2021年10月21日

ひこばえ


「ひこばえ」は、

蘖、

と当てる。

「孫(ひこ)生え」の意、

とある(広辞苑)。

切り株や木の根元から出る若芽、

をいう(仝上)。新撰字鏡(898~901頃)に、

荑、死木更生也、比古波江、

とある(精選版日本国語大辞典)。

余蘖・余孽(よげつ)、

ともいう。これは、春の季語である。

ひこばえ.jpg
(ひこばえ デジタル大辞泉より)

太い幹に対して、孫(ひこ)に見立てて、

ひこばえ(孫生え)、

というらしいhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%98%96。訛って、

ひこばゆ、
ひこばう、

等々ともいう(精選版日本国語大辞典)。「ひこ」に、

孫、

を当てることは、「ひこ」http://ppnetwork.seesaa.net/article/483945574.html?1634499550で触れたが、和名類聚抄に、

子之子為孫、無万古(むまこ)、一云、比古、

とある。これは、

ヒは物を隔つる義、曽孫を更にヒヒコと云ふもこれなり(大言海)、

とし、

他には載らないが、大言海は、「ひ」を、

隔、
重、

と当て、

重(へ)と通ず、

とし、

物を隔つるもの、又、コトの重なること、

とし、

ヒオホヂ(曾祖父)、
ヒオホバ(曽祖母)、
ヒヒコ(曾孫)、

を例示している。

なお、「ひこばえ」は、樹木の切株の新芽を言うが、刈り取った稲の株から生えるのを、

穭(ひつじ)、

という(広辞苑)。「ひつじ」は、訛って、

ひづち
ひつぢ、
ひつち、
ひずち、

等々とも言うが、

稲孫、

と当て(精選版日本国語大辞典)、類聚名義抄(11~12世紀)に、

穭、ヲロカオヒ、俗に云、ヒツチ、

とあるように、室町時代までは、

ひつち、

といった(岩波古語辞典)。これは、

刈れる田におふるひつちの穂にいでぬは世を今更に秋はてぬとか(古今集)、

と、秋である。「をろかおひ」は、

疎生、
穭、

と当て、

刈りあとの株から生えたひこばえ、再生稲、ひつじ、

とある(広辞苑)。

イネの稲孫.jpg


「ひづち」の由来は、

刈れる後の乾土(ヒツチ)より生ふれば名とするか(大言海)、
秣、ヒツチ、稲の再生して実なるを云、秋田をかり、水をおとして後、干土(ヒツチ)より出て、みのるものなればヒツチと云(日本釈名)、

とある(大言海)。「ひづち」は、さらに、

稲の二番生(ばえ)、
ままばえ、
再熟稲(さいじゅくとう)、
おろかおひ(おい)、

等々ともいう(仝上)とあるので、

ただ新芽が出るだけではなく、実のなる、

のを指しているようだ。で、学術的には、

再生イネ、

といい、一般には、

二番穂、

とも呼ばれ、

穭稲(ひつじいね)、
穭生(ひつじばえ)、

等々ともいい、稲刈りのあと穭が茂った田を、

穭田(ひつじだ)、

というhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A8%B2%E5%AD%ABとある。

「蘖」 漢字.gif


「蘖(櫱)」(漢音ゲツ、呉音ゲチ)は、

会意兼形声。草冠の下の字(ゲツ)は、途中で切る、刈り取るの意を含む。蘖はそれを音符として、草と木をそえたもの、

とあり(漢字源)、「切株」「ひこばえ」の意である。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
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2021年10月22日

兵略あっての忍び


平山優『戦国の忍び』を読む。

戦国の忍び.jpg


本書は、史料に出てくるかぎりで、

「Ninja」でも、「忍者」でもない、戦国の「忍の者」(本書では、「忍び」で統一)の実像を可能な限り追い駆けてみたい」

とし、

「Ninja」や「忍者」が駆使する、忍術や武器については、まったく言及していない。当時の史料には、まったく登場せず、検討の仕様がないからである、

としている(はじめに)。その意味では、実戦の中で、どんな使われ方をし、どんな戦い方をしているかに中心がある。

「忍び」の類をまとめたものは江戸時代以降で、代表的なものは、『武家名目抄(ぶけみょうもくしょう)』(1806)と、江戸時代も後期になってからである。そこでは、

他の項目と同じく、忍びについて、様々な文献をもとに考察が記されている、

が、そこでは、

忍目付、
忍物見 又称芝見、カマリ物見、
物聞(ものきき) 又称聞物役、耳聞、外聞聞次、
遠聞(とおぎき)、
訴入、
忍者 又称間者、諜者、
透波(すっぱ)、

等々がある。「忍者」については、こう説明している。

按ずるに、忍者はいはゆる間諜なり、故に或いは間者といひ、又諜者とよぶ、さて其役する所は、他邦に潜行して敵の形勢を察し、或いは仮に敵中に随従して間隙を窺ひ、其余敵城に入て火を放ち、又刺客となりて人を殺すなとやうの事、大かたこの忍かいたす所なり、物聞、忍目付なといふも多くはこれか所役の一端なるへし、もとより正しき識掌にあらされは、其人のしな定まれることもなし、庶士の列なるもあり、足軽同心又は乱波、透波の者もありしとみゆ、京師に近き所にては、伊賀国又は江洲甲賀の地は、地侍多き所なりけれは、応仁以後には各党を立てて、日夜戦争をし、竄賊、強盗をもなせしより、おのつから間諜の術に長するもの多くいてきしかは、大名諸家、彼地侍をやしない置て、忍の役に従はしむる事の常となりてより、伊賀者・甲賀者とよはるるもの諸国にひろこりぬ、これ鉄炮組には多く、根来者を用ふるたくひなり、

とある。戦国時代が終わってから二百年も経っての見解なので、相当に割り引く必要はあるが、本書は、史料に登る用語を丹念に追いかけていく。ただ、

草、
草調儀、
伏、
伏勢、
伏調儀、
野臥、
かまり、

等々を史料を基に追って行くのはいいが、果たして、たとえば、

草、

かまり、

とを厳密に区別しているのか、それてもかなり雑な使い方なのかは、同一史料で、両者を厳密に比較していないので、分からない。「忍」http://ppnetwork.seesaa.net/article/416745079.htmlで触れたことだが、

乱波(らっぱ)
透波(出波)(すっぱ)
突波(とっぱ)

と呼ばれたり、


とか

とか
かまり

と呼ばれたりするが、確か、三田村鳶魚が、

「乱波・出波は、少人数、数人あるいは一人でやる場合と、集団で用いる場合は、少し様子がちがう。普通の忍びは、戦時でないときに使うのだが、戦時は『覆』といって、これはだいぶ人数が多い。多ければ千人もに千人もになるし、少なくとも二三百人ぐらいはある。」

と言っていた。山蔭に隠して、不意を襲うので、「むらかまり」「里かまり」「すてかまり」等々と呼ぶという。少人数を隠す場合、「伏」とも呼ぶ。「草」とも言うなど、

乱波(らっぱ)、
透波(出波)(すっぱ)、
突波(とっぱ)、

は、どちらかというと、

忍び、

がその行動と同時に、その人を指すのに対して、

草、
草調儀、
伏、
伏勢、
伏調儀、
野臥、
かまり、

は、作戦行動(兵略)を指しているように思われる。たとえば、草の活動について、

奥州の軍(いくさ)言葉に草調儀などがある。草調儀とは、自分の領地から多領に忍びに軍勢を派遣することをいう。その軍勢の多少により、一の草、二の草、三の草がある。一の草である歩兵を、敵城の近所に夜のうちに忍ばせることを「草を入れる」という。それから良い場所を見つけて、隠れていることを「草に臥す」という。夜が明けたら、往来に出る者を一の草で討ち取ることを「草を起こす」という。敵地の者が草の侵入を知り、一の草を討とうとして、逃げるところを追いかけたならば、二、三の草が立ち上がって戦う。また、自分の領地に草が入ったことを知ったならば、人数を遣わして、二、三の草がいるところを遮り、残った人数で一の草を捜して討ち取る、

とある(政宗記)。これはもうゲリラ戦といっていい。

それにしても、折口信夫が、

透波・乱波は諸国を遍歴した盗人で、一部は戦国大名や豪族の傭兵となり、腕貸しを行った。透波・乱波は団体的なもので、親分・子分の関係がある。一方、それから落伍して、単独となった者を、すりと呼んだ。山伏も法力によって、戦国大名などに仕えることもあった。山伏の中には逃亡者・落伍者・亡命者などが交じり、武力を持つ者もいて、この点でも、透波・乱波と近い存在である(ごろつきの話)、

と書いたり、

これ常に忍の役するものの名称にして一種の賤人なり。ただ忍(しのび)とのみよべる中には庶士の内より役せらるるもあれど、透波とよばるる種類は大かた野武士強盗などの中よりよび出されて扶持せらるるものなり。されば間者(間諜)かまり夜討などには殊に便あるが故に、戦国のならひ、大名諸家何れもこれを養置しとみゆ。…(透波、乱波)の名儀は当時の諺に動静ととのはず首尾符合はせざるものをすつはといひ、事の騒がしく穏やかならぬをらつはといひしより起これるなるべし(武家名目抄)

と書いたりしたために、「忍び」は、通常の侍とは別の、

盗人、

等々の人間を雇ったとする説に偏り過ぎでいないか。

そもそもが、足軽自体が、飢饉と戦乱の中、稼ぎに出てきた農民なのであることは、「足軽」http://ppnetwork.seesaa.net/article/462895514.htmlで触れたし、その背景については、藤木久志『雑兵たちの戦場』http://ppnetwork.seesaa.net/article/463652420.htmlでも触れた。いわゆる、

