2021年10月23日

苛斂誅求


児玉幸多『近世農民生活史』読む。

近世農民生活史.jpg


本書は、当初、

江戸時代の農民生活、

であったが、再刊にあたって、書肆が変わり、「近世農民生活史」となったものだ。歴史的経緯よりは、江戸時代を通して、一貫した、幕藩体制下での農民生活を、

租税制制、
行政制度、
農民の統制、

と、

「農民が働くのは自分自身のためではない。それが封建時代の特徴であった。農民は領主のために、年貢生産のために働くのであって、その生活はその必要な限度に限定される。衣食住その他に関する制限禁止が行われた」

制度的な面に、ほとんどの紙面を割いている。

「農民の生活は、大土地所有者である封建領主およびその家臣らの、全国民の一割ぐらいに相当する人々を支えるために営まれていた。」

のであり、その象徴的な法令は、

「熊本藩で出した法令の中に、百姓は大小によらず牛馬を持たなくてはならない。田畑の耕作にも肥料を取るためにも、年貢の輸送にも必要な牛馬を持つことができない者に対しては、給人より気を付けてやり、また女子などを持っている百姓で、家内仕事に手の足りる者は、その女子を質奉公にでも出して牛馬を持たせる料簡が肝要である、と言っている。質奉公はいうまでもなく身売りすることである。耕作に必要とあれば牛馬に代えて最愛の娘を売ることさえ強要しているのである。」

であり、この法令の出た文化時代(1804~18)と対比して、

「天和二年(1682)の同藩民の人口39万4985人、寛政四年(1792)に53万2174人、同十年53万5543人と増加してきたのが、文化五年(1808)には51万2575人と減少したのに対して、牛馬は天和二年に3万5159頭、寛政四年には6万527頭、文化五年には9万1209頭と激増し、ほとんど一戸に一頭平均を有するに至っている。」

とされるのである。要は、百姓は、武家の食い扶持を稼ぐ手段と見なされている、いうことになる。

それにしても、江戸時代は、菊池勇夫『近世の飢饉』http://ppnetwork.seesaa.net/article/462848761.htmlで触れたように、飢饉の連続で、

「飢饉の年には木の根・草の根を掘り起こし、犬猫牛馬を食い、人の死骸を食い、生きている人を殺して食い、何万何十万という餓死者を出したときでさえも、武士には餓死する者がなかった」

のである。天保の飢饉に、

「新庄藩でも多くの飢人が出て城下町へ行って乞食をする者が多かったが、町家では与えるものもなくなり、ただ追い払うのみで、冷飯の残りや冷汁を与えたのは家中の士ばかり」

だったとあるし、享保十七年(1732)虫害による四国・中国・西国大飢饉のときに、

「福岡藩で大阪から買い求めたり幕府からの融通によって救助のため支出した米は、計13万6千石余であったが、その内訳は家中諸士の翌秋までの扶助米6万石、江戸屋敷家中諸士へ2万3千石、在々町々浦々の至極貧窮の飢人に麦作のできるまでの救として5万3千石で、六割以上は藩士の救済にあてられていた」

とある。

となると、当然租税の取り立ては厳しいものになる。嚴しい貢米検査を経て、とにもかくにも納入できればともかく、未進者、つまり未納者は、悲惨な目に遭った。

「皆済まで庄屋またはそれに代るべき者を人質として抑留するという所もあり、小倉藩では手永手代(大庄屋管轄区域)手代(代官配下)が出張して取り調べ、未進者が数日の延期を願い出て方頭(ほうず 組頭)以下組合(五人組)の者が保証すれば帰宅を許し、さもなければ手錠をかけて庄屋役宅に監禁する。その間に親類組合仲間にて融通がつけば放免されるが、永年未進が続けばそれを償却することは不可能になり、ついに本人が逃走すなわち欠落するようになる。」

あるいは、年貢を未進した場合には、籠舎されるのが普通であったが、

「金沢藩ではまず手鎖をかけて取り逃がさないようにして、のちに禁牢の処分をしている。熊本藩では在中の会所に堀を掘って水をたたえ、中央に柱を立て、未進百姓をそれに縛りつけて苛責した。」

とまである。当人が欠落すれば、その咎が残された組の者、庄屋にも及ぶことになるが、こうした苛斂誅求をみると、かつて、その過酷な取り立てで、島原一揆につながったとされる、島原藩の未進米の過酷な取り立ての、たとえば、

「碩翁聞伝へしハ、丑(うし)(寛永十四年)の秋嶋原領内甚損毛(そんもう)ニて、年貢未進多き故に、代官取立るといへ共、はかく敷不納、(中略)家老の隠居田中宗甫(むねすけ)と云者申けるハ、……自身村々を廻り、水牢を弥強く仕懸、未進の穿鑿を致しける故、……口ノ津村大百姓与三左衛門と云者、未進米三拾俵計りあるをはけしく取立しにより、しはらく指延給り候得と達てことはり申けれとも、宗甫曽て聞いれす、却て与三左衛門か媳を捕へ、水牢に入る、其女懐胎にて殊に産月に中りしかハ、其段を断り、夫を水牢に入かへ給はり候様に願ひけれとも、承引なく懐胎故にこそ幸ひニ思ひ、水牢に入たり、それを難義に思はゝ、未進を納むへしと責む、与三左衛門家財ハ先達て悉く御卸し漸々農具計り残したりしかハ、力なく居たる所に、彼女水牢のうちにて産を悩苦して死す」(嶋原一揆談話)、

