2021年10月01日

をとこ


「をとこ」は、

男、

と当て、古くは、

をとめ(少女)の対、

とされる(岩波古語辞典・広辞苑)。つまり、

「ひこ(彦)」「ひめ(姫)」などと同様、「こ」「め」を男女の対立を示す形態素として、「をとめ」に対する語として成立した、

もので(精選版日本国語大辞典)、

ヲトは、ヲツ(変若)・ヲチ(復)と同根、若い生命力が活動すること。コは子。上代では結婚期に達している若い男性。平安時代以後、「をんな(女)」の対で、男性一般をいう。類義語ヲノコは男の子の意で、もとは、健児・従者・召使の意、

とある(岩波古語辞典・精選版日本国語大辞典)。ただ、「をとこ」と「をのこ」とは、

「をとこ」は、古くは「をとめ」と対応して年若い男性をさし、のちに広く「をんな」に対するものとして性を意識して用いるようになった。これに対し、類義語「をのこ」は、男性を意味しても性の意識は少なく、「をとこ」が「夫」を意味することがあるのに対して、「夫」の意味はない、

との説明もある(学研全訳古語辞典)。

いずれにせよ、「をとこ」は、

をとめらにをとこたち添ひ踏みならす西の都は万代(よろづよ)の宮(続日本紀)、

と、

をとめの対、

の、「若い男性」の意から、

秋野には今こそ行かめもののふのをとこをみなの花にほひ見に(万葉集)、

と、

をみな・をんなの対、

の、「(一人前の)男性」の意へと広がったことになる。

「をと」は、

をつの名詞形、

であり、「をつ」は、

変若つ、
復つ、

と当て、

変若(お)つること、

つまり、

もとへ戻ること、
初へ返ること、

で、

我が盛りまたをちめやもほとほとに奈良の都を見ずかなりなむ(大伴旅人)、

と、

若々しい活力が戻る、
生命が若返る、

意であり(仝上・大言海)、

若い、
未熟、

の含意である。もともと「を」は、

雄、
牡、
男、
夫、

等々と当て、

め(牝・雌・女・妻)の対、

で、

高円の秋野の上の朝霧に妻呼ぶ牡(を)鹿出て立つらむか(万葉集)、

と、

上代では動植物・神・人を問わず広く使われたが、平安時代以後は複合語の中に用いられ、「をのこ(健児・従者)「をのわらは(男の童)」「しずのを(賤の男)」「あらを(荒男)」など、卑しめられ、低く扱われる男性を指すことが多くなり、男性一般を表すには「をとこ」がこれに取って代わった、

とある(岩波古語辞典)。

漢字「男」(漢音ダン、呉音ナン)は、最古の部首別漢字字典『説文解字』に、

男丈夫也、从田从力、言用力於田成、、

とある(大言海・字源)。

田力に从(従)い、力を田に用いる、

で、

会意。「田(はたけ、狩り)+力」で、工作や狩りに力を出すおとこを示す、

とある(漢字源)。

「男」 漢字.gif


別に、

会意文字です(田+力)。「耕作地」の象形と「力強い腕」の象形から、耕作地を力強い腕で耕しているさま(様)を表し、そこから、「おとこ」を意味する「男」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji31.html

「男」 甲骨文字.png

(「男」 甲骨文字・殷 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%94%B7より)

なお「子」http://ppnetwork.seesaa.net/article/465595147.htmlについては触れた。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

ラベル:をとこ おとこ
posted by Toshi at 04:33| Comment(0) | 言葉 | 更新情報をチェックする

2021年10月02日


「め」は、「をとこ」http://ppnetwork.seesaa.net/article/483673592.html?1633030409で触れたように、

牝、
雌、
女、
妻、

等々と当て、

雄、
牡、
男、
夫、

等々と当てる、

「を」の対、

である(岩波古語辞典)。「め」は、

女神、
女鹿、
雌蕊、
手弱女(たおやめ)、

等々と、

多く複合語として使う。動植物の雌の意。人間にも、男と一対をなす女の意で使うが、多くは女を見下げたり卑下したりする気持ちでいう。また、妻を指す場合もあるが平安時代には受領以下の人の妻をいうことが多く、天皇・貴族の正妻を指すことはほとんどない。軽侮の意を表す接尾語メも、これの転用、

とある(仝上)。接尾語「め」は、

奴、

と当てる。

やつ奴、
とか
畜生奴、

あるいは、

私奴、

と、謙遜の意を表したりする。

「を」は、

上代では動植物・神・人を問わず広く使われたが、平安時代以後は複合語の中に用いられ、「をのこ(健児・従者)「をのわらは(男の童)」「しずのを(賤の男)」「あらを(荒男)」など、卑しめられ、低く扱われる男性を指すことが多くなり、男性一般を表すには「をとこ」がこれに取って代わった、

とある(岩波古語辞典)が、「め」も、

古くは女性一般を意味していたが、平安時代以降、「をんな」と次第に交代し「め」は待遇度が低下して、女性の蔑称として用いられることとなった、

とある(日本語源大辞典)。

「め」は、

メ(愛)ずべき意か(本朝辞源=宇田甘冥・国語の語根とその分類=大島正健・大言海・日本語源広辞典)、

とある。しかし、「を」は、それと対になる説がない。

ヲ(尾)と同義(言元梯)、
オホ(大)、また、ヲモ(重)の反(名語記)、

等々だが、倭名抄に、

尾、乎(を)、鳥獣尻長毛也、

とある(岩波古語辞典)。単なる連想だが、「め」の語源説に、

ミ(陰)の義(言元梯)、

がある。「を」と「め」は対だと思うので、

ヲ(尾)と同義(言元梯)、
ミ(陰)の義(言元梯)、

なら、意味は通じる気がするのだが、語呂合わせのような気がしないでもない。対になる「を」が見当たらないが、「め」は、「め」http://ppnetwork.seesaa.net/article/453951631.htmlで触れたように、「目」と「芽」と「見」とがつながる。「め」(女)も、「目」、「芽」、「見」とつながるような気がする。

「女」 漢字.gif

(「女」 https://kakijun.jp/page/0322200.htmlより)

「女」(漢音ジョ、呉音ニョ、慣用ニョウ)は、

象形、なよなよしたからだつきの女性を描いたもの、

とある(漢字源)が、

象形。手を前に組み合わせてひざまずく人の形にかたどり、「おんな」の意を表す、

とあり(角川新字源)、

象形文字です。「両手をしなやかに重ね、ひざまずく女性」の象形から、「おんな」を意味する「女」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji32.html)。甲骨文字から見ると、後者のように感じる。

「女」 甲骨文字.png

(「女」 甲骨文字・殷 )https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%A5%B3より

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

ラベル:
posted by Toshi at 04:28| Comment(0) | 言葉 | 更新情報をチェックする

2021年10月03日

をっと


「を(お)っと」は、

夫、
良人、

等々と当てる(広辞苑)が、「夫」は、「め」http://ppnetwork.seesaa.net/article/483689364.html?1633116498で触れたように、

を、

とも訓ます。古く、「夫」を、

を、

といった(大言海)ので、

夫人(ヲヒト)の転なるヲウトの急呼(大言海)、

とするが、多くは、

ヲヒト(男人)の音便形(岩波古語辞典)、
ヲヒト(男人)の略(俗語考・菊池俗語考)、

あるいは、

ヲヒト(雄人)の転(国語の語根とその分類=大島正健)、
ヲヒト(雄人)の促音化(日本語源広辞典)、

である。要は、「を」に当てる、

雄、
牡、
男、
夫、

のどれを取るかの差に過ぎない。平安初期(868年頃)の『令集解』に、

夫、俗に呼比止(をひと)と云ふ、

とあり、平安期(898~901頃)の漢和辞典『新撰字鏡』には、

をうと(夫)、

が載る。『白氏文集天永四年点』(1113)には、

聟(ヲフト)塩商たること十五年、

と訓じ、平安末期(11世紀末~12世紀頃)の『名義抄』にも、

「聟」の訓として「をひと」が用いられている、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AB

要は、

ヲヒト→ヲフト→ヲウト→オット、

と転訛したことになる。別に、

ヲサヒト(長人)の義(日本語原学=林甕臣)、

等々もあるが、

「め(女)」の対、

の「を」でいいのではあるまいか。

また、「夫」は、

ひこぢ、

とも訓ませる(広辞苑・精選版日本国語大辞典・デジタル大辞泉)。

其の比古遅(ヒコヂ)〈三字は音を以ゐよ〉答へて歌ひたまひしく(古事記)、

と、

「ひこ」は男子の美称。「じ」は敬称、

で、

りっぱな夫、

の意である(仝上)。

彦男、

とも当てる(岩波古語辞典)。

また、「つま」http://ppnetwork.seesaa.net/article/443211797.htmlで触れたように、「夫」は、

ツマ、

とも訓み、

妻、

とも当てる。「つま」は、

妻、
夫、
端、
褄、
爪、

と当てて、

爪、

を「つま」と訓むのは、「つめ」の古形だが、

端(ツマ)、ツマ(妻・夫)と同じ、

とある(岩波古語辞典)。「端」は、

物の本体の脇の方、はしの意。ツマ(妻・夫)、ツマ(褄)、ツマ(爪)と同じ、

とあり(仝上)、「つま(妻・夫)」は、

結婚にあたって、本家の端(つま)に妻屋を立てて住む者の意、

で、「妻」も「端」につながり、「つま(褄)」も、

着物のツマ(端)の意、

で、「つま(端)」につながる。しかし、「つま(端)」には、

詰間(つめま)の略。間は家なり、家の詰の意、

とあり(大言海)、「間」には、

家の柱と柱との中間(アヒダ)、

の意味がある(仝上)。さらに、「つま(妻・夫)」は、

連身(つれみ)の略転、物二つ相並ぶに云ふ、

とあり、「つま(褄)」も、

二つ相対するものに云ふ、

とあり(大言海)、「つま(妻・夫)」の語意に同じ」なのである。「夫」、「妻」を、ともに、

ツマ、

と呼んだのは、「つま」を、

はし(端)、

とする説よりは、

あいだ、

とする説の方に分があるように思える。「連身」は、

ツレ(連)+マ(身)、

で、後世の「連れ合い」である。上代には、

夫も妻もツマ、

と言っていたことは、「端」説では説明がつかない。上代対等であった、

夫、

妻、

が、時代とともに、「妻」を「端」とするようになった結果、

つま(端)、

語源説になったのではあるまいか。

「夫」 漢字.gif

(「夫」 https://kakijun.jp/page/0442200.htmlより)

「夫」(漢音・呉音フ、慣用フウ)は、

象形。大の字に立った人の頭に、まげ、または冠のしるしをつけた姿を描いたもので、成年に達したおとこをあらわす、

とある(漢字源)が、髷に簪を挿したとする説https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%A4%ABが目立つ。頭部にかんざしをさして、正面を向いて立った人の形にかたどる(角川新字源)ともある。

「夫」 甲骨文字.png

(「夫」 甲骨文字・殷 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%A4%ABより)

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

ラベル:をっと 良人
posted by Toshi at 04:37| Comment(0) | 言葉 | 更新情報をチェックする

2021年10月04日

骨肉の争い


亀田俊和『観応の擾乱―室町幕府を二つに裂いた足利尊氏・直義兄弟の戦い』を読む。

観応の擾乱.jpg


「観応の擾乱(かんのうのじょうらん)」は、

「室町幕府初代将軍足利尊氏および執事高師直と、尊氏弟で幕政を主導していた弟直義(ただよし)が対立し、初期室町幕府が分裂して戦った全国規模の戦乱」

である。この内戦は、

「観応元年(1350)10月、尊氏が不仲であった実子足垣が直冬(ただふゆ)を討伐するために九州に向けて出陣した隙を突いて、直冬の叔父にして養父でもあった直義が京都を脱出したことから始まる」

とされ、直義軍が圧勝し、観応二年(北朝正平五年 1351)二月、師直一族が惨殺されたことで、「観応の擾乱」の

第一幕、

が終わる。両者の講和は、五ヵ月で破綻、同七月末、直義が京都を脱出して、北陸へ向かったことで、

第二幕、

が始まり、翌正平七年(観応三年 1352)二月に直義が死去したことで、狭義の「観応の擾乱」は集結する。しかし、この後も、文和三年(1353)五月、直冬が京都を目指し、翌四年三月、尊氏は直冬を撃退した。

この間も、観応二年(1351)十月の、正平一統(しょうへいいっとう)と呼ぶ、南朝に統一された僅か四ヶ月を除き、南北朝の争いは続いているし、直冬撃退後も、たとえば、尊氏死後、

「康安元年(1361)十二月、南朝は四度目の京都奪還を果たす。だがこのときも南朝軍の主力となったのは失脚した前幕府執事細川清氏であったし、占領もごく短期間で終わった。そしてこれが最後の入京となった。観応の擾乱のような、幕府の存亡をかける規模の戦いは終息した」

とある。この後、40年も南北朝内乱が続くが、それほど戦乱を長引かせたのは、直義が一時南朝方についたように、

「幕府では、権力抗争に敗北すると南朝方に転じる武将が続出」

したことにあり、直義は、その先例になった、との指摘は重要だろう。

足利尊氏.jpg

(足利尊氏 絹本著色伝足利尊氏像(浄土寺蔵) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E5%B0%8A%E6%B0%8Fより)

南北朝の対立は、措くとして、この「観応の擾乱」は、正直、

わけが分からない内乱、

である。それぞれ中核となる尊氏派、直義派の武将がいるが、多くは、彼方になびき此方になびき、定まらない。両者の対立すら、その理由がはっきり分からない。著者は、

実に奇怪な内乱、

と呼ぶ。

足利直義.jpg

(足利直義 神護寺三像の一つ、伝源頼朝像 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E7%9B%B4%E7%BE%A9より)

「四条畷の戦いで難敵楠木正行に勝利し、室町幕府の覇権確立に絶大な貢献を果たした執事高師直が、わずか一年半後に執事を罷免されて失脚する。だがその直後に数万騎の軍勢を率いて主君の足利尊氏邸を包囲し、逆に政敵の三条殿足利直義を引退に追い込む。
 ところがその一年あまり後に、直義が宿敵の南朝と手を結ぶという奇策に出る。今度は尊氏―師直を裏切って直義に寝返る武将が続出、尊氏軍は敗北して高一族は誅殺される。
 だがそのわずか五ヵ月後には何もしていないのに直義が失脚して北陸から関東へ没落し、今度は直義に造反して尊氏に帰参する武将が相次いで、尊氏が勝利する。そして、その後も南朝(主力は旧直義派)との激戦がしばらくはほぼ毎年繰り返されるのである。
 短期間で形勢が極端に変動し、地滑り的な離合集散が続く印象である。このような戦乱は、日本史上でも類を見ないのではないか。」

高師直.JPG

(高師直 『守屋家旧蔵本騎馬武者像』(高師詮説もある) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%B8%AB%E7%9B%B4より)

 この離合集散はなぜ起きるのか。両者の支持層には、

「明確な……違いなど存在せず、両派は基本的に同質であった。否、そんな党派対立など存在しなかった。明確な派閥が形成されはじめるのは、どんなに早く見積もっても貞和四年(1348)正月の四条畷の戦い以降であった。そして一部の武将を除いて、その構成も最後まで流動的であった」

というのが著者の見方である。では、何が原因か。

足利 直冬.jpg

(足利直冬(歌川貞秀『英雄百首』) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E7%9B%B4%E5%86%ACより)

「そもそも観応の擾乱の直接的はじまりは、尊氏と師直が九州の直冬を討伐するために出陣したことであった。史料に乏しい難点はあるが、尊氏の実子で有能であるにもかかわらず、なぜか異常に忌み嫌って排除し続ける尊氏に反発が集まった事情は確かにあったと思われる。畠山国清が直義派に転じたのも、その要素が大きいと推定している……。そして、そんな尊氏の意を承けて、嫡子義詮(よしあきら)を次期将軍にするために全力で献身していた師直に対して批判が集中したのではないか。」

と著者は述べる。確かに、「観応の擾乱」は、

直冬にはじまり、直冬に終わった、

ところはある。しかし、おのれの利害にならぬことで、各地の武将が、おのれの戦力を投入するだろうか。そうすることが、何らかの利害につながるからではないのか。むしろ、原因は、