乱取り、

がある。その中心になる、

雑兵、

は、

身分の低い兵卒をいう。戦国大名の軍隊は、かりに百人の兵士がいても、騎馬姿の武士はせいぜい十人足らずであった。あとの九十人余りは雑兵(ぞうひょう)と呼んで、次の三種類の人々からなっていた。
①武士に奉公して、悴者(かせもの)とか若党(わかとう)・足軽などと呼ばれる、主人と共に戦う侍。
②武士の下で、中間(ちゅうげん)・小者(こもの)・荒子(あらしこ)などと呼ばれる、戦場で主人を補(たす)けて馬を引き槍を持つ下人(げにん)。
③夫(ぶ)・夫丸(ぶまる)などと呼ばれる、村々から駆り出されて物を運ぶ百姓(人夫)たちである、

とされ(藤木久志『雑兵たちの戦場』)、雑兵の中には、

侍(若党、悴者は名字を持つ)

武家の奉公人(下人)、

動員された百姓、

が混在している。さらに、

草・夜わざ、かようの義は、悪党その外、はしり立つもの、

といわれる、いわゆる、

スッパ、ラッパ、

もまた雑兵に入る。この者たちは、いずれも、

戦場でどうにか食いつないでいた、

のである(仝上)。となると、なにも、

盗人、
と、
乱取りする雑兵、

との区別はつかない。そういう時代なのではないか、戦国時代は。

それともう一つ、

城乗っ取り、

を、忍びの専売特許にし過ぎる。それは、平和の時代、軍のなかった江戸時代の常識に左右され過ぎているからではないか。現に、『太平記』には、笠置山に三千余で籠城する後醍醐天皇の城を、

備中国住人陶山字藤三郎、小宮山次郎以下五十余人、

が、夜の城に潜入し、

ここの役所に火を懸けては、かしこに時の声を揚げ、かしこ時を作っては、ここの櫓に火を懸くる。四方八方走り廻って、その勢山中に充満したるやうに聞こえければ、陣々を堅めたる官軍ども、城中に敵大勢攻め入つたりと心得て、物具を脱ぎ捨て、弓矢をかなぐり捨て、崖、堀と云はず、倒れふためいてぞ落ち行ける、

と、落城させている。つまりは、兵略なのであって、その手先の人々の才覚・能力を嵩上げして考えるべきではない。

あるいは、同じく『太平記』に、

結城(駿河守)が若党に、物部郡司とて世に勝れたる兵あり。これに手番(てつか)ふ者三人、かねてより、敵もし夜討せば、敵の引つ帰さんに紛れて赤坂城へ入り、和田(正氏)、楠(正儀)に打ち違へて死ぬるか、しからずんば城に火を懸けて焼き落とすか、

と待ち構えていた。四人は、予想通り和田が兵三百で夜討したのに紛れて、まんまと赤坂城に入り込む。しかし、夜討の後は、

立ち勝(すぐ)り居勝(いすぐ)り、

といって、

陣中に敵が侵入したときに、前もって決めておいた合図に従って立ったり座ったりして、行動の一致しない敵を見つけ出す方法、

があり、これによって四人は捕らえられる。この潜入者炙り出し法も、著者は、「忍び」の手法に挙げていたが、敵の夜襲も、それに紛れ込むのも、別に特別「しのび」の専売特許ではない。あくまで、兵法、兵略の一つに過ぎない。

情報収集としても、島原一揆の折、原城に忍び込んだ伊賀者は、相手の言葉が分からず、何の役にも立たず、発見されて、這う這うの体で、逃げてきている。戦国期、全国に敵味方で散らばった「しのび」仲間同士(たとえば伊賀者同士)なら使えた情報交換が役に立たなかった、ということでもあったらしいが、結局、「しのび」も、

兵略、

の一つに過ぎない。兵略なしに、

忍び、
も、
忍び作戦、

もないのではないか。つまり、当たり前のことだが、

忍びあっての兵略、

ではなく、

兵略あっての忍び、

なのである。

「忍」http://ppnetwork.seesaa.net/article/416745079.htmlについては、触れた。また、忍びの「かまり」「くさ」等の活動については、盛本昌広『境界争いと戦国諜報戦』http://ppnetwork.seesaa.net/article/396352544.htmlで触れた。また、和田裕弘『天正伊賀の乱』http://ppnetwork.seesaa.net/article/483008903.htmlで、伊賀衆の末路については触れた。

参考文献;
平山優『戦国の忍び』(角川新書)
三田村鳶魚『江戸の盗賊 鳶魚江戸ばなし』(Kindle版)
笹間良作『日本戦陣作法事典』(柏書房)
盛本昌広『境界争いと戦国諜報戦』(歴史新書y)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
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2021年10月23日

苛斂誅求


児玉幸多『近世農民生活史』読む。

近世農民生活史.jpg


本書は、当初、

江戸時代の農民生活、

であったが、再刊にあたって、書肆が変わり、「近世農民生活史」となったものだ。歴史的経緯よりは、江戸時代を通して、一貫した、幕藩体制下での農民生活を、

租税制制、
行政制度、
農民の統制、

と、

「農民が働くのは自分自身のためではない。それが封建時代の特徴であった。農民は領主のために、年貢生産のために働くのであって、その生活はその必要な限度に限定される。衣食住その他に関する制限禁止が行われた」

制度的な面に、ほとんどの紙面を割いている。

「農民の生活は、大土地所有者である封建領主およびその家臣らの、全国民の一割ぐらいに相当する人々を支えるために営まれていた。」

のであり、その象徴的な法令は、

「熊本藩で出した法令の中に、百姓は大小によらず牛馬を持たなくてはならない。田畑の耕作にも肥料を取るためにも、年貢の輸送にも必要な牛馬を持つことができない者に対しては、給人より気を付けてやり、また女子などを持っている百姓で、家内仕事に手の足りる者は、その女子を質奉公にでも出して牛馬を持たせる料簡が肝要である、と言っている。質奉公はいうまでもなく身売りすることである。耕作に必要とあれば牛馬に代えて最愛の娘を売ることさえ強要しているのである。」

であり、この法令の出た文化時代(1804~18)と対比して、

「天和二年(1682)の同藩民の人口39万4985人、寛政四年(1792)に53万2174人、同十年53万5543人と増加してきたのが、文化五年(1808)には51万2575人と減少したのに対して、牛馬は天和二年に3万5159頭、寛政四年には6万527頭、文化五年には9万1209頭と激増し、ほとんど一戸に一頭平均を有するに至っている。」

とされるのである。要は、百姓は、武家の食い扶持を稼ぐ手段と見なされている、いうことになる。

それにしても、江戸時代は、菊池勇夫『近世の飢饉』http://ppnetwork.seesaa.net/article/462848761.htmlで触れたように、飢饉の連続で、

「飢饉の年には木の根・草の根を掘り起こし、犬猫牛馬を食い、人の死骸を食い、生きている人を殺して食い、何万何十万という餓死者を出したときでさえも、武士には餓死する者がなかった」

のである。天保の飢饉に、

「新庄藩でも多くの飢人が出て城下町へ行って乞食をする者が多かったが、町家では与えるものもなくなり、ただ追い払うのみで、冷飯の残りや冷汁を与えたのは家中の士ばかり」

だったとあるし、享保十七年(1732)虫害による四国・中国・西国大飢饉のときに、

「福岡藩で大阪から買い求めたり幕府からの融通によって救助のため支出した米は、計13万6千石余であったが、その内訳は家中諸士の翌秋までの扶助米6万石、江戸屋敷家中諸士へ2万3千石、在々町々浦々の至極貧窮の飢人に麦作のできるまでの救として5万3千石で、六割以上は藩士の救済にあてられていた」

とある。

となると、当然租税の取り立ては厳しいものになる。嚴しい貢米検査を経て、とにもかくにも納入できればともかく、未進者、つまり未納者は、悲惨な目に遭った。

「皆済まで庄屋またはそれに代るべき者を人質として抑留するという所もあり、小倉藩では手永手代(大庄屋管轄区域)手代(代官配下)が出張して取り調べ、未進者が数日の延期を願い出て方頭(ほうず 組頭)以下組合(五人組)の者が保証すれば帰宅を許し、さもなければ手錠をかけて庄屋役宅に監禁する。その間に親類組合仲間にて融通がつけば放免されるが、永年未進が続けばそれを償却することは不可能になり、ついに本人が逃走すなわち欠落するようになる。」

あるいは、年貢を未進した場合には、籠舎されるのが普通であったが、

「金沢藩ではまず手鎖をかけて取り逃がさないようにして、のちに禁牢の処分をしている。熊本藩では在中の会所に堀を掘って水をたたえ、中央に柱を立て、未進百姓をそれに縛りつけて苛責した。」

とまである。当人が欠落すれば、その咎が残された組の者、庄屋にも及ぶことになるが、こうした苛斂誅求をみると、かつて、その過酷な取り立てで、島原一揆につながったとされる、島原藩の未進米の過酷な取り立ての、たとえば、

「碩翁聞伝へしハ、丑(うし)(寛永十四年)の秋嶋原領内甚損毛(そんもう)ニて、年貢未進多き故に、代官取立るといへ共、はかく敷不納、(中略)家老の隠居田中宗甫(むねすけ)と云者申けるハ、……自身村々を廻り、水牢を弥強く仕懸、未進の穿鑿を致しける故、……口ノ津村大百姓与三左衛門と云者、未進米三拾俵計りあるをはけしく取立しにより、しはらく指延給り候得と達てことはり申けれとも、宗甫曽て聞いれす、却て与三左衛門か媳を捕へ、水牢に入る、其女懐胎にて殊に産月に中りしかハ、其段を断り、夫を水牢に入かへ給はり候様に願ひけれとも、承引なく懐胎故にこそ幸ひニ思ひ、水牢に入たり、それを難義に思はゝ、未進を納むへしと責む、与三左衛門家財ハ先達て悉く御卸し漸々農具計り残したりしかハ、力なく居たる所に、彼女水牢のうちにて産を悩苦して死す」(嶋原一揆談話)、

