2022年02月01日

八風


盛長(大森彦七盛長)が髻(もとどり)を取って中(ちゅう)に引つさげ、八風(はふ)の口より出でんとす(太平記)、

に、

八風、

と当てているのは、

破風、

つまり、

屋根の切妻の三角形の部分にうちつけた板、

と(兵藤裕己校注『太平記』)ある。

神明造りにおける破風.jpg

(神明造りにおける破風 デジタル大辞泉より)

「破風」は、

搏風、

とも当て、

日本建築で、屋根の切妻(きりづま)についている合掌型の装飾板、または、それが付いているところ、

を指す(広辞苑)が、

破風板の付いている屋根の部分(三州瓦豆辞典)、

つまり、

切妻造や入母屋造の屋根の妻(棟の端)の三角形の部分、

をも指しデジタル大辞泉)、

屋根の妻側で桁や母屋の木口を隠して、風雨から屋根を保護するために付ける板。デザインカットされた板を重ね合わせることで、建物のイメージを変えるといった意匠的な側面ももつ、

とあり(ログハウス用語辞典)、実用的な意味と装飾的な意味とがある。しかし、「破風」は、

千木より起こる。もと殿の左右の妻、後にその前に別に形を作る。即ち、屋の切棟の端、両下して山形をなす處、

とある(大言海)ので、本来は、

山形をなす、

ことを指していたのではないかともみえる。つまり、

屋根の妻側の造形、

のことであり、切妻造や入母屋造の屋根の妻側には必然的にあり、

妻壁や破風板など妻飾りを含む、

ということhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A0%B4%E9%A2%A8になる。「搏風」を、

風を搏(う)つ、

からきたとする(日本語源広辞典)説は、「搏風」という字からの解釈で、

風が強く当たる部分、

という意とするのは、当たらずと雖も遠からず、という感じだが、和名類聚抄(平安中期)に、

榑風、和名、如字、

とあり、江戸後期の辞書注釈書『箋注和名抄』に、

按、榑當作搏、榑桑(扶桑)字、音義皆異、但諸本皆従木、

と、本来「搏風」ではなく、

榑風、

としている。色葉字類抄(1177~81)も、

榑風、ハフ、

とする。書言字考節用集(享保二年(1717))は、

破風、ハフ、本字、榑風謂之栄、

とあり、「搏風」でないとすれば、

風が強く当たる部分、

というのは、意味のない語源説になる。神武紀に、

太立宮柱於底磐之根、峻峙榑風(チギ)於高天原、

と、

榑風、

を、

ちぎ、

と訓ませている(大言海)。「千木」と「破風」は一本の材を用い、「千木」は、

社殿の屋上、破風の先端が延びて交叉した木、

を指し、

古代の家は、この突き出た端を切り捨てなかった、

が(岩波古語辞典)、後世、

破風と千木とは切り離されて、ただ棟上に取り付けた一種の装飾(置千木)となる、

とある(広辞苑)。だから、「ちぎ」は、

千木、
知木、
鎮木、

等々と当て(仝上)、

搏風、

とも当てる(日本語源大辞典)が、上述の由来から見ると、本来、

搏風、

ではなく、

榑風、

なのではないか。

「搏」 漢字.gif


「搏」(ハク)は、

会意兼形声。甫(ホ)は、平らな苗床に芽がはえたさま。圃(ホ)の原字。搏の旁は「寸(手)+音符甫」からなり、平面を当てる動作。搏はそれを音符とし、手を添えた字で、パンと平面をうち当てること、

とある(漢字源)。「うつ」「手のひらでたたく」意となる。

「榑」 漢字.gif


「榑」(漢音フ、呉音ブ)は、

会意兼形声。旁の部分(フ・ハク)は、大きく広がる意を含む。榑はそれを音符とし、木を添えた字、枝の広がった大木、

とある(漢字源)。「榑桑」は、太陽の出る所にあるといわれる神木、「扶桑」とも書く、わが国では、

皮のついたままの丸太、

の意である(漢字源)。これを交叉させて、上にで突き出た分が、

千木(榑風)、

山形に交叉した部分が、

搏風(榑風)、

となったとみていいのではないか。因みに「扶桑」は、『南史』夷貊(イバク)伝・東夷・扶桑国に、

扶桑國者……在大漢國東二萬餘里、地在中國東、其土多扶桑木、故以為名、扶桑葉似桐、初生如笋、國人食之、實如梨而赤、積其皮為布以為衣、

とあり、中国東方にあるとされる、

日本国の異称、

とされている(大言海・広辞苑)

破風板.jpg


さて、「破風」は、

伝統的な建物では、彫刻を施した板が貼り付けられて装飾性を持っていました、

とありhttps://shikishima-town.com/blog/word-hahu、細かくは、三角形の斜辺に相当するところにつく板を、

破風板、

とよび、その頂点を、

拝(おが)み、

と名づけられ、破風板は、妻(棟の端)の垂木(たるき 棟から軒にわたす材)を隠すためにつけられた飾り板で、棟木の木口(切り口)を隠すために拝みの下に取り付ける飾りを、