「尊氏―師直が行使する恩賞充行(あておこない)や守護職補任から漏れ、不満を抱いた武士たちが三条殿直義に接近しつつあるところに、足利直冬の処遇問題が複雑に絡んで勃発した」

とする方がすっきりする。それは、建武の中興が、武士たちの反発を招いたのと同じであり、後に、直義が失脚するのも、同じ轍である。しかし、尊氏が、

「私の恩恵で立身を遂げ、分国を賜って大勢の従者を持つ者たち」

が、自分の敵であると認識していたということは、尊氏によって利益を得ていても猶不満を抱いていたものが、対立の勝馬に乗って、

「そもそも擾乱第一幕で直義派に所属した守護たちは、桃井直常・石塔頼房・上杉憲顕などを除いて、大半が直義優勢が明確になってからその旗幟を鮮明にした者ばかりである。」

とあるように、さらなる恩賞にあずからんと、右に左にと雪崩を打ったということのように見える。

切取強盗武士の習い、

とはよく言ったものである。

足利義詮.jpg

(足利義詮 神護寺三像より伝藤原光能像 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E7%BE%A9%E8%A9%AEより)

参考文献;
亀田俊和『観応の擾乱―室町幕府を二つに裂いた足利尊氏・直義兄弟の戦い』(中公新書)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

posted by Toshi at 04:48| Comment(0) | 書評 | 更新情報をチェックする

2021年10月05日

めのこ・をのこ


「めのこ」は、

女の子、

「をのこ」は、

男の子、

と、それぞれ当て(広辞苑)、

「めのこ」

「をのこ」

とは対である。「め」http://ppnetwork.seesaa.net/article/483689364.html?1633116498で触れたように、「め」は、

牝、
雌、
女、
妻、

等々と当て、「を」は、

雄、
牡、
男、
夫、

等々と当て、

「を」と「め」は対、

である(岩波古語辞典)。「め」は、

女神、
女鹿、
雌蕊、
手弱女(たおやめ)、

等々と、

多く複合語として使う。動植物の雌の意。人間にも、男と一対をなす女の意で使うが、多くは女を見下げたり卑下したりする気持ちでいう。また、妻を指す場合もあるが平安時代には受領以下の人の妻をいうことが多く、天皇・貴族の正妻を指すことはほとんどない。軽侮の意を表す接尾語メも、これの転用、

とあり(仝上)、「を」も、

上代では動植物・神・人を問わず広く使われたが、平安時代以後は複合語の中に用いられ、「をのこ(健児・従者)「をのわらは(男の童)」「しずのを(賤の男)」「あらを(荒男)」など、卑しめられ、低く扱われる男性を指すことが多くなり、男性一般を表すには「をとこ」がこれに取って代わった、

とある(岩波古語辞典)。「め」も、

古くは女性一般を意味していたが、平安時代以降、「をんな」と次第に交代し「め」は待遇度が低下して、女性の蔑称として用いられることとなった、

とある(日本語源大辞典)。

で、「めのこ」は、

女の子、

と当てるが、

男(をとこ)女(メノコ)を呼(よ)ひて王子(みこ)と曰ふ(書紀)、

と、

おんなの子ども、女児、

の意だけではなく、古くから、

吐大羅(とら)人、妻(め)舎衛婦人(メノコ)と共に来(もう)けり(斉明紀)、

と、

おんな、

の意で使う。特に、

身分の高くない女性、

の意とある(岩波古語辞典)。「め」がそうなったように、

その家のめのこども出でて、浮海松(うきみる)の浪によせられたるを拾ひて、家の内にもて來ぬ(伊勢物語)、

と、

召使いの女、

の意ともなる(岩波古語辞典・精選版日本国語大辞典)。

女児の意では、だからか、

めのこご(女の子子)、
めこ(女子)、
めなご(女子・女児)、

等々を使う。

「をのこ」も、

すべてをのこをば、女に笑はれぬやうにおほしたつべしとぞ(徒然草)、

と、

男の子、男児、

の意でも使うが、

鶏が鳴く東男(あづまをのこ)は出で向ひかへり見せずて勇みたる猛き軍士とねぎたまひ任(ま)けのまにまに(万葉集)、

と、

成人男性、

の意で使い、特に、

(ヲは)平安時代以後は、低い者として扱う男性を指すことが多い。ヲノコも多くは軍卒・侍臣・下男などの意。男の意と見られる場合も、尊敬の対象とはならない男性を指し、類義語ヲトコのような、結婚の相手としての男性の意に用いない、

とあり(岩波古語辞典)。

宿直人(とのゐびと)めくをのこなまかたくなし(生頑なし)き、出で来たり(源氏)

と、

下男、召使、

の意で使われ(仝上)、

宮中(殿上)や貴人に仕える男性を指すのに用いられたことで、この用法も含めて広く、世代的身分的に下の存在の男性と認識されたところが、類義語「おとこ(をとこ)」との違いであったとみられる、

とある(精選版日本国語大辞典)。

をのこご(男子)、

も、

八(や)つ、九(ここの)つ、十(とを)ばかりなどのをのこごの、声は幼げにて文読みたる、いとうつくし(枕草子)、

と、

男児、

の意だが、

むつましき人なれど、をのこごにはうち解くまじきものなり(源氏)、

と、

男性、

の意でも使う(精選版日本国語大辞典)。

その意味では、上代のヲ・メは、十世紀には、

ヲトコ・ヲンナ、

へと移行していたと見られるが、

を(男)→をとこ、
め(女)→をんな、

と変化したというよりは、

を→をのこ→をとこ、
め→めのこ→をんな、

と、「をのこ」「めのこ」を並行して使っていたと思われる。ただ、

をのこ、
めのこ、

が、相手を低く見る意の方へシフトしていくにつれて、

をとこ、
をんな、

が、男性、女性の汎称として浮上してきた、と見ることができそうである。

「子」 漢字.gif

(「子」 https://kakijun.jp/page/0323200.htmlより)

「子」(漢呉音シ、唐音ス)は、

象形。子の原字に、二つあり、一つは、小さい子供を描いたもの。もう一つは、子供の頭髪がどんどん伸びるさまを示し、おもに十二支の子(シ)の場合に用いた。のちこの二つは混同して子と書かれる、

とある(漢字源)。他は、

象形文字です。「頭部が大きく手・足のなよやかな乳児」の象形から、「こ」を意味する「子」という漢字が成り立ちました、

とするhttps://okjiten.jp/kanji29.html

「子」 甲骨文字.png

(「子」 甲骨文字・殷 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%AD%90より)

なお「子」http://ppnetwork.seesaa.net/article/465595147.htmlについては触れた。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

posted by Toshi at 04:39| Comment(0) | 言葉 | 更新情報をチェックする

2021年10月06日

をとめ


「をとこ」http://ppnetwork.seesaa.net/article/483673592.html?1633030409で触れたように、「をとめ」は、古くは、

をとこの対、

である(岩波古語辞典)。

「おとめ」は、

少女、
乙女、

と当てる(広辞苑・大言海)。和名類聚鈔(平安中期)は、

少女、乎止米、

類聚名義抄(るいじゅみょうぎしょう 11~12世紀)は、

少女、ヲトメ、

と、それぞれしている。

「ひこ(彦)」「ひめ(姫)」などと同様、「こ」「め」を男女の対立を示す形態素として、「をとこ」に対する語として成立した、

もので(精選版日本国語大辞典)、

ヲトは、ヲツ(変若)・ヲチ(復)と同根、若い生命力が活動すること。メは女。上代では結婚期にある少女。特に宮廷に奉仕する若い官女の意に使われ、平安時代以後は女性一般の名は「をんな(女)」に譲り、ヲトメは(五節の)舞姫の意、

とある(岩波古語辞典・精選版日本国語大辞典)。

風のむた寄せ來る波に漁(いさり)する海人(あま)のをとめが裳の裾濡れぬ(万葉集)、

と、

少女、

の意から、

藤原の大宮仕へ生れつがむをとめがともは羨(とも)しきろかも(万葉集)、

宮廷につかえる若い官女、

の意でも、

(五節の舞姫を見て詠める)あまつ風雲のかよひぢ吹きとぢよをとめの姿しばととどめむ(古今集)、

と、

舞姫、

の意でも使われる。

少女子、

とあてる、

をとめご、

も、

少女、

の意と、

天人の舞を舞う少女、舞姫、

の意がある(岩波古語辞典)。

「をとめ」の「をと」は、「をとこ」http://ppnetwork.seesaa.net/article/483673592.html?1633030409で触れたように、

をつの名詞形、

であり、「をつ」は、

変若つ、
復つ、

と当て、

変若(お)つること、

つまり、

もとへ戻ること、
初へ返ること、

で、

我が盛りまたをちめやもほとほとに奈良の都を見ずかなりなむ(大伴旅人)、

と、

若々しい活力が戻る、
生命が若返る、

意であり(仝上・大言海)、

若い、
未熟、

の含意である。となると、

小之女(ヲツメ)の転(大言海・和訓栞・国語の語根とその分類=大島正健)、
小姥(ヲトメ)の義(大言海)、
ヲノメ(少女)から(名言通)、

は採れまい。

古代では、「をとこ」―「をとめ」で対をなしていたが、「をとこ」が男性一般の意となって、女性一般の意の「をんな」と対をなすように変わり、それに伴って、平安時代には「をとめ」も「少女」と記され、天女や巫女を表すようになった、

とある(日本語源大辞典)。だから、

乙女、

は当て字で、

「おとうと」の「おと」と同じく年下の意であるが、「お」と「を」の区別が失われて用いられるようになった当て字、

とある(仝上)。そうなると、

ワ行の方が若く、ア行の方が老いた女をあらわします、

とある(日本語源広辞典)ように、古くは、

ヲ(袁)とオ(於)を以て老少を区別する(古事記伝)、

と、

老若の違い、

があったらしいのが、「お」と「を」の区別が失われ、

おみな(嫗)⇔をみな(女)

の区別がつかなくなった。

「乙」 漢字.gif

(「乙」 https://kakijun.jp/page/0102200.htmlより)

「乙」(漢音イツ、呉音オツ・オチ)は、

指示。つかえ曲がって止まることを示す。軋(アツ 車輪で上から下へ押さえる)や吃(キツ 息がつまる)などに音符として含まれる、

とある(漢字源)が、別に、

象形。草木が曲がりくねって芽生えるさまにかたどる。借りて、十干(じつかん)の第二位に用いる、

ともあり(角川新字源)、さらに、

指事。ものがつかえて進まないさま(藤堂)。象形:へらとして用いた獣の骨を象る(白川)。十干に用いられるうち、原義が忘れられた、

ともあるhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E4%B9%99

「乙」 金文.png

(「乙」 金文・殷 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E4%B9%99より)

さらに、

象形文字です。「ジグザグなもの」の象形から、物事がスムーズに進まないさま・種から出た芽が地上に出ようとして曲がりくねった状態を表し、そこから、「まがる」、「かがまる」、「きのと」を意味する「乙」という漢字が成り立ちました、

との解釈もあるhttps://okjiten.jp/kanji1506.html。つまり、「乙」を、象形文字とする説と指事文字(形で表すことが難しい物事を点画の組み合わせによって表して作られた文字)とする説がある。形があるからそれを象れるが、形がないから、点画の組み合わせによって表して作ったということになるので、なぞる形の有無にすぎまい。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

posted by Toshi at 04:45| Comment(0) | カテゴリ無し | 更新情報をチェックする

2021年10月07日

外の目


ロラン・バルト(花輪光訳)『物語の構造分析』を読む。

物語の構造分析.jpg


本書の目玉は、巻頭の、

物語の構造分析序説、

なのだろう。だから、

「物語の構造分析には、言語学そのものを基礎モデルとして与えるのが理にかなっているようにみえる。」

という一文に着目した。しかし、物語作品を、

機能のレベル、
行為のレベル、
ディスクール(物語言説)のレベル、

の記述レベルに分解していく、というのを見た瞬間、期待外れだということに気づいた。物語の、

物語るとはどういうことか、

という、全体構造の把握抜きに、細部にわたる発想は、細分化された部分をいくらかき集めても全体には至らないという、当たり前のことを想うだけだ。大事なことは、

「(物語のなかで)語っている者は、(実人生において)書いている者ではなくて、書いている者は、存在する者ではないのだ。」

ということを書くのではなく、その構造自体を具体化することだ。しかし、それがなされることはない。「序説」にそれがないことは、著者の視野に、

物を語る、

ことと、

物語を語る、

こととのアナロジーの中に、文学の構造のすべてがあることが入ることはない、と見えた。日本語と文学の語りについては、「語りのパースペクティブ」http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic1-1.htmで触れたことがある。

ただ、唯一、文楽にいての、

エクリチュールの教え、

には、著者の意図とは別の大きな刺激を受けた。

「文楽は、切り離された三つのエクリチュールを実践し、見せ物の三つの場面で同時に読みとらせる。つまり、操り人形と、人形遣いと、叫び手であり、実現される所作と、実現する所作と、発生の所作である。」

とある。これは、文楽が、

三業(さんぎょう)、

といわれる、

太夫(浄瑠璃語りのこと。1人で物語を語る)
三味線(太棹の三味線を使う)、
人形遣い(主遣い(おもづかい)が首(かしら)と右手、左遣いが左手、足遣いが脚を操作する、三人遣い)、

で成り立成り立つ三位一体の演芸であることを言っているhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E6%A5%BDhttps://www.bunraku.or.jp/about/と思われるが、誤解を恐れずに言うなら、

人形(役者)、
しぐさ(人形遣い)、
台詞(太夫)、
ト書き(太夫)、
音楽(三味線・太夫)、

と分けられる。つまり、本来、役者がやることを、

人形、
人形遣い、
台詞、

に分担し、

役者が身振り手振りのしぐさをし、台詞を言う、

という一連の動作が分解、提示されているのである。しかも、「台詞」は、義太夫の語りが、

詞(ことば)、
地合(じあい)、
節(ふし)、

と分かれ、

台詞(詞)、

から、

物語の情景や説明(地合)、

さらに、

バックグラウンドミュージック(節)、

にまで分解されるhttps://www2.ntj.jac.go.jp/dglib/contents/learn/edc26/tayu/shikumi2.html。つまり、

演ずるとは、どういうことかを、演じている、

あるいは、

芝居をする、とはどういうことかを、芝居している、

という、

メタ演技、
メタ芝居、

になっているのである。著者は、こう説明する。

「文楽は、声に平衡錘りをつける。あるいはもっと適切には、声を背進させる。つまり、所作による背進である。所作は二重である。操り人形のレベルにあっては、情動的なレベルであり……、人形遣いのレベルにあっては、他動的な所作である。われわれの劇芸術においては、俳優は行動するふりをするが、彼の行為は常に所作にすぎない。舞台の上には、ただ芝居があるだけであるが、しかし芝居であることを恥じている芝居である。文楽はといえば、行為を所作から切り離す(これが文楽の定義である)。文楽は所作を示し、行為を見えるままにしておく。文楽は芸術と労働を同時に並べて見せ、そのどちらにもエクリチュールを残しておく。」

これは、

演技を形作っていくプロセスを見える化している、

ともいえる。知っている人には当然のことかもしれない、浅学な自分には、ちょっと刺激的であった。

参考文献;
ロラン・バルト(花輪光訳)『物語の構造分析』(みすず書房)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

posted by Toshi at 04:35| Comment(0) | 書評 | 更新情報をチェックする

2021年10月08日

をんな


「をんな」は、

女、

と当てるが、

ヲミナの音便、

とある(広辞苑・大言海)。

平安時代以後の語。ヲミナの音便形として成立し、それまで女の意を代表していたメ(女)という語が、女を卑しめ見下げていう意味にかたよった後をうけて、女性一般を指し、特に「をとこ(男)」の対として結婚の関係をもつ女をいう、

