神非礼を享給はずと申に、此大納言非分の大将を祈申されければにや、かかるふしぎもいできにけり(平家物語)、
神非礼を受けず、正直の頭(こうべ)に宿らんことを期(ご)す(太平記)、
神非礼を享け給はざりけるにや、所願空しくして、討死せんとしけるが(太平記)、
などとある、
「神非礼を受けず」とは、
神は礼にそむく祈りはうけない、
意で、
「世俗諺文(せぞくげんぶん)」(1007年、成句ことわざを集めその典拠を示した熟語辞書)、「管蠡抄(かんれいしょう)」(室町末期、格言集)など多くの和製類書の名句名言集にひかれる諺。つづく、「正直の頭にに宿らん……」も、上句と対で中世に広く行われた、
と注記がある(兵藤裕己校注『太平記』)。典拠は、後漢末期から三国時代の魏の儒学者・何晏(かあん)編の『論語』の注釈書、
論語集解(ろんごしっかい)、
にある八佾(はちいつ)篇の包咸(ほうかん 後漢)の注記による(仝上)、とある。該当するのは、
季氏旅於泰山、子謂冉有曰、汝不能救與、對曰、不能、子曰、嗚呼、曾謂泰山不如林放乎、
季氏(きし)泰山に旅(りょ)す。子冉有(ぜんゆう)に謂いて曰く、汝救(と)むる能(あた)わざるかと。對(こた)えて曰く、能わず。子曰く、嗚呼、曾(すなわ)ち泰山は林放(りんぽう)にすら如(し)かずと謂(おも)えるか、
である。
林放(りんぽう)にすら如(し)かず、
といわれているのは、同篇で、
林放問禮之本、子曰、大哉問、禮、與其奢也寧儉、喪與其易也、寧戚。
林放(りんぽう)、禮の本を問う。子曰く、大いなるかな問いや。禮は其の奢(おご)らんよりは寧ろ儉(つつまや)かにせよ、喪(も)は其の易(おろそ)かならんよりは寧ろ戚(いたま)しくせよ。
と、林放が問うているのに比べて、
泰山は林放(りんぽう)にすら如(し)かずと謂(おも)えるか、
つまり、
大山の神が礼に無理解だと思うか、
といっているのである。貝塚注には、
「泰山は、……魯国内の名山であるばかりでなく、西周の時代は天下第一の名山であった。周の盛時、天子が中国を完全に支配していたころは、使いを出し、諸侯をひきいて祭祀をささげた。孔子が魯国に帰った前484年前後のあるとき、李氏の当主李康子が、突如として泰山で大祭を挙行した。天下一の名山としての泰山に対する周王朝の祭は廃絶していたが、この祭祀がもし行われるとしたら、魯国の名山として、魯の哀公がこれを主宰すべきである。李氏がこれをみずから執行したのは、魯公にかわって、君主の地位につこうとする野望をひめていると孔子は見破ったので、弟子で李氏の宰、つまり家臣の上役であった冉有を召して、はげしく責任を追及したのである。そして、大山の山神が、こんな非礼の祭祀を嘉納するはずがないと、皮肉な口調で鋭く問責したのである。」
とある(貝塚茂樹訳注『論語』)。
神非礼を受けず、
とは、この章に対する、包咸の注記である。
これで思い出すのは、子路篇の、孔子の言葉、
名不正則言不順、言不順則事不成、事不成則禮樂不興、禮樂不興則刑罰不中、刑罰不中則民無所措手足、故君子名之必可言也、言之必可行也、君子於其言、無所苟而已矣
名正しからざれば則(すなわ)ち言順(したが)わず、言順わざれば則ち事成らず、事成らざれば則ち礼楽(れいがく)興(おこ)らず、礼楽興らざれば則ち刑罰(けいばつ)中(あた)らず、刑罰中らざれば則ち民手足を措(お)く所なし。故に君子はこれに名づくれば必ず言うべきなり。これを言えば必ず行うべきなり。君子、其の言に於て、苟(いやしく)もする所なきのみ。
である。これは、
子路曰、衞君待子而爲政、子將奚先、子曰、必也正名乎、子路曰、有是哉、子之迂也、奚其正、子曰、野哉由也、君子於其所不知、蓋闕如也、
子路曰わく、衛(えい)の君、子を待ちて政(まつりごと)を為さば、子将に奚(なに)をか先にせん。子曰わく、必ずや名を正さんか。子路が曰わく、是有るかな、子の迂(う)なるや。奚(なん)ぞ其れ正さん。子曰わく、野(や)なるかな、由(ゆう)や。君子は其の知らざる所に於ては、蓋闕如(かつけつじょ 知らないことを黙っていわないさま)たり。
と、子路に対して、「名」つまりことばと「実」つまり実在とが一致しなくてはならない、といったものだ。