懸魚(げぎょ)、

破風板の中ほどにあって、母屋桁(もやげた 棟や軒桁に平行して、垂木を支えるために渡した横木)の木口を隠す飾りを、

降懸魚(くだりげぎょ)、

という(日本大百科全書)、とある。

また、屋根の流れの中間にあけられた三角部分は、

据(すえ)破風、
または、
千鳥(ちどり)破風、

ともいい、屋根の流れの先端からさらに庇(ひさし)を出したときの妻の部分は、

縋(すがる)破風、

と呼ばれる(仝上)、とある。
千鳥破風.png


破風の形には、直線的な、

直(すぐ)破風、

両端が反り上がる、

反(そり)破風、

中間が上向きに曲がる起(むく)り破風、

があり、玄関など入口によくみられる反転する形の破風は、

圓く下へ反りて、鍬形を倒にしたるが如く、

作る(大言海)、

唐(から)破風、

という(日本大百科全書)、とある。
唐破風.png


参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

ラベル:八風 破風 搏風 榑風
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2022年02月02日

千木


八風http://ppnetwork.seesaa.net/article/485439588.html?1643659605で触れたように、「千木」と「破風」は一本の材を用い、「千木」は、

社殿の屋上、破風の先端が延びて交叉した木、

を指し、

古代の家は、この突き出た端を切り捨てなかった、

が(岩波古語辞典)、後世、

破風と千木とは切り離されて、ただ棟上に取り付けた一種の装飾(置千木)となる、

とある(広辞苑)。

上代の家作に、切棟作りの屋根の、左右の端に用ゐる長き材にて、基本は、前後の軒より上りて、棟にて行き合ふを組交へ、其組目以上、其梢を、そのまま長く出して空を衝くもの。其組目より下は、椽(タルキ)と並び、又、屋根の妻にては、搏風(ハフ)となる、

という(大言海)。

だから、「ちぎ」は、

千木、
知木、
鎮木、

等々と当てる(仝上)とともに、

搏風、

とも当てている(日本語源大辞典)が、本来、「搏風」は、

榑風、

なので、「ちぎ」に当てた字も、

榑風、

なのではないか。神武紀にある、

太立宮柱於底磐之根、峻峙榑風(チギ)於高天原、

も、

榑風、

を、

ちぎ、

と訓ませている(大言海)。「榑」(漢音フ、呉音ブ)は、

会意兼形声。旁の部分(フ・ハク)は、大きく広がる意を含む。榑はそれを音符とし、木を添えた字、枝の広がった大木、

とある(漢字源)。「榑桑」は、太陽の出る所にあるといわれる神木、「扶桑」とも書く、わが国では、

皮のついたままの丸太、

の意である(漢字源)。これを交叉させて、上にで突き出た分が、

千木(榑風)、

山形に交叉した部分が、

搏風(榑風)、

となった。

「千木」は、

氷木(ひぎ)、

ともいう(広辞苑・岩波古語辞典)。『古事記』の出雲大社創建条は、

氷木(ひぎ)、

であり、また、

冰椽、

とも表記され、『日本書紀』の神武天皇紀にも、上述のように、

太立宮柱於底磐之根、峻峙榑風(チギ)於高天原、

と「チギ」と訓ませている。『延喜式』の祝詞において、

高天原の千木に高知りて、

と、「千木」の表記が現れ、平安時代中期には、

チギ、

と訓んだ(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%83%E6%9C%A8%E3%83%BB%E9%B0%B9%E6%9C%A8・岩波古語辞典)。

神明造りにおける破風.jpg

(神明造りにおける破風 デジタル大辞泉より)

「ちぎ」の語源については、大言海は、

氷木(行合へば、合木(あひき)の約)と共に、肘木(ヒヂキ)の上略、又は中略にて、其形、屈折すれば云ふとぞ(枡(ヒヂキ)とは別なり)(雅言考・和訓栞)、

或は、

風木(チギ 搏風(チギ)、搏は、索持也、ナハカラゲ、暴風の材)の義と云ひ、垂木(タルキ)、又は交木(チガヒギ 木と木、十文字に組み合わせるもの、契合(チギリア)ふ木)の約(関秘禄・物類称呼・三省禄・日本語源=賀茂百樹・音幻論=幸田露伴)、

と、諸説挙げているが、

すべていかがか、

と疑問視している。

肘木.bmp

(「肘木」 精選版日本国語大辞典より)

「肘木(ひじき)」は、

うでぎ、

ともいい、

斗(ます)と組合せて、上からの果汁を支える用をなす横木、

であり(広辞苑)、「垂木」は、

椽、
棰、
榱、
架、

などとも当て(広辞苑)、

はえ、

ともいい、

屋根の裏板、または木舞(こまい 野地板、こけら板(柿(こけら))等を受けるために垂木(たるき)の上に取り付けられた桟)を支えるために、棟から軒に渡す材、

とあり、「千木」とは関係ないように思える(仝上)。

垂木.gif


チはタリの約、タリキ(垂木)の義(祝詞考・家屋雑考)、

も同様に思われる。その他、

チはチキル・チカフのチと同言で不動の意、風に吹き倒されないようにするための木の義(筆の御霊)、
チガヒギ・チガヘギ(差木)の義(日本釈名・名言通)、
チはツラ(連)の反。連木の義(延喜式祝詞解)、

