2021年10月27日

宇治の橋姫


「橋姫」は、

橋に祀られていた女性の神、

で(日本伝奇伝説大辞典)、

その信仰から、

橋姫伝説が生まれた、

とある(仝上)。

思案橋(橋を渡るべきか戻るべきか思いあぐねたとされる)、
細語(ささやき)橋(その上に立つとささやき声が聞こえる)、
面影橋(この世のものではない存在が、見え隠れする)、
姿不見(すがたみず)橋(声はすれども姿が見えない)、

等々と言われる伝説の橋には、

橋姫、

が祀られている(日本昔話事典)。「橋」も「峠」と同じく、

信仰の境界であり、ここに外からの災厄を防ぐために、祀られたものらしい(仝上)。主に、

古くからある大きな橋では、橋姫が外敵の侵入を防ぐ橋の守護神として、

祀られているhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A9%8B%E5%A7%AB。「橋姫」信仰は、広く、

水神信仰、

の一つと考えられ、

外敵を防ぐため、橋のたもとに男女二神を祀ったのがその初めではないか、

とある(日本伝奇伝説大辞典)。つまり、

境の神、

としての、

道祖神、
塞(さえ)の神、

の性格を持ち、

避けて通れぬ橋のたもとに橋姫を祀り、敵対者の侵入を阻止し、自分たちの安全を祈った、

ものとみられる(仝上)。

「橋姫」 竜閑斎画『狂歌百物語』より.jpg

(「橋姫」 竜閑斎画『狂歌百物語』より https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A9%8B%E5%A7%ABより)


ただ、水神は女性の神であるので、安産や小児の安全を祈る信仰や習俗と関係し、橋姫の信仰も、

母子神信仰、

の形をとり、橋姫が乳児を抱いてやってきて、たまたま通りかかった者にその乳児を抱かせるという、

産女(うぶめ)伝説、

が各地に残り(仝上)、また、橋姫が、

遠くの橋や沼の神と姉妹であり、旅の者に托して音信を交わしたり、使いの者が危険な目に遭ったり、財宝を授かったり、

という話もあり、また橋姫は嫉妬深いことも、顕著な特徴で、

妬婦伝説、

とつながり(仝上)、

女性の嫉妬に関係した謡を詠うことを禁じたり、婚礼の行列が渡ってはいけない、

という橋も各地にあり、禁を破ると

不幸を招き婚姻が破綻する、

という。これは、

土地の神は一般にほかの土地の噂を嫌うという性格や、土地の信者の競争心などが、橋姫が女神であるために嫉妬深いという説に転化した、

とする説(仝上)と、

「愛らしい」を意味する古語の「愛(は)し」が「橋」に通じ、愛人のことを「愛し姫(はしひめ)」といったことに由来する、

とする説https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A9%8B%E5%A7%ABなどがある。

「橋姫」 鳥山石燕『今昔画図続百鬼』より (2).jpg

(「橋姫」 「社は山城国宇治橋にあり。橋姫はかほかたちいたりて醜し。故に配偶。ひとりやもめなることをうらみ、人の縁辺を妬み給ふと云」 鳥山石燕『今昔画図続百鬼』より)

橋姫伝説、

で知られているのは、

宇治の橋姫伝説、

で、

たまひめ(玉姫)、

とも呼ばれ(大言海)、「宇治の橋姫」は、

嵯峨天皇の代、嫉妬のために宇治川に身を沈めて鬼となり、京中の男女を食い殺した、

という「鬼」と化した橋姫と、

橋を守るという女神、宇治橋の橋姫神社の女神とされ、男神との恋愛説話がある、

という「女神」としての橋姫の、二様の意味が載る(広辞苑)が、「橋姫」は、

多様な伝承と側面、

を持ち、その主なものが、

源綱(渡辺綱)が一条戻橋で遭遇し斬った「嫉妬の鬼」、
宇治橋そばの橋姫神社に祭られている「橋の守り神」、

の二つになるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A9%8B%E5%A7%AB

多く、和歌では、

さむしろに衣かたしき今宵もやわれを待つらん宇治の橋姫(古今和歌集)、
千早ぶる宇治の橋守汝をしそあはれとは思ふ年を経ぬれば(仝上)、
あじろ木にいさよふ波の音ふけてひとりや寝ぬる宇治の橋姫(新古今和歌集)、
はしひめのかたし袖もかたしかで思はざりけりものをこそ思へ(實方集)、
橋姫の朝餉のそでやまがふらむかすみも白き宇治の阿波(新続古今集)、
橋姫の心をくみて高瀬さす棹(さお)のしづくに袖ぞ濡れける(源氏物語)、

