2021年11月01日

おおわらわ


「おおわらわ」は、

大童、

と当てる(広辞苑)。

髪の髻(もとどり)がとけてばらばらになった姿、

で、

かぶとも落ちて大童(おほわらは)になり給ふ(平治物語)、

と、

子供のかぶろ頭、

に喩えていっている(岩波古語辞典)状態表現であったが、そこから、

なほ弓を強く引かんために、着たる鎧を脱ぎ置いて、脇い立て(わいだて 大鎧の一部。草摺と壺板(どうの右側の合わせ目に当てる防具)から成る)ばかりを大童になり(太平記)、

と、

兜を脱いで乱れ髪で働くさま、

と価値表現へと転じた。今は、その延長で、

力の限り奮闘するさま、

あるいは、

事に臨んでいっしょうけんめいに活動するさま、
夢中になって事をすること、

の意で使い、どちらかというと、

検査のすんだ荷物を大童(オオワラワ)でスーツケースに詰めこんで、

と、

ばたばたとしゃかりきになっている、

といった含意もある(精選版日本国語大辞典)。

室町末期の日葡辞書には、

Vōuaraua

を、
髪はばらばらに解け、着物はしまりなくはだけなどして、身なりの乱れている、

意とした(日本大百科全書)。

もともと、「大童」には、

長季は宇治殿若気也。仍大童まで不加首服云々(「古事談(1212‐15頃)」)、

と、

年長者で理髪をせず、加冠しないままに幼童の風を残している姿、

を意味し(仝上)、また、

元服以前の男子年少者はなにもかぶらず、頂(いただき)を露(あら)わしたままでいた。これを童(わらわ)といい、年齢的には成長していても、加冠の式を経ない者は大童(おおわらわ)と呼んで、一人前とはみなされなかった、

ともある(世界大百科事典)ので、こちらに喩えたともいえる。

「かぶろ」は、

禿、

と当て、

かむろ、

ともいい、この場合は、

子供の髪型、髪の末を切りそろえ、結ばないで垂らしておく、おかっぱのような髪型、

をいい、その場合、

きりかぶろ、

とも言う。

ただ、武士が兜をかむる場合、時代とともに変化があり、

平安時代後期頃までは、髻(もとどり)を頭上に立てたまま用いた。この場合に烏帽子は髻を包むように縮めておき、兜の天辺の穴から出してかむった、

とある。平治物語絵巻などに、

兜の頂上から黒いものが出ているのは髻を包んだ烏帽子の先端が出ている態を描いたもの、

とある(図録日本の甲冑武具事典)。それで、

天辺の穴から外へ突き出した烏帽子に包まれた髻が心棒になって兜がぐらつかない、

という(仝上)。そのため、この天辺の穴は大きく、源平盛衰記などで、

兜を傾けて突進せよ、ただしあまり傾けて天辺射さすな、

などの指示があるのは、この穴に矢を射込まれるためだという。しかし、鎌倉時代頃から、

兜をかむるときには髻を解いて乱髪にしたので、天辺の穴は小さくなり、やがて天辺の穴は換気用、神の座す場所などと意味が変わった、

とある(仝上)。「大童」の用例から見ると、『太平記』は、乱髪で兜をかぶっていたとみられるが、それ以前は、烏帽子も脱いで、まさに乱髪そのものの状態ということになる。

この、「おほわらは」の、

ワラハは、被髪(わらは)にて、童子の髪風なり、大人の被髪なれば、オホと云ふか、

とあり(大言海)、「わらは」は、

被髪、

と当て、

わわら端(ば)の略、額髪の下端などの、わわらに乱れて垂りてある状を云ふ、

とある(大言海)。その髪型から、

被髪(わらは)にてあれば名とす、

として、その髪型のものを、

童、

と当て、

童子(十歳前後)の略、

の意となったもののようである(仝上)。「わわら」は、

わわらば(散乱葉)、

と当てる、

ほつれ乱れた葉、

の意に使い、

わわく、

という動詞は、

ほつれ乱れる、

意である。類聚名義抄(11~12世紀)に、

弊、ヤブル・ツビタリ・ワワケタリ、

とある。「わわく」の「わわ」は、

ほつれる、
乱れる、

という擬態語の可能性がある。

わわくる、
わわし、

は、

騒ぐ、
やかましい、

意である。

「童」 漢字.gif


「童」(慣用ドウ、漢音トウ、呉音スウ)は、

会意兼形声。東(トウ 心棒を突き抜けた袋、太陽が突き抜けてくる方角)はつきぬく意を含む。「里」の部分は、「東+土」。重や動の左側の部分と同じで、土(地面)つきぬくように↓型に動作や重みがること。童は「辛(鋭い刃物)+目+音符東+土」で、刃物で目を突きぬいて盲人にした男のこと、

とあり(漢字源)、「刃物々目を突きぬいて盲人にした奴隷」の意とあり、僕と同類で、「童僕」(男の奴隷や召使)と使うが、「童子」というように「わらべ」の意もある。別に、

形声。意符辛(入れ墨の針。立は省略形)と、音符重(チヨウ)→(トウ)(里は変わった形)とから成る。目の上(ひたい)に入れ墨をされた男子の罪人の意を表す。借りて「わらべ」の意に用いる、

ともあり(角川新字源)、

会意兼形声文字です(辛+目+重)。「入れ墨をする為の針」の象形と「人の目」の象形と「重い袋」の象形から、目の上に入れ墨をされ重い袋を背負わされた「どれい」を意味する「童」という漢字が成り立ちました。転じて(派生して・新しい意味が分かれ出て)、「未成年者(児童)」の意味も表すようになりました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji530.html

「童」成り立ち.gif

(「童」成り立ち https://okjiten.jp/kanji530.htmlより)

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
笠間良彦『図録日本の甲冑武具事典』(柏書房)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
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ラベル:おおわらわ 大童
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2021年11月02日

かむろ


「かむろ」は、「おおわらわ」http://ppnetwork.seesaa.net/article/484158438.html?1635709470で触れたように、

禿、

と当て、本来、

かぶろ、

といい、

子供の髪型、髪の末を切りそろえ、結ばないで垂らしておく、おかっぱのような髪型、

をいい(岩波古語辞典)、その髪型から、

童子(十歳前後)、

の意となったもののようである(仝上)。「かぶろ」が、

バ行音がマ行音と交換した「かむろ」は、室町後期からみえはじめる、

とある(日本語源大辞典)。

かぶろ頭.bmp

(かぶろ(「法然上人絵傳」 精選版日本国語大辞典より)

「かぶろ」は、本来、

カミ(髪)ウロ(粗)の約カムロの転、

とある(岩波古語辞典)ように、

頭(かしら)の髪無くしてかぶろなり(今昔物語)、
碧樹路深うして山禿(かぶろ)ならず(新撰朗詠集)、

等々と、

頭に髪のないさま、

を言い、

剃髪した頭、
はげ頭、
はげ山、

などにいう(仝上)。「禿」の漢字を当てたのは、漢字の意味(はげ)からきている。「頭髪のはげたる意」の「かぶろ」は、

童丱形(かぶろなり はげ山)の略、頭に髪なきは、山に草木なきが如し、

とある(大言海)。和名類聚抄(平安中期)には、

禿、無髪也、加不路、

とある。「かぶろなり」は、他には載らないが、

童丱形(かぶろなり はげ山)の義、童山とも書くも、則ち是れなり、童丱(カブロ)の、髻なく、頂圓きに似たる故に云ふなり、

とある(大言海)。「丱」(カン・ケン)は、あげまき(古代の童子の、頭髪を左右に分けて頭上に巻き上げ、角状に両輪をつくった髪の結い方)の意が転じて、おさない意。で、「丱女」(カンジョ)、「丱童」(カンドウ)、童丱(ドウカン)等々と使う。

天治字鏡(平安中期)には、

禿、加夫呂奈理、色葉字類抄(1177~81)には、

禿、カブロナリ、童山无草木也、

とある。そこで、童の髪型の「かぶろ」は、

童丱、

と当て、

被(かぶり)の転、ひりふ、ひろふ。ちりばふ、ちろぼふ(散)、

とし、

多く、禿(かぶろ)と混じて、当字に、禿の字を記す、

とする(大言海)。しかし、この大言海説は無理がある気がする。「はげ」の意の「カブロ」の項で、

童丱形(かぶろなり はげ山)の義、童山とも書くも、則ち是れなり、童丱(カブロ)の、髻なく、頂圓きに似たる故に云ふなり、

と書いていたところを見ると、もともと、

童丱(カブロ)の、髻なく、頂圓きに似たる、

から「はげ」を「かぶろ」といったのではないのか。だから、

そもそもは、幼児が髪を生やし始める髪置き後、あまり時を経ず、十分に髪が密集していない程度の状態をはげ頭に見なし、その髪型の幼児をも指した、

と見るのが妥当なのではあるまいか(日本語源大辞典)。その後、

「童」を仲介として、ワラハとカブロの連想関係が強まり、次第に広く子供の短めの垂髪およびその髪型の子どもをさすようになった、

とみられる(仝上)。「わらは」については、「大童」http://ppnetwork.seesaa.net/article/484158438.html?1635709470で触れたように、

被髪、

と当て、

わわら端(ば)の略、額髪の下端などの、わわらに乱れて垂りてある状を云ふ、

である(大言海)。因みに、「髪置」とは、

小児がはじめて髪を伸ばす儀式、

を言い、

多くは、三歳に行い、近世、元禄以降、十一月十五日に定まった、

とある(岩波古語辞典)。

東洲斎写楽作「中山富三郎 切禿」.jpg

(東洲斎写楽作「中山富三郎 切禿」 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%BFより)

なお、「かぶろ」は、江戸時代、

遊女の見習いをする少女、

の意でも使う(日本語源大辞典)「廓ことば」である。

遊里で一人前の遊女になるための修業をしている6、7歳から13、14歳までの少女たちのこと。これを過ぎると吉原では振袖新造(ふりそでしんぞう)から番頭新造となり、さらに太夫(たゆう)となった。禿は髪を額のところで切り、残りを肩のあたりまで垂らして切りそろえたので切り禿ともいう。江戸末期の禿の服装は、桃色縮緬(ちりめん)か絖(ぬめ)の無地の表着に花魁(おいらん)の定紋を5か所つけ、帯はビロード、袖は広袖。浮世絵では花かんざしの華麗な服装で描かれている。太夫の道中では、女郎の格によりお伴(とも)の禿も3人、2人、1人の区別があった、

とあり(日本大百科全書)、禿を経ない遊女を、

つき出し、

といった(ブリタニカ国際大百科事典)とあるので、「かぶろ」は、

吉原などの遊所で、大夫、天神など上級の遊女に仕え将来遊女となるための修業をしていた、

のである(仝上)。『江戸花街沿革誌』(1894)に、

七八歳乃至十二三歳の少女後来遊女となるべき者にして遊女に事へ見習するを禿といふ。…禿の称号は吉原のみ用ひ、岡場所などにては豆どん、小職などと云ひ慣はしたり、

とある(仝上)。

「禿」 漢字.gif


「禿」(トク)は、

会意。「禾(まるいあわ)+儿(人の足、人)」で、丸坊主の人を表す、

とあり、「はげ」の意である。かむろ、かぶろと訓ませ、童子の髪型の意で使うのはわが国だけである。

別に、

「禾(粟が丸く穂を垂れるさま→まるい)」+「儿(人)」、

とする説明もあるhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%A6%BF

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

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ラベル:かむろ かぶろ
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2021年11月03日

くらう


飲食する、

意の言葉には、

食う、
食む、
食べる、

等々がある。

「食べる」は、「食う」http://ppnetwork.seesaa.net/article/479896241.html?1612555520で触れたように、

平安時代には、和文脈にクフ、漢文脈にクラフが用いられ、待遇表現としてのタブ(のちにはタブルを経てタベル)も登場する。室町時代には、クラフが軽卑語、クフが平常語となり、タブルも丁寧語としての用法から平常語に近づいていった。江戸時代には、待遇表現としてのメシアガルなどが増加し、現在の用法とかなり近くなった。現在では、上位の者から下位の者が物をいただくの意から転じた「たべる」の方が上品な言い方とされる、

とあり(日本語源大辞典)、「たまふ」http://ppnetwork.seesaa.net/article/479566809.htmlで触れたように、「たまふ」は、

タマフの受動形。のちにタブ(食)に転じる語、

である下二段動詞として、

(飲み物などを)いただく、

の意味に転じたので、

「たべる(たぶ)」はもともと謙譲・丁寧な言い方であった、

のが、敬意がしだいに失われ通常語となったものである。そのため、現代語では、食する意では「食う」がぞんざいで俗語的とされ、一般に「食べる」を用いる(デジタル大辞泉)に至ったためである。

「たまふ」と同義に、

たぶ(賜)、
たうぶ(賜)、

がある。「たぶ」は、

タマフの轉、

であり(岩波古語辞典)、「たうぶ」も、

「たまふ」あるいは「たぶ」の音変化で、主として平安時代に用いた、

とあり、「たぶ」も、

「たまふ」の訛ったもので、

tamafu→tamfu→tambu→tabu

という転訛と思われる(岩波古語辞典)。

「食う」は、「かむ」http://ppnetwork.seesaa.net/article/464032673.htmlで触れたように、

カム(醸)と同根。口中に入れたものを上下の歯で強く挟み砕く意。類義語クフは歯でものをしっかりくわえる意、

であり(岩波古語辞典)、古くは、「醸す」を、

かむ(醸)、

といっていた(大言海)。そして、

カム(噛む)は上下の歯をつよく合わせることで、「噛み砕く」「噛み切る」「噛み締める」などという。カム(噛む)はカム(咬む)に転義して「かみつく。かじる」ことをいう。人畜に大いに咬みついて狂暴性を発揮したためオホカミ(大咬。狼)といってこれをおそれた。また、人に咬みつく毒蛇をカムムシ(咬む虫)と呼んで警戒した。カム(咬む)はハム(咬む)に転音した。(中略)カム(噛む)はカム(嚼む)に転義して食物を噛み砕くことをいう。米を嚼んで酒をつくったことからカム(醸む)の語がうまれた。(中略)カム(嚼む)はカム(食む)に転義した。(中略)カム(食む)は母交(母音交替)[au]をとげてクム・クフ(食ふ)に転音した、

と(日本語の語源)、

カム(噛む)

カム(嚼む)

カム(醸む)

カム(食む)