もあるが、

千木、

となってからの解釈でしかなく、古く、

氷木(ひぎ)、

と言っていたことを考えると、語源の説明になっていない気がする。「氷木(ひぎ)」についての語源説はないが、江戸後期の辞書注釈書『箋注和名抄』に、

榑風板、比宜、……按、榑當作搏

とある。三角形の斜辺に相当するところにつく板を、

破風板、

と呼ぶので、ここからは憶測だが、一番端の「垂木」を、そのまま伸ばして、交叉させれば、「千木」になる。ここからの勝手な解釈だが、そう考えると、大言海が疑問視した、

風木(チギ 搏風(チギ)、搏は。索持也、ナハカラゲ、暴風の材)の義と云ひ、垂木(タルキ)、又は交木(チガヒギ 木と木、十文字に組み合わせるもの、契合(チギリア)ふ木)の約、

とする説は、

ひぎ(figï)→ちぎ(tigï)、

と(岩波古語辞典)、子音交替したとみられなくもない。

古墳時代の埴輪(はにわ)には、棟の両端だけではなく中間にも数組の千木のあるものもあり、これは垂木(たるき)の上端が屋根を貫いたものらしい、

とある(日本大百科全書)ので、まんざら憶説でもない。「千木」には、発生的には、

垂木(たるき)や破風(はふ)の上端を棟より長く突き出したもの、

と、

大棟や屋根葺き材が風でとばされるのを防ぐために重みとしてあげたもの、

とがある(世界大百科事典)らしいので、なおさらである。

千木と鰹木らしきものを有する家形埴輪.jpg

(千木と鰹木らしきものを有する家形埴輪 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%83%E6%9C%A8%E3%83%BB%E9%B0%B9%E6%9C%A8より)

さて、「千木」には、

其梢の一角を殺ぐを、カタソギと云ふ。伊勢の内宮なるは内角を殺ぎ、外宮なるは外角を殺ぐ、共に共に風穴を明く、

とがあり(大言海)、例外もあるが、

千木には矩形(くけい)の穴があけられており、これを風切穴(かざきりあな)という。千木上部が水平になる内殺(うちそぎ)と、外側が垂直になる外殺(そとそぎ)があり、前者は女神、後者は男神が祭神の本殿を飾る千木という、

らしく(仝上)、

女千木(めちぎ)男千木(おちぎ).jpg

(女千木(めちぎ)男千木(おちぎ) https://izumo-enmusubi.com/entry/chigi/より)

内そぎは女千木(めちぎ)で女神を表す、
外そぎは男千木(おちぎ)で男神を表す、

となるhttps://izumo-enmusubi.com/entry/chigi/

「千」 漢字.gif

(「千」 https://kakijun.jp/page/0316200.htmlより)

「千」(セン)は、

仮借(その語を表す字がないため、既存の同音あるいは類似音をもつ字を借りて表記すること)。原字は人と同形だが、センということばはニンと縁がない。たぶん人の前進するさまから、進・晋(シン すすむ)の音を表し、その音を借りて1000という数詞に当てた仮借字であろう。それに一印を加え、「一千」を表したのが、千という字形となった。あるいは、どんどん数え進んだ数の意か、

とある(漢字源)。

1000の意味を持つ音「人」(nien)と一の合字で1*1000を意味する、

とあるhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%8D%83のはその意味だろう。「一+人」とみれば会意文字というのはありえるので、

会意文字です(人+一)。「横から見た人」の象形(「人民、多くのもの」の意味)と「1本の横線」(「ひとつ」の意味)から、数の「せん」を意味する「千」という漢字が成り立ちました、

という説もありえるhttps://okjiten.jp/kanji134.html

「千」 甲骨文字・殷.png

(「千」 甲骨文字・殷 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%8D%83より)

「木」(漢音ボク、呉音モク)は、

象形。立ち木の形を描いたもの、

である(漢字源)。

「木」 漢字.gif

(「木」 https://kakijun.jp/page/0461200.htmlより)

「木」 甲骨文字・殷.png

(「木」 甲骨文字・殷 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%9C%A8より)

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

ラベル:千木
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2022年02月03日

追儺


金五(近衛府の唐名)四隊列をなして、院々の燈(ともしび)を焼(た)いて白日の如し、沈香火底に坐して笙を吹くと云へる追儺(ついな)の節会、今夜(こよい)なり(兵藤裕己校注『太平記』)、

とある、

追儺は、「鬼門」http://ppnetwork.seesaa.net/article/482333758.htmlでも触れたが、宮中行事の一つで、

大晦日の夜、悪魔を払い疫病を除く儀式で、舎人(とねり)の鬼に扮装した者を、内裏の四門をめぐって追い廻す。大舎人長が方相氏(ほうそうし)の役をつとめ、黄金四つ目の仮面をかぶり、玄衣朱裳を着し、手に矛・楯をとった。これを大儺(たいな)といい、紺の布衣に緋の抹額(まっこう)を着けて大儺に従って駆け回る童子を小儺(しょうな)と呼び、殿上人は桃の弓、葦の矢で鬼を射る、

とある(広辞苑)。四門とは、東・西・南・北の門、建春・宜秋・建礼・朔平の四つの門を指す。

近世、民間行事となり、

福は内、鬼は外、

という二月の節分の豆撒きは、この、

宮中で大晦日の夜、悪魔を払い、疫癘を除くための、

追儺(ついな)の義式、

に由来する(仝上)。追儺は、

儺(だ、な)、
あるいは、
大儺(たいだ、たいな)、
駆儺、
鬼遣(おにやらい。鬼儺などとも表記)、
儺祭(なのまつり)、
儺遣(なやらい)、

等々とも呼ばれるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%BD%E5%84%BA。中国に由来するが、