等々と詠われており(大言海)、いまでははっきり分からないが、

背後に橋姫に関する伝承が存在した、

ことをうかがわせ(日本伝奇伝説大辞典)、その記載の最古は、平安末期の歌学書『奥義抄』の「さむしろに」の歌の注釈として見え、物語としては室町時代の『御伽草子絵巻』に載り、概略こんな話である。

昔、都を離れ、難波のあたりに住む中将がいた。彼には二人の妻がいて、本妻を宇治の橋姫といい、つわりに苦しんでいた。七色のわかめがほしいと頼むので、海上に漕ぎ出して探し求めるが見つかるはずもなく、日が暮れてきた。で仕方なく、笛を取り出し、青海波という曲を吹くと、急に波風が強くなり、夢路を辿るような気分になった。
三年後、橋姫は行方不明の夫を探して海辺へ行き、灯のともる一軒の家を見つけて案内を乞うと、一人の老尼がいた。その老婆との話の中で、橋姫は、夫の中将が龍王にとらえられてその婿になっていることや、老婆がその龍王の草を預かる者であることを知る。老婆は、中将が今夜この家に来るはずであると告げ、また火にかけた鍋を決して見るなと言いおいて出ていく。橋姫はその戒めを守って待っていると、老婆が帰ってきて、今あなたの夫がくるから、ここからのぞいて見よという。その通りに、ひどくやつれた夫が、みるめ・かぐはなという化け物と一緒にやってきた。中将は、化け物たちの進める盃もとらず、「さむしろに衣かたしき今宵もや我をまつらむ宇治の橋姫」と繰り返し歌う。化け物たちが立ち去った後、二人は久しぶりに対面を果たすが、中将は我身の不幸を嘆き、再会を約して別れていった。夜が明けたので、老婆は、橋姫に道を教えて帰す。
橋姫は、もう一人の妻にこのことを語ると、この妻も老婆の家にやってくるが、見てはならぬという鍋の中をのぞいてしまい、また現れた夫が「さむしろに」と橋姫の歌を詠うので、嫉妬して門の外へ飛び出すと、今まであった家も人もたちまち消えてしまった。このことを聞いた橋姫は、海辺の家のあったところへ行ってみるが、その跡形もなく、秘密を話したことを後悔した、

と(仝上)。『奥義抄』で、「さむしろに」の歌の注釈としてこの話を載せたけれども、物語の中で「さむしろに」の歌が使われているところを見ると、逆に、この歌に付会したものとも見える。もともとは、