という仮借のない取り立てと、ほんの紙一重に過ぎないことを思い知らされる。さらに、本年貢(本途物成)以外の、小物成、運上、冥加等々の様々な雑税は、久留米藩の承応三年(1654)の、郡中蔵入方から納めるものを、

「豊前の内裏まで送り迎え、そのほか領分中の使人足二万二千人、同じく荷物千百疋、縄三千束、藁千七百駄、すぐり藁一万頭、すさ藁五十駄、とまかや三千把、ふきかや千二百駄、小麦藁五百駄、むしろ千九百枚、畳こも千七百枚、竹釘三石、箸七千膳、草ぼうき百七十本、白辛子一石三斗、黒胡麻八斗、芥子八斗、葱冬花二斗五升、いばらの花二斗五升、蓮芋のくき千本、まこも五月節句之用十五把、はゑもぐさ八斗、もみぐさ一斗、ゑもぎ三把、しょうぶ三把、わらしべ五把、色付煤五石、蓮葉三十枚、かうり根粉二斗、土筆五斗、せり五十把、栗芋五斗、ぬか七十俵、明俵二千俵、真藤十六把、しゅろの皮千五百枚、たにし二斗、大根千五百本、牛蒡五十本、鳥の羽二万五千羽、あら芋二十貫目、はい木あさから百五十本、あさのみ五合、なたまめ五百、たぶのみ二石、よくいにん二斗」

とあり、ふと島原藩の苛斂誅求の見本のような、

「百姓共は毎年、米・大麦・小麦を以て一般租税を払ったが、その上更に二つの布Nono又は籠Cangaを納めねばならなかった。更に、煙草の木一本につき、冥加(冥加金)としてその葉の半分を取られたが、これは常に極上で最大の葉が選ばれた。もし上記の規定の品物のそろわぬ場合には、殿に対し二様の賦課を受けねばならなかった。即ち茄子一本に対し実を何箇という類の割り当てのものと、各家ごとに年貢外の何物かを納むべきものとである。しかし、調べの役人が何物も取り上げるものがないと見た時には、山に入って塩釜にたく薪を切らせた。憐れなる農民の血をしぼって、大名の増収を計るのに汲々たる様は、斯くの如くであった。」(ドアルテ・コレア・天草島原一揆報告書)。

という取り立てを思い出した。結局程度問題に思えてくる。幕末、林子平は、各藩の窮乏の原因を、

「藩主と家老が不學無術であれば国家(藩)は貧乏する。貧乏すれば領国中川除普請がおろそかになり、年々夏秋の小洪水にも押し切られ、田畑は水押になって永荒の地が年々に生ずる。これが貧乏の上に収納の不足になる第一である。また橋々の普請もおろそかになり年々の小洪水に落橋する。それゆえ領内数多の橋を一年に二三度ずつも普請をし、そのたびごとに大橋は人夫三四万、小橋は四五千も使役して、その過半は錢で納めさせるので百姓の力が不足して、天候は凶年でなくても田畑は不毛である。これが収納不足になる第二である。この二つのために百姓は苦労して、いつとなく農業を務めぬようになり、貧乏にもなり、あるいは欠落して他国に移る者もあり、あるいは農を捨てて商人に成る者もあり、郡村の人口は減少して田畑はいよいよ荒廃する。これが収納不足になる第三である。収納が不足になれば藩庫が窮乏するので、毛見と称して姦吏を派遣して年貢を責めはた(徴)る。責めはたられれば百姓は姦吏に贈賄して上作をも下作と披露して年貢の減少を計る。これが収納不足になる第四であって、この四つの不納のために藩庫はますます窮して家中諸士の封禄を借り上げるに至るのである。」

としている。結局、倹約によって出るを押さえるか、増税によって入るを増やすかしか手立てのない体制下では、しわ寄せは、いずれにしても、下層へと押し付けられるしかない。

幕藩体制下での農民の生活は、しかし、小前を別にすると、租税の賦課率が同じなのだから、大百姓には有利であり、また都市の商工業者は課税されない。その租税制度は改められることはなく、貧富の格差は拡大しつづけ、そのまま制度そのものの矛盾として、幕末へと至ることになる。

幕藩体制下の農民、ないし農村社会のありようについては、
藤野保『新訂幕藩体制史の研究』http://ppnetwork.seesaa.net/article/470099727.html
渡邊忠司『近世社会と百姓成立』http://ppnetwork.seesaa.net/article/464612794.html
菊池勇夫『近世の飢饉』http://ppnetwork.seesaa.net/article/462848761.html
深谷克己『百姓一揆の歴史的構造』http://ppnetwork.seesaa.net/article/474047471.html
水林彪『封建制の再編と日本的社会の確立』http://ppnetwork.seesaa.net/article/467085403.html
速水融『江戸の農民生活史』http://ppnetwork.seesaa.net/article/482114881.html?1624300693
山本光正『幕末農民生活誌』http://ppnetwork.seesaa.net/article/482424187.html
成松佐恵子『名主文書にみる江戸時代の農村の暮らし』http://ppnetwork.seesaa.net/article/482868152.html?1628622396、でそれぞれ触れた。

参考文献;
児玉幸多『近世農民生活史』(吉川弘文館)

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2021年10月24日

なぞらえる


「なぞらえる」は、

準える、
准える、
擬える、

等々と当てる(広辞苑)。

おとにのみこふればくるしなでしこのはなにさかなんなぞらへてみん(「歌仙家集本家持集(11世紀)」)、

というように、

ある物事を類似のものと比較して、仮にそれとみなす、

つまり、

同類なす、
擬する、
見立てる、

という意味だが、さらに、あくまで思考の中での「類比」から、現実、

ならい従う、

となり、

ことの詞(ことば)につきてなぞらへ試みるに、奈良の御世より広まりたると侍る。赤人・人丸が逢ひ奉れる御世と聞えたり(「今鏡(1170)」)、

まねる、
似せる、

という意味でも使う(広辞苑・デジタル大辞泉・精選版日本国語大辞典)。

今はなほ昔のかたみになずらへて(源氏物語)

なずらえる、

ともいう。

文語で言ふと、

なぞらふ、

で、

なぞらふの母音交替形、

が、

なずらふ、

とある(岩波古語辞典)。また、室町時代頃からヤ行にも活用し、

なぞらゆ、

とも言った(精選版日本国語大辞典)。

中古以来、「なずらえる」「なぞらえる」の両形がある。古辞書では、古くは「なずらう」の形が圧倒的だが、やがて「なぞらう」がふえてくる。しかし、「なぞう(なそう)」という語形が上代にあり、「なぞらう」はこれからの派生語と考えられるので、「なずらう」の方が古いとも断じにくい、

とある(仝上)ように、「なぞらふ」は、

なぞふの延、あとふ、あとらふの類、

とある(大言海)。あるいは、

「逆ふ」から「さからふ」の語形が生じた如く、「なぞふ」から「なそらふ(←なぞらふ→なずらふ)」が生まれたと考えられる、

ともある(小野寛「なそふ考」)。「なぞふ」は、

準ふ、
准ふ、
比ふ、

等々と当て(岩波古語辞典)、奈良時代までは、

うるはしみ吾(あ)が思(も)ふ君はなでしこが花になそへてみれど飽かぬかも(大伴家持)、

と、

なそふ、

と清音であった(仝上)が、平安時代以後は濁音化した(精選版日本国語大辞典)。語源については、

竝配(なみそ)ふの意、

しか見当たらない(大言海)。

ナゾラフがどのようにして成立したのかは未詳。ナゾフと関係があるとすればラフは接尾語的なものということになるが、ラフは平安時代には発達していない。また、ナゾルから作用継続性動詞としてナゾラフが派生したことも考えられるが、ナゾルが現れるのははるかに時代がくだってから、

とある(精選版日本国語大辞典)ように、意味的には、

書いてある文字の上をなすって書く、
そっくり真似をする、

意の「なぞる」から、

なぞる→なぞらふ→なぞゆ→なぞらえる、

といった転訛が連想されるが、無理筋のようだ。

「准」 漢字.gif

(「准」 https://kakijun.jp/page/1017200.htmlより)

「准」(漢音呉音シュン、慣用ジュン)は、

会意兼形声。準は「水+十(集め揃える)+音符隹(スイ ずっしり、落ち着く)」の会意兼形声文字。水を落ち着けて水面を平らにそろえること。水準・平均の意を含む。准はその略字、

とあり(漢字源)、「標准(標準)」の「平らにならす」意と、「准用」「准拠」と「基準となる事柄に比べ合わせる」「拠る」意があり、「准后(ジュゴウ)」と「そのものに次ぐ」意、「平均する意から、同等にそろえて扱う意」の意、「准許」「批准」と「許す」意がある(仝上)。もと、准は、官庁の公文書では、準と区別して、主に、ゆるす、よる意に用いる(角川新字源)とある。別に、

「准」 成り立ち.gif

(「准」 成り立ち https://okjiten.jp/kanji1595.htmlより)

会意兼形声文字です(氵(水)+隼)。「流れる水」の象形と「鳥の象形の下に一(横線)を加え、人が腕にとまらせた狩りに使う鳥」を示す文字(「はやぶさ」の意味)から、はやぶさの形をしている水準器(一定の物体の地面に対する角度を確認する器具)の意味を表し、それが転じて(派生して・新しい意味が分かれ出て)、「なぞらえる(仮にそれとみなす)」を意味する「准」という漢字が成り立ちました。「准」は「準」の略字です、

