「そぞろ」は、
漫ろ、
と当てる(広辞苑)。あるいは、
不覚、
とも当てる(大言海)。その意味の幅は広い。例えば、『太平記』で、ランダムに引っ張っても、
城より打ち出でて、そぞろなる敵ども皆城の中へぞ引き入れける、
では「無関係な」という意味、
そぞろに思ひ沈ませ給ひける御心の遣る方なしに、
は、「何となく」といった意味、
これ程の打ちこみの軍(いくさ)に、そぞろなる前懸けして討死したりとても、さしたる高名ともいはるまじ、
は、「意味のない」といった意味、
そぞろなる長活きして、武運の傾(かたぶ)かんを見んも、老後の恨み、臨終の障(さわ)りともなりぬべければ、
は、「漫然と」といった意味等々といった具合で、意味のつながりが見えにくい。
「そぞろ」は、
すずろの母音交替形、
とあり(岩波古語辞典)、「すずろ」は、やはり、
漫ろ、
と当て、
これという確かな根拠も原因も関係ない、とらえ所のない状態、人の気分や物事の事情にもいう、
とある(仝上)。だから、まずは、
男すずろに陸奥(みち)の国まで惑ひいにけり(伊勢物語)、
と、
何ということもなく、
漫然と、
という意味であり、それとつながって、
人の妻(め)のなる物怨(ゑん)じしてかくれたるを(枕草子)、
と、
これという根拠もなく、
理由もなく、
という意味で使われるのは意味のつながりがある。そこから敷衍すれば、
すずろなる眷属(けぞう)の人をさへ惑は給ひて(源氏物語)、
すずろなる者に、何か多く賜(た)ばむ(大和物語)、
と、
無関係な、
関りのない、
意につながるのも無理ではない。また、「漫然と」の意味と繋がって、
不覚(すずろ)に眼を転(めぐ)らす(遊仙窟鎌倉期点)、
と、
無意識に、
思わず、
という意味もあり得る。そうした、「漫然と」とか「無関係に」という意味からすれば、
うたてある主(ぬし)のみもとに仕うまつりて、すずろなる死(しに)をすべかめるかな(竹取物語)、
と、
思いがけない、
不意に、
という意味も外延につながってくる(岩波古語辞典)。
衣(きぬ)などにすずろなる名どもを付けけむ、いとあやし(枕草子)、
と、
興趣のない、
面白くない、
意(デジタル大辞泉)は、「関係ない」という意味と関わるし、このほかの、
すずろなる酒のみは衛府司のするわざなりけり(宇津保物語)、
の、
あるべき程度を超えているさま、
むやみ、
やたら、
の意や、
すずろに言ひ散らすは、さばかりの才にはあらぬにやと聞こえ(徒然草)、
思慮のない、
軽率、
の意で使うのは、ある意味で、
意識的でない、
自覚的でない、
という広く括った意味の外延の中に入ると思える。その意味で、「そぞろ」の、
まことに盗人(ぬすびと)もなければ、障子のそぞろに倒れかかりたりけるなりけりと(今昔物語)、
なんということなく、
の意や、
一目見しより恋となり、明け暮れ思ひわづらひて、心もそぞろになり果てて(猿源氏草紙)、
と、
そわそわする、
心ここにない、
意で、その意味では、「無意識」という意味の範囲に入ってくる(岩波古語辞典・広辞苑)。因みに、
漫心(すずろこごろ・そぞろごころ)、
というと、
そわそわと落ち着かない、
意となる(仝上)。
「すずろ」と「そぞろ」は、いずれも上代にはなく、
中古の仮名文では、「すずろ」が「そぞろ」より多く用いられている、
と、平安期に登場した言葉のようである。「すずろ」、その転訛の「そぞろ」の、
すす、
そそ、
については、
スズロは、スズログの意、
「すずろぐ」は、
漫、
不覚、
と当て、
ススは進むの語幹、ロクは動揺の義、進むに通ず、かびろく同趣、
とする(大言海)のが一つの説である。「かびろく」については、
かひろく、
ともあり(岩波古語辞典)、
転、
𦨖、
と当て、
ゆらゆらと揺れ動いて安定を欠く、
意だが(岩波古語辞典)、
カヒロは擬態語。擬態語に接尾語クを添えて動詞化する例に、さわく・とよく・とどろくなどがある(仝上)、
に対して、
揺、
蕩、
と当て、