クム(食む)

クフ(食ふ)、

と、「カム(噛む)」から「カム(醸む)」を経て「クム・クフ(食ふ)」への転訛を、音韻変化から絵解きして見せる。そして、「かむ」は、

「動作そのものを言葉にした語」です。カッと口をあけて歯をあらわす。カ+ムが語源です、

と(日本語源広辞典)、擬態語説を採るものがある。あるいは、

カは、物をかむ時の擬声音(雅語音声考・国語溯原=大矢徹・音幻論=幸田露伴・江戸のかたきを長崎で=楳垣実)、

ともあり(日本語源大辞典)、

かむ行為の擬態語、擬音語、

というのが、オノマトペの多い和語の由来としては、一番妥当に思える。だから、

「噛む」

「醸す」

「食う」

は、殆ど由来を重ねているhttp://ppnetwork.seesaa.net/article/479896241.html?1612555520

「食う」の意味では、上代、

はむ、

が使われていた「はむ」は、「食う」http://ppnetwork.seesaa.net/article/479896241.html?1612555520で触れたように、

食む、
噬む、

と当て(岩波古語辞典)、

歯を活用す(大言海)、
「歯」を動詞化した語。歯をかみ合わせてしっかり物をくわえる意。転じて、物を口に入れて飲み下す意。クフが口に加える意から、食べる意に転じた類(岩波古語辞典)、
歯の動詞化(日本語源広辞典)、
ハは歯の義(国語本義)、
ハフクム(歯含)の義、またハム(歯見)の義(日本語原学=林甕臣)、

とあるように、「はむ」もまた「かむ」とつながっている。

で、「くらう(ふ)」は、

飲食する動作を卑しめて言う語、

で(岩波古語辞典)、

食らう、
喰らう、

等々と当て、

楫取り者のあはれも知らで、おのれ(己)し酒をくらひつれば、早く往なむとて(土佐日記)、

と、

がぶがぶ飲む、
かぶりつく、

といった、

飲む、食うのぞんざいな言い方、

とされ、「食う」と同様、それをメタファに、

生活する、
暮らしを立てる、

意でも使う(広辞苑)。神代紀には、

夫須噉(くらふ)八十木種皆能播生、

とあり、必ずしも貶めた言い方ではないし、字鏡(平安後期頃)には、

喫、囓、久良不、又波牟、

とあり、「くらう」と「はむ」が並んで載っているが、

「土佐日記」「宇治拾遺」「徒然草」などに見られる例では、身分の低いもの(楫取り)が情緒なく粗野に飲食する様子や、動物でも恐怖感を伴うような獣(虎・猫また)が人を食う様子を表し、「日葡辞書」でも「下賤な人や動物についていう」とある。「くふ」に比べて、侮蔑・嫌悪などのマイナス感情を伴う用い方が中世末期には定着していたと考えられる、

とある(日本語源大辞典)。ために、中古仮名文学作品には「くらふ」はほとんどみられない(仝上)が、

漢文訓読では「くふ」より「くらふ」の方が多い。「くらふ」は当時の卑俗語としての用例が影響したと解釈されている、

とある(仝上)。

「くらう」の語源は、

クヒアフル(噛合)の約、咥(くは)ふと通ずるか(半(なかば)、なから。荒廃(あばら)、疎疎(あらら)。意、通ず)。食ふ(くふ、くらふ同趣の活用)も、噛(く)ふより移るなり(大言海)、
ク(口・含)+ラ(開口音)+フ(継続)、口を開けて食べる意(日本語源広辞典)、
クル(牽)の義、ルはラフの反(和訓栞)、
クフ(口触)から、ラは助言(言元梯)、
クチアル(口有)の義(名言通)、

等々があるが、いまひとつピンとこないが、「咥(くは)ふと通ずる」とある「くはふ」は、

銜ふ、
啣ふ、
咥ふ、

等々と当て、

筆の尻をくはへて(源氏物語)、

と、

口または歯で軽くはさんで支えもつ、

意であり(広辞苑)、

クヒ(食)アフ(合)の約(岩波古語辞典)、
クヒアフル(噛合)の約(大言海)、
クは物の中へ入り込む義(国語の語根とその分類=大島正健)、

と、口に入るところを語源としている。確かに、これが一番近いとはいえるのだが。

「食」 漢字.gif


「食」(漢音ショク・呉音ジキ、漢音シ・呉音ジ、漢音呉音イ)は、

会意。「あつめて、ふたをするしるし+穀物を盛ったさま」をあわせたもの。容器に入れて手を加え、柔らかくして食べることを意味する、

とある(漢字源)のは、

象形又は会意。たべものを盛った器「皀」に蓋(「亼」)をする様又は蓋をすること、

https://ja.wiktionary.org/wiki/%E9%A3%9F

象形。容器に食物を盛り(=㿝)、上からふたをしたさま(=亼)にかたどり、食物、ひいて「くう」意を表す、

と(角川新字源)同趣旨になる。

「食」 甲骨文字・殷.png

(「食」 甲骨文字・殷 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E9%A3%9Fより)

「喰」 漢字 .gif


「喰」は、

会意。「口+食」。食の別体として、「くう」という訓をあらわすために作られた日本製漢字、

である(字源・漢字源)。

その動作性を強調した会意文字。国字なので、音読みは本来無いが、「食」の音を当て「木喰(もくじき 僧侶が用いたため呉音読み)」など固有名詞に用いた、

とあるhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%96%B0が、

《康煕字典・備考・丑集・喰》:「《龍龕》音餐。又音孫。」、中国本土においても一部の書物に同系の文字が見られ、字形の衝突が生じている。餐の異体字、

ともある(仝上)。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

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ラベル:くらう
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2021年11月04日

つかねる


「つかねる(つかぬ)」は、

束ねる、

と当てる。

蜷(みな)の腸(わた)か黒し髪をま櫛もちここにかき垂れ取束(とりつかね)挙げても纏(まき)み(万葉集)、

と、

集めて一つにして括る、

つまり、

たばねる、

意で、やはり、

束ねる、

と当てる(広辞苑)。そのメタファで、

三軍をつかねる、

と、

すべてをつかさどる、
総轄する、

意でも使うが、

雖然、貴賤手をつかね、緇素(しそ 僧俗)足をいただく(平家物語)、

と、

手をそろえて一つにする、また、腕をくむ、

意で使い、この場合、

手をつかねる、

は、

手をこまねく、

と同義で使う(精選版日本国語大辞典・広辞苑)ので、

為すべきことなくてありぬ(大言海)、

つまり、

拱手傍観、
あるいは、
袖手傍観、

の含意となる。で、

拱手、
束手、

という言い方もする(仝上)。

「つかねる」の「つか」は、

ツカ(束・柄)と同根(岩波古語辞典)、
握(つか)の活用、
ツカム(掴)と同根(小学館古語大辞典)、
「つかねる(束)」「つかむ(掴)」と同源(精選版日本国語大辞典)、

とあり、「つか」とかかわる。「つか」は、

一にぎり指四本の幅、

で(岩波古語辞典)、

十束(とつか)剣抜きて(古事記)、

などと、

古代の単位で和数詞について「八束(やつか)」「十束(とつか)」などと用いる、

後世は、

君は実盛を大矢とおぼしめし候歟。わづかに十三束こそ仕候へ。……大矢と申ぢゃうの物の、十五束におとってひくは候はず(平家物語)、

などと、

矢の長さの場合だけに用いる。ただし、音読して「そく」という、

とある(精選版日本国語大辞典)。たとえば、

強弓の手足りなりければ、……三人張に、十四束(そく)三伏(みつぶせ)曳きしぼり、真前(まっさき)に進む敵を射けるに(太平記)、

とある場合、

三人がかりで張る強い弓に、十四束三伏の長い矢(束は一握りで、親指を除く四指、伏は指一本の幅)。矢は十二束を標準とした、

と解説がある(兵藤裕己校注『太平記』)。

この「つか」からの喩えで、

少しの間、

の意の、

束の間、

があることは、「つかのま」http://ppnetwork.seesaa.net/article/458802835.htmlで触れた。

「束」 漢字.gif


「束」(漢音ショク、呉音ソク)は、

会意。「木+ᄋ印(たばねるひも)」で、焚き木を集めて、その真ん中にひもを丸く回して束ねることを示す、

とある(漢字源)。「たばねる」や「たば」の意で、「つか」の意で長さの単位にするのはわが国だけの使い方であり、「ほんのひとにぎりの間」という「束の間」も、わが国だけである。

「束」 甲骨文字.png

(「束」 甲骨文字・殷 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%9D%9F

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

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ラベル:つかねる 束ねる
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2021年11月05日

こまねく


「こまねく」は、

拱く、

と当てる。

こまぬくの音変化、

とされ、

左右の手を胸の前で組み合わせる、

意から、

腕を組む、

意へ広がり、転じて、

手をこまねく、

というように、

何もしないで見ている、
傍観する、

意で使われる(広辞苑)。類聚名義抄(11~12世紀)には、

拱、コマヌク、ウダク、イダク、タムダク、

とある。「いだく」は、

抱く、

と当て、

子を抱きつつ下(お)り乗りす(土佐日記)、

と使うが、

うだくの転、

とあり(岩波古語辞典・大言海)、「うだく」は、

熱き胴の柱をうだかして立つ(霊異記)、

と、

むだくの転。ムは身の古形、タクは腕を働かして何かをする意。従って、ムダクは相手の体を両手で抱えて締める意。ウダクは平安時代の漢文訓読体に多くの例があるが、平安女流文学ではイダクだけが使われた、その後、ウダクは亡びてイダクだけが使われるようになった(岩波古語辞典)、

あるいは、

腕纏(ま)くの約と云ふ、転じて、ムダク、イダクともなる(大言海)、

とある(岩波古語辞典)。「むだく」は、古く、万葉集に、

上つ毛野(かみつけ)の安蘇(あそ)の真麻(まそ)群(むら)かき抱(むだ)き寝(ぬ)れどあかぬをあどか我がせむ、

と詠われる。「むだく」は、

拱く、

と当て、

たうだくの転、

であり、

拱く、
手抱く、

と当て、

タはテ(手)の古形。ムダクは身抱くが原義、抱く意、

であり(岩波古語辞典)、

手にて身を抱く、

意である(大言海)。

こう見ると、「いだく」と同様「うだく」も「むだく」も、「抱く」意である。「こまねく」と「抱く」はほぼ同義に使われていたように思える。ただ、「腕組み」は、「たむだく」、つまり手で、「我が身を抱く」という意味に広げられなくもないが。

「こまねく」は、現存する中国最古の字書『説文解字(100年頃)』には、

拱、斂手(手をおさむる)也、

礼記・玉藻篇「垂拱」疏には、

沓(かさぬる)手也、身俯則宜手沓而下垂也、

とあり(大言海)、

拱の字の義(両手をそろえて組むこと)に因りて作れる訓語にて、組貫(くみぬ)くの音轉なるべしと云ふ(蹴(く)ゆ、こゆ。圍(かく)む、かこむ。隈床(くまど)、くみど。籠(かたま)、かたみ)、細取(こまどり)と云ふ語も、組取(くみとり)の転なるべく、木舞(こまひ)も、組結(くみゆひ)の約なるべし、

とする(大言海)ように、「こまねく」は、もともと、

子路拱而立(論語)、

と、

両手の指を組み合わせて敬礼する

意であり、

拱手、

と言えば、

遭先生于道、正立拱手(曲禮)、

と、

両手の指を合わせてこまぬく、人を敬う礼、

であり(字源)、

中国で敬礼の一つ。両手を組み合わせて胸元で上下する、

とあり(広辞苑)、

中国、朝鮮、ベトナム、日本の沖縄地方に残る伝統的な礼儀作法で、もとは「揖(ゆう)」とも呼ばれた。まず左右の人差し指、中指、薬指、小指の4本の指をそろえ、一方の掌をもう一方の手の甲にあてたり、手を折りたたむ。手のひらを自身の身体の内側に向け、左右の親指を合わせ、両手を合わせることで敬意を表す。一般的には、男性は左手で右手を包むようにするが、女性は逆の所作となる。葬儀のような凶事の場合は左右が逆になる、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8B%B1%E6%89%8B

8世紀頃に呉道玄が描いた拱手する孔子像.png

(8世紀頃に呉道玄が描いた拱手する孔子像 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8B%B1%E6%89%8Bより)

ただ、「こまねく」には、わが国で、

天皇授璽綬禅位、……古人大兄、避座逡巡、拱手辞而曰(孝徳即位前紀)、

とあるのを、

両手を腹の上にて組合す、敬礼なり、

とする解釈もある(大言海)。

「こまねく」は、また、

斂手(れんしゅ)、

ともいい、

手を斂(をさ)む、

といい、

世祖曰、貴戚且斂手以避二鮑(後漢書・鮑永傳)、

と、

手を出さず、おそれつつしみて、ほしいままにせず、

の意があり、この意味と関わらせると、「拱手」にも、

天水隴西、拱手自服(後漢書・公孫述傳)、

と、

手を組みゐて、何事もせず、

の意で使われるようになる意味も分かる気がする(字源)。

このためか、「手をこまねく」にも、

両手の指を胸の前で組み合わせて敬礼する中国で行なわれた挨拶の方法、

の意もあるが、日葡辞書(1603~04)には、

腕組みをする、

意が載るので、古くから、

腕組みをする、

意でも使われ、

膝を組み、手を叉(コマヌ)き、忙然として居たりける(「椿説弓張月(1807~11)」)、

と、腕組みしながら、

深く考えこむ、深く考えに沈む、

意でも使われるが、

いつれも手をこまぬき棹だちになりて(「仮名草子・智恵鑑(1660)」)、

と、

手だしをせずにいる、何もしないで見ている、

と、

手をつかねる、

意でも使われてきた(精選版日本国語大辞典)。最近、「手をこまねく」が、

何もせずに傍観している、

意よりも、

準備して待ち構える、

意で解釈される傾向にあるというが、「手をこまぬく」が、

深く考えこむ、

意でも使われてきた経緯を見ると、別段驚くほどの変化ではない気がする。

なお、禅宗での礼法に、

叉手(しゃしゅ・さしゅ)、

という、

左手のこぶしを胸に会うて、右手でおおう(兵藤裕己校注『太平記』)、

とか、

胸の前で、十指と二つの掌を合わせること(デジタル大辞泉・広辞苑)、

といわれるもので、

衆家きたりてたちつらなれば叉手して揖(いっ)すべし(「正法眼蔵(1231~53)」)、

という礼法で、これも、一種の

拱手、

とされる。広く、東アジアで、

貴人をはじめ神仏などへの敬意の所作であり、立った姿勢で両手を胸のまえで重ねるようにして表す、

というものhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%89%E6%89%8Bの系列かと思われる。面白いことに、これにも、