とあるhttps://okjiten.jp/kanji1595.html

「準」 漢字.gif

(「準」 https://kakijun.jp/page/1381200.htmlより)

「準」(慣用ジュン、漢音呉音シュン、漢音セツ、呉音セチ)は、

会意兼形声。隹(スイ)とは、ずんぐりと下体の太った鳥を描いた象形文字。淮(ジュン)は「水+音符隹」の会意兼形声文字で、水がずっしりと下にたまること。準は「十印(そろえる)+音符淮」で、下に溜まって落ち着いたみずの水面を基準として高低を揃えることを示す、

とあり(漢字源)、水準器の「みずもり」(水面が平らになるものを利用して水平かどうかをはかる)の意。そこから派生して、「準則」のような「尺度」の意、「たいらなさま」の「平準」、よりどころにする、なぞらう意の「準拠」「準用」の意、次ぐもの(主となるものに似ている)意の「準用」の意等々に使う。

「擬」 漢字.gif


「擬」(漢音ギ、呉音キ)は、

会意兼形声。疑は「子+止(あし)+音符矣(人が立ち止まり、振り返る姿)」からなる会意兼形声文字で、子供に心が引かれて足を止めてどうしようかと親が思案するさま。擬は「手+音符疑」で、疑の原義をよく保存する。疑は「ためらう、うたがう」意に傾いた、

とあり(漢字源)、「擬案(案を擬す)」のように「じっと思案する」「おしはかる」意と、「模擬」「擬古」のように「なぞらえる」意もある(仝上・角川新字源)。別に、

「擬」 成り立ち.gif

(「擬」 成り立ち https://okjiten.jp/kanji1783.htmlより)

会意兼形声文字です(扌(手)+疑)。「5本の指のある手」の象形と「十字路の左半分の象形(のちに省略)と人が頭をあげて思いをこらしてじっと立つ象形と角のある牛の象形と立ち止まる足の象形」(「人が分かれ道にたちどまってのろま牛のようになる」の意味)から、「おしはかる」を意味する「擬」という漢字が成り立ちました、

との解釈もあるhttps://okjiten.jp/kanji1783.html

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

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2021年10月25日

そぞろ


「そぞろ」は、

漫ろ、

と当てる(広辞苑)。あるいは、

不覚、

とも当てる(大言海)。その意味の幅は広い。例えば、『太平記』で、ランダムに引っ張っても、

城より打ち出でて、そぞろなる敵ども皆城の中へぞ引き入れける、

では「無関係な」という意味、

そぞろに思ひ沈ませ給ひける御心の遣る方なしに、

は、「何となく」といった意味、

これ程の打ちこみの軍(いくさ)に、そぞろなる前懸けして討死したりとても、さしたる高名ともいはるまじ、

は、「意味のない」といった意味、

そぞろなる長活きして、武運の傾(かたぶ)かんを見んも、老後の恨み、臨終の障(さわ)りともなりぬべければ、

は、「漫然と」といった意味等々といった具合で、意味のつながりが見えにくい。

「そぞろ」は、

すずろの母音交替形、

とあり(岩波古語辞典)、「すずろ」は、やはり、

漫ろ、

と当て、

これという確かな根拠も原因も関係ない、とらえ所のない状態、人の気分や物事の事情にもいう、

とある(仝上)。だから、まずは、

男すずろに陸奥(みち)の国まで惑ひいにけり(伊勢物語)、

と、

何ということもなく、
漫然と、

という意味であり、それとつながって、

人の妻(め)のなる物怨(ゑん)じしてかくれたるを(枕草子)、

と、

これという根拠もなく、
理由もなく、

という意味で使われるのは意味のつながりがある。そこから敷衍すれば、

すずろなる眷属(けぞう)の人をさへ惑は給ひて(源氏物語)、
すずろなる者に、何か多く賜(た)ばむ(大和物語)、

と、

無関係な、
関りのない、

意につながるのも無理ではない。また、「漫然と」の意味と繋がって、

不覚(すずろ)に眼を転(めぐ)らす(遊仙窟鎌倉期点)、

と、

無意識に、
思わず、

という意味もあり得る。そうした、「漫然と」とか「無関係に」という意味からすれば、

うたてある主(ぬし)のみもとに仕うまつりて、すずろなる死(しに)をすべかめるかな(竹取物語)、

と、

思いがけない、
不意に、

という意味も外延につながってくる(岩波古語辞典)。

衣(きぬ)などにすずろなる名どもを付けけむ、いとあやし(枕草子)、

と、

興趣のない、
面白くない、

意(デジタル大辞泉)は、「関係ない」という意味と関わるし、このほかの、

すずろなる酒のみは衛府司のするわざなりけり(宇津保物語)、

の、

あるべき程度を超えているさま、
むやみ、
やたら、

の意や、

すずろに言ひ散らすは、さばかりの才にはあらぬにやと聞こえ(徒然草)、

思慮のない、
軽率、

の意で使うのは、ある意味で、

意識的でない、
自覚的でない、

という広く括った意味の外延の中に入ると思える。その意味で、「そぞろ」の、

まことに盗人(ぬすびと)もなければ、障子のそぞろに倒れかかりたりけるなりけりと(今昔物語)、

なんということなく、

の意や、

一目見しより恋となり、明け暮れ思ひわづらひて、心もそぞろになり果てて(猿源氏草紙)、

と、

そわそわする、
心ここにない、

意で、その意味では、「無意識」という意味の範囲に入ってくる(岩波古語辞典・広辞苑)。因みに、

漫心(すずろこごろ・そぞろごころ)、

というと、

そわそわと落ち着かない、

意となる(仝上)。

「すずろ」と「そぞろ」は、いずれも上代にはなく、

中古の仮名文では、「すずろ」が「そぞろ」より多く用いられている、

と、平安期に登場した言葉のようである。「すずろ」、その転訛の「そぞろ」の、

すす、
そそ、

については、

スズロは、スズログの意、

「すずろぐ」は、

漫、
不覚、

と当て、

ススは進むの語幹、ロクは動揺の義、進むに通ず、かびろく同趣、

とする(大言海)のが一つの説である。「かびろく」については、

かひろく、

ともあり(岩波古語辞典)、

転、
𦨖、

と当て、

ゆらゆらと揺れ動いて安定を欠く、

意だが(岩波古語辞典)、

カヒロは擬態語。擬態語に接尾語クを添えて動詞化する例に、さわく・とよく・とどろくなどがある(仝上)、

に対して、

揺、
蕩、

と当て、

カビは、頭(カブ)の転(粒、つび、つぶ)、ロクは動揺する意(おどろく、すずろく)。傾(かぶ)くも頭(かぶ)の活用なり。俗に、頭の動くをやっこをふると云ふいなり。カビロクの他動には、カブラカスと云ふ(大言海)、

とあり、是非の判別はつかないが、「すずろ」を、

進む、

からきているという説である。

ものが衝動的に進む意のススル(進)が存した(続上代特殊仮名音義=森重敏)、

も同趣だろう。他には、

すさぶ、

とする説がある(日本語源大辞典)。「すさぶ」http://ppnetwork.seesaa.net/article/473819467.htmlは、前に触れたように、

荒ぶ、
進ぶ、
遊ぶ、

と当て、

おのずと湧いてくる勢いの赴くままにふるまう意。また、気の向くままに何かをする意、

であり、意味の幅は、

勢いのままに盛んに~する、勢いのままに荒れる(「朝露に咲きすさびたるつき草の日くたつなへに、消(け)ぬべく思ほゆ」万葉集)、
気の向くままに~する、興にまかせて~する(「もろともに物など参る。いとはかなげにすさびて」源氏)、
もてあそぶ(「窓近き竹の葉すさぶ風の音にいとど短きうたた寝の夢」新古今)
勢いのままに進みはてて衰える(「雲間なく降りもすさびぬ五月雨筑摩の沼の水草なみよる」堀河百首)

と(岩波古語辞典)、「すずろ」「そぞろ」の、「不覚」の含意とは真逆である。しかも、「すさぶ」は、

進み荒(さ)ぶるの約、

とする(大言海)。「おのずと湧いてくる勢いの赴くままにふるまう」意から考えて、元々は、

すすむ、

の意に、

愈々進む、

の意を持たせたのではあるまいか。とすると、

すすむ→すさむ→すさぶ、

と音韻変化した(日本語源広辞典)と考えられ、さらに

すすむ、

の、

ススは、ススシキホヒ・ススノミのススと同根。おのずと湧いてくる勢いに乗って進行・行動する意、

とする(岩波古語辞典)なら、

おのずと湧いてくる勢いの赴くままにふるまう、

意とほぼ重なるのである。要は、「すずろ」の、

「すさぶ」語源説、

は、

「すすむ」語源説、

とほぼ重なり、いずれも、「すずろ」の「不覚」の意とは真逆なのである。考えてみれば、

てすさび、

という使い方を考えても、「漫然と」「無意識」の意とつながるとは思えない。となると、「すす」は、

気ぜわしく物や体を突き動かす擬態語、
あるいは、
脈絡が断絶している状態を示す擬態語、

とする(日本語源大辞典)のが妥当なのではないか。

貧乏ゆすり、

を考えても、「不覚」「無意識」の動作そのものなのだから。と言って、

意識を離れる意で、「ソラ」と同根(日本語源広辞典)、
ソソ(空空)の義(言元梯)、
ソソロ(空空)義(言元梯)、

は、ちょっと同意しかねる。「そぞろ→すずろ」の転訛ならあり得るが、「すずろ→そぞろ」の転訛なら、「すす」の説明になっていない気がする。

「漫」 漢字.gif

(「漫」 https://kakijun.jp/page/1460200.htmlより)

