「夜郎自大(やろうじだい)」は、
(野郎の王が漢の広大なことを知らず、自らを強大と思って漢の使者と接したことから)自分の力量を知らないで、幅を利かすたとえ、
として言われる(広辞苑)。
野郎大、
とも言うが、類義語に、
「井底之蛙」(せいていのあ 「井の中の蛙大海を知らず」の意)、
「井蛙之見」(せいあのけん 同上)、
「尺沢之鯢」(せきたくのげい 経験が少なく、知識が狭いこと。「尺沢」は小さな池。「鯢」は山椒魚。小さな池に住む山椒魚は、その池の中のことしか知らないということから)、
「遼東之豕」(りょうとうのいのこ 世間を知らず、経験や知識が少ないために、取るに足りないことで得意になること。「遼東」は中国にある遼河という河の東の地方。「豕」は豚。遼東の農家に頭の白い豚が生まれ、農民は特別なものだと思い天子に献上しようとしたが、道中で見かけた豚の群れは皆頭が白く、他の地方ではごく普通のことと知り、自身の無知を恥じて帰ったという故事から)、
「夏虫疑氷」(かちゅうぎひょう 夏虫氷を疑う。夏の季節しか生きることのできない虫は、冬に氷があるということを信じないということから。「夏虫疑冰」とも)、
等々があり(故事ことわざの辞典・https://yoji.jitenon.jp/yojih/3622.html)、似た言い回しに、「管見」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/484894383.html)で触れたことと重なるが、謙遜の意で使うことが多い、
「用管窺天」(ようかんきてん 細い管に目を当てて天を窺い見るということから、視野が狭くて見識が足りない意味)、
「管窺蠡測」(かんきれいそく 管もて窺い蠡もて測る。見識が非常に狭いこと。または、狭い見識で物事の全体を判断すること。「管窺」は管を通して空を見ること。「蠡測」はほら貝の貝殻(「ひさご」とも)で海の水の量を量ること)、
「区聞陬見」(くぶんすうけん 学問や知識の幅が狭くて偏っていること。「区」は細かい、小さいという意味。「陬」は偏っていること)、
「甕裡醯鶏」(おうりけいけい 見識が狭く世間の事情がわからない人のたとえ。「甕裡」は甕(かめ)の中、「醯鶏」は酢や酒にわく小さな羽虫。孔子が老子に面会した後に弟子に向かって「私は甕にわく羽虫のようなものだ。老子が甕の蓋を開いて外に出してくれたおかげで、天地の大全を知ることができた」といった故事による)、
「管中窺豹」(かんちゅうきひょう 管中より豹を窺う。見識が非常に狭いことのたとえ。管を通して動物の豹を見ても、一つの斑文しか見ることが出来ず、全体はわからないという意味)、
「全豹一斑」(ぜんぴょういっぱん 物事のわずかな部分だけを見て、物事の全体を推測したり、批評したりすること。狭い管を覗いて、中から見えた一つの豹の斑文を見て、豹の全体を推測するという意味。中国の晋の王献之が幼い時に、学生たちが博打のようなもので遊んでいるのを見て、とある学生の負けを予想すると、一部分だけを見て狭い見識で全体を判断していると言い返されたという故事から)、
等々もある(仝上)。
唯我独尊、
は、
釈迦が生まれた時に七歩歩いて、
天上天下唯我独尊、
と唱えたとの故事によるが、
自分だけがすぐれているとうぬぼれる、
意でも使う。その他、
「野狐禅」(やこぜん 生禅(なまぜん) 禅の修行者が、まだ悟りきっていないのに悟ったかのようにうぬぼれること。転じて、物事を生かじりして、知ったような顔でうぬぼれること)、
「雪駄の土用干し」(雪駄を干すと反り返るところから、反っくり返り、いばって大道を歩き回る者をあざけっていう)、
「増上慢」(未熟であるのに、仏法の悟りを身につけたと誇ること)、
「道を聞くこと百にして己に若く者莫(な)しと為す」(道をわずか百ばかり聞いただけで、天下に自分以上の者はないと思い上がる)、
等々もある(仝上)。
(紀元前210年、秦帝国と周辺民族 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%9C%E9%83%8Eより)
「夜郎自大」の出典は、『史記』西南夷伝に、
西南夷君長、以什数、野郎最大。……滇(てん)王与漢使者言曰、漢孰与我大。及野郎候亦然。以道不通。故各自以為一州主、不知漢広大、
とあるのによる。これによると、西南夷(せいなんい)の一つ、
南越国に隣接する、
とされる(四字熟語を知る辞典)、
雲南省東部の滇池(てんち)周辺にあった滇人による西南夷の国、
である(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BB%87)、
滇王、