両手を胸の前で重ね合わせる、

意から、

侍者は住持のあとに叉手して行ぞ(「百丈清規抄(1462)」)、

と、

手をこまぬくこと、腕をくむこと、

の意となり、転じて、

手を束(つか)ねて何もしない、

意でも使われる(精選版日本国語大辞典)。「叉手」は、

叉首、

ともいい、「叉手」に準えて、

切妻造の屋根の左右の端に、合掌型に交叉して組んだもの、

をもいう(広辞苑・大言海)。なお、

さすまた(刺股・指叉)、

の「さす」もこの「さす」である(仝上)。「叉手」の「叉」は、

あざふ、

と訓ます。

アザ(交)アフ(合)の約、

とある。

組み合わせる、交叉させる、

意である(岩波古語辞典)。

「拱」 漢字.gif


「拱」(漢音キョウ、呉音ク)は、

会意兼形声。共は、両手をそろえて物をささげるさま。拱は「手+音符共」で、両手をそろえて組むこと。共が「そろえる、いっしょ」の意に転用されたため、拱の字が原義をあらわした、

とある(漢字源)。

「拱」 説文解字.png

(「拱」 説文解字・漢 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%8B%B1より)

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
簡野道明『字源』(角川書店)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
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2021年11月06日

さすまた


「さすまた」は、

刺股、
指股、
刺叉、
指叉、
刺又、
刺俣、

等々と当て(広辞苑・岩波古語辞典)、

江戸時代、罪人を捕らえるのに用いた三つの道具の一つ。木製の長柄の先端に鋭い月型の金具をつけた道具。喉頸にかけて取り押さえる、

とある(広辞苑)。「三道具(みつどうぐ)」とは、江戸期に、犯人逮捕の際などに用いたという長柄(ながえ)の武器で、

寄道具(よりどうぐ)、

ともいい(日本大百科全書)、

突棒(つくぼう)、
刺股(さすまた)、
袖搦(そでがらみ)、

を一組としていう(精選版日本国語大辞典)。関所、番所などに常備したので、

番所の三つ道具、

ともいう(精選版日本国語大辞典)。江戸初期の『四条河原(がわら)遊楽図屏風(びょうぶ)』の歌舞伎の小屋、能楽の小屋の櫓(やぐら 入口)の脇の竹矢来(たけやらい)に沿って立て並べているようすが描かれている(仝上)、とある。

さすまた.bmp

(左から「そでがらみ」「つくぼう」「さすまた」 精選版日本国語大辞典より)

「突棒」(つくぼう)は、

長い柄の先をT字形の鉄製として、鉄釘(てつくぎ)を植えてある武器、

で、室町時代から、『文明(ぶんめい)本節用集』にもみえ、『洛中洛外図屏風』(上杉家本)にも描かれる(日本大百科全書)。

鉄把(てっぱ)、
撞木(しゅもく)、

ともいう(仝上)。

つくぼう.bmp

(つくぼう 精選版日本国語大辞典より)

「袖搦(そでがらみ)」は、

長い柄の先端に、とげの出た鉄叉(てっさ 物を絡みつけるための鉤針(かぎばり)状の鉄鉤)を上下に向けてたくさんつけ、それに続く柄の部分にも、相手が握れないように鉄釘を打ち付け、たもの。頭髪や衣服に絡んで引き倒す武器。柄の長さは7尺5寸(2.3m)、

で(仝上)、

狼牙棒(ろうげぼう)、

という中国の武具に由来するという(仝上)。

そでがらみ.bmp

(そでがらみ 精選版日本国語大辞典より)

「さすまた」は、

杈首叉(さすまた)の義、

とあり(大言海)、「杈首(さす)」は、

叉手、

とも当て、「こまねく」http://ppnetwork.seesaa.net/article/484220493.html?1636055164で触れたように、

両手を胸の前で重ね合わせる、

意であるが、それに準えて、

切妻造の屋根の左右の端に、合掌形に交叉して組んだもの、

をもいう(広辞苑・大言海)。

杈首(さす).jpg

(扠首(さす) デジタル大辞泉より)

二木の上下、両端、上は空を指し、下は開き、千木と搏風(破風)との形をなす、其の叉の上に、棟木を承く。農家の茅葺の丸太合掌を、今も、サスと云ふ。転じて、殿宅の搏風(破風)の名となる、今も、神社の妻飾の搏風を杈首棹(ザヲ)と云ひ、其の中央の束柱を杈首束(さすづか)といふ、

とある(仝上)。この「杈首」には、いまひとつ、

さすまた、

の意があり、

杈首股、

と当てる(仝上)。これが訛って、

さんまた、

といい、

三脵、
三叉、

と当て(広辞苑・大言海)、

高い所に物を懸けるのに用いる、先端がY字形にした棒、

で、

みつまた、
またふり、
またざお、

等々ともいう(仝上)。「叉」は、

あざふ、

と訓ます。

アザ(交)アフ(合)の約、

とある。

組み合わせる、交叉させる、

意である(岩波古語辞典)。

「叉」 漢字.gif

(「叉」 https://kakijun.jp/page/sa03200.htmlより)

「叉」(漢音サ、呉音シャ)は、

象形。手の指の間に物をはさんだ形を描いたもの。Y型をなしていて、物を挟み、または突くものをすべて叉という、

とある(漢字源)。

「指の間に物をはさんだ」象形から、「はさみとる」、「さすまた」を意味する「叉」という漢字が成り立ちました、

も同趣旨https://okjiten.jp/kanji2386.htmlだが、

手の指を組み合わせた形にかたどる。転じて「また」の意を表す(角川新字源)、

は少し含意を異にする。

「叉」 説文解字.png

(「叉」 説文解字・漢 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%8F%89

「杈」(サ、サイ)は、

枝、

の意であるが、それをメタファに、

やす(先端が叉になっている漁具)、

を指し、さらに、

さらい(さらひ)、

と訓ませると、

くまで、

の意となる(字源)。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
簡野道明『字源』(角川書店)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)

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2021年11月07日

吹毛の咎


加之、以吹毛之咎、損土民等(しかのみならず、吹毛の咎を以て、土民らを損ねる)、

とある(貞応元年(1222)の関東御教書)、「吹毛(すいもう)の咎(とが)」とは、

をりふしにつけては、吹毛の咎を争うて、讒を構ふること休む時なし(太平記)、

というように、

取るに足らない欠点、

を咎めだてる意だが、「吹毛」とは、

毛を吹いて疵を求める、

とか、

毛を吹いて過怠の疵を求む、

などという諺の、

毛を吹いて隠れた疵を求める、

つまり、

好んで人の欠点を指摘する、

あるいは、

他人の弱点を暴いて、かえって自分の欠点をさらけ出す、

意から来ていて(故事ことわざの辞典)、

吹毛求疵(すいもうきゅうし)、
吹毛之求(すいもうのもとめ)、
洗垢索瘢(せんこうさくはん)、
披毛求瑕(ひもうきゅうか)、

等々という四文字熟語ともなっている(新明解四字熟語辞典)。出典は、

不吹毛而求小疵、不洗垢而察難知(韓非子)、

とある(故事ことわざの辞典)。

「吹毛(すいもう)」とは、だから、

毛を吹いて隠れた傷をもとめるような、あらさがし、

の意である(広辞苑)。

吹毛の難、

も、

翁が心の中に思ふ事をありのままに申せば、さだめて吹毛の難もおほく侍らん(「筑波問答(1357‐72頃)」)、

と、

取るに足らない欠点を探し出し、非難する、

意となる(仝上)。

ただ、「吹毛」は、文字通り、

毛を吹く、

意であり、

きわめてたやすいことのたとえ、

として、

わけもないこと、

の意でも使う(精選版日本国語大辞典)。そして、

吹きかけた小さな毛をも切る、

意から、

吹毛の剣(けん)、

という言い方をし、

吹毛の剣を提示し、虚空を載断す(太平記)、

と、

鋭利な剣、

の意でも使う。なお、

ほっす(払子)の異名、

としても、「吹毛」を使うらしい(文明本節用集)

「吹」 漢字.gif

(「吹」 https://kakijun.jp/page/0749200.htmlより)

「吹」(スイ)は、

会意。「口+欠(人の体をかがめた形)」。人が体を曲げて口から息を押し出すこと、

とある(漢字源)。別に、

「口」と「欠(あくび)」から構成され、口から息を吐くことを表す(説文)、

ともhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%90%B9

口と、欠(けん)(大きく口を開けたさま)とから成り、大きく息をはく意を表す、

ともある(角川新字源)。

「吹」 甲骨文字.png

(「吹」 甲骨文字・殷 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%90%B9より)

「毛」(慣用モ、漢音ボウ、呉音モウ)は、

象形。細かいけを描いたもので、細く小さい意を含む、

とある(漢字源)。

「毛」 漢字.gif

(「毛」 https://kakijun.jp/page/0465200.htmlより)

別に、

象形文字です。「けの生えている」象形から「け」を意味する「毛」という漢字が成り立ちました、

ともある(角川新字源・https://okjiten.jp/kanji228.html

「毛」 金文.png

(「毛」 金文・西周 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%AF%9Bより)

参考文献;
尚学図書編『故事ことわざの辞典』(小学館)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
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2021年11月08日

澆季


兵藤裕己校注『太平記』を読む。

太平記①(岩波文庫).jpg


本書は、多くの出版されている『太平記』の底本となっている、江戸時代に版行された、いわゆる、

流布本、

ではなく、龍安寺の塔頭西源院に伝わった、

西源院本(せいげんいんぼん)、

を底本としており、古態を伝えるとされる、

玄玖本(げんきゅうぼん)、
神田本、

などの古本系の一つとされる。

この三種の本は、それぞれ旧いかたちを伝えるいっぽうで、独自の改変箇所や誤写・誤脱もあり、古態性という点では、いわば三すくみのような関係にある、

とされる(第四巻・校注者解説)。その中で、「西源院本」は、

応永年間(室町初期)に書写され、大永・天文年間(室町後期)に転写された『太平記』の古写本、

であり、

複数の本文を合成した未整理な(一種の「草案」本のような)箇所が多く、しかも全26巻本しか現存しない、

神田本や、

古本系の本文としては後出性の著しい南部本に近似する箇所の多い、

玄玖本に比べ、

古本系諸本の中で、ときに孤立した本文を持つ。その孤立した本文には西源院本の改変箇所もあるが、しかしその独自本文に、『太平記』の古態をうかがわせる箇所が少なくない、

として、

南北朝・室町期の『太平記』を代表しうるテキスト、

と位置づけている(仝上)。各底本の是非はともかく、いままでの江戸期版行の本とは異なる、古いタイプのものということのようである。

『太平記』は、

全40巻、

だが、古本系は、22巻を欠き、

かなり早い時期に、なんらかの政治的な配慮より削除された、

と見なされ、22巻を持つ本は、古本系の23巻以降を繰り上げている。第一巻は、

後醍醐天皇武臣を亡ぼすべき御企ての事、

と、後醍醐帝の対鎌倉幕府への謀叛露見(1324年)からはじまり、40巻は、二代将軍義詮(よしあきら)の死去に伴い、義満(よしみつ)がまだ幼少なために、将軍補佐の管領職に就いた細川頼之(よりゆき)が上洛する(1367年)、

細川右馬頭西国より上洛の事、

で終わる。「序」に、

蒙竊(ひそか)かに古今(こきん)の変化を探って、安危の所由(しょゆう)を察(み)るに、覆って外(ほか)なきは天の徳なり。明君これに体(てい)して国家を保つ。載せて棄つることなきは地の道なり。良臣これに則って社稷を守る。若しその徳を欠くる則(とき)は、位ありと雖も持たず。

と書き始め、

夏の桀(けつ)、
秦の(宦官)趙高、
唐の安禄山、

を挙げ、

ここを以て、前聖慎んで、法(のり)を将来に垂(た)るることを得たり。後昆(こうこん 後世の人)顧みて誡(いまし)めを既往に取らざらんや。

と書き、40巻は、

中夏無為の代になりて、目出度かりし事どもなり、

と締めくくる。

しかし、義詮が死去した年(1367年)から、南北朝が合一する年(1392)まて、25年ほどある。しかも、九州は実質南朝方の懐良(かねよし)親王の勢力下にあった。ここで締めたのは、『太平記』の

「太平」は、平和を祈願する意味で付けられている、

と言われている意味もあるのかもしれないが、ここまでの、

後醍醐天皇、
足利尊氏、
足利直義(ただよし)、

という、建武中興以降の内乱の第一世代と目される人が、

足利義詮、

の死で、一区切りついた、という意味もあるのかもしれない。それにしても、『太平記』は、宝井其角が、

平家なり太平記には月を見ず、

と、『平家物語』に軍配を上げているが、僕は、『平家物語』の、

祇園精舍の鐘の声、諸行無常の響きあり。娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。奢れる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。猛き者もつひにはほろびぬ、ひとへに風の前の塵に同じ、

の書き出しに一貫する、平家滅亡の物語に比し、『太平記』は、もっと、

猥雑、

で、僕には、キーワードでいうと、本文にもたびたび出てくる、

澆季(ぎょうき)、

という言葉に尽きている、と思う。「澆季」は、

「澆」は軽薄、「季」は末の世(広辞苑)、

の意で、

道徳が衰え、人情が浮薄となった時代、

で、

末世、

の意とある(仝上)。まさに本書の登場人物たちのありさまそのものである。

そもそも始まりは、後醍醐天皇の鎌倉幕府の討幕だが、そこから、建武の中興がわずか二年で崩れ、南北朝が並立していく、その過程で、観応の擾乱で、尊氏、直義の兄弟対立、尊氏、直冬の親子対立が続き、敗者は、今までの立場をかなぐり捨てて、平然と南朝方につく。直義しかり、直冬しかり、それ以降、室町幕府内も、讒言のオンパレードで、政争に負けた武将、大名は、おのが利のために、皆南朝方につこうとする。この、