とある(岩波古語辞典)。類聚名義抄(11~12世紀)は、

女、ヲムナ、

色葉字類抄(1177~81)も、

女、ヲムナ、

としている。

をみな→をうな→をむな→をんな、

といった転訛といったところであろうか。

多くは、

ヲミナの音便、

とする(大言海・箋注和名抄・古語類語=堀秀成)が、

ヲミは小身の義、ナは大人(オトナ)の名の如し(大言海・語源由来辞典)、
ヲは小さいことで、古くは若い女のこと(六歌仙前後=高崎秀美)、
接頭語ヲ(小)とオミナ(成人の女)との複合か(岩波古語辞典・日本語源広辞典)、

等々といったところが語源になる。それ以外に、

オウナ(嫗)の転、オイオンナ(老女)の義(和訓栞)、
ヲミナ(麻績女)から(類聚名物考)、

とするものがあるが、「おうな」の「お」と、「をんな」の「を」は区別されていたはずである。

「をみな」は、

古くは美女・佳人の意であったが、後に女一般を指す。音韻変化してヲウナ・ヲンナに転じると、女性一般名称となる。類義語メ(女)は、女を卑しめ見下げる気持ちで使う、

とある(岩波古語辞典)。新撰字鏡(898~901)には、

嬢、婦人美也、美女也、良女也、肥大也、乎美奈(をみな)、

とあり、天治字鏡(平安中期)にも、

娃、美女㒵、宇豆久志美奈、嬢、乎美奈、

字鏡(平安後期頃)にも、

娃 宇豆久志乎美奈、嬢、乎美奈、

とあり、

童女有りて、その形姿(かほ)美麗(よ)かりき。……その嬢子(をとめ)に舞せしめたまひき……。呉床居(あぐらゐ)の神の御手もち弾く琴に舞するをみな常世にもがも(万葉集)

と使われるが、万葉集で、「ヲミナヘシ」の「ヲミナ」に、

ことさらに衣は摺らじをみなへし(佳人部為)佐紀野(さきの)の萩ににほひて居(を)らむ、
我が里に今咲く花のをみなへし(娘部四)堪(あ)へぬ心になほ恋ひにけり、

等々と、多く、

佳人、美人、姫、

の字が当てられている(岩波古語辞典)。つまり、「をみな」は、古くは、

美人、

に限定して使われていたもののようである。それに対し、「め」が女性一般であった、ということになる。

ところで、

「をみな」は、年齢の上では「嫗(おみな・おうな)」の対義語にあり、性別では少年を意味する「をぐな」と対になる語であった、

とある(語源由来辞典・日本語源広辞典)。しかし「をぐな」は、

童男、

と当て、

男の子、

をさす。「をみな」の対とは思えない。「をぐな」は、

マゲウナ(曲項)の約略か、古へ、男女とも幼き時は髪を曲げて項(うなじ)に置けり、髫髪(ウナヰ)の如し(大言海)、
オキナ(翁)に対するヲグナ(小人)から(日鮮同祖論=金沢庄三郎)、
ヲキ(少子)ネの転呼(日本古語大辞典=松岡静雄)、
ヲコナ(小児男)の転(言元梯)、
ク(児)はコ(児)の母音交替形デ、ヲ(男)+ク(児)+ナ(接尾語、オキナ、オミナ、ヲミナなどのナ)(古代日本語文法の成立の研究=山口佳紀)、

等々、「をぐな」の語源を見る限り、「男児」を指し、「美人」の意であった「をみな」の対はありない気がするが、

古代では男女の呼称を、大小を表わすオとヲでいう、

オキナ━オミナ、
ヲグナ━ヲミナ、

と、若返る意の動詞ヲツを構成要素とする、

ヲトコ━ヲトメ、

があって、前者は年長・年少の男女を意味し、後者は結婚適齢期の男女を意味した。ところが「古事記」では同じ女性をヲトメともヲミナとも呼んでおり、「万葉‐四三一七」では「秋野には今こそ行かめもののふの乎等古(ヲトコ)乎美奈(ヲミナ)の花にほひ見に」とヲトコとヲミナが対になっているから、年少の女性の意と適齢期の女性の意が混同されて、ヲトコ━ヲミナという対が生じたらしい。そしてヲトコが男性一般をいうようになったのに伴ってヲミナも平安時代にヲンナと変化し、女性一般を指すようになった、

とある(精選版日本国語大辞典)。しかし、古く「をみな」が「をみなへし」の「をみな」の「美人」の意として使っていたことを考えると、「ヲミナ」が、どこかで、男女の童子の意として、

ヲグナ━ヲミナ、

と、対として使われ、例えば、前述の、

童女有りて、その形姿(かほ)美麗(よ)かりき。……その嬢子(をとめ)に舞せしめたまひき……。呉床居(あぐらゐ あぐらをかいてすわる意)の神の御手もち弾く琴に舞するをみな常世にもがも(万葉集)

を見ると、「童女」「をとめ」「をみな」が重なっているように見えるように、「年少の女性の意と適齢期の女性の意が混同されて」(仝上)、

ヲトコ━ヲミナ、

の対へ変化し、

ヲトコ━ヲンナ、

へと対が転化していったということと思う。この背景にあるのは、結婚適齢期が16、7歳なのか、18、9歳なのか、あるいはもっと若いのか等々、時代によって微妙に異なることがあるのではないか。その辺りは調べがつかないが、それと関わって、童女を、いくつまでとみなすかが変わる気がする。

因みに、「うなゐ」は、

髫、
髫髪、

等々と当て、和名類聚抄(平安中期)に、

髫髪、宇奈為、俗用垂髪二字、謂童子垂髪也、

とある。

ウナは項(ウナ)。ヰは神がうなじにまとめられている意、

で、

子供の髪を、垂らしてうなじにまとめた髪、またその髪形をする十二、三歳までの子供。その先、年齢がいくと、髪をあげて「はなり」「あげまき」にした、

とある(岩波古語辞典)。「はなり(離り)」は、

少女が肩までつくように垂らしていた「うなゐ」の髪を、肩から離れる程度に上げること、

であり、「あげまき(総角・揚巻)」は、

うなゐ、

にしていた童子の髪を、十三、四歳を過ぎてから、両分し、頭上の左右にあげて巻き、輪を作ったもの、はなりともいう、

とある(仝上)。

「女」 漢字.gif

(「女」 https://kakijun.jp/page/0322200.htmlより)

「め」http://ppnetwork.seesaa.net/article/483689364.html?1633116498で触れたように、

「女」(漢音ジョ、呉音ニョ、慣用ニョウ)は、

象形、なよなよしたからだつきの女性を描いたもの、

とある(漢字源)が、

象形。手を前に組み合わせてひざまずく人の形にかたどり、「おんな」の意を表す、

とあり(角川新字源)、

象形文字です。「両手をしなやかに重ね、ひざまずく女性」の象形から、「おんな」を意味する「女」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji32.html。甲骨文字・金文から見ると、後者のように感じる。

「女」 金文.png

(「女」・金文・西周 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%A5%B3より)

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

ラベル:をんな をみな
posted by Toshi at 04:38| Comment(0) | 言葉 | 更新情報をチェックする

2021年10月09日

をなご


「をなご」は、

女子、

と当てる。

ヲンナゴの約、

とある(広辞苑・大言海)。

下京に妹が居りまらする。是にもをなごが一ぴきござあるが是も姪のうちでごらあらうずる(狂言「粟田口」)、

と、

女の子、

の意であるが、後に、年代が下がるにつれて、広く、

をなごの道を教へ込み(浄瑠璃「堀川波鼓」)、

と、女性一般に転じ、さらには、

高嶋屋のをなごによびかけられて(西鶴「好色一代男」)、

と、

女中、
下女、

の意味になっていく。

「女」 漢字.gif

(「女」 https://kakijun.jp/page/0322200.htmlより)

「をんな」http://ppnetwork.seesaa.net/article/483783606.html?1633635501で触れたように、女性の一般称は、

ヲンナ、

であるが、

文献や語源からすると、ヲンナやその原型としてのヲミナの方が古くて奈良時代から見られるのに対して、ヲンナゴから転じたヲナゴの形は室町時代から見られる、

とある(日本語源大辞典)。

をみな→をんな→をんなご→をなご、

と転訛したとみられるので、

ヲンナ、

が一般化した時点で、

ヲンナ子、

としたものと思われる。しかし、

後から生れたヲナゴが、その後勢力拡大してヲンナを圧倒、

した(仝上)ため、

方言の分布を見ると、関東・中部のヲンナをはさんでその両脇にヲナゴの大領域がある、

とされ(仝上)、

近畿、山陽、四国、九州、奥羽、下越、佐渡で使われる。奄美の「うなぐ」、沖縄の「いなぐ」も、「おなご」と同系列。南琉球では「みどぅむ(女供)」、出雲周辺、隠岐、飛騨、北能登などでは「女房」、北陸で「女郎」、関東の一部で「尼」、「おんな」は関東、東海、美濃、信越での言い方。「おなご」と「おんな」の境界の名古屋では「おんなご」、

とある(大阪弁)。ただ現在では、

逆にヲンナが共通語形として通用しているが、方言形の全国的な傾向としては、ヲナゴが女性の卑称として残るという現象が見られる、

とある(日本語源大辞典)。

「子」http://ppnetwork.seesaa.net/article/465595147.htmlで触れたように、「子」は、

親に対して子、

であると同時に、

親が子を呼びしに起こりて、自らも呼びし語なるべし、男之子(オノコ)、男子(ナムシ)の子(シ)なり。左傳、昭公十二年、注「子、男子之通称也」。白虎通、號「子者、丈夫之通称也」。和漢暗合あり、

という(大言海)ように「男の通称」であるが、

女(をみな)も子と云ふこと、特に多し。女之子(メノコ)、女子(ニョシ)の子(シ)なり、

ともあり(仝上)、男女ともに使う。「親」に対して「子」という意味で、「子」は、様々なメタファとしての意味は多い。

「子」の語源は、

小(コ)と同源か、

とあり(広辞苑)、

小の義にて、稚子(チゴ)より起れる語なるべし、

とある(大言海)。

とみると、「をなご」は、「をなご」が女性一般を指すようになったために、

をなご+子、

で女児を指したが、それが、いつか、女性一般に転じていくのは、「めのこ」「をのこ」が、この意から、一般称に転じていくのに似た経過ということになる。

「女」 簡帛文字.png

(「女」 簡帛文字・戦国時代 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%A5%B3より)

「め」http://ppnetwork.seesaa.net/article/483689364.html?1633116498で触れたように、

「女」(漢音ジョ、呉音ニョ、慣用ニョウ)は、

象形、なよなよしたからだつきの女性を描いたもの、

とある(漢字源)が、

象形。手を前に組み合わせてひざまずく人の形にかたどり、「おんな」の意を表す、

とあり(角川新字源)、

象形文字です。「両手をしなやかに重ね、ひざまずく女性」の象形から、「おんな」を意味する「女」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji32.html。甲骨文字・金文から見ると、後者のように感じる。

「子」 漢字.gif

(「子」 https://kakijun.jp/page/0323200.htmlより)

「子」(漢呉音シ、唐音ス)は、「めのこ・をのこ」http://ppnetwork.seesaa.net/article/483735199.html?1633376365で触れたように、

象形。子の原字に、二つあり、一つは、小さい子供を描いたもの。もう一つは、子供の頭髪がどんどん伸びるさまを示し、おもに十二支の子(シ)の場合に用いた。のちこの二つは混同して子と書かれる、

とある(漢字源)。他は、

象形文字です。「頭部が大きく手・足のなよやかな乳児」の象形から、「こ」を意味する「子」という漢字が成り立ちました、

とするhttps://okjiten.jp/kanji29.html

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

ラベル:をなご
posted by Toshi at 04:32| Comment(0) | 言葉 | 更新情報をチェックする

2021年10月10日

おみな・おきな


「おきな」は、

翁、

と当て、

男の老人、老爺、

を意味し、その対は、

おみな、

で、

嫗、

と当て、

老女、

の意である(広辞苑)。神代紀に、

(ひとりの)老翁(おきな)と老婆(おみな)ありて、

とあるが、「老翁」を、

ろうおう、

と訓むと、

老いた男性、老爺、

の意だが、対になるのは、

老婆、

の意の、

老媼(ろうおう)、

になる。同義で、

老嫗(ろうう)、

とも言う。老翁は、また、

老叟(ろうそう)、

ともいう。これは皆漢語である。

出門老嫗、喚雞犬(徐照詩)、

誰念三千里、江湖一老翁(老叟)(張説詩)、

等々とある(字源)。

さて、和語「おきな」は、

キは男性を示し、ナは人の意。キとミで男女を区別する例は、神名イザナキ(伊邪那岐/伊弉諾/伊耶那岐)とイザナミ(伊邪那美/伊弉冉/伊耶那美/伊弉弥)など。奈良・平安時代を通じて、和文脈では「おきな」は軽侮の対象になっていることが多いが、漢文脈では「おきな」は敬意を含んで使われた。中世ではオキナの対語として「うば」が使われることがある、

とある(岩波古語辞典)。和文脈では、

老人、

ではなく、

じじい、老いぼれ、

という語感だが、漢文脈では、

古老、長老、

という語感になるのだろう。「おきな」は、「若い人」に対して、相対的な年寄りを指すこともある。「うば」は、

姥、
嫗、

と当てるが、

老婆、

の意の他に、

祖母、

の意もある。漢語では、

老姥(ろうぼ)、

は、

姆、

に同じで、

年老いたるばば、

の意になる(字源)。

「をんな」http://ppnetwork.seesaa.net/article/483783606.html?1633635501でも少し触れたが、「おきな」の語源は、一筋縄にはいかないようだ。

オキナ、オミナに対してヲグナ、ヲミナがあることから、オ(大)、ヲ(小)の差がキ(ク)、ミ(ム)の上につけられていたことがわかる。老若制度から出た社会組織上の古語であったらしい(翁の発生=折口信夫)、
オキナはヲグナに対する語で、オ、ヲで大小老若を示す。キナ、クナは明らかでないが、フナ、クナは男性を指す語。あるいは、ナは親愛の意を添える接尾語か(物語文学序説=高崎正秀)、
オは大、キはコと同じく男子の称呼で、メ(ミ)と対立する。ナはネの転呼で敬称(日本古語大辞典=松岡静雄)、
オはヲ(小)に対するオ(大)。オキナはオグナ(大人)、ヲグナはヲグナ(小人)で、クナ、キナは朝鮮語のkamt(人)といったする語である(日鮮同祖論=金沢庄三郎)、
ヲキナは大男汝で、ヲトコ(小男)の老年に及んだ物の意(日本語源=賀茂百樹)、

等々と、

オ=大、
ヲ=小、

とする説がある。しかし、「をんな」http://ppnetwork.seesaa.net/article/483783606.html?1633635501で触れたように万葉集で、「ヲミナヘシ」の「ヲミナ」に、

ことさらに衣は摺らじをみなへし(佳人部為)佐紀野(さきの)の萩ににほひて居(を)らむ
我が里に今咲く花のをみなへし(娘部四)堪(あ)へぬ心になほ恋ひにけり

と、多く、

佳人、美人、姫、

の字が当てられている(岩波古語辞典)。つまり、「をみな」は、古くは、

美人、

に限定して使われていたもののようである。それを、「おみな」に対して、「小」とするのは、年長、年少の含意なのだろうか。その他、

おきなびと(翁人)の略、おきなびとは、大成人(おほきなりびと)の略か(おとな、おみな)、或いは、息長人(おきながびと)の略なりとも云ふ(継体即位前紀、註「此云那」、和名鈔、「豊後國、日高郡、比多」)(大言海)、
オはオイ(老)のオ、キは男性をあらわす語。ナはセナ(兄)、オトナ(大人)のナと同じく人の義(国語の語根とその分類=大島正健)、

等々がある。「ナ」は、

おとな(大人)の「ナ」(大言海)、

でいいと思うが、上述のように、

イザナキ(伊邪那岐)・イザナミ(伊邪那美)、
カムロキ(神漏伎)・カムロミ(神漏美)、

等々の「キ」と「ミ」で性を分けたと見るのが妥当なのだろう。

「お」と「を」は、ぼくには、

「養老戸令」では「六十六為耆」とある。オはオホに同じく「年上」の意から「老(おゆ)」の意。オキナとオミナ(音便形オウナ)との対にみられるように、キとミとの対で男・女を表わす、