『論語』(http://ppnetwork.seesaa.net/article/479597595.html)で触れたように、貝塚氏は、
子路と孔子とのこの対話は、いつ行なわれたか。ここに出てくる衛君が誰をさしているかが問題である。前497年、孔子は魯国を逃げて衛国に亡命した。前493年に衛の霊公が死ぬと、夫人南子(なんし)が公の遺命によるとして、公子郢(えい)を立てようとしたが承諾しない。ついに南子に反対して亡命していた後の荘公蒯聵(かいがい)の子で、霊公の孫にあたる出公(しゅつこう)輒(ちょう)を即位させた。蒯聵は大国の晋の後援を得て要地の戚(せき)の城に潜入し、ここを根拠地として内乱をおこした。……この衛の君は衛の出公をさしている。これにたいして孔子の立場は、荘公蒯聵は亡父霊公から追放されてはいるが、父子の縁はきれていないし、また太子の地位は失っていないから、出公は父である蒯聵に位を譲らねばならないと考えた。「名を正さん」とはこのことをさしている。子路はそんなことを出公が承知するはずはないから、孔子の言は理論としては正しいが、現実的ではないと非難したのである。孔子はしかし、自分の「名を正す」という立場が絶対に正しいことを確信して、子路を説得しようとした。「名」つまりことばと、「実」つまり実在とが一致せねばならないという「名実論」は、これ以後中国の知識論の基本となっている。「名」つまり単語の意味が明確でないと、「言」つまり文章の意味が不明になるという中国の文法論の基礎となり、また論理学の基本となった、
と解説する。孔子が「名実論」をはっきり意識していたかどうかについては「若干疑いがある」にしても、弟子たちにより、「名実論」「大義名分論」の立場で解釈された(貝塚茂樹訳注『論語』)。
因みに、『史記』「孔子世家」と「衛康叔世家」によれば、蒯聵が(姉の子、甥の)孔悝(こうかい)を脅してクーデターを起こした折、子路は、衛の重臣の領地の宰(管理者)をしていた(井波律子『論語入門』)が、
反乱を諫め、「太子には勇気がない。この高殿を放火すれば、太子はきっと孔悝を放逐されるだろう」と言い放ったために、激怒した蒯聵の家臣の石乞と于黶が投げた戈で落命した、
とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%90%E8%B7%AF)。死の直前、冠の紐を切られた彼は、
君子は死すとも冠を免(ぬ)がず、
と、紐を結び直して絶命した、という。子路の遺体は「醢(かい、ししびしお)」にされた(死体を塩漬けにして、長期間晒しものにする刑罰)。これを聞いた孔子は、
嗟乎(ああ)、由(ゆう、姓は仲、名は由、字子路)や死せり、
と悲しみ(井波・前掲書)、家にあったすべての醢(食用の塩漬け肉)を捨てさせたと伝えられる(仝上)。
「神」(漢音シン、呉音ジン)は、
会意兼形声。申は、稲妻の伸びる姿を描いた象形文字で、神は「示(祭壇)+音符申」で、いなづまのように、不可知な自然力のこと。のち、不思議な力や、目に見えぬ心の働きをもいう、
とあり(漢字源)、
日・月・風・雨・雷など、自然界の不思議な力をもつもの、
をさし、
天のかみ、
の意で、
「地のかみ」である「祇(ギ)」、
「人のたましい」である「鬼(キ)」、
に対する言葉で(仝上)、
広くすべての神の総称、
でもある(字源)が、和語の「かみ」、
祖先のかみ、
天照大神、
の「かみ」とはずいぶん含意を異にする。
(「神」 金文・西周 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%A5%9Eより)
なお、和語「カミ」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/436635355.html)については触れた。
参考文献;
尚学図書編『故事ことわざの辞典』(小学館)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
簡野道明『字源』(角川書店)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
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