変節、
裏切り、
謀叛、
返忠、
内応、

止まることなく、また、

父子、
君臣、

相食む状況、さらには、

讒言、
密告、

で次々と人を陥れ、人を蹴落とす。まっとうらしい人物は少ない。確かに、

楠木正成、
楠木正行、

は、珍しい存在だが、しかし、翻って、南朝が正当という根拠は何なのか。ただ、鎌倉時代以後、武家の勢力にすがってよって立ってきた帝位を、代わって足利に頼るか、そうでないかの差に過ぎないように見え、楠木親子の姿勢は、どこか孤立して見える。高師直一族が殺された折(1351年)、本文に、

今の世、聖人去って久しく、梟悪深き事多ければ、仁義の勇者は少なく、血気の勇者はこれ多し、(中略)今、元弘
(1331~34年)以後、君と臣との諍(あらそ)ひに、世の変ずる事、わづか両度に過ぎざるに、天下の人、五度、十度、敵に属(しょく)し、御(み)方になり、心変ぜぬは稀なり。ゆゑに、天下の諍ひ止む時なくして、合戦の雌雄未だ決せず、

とある。それ以降、さらに40年戦いは続くのである。

『太平記』で、もう一つ着目すべきは、

下剋上スル成出者、

という、

下剋上である。

君臣を殺し、子父を殺す、

という言葉も何度も使われる。考えれば、

澆季、

は、室町末期の戦国時代の先取りと言っても構わない。そう考えると、室町時代という時代を通して、安定した政権は少なく、絶えず将軍職を争い、蹴落とし合っている。ある意味では、南北朝期は、

武家同士のガラガラポン

の始まりなのかもしれない。その最後の覇者が、家康ということになる。

太平記⑥(岩波文庫).jpg


なお、
中先代の乱は、鈴木由美『中先代の乱』http://ppnetwork.seesaa.net/article/483640979.html
観応の擾乱は、亀田俊和『観応の擾乱』http://ppnetwork.seesaa.net/article/483718450.html
で触れた。

参考文献;
兵藤裕己校注『太平記(全六冊)』(岩波文庫)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
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2021年11月09日

そうなし


「そう(さう)なし」は、

左右無し、

と当てる(広辞苑)。「左右」は、

とかくの意、

とあり、

この一条殿、さうなく道理の人にておはしましけるを(大鏡)、

と、

とやかく言うまでもない、

の意である(広辞苑・岩波古語辞典)。

サウは左右(とかく)の字の音読なり、

とある(大言海)。「とかく」http://ppnetwork.seesaa.net/article/455357293.htmlは、

左右、
取捨、
兎角、

と当てるが、その「左右」の「サユウ」は、

右の呉音(ユウ)、

とある(仝上)。つまり、「とかく」に当てた「左右」の訓みが、

サユウ→サウ、

と転訛したものということになる。ただ、漢字源では、

呉音ウ、漢音ユウ、

とあるので、呉音そのまま、

サウ、

かもしれない。

「そうなし」は、

とやかく言うまでもない、

の状態表現から、たとえば、

なほこの事さうなくてやまん、いとわろかるべし(枕草子)、

と、

どちらとも決めかねる、

と価値表現へシフトし、

かの太刀はまことに吉き太刀にてありければさうなく(弓と)さし替へてけり(今昔物語)、

と、

ためらわない、

と、より価値表現へと意味を広げた使い方がされているが、これは、

左右なく止まらざりければ、余所へなほ動いて(太平記)、

の、

すぐには、

の意や、

左右なく事行くとも覚えず(仝上)、

と、

たやすく、

という使い方へとつながるように思われる。

「左右(さう)」は、本来、

みぎとひだり(右と左)、

の意味だが、

山のさうより月日の光さやかにさし出て世を照らす(源氏物語)、

と、転じて、

かたわら、

の意となり、「左右(とかく)」の、

とかくのこと、あれこれ、

の意から、

人からもさうに及ばぬ上、和漢ともに人にすぐれ(保元物語)、

と、

とやかく言うこと、

の意となり、それが、

御左右遅しとぞ責めたりける(太平記)、

しらせ、たより、

あるいは、

諸事御左右に随ふべし(庭訓往来)、

と、

指示、命令、

の意に広がり、

軍(いくさ)の左右を待つと見るは僻事か(平治物語)、

と、

(あれやこれやの)どちらに落ち着くかという結果、決定、決着、

の意で使われ、

彼の国見て参れと云ひしに、未だ其の左右をば申さぬか、いかに(古今序注)、

と、

結果・状況についての知らせ、音信、

の意にも使う(広辞苑・岩波古語辞典)。だから、

是非の左右に及ばざる間(太平記)、

と、

よしあしの裁定がなされていない、

という意にまで使う。因みに江戸時代は、

傍より女房が御はじめ申すと、盃手に取り左右するよふな手つきをすれば(明和八年(1771)「遊婦多数寄」)、

と、

合図、

の意で使っている(江戸語大辞典)。

この「左右(そう)」が、「とかく」に当てた、

左右、

の音読みなのだとすると、本来は、

とかく、とやかく言うこと、

とかくの命(おほせ)、指図、

とかくの知らせ、

といった「とかく」の含意を持っていると言える。それは、「そうなし」が、

サウナクは、左右(とかく)の論なくにて、たやすく、言ふまでもなきの意となるなり、此語は、形容詞なれど、サウナク、サウナキとのみ用ゐられて、サウナシ、サウナケレバの形は見えぬやうになり、

と(大言海)、「とかく」の否定の形を持っているのと重なる。

「とかく」は、

指示副詞トカクとの複合語。トはあれ、あのように、の意。カクはこう、このようにの意。状態とか立場・条件などが、あれこれと二つまたはそれ以上あって不確定なさま、

とある(岩波古語辞典)。つまり、

と(副詞・ああ)+かく(副詞・こう)、

であり、

「トカク申すべきにあらず」トカクして出立ち給ふ(竹取物語)、此の二語の間に、他の語を挿みて用ゐること多し。「とニかくニ」「とテモかくテモ」「とニモかくニモ」「とヤかく」「とサマかうサマ」など、その意推して知るべし、

とある(大言海)ように、

とにかく、
とにかくに、
とにもかくにも、

は、

とかく、

に,言葉の語調や言葉を強調する意味で,「に」や「も」を足したというところのようである。「とかく」も、

あれやこれや、

の状態表現から、

どうのこうの、

と価値表現へ転じ、

いずれにせよ、

となり、

ともすれば、

の意へと転じていく。どうやら「そうなし」も「左右」も、「とかく」(あるいは「とにもかくにも」「とにかく」に等々)に置き換えていくと、たとえば、

そうなし→とかくなし、
左右→とかく、

と置き換えても、ある程度意味が重なる。「左右」の読みから、言葉の意味は広がったが「とかく」の意味の幅をそれほどは超えていないようである。

「左」 漢字.gif


「左」(サ)は、

会意。「ひだり手+工(しごと)」で、工作物を右手に添えて支える手、

とある(漢字源)が、工と、ナ(サ)(=ひだり手)とから成り、工具を取るひだり手、ひいて、ひだり側の意を表す。また、左手は右手の働きを助けるので、「たすける」意に用いる(角川新字源)がわかりやすい。

「手」 金文.png

(「手」 金文・西周 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%89%8Bより)

ただ、この字源は、金文時代の説明にはなっているが、甲骨文字を見ると、そのもとになって「手」を示している字があるはずで、その説明がない。「手」は、五本指の手首を描いたもので、この「左手」とは合わない。しかし、

「左」という字は、甲骨文字ではまるで左手を上に上げた形状をしている。甲骨文字の右の字と相反する。金文と小篆の「左」の字は、下に一個の「工」の字を増やしたものである。ここでの工の字は工具と見ることが出来る、

とあるのでhttps://asia-allinone.blogspot.com/2012/07/blog-post_5.html、「手」を簡略化したものとみられる。

「左」 甲骨文字.png

(「左」 甲骨文字・殷 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%B7%A6より)

左 金文 追加.png

(「左」 金文・西周https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%B7%A6より)

「右」(漢音ユウ、呉音ウ)は、

会意兼形声。又は、右手を描いた象形文字。右は、「口+音符又(右手)」で、かばうようにして物を持つ手、つまり右手のこと。その手で口をかばうことを意味する、

とある(漢字源)。

「右」 漢字.gif

(「右」 https://kakijun.jp/page/migi200.htmlより)

別に、

会意形声。口と、又(イウ 𠂇は変わった形。たすける)とから成る。ことばで援助することから、みちびく、「たすける」意を表す。のちに、又・佑(イウ)と区別して、「みぎ」の意に用いる、

とある(角川新字源)。

「右」 甲骨文字.png

(「右」 甲骨文字・殷 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%8F%B3より)

「右」 金文・西周.png

(「右」 金文・西周 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%8F%B3より)

更に、

会意兼形声文字です(口+又)。「右手」の象形(「右手」の意味)と「口」の象形(「祈りの言葉」の意味)から、「神の助け」、「みぎ」を意味する「右」という漢字が成り立ちました、

との解釈もあるhttps://okjiten.jp/kanji118.html

なお、「とにかく」http://ppnetwork.seesaa.net/article/455357293.htmlで「とかく」には触れた。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

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2021年11月10日

参る


「参る」は、

まゐ(参)い(入)るの約、

とあり(岩波古語辞典・広辞苑・大言海)、

「まゐく(参来)」「まゐづ(参出)」「まゐたる(参到)」などと関連して、「まゐ」と「いる」の結合と考えられる、

とある(日本語源大辞典)。「まゐる」の、

マヰは宮廷や神社など多くの人が参集する尊貴な所へ、その一人として行く意。イルは一定の区域の内へ、外から進みこむ意。従ってマヰルは、宮中や神社など尊い所に参入するのが原義、転じて、参上する、差し上げる意、

とある(岩波古語辞典)が、

貴人の居所に入って行くのが原義(日本語源大辞典)、

と、もう少し絞り込んだ見方もある。「まゐ」は、

参ゐ、

と当て、

貴き所へ行き向かふ意を云ふ敬語。常に他の動詞に冠せられて、接頭語の如く用ゐる。罷るの反なり。音便に、まう、

とあり(大言海)、万葉集に、

斯(か)くしてやなほや退(まか)らむ近からぬ道の閒をなづみ参(まゐ)来て(大伴家持)、

と使われているが、

連用形だけが残っていて、活用種類は不明、

とある(岩波古語辞典)が、

終止形が「まう」のワ行上二段活用、

とする説もある(精選版日本国語大辞典)。

「まゐいる」の意味から考えれば、

一日(ひとひ)には千たび参りし東(ひむかし)の大き御門(みかど)を入りかてぬかも(万葉集)、

というような、

参内する、

とか、

御娘の春宮に参り給ふべき御料(宇津保物語)、

と、

入内する、
宮仕えに上がる、

とか、

清水にねむごろに参りつかうまつらましかば(更級日記)、

と、

参詣する、

とか、

二条の后に忍びて参りけるを(伊勢物語)、

と、

(貴人の所へ)参上する、

という、

行くの謙譲語、

としての使い方が原意に沿ったものになる。その意味で、

古き世の一の物と名ある限りは、みなつどひまゐる御賀になむあめる(源氏物語)、

と、

物などが貴人の所へ到来する、

という意で使うのは、人の延長線上にある。さらに、「行く」意の謙譲語として、

我らがやうなる愚痴な者は、合点が参らぬ(狂言・腹立てず)、

という使い方になり、

お宅のほうへ参ります、

等々と使うのも範囲内のことになる。その意味では、

取手、打ちこかして、参ったのと云ふて引込む(狂言・文相撲)、

の、

降参する、

意や、

彼の毒舌には参る、

の、

閉口する、

意や、

さすがにだいぶ参ってきた、

の、

へばる、

意も、

彼女にすっかり参っている、

と、

心を奪われる、

意も(広辞苑)、相手の軍門に降る、という意味では、「行く」の意味の外延に入る、と言えばいえる。また、

此方へ参られよ、

と、「来る」意を、こちらがへりくだって用いることもある。

その意味で、手紙の脇づけに用いる、

不便(ふびん)とおぼしめしやり給ひ候べく候。かしこ。くらさままゐる(御伽草紙・ふくろうの草子)、

という、

~さままゐる、

も、含意は、

みもとに、

で、「行く」という意味を込めているといってよさそうである。

「行く」意の自動詞「参る」が、

「何かを奉仕するために参上する」ところからか、あるいは、「物が参る」のを、それに関与する人物の奉仕する動作として表したところからか、

他動詞化して、

物などを上位者・尊者に勧める意の謙譲語で、その動作を敬う、

意となり(日本語源大辞典)、

親王に馬の頭(かみ)大御酒参る(伊勢物語)、

と、

差し上げる、

意や、

此方を下げて相手を敬うという意味では、

はかばかしう物なども参らぬ積もりにや(源氏物語)、

と、

召しあがる、

という意でも使う(岩波古語辞典)。ある意味で、謙譲は、相手を上げて、自分を下げるのだから、その視点から相手を見れば、尊敬語となるので、

食ふ、飲む、着る、用ゐる、勧めるなどの敬語、

として使うことになる(大言海)。

この「参る」は、

まゐらす、

という形で(下二段活用)、

参らす、
進らす、

と当て、

御手水など参らする中将の君(源氏物語)、
遊びものども参らせよ(大鏡)、

と、

差し上げる、
獻ずる、

意で使うが、これは、

まいる(参)に、使役の助動詞「す」の付いた「さし上げさせる」「奉仕させる」の意の「まいらす」が、その使役される者を表に出さないで、「さし上げる」動作そのものを表わすように変化して一語化した、

とされる(精選版日本国語大辞典)。これは、転じて、

見まゐらすれ、
問ひまゐらせ候、

というように、

~して差し上げる、
お~する、

意で、

動詞の連用形に接続して謙譲の意を添える、

使い方をする(岩波古語辞典)。この、補助動詞としての用法は、

院政時代から「聞こゆ」「奉る」に代わって盛んになった。室町時代には「まらする」「まいする」の形を生じて、謙譲語・丁寧語に用いられたが、あらたまった場面などの謙譲語としては「まいらする」も使用された、

とある(精選版日本国語大辞典)。

「まゐらす」は、中世に、

まらす、

に転じる(岩波古語辞典)。

本来は下二段活用、終止形は「まらす」のはずであるが、室町時代末ごろ連用形に「まらし」の形も現われ、サ行変格活用としても用いられ、終止形も「まらする」が普通となった、