とある(精選版日本国語大辞典)のが妥当に思える。礼記に、

年齢六十を耆(おきな)と云ふ、

とある(岩波古語辞典)のに因るのだろう。もっとも、大小も、老少も、「を」「お」だけで区別したと思われるので(文字を持たない時は、当事者にはそれで十分区別できたのだろうから)、文脈によって読み取るほかはないが、この場合は、老少の違いとみていいのではないか。

「おみな」は、

ミは女性を示し、ナは人の意。キとミで男女を区別する例は、イザナキとイザナミなどがある、

とされ(岩波古語辞典)、

オホメナリ(大女成)の略転(大言海)、
オホメ(大女)の転、ナはネに通じる敬称(日本古語大辞典=松岡静雄)、
ヲミナ(童女)に対するご、オとヲは大小老若を示す(物語文学序説=高崎正秀)、

等々、オとヲを、

大小の違い、

というよりは、

ヲミナ(女)に対する語で、ヲ(袁)とオ(於)を以て老少を区別する(古事記伝)、

と、

老若の違い、

と採る方が妥当と思えることは上述した通りである。

なお、「おみな」は、その音便形、

おうな、

に転嫁し、

媼、
嫗、

と当てる(岩波古語辞典)。

「翁」 漢字.gif


「翁」(漢音オウ、呉音ウ)は、

形声。「羽+音符公」。もと、鳥の首の羽毛の意。「おきな(長老)」の意は、公(長老)と同系統の言葉に当て、老人に対する尊称に用いる

とある(漢字源・角川新字源)

「翁」 成り立ち.gif

(「翁」 成り立ち https://okjiten.jp/kanji1456.htmlより)

別に、

会意兼形声文字です(公+羽(羽))。「2つに分れているものの象形、又は、通路の象形と場所を示す文字」(みなが共にする広場のさまから、「おおやけ」の意味、また「項(コウ)」に通じ(同じ読みを持つ「項」と同じ意味を持つようになって)、「くび」の意味)と「鳥の両翼」の象形から、「老人を尊んで言う、おきな」、「鳥の首筋の羽」を意味する
「翁」という漢字が成り立ちました、

とする解釈もあるhttps://okjiten.jp/kanji1456.html

「嫗」 漢字.gif

(「嫗」 https://kakijun.jp/page/ou14200.htmlより)

「嫗」(漢音呉音ウ、慣用オウ)は、

会意兼形声。「女+音符區(ク 小さくかがむ)」。背中の屈んだ老婆、

とある(漢字源)。

「嫗」 説文解字.png

(「嫗」 小篆・説文解字・漢 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%AB%97より)

「媼」(オウ)は、

会意兼形声。右側は、小さい枠の中にこもってふさがる意を含む。媼は、それと女を合わせた字で、老いて体の小さく屈んだ女のこと、

とある(漢字源)。

「媼」 漢字.gif


「叟」(漢音ソウ、呉音ス)は、

会意。「臼(かまど)+又(手)」。かまどのなかを手で捜す意を示し、捜(ソウ)の原字。老人の意を示す叟は仮借てきな用法である、

とある(仝上)。

「叟」 漢字.gif

(「叟」 https://kakijun.jp/page/sou200.htmlより)

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

ラベル:おみな おきな
posted by Toshi at 04:33| Comment(0) | 言葉 | 更新情報をチェックする

2021年10月11日

詞と辞


三浦つとむ『日本語はどういう言語か』読む。

日本語はどういう言語か.jpg


著者は、冒頭で、四つの設問をし、本書全体への問題意識としている。
第一は、絵画や写真は客体的表現と主体的表現という対立した二つの表現の切り離すことのできない統一体としてあるが、言語はこの二種類の表現はどういう形をとって現れているか。
第二は、絵画で表現するのに、写生的な立場と地図的な立場(鳥瞰)とがあるが、言語ではこのような立場の違いがどういう形をとって現れているか。
第三は、現実の世界の中でのことと語り手の主観の中でのこととを、言語ではどのような形で表しているか。
第四は、夢の中で夢を見るような、二重化した観念の世界を、言語はどのような形で露わはているのか。

それは、そのまま著者の、あるいは著者が強く意識し、それを敷衍している時枝誠記氏の言語論の内容になっていくのである。

語りのパースペクティブ」http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic1-1.htmで触れたことだが、僕なりの著者の理解、つまりは、時枝誠記氏の言語論の理解は、次のように整理できる。

時枝誠記氏は、日本語は、

三浦①.gif

と図示した(この図示の仕方自体、三浦つとむ氏の案出したものだ)表現における、「た」や「ない」は、「表現される事柄に対する話手の立場の表現」(時枝誠記『日本文法口語篇』)、つまり話者の立場からの表現であることを示す「辞」とし、「桜の花が咲く」の部分を、「表現される事物、事柄の客体的概念的表現」(時枝、前掲書)である「詞」とした。つまり、

「(詞)は、話し手が対象を概念としてとらえて表現した語です。「山」「川」「犬」「走る」などがそれであり、また主観的な感情や意志などであっても、それが話し手の対象として与えられたものであれば「悲しみ」「よろこび」「要求」「懇願」などと表現します。これに対して、(辞)は、話し手のもっている主観的な感情や意志そのものを、客体として扱うことなく直接に表現した語です。」(『日本語はどういう言語か』)

そして、終止形等のように、「認識としては存在するが表現において省略されている」(三浦、前掲書)場合の、

三浦②.gif

の「網線」部分は、「言語形式零という意味」(三浦、前掲書)で、零記号(ゼロ記号と表記する)と呼んでいる。いずれにおいても、

三浦③ 詞と辞.gif

が、日本語の表現構造になっており、辞において初めて、そこで語られていることと話者との関係が明示されることになる。即ち、

第一に、辞によって、話者の主体的表現が明示される。語られていることとどういう関係にあるのか、それにどういう感慨をもっているのか、賛成なのか、否定なのか等々。
第二に、辞によって、語っている場所が示される。目の前にしてなのか、想い出か、どこで語っているのかが示される。それによって、〃いつ〃語っているのかという、語っているものの〃とき〃と同時に、語られているものの〃とき〃も示すことになる。
さらに第三に重要なことは、辞の〃とき〃にある話者は、詞を語るとき、一旦詞の〃とき〃〃ところ〃に観念的に移動して、それを現前化させ、それを入子として辞によって包みこんでいる、という点である。

三浦つとむ氏の的確な指摘によれば、

「われわれは、生活の必要から、直接与えられている対象を問題にするだけでなく、想像によって、直接与えられていない視野のかなたの世界をとりあげたり、過去の世界や未来の世界について考えたりしています。直接与えられている対象に対するわれわれの位置や置かれている立場と同じような状態が、やはりそれらの想像の世界にあっても存在するわけです。観念的に二重化し、あるいは二重化した世界がさらに二重化するといった入子型の世界の中を、われわれは観念的な自己分裂によって分裂した自分になり、現実の自分としては動かなくてもあちらこちらに行ったり帰ったりしているのです。昨日私が「雨がふる」という予測を立てたのに、今朝はふらなかつたとすれば、現在の私は
        予想の否定 過去
雨がふら なくあっ た
というかたちで、予想が否定されたという過去の事実を回想します。言語に表現すれば簡単な、いくつかの語のつながりのうしろに、実は……三重の世界(昨日予想した雨のふっている〃とき〃と今朝のそれを否定する天候を確認した〃とき〃とそれを語っている〃いま〃=引用者)と、その世界の中へ観念的に行ったり帰ったりする分裂した自分の主体的な動きとがかくれています。」(三浦、前掲書)

つまり、話者にとって、語っている〃いま〃からみた過去の〃とき〃も、それを語っている瞬間には、その〃とき〃を現前化し、その上で、それを語っている〃いま〃に立ち戻って、否定しているということを意味している。入子になっているのは、語られている事態であると同時に、語っている〃とき〃の中にある語られている〃とき〃に他ならない。
これを、別の表現をすれば、次のように言えるだろう。

「日本語は、話し手の内部に生起するイメージを、次々に繋げていく。そういうイメージは、それが現実のイメージであれ、想像の世界のものであれ、話し手の内部では常に発話の時点で実在感をもっている。話し手が過去の体験を語るときも、このイメージは話し手の内部では発話の時点で蘇っている。」(熊倉千之『日本人の表現力と個性』)

重要なことは、主体的表現、客体的な表現といっても、いずれも、「話し手の認識」(三浦、前掲書)を示しているということだ。例えば、

三浦④.gif

という表現の示しているのは、「桜の花が咲いてい」る状態は過去のことであり(〃いま〃は咲いていない)、それが「てい」(る)のは「た」(過去であった)で示され、語っている〃とき〃とは別の〃とき〃であることが表現されている。そして「なァ」で、語っている〃いま〃、そのことを懐かしむか惜しむか、ともかく感慨をもって思い出している、ということである。この表現のプロセスは、
①「桜の花が咲いてい」ない状態である〃いま〃にあって、
②話者は、「桜の花の咲いてい」る〃とき〃を思い出し、〃そのとき〃にいるかのように現前化し、
③「た」によって時間的隔たりを〃いま〃へと戻して、④「なァ」と、〃いま〃そのことを慨嘆している、
という構造になる。
ここで大事なことは、辞において、語られていることとの時間的隔たりが示されるが、語られている〃とき〃においては、〃そのとき〃ではなく、〃いま〃としてそれを見ていることを、〃いま〃語っているということである。だから、語っている〃いま〃からみると、語られている〃いま〃を入子としているということになる。しかし、これが、

三浦⑤.gif

と、辞がゼロ記号となっている場合は、外側の辞による覆いがない状態、つまり入子の語りの部分が剥き出しになった状態と言っていい。辞としての、〃いま〃での話者の感嘆を取っただけなのに、こうしてみると、前者と比べて、明らかに〃とき〃の感じが重大な変化を受けていることがわかるはずである。つまり、前者では明らかに〃いま〃から話者が語っているということがはっきりしているのに、後者ではそれがはっきりしなくなっている。

そのため第一に、〃いま〃という辞を取ることで、〃いま〃の中に入子となっていた〃とき〃が剥き出しとなる(〃いま〃の直前、つまり完了を表すということもあるが、「なァ」の〃とき〃よりは過去)。そのことによって、「なァ」でははっきりしていた〃いま〃からの時間的距離(つまり時制)が曖昧化する。前出の例で言えば、「咲いていた」のが、〃そのとき〃であったのに、(〃いま〃からみた〃そのとき〃ではなく)〃いま〃であるかのように受け取れる。だから、「咲いていた」のが、過去というよりは、完了状態を現しているニュアンスが強まっている。
それは、①「た」が辞の位置にあることになる。つまり、「た」という主体的表現は、話者の語っている〃いま〃となる。②そのため「花が咲いてい」る〃とき〃とそれを語っている〃とき〃との関係が新たなものになっているからにほかならない。
その結果、第二には、そのことによって、「なァ」では、「なァ」と慨嘆していた話者の主体的表現であったものが、その表現を囲んでいた辞(つまり、□)が取られることで、あたかも客観的(事実)の表現(客観的に起こっている(ある)ことの表現)であるかのように変わってしまう。だから、「咲いている」のが、〃いま〃「既に(もう)」咲いている現実を表現しているように変わっていく。
しかし、「た」は過去ないし完了を示す辞ではなかったか?そうならば、「た」に立って語るとは、「なァ」の有無に関わらず、その語っている〃とき〃からの過去であることを示しているはずではないのか。

だが、日本語の過去あるいは完了の助動詞「た」は、

 「起源的には接續助詞「て」に、動詞「あり」の結合した「たり」であるから、意味の上から云つても、助動詞ではなく、存在或は状態を表はす詞である。……このやうな「てあり」の「あり」が、次第に辭に轉成して用ゐられるやうになると、存在、状態の表現から、事柄に對する話手の確認判斷を表はすやうになる。」(時枝、前掲書)

とあるように、「過去及び完了と云へば、客觀的な事柄の状態の表現のやうに受取られるが、この助動詞の本質は右のやうな話手の立場の表現」(同)であり、むしろ、判断を示していると見たほうがよく、その場合、問題なのは、それが〃そのとき〃の判断なのか、〃いま〃の判断なのか、が混然としている点なのだ。なぜなら、〃いま〃からみて〃そのとき〃「咲いて」いたという過去についての表現なのか、それとも〃そのとき〃見たとき、既に「咲いて」いたという状態の完結(完了)を示すものなのか、は判然と区別はできないからだ。
この「た」の意味は、次のように変えてみると一層はっきりする。

三浦⑥.gif

つまり「た」という判断が、〃いま〃からみた過去だったということを敢えて表現するためには、こうしなくてはならないということだ。ということは、「桜の花が咲いて」いる状態を指摘しているのを語っているのが、〃いつ〃のことなのかを示す機能を「た」はもっていないということにほかならない。つまり、「た」は、語っている〃とき〃を隠されている。終止形のゼロ記号の状態にあるのと同じなのである。だから、「なァ」という〃いま〃を示す辞を失うことで、「た」は過去としてのニュアンスを失い、「(〃いま〃の)判断」なのか「(〃そのとき〃)既に」なのかの区別が曖昧化してしまっている、ということができるだろう。
しかし、同じゼロ記号でも、前述の、

三浦⑦.gif

と、

三浦⑧.gif

では、異なっている。後者は、主体的判断そのものがゼロ記号化されているのに対して、前者は、判断の〃とき〃がゼロ記号化され、「た」という判断が〃いま〃であるかのように語られている。
つまり、後者では、「桜の花が咲く」とは、主体的な時間に関わった表現ではなく、一般的に「桜の花(というものは)咲く(ものだ)」という概念的意味か、あるいは桜の花が咲いている(事実の)状態を客観的に表現しているかの意味に変わる。
それに対して、前者では、「た」が残ることによって、主体的表現は残されており、ただそれが〃いま〃なのか〃そのとき〃なのかが曖昧化され、〃そのとき〃=〃いま〃として表現されている、ということになる。
このことから、敷衍すれば、ゼロ記号化によって、

話者のいる〃とき〃を隠し、全く客観的表現を装うこともできるし、
起きている出来事(あるいはそれへの主体的表現=辞)を同時進行にドキュメントしている擬制もとれる、

という、二つの機能をもつことになる、といえるのである。

だが、問題はここからである。これが話し言葉であるならこれで問題は終わる。しかし、そう書かれているのだとするとどうなるのか。そう書いたのはいつなのか?
もし、書いたのが〃いま〃だとすれば、図のように書き改められることになる。

三浦⑨.gif

つまり、①「桜の花が咲いてい」ない状態である〃いま〃にあって、②話者は、「桜の花の咲いてい」る〃とき〃を思い出し、〃そのとき〃にいるかのように現前化し、③「た」によって時間的隔たりを〃いま〃へと戻して、④「なァ」と、〃いま〃そのことを慨嘆している、⑤というように、書き手が書いている〃いま〃にいて、語っているということになる。これがこの語りを語っている本人であれば語り手となるが、それが別の誰かの語りを〃いま〃写したのだとすれば、ゼロ記号の箇所は「と、言う」ということになる。それが語っている〃いま〃より前となれば、「と言う+た(言った)」となる。

ここに明らかになっているのは、語られていることの入子の奥行と、語るものの視点の奥行、つまり認識構造の奥行にほかならないということだ。そしてこのことは、入子の深度に応じた認識の深度になっているというように、入子の奥行が、語るものの認識構造の奥行と対になっているということだ。多くの場合、書かれたものの外郭の□がゼロ記号化していることを意識しないでいる。しかしそれでは、「話し手の認識」の構造をつかんだことにはならない。
以下、特別に指摘しない限り、「語る」〃いま〃とは、そう語り手が書かれた〃とき〃にいて語っていることだとみなしている。
さて、次の場合はどう考えたらいいか。