という仮借のない取り立てと、ほんの紙一重に過ぎないことを思い知らされる。さらに、本年貢(本途物成)以外の、小物成、運上、冥加等々の様々な雑税は、久留米藩の承応三年(1654)の、郡中蔵入方から納めるものを、

「豊前の内裏まで送り迎え、そのほか領分中の使人足二万二千人、同じく荷物千百疋、縄三千束、藁千七百駄、すぐり藁一万頭、すさ藁五十駄、とまかや三千把、ふきかや千二百駄、小麦藁五百駄、むしろ千九百枚、畳こも千七百枚、竹釘三石、箸七千膳、草ぼうき百七十本、白辛子一石三斗、黒胡麻八斗、芥子八斗、葱冬花二斗五升、いばらの花二斗五升、蓮芋のくき千本、まこも五月節句之用十五把、はゑもぐさ八斗、もみぐさ一斗、ゑもぎ三把、しょうぶ三把、わらしべ五把、色付煤五石、蓮葉三十枚、かうり根粉二斗、土筆五斗、せり五十把、栗芋五斗、ぬか七十俵、明俵二千俵、真藤十六把、しゅろの皮千五百枚、たにし二斗、大根千五百本、牛蒡五十本、鳥の羽二万五千羽、あら芋二十貫目、はい木あさから百五十本、あさのみ五合、なたまめ五百、たぶのみ二石、よくいにん二斗」

とあり、ふと島原藩の苛斂誅求の見本のような、

「百姓共は毎年、米・大麦・小麦を以て一般租税を払ったが、その上更に二つの布Nono又は籠Cangaを納めねばならなかった。更に、煙草の木一本につき、冥加(冥加金)としてその葉の半分を取られたが、これは常に極上で最大の葉が選ばれた。もし上記の規定の品物のそろわぬ場合には、殿に対し二様の賦課を受けねばならなかった。即ち茄子一本に対し実を何箇という類の割り当てのものと、各家ごとに年貢外の何物かを納むべきものとである。しかし、調べの役人が何物も取り上げるものがないと見た時には、山に入って塩釜にたく薪を切らせた。憐れなる農民の血をしぼって、大名の増収を計るのに汲々たる様は、斯くの如くであった。」(ドアルテ・コレア・天草島原一揆報告書)。

という取り立てを思い出した。結局程度問題に思えてくる。幕末、林子平は、各藩の窮乏の原因を、

「藩主と家老が不學無術であれば国家(藩)は貧乏する。貧乏すれば領国中川除普請がおろそかになり、年々夏秋の小洪水にも押し切られ、田畑は水押になって永荒の地が年々に生ずる。これが貧乏の上に収納の不足になる第一である。また橋々の普請もおろそかになり年々の小洪水に落橋する。それゆえ領内数多の橋を一年に二三度ずつも普請をし、そのたびごとに大橋は人夫三四万、小橋は四五千も使役して、その過半は錢で納めさせるので百姓の力が不足して、天候は凶年でなくても田畑は不毛である。これが収納不足になる第二である。この二つのために百姓は苦労して、いつとなく農業を務めぬようになり、貧乏にもなり、あるいは欠落して他国に移る者もあり、あるいは農を捨てて商人に成る者もあり、郡村の人口は減少して田畑はいよいよ荒廃する。これが収納不足になる第三である。収納が不足になれば藩庫が窮乏するので、毛見と称して姦吏を派遣して年貢を責めはた(徴)る。責めはたられれば百姓は姦吏に贈賄して上作をも下作と披露して年貢の減少を計る。これが収納不足になる第四であって、この四つの不納のために藩庫はますます窮して家中諸士の封禄を借り上げるに至るのである。」

としている。結局、倹約によって出るを押さえるか、増税によって入るを増やすかしか手立てのない体制下では、しわ寄せは、いずれにしても、下層へと押し付けられるしかない。

幕藩体制下での農民の生活は、しかし、小前を別にすると、租税の賦課率が同じなのだから、大百姓には有利であり、また都市の商工業者は課税されない。その租税制度は改められることはなく、貧富の格差は拡大しつづけ、そのまま制度そのものの矛盾として、幕末へと至ることになる。

幕藩体制下の農民、ないし農村社会のありようについては、
藤野保『新訂幕藩体制史の研究』http://ppnetwork.seesaa.net/article/470099727.html
渡邊忠司『近世社会と百姓成立』http://ppnetwork.seesaa.net/article/464612794.html
菊池勇夫『近世の飢饉』http://ppnetwork.seesaa.net/article/462848761.html
深谷克己『百姓一揆の歴史的構造』http://ppnetwork.seesaa.net/article/474047471.html
水林彪『封建制の再編と日本的社会の確立』http://ppnetwork.seesaa.net/article/467085403.html
速水融『江戸の農民生活史』http://ppnetwork.seesaa.net/article/482114881.html?1624300693
山本光正『幕末農民生活誌』http://ppnetwork.seesaa.net/article/482424187.html
成松佐恵子『名主文書にみる江戸時代の農村の暮らし』http://ppnetwork.seesaa.net/article/482868152.html?1628622396、でそれぞれ触れた。

参考文献;
児玉幸多『近世農民生活史』(吉川弘文館)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

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