ともある(精選版日本国語大辞典)。この「まらする」は、

現代語の丁寧の助動詞「ます」の祖形にあたる、

とされる(精選版日本国語大辞典)。

おにがまいって、人をくひまらする程に、用心なされひ(狂言・伯母が酒)、
奥山の朴木(ほおのき)よなう、一度はさやになしまらしょ、一度はさやになしまらしょ(「閑吟集(1518)」)、

と、謙譲語や丁寧語として使われるが、室町時代末期には、

本動詞としては接頭語「お」を付けた「おまらす」の方が普通になって、「まらす」はほとんどみられなくなり、もっぱら補助動詞として用いられる。江戸時代に入ると、語形は「まする」さらには「ます」に変化し、謙譲語としての用法はすたれて、丁寧の助動詞として発達する、

とある(精選版日本国語大辞典)。

まゐらす→まらす→まるする→まっする→まする→ます、

といった転訛らしい。

「います」から転じた「ます(在・坐)」や「申(ま)す」から転じた語形と混合、

したとある(広辞苑)。

「参宮松」http://ppnetwork.seesaa.net/article/483915572.html?1634326454で触れたように、「參(参)」(漢音呉音サン・シン、呉音ソン)は、

象形。三つの玉のかんざしをきらめかせた女性の姿を描いたもの。のち彡印(三筋の模様)を加えた參の字となる。入り交じってちらちらする意を含む、

とある(漢字源)。他に、

「參」 漢字.gif


形声。意符晶(厽は変わった形。ひかりかがやく)と、音符㐱(シム)→(サム)とから成る。星座(オリオン座の三つ星)の意を表す。借りて、三(サム みつ)の意に用いる。教育用漢字は省略形の俗字による、

とあり(角川新字源)、さらに、

会意兼形声文字です。「頭上に輝く三星」の象形と「豊かでつややかな髪を持つかんざしを付けた女性の象形」(「密度が高い」の意味)から、「三度(みたび)・加わる・参加する」を意味する「参」という漢字が成り立ちました、

との解釈もあるhttps://okjiten.jp/kanji706.html。いずれにしても、「參」には、「参加」「参政」といった「まじわる」「加わる」、お目にかかる意の「参観」の意はあるが、

神社などに参る、

意や、「降参」の意の、

参る、

という意味はなく、わが国だけの使い方らしい。例えば、

神社にお参りに行く、

意の、

参詣、

は、

王嘉遷于倒獣山、公侯以下咸躬往参詣(晉書・藝術伝)、

というように、

某所に集まり到る、

意とあり(字源)、

参宮、

は、漢語にはない使い方ということになる。

「進」 漢字.gif

(「進」 https://kakijun.jp/page/1170200.htmlより)

「進」(シン)は、

会意。「辶+隹(とり)」で、鳥が飛ぶように前へ進むことをあらわす、

とある(漢字源)が、

会意形声。「辵」+音符「閵」、「閵」は、「躪(躙)」の古形で「踏む・踏みにじる」の意を有する。進退に関して鳥占をした事によるとも(白川静)、

とありhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E9%80%B2

会意文字です(辶(辵)+隹)。「立ち止まる足の象形と十字路の象形」(「行く」の意味)と、「鳥の象形」から、鳥が飛んでいく、「すすむ」を意味する「進」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji414.html

「進」 成り立ち.gif

(「進」 成り立ち https://okjiten.jp/kanji414.htmlより)

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
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2021年11月11日

いかもの


「いかもの」は、

如何物、

と当てると、

如何物食(いかものぐ)い、

の「いかもの」になるし、

嚴物、

と当てると、

嚴物造(づく)り、

の「いかもの」になる。と、一応は区別がつくのだが、どうもそうはいかないようだ。

もともとは、「いかものづくり」は、

嚴物作、
怒物作、
嗔物造、

等々と当てて、

鍬形打ったる甲の緒をしめ、いかものづくりの太刀を佩き(「平治物語(鎌倉初期)」)、

と、

見るからに厳めしく作った太刀、

を指し(岩波古語辞典)、

龍頭の兜の緒をしめ、四尺二寸ありけるいか物作りの太刀に、八尺余りの金(かな)さい棒脇に挟み(太平記)、

では、

金銀の装飾をしていかめしく作った太刀、

と注がある(兵藤裕己校注『太平記』)。

イカモノは、形が大きくて堂々としているもの、

とある(岩波古語辞典)だけでなく、

事々しく、大仰なさま、

をも言っているようである。

南北朝時代ころ大鎧姿.jpg

(南北朝時代ころ大鎧姿(高師直とされている) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%B8%AB%E7%9B%B4より)

「いかめし」は、

厳めし、

と当て、

イカシ(厳)と同根、外に内部のエネルギーが見えるさま、見るからに巨大で、角張り盛んなるさま、

の意である(岩波古語辞典)。

厳見(いかみえ)の約、イカメを活用した語、

とある(大言海)のは、意味は同じである。「いかものづくり」に、

いかにも大仰な、

という含意があるのは、

いかめしげに作った太刀(明解古語辞典)、

という解釈からもうかがえる。大言海は、

富樫記には、鬼物作とあり、古製と、後世の製と、異なりや否やを知らず、姑(しばら)く、貞丈雑記に拠る、

と、その太刀の特徴を詳らかにしないとし、貞丈雑記(江戸後期)の、

いかもの作りの太刀も、銀包みにて、帯取(おびとり)を通す所に、銀の細長輪を七つ入れて、帯取を通すなり一の足、二の足、合わせて、輪十四なり、……鞘には鹿の皮の尻鞘を懸くるなり、一体、慄慄しく、いかつらしく見ゆる故に、いか物作りと云ふ、

という記述に依拠する、としている。

刀①.jpg

(「帯取り」 足金物の鍔側を一の足、次いで二の足と呼ぶ デジタル大辞泉より)

「いかものぐい」は、

常人の食べないものを、わざと食べること、

の意で、

我々にあたへたまへかし、いか物くいにせんとて、口なめずりして(御伽草子「きまん国物語(室町末)」)、

と、

ゲテモノ食い、
悪食(あくじき)、

とも言い(精選版日本国語大辞典)、それをメタファに、

てんぽいか物喰(ものグヒ)に、こむさくろくはおもへど(浮世草子「好色産毛(1695頃)」)、

と、

普通の人が相手にしないような異性を好んで、またはわざと愛する、

意で使い、さらには、

日本人は……思想的に走りを好んで半熟を生噛りにし、イカモノ食ひに舌打ちして得意になる穉(稚)気がある(内田魯庵「読書放浪(1933)」)、

と、

普通の人と違った趣味、または嗜好(しこう)をもつ、

意でも使う(精選版日本国語大辞典)。で、この「いかもの」は、

普通と違っていてどうかと思われるもの、いかがわしいもの、

の意で、その意味で、

本物に似せたまがいもの、にせもの、

の意でも使い、

偽物、

とも当て(広辞苑・精選版日本国語大辞典)、

イカサマモノの略(広辞苑・すらんぐ=暉峻康隆・大言海)、
イカガモノ(如何物)の略(俚言集覧)、
イカ(如何)にモノ(物)をつけた語、いかがと思われる語(上方語源辞典=前田勇)、
「以下者」は江戸時代の大奥女中の中で、将軍夫人に対面できない身分の低い女中のこと。そのような人たちが食べる下等なものという意味からhttps://imidas.jp/idiom/detail/X-05-X-02-2-0002.html

等々あるが、

如何物師、

という言葉があり、これは、

麽物師(イカモノシ)は即ち是を晒して直ちに新衣を作る(松原岩五郎「最暗黒之東京(1893)」)

と、

いかさまし(如何様師)、

の意とある(精選版日本国語大辞典・デジタル大辞泉)。つまりこの「いかもの」は、

いかさまもの、

の意であり、「いかさま」は、

欺罔、

と当て、

いかがわしき情態の意なるか、語彙、イカサマ「人を欺きて、何(いか)さま尤もと承引かしむることに云へり」、イリホガなるべし。いかさま師は、いかさま為(し)なり、イカモノは、イカサマモノの中略なり(つばくらめ、つばめ。きざはし柿、きざがき)、

とある(大言海)。「いりほが」は、

鑿、
入穿、

と当て、

和歌などで、巧み過ぎて嫌味に落ちること、
穿鑿しすぎて的を外すこと、

とある(広辞苑)。いかにも、という感じが過ぎると、いかがわしくなるという意であろうか。

如何様、

は、

磯城島(しきしま)の大和の国にいかさまに思ほしめせか(万葉集)

と、

どのように、

の意や、

何様(いかさま)、事の出来るべきことこそ(保元物語)、

と、

いかにも、
しかり、

という意で使う「いかさま」にも当てる。だから、

いかがなものか、

という解釈が生まれてくると思われる。しかし、「如何物」は、「如何様」を「インチキ」の意の「イカサマ」に当てた当て字と思える。

しかし、やっかいなことに、これで、

如何物、
と、
嚴物、

の区別がついたことにはならないのである。

大言海は、「いかものぐい」に、

嚴物喰い、

と当て、

厳厳(いかいか)しき物喰い、

とし、

慶安、寛文の際に、旗本奴の水野十郎左衛門等、勇侠、殺伐を振舞ひ、其党下の者共も、猛威を示さんと、蚯蚓など食ひし事ある、是なり。柔弱を賤しみ、剛毅を衒ひしなり、江戸時代、剣術の寒稽古に、未明に粥を作り、悪戯に、馬沓(ひづめの裏につけるわら製の履き物)を刻みて、粥の中に投じたるを忍びて食ひしなど云ふこともありき、

とし、俚言集覧の、

いかものぐひ 百物、能毒に拘らず、妄りに食ふことを云ふ、

を引く。ここでは、

嚴物、

如何物、

が区別されていない。

ことごとしさ、

で括っているのだろうか。しかし、江戸語大辞典は、

如何物、

を、

いかさまものの中略とも嗔(いか)めしき物とも、

と両説あるとしながら、

如何物食い、

と、

嚴物作り、

とは区別している。「嚴物作り」とは、

普通以上にいかめしく、仰々しく作ること、

とある。既に、

如何物、

と紛らわしいと言えばいえる。

広辞苑には、

如何物、
如何物食い、

は載るが、「嚴物」は載らない。岩波古語辞典には、

嚴物作り、

は載るが、「如何物」「如何物食い」は載らない。江戸語大辞典には、

如何物、
如何物食い、
嚴物作り、

が載る。江戸時代までは、区別がついていたが、刀が不要になって以降、区別がつかなくなってきたのかもしれない。

太刀を佩いた騎馬武者 .jpg

(太刀を佩いた騎馬武者 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E5%88%80より)

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田勇編『江戸語大辞典 新装版』(講談社)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
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2021年11月12日

澆季


「太平記」http://ppnetwork.seesaa.net/article/484264044.html?1636314250で触れたように、「澆季(ぎょうき)」は、

世、澆季になりぬと云へども、天理も未だありけるにや、

とか、

世すでに澆季に及ぶと云へども、信心まことある時は、

等々と、たびたび使われる。

「澆」は軽薄、「季」は末の世(広辞苑)、

の意で、

道徳が衰え、人情が浮薄となった時代、

で、

末世、

の意とある(仝上)。「澆」は、中国最古(100年頃)の字書『説文解字』(後漢・許慎)に、

澆、薄也、季、末也、

とある(大言海)。

世の末となり、人情軽薄なる時代、

の意である(仝上)

「澆」 漢字.gif


澆は、うすしと訓む。次第に薄くなる義、漓(醇の反、薄い酒。転じて人情世態のうすきに用ふ)に同じ、後漢書「澆醇散樸」、

とある(字源)。「樸」は、「朴」と同じ、「質樸(シツボク)」「純樸(ジュンボク)」「素樸(ソボク)」と使う。

「澆季」を使う熟語に、

澆季溷濁(ぎょうきこんだく)、
澆季之世(ぎょうきのよ)、
澆季末世(ぎょうきまっせ)、

等々がある。いずれも、

思いやりなどの人らしい感情が薄くなり、善悪や正邪の基準がおかしくなって、世の中が乱れること、

であり、まさに、いまの、

いまだけ、金だけ、自分だけ、

の時代そのものでもある。

「澆」(慣用ギョウ、呉音・漢音キョウ)は、

会意兼形声。堯(ギョウ)の原字ば、人が高く荷を担いださま。のち「土三つ(うずたかく盛った土)+人のからだ」を組み合わせたもの。背の高い人、崇高な巨人を示した会意文字(聖天子堯も「高い巨人」の意を踏まえている)。澆は、「水+音符堯」で、高いところから水をふりかけること、

とある(漢字源)。「澆灌(ギョウカン)」と「注ぐ」という意と、「はらはらとふりかける水のようにすくないさま」で、「澆季」「澆薄」と「薄い」意で使う(仝上)。「うすい」意の漢字は、

薄、厚の反、分(ぶ)のうすきなり、総じて徳のうすきにも、薄徳、薄俗などと使う、
菲、野菜の粗末なるものなり、転じて菲薄の義に用ふ、
涼、薄と同じ、涼徳は薄徳に同じ、
漓、醇の反、薄い酒。転じて人情世態のうすきに用ふ、
澆は、うすしと訓む。次第に薄くなる義、漓に同じ、
偸、苟且(こうしょ かりそめ、また、いいかげん)なり、又、薄なり、佻(チョウ 軽い)なり、人情・風俗などの次第に変わりて薄らぐをいう、
淡、あはしと訓む。濃の反なり、色叉は味のうすきなり、

と、使い分けられている(字源)。

「季」 漢字.gif

(「季」 https://kakijun.jp/page/0862200.htmlより)

「季」(キ)は、

会意。「禾(穀物の穂)+子」。麦やあわの実る期間。作物のひと実りする三ヶ月間。収穫する各季節のすえ、禾に子を加えて、すえの子を意味する。のちに広く、末(すえ)の意に用いる、

とある(漢字源)。他に、

会意形声。子と、稚(チ)→(キ)(おさない。禾は省略形)とから成る。末っ子の意を表す。ひいて、おさない意に、また、循環する「とき」の意に用いる、

という解釈(角川新字源)、さらに、

会意文字です(禾+子)。「穀物」の象形と「頭部が大きくて手・足のなよやかな幼児」の象形から、穀物の霊に扮して(装って)舞う年少者を意味し、そこから、「若い・末の子」を意味する「季」という漢字が成り立ちました、