吉田神社での追儺.jpg

(吉田神社での追儺(『都年中行事画帖』) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%BD%E5%84%BAより)

中国では、

熊の皮をかぶり黄金の四つ目の面をつけ、黒衣に朱裳(しゅしょう)を着した方相(ほうそう)氏という呪師が矛と盾を手にして、宮廷の中から疫鬼を追い出す作法を行った、

という(周礼(しゅらい))。日本には、追儺は陰陽道の行事として取り入れられ、文武天皇の慶雲(きょううん)三年(706)に、諸国に疫病が流行して百姓が多く死んだので、土牛をつくって大儺(おおやらい)を行ったというのが初見(日本大百科全書)とある。『延喜式』によると、

宮中では毎年大晦日の夜、黄金の四つ目の面をかぶり黒衣に朱裳を着した大舎人(おおとねり)の扮する方相氏が、右手に矛、左手に盾をもって疫鬼を追い払ったという。この除夜の追儺はおそらく大祓(おおはらえ)の観念とも結び付いて展開したものと思われるが、そのほか、寺の修正会(しゅじょうえ)や修二会(しゅにえ)の際にもこの鬼やらいの式が行われた、

とある(仝上)。民間で行われる二月の節分の豆撒きにつながるが、大晦日に豆撒きを行う例があるのは、上記の由来と関わる。

方相氏.bmp

(方相氏(ほうそうし) 精選版日本国語大辞典より)

「方相氏」(ほうそうし)とは、

「周礼」に見える周代の官名。黄金四目の仮面をかぶり、玄衣、朱裳を着用し、手に戈と楯を持って悪疫を追い払うことをつかさどったとされる。日本では、追儺の時に宮中の悪鬼を追い、また、葬送の時に、棺を載せた車を先導する役をした(「江家次第」 精選版日本国語大辞典)、

という。

舎人が鬼の紛争をして、これを内裏の四門をめぐって追いまわす。殿上人は桃の木の弓、葦の矢で鬼を射る、

とある(広瀬秀雄『暦(日本史小百科)』)。平安時代中期に成立した私撰の儀式書『北山抄』には、追儺について、

陰陽寮以桃枝弓、葦矢等、頒親王以下、……陰陽師率斎郎(サイノヲ)、入自月華門、奠祭讀梵文畢、方相氏先作儺聲、即以戈撃楯三度、群臣相承、和呼追之、

とある(月華門は、紫宸殿南庭(なんてい・だんてい)の西側の門、東側の日華門と相対する)。

『論語』郷党篇に、

郷人儺、朝服而立阼階(郷人の儺(おにやらい)には、朝服して阼階(そかい)に立つ)

とある。貝塚注には、「儺(おにやらい)」について、

わが国の節分の夜に行われる追儺、つまり疫病神の鬼を追う行事、

とあり、

追儺の行列の群れが村中の戸ごとにはいってきて、口々に「鬼は外」などと唱えてゆくわが国のそれと、中国の昔の郷村も変わりはなかったらしい。この行列に対して、孔子は礼服をつけ、威儀を正して、わが家の中心である宗廟の正殿の東寄りの階段のもとに立って、これを迎えられた、

とする(貝塚茂樹訳注『論語』)。孔子が村人の迷信に儀式ばって迎えた理由については、種々解釈されているが、

孔子の、村の行事を無視しない謹直さの表れ(新注)、
鬼やらいの群れが祖先の神を驚かさないように、階段のもとで応接して帰した(古注)、

に対して、貝塚解釈は、

もっとも古い解釈によると、礼服を着て威儀を正し、祖神の霊を我が身に下ろして、これを安心させたと説いている。祖先の霊を招き下ろして、これを代表して追儺の列に応接した、

とする(仝上)。

なお、

追儺、

という言い方は、漢籍には見られず、日本における呼称。中国では、疫鬼を駆逐する儀礼を、

儺(だ、な)、
大儺(たいだ、たいな)、

という。「観智院本名義抄」には、

儺、

に、

ヲニヤライ(フ)、

の和訓が見える(精選版日本国語大辞典)とあり、類聚名義抄(11~12世紀)にも、

儺、オニヤラヒ、

とある。

「儺」 漢字.gif

(「儺」 https://kakijun.jp/page/na21200.htmlより)

「儺」(漢音ダ、呉音ナ)は、

会意兼形声。難は、ひでりや落雷、やまかじなどの災難のこと。儺は「人+音符難(ダ)」で、人が火で、悪鬼を払う災難除けの行事をあらわした、

とあり(漢字源)、「おにやらい」と訓ます。

参考文献;
広瀬秀雄『暦(日本史小百科)』(近藤出版社)
貝塚茂樹訳注『論語』(中公文庫)