三浦⑩.gif

「と言った」とあることが、語る=書く〃とき〃を示していると考えると、本来の構文から考えれば、話者の辞は、入子になった話者の「~でしょう」と「言っ」たことを現前化している。しかし、話者はここまで語ったとき、入子となった話者の語っている「桜の花が咲いてる」という事態自体をも現前化しているのである。
つまり、話者が「た」という辞で括ったとき、まず「~でしょう」と推測した時点での語りを入子として、「桜の花が咲」く状態を想定し(”そのとき〃の発話の状態に〃なり〃)、その上で、それが〃いま〃からみた過去(完了なら直前)だったとまとめていることになる。
更にそこから敷衍すれば、入子になった話者は、「桜の花が咲いている」事態を現前化した上で、それを推測している。その推測を〃そのとき〃聞いたことを、〃いま〃示すことで、話者は、その推測によって縛られていることを示している。〃そのとき〃推測したが今は違うのか、その推測通りになったのか、それともその推測で違う事態がもたらされたのか、いずれにしても、入子の話者の見たものに〃いま〃見られている。だからこそ、それを語った話者は、「でしょう」という推測を「言っ」たことを語ることで、実は、入子の話者の見ているものをも見ている、といえるのである。例えば、

三浦⑪.gif

を例に取って考えれば、もっとわかりやすいはずである。ここで、語っている「た」に立った語るものは、その桜を現前化しつつ、その桜にも見られているのにほかならない。語っている〃いま〃から〃そのとき〃を見るとき、その過去の〃とき〃が〃いま〃を照らしている(「た」を完了とみなせば、完了前つまり「咲く」前の〃とき〃が〃いま〃を照らす)。〃そのとき〃は咲いていたが、〃いま〃は咲いていない(完了なら、〃そのとき〃は咲いていなかったが、〃いま〃は咲いている)、というように。そしてそのことによって、〃いま〃は〃そのとき〃に比較して語られている。でなければ、桜の咲いていたことを〃いま〃思い出して語る必要は語り手にはなかったはずなのだ。
だから重要なことは、こうした日本語の語りの構造を考えたとき、実は、語る→語られるは、入子構造になることで、語るものの一方通行ではないということなのだ。
このことは同様に、次のようにゼロ記号化されていても事態は変わらないはずである。

三浦⑫.gif

ところが、ゼロ記号化されることで、「でしょう」と推測しているのは、〃いま〃である擬制をとる(前述の入子の部分が剥き出しになった状態)。「でしょう」と推測する相手の「言う」のを語っている話者は、その場で、「『~でしょう』」と言う」のを見ている形になる。表現上は、現前化されているのは相手の「言う」事態でしかない。つまり話者は、「と『言う』」のを見ているだけで、「桜の花が咲いてる」のは語られたのをそのまま語っているだけだ。
その場での感慨にしろ、過去の想い出にしろ、あるいは推測にしろ、そうした主観の表現を省略したとき、一見表現されたものは、そのとき話者がそれを同時的に見ているという擬制的な客観描写にみえることによって、話者のパースペクティブは、「言う」ことにしかとどかなくなるということである。ゼロ記号によって、しかし、話者の〃いま〃は消えても、むろん話者の存在までが消えてしまう訳ではない。
つまり辞は、いわば、

「観念的に二重化し、あるいは二重化した世界がさらに二重化するといった入子型の世界の中を、われわれは観念的な自己分裂によって分裂した自分になり、現実の自分としては動かなくてもあちらこちらに行ったり帰ったりしている」(三浦、前掲書)

自由を保証しているということができる。それは、詞を主体的な表現で包むとは、観念的世界であるということを表示していることでもあるということを意味する。たとえば、

「語られているもの(詞)」語っているもの(辞)、

と、カギカッコにいれてみると、会話の文言が「語り手」のそれてあるように、「語られているもの(詞)」は、「語っているもの(辞)」の「」に入れられたのと同様、詞と辞の境界を空間的に示してみれば、話者の位置は、「」を境にして、時間的空間的に隔てられている。しかし観念的には、時間的隔たりにすぎない。過去について思い出すとき、語られているもの(こと)の〃とき〃と〃ところ〃にいるような実感をもっても、語られているのは時間的に前のことだ。また、推測ないし想像によって、〃いま〃の別のところにいる誰かについて、そこにいるつもりになることもできる。それが「観念的な自己分裂」にほかならない。しかし辞があるかぎり、それとの隔たりは明示される。
ところが、ゼロ記号のときは、辞が消え、「語られているもの」の〃とき〃が剥き出しとなることで、〃とき〃も〃ところ〃も明示なく変わってしまう。〃そのとき〃であったものが、〃いま〃であるかの擬制をとる。
それは、辞が表記されていないだけ、話者(話者のいる〃とき〃)を隠して、いかにも客観的事実(同時的現実)を表現しているように見えるというのにすぎない。話者そのものが消えることではなく、その背後に、確かに話者がいるのに違いはないのである。

今回、再度読み直してみて、1つ忘れていたことは、応答詞で、

「応答詞では、話し手はいつも相手の言葉を理解しようと努力しており相手の立場に立っているのですから、表現に先立ってその立場は二重化しています」

とし、たとえば、「うん」と肯った場合、

「肯定のときは、二重化した相手の立場において肯定」

するので、下図のような構造になる。

「うん」.gif

「いや」と、否定した時は、

「否定のときは、その相手の立場と違った立場に移って行って否定」

するので、下図のような構造になる。

「いや」.gif

主体が、相手の言っている「こと」(詞)に同意しているか、相手の言っていること(辞)を否定しているかの、主体の観念的な動きの違いを、明確に示すことができる。

この「詞」と「辞」の構造は、実に応用範囲が広く、物語論や小説論にも使えることを実感している。改めて、その言語論、というよりも、言葉を使うときの認識構造の分析に、強烈な刺激を受けた。

参考文献;
三浦つとむ『日本語はどういう言語か』(季節社)
時枝誠記『日本文法 口語篇』(岩波全書)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

posted by Toshi at 04:36| Comment(0) | 書評 | 更新情報をチェックする

2021年10月12日

一筆


「一筆」は、

一筆啓上、火の用心、お仙泣かすな、馬肥やせ(本多作左衛門重次)、

のそれでも、

一筆書き、

のそれでもなく、

一筆認めます、

のそれでもなく、

一区切りの田畑・宅地、

の意の、「一筆」である。

いっぴつ、
とも
ひとふで、

とも訓ますが、どうも歴史的には、

イッピツ(ippitsu)、

らしく(歴史民俗用語辞典)、

検地帳にその所在・品等・面積・名請人を一行に書き下したから(広辞苑)、
検地帳には、一場所ずつ、その田畑の所在、石高、面積、所有者などをひとくだりにしるしたところから(精選版日本国語大辞典)、

等々とあり、転じて、

一区切りの田畑、宅地の記録、

の意となり、さらに、

ひとくぎりの田畑・宅地を示す語、

となった(「地方凡例録(1794)」)、とある。これは検地帳面上に、

田・畑・屋敷をその広狭にかかわらず、一場所かぎり、一廉(かど)ずつ書き載せたことから唱えられたものである、

ということのようである(図解単位の歴史辞典)。

一筆限、

とも(国史大辞典)、

一枚(いちまい)、

ともいう(広辞苑)。「名請人」とは、

検地帳の登録人、

で、

高請人、
竿請(さおうけ)人、
名請百姓(なうけびゃくしょう)、

もいう(広辞苑・デジタル大辞泉)。

戦国末期から江戸時代を通じての検地において、一筆ごとに確立された分米(ぶんまい)すなわち石高(こくだか)の保有者として検地帳に登録され、その石高を請け負って年貢を負担する義務を負う者、

を指す。荘園制下の検注帳の登録人は、

名請人(みょううけにん)とよび、

年貢公事(くじ)を負担する義務を負っていた、とある(日本大百科全書)。いわゆる、江戸時代の、

高持(たかもち)百姓、
本百姓、

に当たる。

「一筆」は、今日でも使われ、

土地の個数を表す言葉。土地登記の上で一つの土地とされたもの、

を指し、

一筆の土地ごとに登記記録を作成することとされている(不動産登記法)。

また、数筆の土地を合わせて1筆にすることを、

合筆(がっぴつ)、

それに対して、1筆の土地として表示されている土地を数筆の土地に分けることを、

分筆(ぶんぴつ)、

という(ブリタニカ国際大百科事典)し、田畠は現在も幾筆と数える(国史大辞典)らしい。

なお、「ふで」http://ppnetwork.seesaa.net/article/463219646.htmlで触れたように、和語「ふで」の語源は、

文(ふみ)+手(て)、

らしく、和名類聚抄(931~38年)は、

布美天、

とあり、類聚名義抄(11~12世紀)は、

フテ、
フムデ、
フミデ、

とある。

フミテ→フンデ→フデ、

と転じたとされる(大言海)。ただ、「ふで」の語源説には、

「筆」の音ヒツの転(国語学通論=金沢庄三郎)、

とする説があり、筆の音の、

ヒツ→ヒツヅ→フヅ→フドゥ→フドェ→フデ、

と転訛したとする説も捨てがたい。文字を持たない先祖が、文字と道具を一緒に輸入したと考えられなくもないから。

「筆」 漢字.gif


「ふで」http://ppnetwork.seesaa.net/article/463219646.htmlで触れたように、「筆」(漢音ヒツ、呉音ヒチ)の字は、

会意。「竹+聿(ヰツ→ヒツ 手で筆をもつさま)」で、毛の束をぐっと引き締めて、竹の柄をつけた筆、

とある(漢字源・角川新字源)。また、「聿」は象形文字で、それのみで「ふで」の意味。竹製であることを強調したものかhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%AD%86、ともある。

「筆」 成り立ち.gif

(「筆」 成り立ち https://okjiten.jp/kanji524.htmlより)

参考文献;
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

ラベル:一筆
posted by Toshi at 04:35| Comment(0) | 言葉 | 更新情報をチェックする

2021年10月13日

常陸坊海尊


「常陸坊海尊」は、

海存、

と当てたり(日本伝奇伝説大辞典)、

快賢、
荒尊、

とするものもある(世界大百科事典)。秋元松代の戯曲『常陸坊海尊』でも知られる、源義経の家臣である。

常陸坊海尊(源義経公東下り絵巻).jpg

(常陸坊海尊(源義経公東下り絵巻) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%B8%E9%99%B8%E5%9D%8A%E6%B5%B7%E5%B0%8Aより)


『源平盛衰記』巻四十二、延慶本『平家物語』第六末にその名が見え、前者ではもと叡山の僧であったとし、『義経記』では、もと園城寺の僧であったとする。義経の都落ちに同道して弁慶とともに大物(だいもつ)の浦で活躍し、衣川での義経の最期には、朝から物詣でに出て帰らず居合わせなかった、

とされる(仝上)が、比較的信頼のおける『吾妻鏡』には登場せず、確かな史料が存在しない。

『義経記』には、「頼朝謀反により義経奥州より出で給ふ事」の中で、

御曹司の郎党には西塔の武蔵坊、又園城寺法師の、尋ねて参りたる常陸坊、伊勢三郎、佐藤三郎継信、同四郎忠信これらを先として三百騎馬の腹筋馳せ切り、

とあるのが初見とされhttp://www.st.rim.or.jp/~success/kaison.html、頼朝との兄弟対面よりも前には、義経の郎党となっていたようだし、『源平盛衰記』の屋島の合戦の記事には、

武蔵坊・常陸坊、旧山法師にて究竟の長刀の上手にて、

と記され、『義経記』では、大物の浦で、海尊と弁慶は褐の直垂を纏い、弁慶はその上に黒革縅、海尊は黒糸縅の鎧を身につけ、小舟を駆って、敵船に突入、

するという活躍をしているhttps://shuchi.php.co.jp/rekishikaido/detail/7793ので、その武勇は確かだったと考えられるが、『義経記』では、たとえば、文治三年(1187)、義経一同が関所で関守に疑われ、弁慶の機転で何とか切り抜けることに成功するシーンが有名だが、常陸坊は、

先に出でたりけるが、後を顧みければ、判官と武蔵坊は未だ関の縁にぞ居給へり、

と、さっさと関所を出てしまっている等々、二、三ヶ所で、

誰よりも先に逃げようとする、

と記され、この時点で、

逃げ上手、
生き上手、

としての海尊像がすでに成立していた、とされる(仝上)。茨城の民話では、衣川の合戦に際し、

十一人の近臣と戦に加わらず近くの山寺に行っていた、

と伝わり、この件が、

義経一行が難題に直面した際に、常陸坊はいち早く姿を消す(常陸坊を初めとして残り十一人の者ども、今朝より近きあたりの山寺を拝みに出でけるが、そのまま帰らずして失せりにけり)とあるように、肝心な時には何時もどこかに身を隠してしまう、卑怯者といわれる所以、

としているhttps://nyorokolog.hatenablog.com/entry/2019/09/29/214838

衣川合戦を生き延びた「海尊」は、

仙人となり、あるいは人魚の肉などを食して不老長寿となり、400年位生きていた、

とも伝えられ(朝日日本歴史人物事典)、

富士山に入り、飴のようなものを食べて不死を得た話(柳田国男「東北文学の研究」)、
枸杞を常食したため長寿となった(林羅山『本朝神社考』)、

等々ともされる。『本朝神社考』(林羅山)には、

江戸時代初期に残夢という老人が、源平合戦や義経を見てきたように語っていたのを人々が海尊だと信じていた、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%B8%E9%99%B8%E5%9D%8A%E6%B5%B7%E5%B0%8Aし、天和三年(1683)に江戸から東海道を旅したという大森固庵らによる紀行『千草日記』では、3月14日の条に三保の松原に現われた残夢について綴られているhttps://shuchi.php.co.jp/rekishikaido/detail/7793

『義経記』の注釈書である『義経記評判』の頭注「ひたち坊」に姿を見せる残夢は、「義経は醜男、弁慶は美僧」などと、それまでの言い伝えとは違う義経主従の人相を語ったという。さらに自分は海尊だと名乗り、義経の最期の地となった衣川を訪れた際に、老翁から貰った赤い果物を食して長生になったと告げた、

とあり(仝上)、

『清悦物語』には、常陸坊海尊として、義経の従者であった清悦とともに登場する。海尊は清悦ら仲間4人で衣川に行き、山伏から「にんかん」という赤魚を振る舞われ、長生を得た、

とある(仝上)。

生存説は東北地方中心に多く、たとえば、大杉神社(茨城県稲敷市)では、

文治年間には巨体、紫髭、碧眼、鼻高という容貌の常陸坊海存(海尊)が登場し、大杉大明神の御神徳によって数々の奇跡を示したことから、海存は大杉大明神の眷属で、天狗であるとの信仰へと発展いたしました。当初は御眷属としては烏天狗のみとしておりましたが、後に陰陽一対として鼻高天狗、烏天狗の両天狗を御眷属とすることとなりました、

と、天狗になり、神と同一視されているhttps://nyorokolog.hatenablog.com/entry/2019/09/29/214838

「常陸坊海尊」については、別に、遍照寺(真岡市)の古寺誌に、

文治中、藤原泰衡追悼の軍功により賞与を仝地に賜り、故に奥州伊達の地に移る。これより先、常陸坊海尊なる者藤原秀衡の命を受け源義経の子、経若を懐にして中村に来り、念西に託す。念西、伊達に移るに由り常陸冠者為宗を伝とし中村家を為村に譲り、為宗我が子とし成人の後、中村を続かしむ。後、中村蔵人義宗と言ふ。又左衛門尉朝定と改む、

とありhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%B8%E9%99%B8%E5%9D%8A%E6%B5%B7%E5%B0%8A、義経の子を託されたとされる。託された、念西とは、

平治年間(1159~60年)に中村城に入った中村小太郎朝宗の子・宗村を指す。宗村は剃髪して、念西(中村常陸入道念西)と名乗ったのだ。文治中の奥州合戦の軍功により奥州伊達の地を賜り、その地に移り、奥州伊達氏の祖となった。その際に念西は、子の為宗に中村家を譲った。義経の子・経若(のちに中村蔵人義宗、さらに左衛門尉朝定と改名)は、この為宗の子として成人し、家を譲られ、中村城主となったという、