という解釈もあるhttps://okjiten.jp/kanji667.html

参考文献;
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
簡野道明『字源』(角川書店)
田部井文雄編『四字熟語辞典』(大修館書店)

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2021年11月13日

応仁の乱大和篇


呉座勇一『応仁の乱―戦国時代を生んだ大乱』を読む。

応仁の乱 - 戦国時代を生んだ大乱.jpg


本書は、興福寺僧による、

『経覚私要鈔(きょうがくしようしょう)』

『大乗院寺社雑事記(だいじょういんじしゃぞうじき)』

というふたつの日記を中心に、応仁の乱の、

入口(嘉吉の変)と出口(明応の変)だけでなく中味の検証、

をするという。その意味で、日記の筆者である、

経覚(きょうがく)、

尋尊(じんそん)、

という奈良に居住する者の視点で応仁の乱をながめているところがある。確かに、

応仁の乱が勃発した要因は複数あるが、直接の引き金になったのは畠山氏の家督争いである。それは将軍足利義政が畠山問題の解決を通じて内乱を終わらせようと努力していたことからも明らかである。
そして畠山氏の家督争いがこじれにこじれたのは、義政の無定見だけが原因ではない。弥三郎・政長(まさなが)兄弟を一貫して支援し、義就(よしひろ)に徹底的に抗戦した成身院光宣(じょうしんいんこうせん)・筒井順永(つついじゅんえい)の存在が大きい。軍事的に弱体だった政長は筒井氏の援助がなければ、義就に対抗することは不可能だったはずで、その意味で、「光宣こそが大乱を招いた張本人」という尋尊の評価は的を射たものである、

にしても、あまりにも大和の局地戦に紙面を割きすぎているのではないか。そのために、隔靴掻痒、外から眺めている者たちの視点から一向に出ない恨みがある。発火点は、畠山の家督争いにしても、全国規模で11年にもわたって、戦争が続くには、発端は発端として、様々な要因が絡み合っていたはずだ。

斯波氏の後継者問題、
将軍義政の後継者問題、
赤松の再興問題、
伊勢貞親ら側近衆との確執、

等々、様々要因の中で、本来連携していた、

細川・山名、

が対立に転じ、

御霊合戦、

で、義就・政長の合戦に、山名が加担したことで、細川勝元と決定的な対立に至った。この間の経緯が、大和から、遠眼鏡で見るような経緯の説明は、細部はともかく、乱全体の動きを、結局外側からしか説明できていない気がしてならない。だから、

応仁の乱、

というタイトルではなく、

興福寺の応仁の乱、
とか、
大和の応仁の乱、

というのがふさわしいのではないか。

大和では長い間、筒井派と越智派が争っており、勝者が敗者の所領を奪うことは見慣れた光景だった。だが、あくまで興福寺に仕える大和の衆徒・国民間での所領移動であり、形式的には興福寺の影響力は維持された、

という中で、応仁の乱で、

大和はどう変化したのか、

とか、

中世興福寺は大和国人の領主的成長を阻んだかもしれないが、一方で大和国の戦争被害を減らした、

というのなら、それは、

どのようにプラスマイナスがあり、

応仁の乱の中で、

どのような変化があったのか、

とか、

応仁の乱そのものではなく、大和の国人たち(その多くは興福寺の衆徒たち)の「応仁の乱」そのものを細密に描けばよかったのではないか。

そうすれば、乱後に、

明応六年(1497)…九月末~十月初頭に筒井ら「牢人」が奈良に復帰し、古市・越智らは敗走した。文明九年(1477)に畠山義就によって蹴散らされた筒井氏が20年ぶりに復権したのである。
奈良を制圧した筒井は興福寺に対し「大和で戦費の調達や陣夫の動員は行わない」と誓い、越智家栄(おちいえひで)の度重なる物資徴発に苦しめられてきた尋尊を喜ばしている、

という記述が、後の戦国大名・筒井順慶(じゅんけい)へつながるのではないか。

参考文献;
呉座勇一『応仁の乱―戦国時代を生んだ大乱』(中公新書)

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2021年11月14日

亢龍悔い有り


「亢龍」は、

こうりゅう、
とも、
こうりょう、

とも訓ます(広辞苑)。

天に高く昇りつめた龍、

つまり、

昇り龍、

である(仝上)。

亢龍悔い有り、

という言い方をする。

栄達を極めた者には、もはやのぼりる道もなく、凋落しかないという悔いがある、

つまり、

物事は絶頂を極めると、必ず衰えること、

をいう(仝上)。

禅師(俊明極)、勅使に向かって、この君(後醍醐帝)亢龍の悔いありと云へども、二度(ふたたび)帝位を践(ふ)ませ給ふべき御相ありとぞ申されける(太平記)、

の用例が有名である。

「亢龍の悔い有り」は、易経の引用で、『易経』周易上経・乾卦に、

亢龍有悔、

とあるのによる。「乾」には、

乾、元亨利貞(乾は、元(おお)いに亨(とお)りて貞(ただし)しきに利(よ)ろし)。
初九、潜龍。勿用(潜龍(せんりょう)なり。用うるなかれ)。
九二、見龍在田。利見大人(見龍田に在り。大人を見るに利ろし)。
九三。君子終日乾乾。夕惕若。厲无咎(君子は終日乾乾(けんけん)し、夕べに惕若(てきじゃく)たり。厲(あや)うけれど咎なし)。
九四。或躍在淵。无咎(あるいは躍(おど)りて淵に在り。咎なし)。
九五。飛龍在天。利見大人(飛龍天に在り。大人を見るに利ろし)。
上九。亢龍有悔(亢龍悔いあり)。
用九。見羣龍无首。吉(群龍首(かしら)なきを見る。吉なり)。

とある。太平記は、上記の文に続いて、

されば、君(後醍醐帝)、武臣のために囚はれて、亢龍の悔いに遭ひ給ひけれども、かの禅師の相し申したる事なれば、再び九五の聖位を践ませ給はん事、疑ひなしと思し召しけるによって、なほ落髪の御事は、暫らくあるまじき由を強ひて仰せ出だされける、

とある。この「九五」は、易経の、

九五。飛龍在天。利見大人。

であり、

天子の位をいう、

とある(兵藤裕己注)。易の占筮については他https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%93%E7%B5%8Cに譲るが、

上九。亢龍有悔

については、こうある。

上九は陽剛居極。天を昇りつめて降りることを忘れた龍。勢位を極めておごり亢(たか)ぶれば、却って悔いを残すことにもなる、

と(高田真治・後藤基巳訳『易経』)。さらに、

九五。飛龍在天。利見大人。

については、

陽剛中正、飛んで点に昇った龍。才徳が充実し志を得て人の上に立った者にもたとえられようが、なお在下の大人賢者(九二)を得てその助けを借りることを心掛けるとよい(彖伝、文言伝は大人をこの九五の君とする)、

とある(仝上)。ちなみに、

初九、潜龍。勿用。

は、

初九は最下の陽剛、たとえれば地下に潜む龍、才徳があっても軽々しくこれを用いることなく、修養して時機の到来を待つべきである、

九二、見龍在田。利見大人。

は、

九二は陽剛居中。龍が田(地上)に姿を現したように、その才徳もようやく明らか。目上の大人(九五)に認められれば、おのれを伸ばす好機会である、

九三。君子終日乾乾。夕惕若。厲无咎。

は、

九三は下卦の極。警戒を要する危位。君子たる者、終日つとめはげみ、夕べにまた反省して惕(おそ)れ慎むことを忘れなければ、危ないながら咎は免れる、

九四。或躍在淵。无咎。

は、

九四は下卦から上卦にのぼったはじめ。将来の躍進を目前にして、なお深淵に臨む時の心構えで身を慎めば咎を免れる。

用九。見羣龍无首。吉。

は、

用九。むらがる龍が姿を現しながらもその頭を示さぬよう、才徳をひけらかすことなく従順で控え目にすれば吉、

とある(仝上)。

「亢」 漢字.gif


「亢」(コウ)は、

会意。「大(人の姿)の字の略形(亠。人の首にあたるところ)+‖印(まっすぐな首の線)」で、直立するの意味を含む。頏(コウ のど)・抗(コウ 立ってふせぐ)・杭(コウ まっすぐにたったくい)に含まれる、

とあり(漢字源)、「亢然」というように、「たかぶる」「すくっとたつ」意である。別に、

象形文字で、のどの膨れた形を象る。気分が高くなると、のどの活動が高くなることから、「たかぶる」という意味になった、

ともあるhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E4%BA%A2

亢 甲骨②.png

(「亢」 甲骨文字・殷 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E4%BA%A2より)

「龍」(漢音リョウ、呉音リュウ、慣用ロウ)は、

象形。もと、頭に冠をかぶり、胴をくねらせた大蛇の形を描いたもの。それにいろいろな模様を添えて、龍の字となった、

とある(漢字源)。別に、

「龍」 漢字.gif

(「龍」 https://kakijun.jp/page/ryuu200.htmlより)

象形。もとは、冠をかぶった蛇の姿で、「竜」が原字に近い。揚子江近辺の鰐を象ったものとも言われる。さまざまな模様・装飾を加えられ、「龍」となった。意符としての基本義は「うねる」。同系字は「瀧」、「壟」。古声母は pl- だった。pが残ったものは「龐」などになった、

ともあるhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E9%BE%8D

「龍」 金文.png

(「龍」 金文・殷 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E9%BE%8Dより)

「龍」 甲骨文字.png

(「龍」 甲骨文字・殷 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E9%BE%8D

参考文献;
高田真治・後藤基巳訳注『易経』(岩波文庫)
尚学図書編『故事ことわざの辞典』(小学館)

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2021年11月15日

堅石白馬


「堅石白馬」(けんせきはくば)は、

堅白同異(けんぱくどうい)、
堅白異同(けんぱくいどう)、

ともいい、

ただ、如来の権実(ごんじつ 方便と真実の教え)徒らに堅石白馬(ケンセキハクバ)の論となり、祖師の心印、空しく叫騒怒張の中に落つべし(太平記)、

と、

堅と石、白と馬とはそれぞれ別の概念であり、ゆえに堅石は石ではなく、白馬は馬ではない、

とする、

詭弁の論法、

をいう(兵藤裕己「太平記」注)。出典は、『史記』孟軻伝に、

公孫龍、為堅白同異之辨、

とあり(大言海)、『史記』孟子荀卿伝に、公孫龍の堅白論が載る。

堅白石三、可乎、曰、不可。二可乎、曰可。謂目視石、但見白、不知其堅、則謂之白石、手触石則知其堅而不知其白、則謂之堅石、是堅白終不可合為一也(堅白石は三とは、可なるか、曰く不可なり。二とは可なるか、曰く可なり。謂う目は石を視るに、但白きを見て、其の堅きことを知らず、則ち之を白石と謂う、手石に触るれば則ち其の堅きを知りて其の白きを知らず、則ち之を堅石と謂う。是堅白終に合して一と為るべからざる)、

と(故事ことわざの辞典)。

つまり、

堅く白い石があるとすると、目で見た時はその白いことはわかるが、堅いことはわからない。手に触れた時はその堅いことはわかるが色の白いことはわからない。故に堅石と白石とは同一のものではない(広辞苑)、

とは、昨今では、

ご飯論法、

といった詭弁があった。「ご飯論法」とは、

「朝ご飯は食べたか」という質問を受けた際、「ご飯」を故意に狭い意味にとらえ、(パンを食べたにもかかわらず)「ご飯(白米)は食べていない」と答えるように、質問側の意図をあえて曲解し、論点をずらし回答をはぐらかす手法である、

というものだがhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%94%E9%A3%AF%E8%AB%96%E6%B3%95、要は、言葉を変えて、問題をすり替える。

似たものに、

自分の都合のいいように無理に理窟をこじつける、

意の、

牽強付会、

があるが、これに似たものに、

断章取義(だんしょうしゅぎ)、

がある。

文章の一節を取り出し、文章全体の本意と関係なく、その一節だけの意味で用いること。ひいて、自分の都合のよい引用をする、

意である。似ているようで違うのに、

郢書燕説(えいしょえんせつ)、

がある。

楚の都郢からきた手紙に対して、燕の国の人がとった解釈、

という意であるが、由来は、『韓非子』の、

郢の学者が、ある夜、燕の国の宰相に手紙を書いたが、灯火が暗いので、従者に「燭(しょく)を挙げよ」と命じ、従者は誤って「挙燭」というこのことばをそのまま、手紙に書き込んでしまった。これを読んだ宰相は、「挙燭」の語を「明(めい)を尊べ」の意(賢人を登用せよ)と誤って解し、王に進言して賢者を登用し、大いに治績をあげた、と伝える、

とあるのによる(故事ことわざの辞典)。

燕相受書而説之曰、
挙燭者尚明也。
尚明也者、挙賢而任之。
燕相白王。
王大説、国以治。

挙燭、
を、
尚明(明を尊ぶ)、

と解釈したもののようである。

韓非子は、

治則治矣、非書意也、
今世学者、多似此類、

と嘆いているhttps://ameblo.jp/yk1952yk/entry-11346657378.html

「堅」 漢字.gif

(「堅」 https://kakijun.jp/page/1222200.htmlより)

「堅」(ケン)は、

会意兼形声。臤(ケン)は、臣下のように、からだを緊張させてこわばる動作を示す。堅はそれを音符とし、土を加えた字で、かたく締まって、こわしたり、形を変えたりできないこと、

とある(漢字源)が、別に、

土と、臤(ケン かたい)とから成り、土がかたい、ひいて、「かたい」意を表す。「臤」の後にできた字、

ともあり(角川新字源)、さらに、

会意兼形声文字です(臤+土)。「しっかり見開いた目の象形(「家来」の意味)と右手の象形」(神のしもべとする人の瞳を傷つけて視力を失わせ、体が「かたくなる」の意味)と「土地の神を祭る為に柱状に固めた土」の象形(「土」の意味)から、かたい土を意味し、そこから、「かたい」を意味する「堅」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji1243.html

「堅」 成り立ち.gif

(「堅」 成り立ち https://okjiten.jp/kanji1243.htmlより)

参考文献;
兵藤裕己校注『太平記(全六冊)』(岩波文庫)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
尚学図書編『故事ことわざの辞典』(小学館)

