は『暗し』と解釈し、『し』を『しばし』とか、『し』は風のことだと説いたりする。蛤の佃煮を食べていると蛤の味が醤油の辛さのうちに通り過ぎていく。この時雨煮は、簡単にのみこめるものではないから、降ったり止んだりする時雨のように口中で味の変化、過程を楽しめる。これが時雨煮とした理由と考えられる」
とする説(たべもの語源辞典)は、なかなか趣がある。
口中で味が変化することから時雨にたとえた、
とするのは「しぐれ」に適っている。一般的には、
時雨饅頭
時雨餅
等々、「しぐれ」と名づけるには、「そぼろ」になっているのがみそである。「そぼろ」は、
ばらばらで細かいこと、
を意味するが、そぼ降る雨というような、
雨がしとしと降るさま、
の意である。しかし、「時雨煮」はそぼろではない。
時雨は「しぐれ色」と称して、時雨で色づいた草木の色を取り上げることもある。だから、時雨煮とは、しぐれ色に煮上げたものと考える人もある。蛤とか牡蠣とか、時雨煮にするとき醤油で煮染めるとか、生姜を加えて佃煮にするとか、どんなものを煮ても味を濃くして口に入れたとき味が変わっていく、通り過ぎていく味を感ずるこの味つけが時雨煮の本領なのである、
という、味わいから来たとする説(たべもの語源辞典)を考えると、「しぐれ煮」とは、なかなか巧い命名に思える。。
参考文献;
倉嶋厚・原田稔編『雨のことば辞典』(講談社学術文庫)
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
小林勝人訳注『孟子』(岩波文庫)
簡野道明『字源』(角川書店)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95