男が竜神に愛でられて婿になったが、竜宮の火を忌み、海辺の老婆の家に食事にやってきて、そこで橋姫と会い、物語したあと泣く泣く別れるが、やがて橋姫と再び結ばれる、

という話が(毘沙門堂蔵『古今集註』に引かれる)『山城国風土記』にあり、

本来、宇治という漁業の地に、水死した漁民の妻の悲しみ、世人の妻への同情が橋姫信仰と結びついてうまれたもの、

という説があり(仝上)、

原型は、男女の情愛の美しさを主題とした、この地方の橋姫伝説をもとに作られたもの、

ということになる。

もうひとつの「橋姫」伝説である、

源綱(渡辺綱)が一条戻橋で遭遇し斬った「嫉妬の鬼」、

の話は、『平家物語』の読み本系異本の『源平盛衰記』に載り、

嵯峨天皇の御宇に、或る公卿の娘、余りに嫉妬深うして、貴船の社に詣でて七日籠りて申す様、「帰命頂礼貴船大明神、願はくは七日籠もりたる験には、我を生きながら鬼神に成してたび給へ。妬しと思ひつる女取り殺さん」とぞ祈りける。明神、哀れとや覚しけん、「誠に申す所不便なり。実に鬼になりたくば、姿を改めて宇治の河瀬に行きて三七日漬れ」と示現あり。女房悦びて都に帰り、人なき処にたて籠りて、長なる髪をば五つに分け五つの角にぞ造りける。顔には朱を指し、身には丹を塗り、鉄輪を戴きて三つの足には松を燃やし、続松を拵へて両方に火を付けて口にくはへ、夜更け人定りて後、大和大路へ走り出で、南を指して行きければ、頭より五つの火燃え上り、眉太く、鉄漿黒(かねぐろ)にて、面赤く身も赤ければ、さながら鬼形に異ならずこれを見る人肝魂を失ひ、倒れ臥し、死なずといふ事なかりけり。斯の如くして宇治の河瀬に行きて、三七日漬りければ、貴船の社の計らひにて、生きながら鬼となりぬ。宇治の橋姫とはこれなるべし、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A9%8B%E5%A7%AB。で女は、

さて妬しと思ふ女、そのゆかり、我をすさむ男の親類境界、上下をも撰ばず、男女をも嫌はず、思ふ様にぞ取り失ふ。男を取らんとては女に変じ、女を取らんとては男に変じて人を取る。京中の貴賤、申の時より下になりぬれば、人をも入れず、出づる事もなし。門を閉ぢてぞ侍りける、

という状態となり、渡辺綱が、所用の帰路、

一条堀川の戻橋を渡りける時、東の爪に齢二十余りと見えたる女の、膚は雪の如くにて、誠に姿幽なりけるが、紅梅の打着に守懸け、佩帯(はいたい)の袖に経持ちて、人も具せず、只独り南へ向いてぞ行きける。綱は橋の西の爪を過ぎけるを、はたはたと叩きつつ、「やや、何地へおはする人ぞ。我らは五条わたりに侍り、頻りに夜深けて怖し。送りて給ひなんや」と馴々しげに申しければ、綱は急ぎ馬より飛び下り、「御馬に召され侯へ」と言ひければ、「悦しくこそ」と言ふ間に、綱は近く寄つて女房をかき抱きて馬に打乗らせて堀川の東の爪を南の方へ行きけるに、正親町へ今一二段が程打ちも出でぬ所にて、この女房後へ見向きて申しけるは、「誠には五条わたりにはさしたる用も侯はず。我が住所(すみか)は都の外にて侯ふなり。それ迄送りて給ひなんや」と申しければ、「承り侯ひぬ。何く迄も御座所へ送り進らせ侯ふべし」と言ふを聞きて、やがて厳しかりし姿を変へて、怖しげなる鬼になりて、「いざ、我が行く処は愛宕山ぞ」と言ふままに、綱がもとどりを掴みて提げて、乾の方へぞ飛び行きける。綱は少しも騒がず件の鬚切をさつと抜き、空様に鬼が手をふつと切る。綱は北野の社の廻廊の星の上にどうと落つ。鬼は手を切られながら愛宕へぞ飛び行く、

となる(仝上)。その腕は、

雪の貌に引替へて、黒き事限りなし。白毛隙なく生ひ繁り銀の針を立てたるが如くなり、

という。以後この「鬚切」は、「鬼丸(おにまる)」と呼ばれるようになったとされる(仝上)。綱の時代は嵯峨天皇の御世の200年近く後になる。退治したのが、200年後ということか。

この話の「戻橋」を羅生門に代えたのが、能の「羅生門」になる(日本伝奇伝説大辞典)。「橋姫」の呪いの儀式が、

丑の刻参り、

のルーツとされる、らしい(仝上)。

参考文献;
鳥山石燕『画図百鬼夜行全画集』(角川ソフィア文庫)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
乾克己他編『日本伝奇伝説大辞典』(角川書店)
稲田浩二他編『日本昔話事典』(弘文堂)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

ラベル:宇治の橋姫 橋姫
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