とあるhttps://shuchi.php.co.jp/rekishikaido/detail/7793。ただ、『義経記』は、

義経の妻と3歳の男子と、合戦の7日前に生まれた女子の3人、

を、傅役の十郎権頭兼房が刺し殺し、義経の後を追ったとあり、『吾妻鏡』には、

義経の22歳の妻と4歳の女子が、義経に殉じた、

と記されている(仝上)。

柳田国男は、海尊について、

「義経記成長の事情を窺い知る端緒として、最初に我々の心づく特色の一つは、いよいよ泰衡が背き和泉夫婦が忠死を遂げて、主従わずかに一三人で、寄手の三万余騎と激戦するほどの大切な日に、あいにくその朝から近きあたりの山寺を拝みにでて籠城の間に合わず、そのまま還って来なかった者が十一人あったという点である。その十一人の大部分は名が伝わらぬが、ただ一人だけ知れているのは、常陸坊海尊であった。それがその通りの歴史であったとすれば、是非もないが、人の口からだんだん大きくなった物語としては、かような挿話は見たところ別に必要もないので、もし必ずそう語るべきであったとすれば、別に隠れた理由が何かあったはずである」

と書き(「東北文学の研究」)、足利時代の下半期に、

常陸坊海尊が、まだ生きているという風説が諸国、

にあり、

この噂が一箇所一口ではないために、かえって始末が悪い、

と、義経記の海尊像が一人歩きを始めた、と記しているhttp://www.st.rim.or.jp/~success/kaison.html

参考文献;
乾克己他編『日本伝奇伝説大辞典』(角川書店)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

ラベル:常陸坊海尊
posted by Toshi at 04:32| Comment(0) | 言葉 | 更新情報をチェックする

2021年10月14日

うどんげ


大村由己の「惟任退治記」のラストに、

偈に曰く
四十九の夢一場、威名什麽(なんま)の存亡とか説かん
請ふ看よ火裡(かり)烏曇鉢(うどんばち)、吹作(すいさく)す梅花遍界香(こうば)し、

とある。「烏曇鉢(うどんばち)」とあるのは、

優曇鉢、

のことで、

梵語のउडुम्बर(ウドゥンバラ uumbara)音写で、

優曇婆羅、
烏曇跋羅、
優曇鉢華、

等々とも当てる(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%86%E3%81%A9%E3%82%93%E3%81%92・百科事典マイペディア)。略して、

優曇、
憂曇、

といい、

瑞祥、

の意とあり(岩波古語辞典)、

霊瑞花、
空起花、
起空花、

などを意味するhttps://www.visiontimesjp.com/?p=4622

3000年に一度しか花を開かないというインド伝説上の植物、

とされ、

優曇華、
または、
憂曇華、

ともいう(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%86%E3%81%A9%E3%82%93%E3%81%92・百科事典マイペディア)。その花を、

うどんげばな、

という。

仏教では、

その花が開くとき、

金輪王が出現する、

といい、また、

如来が世に出現する、

と伝え(広辞苑)、経典の中では、

難値難遇(なんちなんぐう)、

つまり、

仏に会い難く、人身を受け難く、仏法を聞き難い、

という、

とてもめったに出会うことのできない稀な事柄や出来事を喩える話、

とされhttp://www.tendai.or.jp/houwashuu/kiji.php?nid=78、『大般若経』では、

如来に会うて妙法を聞くを得るは、希有なること優曇華の如し、

と説き、

『法華経』では、

仏に値(あ)いたてまつることを得ることの難きこと、優曇婆羅の華の如く、また、一眼の亀の浮木の孔(あな)に値うが如ければなり、

と説き、大海に住む百年に一度海面に頭を出す一眼の亀が、風に流されてきた一つの孔のある浮き木の孔の中にたまたま頭をつっこむという、

めったにない幸運で仏の教えにめぐりあうこと、

に喩えるhttp://www.tendai.or.jp/houwashuu/kiji.php?nid=78。『金光明経』には、

希有、希有、佛出於世、如優曇華時一現耳、

とある(大言海)。また、『法華文句』には、

優曇華は、霊瑞の意を示し、三千年に一度現れる。この花が現れたときに、金輪王(轉輪聖王)がこの世に現れる、

とあり、『慧琳音義』には、

この花は天上の花であり、 人間世界には存在しない。もし、如来佛がこの世に下り、金輪王がこの世に現れれば、その偉大な福徳力によって、初めてこの世に優曇華の花が見られる、

とあるhttps://www.visiontimesjp.com/?p=4622

 ある時、弟子たちが釈迦牟尼佛の説法を聞いた後、女弟子の蓮華色が「世尊。将来、轉輪聖王が下界に現れ伝法すると仰いましたが、人々はどのようにその時を知るのでしょうか?」と丁重に尋ねた。釈迦牟尼佛は「その時になると、優曇婆羅という花が広範囲に咲き、轉輪聖王がこの世で法を伝え、衆生を救い済度していることを示します」と明らかにした。釈迦牟尼佛はさらに「この花は人間界の花ではなく、轉輪聖王の一種の吉兆のようなものです。仏によってその象徴は異なりますが、この花は吉兆であり、この尊佛が下界のどこかに現れて説法し、衆生を済度することを予告するものです。あなた達は多くの善根功徳(ぜんごんくどく)を蓄えなさい。あなた達が聖王に出会うまで、私もあなた達に付き添います。あなた達が轉輪聖王の伝法と済度を得ることができれば、私も安心できます。」と続けた、

という(仝上)。

ただ、「うどんげ」が何かについては、いくつかの説がある。ひとつは、

クワ科イチジク属のフサナリイチジク(Ficus glomerata)、

が曇華の元になった植物ではないかともいわれている。

花がくぼんだ花軸の中にあって、外からは見えない。このためインドの伝説では、3000年に1度しか花を開かない、あるいは、如来や転輪聖王(てんりんじようおう)が出現した時だけ花を開くといわれた、

とある(世界大百科事典)。

インド原産で、ヒマラヤ、インド、セイロン島などに分布。葉は長さ一〇~一八センチメートルの先がとがった楕円形。花は小形で壺状の花托に包まれ、外からは見えない。果実は長さ約三センチメートルの倒卵形で食用となり、葉は家畜の飼料となる。仏教では、花が人の目に触れないため、咲いたときを瑞兆とみた、

ともある(精選版日本国語大辞典)。

フサナリイチジク.jpg

(フサナリイチジク http://hanoirekishi.web.fc2.com/sung.htmlより)

また「うどんげ」は、

バショウの花、

の異称である。

芭蕉、

と当て、

ショウガ目/バショウ科/バショウ属、

で、

中国原産というバナナの仲間。樹木のようにも見えるが草、多年草である、

とある。

バショウ (2).jpg

(バショウの花 https://mirusiru.jp/nature/flower/bashouより)

さらに、「うどんげ」は、

クサカゲロウの卵、

を指す。「クサカゲロウ」は、

草蜉蝣、
臭蜉蝣、

と当て、

アミメカゲロウ目(脈翅目)クサカゲロウ科、

に分類されるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%82%B5%E3%82%AB%E3%82%B2%E3%83%AD%E3%82%A6。一般的には、

成虫は黄緑色の体と水滴型で半透明の翅をもつ、

とある(仝上)。

クサカゲロウ.jpg


「クサカゲロウ」が、

他の物に産み付けられた昆虫クサカゲロウの卵塊、

を、

優曇華、

いうhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%86%E3%81%A9%E3%82%93%E3%81%92のである。

二センチメートルくらいの白い糸状をした柄の先に丸い卵をつけたものを、一箇所にかためて産みつけるので、花のように見える。草木の枝や葉などのほか、家の天井などにも見られ、吉凶の前兆とされる、

という(精選版日本国語大辞典)。

優曇華と呼ばれるクサカゲロウ科の卵.jpg

(優曇華と呼ばれるクサカゲロウ科の卵 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%82%B5%E3%82%AB%E3%82%B2%E3%83%AD%E3%82%A6より)

「華」(漢音カ、呉音ゲ、ケ)は、

会意兼形声。于は、(ウ |線が=線につかえてまるく曲がったさま。それに植物の葉の垂れた形の垂を加えたのが鼻の原字。「艸+垂(たける)+音符于)で、くぼんで丸く曲がるの意を含む、

とある(漢字源)。

「華」 漢字.gif

(「華」 https://kakijun.jp/page/1069200.htmlより)

別に、

会意形声。艸と、𠌶(クワ)(はな。・は省略形)とから成り、草木の美しい「はな」の意を表す、

とも(角川新字源)、

「華」 金文.png

(「華」 金文・西周 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E8%8F%AFより)

象形。「はな」を象ったもので、「拝」の旁の形が元の形、音は「花」からの仮借、

ともhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E8%8F%AF

「華」 成り立ち.gif

(「華」 成り立ち https://okjiten.jp/kanji1431.htmlより)

会意兼形声文字です。「並び生えた草」の象形(「草」の意味)と「木の花や葉が長く垂れ下がる象形と弓のそりを正す道具の象形(「弓なりに曲がる」の意味)」(「垂れ曲がった草・木の花」の意味)から、「はな(花)」を意味する
「華」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji1431.html

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

posted by Toshi at 04:35| Comment(0) | 言葉 | 更新情報をチェックする

2021年10月15日

素っ破抜く


秘密や醜聞、不祥事などを突き止め、暴露するスクープ、

の意の、

「すっぱ抜く」の由来を、

すっぱ(忍び)が、思いがけないところに立ち入り、情報を掴むことに由来する、

と、あった(平山優『戦国のしのび』)。「すっぱぬく」http://ppnetwork.seesaa.net/article/435604474.htmlで触れたように、それは俗説と思われるのだが、れっきとした著書でまで、そう言及されたのには少し驚く。改めて、もう一度整理してみたい。

「すっぱぬく」は、

素(っ)破抜く、
透(っ)波抜く、

等々と当てる(広辞苑・大言海・デジタル大辞泉・江戸語大辞典)。ふつう、

刀などをだしぬけに抜く、
突然人の隠し事などを暴く、
人の意表に出る、出し抜く、

という意味が載る(広辞苑)。この語源を、

忍者(スッパ)の思ひかけぬ所に立ち入るに譬へ云ふか(大言海・デジタル大辞泉・松屋筆記)、

とする説が少なくない。朝日新聞すらが、

ある日突然、不正などを明るみに出すことを「すっぱ抜く」と言います。記者のあいだでは、いわゆる特ダネを報じることを「抜く」と言い、「抜かれた」記者は急いで追っかけ取材をします。私たちが省略してしまうこの「すっぱ」、実は意外な意味があるのですが、ご存じでしょうか。
 正解は抜き足、差し足、忍び足……の、忍者です! 漢字では「素破」「透波」と書きます。日本国語大辞典の「素破抜(すっぱぬく)」の項には、「スッパ(忍者)が思いがけないところに立ち入るのにたとえていうか」と語源説が載っています。世界大百科事典によれば、忍者はほかにも「忍(しのび)」「かまり」「間諜」「乱波(らっぱ)」「隠密」などさまざまな呼ばれ方をしていたようです、

としているhttp://www.asahi.com/special/kotoba/archive2015/mukashino/2012020800002.htmlのである。さらには、「すっぱ抜く」の二つの意味を調整するためか、

(「すっぱ」は)戦国時代に武家に雇われた忍びの者のこと。「抜く」は刀を抜くこと。忍者は刃物をいきなり抜くことから、江戸時代にはいきなり刃物を抜く意で用いられていた。のちに、出し抜いて暴く意味へと転じ、新聞や雑誌などのメディアで多く用いられるようになった、

とする説明さえある(由来・語源辞典)。

しかし、「忍者」については、戦後は村山知義、白土三平、司馬遼太郎らの作品を通して「忍者」「忍びの者」が一般化したが、

江戸時代までは統一名称は無く地方により呼び方が異なり、「乱破(らっぱ)」「素破(すっぱ)」「水破(すっぱ)」「出抜(すっぱ)」)「透破(すっぱ、とっぱ)」「突破(とっぱ)」「伺見(うかがみ)」「奪口(だっこう)」「竊盗(しのび)」「草(くさ)」「軒猿」「郷導(きょうどう)」「郷談(きょうだん)」「物見」「間士(かんし)」「聞者役(ききものやく)」「歩き巫女」「屈(かまり)」「早道の者」「細作(さいさく)」、

等々があるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%8D%E8%80%85、とされる。室町末期の日葡辞書には、

Xinobi(忍び)、

と表記されており(仝上)、室町初期(14世紀中ごろ)の『太平記』でも、「忍び」が使われていて、

すっぱ、

という呼び方自体が、「忍び」の意味として一般的ではないようなのである。

忍び(北斎漫画より).jpg

(「忍び」 北斎漫画より https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%8D%E8%80%85より)

「すっぱぬく」http://ppnetwork.seesaa.net/article/435604474.htmlで触れたように、語源説には、

すっぱり+抜く、

と、秘密がすっぽりと筒抜けでわかる意、とする擬態語語源説と、

すっぱ(透波)+抜く、

で、忍者が秘密を嗅ぎつけて、うまく手に入れるという忍者語源説との、二つがある(日本語源広辞典・日本語源大辞典)。しかし、前にも触れたように、

透波抜き、

を語源としたというには、少なくとも、「透波」「素波」で、「忍者」を指しているという共通認識が世の中になければ、この言葉の含意は通じないのではないか。三田村鳶魚は、

素刃抜きの喧嘩、

という言い方をしていた(江戸ッ子)し、江戸語大辞典には、

すっぱぬき(素破抜)みんなで迯(にげ)たで持ったもの(明和七年(1770)「柳多留」)、

と、

だしぬけに刀を抜く意と、

言立ての芸にもならずすっぱ抜(文化十一年(1814)「俳諧觽」)、

と、人の秘密を暴露する意が載る。少なくとも、「すっぱぬく」は、ここでは、忍者の「すっぱ」とは無縁である。

どう考えても、三田村鳶魚が、

素刃、

を当てたように、意味的には、

いきなり刃物を抜く、

意で用いていたという方が妥当ではないだろうか。

「忍」http://ppnetwork.seesaa.net/article/416745079.htmlで触れたように、江戸時代の『武家名目抄』の職名に、透波の説明があり、

透波又称乱波、突破、……これ常に忍の役するものの名称にして一種の賤人なり。ただ忍(しのび)とのみよへる中には庶士の内より役せらるるもあれど、透波とよばるる種類は大かた野武士強盗などの中りよ ひ出されて扶持せらるるものなり。されば間者(間諜)、かまり夜討などには殊に便あるが故に、戦国のならひ、大名諸家何れもこれを養置しとみゆ。透波、よみてすつはとし、乱波これをらつはと云、さて其名儀は当時の諺に動静ととのはず首尾符合はせざるものをすつはといひ、事の騒がしく穏やかならぬをらつはといひしより起これるなるべし、今俗にとつは、すつは、又らつひなという詞のあるは、この遺言なり……、

とあり、

其名儀は当時の諺に動静ととのはず首尾符合はせざるものをすつはといひ、事の騒がしく穏やかならぬをらつはといひしより起これるなるべし、

とあり、まったく由来が異なり、しかも関東では乱波といい、甲斐より以西では透波と呼んだ、とある。「すっぱぬく」で使えるほど、「すっぱ」が人口に膾炙していたとは思えない。「すっぱ」に、「透波」「素波」の字を当てて、考え落ちのように、透波=忍者の行動が語源とこじつけた、というように思えてならない。

むしろ、擬音語、

すっぱり、

が、

鮮やかに思い切りよく切り離す様子。一刀で完全に断ち切り、傷口が見事に一直線になる感じ。江戸時代にすでに使われていた、

とあり(擬音語・擬態語辞典)、さらに、

物事や動作を次々と躊躇なく行う様子、

の意で、

すっぱすっぱ、

という擬音語もある。

すっぱ抜く、

は、この、

すっぱ、

すっぱり、

という擬音語由来と考えた方が自然ではないか。

「すっぱ抜く」は「すっぱのように人の秘密を暴く」ことだが、古い言葉では刀をスッパリ抜くことも「すっぱ抜く」といっていた。これは「すっぽ抜ける」と同じ意味で、「すっぱ抜く」の語源としてはこちらが本来のものらしい。これから忍者の「すっぱ」への連想が働いて「すっぱ抜く」という用法が生まれたとも考えられる、