も、
漢孰与我大(漢は我が大と孰与(いずれ)ぞ)、
と問うていて、
野郎候亦然(野郎候も亦然り)、
と言っているとあるのに、
滇(てん)、
は故事に残らず、
最大、
とされた、
野郎、
が、後世まで汚名を蒙ることになったようだ。「野郎」国は、
夜郎(やろう)、
とも呼ばれ、
前漢末期まで存在した小国(前523~27年)、
とされ、
夜郎の中心地は現在の貴州省赫章県の可楽イ族ミャオ族郷であった。可楽遺址からは多くの夜郎時代の遺跡・遺物が発掘されている、
とあり、
興將數千人往至亭、從邑君數十人入見立。立數責、因斷頭(漢書・西南夷伝)、
と、
前漢末期に漢の牂牁(そうか 現在の貴州省や雲南省にまたがる地域に設置された郡)太守陳立に夜郎王の興が斬首され、
紀元前27年前後に滅亡したと考えられている(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%9C%E9%83%8E)、とある。
夜郎は当時の西南地区における最大の国家であり、(漢の武帝は南越国を征服しようとしていたので)南越国を牽制する目的で唐蒙を使節として派遣、現地に郡県を設置し、夜郎王族を県令に任じることとした、
とある(仝上)。その漢の使者と面会した夜郎王が「漢孰與我大」と尋ねたことになる。
漢による郡県の設置は南越国滅亡後にようやく実施され、夜郎による漢への入朝も行われ、武帝は夜郎王に封じている、
とある(仝上)。しかし、前27年、夜郎王興が反漢の挙兵を起こし、漢軍に撃破され興は斬首され、その直後に滅亡したことになる。滅亡後は郡県が設置され、宋代に至るまでしばしば夜郎県の名称が登場している(仝上)、とある。
この「夜郎自大」と真逆なのが、
況や、粟散国の主としてこの大内(だいだい)を造られたる事、その徳に相応すべからず(太平記)、
と使う、
粟散、
粟散辺地、
粟散辺土、
粟散国、
粟散辺州、
という言い回しである。「粟散」(ぞくさん)は、
粟粒を散らしたように細かく散ること、
の意であり(広辞苑)、「粟散辺地」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/433174213.html)で触れたことと重なるが、「粟散国」は、
粟散卽小國小主散天下、如粟多(楞厳(りょうごん)経會解)、
とあるように、
粟粒を散らしたような小さい国、
という意味で、インドや中国のような大国に対して、日本のことを、へりくだって言った。「粟散辺土」は、
粟散は粟散国(粟のように散在する小国)のこと。「辺地」は最果ての地。特に日本人自身が、日本のことを中国やインドと対照させて、このように表現するときがある、
とある(伊藤聡『神道とはなにか』)。
粟散辺地という言い方は、仏法との絡みで、意識されたようだ。
空間的にも時間的にも仏法より疎外された国、
という意識を、
粟散辺土、
という言葉に表現した自己意識である。この言葉によって見えている世界は、
「仁王経」などによれば、我らの住む南閻浮提(なんえんぶだい 須弥山を取り巻く四大陸のひとつ)は五天竺を中心に、十六の大国、五百の中国、一千の小国、さらにその周囲には無数の「粟散国」があるという。「粟散国」とは粟のごとく散らばった取るに足らぬ国という意味で、日本はそのような辺境群小国のひとつ、
という意識である。事実文明発祥のインド、中国の巨大な影響下にあった、周辺国の一つであることは確かだ。中国由来でないものを探すのは、文字一つとっても、箸ひとつとっても、漆ひとつとっても、至難といっていい。そういう冷静な自己意識であった時代が、我が国では、長かったといっていい。
粟散、
の初見は『聖徳太子伝略(延暦十七年(917))』らしく、以後こういう言い方が定着し、
この国は粟散辺地とて、心うきさかひにてさぶらへば、極楽浄土とて、めでたき処へ具しまゐらせさぶらふとぞ(平家物語)、
と表現される。それと前後して、中国を大国として、
小国辺土、
とも言ったようだ。少なくとも、今日のように、
自己肥大、
した、
夜郎自大、
な風潮よりははるかにましである。
なお、和語「野郎」については、「野郎」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/431378141.html)、「二才野郎」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/434393648.html)で触れた。
参考文献;
伊藤聡『神道とはなにか』(中公新書)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95