「漫」(漢音バン、呉音マン)は、

会意兼形声。曼(マン)は「冒の字の上部(かぶせるおおい)+目+又」の会意文字で、ながいベールを目にかぶせたさま。ながい、一面をおおうなどの意を含む。漫は「水+音符曼」で、水が長々と続く、また水が一面におおうなどの意、

とあり(漢字源)、「みちる」「一面を覆う」意だが、「漫談」「冗漫」と、「とりとめがない」意もある。で、水がひろがる、から転じて、とりとめがない意を表す(角川新字源)、とある。別に、

会意兼形声文字です(氵(水)+曼)。「流れる水」の象形と「帽子の象形と目の象形と両手の象形」(目の上下に手をあてて目を切れ長にみせるような化粧のさまから、擬態語として「とおい・長い」の意味)から、「どこまでものびる広い水」、「勝手きまま」を意味する「漫」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji1264.html

「漫」 成り立ち.gif

(「漫」 成り立ち https://okjiten.jp/kanji1264.htmlより)

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

ラベル:そぞろ 漫ろ
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2021年10月26日

苛斂誅求


「苛斂誅求(かれんちゅうきゅう)」は、

租税などをきびしく取り立てる、

意であり(広辞苑)、

苛酷(むご)く収斂(とりた)て、厳しく責め徴(はた)る、

意となる(大言海)が、少し広げて、

むごい取り立て、

の意でも使う(精選版日本国語大辞典)。

苛求、
苛斂、
誅求、

とも言う。

「苛」はむごい、また、責め立てる意。「斂」はおさめる、集める意。「誅」は責める意、

とある(新明解四字熟語辞典)。

左傳(戦国時代)・襄公三十一年に、

誅求無厭、

とあり、旧唐書(945年)・穆宗紀に、

苛斂剥下、人皆咎之、

とあり、新五代史(1053年)・袁象先傳に、

誅斂其民、積貨千万、

とある(大言海・広辞苑)。

苛税、

は、

厳しい取り立て、

だが、

苛求、

というと、

厳しく求める、

意となる(字源)。

ただ、漢和辞書には、

苛斂誅求、

は見当たらず、

「苛斂誅求」と二つ重ねる例は、日本では二〇世紀初めから現れています、

と(四字熟語を知る辞典)、新しい用例のようである。

「苛斂誅求」の類義語に、

頭会箕斂(とうかいきれん)、

がある。「頭会」は、

人数を数える、

意、「箕斂」は、

農具の箕ですくうこと、

で、

人数を数えて、箕ですくうように手当たり次第にかき集める、

という意味になるhttps://yoji.jitenon.jp/yojij/4807.html

また、過酷な税金という意味では、

苛捐酷税(かえんこくぜい)、

という言葉がある(四字熟語を知る辞典)。

「苛」 漢字.gif


「苛」(漢音カ、呉音ガ)は、

会意兼形声。可は「¬印+口」からなり、¬型に曲折してきつい摩擦をおこす、のどをかすらせるなどの意。苛は「艸+音符可」で、のどをひりひりさせる植物。転じてきつい摩擦や刺激を与える行為のこと、

とあり(漢字源)、「からし」の意で、「ひりひりする」「きつい」などの意があり、「苛刻」「苛政」「苛責(呵責)」などと使われる。別に、

形声。艸と、音符可(カ)とから成る。小さい草の意を表す。転じて、せめる、むごい意に用いる、

とも(角川新字源)、

会意形声。「艸」+音符「可」、「可」は直角に曲げ摩擦を起させるの意、摩擦を起しひりひりするからい草が原義、

ともhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E8%8B%9B

会意兼形声文字です(艸+可)。「並び生えた草」の象形と「口と口の奥の象形」(口の奥から大きな声を出すさまから「良い」の意味だが、ここでは、「呵(カ)」に通じ(同じ読みを持つ「呵」と同じ意味を持つようになって)、「大声で責める」の意味)から、「大声で責める」、「厳しくする」を意味する「苛」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji2098.html

「苛」 成り立ち.gif

(「苛」 成り立ち https://okjiten.jp/kanji2098.htmlより)

「斂」(レン)は、

会意兼形声。僉(セン ケン)は、多くの物を壺に寄せ集めたさまを象形文字。のちに「集めるしるし+二つの口+二人の人」の会意文字で示し、寄せ集めることを示す。のち、「みな」の意の副詞に転用された。斂は「攴(動詞の記号)+音符僉」で、引き絞ってあつめること、

とあり(漢字源)、「収斂」というように使う。

「斂」 漢字.gif


「斂」 金文 殷.png

(「斂」 金文・殷 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%96%82より)

「誅」(チュウ)は、

会意兼形声。「言+音符朱(ばっさりと木の株を切る)」で、相手の罪を言明してばっさりと切り殺すこと、

とある(漢字源)。「罪不容誅」(罪誅を容されず)、「誅伐」「筆誅」等々、死刑や、滅ぼす、責めるという意である。
「誅」 漢字.gif

(「誅」 https://kakijun.jp/page/E66E200.htmlより)

別に、

会意形声、「言」+音符「朱」。「朱」はまさかりで木を伐ることを象った指事文字で、「言」を合わせて罪を「せめる」こと、罪をせめて「ころす」こと、

とあるhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E8%AA%85。この方が、意味がクリアな気がする。

「求」(漢音キュウ、呉音グ)は、

象形。求の原字は、頭や手足のついた動物の毛皮を描いたもの。毛皮はからだに引き締めるようにしてまといつけるので、離れたり散ったりしないように、ぐいと引き締めること。裘(キュウ 毛皮)はその原義を残した言葉、

とある(漢字源。)「もとめる」「散らないように引き締める」意で、「求心」「追求」「探求」等々と使う。別に、

象形。かわごろもを腰で締める様子、又は丸めて運ぶこと。「裘」の原字。皮衣をぎゅっとまとめる。「まとめる」ことから、自分の下に引き寄せるなどの意が生じた、

とあるhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%B1%82のが、よく意図がわかる。

「求」 漢字.gif


別に、

象形文字です。「裂いた毛皮」の象形から「皮衣(レザージャケット)」の意味を表しましたが、借りて(同じ読みの部分に当て字として使って)、「もとめる」を意味する「求」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji711.html

「求」 甲骨.png

(「求」 甲骨文字・殷 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%B1%82より)

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
簡野道明『字源』(角川書店)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
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2021年10月27日

宇治の橋姫


「橋姫」は、

橋に祀られていた女性の神、

で(日本伝奇伝説大辞典)、

その信仰から、

橋姫伝説が生まれた、

とある(仝上)。

思案橋(橋を渡るべきか戻るべきか思いあぐねたとされる)、
細語(ささやき)橋(その上に立つとささやき声が聞こえる)、
面影橋(この世のものではない存在が、見え隠れする)、
姿不見(すがたみず)橋(声はすれども姿が見えない)、

等々と言われる伝説の橋には、

橋姫、

が祀られている(日本昔話事典)。「橋」も「峠」と同じく、

信仰の境界であり、ここに外からの災厄を防ぐために、祀られたものらしい(仝上)。主に、

古くからある大きな橋では、橋姫が外敵の侵入を防ぐ橋の守護神として、

祀られているhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A9%8B%E5%A7%AB。「橋姫」信仰は、広く、

水神信仰、

の一つと考えられ、

外敵を防ぐため、橋のたもとに男女二神を祀ったのがその初めではないか、

とある(日本伝奇伝説大辞典)。つまり、

境の神、

としての、

道祖神、
塞(さえ)の神、

の性格を持ち、

避けて通れぬ橋のたもとに橋姫を祀り、敵対者の侵入を阻止し、自分たちの安全を祈った、

ものとみられる(仝上)。

「橋姫」 竜閑斎画『狂歌百物語』より.jpg

(「橋姫」 竜閑斎画『狂歌百物語』より https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A9%8B%E5%A7%ABより)


ただ、水神は女性の神であるので、安産や小児の安全を祈る信仰や習俗と関係し、橋姫の信仰も、

母子神信仰、

の形をとり、橋姫が乳児を抱いてやってきて、たまたま通りかかった者にその乳児を抱かせるという、

産女(うぶめ)伝説、

が各地に残り(仝上)、また、橋姫が、

遠くの橋や沼の神と姉妹であり、旅の者に托して音信を交わしたり、使いの者が危険な目に遭ったり、財宝を授かったり、

という話もあり、また橋姫は嫉妬深いことも、顕著な特徴で、

妬婦伝説、

とつながり(仝上)、

女性の嫉妬に関係した謡を詠うことを禁じたり、婚礼の行列が渡ってはいけない、

という橋も各地にあり、禁を破ると

不幸を招き婚姻が破綻する、

という。これは、

土地の神は一般にほかの土地の噂を嫌うという性格や、土地の信者の競争心などが、橋姫が女神であるために嫉妬深いという説に転化した、

とする説(仝上)と、

「愛らしい」を意味する古語の「愛(は)し」が「橋」に通じ、愛人のことを「愛し姫(はしひめ)」といったことに由来する、

とする説https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A9%8B%E5%A7%ABなどがある。

「橋姫」 鳥山石燕『今昔画図続百鬼』より (2).jpg

(「橋姫」 「社は山城国宇治橋にあり。橋姫はかほかたちいたりて醜し。故に配偶。ひとりやもめなることをうらみ、人の縁辺を妬み給ふと云」 鳥山石燕『今昔画図続百鬼』より)