とするhttp://www.jlogos.com/d046/12670503.htmlのが常識的な見解に思える。

ただ付言しておくと、「すっぱ」には、

透波、
素波、

と当て、忍びの意の他に、

水破、すっぱ、すり也(和漢通用集)、

とあり、

詐欺師、
すり、
かたり、

の意で使われたり、

よき物取とて、信州のすっぱと上州のわっぱども集まって(加沢記)、
すっぱ、盗人を云ふ也(俳諧・反故集)、

等々と、

盗賊、

の意でも使う(岩波古語辞典・大言海)意味では、人口に膾炙していたと思われる。室町末期の『日葡辞書』にも、

Suppa(素波、水破)、

は、

欺瞞、虚言、

の意で、

Suppana mono(素波・水破な者)、

は、

浮浪者、人をだます者、

の意とある。ただ、ここから、どう意味の外延を広げても、

忍び仕事、

をする意や、

虚言、

の意からは、真逆の、

突然、人の隠し事などを暴く、

意の、

すっぱ抜く、

が出てくる可能性は、僕は低いと見る。

なお、忍者やその作戦行動については、
盛本昌広『境界争いと戦国諜報戦』http://ppnetwork.seesaa.net/article/396352544.html
「忍」http://ppnetwork.seesaa.net/article/416745079.html
で触れた。

参考文献;
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
三田村鳶魚『江戸ッ子』(Kindle版)
盛本昌広『境界争いと戦国諜報戦』(歴史新書y)
前田勇編『江戸語大辞典 新装版』(講談社)
山口仲美編『擬音語・擬態語辞典』(講談社学術文庫)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

posted by Toshi at 04:37| Comment(0) | 言葉 | 更新情報をチェックする

2021年10月16日

参宮松


「参宮松」というのは、

人間に代わって伊勢参りをした、

と伝えられる松の木をいう(日本伝奇伝説大辞典)らしい。

「参宮」は、

神社に参詣すること、

だが、

特に伊勢神宮に参拝すること、

を指す(広辞苑)。「伊勢参り」http://ppnetwork.seesaa.net/article/482469437.htmlについては触れた。

「參」 漢字.gif


実は、「參(参)」(漢音呉音サン・シン、呉音ソン)は、

象形。三つの玉のかんざしをきらめかせた女性の姿を描いたもの。のち彡印(三筋の模様)を加えた參の字となる。入り交じってちらちらする意を含む、

とある(漢字源)。他に、

形声。意符晶(厽は変わった形。ひかりかがやく)と、音符㐱(シム)→(サム)とから成る。星座(オリオン座の三つ星)の意を表す。借りて、三(サム みつ)の意に用いる。教育用漢字は省略形の俗字による、

とあり(角川新字源)、さらに、

「參」 成り立ち.gif

(「參」 成り立ち https://okjiten.jp/kanji706.htmlより)

会意兼形声文字です。「頭上に輝く三星」の象形と「豊かでつややかな髪を持つかんざしを付けた女性の象形」(「密度が高い」の意味)から、「三度(みたび)・加わる・参加する」を意味する「参」という漢字が成り立ちました、

との解釈もあるhttps://okjiten.jp/kanji706.html

いずれにしても、「參」には、「参加」「参政」といった「まじわる」「加わる」、お目にかかる意の「参観」の意はあるが、

神社などに参る、

意や、「降参」の意の、

参る、

という意味はなく、わが国だけの使い方らしい。例えば、

神社にお参りに行く、

意の、

参詣、

は、

王嘉遷于倒獣山、公侯以下咸躬往参詣(晉書・藝術伝)、

というように、

某所に集まり到る、

意とあり(字源)、

参宮、

は、漢語にはない使い方ということになる。

さて、参宮松とされる松の木は、秋田県河辺郡雄和町水沢集落にある、樹高30メートル、樹齢四百年以上と言われた赤松、という(日本伝奇伝説大辞典)。

口碑によると、文政四年(1823)のある日、土崎港下四ツ屋から五人の一行が、松右衛門という人を尋ねてやってきた。しかし、水沢には、そういう人が居ない。その訳を尋ねると、昨年伊勢参りをした折、

「気品の高い白髪の老人の世話になり、無事に帰ることができた。その時に老人が、自分は水沢の松右衛門という者だが、秋の彼岸までには帰国するので一度遊びにくるようにといわれたので尋ねてきた」

という。この話を聞いた水沢の人には思い当たることがあった。水沢の守り神にしている松の老木が、昨年の春の彼岸ごろから急に勢いがなくなり、いろいろ手当てをしたが枯れ始めてしまった。しかし、秋の彼岸ごろから再び元気を取り戻した、ということがあった。水沢の人たちは、

「おそらく松右衛門とは老松の精でしょう。ひところ枯れだしたのは伊勢参りに出かけられたためでしょう」

と言った、とある(仝上)。で、この松を、

伊勢参りの松、
とか、
松右衛門の松、

と呼ぶようになった、という。「参宮松」というのは民話にもあるが、それは、男女二人連れが松の木だったという話で、少し趣が違うようであるhttp://hukumusume.com/douwa/pc/minwa/10/26a.htm

この水沢集落は、大永年間(1521~28年)に加賀から落ちのびてきた集落と言われ、総本家の伊藤宅にある「真宗大谷派同朋道場」とよばれる仏間を中心に、真宗の進行で結ばれ、死後も十二戸の集落全員が参宮松の根元にある、「総墓」に入る、とある(仝上)。「総墓」の墓石は、文政八年(1825)と刻まれているが、もともとは、松が墓標だった。そのことが参宮松の伝承を生んだのでは、とされている(仝上)。

現在の水沢集落は、

集落の東側に「八幡神社」を配し、西側に「総墓」と呼ばれる伊藤家の一族の共同の墓地があり、周囲から集落を守っている感じです、

とあるhttps://www.kensoudan.com/firu-naka-e/mizusawa2.htmlが、「参宮松」の伝承の記述は、見つからなかった。

参考文献;
乾克己他編『日本伝奇伝説大辞典』(角川書店)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

ラベル:参宮松
posted by Toshi at 04:34| Comment(0) | 言葉 | 更新情報をチェックする

2021年10月17日

猿蟹合戦


「猿蟹合戦」は、

昔噺のひとつ、

で、成立は、

室町末期、

とされる(広辞苑)。基本の筋は、

猿の柿の種と自分の握り飯とを交換した蟹は柿の種をまく。柿の木に実を結ぶと猿は親切ごかしに樹上に登って熟したものは自分で食べ、青く固い柿を投げて蟹を殺す。蟹の子は臼、杵、栗、蜂、牛糞の助けで仇を討つ、

と(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%95%E3%82%8B%E3%81%8B%E3%81%AB%E5%90%88%E6%88%A6・仝上)、

猿と蟹の柿の種と握り飯の交換、
蟹のまいた柿の種の急速な生長、
柿の実を独り占めにする猿、
青い柿を投げつけられた死ぬ蟹、
栗、蜂、牛の糞、臼などの助太刀による子蟹の仇討、

という型が、一般に知られている。室町末期から江戸初期にかけて成立した代表的な五つの昔話、

桃太郎、
かちかち山、
舌切り雀、
花咲爺(はなさかじじい)、

とされる(仝上)。

木に登って柿を食べるサル.png


この昔話は二段からなり、前段は

動物の分配競争、

であり、後段は、

旅する動物、

である(日本大百科全書)とされ、「動物の分配競争」は、

動物昔話の重要な部分をなしており、

連鎖譚(たん)、

として東南アジアには顕著な例が分布している。「かちかち山」の前段も、この種の連鎖譚からの分化とされる(仝上)。後段の「旅する動物」は、

グリム兄弟の昔話集の「ブレーメンの音楽隊」の話など、ヨーロッパにも多い昔話である。「猿蟹合戦」とはやや異なった、卵を盗まれた小鳥が、仲間の協力で仇を討つ「雀の仇討」は、日本のほか、類話が古代インドの『パンチャタントラ』や中国大陸にもある。「猿蟹合戦」のように、動物の戦闘隊の型をとる「旅する動物」の類話は、東アジアから北アメリカの先住民に多い。主人公に動物などが協力するという型は、「桃太郎」の骨子とまったく同じで、「猿蟹合戦」の後段には、黍団子など「桃太郎」の要素との交流も現れている、

との解釈がある(仝上)。

猿蟹合戦(燕石雑志).jpg

(猿蟹合戦(滝沢馬琴作『燕石雑志(えんせきざっし) https://kihiminhamame.hatenablog.com/entry/2018/04/29/235700より)

この後半の、

蟹の子の仇討、

部分は、後世の改作とされ(日本伝奇伝説大辞典)、

その背後には、岩手県上閉伊郡に伝わる「雀の仇討」や広島県山県郡の「雀話」がある、

とされる(仝上)。「雀の仇討」は、

竹やぶに巣をつくっている雀の卵を山姥が取って食べ、親雀まで食べられてしまう。ひとつだけ藪に落ちた卵が成長して、稲穂を集めて団子を作り、とちの実、針、蟹、臼、牛、蜂、栗、糞、腐れ縄、百足などが団子をもらう約束で供に加わり、仇討を果たす、

というもの(仝上・日本昔話事典)、「雀話」は、討手は子供を鬼に食われた「親雀」になっており、

栗、蜂、臼、牛の糞、などと鬼退治に行く、

という(仝上)、「桃太郎」に近い話になっている。その他、

猿と蟇(ひき)の寄合田(よりあいだ)、
猿と蟹の寄合餅(よりあいもち)、

等々もある。これは、「猿と雉子」になったりするが、東北地方に分布し、

一緒に田を作る相談がまとまったのに、田打ち、田植え、稲刈りになると、猿が口実を設けて働かず、食べる時になって、自分に都合いいように分配し、猿蟹合戦のように合戦譚になっていく(日本昔話事典)。

前半の「柿争い」の部分は、

猿と蟹と柿、
猿と蟹と餅、

等々、独立して語られている(仝上)。「猿と蟹と柿」は、

伝承の少ない話型のひとつ、

とされ、

たいてい猿と蟹がむすびと柿の種を交換することに始まり、両者の形状の由来譚、

となっている(日本昔話事典)。

蟹のまいた種がすぐに大きくなって実がなると、猿がいいところだけ食べて蟹に青い実を投げつける、

というのは「猿蟹合戦」と同じだが、

蟹の甲羅に爪型があるのは柿をぶつけられた跡(鹿児島県甑島)、

とか、

熟れた柿を独り占めしている猿に、その袋に柿を一杯詰めて枯枝の先にぶら下げたらおもしろいだろうと言われ、猿がその通りにすると、枯枝が折れて落ちた袋を持って蟹は穴に逃げ込む。怒った猿が穴に尻を押しつけ、柿を戻さないと糞を垂れると脅す。その尻を蟹が挟んで離さない。猿は許してもらう代わりに尻の毛を蟹にやる。だから蟹の手には毛があり、猿のしりは赤い(福岡県八女郡)、

等々、由来譚となっている(日本伝奇伝説大辞典)。

喧嘩のもとになった物は、柿と餅だが、

合戦譚をもつ型、

合戦譚をもたない型、

の分布状況が異なり、

「もつ型」の場合、

餅が争いの原因となるのが、青森・岩手・秋田、
柿が争いの原因となるのが、東北・関東・北陸・山陽・四国、

「もたない型」の場合、

餅が争いの原因となるのが、東北・関東・関西・山陽・九州、
柿が争いの原因となるのが、本州・四国の全域、

とある(日本昔話事典)。

関敬吾は、形式論から、

仲間の一人が他を欺いて虐待するという二動物の闘争譚である前半と、爆発、突刺、潤滑、重圧の機能を持つ四種の援助者によって仇を討つ後半からこの昔話は成り立ち、中心モチーフは後半にある、

とみているのに対して、柳田国男は、内容と分布状況から、

前半を重視し、この昔話は古くは猿と蟇(ひき)が餅を争う昔話で、その後、蟇が蟹に変化したり、合戦部分を借入したりしたのであり、その時代は下る生成論を示し、もとは前半部分が独立した昔話ではなかったかと推定した、

とされる(仝上)。

猿蟹合戦絵巻①.jpg

(江戸時代の『猿蟹合戦絵巻』 古典の絵巻で「さるかに合戦」としての作品はほかに例がなく、珍しいといわれる https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%95%E3%82%8B%E3%81%8B%E3%81%AB%E5%90%88%E6%88%A6より)

猿蟹合戦絵巻②.jpg

(江戸時代の『猿蟹合戦絵巻』 子蟹たちの敵討ちの場面。臼、蛇、蜂、荒布、包丁が集まっているhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%95%E3%82%8B%E3%81%8B%E3%81%AB%E5%90%88%E6%88%A6より)

「猿」(漢音エン、呉音オン)は、

会意兼形声。「犬+音符爰(エン ひっぱる)。木の枝を引っ張って木登りをするさる。猿は音符を袁(エン)にかえた、

とある(漢字源)。別に、

会意兼形声文字です(犭(犬)+袁(爰))。「耳を立てた犬」の象形と「ある物を上下から手をさしのべてひく」象形(「ひく」の意味)から、長い手で物を引き寄せてとる動物「さる(ましら)」を意味する「猿」という漢字が成り立ちました。「猿」は「猨」の略字です、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji1815.html

「猿」 漢字.gif

(「猿」 https://kakijun.jp/page/1391200.htmlより)

「猿」に当てる漢字には、「猴」(漢音コウ、呉音グ)もあるが、これは、

「犬+音符侯(からだをかがめてうかがう)」。さるが、様子をうかがう姿から来た名称、

とある(漢字源)。「猿猴(えんこう)」で、「さる」なのだが、両者の区別はよく分からない。孫悟空の場合、通称は、

猴行者、

で、自らは、

美猴王(びこうおう)、

と名乗ったので、「猿」ではなく、「猴」である。「猴」は、

人に似て能く坐立す。顔と尻とには毛がなく赤し、尾短く、性躁にして動くことを好む、

とある(字源)が、猿のかしらは、

山多猴、不畏人、……投以果実、則猴王・猴夫人食畢、羣猴食其余(宋史・闍婆國傳)、

と、

猴王、

という(字源)。「猿」と「猴」は区別していたのかもしれない。

「猴」 漢字.gif


この他に、「さる」の意で、

體離朱之聰視、姿才捷于獼猿(曹植・蝉賦)、



獼猿(ビエン)、

や、「おおざる」の意で、

淋猴即獼猴(漢書・西域傳・註)、



獼猴、

という使い方をする、

獼(ビ)、

がある。「獼」自体、

おおざる、

の意で、

母猴、
淋猴、

ともいう(漢字源)、とある。日本でも、色葉字類抄(1177~81)に、

獼猴 みこう、びこう、

と載り(精選版日本国語大辞典)、

後生に此の獼猴の身を受けて、此の社の神と成るが故に(「霊異記(810~824)」、戦国策・斉策)、
海内一に帰すること三年、獼猴(みごう)の如くなる者天下を掠むこと二十四年、大凶変じて一元に帰す(「太平記(1368~79)」)
仏家には、人の心を猿にたとへられたり。六窓獼猴(ミゴウ)といふ事あり(仮名草子「東海道名所記(1659~61頃)」)、

等々と使われる(仝上)。

参考文献;
稲田浩二他編『日本昔話事典』(弘文堂)
乾克己他編『日本伝奇伝説大辞典』(角川書店)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

ラベル:猿蟹合戦 昔噺
posted by Toshi at 04:38| Comment(0) | 言葉 | 更新情報をチェックする

2021年10月18日

ひこ


「ひこ」は、

彦、

と当てる(広辞苑)が、

比古、
日子、
毘古、

等々とも当てhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E3%81%B2%E3%81%93

姫(ひめ)、

の対である(岩波古語辞典)。

名は天邇岐志国邇岐志(あめにぎしくににぎし)天津彦(あまつひこ)彦番能邇邇芸命(ひこほのににぎのみこと)そ。此の子を降すべし(古事記)、

と、

男子の美称、

だが、

此の速秋津彦(はやきつひこ)・速秋津姫の二柱の神、河海に因りて持ち分けて生める神の名は(古事記)、

と、

男子、

をも指す(岩波古語辞典)。「ひこ」は、魏書・東夷伝の、

始めて一海を渡る千余里、対馬国に至る。其の大官を卑狗(ひこ)と曰ひ、副を卑奴母離(ひなもり)と曰ふ、

とある「卑狗」は、彦と推定されている(仝上)。

「彦」 漢字.gif

(「彦」 https://kakijun.jp/page/0959200.htmlより)