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2021年11月16日

むち


「むち」は、

鞭、
笞、
撻、
策、

等々と当てる(広辞苑)。

馬のむち、

の意もあるが、

罪人を打つむち、

の意もある(仝上)。

ブチとも云ふ、

とあり(大言海)、

打(うち)に通ず、

とある(仝上・日本語源広辞典)。或いは、

馬打(うまうち)の約、

ともある(大言海・言元梯)。

馬を打つところから、ウチの転(日本釈名・貞丈雑記)、
ウツの転(和語私臆鈔・国語の語根とその分類=大島正健)、
ムマウチの約(名語記)、

も同趣旨と思う。

ムヂ(和名抄)、
ブチ(新撰字鏡)、

などもあり、

ウブチ→ブチ→ムチと変化(山口佳紀・古代日本語文法の成立の研究)、

とする説もあるが、馬にしろ、罪人にしろ、

打つ、

ところから来たものと思われる。ところで、「むち」に当てる、



は、「むち」ではなく、漢音の、

ち、

と訓むと、

律の五刑のうち、最も軽い刑、

を指す。

楚、

とも当て、

木の小枝で尻を打つ刑で、10から 50まで、10をもって1等に数え、5等級とした。明治初年の刑法典である『仮刑律』『新律綱領』においても正刑の一つとして採用された。しかし明治5 (1872) 年それに代り懲役刑が行われることとなった、

とある(ブリタニカ国際大百科事典)。五刑とは、

五罪、

ともいい、罪人に対する五つの刑罰で、

古代中国では墨(いれずみ)、劓(はなきり)、剕(あしきり)、宮(男子の去勢、女子の陰部の縫合)、大辟(くびきり)をさす。隋・唐の時代には、笞(ち むちで打つこと)、杖(じょう つえで打つこと)、徒(ず 懲役)、流(る 遠方へ追放すること)、死(死刑)の五つをいう。日本では、大宝・養老律以後この隋・唐の方式がとられ、近世まで行なわれていた、

とされる(精選版日本国語大辞典)。「笞」を、

しもと、

あるいは、

しもつ、

と訓むと、

(葼(しもと 木の若枝の細長く伸びたもの)を用いたところから)木の若枝でつくったむち、

の意となる(岩波古語辞典)。「しもと」が「笞」の意であるところから、

老いはてて雪の山をば戴けどしもと見るにぞ実は冷えにける(拾遺和歌集)、

との歌があり、「霜と」と「しもと(笞)」を懸けている。

「大隅守さくらじまの忠信が国にはべりける時、郡のつかさに頭の白き翁の侍りけるを召しかんがへむとし侍りにける時翁の詠み侍りける」とあり、それが上記の歌で、註に、「この歌により許され侍りにける」とある。似た歌が、宇治拾遺物語にあり、やはり罪人が、

としをへてかしらの雪はつもれどもしもとみるにぞ身はひえにけり、

と詠んで、「ゆるしけり」とある(中島悦次校注『宇治拾遺物語』)。

和名類聚抄(平安中期)に、

笞、之毛度、

とある。養老律令の獄令(ごくりょう)には、

笞杖、大頭三分、小頭二分、杖、削去節目、長三尺五寸、

とある(大言海)。さらに、「笞」を、

びんづらゆひたる童子のずはえ持ちたるが(宇治拾遺)、

と、

ずはえ、

あるいは、

すはい、
すはえ、

等々と訓ますと、やはり、

杖(じょう)、笞(むち)の類、

の意となる。これも、「すはゑ」が、

木の枝から真っ直ぐ伸びた若枝、

の意で、これを「むち」に使ったからかと思われる。

笞 ほそきすはゑ、
杖 ふときすはゑ、

とある(日本書紀)。

「しもと」は、

葼、
楉、
細枝、

と当てると、

枝の茂った若い木立、木の若枝の細長く伸びたもの、

をさし、

すはゑ(すわえ)、

ともいう。元来は、

小枝のない若い枝を言った、

とある(今昔物語注)。和名類聚抄(平安中期)には、

葼、之毛止、木細枝也、

字鏡(平安後期頃)には、

葼、志毛止、

とある(大言海)。これは、

茂木(しげもと)の略、本は木なり、真っ直ぐに叢生する木立の意(大言海・万葉考・雅言考・和訓栞)、
シモト(枝本)の義(柴門和語類集)、
数多く枝分かれした義のシマと枝の義のモトから(続上代特殊仮名音義=森重敏)、

等々の説があるが、どうもしっくりしない。

小枝のない若い枝を言った

枝本、

を音読みした「シモト」ではないかと、憶測してみる。

「すはゑ」は、

平安初期の写本である興福寺本霊異記に「須波惠(すはゑ)」とあるから、古い仮名遣いは「すはゑ」と認められる、

とある(岩波古語辞典)。

楚、
楉、
杪、
條、

等々とも当てる(広辞苑・大言海)。字鏡(平安後期頃)、天治字鏡(平安中期)に、

須波江、

類聚名義抄(11~12世紀)に、

楉、シモト、スハエ、
楚、スハヘ、

色葉字類抄(1177~81)に、

楉、楚、シモト、スハエ(楉は若木の合字)、

等々とある(大言海)。

木の枝や幹から細く長く伸びた若い小枝、

の意であり(広辞苑)、

しもと、

と同義となる。この由来は、

スクスクト-ハエタル(生)モノの意(大言海)、
スハエ(進生)の義(言元梯)、
スハエ(末枝)の意(日本釈名・玉勝間)、
直生の義(和訓栞)、
直生枝の急呼(箋注和名抄)、
スグスヱエ(直末枝)の義(日本語原学=林甕臣)、

等々あるが、どうもすっきりしない。

素生え、

なのではないか、と憶測してみた。

「笞」 漢字.gif


「笞」(チ)は、

会意兼形声。「竹+音符台(ためる、人工を加える)」

とあり(漢字源)、「笞杖」「笞刑」等々と使うが、竹で作った細い棒である。

「楚」 漢字.gif


「楚」(漢音ソ、呉音ショ)は、

会意兼形声。「木二つ+音符疋(一本ずつ離れた足)」。ばらばらに離れた柴や木の枝、

とあり(漢字源)、別に、

会意形声。複数の「木」+音符「疋」。「疋」は各々の足を表し、木の枝をばらばらにしたものを集めた柴、

ともhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%A5%9A

形声文字です(林+疋)。「木が並び立つ」象形(「林」の意味)と「人の胴体の象形と立ち止まる足の象形」(「あし(人や動物のあし)」の意味)だが、ここでは「酢(ソ)」に通じ(同じ読みを持つ「酢」と同じ意味を持つようになって)、「刺激が強い」の意味)から、「群がって生えた刺激が強い、ばら」を意味する「楚」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji2520.html。「一本ずつばらばらになった柴」や「いばら」の意である。

「楚」 成り立ち.gif

(「楚」 成り立ち https://okjiten.jp/kanji2520.htmlより)

「策」(漢音サク、呉音シャク)は、

会意兼形声。朿(シ・セキ)は棘の出た枝を描いた象形文字。刺(さす)の原字。策は「竹+音符朿(シ とげ)」で、ぎざぎざと尖って刺激するむち。また竹札を重ねて端がぎざぎざとつかえる冊(短冊)のこと、

とある(漢字源)。「馬に策(むちう)つ」(論語)のように鞭打つ意である。また竹札から、文書の意も。別に、

会意、「竹」+「朿」で、朿とげが付いてる竹たけの「むち」が原義。むちで刺激することから派生して、「はかりごと」「計画」という意味に転化した、

ともhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%AD%96

「策」 漢字.gif


形声文字です(竹+朿)。「竹」の象形と「とげ」の象形(「とげ」の意味だが、ここでは、「責」に通じ(同じ意味を持つようになって)、「せめる」の意味)から、馬を責める竹、すなわち、「むち」を意味する「策」という漢字が成り立ちました。また、「冊(サク)」に通じ、「文書」の意味も表すようになりました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji985.html

「策」 成り立ち.gif

(「策」 成り立ち https://okjiten.jp/kanji985.htmlより)

「鞭」(慣用ベン、漢音・呉音ヘン)は、

会意兼形声。「革(かわ)+音符便(平らで、ひらひらと波打つ)」、

とあり(漢字源)、まさに馬の「むち」の意である。別に、

「鞭」 漢字.gif


会意兼形声文字です(革+便)。「頭から尾までを剥いだ獣の皮」の象形(「革」の意味)と「横から見た人の象形と台座の象形と右手の象形とボクッという音を表す擬声語(「台を重ねて圧力を加え平らにする」の意味)」(「人の都合の良いように変える」の意味)から牛や馬を人の都合の良いように変える革の「むち」を意味する「鞭」という漢字が成り立ちました、

との解釈もあるhttps://okjiten.jp/kanji2783.html

「鞭」 成り立ち.gif

(「鞭」 成り立ち https://okjiten.jp/kanji2783.htmlより)

「葼」 漢字.gif


「葼」(ソウ)は、

樹木の細長い小枝。しもと、

とあり、

葼(細枝)勝ち(しもとがち)、

は、

桃の木の若だちて、いとしもちがちにさし出でたる(枕草子)、

と、

若い小枝が多く茂っているさま、

をいう(デジタル大辞泉)。

「楉」  漢字.gif


「楉」(ジャク)は、

大木の奇霊なるもの(山海経)、

とあり(字源)、「楉榴(じゃくりゅう)」は、ざくろを意味するが(仝上)、木+若の国字とする説もある(色葉字類抄)。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

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2021年11月17日

はたる


「はたる」は、

徴る、
債る、

と当て、

請求する、
強く求める、

意だが、

責めたてる、

という含意が強く、

科之以千挫句置戸、遂促徴(セメハタル)矣(神代紀)
檀越(だにをち)や然もな言ひそ里長(さとをさ)が課役(えだち)徴(はた)らば汝(いまし)も泣かむ(万葉集)、
安永その宮の封戸(ふこ)をはたらむがために上野(かみつけ)の国に行(ゆ)きにけり(今昔物語)、

等々と、税などを、

取り立てる、
徴収する、

との意で使う。類聚名義抄(11~12世紀)には、

徴、ハタル、モトム、モヨホス、セム、

とあり、色葉字類抄(1177~81)には、

徴、ハタル、税、

とある(岩波古語辞典・大言海)。

「はたる」の語源は、

朝鮮語pat(徴)と同源、

としか見つからない(岩波古語辞典)。ただ、大宝律令で完成する租・庸・調の税制度そのものが、唐の制度を真似たものだから、朝鮮半島経由で、この言葉が伝わってもおかしくはないが、これ以外に言及した物がないので、何とも言いようがない。

「徴(澂)」(チョウ・チ)は、

会意。「微の略体+王」で、隠れたところで微賤(ビセン 地位・身分が低くいやしいこと)なさまをしている人材を王がみつけて取り上げることを示す、

とある(漢字源)。「徴召」等々と云い、「隠れている人材を召出す」意である。「求める」意だが、

求、乞也索也と註す、なき物を、有るやうにほしがり求め、又、さがしもとむる義にて、意広し、求友、求遺書の類、
索、さがし求むるむなり、通鑑「粱主臥浄居殿、口苦索蜜不得、遂殂」、
需・須、音義通ず。まつとも訓む、無くてはならぬと、まち求むなり。赤壁賦「以待子不時之需」、
要、まちかまえてぜひにと求むるなり。孟子「修其天爵、以要人爵」、
徴、めすとも訓む。己の方へひきつけ求める義、

と(字源)、「求める」意味の中では、「徴」は、どちらかというと、「君主または官符の召出し」の意である。その意味で、「徴税」の意につながる。

「徴」 漢字.gif

(「徴」 https://kakijun.jp/page/1419200.htmlより)

同じく、

微+王、

としているものもあるhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%BE%B4が、別に、

旧字は、会意。微(び)(は省略形。かすか)と、𡈼(てい つきでる。「壬」(ニン ふくれる)とは別字)とから成り、かすかにものが現れる意を表す。ひいて、めしだす意に用いる。常用漢字は省略形による、

とある(角川新字源)。どちらとは決めかねるが、「王」と「𡈼」では違い過ぎる気がする。さらに、

形声文字です。「十字路の左半分」の象形(「道を行く」の意味)と「植物が芽を出して発芽した」象形(「芽生え」の意味だが、ここでは、「登」に通じ(「登」と同じ意味を持つようになって)、「登用する」の意味)と「すねのまっすぐ伸びた人が地上にすくっと立つ」象形(「すぐれた人」の意味)と「ボクッという音を表す擬声語と右手の象形」(「手でうつ」の意味)から、「すぐれた人材を呼び出す」を意味する「徴」という漢字が成り立ちました。また、「取り上げるに値する証拠」の意味も表すようになりました。

との解釈もあるhttps://okjiten.jp/kanji1248.html

「徴」 成り立ち.gif

(「徴」 成り立ち https://okjiten.jp/kanji1248.htmlより)

「債」(漢音サイ、呉音セ)は、

会意兼形声。「人+音符責(血でつぐなうべき貸し借り)」で。不整合に積み重なってきて、人を責めつける関係、つまり貸し借りの責任をいう、

とある(漢字源)。「清算していない貸借関係」の意で、「かり」「おいめ」の意である(字源)。「債券」「債鬼」「債権」「債務」等々と使う。

「債」 漢字.gif

(「債」 https://kakijun.jp/page/1304200.htmlより)

別に、

会意形声。人と、責(サク)→(サイ せめる、せめ)とから成り、おいめの意を表す。「責」の後にできた字、

とある(角川新字源)のが、意味が分かりやすい。別に、

会意形声。「人」+音符「責」、「責」は「貝」+音符「朿」の会意形声文字。「朿」は先のとがったとげや針で「刺」の原字。財貨の支払い・返済に関して、針などで責めるの意、

ともhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%82%B5

会意兼形声文字です(人+責)。「横から見た人」の象形(「人」の意味)と「とげの象形と子安貝(貨幣)の象形」(「金品を責め求める」の意味)から、借金で責められている人のさまを表し、そこから、「借り」、「負い目」を意味する「債」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji1535.html。「責」は、

会意兼形声。朿(シ)は、先のとがったとげや針を描いた象形文字で、刺(シ さす)の原字。責は「貝(財貨)+音符朿」で、貸借について、トゲで刺すようにせめさいなむこと。債の原字、

とある(漢字源)。

「債」 成り立ち.gif

(「債」 成り立ち https://okjiten.jp/kanji1535.htmlより)

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)

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ラベル:はたる 徴る 債る
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2021年11月18日