橋姫伝説、

で知られているのは、

宇治の橋姫伝説、

で、

たまひめ(玉姫)、

とも呼ばれ(大言海)、「宇治の橋姫」は、

嵯峨天皇の代、嫉妬のために宇治川に身を沈めて鬼となり、京中の男女を食い殺した、

という「鬼」と化した橋姫と、

橋を守るという女神、宇治橋の橋姫神社の女神とされ、男神との恋愛説話がある、

という「女神」としての橋姫の、二様の意味が載る(広辞苑)が、「橋姫」は、

多様な伝承と側面、

を持ち、その主なものが、

源綱(渡辺綱)が一条戻橋で遭遇し斬った「嫉妬の鬼」、
宇治橋そばの橋姫神社に祭られている「橋の守り神」、

の二つになるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A9%8B%E5%A7%AB

多く、和歌では、

さむしろに衣かたしき今宵もやわれを待つらん宇治の橋姫(古今和歌集)、
千早ぶる宇治の橋守汝をしそあはれとは思ふ年を経ぬれば(仝上)、
あじろ木にいさよふ波の音ふけてひとりや寝ぬる宇治の橋姫(新古今和歌集)、
はしひめのかたし袖もかたしかで思はざりけりものをこそ思へ(實方集)、
橋姫の朝餉のそでやまがふらむかすみも白き宇治の阿波(新続古今集)、
橋姫の心をくみて高瀬さす棹(さお)のしづくに袖ぞ濡れける(源氏物語)、

等々と詠われており(大言海)、いまでははっきり分からないが、

背後に橋姫に関する伝承が存在した、

ことをうかがわせ(日本伝奇伝説大辞典)、その記載の最古は、平安末期の歌学書『奥義抄』の「さむしろに」の歌の注釈として見え、物語としては室町時代の『御伽草子絵巻』に載り、概略こんな話である。

昔、都を離れ、難波のあたりに住む中将がいた。彼には二人の妻がいて、本妻を宇治の橋姫といい、つわりに苦しんでいた。七色のわかめがほしいと頼むので、海上に漕ぎ出して探し求めるが見つかるはずもなく、日が暮れてきた。で仕方なく、笛を取り出し、青海波という曲を吹くと、急に波風が強くなり、夢路を辿るような気分になった。
三年後、橋姫は行方不明の夫を探して海辺へ行き、灯のともる一軒の家を見つけて案内を乞うと、一人の老尼がいた。その老婆との話の中で、橋姫は、夫の中将が龍王にとらえられてその婿になっていることや、老婆がその龍王の草を預かる者であることを知る。老婆は、中将が今夜この家に来るはずであると告げ、また火にかけた鍋を決して見るなと言いおいて出ていく。橋姫はその戒めを守って待っていると、老婆が帰ってきて、今あなたの夫がくるから、ここからのぞいて見よという。その通りに、ひどくやつれた夫が、みるめ・かぐはなという化け物と一緒にやってきた。中将は、化け物たちの進める盃もとらず、「さむしろに衣かたしき今宵もや我をまつらむ宇治の橋姫」と繰り返し歌う。化け物たちが立ち去った後、二人は久しぶりに対面を果たすが、中将は我身の不幸を嘆き、再会を約して別れていった。夜が明けたので、老婆は、橋姫に道を教えて帰す。
橋姫は、もう一人の妻にこのことを語ると、この妻も老婆の家にやってくるが、見てはならぬという鍋の中をのぞいてしまい、また現れた夫が「さむしろに」と橋姫の歌を詠うので、嫉妬して門の外へ飛び出すと、今まであった家も人もたちまち消えてしまった。このことを聞いた橋姫は、海辺の家のあったところへ行ってみるが、その跡形もなく、秘密を話したことを後悔した、

と(仝上)。『奥義抄』で、「さむしろに」の歌の注釈としてこの話を載せたけれども、物語の中で「さむしろに」の歌が使われているところを見ると、逆に、この歌に付会したものとも見える。もともとは、

男が竜神に愛でられて婿になったが、竜宮の火を忌み、海辺の老婆の家に食事にやってきて、そこで橋姫と会い、物語したあと泣く泣く別れるが、やがて橋姫と再び結ばれる、

という話が(毘沙門堂蔵『古今集註』に引かれる)『山城国風土記』にあり、

本来、宇治という漁業の地に、水死した漁民の妻の悲しみ、世人の妻への同情が橋姫信仰と結びついてうまれたもの、

という説があり(仝上)、

原型は、男女の情愛の美しさを主題とした、この地方の橋姫伝説をもとに作られたもの、

ということになる。

もうひとつの「橋姫」伝説である、

源綱(渡辺綱)が一条戻橋で遭遇し斬った「嫉妬の鬼」、

の話は、『平家物語』の読み本系異本の『源平盛衰記』に載り、

嵯峨天皇の御宇に、或る公卿の娘、余りに嫉妬深うして、貴船の社に詣でて七日籠りて申す様、「帰命頂礼貴船大明神、願はくは七日籠もりたる験には、我を生きながら鬼神に成してたび給へ。妬しと思ひつる女取り殺さん」とぞ祈りける。明神、哀れとや覚しけん、「誠に申す所不便なり。実に鬼になりたくば、姿を改めて宇治の河瀬に行きて三七日漬れ」と示現あり。女房悦びて都に帰り、人なき処にたて籠りて、長なる髪をば五つに分け五つの角にぞ造りける。顔には朱を指し、身には丹を塗り、鉄輪を戴きて三つの足には松を燃やし、続松を拵へて両方に火を付けて口にくはへ、夜更け人定りて後、大和大路へ走り出で、南を指して行きければ、頭より五つの火燃え上り、眉太く、鉄漿黒(かねぐろ)にて、面赤く身も赤ければ、さながら鬼形に異ならずこれを見る人肝魂を失ひ、倒れ臥し、死なずといふ事なかりけり。斯の如くして宇治の河瀬に行きて、三七日漬りければ、貴船の社の計らひにて、生きながら鬼となりぬ。宇治の橋姫とはこれなるべし、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A9%8B%E5%A7%AB。で女は、

さて妬しと思ふ女、そのゆかり、我をすさむ男の親類境界、上下をも撰ばず、男女をも嫌はず、思ふ様にぞ取り失ふ。男を取らんとては女に変じ、女を取らんとては男に変じて人を取る。京中の貴賤、申の時より下になりぬれば、人をも入れず、出づる事もなし。門を閉ぢてぞ侍りける、

という状態となり、渡辺綱が、所用の帰路、

一条堀川の戻橋を渡りける時、東の爪に齢二十余りと見えたる女の、膚は雪の如くにて、誠に姿幽なりけるが、紅梅の打着に守懸け、佩帯(はいたい)の袖に経持ちて、人も具せず、只独り南へ向いてぞ行きける。綱は橋の西の爪を過ぎけるを、はたはたと叩きつつ、「やや、何地へおはする人ぞ。我らは五条わたりに侍り、頻りに夜深けて怖し。送りて給ひなんや」と馴々しげに申しければ、綱は急ぎ馬より飛び下り、「御馬に召され侯へ」と言ひければ、「悦しくこそ」と言ふ間に、綱は近く寄つて女房をかき抱きて馬に打乗らせて堀川の東の爪を南の方へ行きけるに、正親町へ今一二段が程打ちも出でぬ所にて、この女房後へ見向きて申しけるは、「誠には五条わたりにはさしたる用も侯はず。我が住所(すみか)は都の外にて侯ふなり。それ迄送りて給ひなんや」と申しければ、「承り侯ひぬ。何く迄も御座所へ送り進らせ侯ふべし」と言ふを聞きて、やがて厳しかりし姿を変へて、怖しげなる鬼になりて、「いざ、我が行く処は愛宕山ぞ」と言ふままに、綱がもとどりを掴みて提げて、乾の方へぞ飛び行きける。綱は少しも騒がず件の鬚切をさつと抜き、空様に鬼が手をふつと切る。綱は北野の社の廻廊の星の上にどうと落つ。鬼は手を切られながら愛宕へぞ飛び行く、

となる(仝上)。その腕は、

雪の貌に引替へて、黒き事限りなし。白毛隙なく生ひ繁り銀の針を立てたるが如くなり、

という。以後この「鬚切」は、「鬼丸(おにまる)」と呼ばれるようになったとされる(仝上)。綱の時代は嵯峨天皇の御世の200年近く後になる。退治したのが、200年後ということか。

この話の「戻橋」を羅生門に代えたのが、能の「羅生門」になる(日本伝奇伝説大辞典)。「橋姫」の呪いの儀式が、

丑の刻参り、

のルーツとされる、らしい(仝上)。

参考文献;
鳥山石燕『画図百鬼夜行全画集』(角川ソフィア文庫)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
乾克己他編『日本伝奇伝説大辞典』(角川書店)
稲田浩二他編『日本昔話事典』(弘文堂)

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ラベル:宇治の橋姫 橋姫
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2021年10月28日

千鳥足


「千鳥足」は、普通は、

左右の足の踏みどころを違えて歩く千鳥ような足つき、

に喩えて、

酒に酔った人の足取り、

の意で使う(広辞苑・デジタル大辞泉・精選版日本国語大辞典)とあるが、

千鳥は、前三指のみなれば、両足を打ち交へて走り、歩みの乱るるものなれば云ふとぞ、

とあり(大言海)、

路を行くに、右へ片寄り、又、左へ片寄りて歩むこと。又、歩むに両脚を左右に打ちちがへて行くこと、

とある(仝上)。

千鳥.jpg


現に確かめた人は、

基本的にジグザグに歩くの……ですが、……ジグザグにも歩くし、ときどき左右の足を交差させても歩いています。特に、ゆっくり歩くときや方向を変えるときに交差しています、