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2022年02月04日

訇る


門を開けて、方々へ追って見よと訇(ののし)り、沙汰しける間(太平記)、

とある、

訇る、

は、

大声で騒ぐ、

意と注記がある(兵藤裕己校注『太平記』)。通常、

ののしる、

は、

罵る、
詈る、

等々と当てる。「訇」(コウ)は、手元の漢和辞典(字源)には載らないが、

大きな音や声の形容、

とあるhttps://kanji.jitenon.jp/kanjiq/8083.html

罵る、

と当てる「ののしる」は、

ノノは大音・大声を立てる意。シルは思うままにする意。類義語サワグは、音・声と動きが一所に起こる意、

とある(岩波古語辞典)。その意味で、本来は、

法雷を響(ののし)りて、弁を吐き(地蔵十輪経序)、

と当て、

大音を響かせる、

意や、

いと騒がしく人まうでこみてののしる(源氏物語)、

と、

がやがやと騒ぐ、

意や、

里びたる犬ども出で来てののしるも、いとおそろしく(源氏物語)、

と、

高い声や音を立てる、

意で使ったものと思われる。そこから、

この僧都に負け奉りぬ。今はまかりなむとののしる(源氏物語)、

と、

わめく、

意や、

恒水の神を罵りき、仏、因りて之を誡めて(法華経義疏)、

と、

罵倒する、

や、

后の腹立ちののしり給ひて(宇津保物語)、

と、

声高に非難する、
悪口を言う、

意となり、

うちに御薬の事ありて、世の中さまざまにののしる(源氏物語)、

と、

大騒ぎする、
盛大にする、

意となり、さらに、

この世にののしり給ふ光源氏、かかるついでに見奉り給はむや(源氏物語)、

と、

(世人が大声でいう意)評判が立つ、

意、

岸にさしくる程みれば、ののしりて詣で給ふ人のけはひ、渚に満ちていつくしき神宝をもて続けたり(仝上)、

と、

勢いがさかんである、

意、

そののち左の大臣の北の方にて、ののしり給ひける時(大和物語)、

と、

羽振りをきかす、

意、あるいは、

汝なぜに我を礼拝せぬぞ、唯今われを踏み倒さうも身がままぢゃと、ゆゆしげにののしって過ぎたが(天草伊曾保)、

と、

大声で𠮟りつける、

意などでも使うに至る(広辞苑・岩波古語辞典)。しかし、大言海は、

声高に言ひ騒ぐ、

意の、

ののしる、

には、

喧(やかま)しく呼ぶ、
騒ぎ立てるように呼ぶ、

意の、

喧呼、

を当て、

怒りて、然り言ふ、
罵(の)る、

意の、

ののしる、

には、「喧呼」を当てた「ののしる」の転として、

罵る、

を当てる見識を示している。平安後期の漢和辞書『字鏡』(じきょう)には、

聒、喧語也、左和久、又乃乃志留、

とある。「聒」(カツ)は、「やかましい」意であり、「喧」(ケン)は、「喧嘩」「喧噪」の「喧」であり、「やかましい」「さわがしい」意である。また、色葉字類抄(1177~81)には、

訇、ノノシル、𨋽訇、ノノシル、大声也、

とある(大言海)。どうやら、「ののしる」は、

擬声(音)語、

由来と思われる。

見る人皆ののめき感じ、あるひは泣きけり(宇治拾遺物語)、

とある、

声高に叫び騒ぐ、

意の、

ののめく、

の、

のの、

とも通じ、

ノノ(騒がしい音を立てる)+シル(占有する)、

とある(日本語源広辞典)のが、

ノノは大音・大声を立てる意。シルは思うままにする意(岩波古語辞典)、

と共に、妥当な説に思える。「しる」を、

領る、
占る、

と当て、

占有する、
支配する、

意とするのも共通する。ただ、

罵(の)る、

という言葉があり、これは、

宣(の)る、
告(の)る、

の転化したものとされる。この、

のる、

の、

の、

は、「のる」が、

神や天皇が、その神聖犯すべからざる意向を、人民に対して正式に表明するのが原義。転じて、容易に窺い知ることを許さない、みだりに口にすべきでない事柄(占いの結果や自分の名など)を、神や他人に対して明かし言う義。進んでは、相手に対して悪意を大声で言う義、

という意であったことから考えると、単なる、

騒音、

ではなく、

聖なる声(音)、

だったのかもしれない。それが、

聖→俗→邪(穢)、

と転化したのかもしれない。

そうみると、「罵(の)る」から「ののしる」の語源を考えようとする、

ノリソシル(罵譏)の約か(俗語考)、
ノリノリシカル(罵々叱)の義(名言通)、
ノリノリシクソシルの義(和句解)、
ノリシヒル(罵強)の義(言元梯)、

の諸説も一概に一笑に付することはできない気がする。

「訇」 漢字.gif


「訇」(コウ)は、

形声。「言」+ 音符「句の略体」、

大きな音の形容。ごうごう、

の意としかないhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E8%A8%87)。

「罵」 漢字.gif

(「罵」 https://kakijun.jp/page/ba15200.htmlより)

「罵」(漢音バ、呉音メ)は、网(あみ)は、相手におしかぶせる意を示す。罵は「网(あみ)+音符馬」で、馬の突進するように、相手かまわずおしかぶせる悪口のこと、

とあり(漢字源)、「ののしる」「大声で悪口を言う」意で、和語「ののしる」の「大音を響かせる」意はふさわしくない。で、

響(ののし)る、
訇(ののし)る、

を当てたものと思われる。他に、

会意形声。「网(=網)」+「馬」。「网」は「あみ」で「詈」にも見られるように、相手におしかぶせ抵抗できなくするさま。「馬」は、速さをもって突進するさま。相手かまわず、悪口を押しかぶせる、

とかhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%BD%B5

形声文字です(罒(网)+馬)。「網」の象形と「馬」の象形(「馬」の意味だが、ここでは、「幕」に通じ(「幕」と同じ意味を持つようになって)、「覆いかぶせる」の意味)から、網や幕をかぶせるように悪口をあびせかける、「ののしる」を意味する「罵」という漢字が成り立ちました、

とかhttps://okjiten.jp/kanji2008.htmlあるが、意味は、同じである。

「罵」 成り立ち.gif

(「罵」 成り立ち https://okjiten.jp/kanji2008.htmlより)

「ののしる」は、

詈る、

とも当てるが、「罵る」「詈る」の違いは、

罵は、悪言を以て人に加ふる義。史記「輕士善罵」、
詈は、罵より輕し、韻會「正斥罵、旁及曰詈」とあり、書経「小人怨汝詈汝」、

とある(字源)。

「詈」(リ)は、

会意。「罒(网 かみ、かぶせる)+言」。相手に、ののしることばをかぶせることをあらわす、

とある(漢字源)。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
簡野道明『字源』(角川書店)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

ラベル:訇る
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2022年02月05日

のる


「のる」は、「訇る」http://ppnetwork.seesaa.net/article/485476446.html?1643918412で触れたように、

宣る、
告る、
罵る、

と当て、

神や天皇が、その神聖犯すべからざる意向を、人民に対して正式に表明するのが原義。転じて、容易に窺い知ることを許さない、みだりに口にすべきでない事柄(占いの結果や自分の名など)を、神や他人に対して明かし言う義。進んでは、相手に対して悪意を大声で言う義、

とあり(岩波古語辞典)、また、

本来、単に口に出して言う意ではなく、呪力をもった発言、重要な意味をもった発言、普通は言ってはならないことを口にする意、

ともあり(日本語源大辞典)、

天の益人(ますひと)らが過ち犯しむけ雜々(くさぐさ)の罪は、天つ罪と畔放ち溝埋み……許多(ここだく)の罪を天つ罪とのり別けて(祝詞大祓詞)、

と、

神や天皇が神意・聖意を表明する、

意から、

夕卜(ゆふけ)にも占(うら)にものれる今夜だに來まさぬ君を何時とか待たむ(万葉集)、

と、

神意を表す、

意、そこから、広げて、

畏(かしこ)みとのらずありしをみ越路の手向(たむけ)に立ちて妹が名のりつ(万葉集)

と、

みだりに口にしてはならないことをはっきりと表明する、

意まで、「犯すべからざる意向」の意味が広がり、その延長線上に、

おのれゆゑ詈(の)らえてをれば𩣭馬(あをうま)の面高夫駄(おもたかぶた)に乗りて来(く)べしや(万葉集)

と、

大声でののしりの言葉を口に出す、

意までつなげる(岩波古語辞典)。しかし、大言海は、

宣る、
告る、

と、

罵る、

とは別項にしている。前者は、

述(のぶ)る意と云ふ、

として、

言(こと)を述ぶ、

意とし、後者は、

怒り宣(の)る意、

として、

卑しめて無礼げに物言ふ、
辱め言ふ、
悪口言ふ、

意とする。確かに、

宣る、
告る、

意は、類聚名義抄(11~12世紀)には、

詢、ノル、トフ、

色葉字類抄(1177~81)には、

詢、ノル、

とある。「詢」(慣用ジュン、漢音呉音シュン)は、

会意兼形声。「言+音符旬(ジュン ひとめぐり)」、

とあり(漢字源)、「詢問」(尋ね問うこと)と使うように、「とう」「はかる」意であり、神に、問い、諮っている意でから「のる」に、当てたのかもしれない。そして、

罵る、

意は、類聚名義抄(11~12世紀)は、

詬、ノル、ハヂシム、詈、ノル、

とあり、「詬」(コウ、ク)は、「はずかしめる」「ののしる」意で、「詬譏」(こうき)」は、ののしりそしる、「詬辱」(こうじょく)は、辱める意で使う。

「恥」の意味の差は、「恥」http://ppnetwork.seesaa.net/article/424025452.htmlで触れたように、

恥、はぢ、はづると訓む。心に恥ずかしく思う義、重き字なり、論語「行己有恥」中庸「知恥近乎勇」、
辱、はずかしめなり、栄の反対。外聞悪しきを言ふ、転じて賓客応酬の辞となり、かたじけなしと訓む。降屈の義となり、拝命之辱とは、貴人の命の降るを拝する義なり。曲禮「孝子不登危、懼辱親也」、
忝、辱に近し、詩経「亡忝爾所生」、
愧、おのれの見苦しきを人に対して恥づる也。醜の字の気味あり、媿に作る、同じ。韓文「仰不愧天、俯不愧人、内不愧心」、
慙、慙愧と連用す、愧と同じ、はづると訓む、はぢとは訓まず。孟子「吾甚慙於孟子」、
怍、はぢて心を動かし、色を変ずるなり。禮記「容母怍」、
羞、はぢて心にまばゆく、顔の合わせがたきなり、婦女子などの、はづかしげにするなどに多く用ふ。
忸、忸・怩・惡の三字ともに羞づる貌。
僇(リク)、大辱なり、さらしものになるなり、
赧(タン)、はぢて赤面するなり、
詬、悪口せられてはづる義、言に従ひ垢の省に従ふ、