カビは、頭(カブ)の転(粒、つび、つぶ)、ロクは動揺する意(おどろく、すずろく)。傾(かぶ)くも頭(かぶ)の活用なり。俗に、頭の動くをやっこをふると云ふいなり。カビロクの他動には、カブラカスと云ふ(大言海)、
とあり、是非の判別はつかないが、「すずろ」を、
進む、
からきているという説である。
ものが衝動的に進む意のススル(進)が存した(続上代特殊仮名音義=森重敏)、
も同趣だろう。他には、
すさぶ、
とする説がある(日本語源大辞典)。「すさぶ」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/473819467.html)は、前に触れたように、
荒ぶ、
進ぶ、
遊ぶ、
と当て、
おのずと湧いてくる勢いの赴くままにふるまう意。また、気の向くままに何かをする意、
であり、意味の幅は、
勢いのままに盛んに~する、勢いのままに荒れる(「朝露に咲きすさびたるつき草の日くたつなへに、消(け)ぬべく思ほゆ」万葉集)、
気の向くままに~する、興にまかせて~する(「もろともに物など参る。いとはかなげにすさびて」源氏)、
もてあそぶ(「窓近き竹の葉すさぶ風の音にいとど短きうたた寝の夢」新古今)
勢いのままに進みはてて衰える(「雲間なく降りもすさびぬ五月雨筑摩の沼の水草なみよる」堀河百首)
と(岩波古語辞典)、「すずろ」「そぞろ」の、「不覚」の含意とは真逆である。しかも、「すさぶ」は、
進み荒(さ)ぶるの約、
とする(大言海)。「おのずと湧いてくる勢いの赴くままにふるまう」意から考えて、元々は、
すすむ、
の意に、
愈々進む、
の意を持たせたのではあるまいか。とすると、
すすむ→すさむ→すさぶ、
と音韻変化した(日本語源広辞典)と考えられ、さらに
すすむ、
の、
ススは、ススシキホヒ・ススノミのススと同根。おのずと湧いてくる勢いに乗って進行・行動する意、
とする(岩波古語辞典)なら、
おのずと湧いてくる勢いの赴くままにふるまう、
意とほぼ重なるのである。要は、「すずろ」の、
「すさぶ」語源説、
は、
「すすむ」語源説、
とほぼ重なり、いずれも、「すずろ」の「不覚」の意とは真逆なのである。考えてみれば、
てすさび、
という使い方を考えても、「漫然と」「無意識」の意とつながるとは思えない。となると、「すす」は、
気ぜわしく物や体を突き動かす擬態語、
あるいは、
脈絡が断絶している状態を示す擬態語、
とする(日本語源大辞典)のが妥当なのではないか。
貧乏ゆすり、
を考えても、「不覚」「無意識」の動作そのものなのだから。と言って、
意識を離れる意で、「ソラ」と同根(日本語源広辞典)、
ソソ(空空)の義(言元梯)、
ソソロ(空空)義(言元梯)、
は、ちょっと同意しかねる。「そぞろ→すずろ」の転訛ならあり得るが、「すずろ→そぞろ」の転訛なら、「すす」の説明になっていない気がする。
「漫」(漢音バン、呉音マン)は、
会意兼形声。曼(マン)は「冒の字の上部(かぶせるおおい)+目+又」の会意文字で、ながいベールを目にかぶせたさま。ながい、一面をおおうなどの意を含む。漫は「水+音符曼」で、水が長々と続く、また水が一面におおうなどの意、
とあり(漢字源)、「みちる」「一面を覆う」意だが、「漫談」「冗漫」と、「とりとめがない」意もある。で、水がひろがる、から転じて、とりとめがない意を表す(角川新字源)、とある。別に、
会意兼形声文字です(氵(水)+曼)。「流れる水」の象形と「帽子の象形と目の象形と両手の象形」(目の上下に手をあてて目を切れ長にみせるような化粧のさまから、擬態語として「とおい・長い」の意味)から、「どこまでものびる広い水」、「勝手きまま」を意味する「漫」という漢字が成り立ちました、
ともある(https://okjiten.jp/kanji1264.html)。
(「漫」 成り立ち https://okjiten.jp/kanji1264.htmlより)
参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95