とありhttps://blog.goo.ne.jp/fagus06/e/d978fc891dd2f9f928eb12167bd1e857

足を打ち交えて歩く、
意と、
歩み方がジグザグ、

の二つの意味があるようである(仝上)。『太平記』に、

この比(ころ)、殊に時を得たる者どもよと覚しき武士の、太き逞しき馬に千鳥足を踏ませ、(中略)五、六十騎が程、野遊びして帰りける、

とあるのは、注(兵藤裕己校注『太平記』)に、

千鳥のように足を交差させた乱れた足並み、

とあり、

足を打ち交えて歩く、

のを、馬の足並みの乱れ、と解釈している。

イカルチドリの足取り.jpg

(イカルチドリの足取り http://diastataxy.jpn.org/siraberu184_tidoriasi.htmlより)

あるいは、

敵五十騎ばかり、われ先に討たんと懸かりけるに、河村(弾正)、千鳥足を踏んで散々に戦ふ(太平記)、

とあるのは、注(兵藤裕己校注『太平記』)に、

千鳥のように細かく足を移動して、

とあるように、細かな足さばきを指すようである。この場合は、乱れというよりも、右に左に細かくかわしながら、と、ただ一人で(徒で)騎乗の多くの敵に対応していると見える。

千鳥掛け、

あるいは、

千鳥縢(かがり)、

という言葉があるが、

紐や糸を交互に斜めに交差させてかがる、

意である。その意味では、「じぐざぐ」よりは「足を打ち交える」の意ではないか、という気がする。もっとも、

しほがれの難波の浦のちとりあし蹈み違へたる路も恥づかし(「新撰六帖(1244頃)」)、

という使い方をみると、「踏み違へ」たのには、ジグザグ歩きもあり得る気がして、どちらとも定めがたい。

「千鳥足」には、もうひとつ、

馬の足並みがはらはらと千鳥の羽音のようであること、

の意がある(広辞苑)が、別に、

馬の足並みが千鳥の飛ぶ姿のようであること、

の意もあり(デジタル大辞泉)、ここでも、

馬の足並みが揃足よりはげしく千鳥の飛ぶ姿のようであること。また、その歩き方。一説に、その馬の足並みの音が千鳥の飛ぶ羽音に似ているところからという(五武器談)、

と(精選版日本国語大辞典)、

羽音、

飛ぶ姿、

の二説がある。しかし、必ず引かれる用例は、入洛する護良(もりよし)親王の行列の、

(護良親王は)侍十一人に諸口を押させ、千鳥足を踏ませて、小路を狭しと歩ませける、

という描写である(太平記)。注には、

馬を悠然と歩ませるさま、

とある(兵藤裕己校注『太平記』)。しかし、

馬の脚並みの、はらはらとして、千鳥の飛ぶ羽音の如くなるを云ふ(五武器談・大言海)、
と、
馬の脚並みの、ばらばらと、千鳥が飛ぶ羽音のように乱れる(岩波古語辞典)、

と、同じ羽音説でも、微妙に含意が異なる。用例が、どの辞書にも、『太平記』の上記を引くところを見ると、他にはあまり用例がないのかもしれない。ただ、護良親王が、馬をばたつかせているとは思えない描写なので、

馬を悠然と歩ませるさま、

の意が適しているとは思うが、しかし、それを、

千鳥足、

というには、千鳥の、

羽音、

の激しい足並み音なのか、

飛ぶ姿、

の群がりゆく姿なのか、いずれとも決めがたいが、

荒々しさ、

を喩えているのには変わりがないように思う。同じ『太平記』に、

千鳥足を踏ませ、

という同じフレーズが、あるときは堂々になり、別には乱れになる、という両義なのは、文脈もあるが、片や、

武士の野遊びの帰り、

片や、

護良親王の入洛の行軍、

との差なのかもしれない。荒々しい馬の脚並みが、片方では、乱れに見え、他方では、鼻息荒く堂々と乗りこなすさまに見える、というような。

千鳥 飛ぶ姿.jpg


その姿で、

ハクサンチドリ、

という、花の付き方が千鳥の飛ぶ姿に似ていることから名付けられた花がある。

ハクサンチドリ (2).jpg


これは明らかに飛ぶ姿に準えているのだが、護良親王のくだりの「千鳥足」は、あるいは、堂々と馬を御している、

人馬一体の姿、

を言っているのかもしれない。なお、歌舞伎の立回りに、

千鳥、

というのがあるが、これは、

主役に一人一人斬ってかかり、左右に代わる代わる入れ替わるもの、

とあり(江戸語大辞典)、「ジグザグ」ではなく「左右に打ち交(ちが)え」の意である。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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2021年10月29日

千鳥


「千鳥」は、その字の通り、

朝狩(あさかり)に五百(いほ)つ鳥立て夕狩に千鳥踏み立て許すことなく追ふごとに(万葉集)、

と、

多くの鳥、

の意である(岩波古語辞典・広辞苑)が、この場合、「千」は、

郡飛する意、

となる(大言海)。別に、

チドリ目チドリ科の総称、

の意があり、この場合、

鵆、
鴴、

とも当てる。

コチドリ.jpg


この「千鳥」の由来は、

数多く群れを成して飛ぶからか、また、鳴き声から(広辞苑)、
交鳥(チガエドリ)の義、飛ぶ状より云ふ、或いは云ふ、鳴く声を名とす。鵆は鴴の異体なり、但し(中国南北朝期(439~589)の漢字字典)『玉篇』には、「鵆、荒鳥」とあり、チドリは國訓(大言海)、
鳴き声から(日本語源=賀茂百樹・音幻論=幸田露伴)、
チ(擬声、チョチョ・チンチン)+鳥。チチと鳴く鳥の意(日本語源広辞典)、

と、鳴き声とする説が多い。他に、

チヂドリ(千々鳥)の義(日本語原学=林甕臣)、
チガヘドリ(交鳥・差鳥)の義(名言通)、

もある。「チガヘ」というのは、「千鳥足」http://ppnetwork.seesaa.net/article/484098057.html?1635363915で触れたように、

路を行くに、右へ片寄り、又、左へ片寄りて歩むこと。又、歩むに両脚を左右に打ちちがへて行く、

こと(大言海)からきているが、

鳴き声をチと聞いて、

しほ山のさしでの磯に住む千鳥君がみ代をばやちよとぞ鳴く(古今集)、

のように、祝賀の意を持たせることがある。後世には、

ちりちり(虎明本狂言「千鳥」)、
チンチン(松の葉・ちんちんぶし)、

と聞きなす、

とある(日本語源大辞典)。「千鳥」の由来は、鳴き声でいいようであるが、今日、僕には、さえずりは、

チ、チ、チ、

と聞こえ。地鳴きは、

ピウ ピウ、

と聞こえるhttps://www.suntory.co.jp/eco/birds/encyclopedia/detail/1523.html

「鵆」 漢字.gif

(「鵆」 https://kakijun.jp/page/E9FB200.htmlより)

古くからなじみの鳥らしく、

淡海の海(み)夕波千鳥 汝(な)が鳴けば心もしのに古(いにしへ)思ほゆ(柿本人麻呂)、
思ひかね妹(いも)がり行けば冬の夜の川風寒み千鳥鳴くなり(紀貫之)、

等々と歌に詠まれてきたが、

和柄や家紋としても、意匠化されてきた。

千鳥柄.png

(千鳥柄 https://iwami-hana.com/chidori-255より)

波に千鳥、

は氷屋の暖簾にまだ見かけるし、

かき氷屋の「波に千鳥」.png

(かき氷屋の「波に千鳥」 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%89%E3%83%AA%E7%A7%91より)

着物の柄にも、例えば、

千鳥格子、

というのがある。

千鳥格子.jpg


「鵆」は、「ちどり」に当てた、国字とある(字源)。「鴴」(コウ)は、

すずめ(荒鳥)、

の意である。これを、

ちどり、

と訓ませ、

鵆、

とつくったものらしい。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

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2021年10月30日

あごえ


「あごえ」は、

けずめ(蹴爪)、

の古名である。ただ、

あごえ(岩波古語辞典・広辞苑)、
あこえ(大言海)、

と、訓みに清濁の差がある。

大(おほ)きなる雄鶏を以て、呼びて己が鶏と為て、鈴、金の距(アコエ)を着けて、競ひて闘は令む(雄略紀)、

と、

距、

と当てる(広辞苑)。奈良時代末の成立の『八十巻華厳経音義』(新訳華厳経音義私記)には、

所拒、安後延(あごえ)、

とある(岩波古語辞典)が、平安後期の漢和辞書『字鏡』(じきょう)には、

距、足角也、阿古江、

和名類聚抄(平安中期)には、

距、鶏雉脛、有岐(また)也、阿古江、

類聚名義抄(11~12世紀)には、

距、アコエ、コユ、

とある(大言海)。

アは足、コエは蹴るの意のコユの名詞形、

とあり(岩波古語辞典・大言海)、

足掻(あしかき)、あがく、

同趣の転訛とみられる(大言海)。「あ」は、

足、

で、

足(あ)の音せず行かむ駒かもが葛飾(かつしか)の真間(まま)の継橋(つぎはし)やまず通はむ(万葉集)、

と使われるが、

足占(あうら)、足結(あゆい)など、多く下に他の語を伴って複合語をつくる、

とある。

足掻く、

などもそれだろう。「こゆ」は、

蹴、

と当て、

越ゆと同根、足の先を上げるのが原義、

とある(大言海)、「越ゆ」は、

コユ(蹴)と同根、目的物との間にある障害物をまたいで、一気に通り過ぎる意、

ともある(岩波古語辞典)が、類聚名義抄(11~12世紀)には、

蹴、化(け)ル、クユ、コユ、

とあり(仝上)、

蹴(く)ゆ、蹴(け)るに同じ、

とある(大言海)。「くゆ(蹴)」は、

けるの古語、

とあり、

くう(蹴)の転(移(うつ)る、ゆつる)、又、転じて、コユとなる(黄金(こがね)、くがね。いづく、いずこ)、

とある(仝上)。「くう(蹴)」は、

クユル、コユルと転じ、口語調に、クヱル、クエルとなり、また約まりて、ケルとなる(大言海)、
クヱル(蹴)の語は、クヱ[k (uw)e]の縮約でける(蹴る)という下一段動詞になった(日本語の語源)、