とある(字源)。あえて「詬」の字を当てたのだとすると、罵る側ではなく、相手を恥ずかしめる含意があることになる。

確かに、「宣る」「告る」と「罵る」は、語源的に、前者は、

朝鮮語nil(云)と同源(岩波古語辞典)、
ノブル(宣・述)の義(言元梯・名言通・大言海)、
ノルの本質はノル(乗)。言葉という物を移して人の心に乗り負わせるのが原義(続上代特殊仮名音義=森重敏)、

などとされ、後者は、

怒りノル(宣)の意(大言海)、
人を下にする意で、ノリ(乗)の義(名言通・言葉の根しらべの=鈴木潔子)、
ナル(鳴)の義(言元梯)、

などと、別由来とするものが多い。しかし、

ノロフ(呪)の語もこの語(「のる」)から派生したものである、

とある(日本語源大辞典)ように、「のろう」は、

告るに反復・継続の接尾語ヒがついた形(岩波古語辞典)、
ノリ(宣)に活用語尾ハヒのついたもの(日本古語大辞典=松岡静雄)、
ノル(宣)の未然形に反復・継続の助動詞フがついたノラフの変化(語源辞典・形容詞篇=吉田金彦)
ノル(宣)の義(名言通・嫁が君=煤垣実)、

と、「のる」と関連させるとする説は多く、また「いのる」も、

イはイミ(斎・忌)・イクシ(斎串)などのイと同じく、神聖なものの意。ノルはノル(告)・ノリ(法)などと同根か。妄りに口に出すべきでない言葉を口に出す意(岩波古語辞典)、
斎宣(いの)るの義(大言海・言元梯)、
イノル(忌宣)るの義(名言通・和訓栞)、
イは接頭語、ノリは宣(日本古語大辞典=松岡静雄)、

と、「のる」と関連させる説が多い。逆に、「のろう」http://ppnetwork.seesaa.net/article/403152541.htmlで触れたように、「のろう」を、

祈(いの)るの上略延(大言海)、
「祈る(ノル)」+「ふ」(日本語源広辞典)、

としても、「いのる」http://ppnetwork.seesaa.net/article/436270292.htmlが、

動詞「の(宣)る」に接頭語「い(斎)」が付いてできた語、

というように、「のる」由来となってくるので、

神仏に幸福を求める、

のと、

相手に災いがあるように祈る、

とは、

呪う、
と、
祈る、

と裏表で、結局、

みだりに口に出すべきでない言葉、

を口に出す意味では同じである。「のる」が、

神聖な言葉を口に出す→相手に悪意を言う、

のとつながるはずである。つまりは、

宣る、
告る、

が、

罵る、

へと転化したものと見ていいように思える。

なお、「のる」は、中古以降、

名のる(名告る)、

の形でのみ残る(日本語源大辞典)が、

名乗る、

は当て字である。

「宣」 漢字.gif

(「宣」 https://kakijun.jp/page/0944200.htmlより)

「宣」(セン)は、

会意兼形声。亘(エン・カン)とは、まるく取巻いて区画をくぎるさま。垣(エン めぐらせたかき)や桓(カン 周囲を取り巻く並木)と同系。宣は「宀(いえ)+音符亘」で、周囲をかきで取巻いた宮殿のこと。転じて、あまねく廻らす意に用いる、

とある(漢字源)。借りて、あきらかの意に用いる(角川新字源)ともある。別に、

「宣」 甲骨文字・殷.png

(「宣」 甲骨文字・殷 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%AE%A3より)

会意兼形声文字です(宀+亘)。「屋根・家屋」の象形と「物が旋回する」象形(「めぐりわたる」の意味)から、部屋で、天子が家来に自分の意思をのべ、ゆきわたらせる事を意味し、そこから、「のべる」、「広める」を意味する「宣」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji1068.html

「告」 漢字.gif

(「告」 https://kakijun.jp/page/0748200.htmlより)

「告」(コク・コウ)は、

会意。「牛+囗(わく)」。梏(コク しはぎったかせ)の原字。これを上位者に告げる意に用いるのは、号や叫と同系の言葉に当てた仮借字、

とある(漢字源)が、別に、

会意。口と、牛(うし)とから成り、牛の角に付ける横木の意を表す。牛が横木を人に当てることから、「つげる」、知らせるの意に用いる、

とも(角川新字源)、

会意文字です(牛+口)。「捕えられた牛」の象形と「口」の象形(「祈る」の意味)から、いけにえとして捕らえた牛をささげて神や祖霊に「つげる」を意味する「告」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji638.html

「告」 成り立ち.gif

(「告」 成り立ち https://okjiten.jp/kanji638.htmlより)

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
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ラベル:のる 宣る 告る 罵る
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2022年02月06日