桂を折る


「桂を折る」は、

折桂(せつけい)、

という(字源)。

進士の試験に及第する(字源)、
文章生(もんじょうしょう)、試験、対策に応じて及第する(大言海)、
官吏登用試験に応じて及第する(広辞苑)、

という意で、

登第、
及第、
登科、

と同義になる(字源)。温庭筠の詩に、

猶喜故人新折桂、

とある(字源)。由来は、「晋書」郤詵(げきしん)伝に、

秦始中、詔天下、學賢良直言之士、太守文立學詵應選、……武帝於東堂會送、問詵曰、卿自以為如何、詵對曰、臣擧賢良策為天下第一、猶桂林一枝、崑崙片玉、帝笑、

とあるのによる(大言海・故事ことわざの辞典)。

すぐれた人材、

を、

桂の枝、

にたとえたのだが、「桂林」には、

文官
または
文人、

の意もある(故事ことわざの辞典)。

「桂林一枝、崑崙片玉」は、

桂の林の一枝、崑崙山の宝石の一片にすぎない、

の意から、

謙譲、

の含意があるとされ(字源)、「桂林一枝」には、転じて、

人品の清貴にして俗を抜く、

という喩えとしても使われる、とある(仝上)。ただ、雍州刺史という地方長官に任命されたことに対する答えなので、どこかに、

大した出世ではない、

という意味で、

これは桂林の一枝、崑崙山の美しい玉の一つを手に入れたにすぎない、

といっている含意もある(学研四字熟語辞典)。で、

世以登科為折桂、此謂郤詵対東堂。自云桂林一枝也、唐以来用之(避暑秘話)、

とある。「桂林一枝」から「折桂」と意訳したことになる。そして、続いて、

其後以月中有桂、故又謂之月桂、

とある。つまり、伝説の、

月に生えている桂の木、

と結び付けられて、

月の桂を折る、

とも言うようになる。

つきのかつら、呉剛(月岡芳年画).jpg

(「つきのかつら、呉剛」(月岡芳年) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%82%E7%94%B7より)

これは、

桂男(かつらおとこ・かつらを)、

といい、「酉陽雑俎‐天咫」(唐末860年頃)に、中国の古くからの言い伝えとして、

月の中に高さ五〇〇丈(1500メートル)の桂があり、その下で仙道を学んだ呉剛という男が、罪をおかした罰としていつも斧をふるって切り付けているが、切るそばからその切り口がふさがる、

という伝説がある(精選版日本国語大辞典)。シジフォスの岩に似た話である。

呉剛伐桂、

といいhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%82%E7%94%B7、伝説には、ひとつには、炎帝の怒りを買って月に配流された呉剛不死の樹「月桂」を伐採するという説と、いまひとつは、

舊言月中有桂、有蟾蜍、故異書言月桂高五百丈、下有一人常斫之、樹創隨合。人姓吳名剛、西河人、學仙有過、謫令伐樹(酉陽雑俎)、

と、仙術を学んでいたが過ち犯し配流された呉剛が樹を切らされているという説とがある(仝上)、という。

ために、「月の桂」には、

月の異称、

とされ、略して、

かつら、

ともいい、月の影を、

かつらの影、

といったり、三日月を、

かつらのまゆ、

などという(大言海)。また「桂男」は、

桂の人、

などともいい、

かつらおとこも、同じ心にあはれとや見奉るらん(「狭衣物語(1069‐77頃)」)、

と、盛んに使われるが、さらに、

手にはとられぬかつらおとこの、ああいぶりさは、いつあをのりもかだのりと、身のさがらめをなのりそや(浄瑠璃「出世景清(1685)」)、

と、

美男子、

の意味でも使われるようになる(精選版日本国語大辞典)。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
簡野道明『字源』(角川書店)
尚学図書編『故事ことわざの辞典』(小学館)

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2021年11月19日


「桂(かつら)」は、「桂を折る」http://ppnetwork.seesaa.net/article/484421562.html?1637178611で触れたように、「桂を折る」以外にも、

桂男(かつらおとこ・かつらを 月で巨大な桂を永遠に切り続けている男の伝説)、
桂の眉(かつらのまゆ 三日月のように細く美しい眉)、
桂の影(かつらのかげ 月の光)、
桂の黛(かつらのまゆずみ 三日月のように細く美しく引いた眉墨)、

等々と使われるのは、「桂」が、

月の桂、

から、

月の異称、

として使われるようになったことによる。

「月の桂」は、「桂を折る」で触れたように、「酉陽雑俎‐天咫」に、

舊言月中有桂、有蟾蜍、故異書言月桂高五百丈、下有一人常斫之、樹創隨合。人姓吳名剛、西河人、學仙有過、謫令伐樹、

とあり、中国において、「月桂」は、

想像の説に、月の中に生ひてありと云ふ、月面に婆娑たる(揺れ動く)影を認めて云ふなるべし、手には取られぬものに喩ふ、

とある(大言海)。「懐風藻」に、

金漢星楡冷、銀河月桂秋(山田三方「七夕」)、

は、

月の中にあるという桂の木、

の意で、

玉俎風蘋薦。金罍月桂浮(藤原万里「仲秋釈奠」)、

では、

月影(光)、

の意で使われている(精選版日本国語大辞典)。万葉集では、

目には見て手には取らえぬ月内之楓(つきのうちのかつら)のごとき妹をいかにせむ、

と、

手には取られぬもの

の喩えとして詠われている。「毘沙門堂本古今集註」(鎌倉時代末期~南北朝期書写)では、

久方の月の桂と云者、左伝の註に曰、月は月天子の宮也。此宮の庭に有二七本桂木一、此の木春夏は葉繁して、月光薄く、秋冬は紅増故に月光まさると云也、

と解説する。また、月の人、「桂男」を、

月人、

とも言い(大言海)、

かつらをの月の船漕ぐあまの海を秋は明石の浦といはなん(「夫木(1310頃)」)、
桂壮士(カツラヲ)の人にはさまるすずみかな(「古今俳諧明題集(1763)」)、

等々と詠われる(精選版日本国語大辞典)。

桂の木.jpg


さて、「桂」は、

楓、

とも当て(岩波古語辞典)、

かもかつら(賀茂桂)、
とわだかつら、

ともいった(「日本植物名彙(1884)」)らしいが、和名類聚抄(平安中期)には、

楓(ふう)、和名、乎加豆良(をかつら)、

とあり(岩波古語辞典)、古名は、

おかつら(男桂・楓)、

といった(「十巻本和名抄(934頃)」)。

カツラ科の落葉高木。日本の各地と中国の山地に生える。落葉広葉樹の大高木で、高さはふつう20~25メートル、高いものは30メートルほどで、樹幹の直径は2mほどにもなる。葉は広卵形で裏面が白い。雌雄異株。5月ごろ、紅色の雄花、淡紅色の雌花をつけ、花びらはない、若葉は紅味があり、賀茂祭にも使う。秋黄葉する、

とある(岩波古語辞典・精選版日本国語大辞典・デジタル大辞泉)。

また、同じ和名類聚抄(平安中期)に、

桂、和名、女加豆良(めかつら)、

とあり、これは、

肉桂、

を指す。正確には、

藪肉桂(やぶにっけい)、

を指す(広辞苑)。やぶにっけいは、別名

マツラニッケイ(松浦肉桂)、
クスタブ、

ともいい、

クスノキ科の常緑広葉樹。高木だが、せいぜい15メートル。樹皮は灰黒色で滑らか。ニッケイに似た香気と渋味をもつ。夏、葉脇に長い花軸を出し、淡黄色の小花をつける。果実は液果で、紫黒色、

とある(広辞苑)。すくなくとも、

おかつら、

めかつら、

は区別していたものと思われる。大言海は、

かつら(桂)、

かつら(楓)、

とを、別項として立て、

前者を、

めかつら、

とし、

訓香木、云加都良(古事記)、

を引き、

後者を、

をかつら、

とし、

杜木、此云可豆邏(杜は鬘の誤と云ふ)(神代紀)、

を引き、

古事記、「楓(かつら)」(神代紀「杜木(かづら)」とあるに同じ、楓は桂の借字なり)、

と註している。

ヤブニッケイ.jpg


「かつら」の由来は、

カツは香出(かづ)、樹皮に香気あり、ツは濁る可きが如し、ラは添えたる音(大言海・日本語源広辞典)、

とされる。「ら」は、

擬態語・形容詞語幹などを承けてその状態表現をあらわす、

とある(岩波古語辞典)。

葉の香りに由来し、落葉した葉は甘い香りを発することから「香出(かづ)る」(日本語源広辞典・大言海)、

と香りが由来らしく、古事記(712)に、

傍の井の上に湯津香木有らむ、

に、

訓香木、云加都良、

注記がある。薫りに由来したものだと思われる。中国名は、

連香樹、

と表記されるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%84%E3%83%A9_%28%E6%A4%8D%E7%89%A9%29が、中国で言う「桂」は、

モクセイ(木犀)、

のことであって、日本と韓国では古くからカツラと混同されている(仝上)、ともある。

詩などに桂花と云ふは木犀なり、

とある(大言海)のはその意味である。

「桂」 漢字.gif


「桂」(漢音ケイ、呉音カイ)は、

会意兼形声。「木+音符圭(ケイ △型にきちんとして格好がよい)」で、全体が△型に育った良い形をしている木、

とあり(漢字源)、「肉桂(ニッケイ)」「筒桂(トウケイ)」「岩桂(ガンケイ)」「銀桂」「金桂」「丹桂」など香木の総称の他、伝説上の月の桂の意、である(仝上)。

桂については《山海経(せんがいきよう)》や《荘子》など先秦の書物にも記事があり、珍しい木、香辛料の木とされ、時代が下ると《本草》をはじめ諸書に、薬用植物として、牡桂、菌桂、木桂、肉桂など多様に表出される。これらが現在の何に当たるかは大半不明だが、漢の武帝が未央(びおう)宮の北に桂宮を作ったように、桂が高貴、良い香りを象徴したことはまちがいない、

とある(世界大百科事典)。別に、

会意兼形声文字です(木+圭)。「大地を覆う木」の象形(「木」の意味)と「縦横の線を重ねた幾何学的な製図」の象形(「上が円錐形、下が方形の玉(古代の諸侯が身分の証として天子から受けた玉)」)の意味から、「かつら(肉桂などの香木の称、モクセイ科の常緑樹、月に生えているという伝説の木)」、「カツラ科の落葉高木」を意味する「桂」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji2251.html

「桂」 成り立ち.gif

(「桂」 成り立ち https://okjiten.jp/kanji2251.htmlより)

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

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2021年11月20日

短兵急


「短兵急」は、

乗勝軽進、反為所敗、賊追急、短兵接、光武自投高岸(御漢書)、

と、

刀剣を以て急に攻める、

意であり、「短兵」は、『史記』匈奴伝に、

長兵則弓矢、短兵則刀鋋、

とある(字源)ように、

刀剣の類、

を指す(仝上)。因みに、「鋋」は、

柄の短い小さな矛、

つまり、

手鉾(てぼこ)

とありhttps://kanji.jitenon.jp/kanjip/7662.html

薙刀に似た古代の武器。刃はやや内に反り、柄に麻糸を巻き、鉄の口金と木の石突きをつけたもの、

とある(デジタル大辞泉)。

しかし、わが国では、「短兵急」は、

息もつかせず急に急き立てる、

の意で使う(字源)、とある。しかし、

相従ふ兵僅に二十余騎に成しかば、敵三千余騎の真中に取籠て、短兵急に拉(とりひし)がんとす(太平記)、
小林民部丞、得たり賢しと勝(かつ)に乗って、短兵急に拉(とりひし)がんと、揉みに揉うで攻めける(仝上)、

等々をみると、

短兵(短い武器、刀剣)+急に(だしぬけに)、

と(日本語源広辞典)、原義に近く、

短兵を振るって敵に肉薄する(岩波古語辞典)、
いきなり敵に攻撃をしかける、だしぬけに行動を起こす(由来・語源辞典)、

意で使われていた、と見える。同じ意味で、

短兵直(ただ)ちに、

という言葉もあり、

さしも嶮しき山路を、短兵直ちに進んで、大敵の中に懸け入り、前後に当たり、左右激しける勇力に払われて(太平記)、

と、

息もつかせず攻め立てる、

意だが、ここではまだ「短兵」の持つ接近戦の含意がある。室町後期の注釈書「蒙求抄」にも、

短兵は、長具(ながぐ)を置いて、太刀打・腰刀の勝負ぞ。事の急ぞ、

とある(岩波古語辞典)。

そこから、戦いの場面が消えて、武器云々はなくなり、

事の急なこと、

つまり、

にわかに、
やにわに、

の意で使う(広辞苑)ようになる。江戸語大辞典には、

急に、にわか、

の意から、個人の振舞いにシフトして、

短兵急にやらうと云っても、些(ちつ)と六(むつ)かしいのう(文化七年(1810)「娘太平記操早引」)、
貴殿と某両人が、心を堅むる事を知らば敵心を赦さずして、たんぺいきうに若君を、殺害せんも計られず(浄瑠璃「伽羅先代萩(1785)」)、

等々と、

気早や、せっかち、

の意で使われ、今日の用例になっている。江戸時代になると、

勢いよく急に攻めるさま、

から、さらに、

突然ある行動を起こしたり、しかけたりするさま、だしぬけ、

の意味へと転じた、とある通りである(由来・語源辞典)。

太平記合戦之図.jpg

(「太平記合戦之図」(芳虎) 兵庫津和田之岬にて彦七郎足利尊氏の軍舟を焼追討す 尊氏福源寺へにげ込あやうきをのがれる https://fukukaiji.com/taiheiki/より)

「短兵急」に似た言葉で、

「短兵急接」(たんぺいきゅうせつ)、

があり、略して、

短兵急、

ともいうらしいhttps://yoji.jitenon.jp/yojii/4135.htmが、これも、

いきなり近づいて、いきなり攻撃する、

という意味から、

他の人よりも先に物事を行う、

という意に転じたとある(仝上)。

なお、「にわかに」の意で使う「短兵急」と同義の言葉に、

やにわに、
抜き打ちに、

があるが、いずれも、

意志的な動作に限って用いられる、

とある(類語新辞典)。由来を辿ると、当然のことかもしれないが、今日それが薄れているので、こういう確認が必要となる。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
簡野道明『字源』(角川書店)
大野晋・浜西正人『類語新辞典』(角川書店)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

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