とある(仝上)。古形、

くゆ、

が、

け(蹴)、

に転じたようだが、

ケ(蹴)の古形コユとクユとが平安時代に混交したものか、

とある(岩波古語辞典)。つまり、

(くう→)くゆ、こゆ→くゆる、こゆる→くゑる、くえる→ける、

といった転訛をしたことになるが、

帯刀どもして蹴させやましと思ひしかと(大鏡)、
殿上人、鞠けさせて御覧ずる(栄花物語)、

などと、

古形くゆ(蹴)の転(岩波古語辞典)、
古音くゑの約(大言海)、

である、

け(蹴)、

で使われる状態があり、「くゆ」からの転訛のどこかで、

く(ゆ)→け、

の転訛があり、「ける(蹴)」へと変化ししやすかったことになる。

「けづめ」は、

蹴爪、
距、

と当てるが、

キジやにわとりなどの脚のやや上部に後ろ向きに生えた鋭い突起、

であり、

ウシ・ウマなどの脚の後方にある小さい趾(あしゆび)で、地にふれないもの、

をも指す(広辞苑)。鳥の場合、

鳥類の趾では、第5趾が完全に退化しており、基本は4本の趾を持つ。第1趾が後方を向く形が多く、これは木の枝を掴む際に好都合な形状をしている、

とありhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%BE_%28%E9%B3%A5%E9%A1%9E%29、第1趾指す。

「距」 漢字.gif


「距」(漢音キョ、呉音ゴ)は、

会意兼形声。巨(キョ)は、I型の定木にとってのついた姿を描いた象形文字で、上下の幅がIの間隔だけあいていること。距は「足+音符巨」で、他の四本の指との間がへだたったけづめ。転じて、両端の間がひろくあいていること、

とある(漢字源)。「距爪(キョソウ)」と、距の意であり、「距離」と隔ての意である。

「距」 成り立ち.gif

(「距」 成り立ち https://okjiten.jp/kanji1143.htmlより)

別に、

形声文字です(足+巨)。「人の胴体の象形と立ち止まる足の象形」(「足」の意味)と「とってのあるさしがね」の象形(「さしがね、大きい」の意味だが、ここでは、「去(キョ)」に通じ(同じ読みを持つ「去」と同じ意味を持つようになって)、「しりぞける」の意味)から、「へだてる」、「距離を置く」を意味する「距」という漢字が成り立ちました、

とする解釈もあるhttps://okjiten.jp/kanji1143.html

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

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ラベル:あごえ
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2021年10月31日

行蔵


『太平記』に、

而(しか)るに今、戦功未だ立たざるに、罪責忽ちに来たる。(中略)今より後、勲業孰(たれ)が為に策(はか)らん。行蔵世に於て軽(かろ)し。綸宣儻(も)し死刑を優(ゆう)せらるれば、永く竹園(皇族)の名を削り、速やかに桑門(僧侶)の客と為らん、

と、流罪に際しての護良親王(もりよししんのう)の御書(おふみ)にある。「行蔵」は、

世に出て道を行うこと隠遁して世に出ないこと、

の意、つまり、

出処進退、

の意である(広辞苑)。

この言葉は、「行蔵は我ニ存す」http://ppnetwork.seesaa.net/article/476090186.html、松浦玲『勝海舟』http://ppnetwork.seesaa.net/article/476090186.html等々で触れたが、海舟が使った言葉として広く知られる。

海舟が嗣子小鹿を亡くす直前(明治二五年の正月末)、福沢諭吉は、ひそかに脱稿した『痩我慢の説』を、榎本武揚と勝海舟に送り付けた。二人とも反応しなかったので、二月五日付で、諭吉は、再度、

過日呈した瘦我慢の説一冊、いずれ時節を見計い世に公にするつもりだが、事実に間違いや立論の不当のところ「『無御伏蔵』御意見を承って置きたい、

と返事を催促し、尚書として、

草稿は極秘とし、二三の親友以外には見せていない、

と断った。榎本は、

昨今別而多忙に付、其中愚見可申述候、

と躱したが、海舟は、

行蔵は我ニ存す、毀誉は他人之主張、我に与らず我に関せずと存候、

と有名な返事を書き、尚書についても、

各人へ御示御座候とも毛頭異存無之候

と突き放した。

「行蔵」の出典は、『論語』述而篇、

用之則行、舎之則蔵(之を用うれば則ち行い、之を舎(す)つれ則ち蔵(かく)る)、

とされる(字源)。有名な、

暴虎馮河、

の出てくる節である。すなわち、

子謂顏淵曰、用之則行、舍之則藏。唯我與爾有是夫。子路曰、子行三軍、則誰與。子曰、暴虎馮河、死而無悔者、吾不與也。必也臨事而懼、好謀而成者也(子、顏淵に謂いて曰く、之を用うれば則ち行ない、之を舎つれば則ち藏る。唯我と爾と是有るかな。子路曰く、子、三軍を行なわば、則ち誰と與(とも)にかせん。子曰く、暴虎馮河し、死して悔いなき者は、吾與にせざる也。必ずや事に臨みて事懼(おそ)れ、謀を好みて成さん者也)、

と。「暴虎馮河」とは、

何も武器を持たずに虎と組み討ちをし、大河を歩いて渡る、無謀な冒険の典型、

の意(貝塚茂樹)である。

「暴」は「搏」に同じで、打つ、なぐる意。「馮」は川などを徒歩で渡る意、

とある(新明解四字熟語辞典)。この「河」は、元来は中国の黄河をさす。要は、

血気にはやって向こう見ずなことをすること、

である。ぼくの中では、西郷の、

命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、仕末に困るもの也。この仕末に困る人ならでは、艱難を共にして国家の大業は成し得られぬなり、

という言葉が重なる。勿論、いい意味でではない。ある意味、鳥羽伏見も、博打のようなものだ。かろうじて(江戸焼き討ちという)テロの論理が、常識人の幕府側を乗せた。

それはさておき、「行蔵」は、ときどき使われるが、頻度は多くなく、用例に出るのは、上記『太平記』と、

去来不失候。可謂識行蔵(経国集(827)・詠燕)、

である(精選版日本国語大辞典)。存外に、

重い含意、

と見た。たとえば、『太平記』に、

三朝礼儀の明堂、云(ここ)に捨てて、野干(やかん 狐)尸(かばね)を争ふ地と為り、八宗論談の梵席、永く絶えて、鬼神舌を暢ぶる声に替へたり、笑うてかの行蔵を問ふに、何か似たる(所)ぞ。譬へば、猶調達(ちょうだつ 釈迦の従兄弟)が衆を萃(あつ)めて、提羅(だいら 比丘、比丘尼)が供(く)を貪(むさぼ)って利門(りもん 利欲に結びつく道)を開きしが如し、

とある。この「行蔵」は、「行い」だが、ただの「ふるまい」ではなく、「仏道を修める」とか「仏事を行う」という意で使われている。

「行」 漢字.gif


「行」(漢音コウ。ゴウ、呉音ギョウ、唐音アン)は、

象形。十字路を描いたもので、みち、みちをいく、動いて動作する(おこなう)などの意を表す。また、直線をなして進むことから、行列の意ともなる、

とあり(漢字源)、別に、

四方に道が延びる十字路の形にかたどり、人通りの多い道の意を表す。ひいて「ゆく」、転じて「おこなう」意に用いる、

ともある(角川新字源)。「歩行」「走行」「行為」等々、「行は止の反、歩き進む」(字源)意であり、

行有余力則以學文(行ひて余力有らば、則ち以て文を学ぶ)、

であるが(論語)、「徳行」「修行」「勤行」等々のように、和語の「しわざ」「ふるまい」といった含意の、

心にあるを徳と言ひ、之を施すを行といふ

と、単なる行いではない意味を「行」に込めることがある(字源)。

「行」 甲骨文字.png

(「行」 甲骨文字・殷 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E8%A1%8Cより)

「倉」http://ppnetwork.seesaa.net/article/482616330.htmlで触れたように、「蔵(藏)」(漢音ゾウ、呉音ソウ)は

形声。艸は収蔵する作物を示す。臧(ソウ)は「臣+戈(ほこ)+音符爿(ソウ・ショウ)」からなり、武器をもった壮士ふうの臣下。藏は「艸+音符臧」で、臧の原義とは関係がない、

とある(漢字源)。「秘蔵」とか「収蔵」とか「珍蔵」という言葉があり、「物を納めて蓄える」という意味が強いが、特に、

見えぬようにくらへかくしいるる、

意(字源)とあり、世の中から「隠れる」含意がある。別に、

形声文字です(艸+臧)。「並び生えた草」の象形と「矛(ほこ)の象形としっかり見開いた目の象形」(「倉(ソウ)」に通じ(同じ読みを持つ「倉」と同じ意味を持つようになって)、「かくしてしまう」の意味)から、「かくす・かくしてしまう場所」、「くら」を意味する「蔵」という漢字が成り立ちました、

との解釈もあるhttps://okjiten.jp/kanji965.html

「蔵」 漢字.gif

(「蔵」 https://kakijun.jp/page/1522200.htmlより)

参考文献;
貝塚茂樹訳注『論語』(中公文庫)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
簡野道明『字源』(角川書店)
兵藤裕己校注『太平記』(岩波文庫)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

ラベル:行蔵
posted by Toshi at 04:43| Comment(0) | 言葉 | 更新情報をチェックする