「ひこ」は、

日子の義、日は美称。ヒメも同じ。相対す。中国最古の字書『爾雅』(漢初)、「美女為媛、美士為彦」。男子を美(ほ)めて呼ぶ語(大言海)、
ヒコ(日子)の義、ヒは美称(東雅・類聚名物考・俚言集覧・和訓栞・柴門和語類集・日本語原学=林甕臣)、
ヒは日・太陽。ムスヒ(産霊)・ヒモロキ(神籬)のヒと同じ。コは男子の意。太陽の子、あるいは太陽の神秘的な力をうけた子の意。尊称として男神の名に冠せられ、また男の名前の下につけて使われた。後に、一般的に男の尊称。なお「彦」の字は美男の意(岩波古語辞典)、

と、

日子、

とする説が多い。

ヒイデタル-コ(子)の意(日本釈名)、
ヒ(日)の子孫の義(燕石雑記・本朝辞源=宇田甘冥)、
ヒは神聖なの意、コは男の意(日本国家の起源=大野晋)、
ヒコ(靈子)の義(名言通)、
ホコ(陽子)の義(言元梯)、

等々も同趣旨とみられる。さらに、

ヒコネ・ヒコナの略。コナはクナで、朝鮮語で人の意のkanと同源(日鮮同祖論=金沢庄三郎)、

の他に、

ヒは、ヒコ(孫)・ヒヒコ(曾孫)と同語源で、それ故に尊く、美称ともなる(続上代特殊仮名音義=森重敏)、

というのがある。たしかに、「ひこ」は、

孫、

と当てて、和名類聚抄(平安中期)にある、

子之子為孫、無万古(むまこ)、一云、比古、

とある(岩波古語辞典)。しかし、同語源というのはどうだろうか。

ヒは隔てるとともに継承の意を表す(続上代特殊仮名音義=森重敏)、

という意味から「同源」としているようだが、

「こ」は男子を表す。「ひ」は後代の「御」に相当する、敬意を表す接頭辞、

との説もありhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E3%81%B2%E3%81%93

その意味では、

神の尊称、

孫の美称、

では意味が違い過ぎる気がする。

「ひこ」(孫)は、

ヒは物を隔つる義、曽孫を更にヒヒコと云ふもこれなり(大言海)、

他には載らないが、大言海は、「ひ」を、

隔、
重、

と当て、

重(へ)と通ず、

とし、

物を隔つるもの、又、コトの重なること、

とし、

ヒオホヂ(曾祖父)、
ヒオホバ(曽祖母)、
ヒヒコ(曾孫)、

を例示している。他にも、

ヒコ(隔子)の義(箋注和名抄・俗語考・日本語源=賀茂百樹)、

ともあり、

コ(子)にヒを冠したものと考えられ、類例にヒヒコ(曾孫)などがあり、ヒは一代隔てた親族を表すと思われる、

とある(日本語源大辞典)。ただ、

このヒは、ヒコ(彦)・ヒト(人)・ヒメ(姫)などとの関連も考えられる、

ともある(仝上)。もしそうだとすると、

ヒは隔てるとともに継承の意を表す(続上代特殊仮名音義=森重敏)、

の意味から、

ヒコ(彦)→ヒコ(孫)、

へと「ヒ」の意味が分岐したことになる気がする。

「彥」(ゲン)は、

会意兼形声。厂(ガン)は、厂型にくっきりとけじめのついたさま。彥「文(模様)+彡(模様)+音符厂」で、くっきりと浮き出た男の顔、

とあり(漢字源)、「美男子」の意である。そこから転じて、才徳の優れた青年の意を表すhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%BD%A6。別に、

会意兼形声文字です(文+厂+彡)。「人の胸を開いて、そこに入れ墨の模様を書く」象形(「模様」の意味)と「削り取られた崖」の象形と「長く流れる豊かでつややかな髪」の象形(「模様・飾り」の意味)から、崖から得た鉱物性顔料の意味を表し、それが転じて(派生して・新しい意味が分かれ出て)、それを用いる「美青年」、「才徳のすぐれた男子」、「男子の美称」を意味する「彦」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji1730.html

「彦」 成り立ち.gif

(「彦」 成り立ち https://okjiten.jp/kanji1730.htmlより)

なお「子」http://ppnetwork.seesaa.net/article/465595147.htmlについては触れた。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

posted by Toshi at 04:39| Comment(0) | 言葉 | 更新情報をチェックする

2021年10月19日

ひめ


「ひめ」は、

姫、
媛、

と当てる(広辞苑)が、

日女、
比売、

とも当てhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E3%81%B2%E3%82%81

「め」は女性を表す。「ひ」は後代の「御」に相当する、敬意を表す接頭辞、

であり(仝上)、

ひこ(彦)の対、

とある(仝上・広辞苑)。

「ヒメ」の古形は「ヒミ」と考えられる、

とありhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%92%E3%83%A1、『上宮記』は、

推古天皇の別名「豊御食炊屋姫」(とよみけかしきやひめ)を「等已彌居加斯支移比彌」(とよみけかしきやひみ)と記している。阿波国には波尓移麻比彌神社(はにやまひめ)があり、ヒメは比彌(ひみ)と記されている、

として、古代において、

ヒメとヒミは通用していたと思われる、

という(仝上)。

「ひめ」は、上代には、

またの名は比売多多良伊須気余理(たたらいすけより)比売(古事記)、

と、

女性の美称、尊称、

の意(岩波古語辞典)で、

地神(土着)系の女性(メやベ)と区別される、天孫・天神系(天皇やその伴造)の女性を意味した、

とありhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%92%E3%83%A1、4世紀まで、

速津媛(はやつひめ 豊国速見地方)、
八女津媛(やめつひめ 筑紫国八女地方)、

等々地域の女性首長の尊称として使われた(仝上)。平安期になると、

この皇女(みこ)は昔名高かりける姫、手書き歌よみなり(宇津保物語)、

と、

貴人の娘、

を指し、そこからだろうか、

ちはやぶる賀茂の社の姫小松よろづ世経(ふ)るとも色は変らじ(古今集)、
とか、
姫鏡、小鏡也(俳諧・乳母)、
とか、
姫百合、

等々と、

他の語に冠して、かわいらしい、きゃしゃで小さいの意を表し、さらに、その意から、

強飯(こはいひ)、

に対して、

姫飯(ひめいひ)、

と、

飯(めし)の意でも使うに至り、終には、江戸期には、

おやま、遊女なり、……女中、姫、などと唱ふ(浪花聞書)

と、

遊女、

の意にまで変化する(岩波古語辞典)。

「ひこ」http://ppnetwork.seesaa.net/article/483945574.html?1634499550で触れたように、「ひめ」も、

日女の意(広辞苑・大言海・日本語源広辞典・和句解・類聚名物考・俚言集覧・和訓栞・本朝辞源=宇田甘冥・日本語原学=林甕臣)、

とするのが大勢で、

ヒは日・太陽、ムスヒ(産霊)・ヒモロキ(神籬)のヒと同じ。メは女子の意、

とある(岩波古語辞典)。「め(女)」http://ppnetwork.seesaa.net/article/483689364.htmlについては、触れた。

霊+メ(女)で、神の娘(日本語源広辞典)、
ヒメ(霊女)の義(箋注和名抄・俚言集覧・名言通・日本語源=賀茂百樹・日本国家の起源=大野晋)、

もほぼ同趣旨とみていい。

ひめ(日陰)の義(柴門和語類集)、
ヒイデタル女の義(日本釈名・柴門和語類集)、

等々は少しその変形か。

なお、古代国家成立以前には、

ヒメ・ヒコ制、

という

兄弟姉妹(姫と彦)による二重支配体制、

があったとされ(世界大百科事典)、

祭祀的・農耕従事的・女性集団の長のヒメ(あるいはミコ、トベを称号とした)、

軍事的・戦闘従事的・男性集団の長のヒコ(あるいはタケル、ワケあるいはネを称号とした)、

が共立的あるいは分業的に一定地域を統治していた(高群逸枝)、

とされているhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%92%E3%83%A1%E3%83%92%E3%82%B3%E5%88%B6

「姫」.gif

(「媛」 https://kakijun.jp/page/1038200.htmlより)

「姫」(キ)は、

形声。姫の右側は臣(シン)とは別字で、もと頤(イ あご)の左側と同じ。頤の原字。姫は、女にそれを音符としてそえたもの。あるいは、あごの張った女性の意味か、

とあり(漢字源)、和語で使う「身分の高い女性の尊称」の意はなく、「姫妾(きしょう)」というように、身分の高い人の「めかけ」の意や、宮廷につかえる貴婦人の意である。しかし、

会意形声。「女」+音符「臣」、「臣」は、貴人の前で目を伏せた様で、貴人の前でかしこまること。「説文解字」には見えず、「康煕字典」には掲載があるものの、引用は「集韻」からのみであり稀用の文字と考えられる。現代中国語での使用例はほとんどない。日本では、「姬」の新字体となり、別字衝突が発生している、

ともhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%A7%AB

旧字は、形声。女と、音符𦣝(イ)→(キ)とから成る。もと、周王朝の姓。転じて、貴婦人の意に用いる。常用漢字は、もと「シン」の音で、「つつしむ」意を表す別字であるが、姬の省略形として採用された、

とも(角川新字源)、

「姫」 成り立ち.gif

(「姫」 成り立ち https://okjiten.jp/kanji1389.htmlより)

会意兼形声文字です。「2つの乳」の象形と「両手をしなやかに重ねた女性」の象形から、「子を養い育てる事ができる女性」、「ひめ」を意味する「姬・姫」という漢字が成り立ちました。「姫」はもと、別字(女+臣(「しっかり開いた目」の象形で「家来」の意味))で「慎む」の意味を表しましたが、のちに、「姬」の略字として用いられるようになりました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji1389.html

「媛」 漢字.gif

(「媛」 https://kakijun.jp/page/1232200.htmlより)

「媛」(漢音呉音エン、呉音オン)は、

会意兼形声。爰(エン)は、両手の間に接触の仲立ちをする物をはさんでゆとりをあけたさま。媛は「女+音符爰」で、優美なゆとりあるゆかしい女、

とあり(漢字源)、「ひめ」の意である。別に、

会意形声。「女」+音符「爰」。「爰」は「爪」「又」(ともに手を意味)の間に物を引っ張る様子。魅力があって気を引く女性の意か、

ともhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%AA%9B

会意兼形声文字です(女+爰)。「両手をしなびやかに重ね、ひざまずく女性」の象形と「あるものを上下からさしのべてひく」象形(「ひく」の意味)から、「心のひかれる美しい女性」を意味する「媛」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji1124.html

「媛」 成り立ち.gif

(「媛」 成り立ち https://okjiten.jp/kanji1124.htmlより)

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

ラベル:ひめ 日女 比売
posted by Toshi at 04:39| Comment(0) | 言葉 | 更新情報をチェックする

2021年10月20日

ひと


「ひと」は、



と当てるが、

生物としての人間。社会的に一人前の人物として認められている人間。また、特に自分が深い関心や愛情を抱いている人物。また、社会的に無視できない人物をいう、

とある(岩波古語辞典)。

わくらばにひととはあるを人並に吾(あれ)も作(なれ)るを綿もなき布肩衣(ぬのかたぎぬ)の海松(みる)のごとわわけさがれるかかふのみ肩にうち掛け(山上憶良)、

と、物や動物に対して人間の意、

いつしかも人と成り出でて悪しけくも善けくも見むと大船の思ひ頼むに思はぬに邪しま風のにふふかに覆ひ来れば(万葉集)、

と、一人前の人間の意、

人柄は、宮の御人にて、いとよかるべし(源氏物語)、

と、深い関心・愛情の対象としての人間の意、

汝をと吾(あ)をぞひとそ離(さ)くなるいで吾君(あがきみ)人の中言(なかごと)聞きこすなゆめ(万葉集)、

と、社会的に自分と対立する人間(岩波古語辞典)、他人の意、あるいは、

これは、君もひとも見を合はせたりといふなるべし(古今集序)、

と、

大君一人に対し、天が下の人、つまり臣の意(大言海)、等々で使われる。

「ひと」は、「ヒ(霊)」とからめて、

ヒ(靈)のト(止)まる所の意、またヒト(靈処)の義(大言海・東雅・名言通・本朝辞源=宇田甘冥)、
ヒト(靈者)の義(日本古語大辞典=松岡静雄)、
「精神を持った存在、ヒト(靈処)、ヒト(靈者)、すぐれた存在、ヒ(秀)+ト(人)の意(日本語源広辞典)、
ヒト(秀者)の義(日本古語大辞典=松岡静雄)、

等々とする説があるが、「ひこ」http://ppnetwork.seesaa.net/article/483945574.html?1634499550で触れた、

ヒは系譜を継ぐ意で用いるヒコ(孫)・ヒヒコ(曾孫)と同源、トはタミ(民)のタと同源(続上代特殊仮名音義=森重敏)、

もあるが、ヒ(日)と関わらせ、

日の友の義(日本釈名・柴門和語類集)、
ヒト(日与)の義、日と与(とも)に生きる意(和訓栞)、
日の徳の止まるの略、また日に等しの略(国語蟹心鈔)、

等々とするよりは、「ひこ」が、

日+子、

なら、それと準じて、

甲類ヒ(霊・日)+乙類ト(止・留・処・所・跡・迹)で、「霊の留どまるところのものとの旨か、

とするhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E3%81%B2%E3%81%A8のが順当に思えるが、確定していないようだ。

「ヒ(日)」は、太陽の意だが、「ヒ(靈)」は、

太陽神の信仰によって成立した観念、

とあり(岩波古語辞典)、両者はつながる。

「ひと」に対する「もの」http://ppnetwork.seesaa.net/article/462101901.htmlについては触れたが、「もの」は、

形があって手に振れることのできる物体をはじめとして、広く出来事一般まで、人間が対象として感知・認識しうるものすべて。コトが時間の経過とともに進行する行為をいうのが原義であるに対して、モノは推移変動の観念を含まない。むしろ変動のない対象の意から転じて、既定の事実、避けがたいさだめ、普遍の慣習・法則の意を表す。また、恐怖の対象や、口に直接指すことを避けて、漠然と一般的存在として把握し表現するのに広く用いられた。人間をモノと表現するのは、対象となる人間をヒト(人)以下の一つの物体として蔑視した場合から始まっている、

とある(岩波古語辞典)。「オニ」http://ppnetwork.seesaa.net/article/461493230.htmlで触れたように、折口信夫は、古代の信仰では

かみ(神)と、おに(鬼)と、たま(霊)と、ものとの四つが代表的なものであった、

としている(鬼の話)が、大野晋は、

「もの」という精霊みたいな存在を指す言葉があって、それがひろがって一般の物体を指すようになったのではなく、むしろ逆に、存在物、物体を指す「もの」という言葉があって、それが人間より価値が低いと見る存在に対して「もの」と使う、存在一般を指すときにも「もの」という。そして恐ろしいので個々にいってはならない存在も「もの」といった、

とし(「もの」という言葉http://www.fafner.biz/act9_new/fan/report/ai/oni/onitoyobaretamono.htm)、「もの」としか呼べないもののなかから、かみ(神)と、おに(鬼)と、たま(霊)と分化していった、としている。

「人」(漢音ジン、呉音ニン)は、

象形。人の立った姿を描いたもので、もと身近な同族や隣人仲間を意味した、

とあり、その範囲を、

四海同胞、

まで広げ、それを仁と呼んだ(漢字源)、とある。

なお、「こと」http://ppnetwork.seesaa.net/article/462119208.htmlについても触れた。

「人」 漢字.gif

(「人」 https://kakijun.jp/page/0206200.htmlより)

立っている姿には違いないが、

人が立って身体を屈伸させるさまを横から見た形にかたどる(角川新字源)、
人が立っている姿の側面を描いたものhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E4%BA%BA

というところだろう。

「人」 金文 殷.png

(「人」 金文・殷 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E4%BA%BAより)

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

ラベル:ひと
posted by Toshi at 04:38| Comment(0) | 言葉 | 更新情報をチェックする