十死一生


「十死一生」は、

到底生きる見込みのないこと、

あるいは、

生命の危険なこと、

また、

そのような状態からかろうじて生命が助かること、

の意で使われ(広辞苑・故事ことわざの辞典)、

十死に一生、

ともいい、

ジッシイッショウノワヅライヲスル、

と(日葡辞書)、

九死に一生、

をさらに強めた言い方になる(仝上)。ただ、

とても生きて帰るまじき事なればとて、十死一生の日を、吉日に取ってぞ向かひける(太平記)、

と、

十死一生の日、

と使うと、

十死日(じっしび)、

とも言い、

陰陽道の説で、出陣して生還の見込みのない大凶の日、

と注記される(兵藤裕己校注『太平記』)ように、

万事に大凶の日、特にこの日、(生還の見込みなしとされ)戦闘することを忌み、民間暦では、嫁取り、葬送に悪いとされる、

とあり(広辞苑・精選版日本国語大辞典)、平安貴族の必須知識を記した源為憲の「口遊」や陰陽道の書「簠簣内伝(ほきないでん)」に、

酉巳丑酉巳丑酉巳丑酉巳丑、

とあるが、これは、

一月が酉の日、二月が巳の日、三月が丑の日というように、三か月ごとに酉・巳・丑の日が繰り返して十死一生の忌日に当たることを表わしたもの、

であり、このような知識は平安時代前期には貴族の間で一般的になっていた(精選版日本国語大辞典)とされる。

もっとも、

十死、

自体にも、

既に十死の体に見え候(芭蕉書簡)、

と、

生きる見込みがなくきわめて危ない、

意がある(広辞苑)。

九死に一生、

は、

九死に一生を得る、
九死の中に一生を得る、
九死を出でて一生を得る、

ともいい、これは屈原の「離騒」の、

亦余之所善兮雖九死其猶未悔、

に対する唐の劉良の注にある、

九死無一生、未足悔恨、

に端を発する(仝上)とされ、中国では、「十死一生」の方が古いと考えられるとあり(仝上)、

兼又忠常従去月廿八日受重病、日来辛苦、已九死一生也(長元四年(1031)「左経記」)、

と、

十のうち「死」が九分、「生」が一分、

の意で、

ほとんど助かるとはおもえないほどの危険な状態、

また、

そのような状態からかろうじて命が助かる、

意(『故事ことわざ辞典』・精選版日本国語大辞典)で使われるが、「九死」自体も、「十死」同様に、

敵数十人囲之、被疵輸九死(垂加文集(1714~4)・加藤家伝)、

と、

十のうち九分までの死、

の意(精選版日本国語大辞典)、

で、

ほとんど死にそうになるほどの危い場合、

の意がある。

「十死一生」「九死に一生」と似た言い方に、

万死、

がある。

とても生命の助かる見込みのないこと、

の意で、

命を軽んずる郎等ども、返し合わせ返し合わせ、所々にて討死しけるその間に、万死を出でて一生に会ひ(太平記)、

と、

死地を逃れ生き延びる、

意で使われる。

万死を出でて一生に逢へり(「貞観政要(じょうがんせいよう)」)、
万死の中に一生を得る、

とも表記し、また、

夫秦為無道破人国家、……将軍瞋目張膽、出萬死不顧一生之計、為天下除殘也、

と(史記・張耳陳余伝)、

万死一生を顧みず、

と、

生き延びるわずかな望みを当てにしない、
命を捨てる覚悟で殊に当たる決意をする、

意でも使う。上記文例中の、「瞋目張胆(しんもくちょうたん)」は、成句になっていて、

目を瞋(いから)し胆を張る、

とも訓み、

「瞋目」は怒りで目をむき出すこと、
「張胆」は肝っ玉を太くすること、

で、

恐ろしい事態にあっても、恐れずに勇気を持って立ち向かう心構え、

をいう言葉になっている(四字熟語辞典)。

「万死」は、また、

罪万死に値する、

と、

何度も死ぬ、

意でも使ったりする。

「九死に一生」「十死一生」「万死」と似た言い方に、

刀下の鳥林藪(りんそう)に交わる、

がある。

刀下の鳥山林に帰る、

ともいい、

俎上の魚江海(こうかい)に移る、

ともいい、

是や此俎上の魚の江海に移り、刀下(タウカ)の鳥の林藪(リンソウ)に交(マシハ)るとは、只夢の心地ぞし給ける(「源平盛衰記(14C前)」)、

と、

斬り殺されようとした鳥がのがれて、林ややぶの中に遊ぶ、

意である(精選版日本国語大辞典・故事ことわざの辞典)

「十」 漢字.gif

(「十」 https://kakijun.jp/page/0211200.htmlより)

「十」(慣用ジッ、漢音シュウ、呉音ジュウ)は、

指事(数や位置など、形を模写できない抽象的概念を表わすために考案された漢字)。全部を一本に集めて一単位とすることを、丨印で示すもの。その中央が丸く膨れ、のち十の字体となった。多くのものを寄せ集めてまとめる意を含む。促音の語尾がpかtに転じた場合は、ジツまたはジュツと読み、mに転じた場合はシン(シム)と読む。証文や契約書では改竄や誤解をさけるため、拾と書くことがある、

とある(漢字源)が、

象形。はりの形にかたどる。「針(シム)」の原字。借りて、数詞の「とお」の意に用いる、

とも(角川新字源)、

指事或いは象形。まとめて一本「丨」にすることから、後にまとめたことが解るよう中央部が膨れた。或いは針の象形で、「針」の原字とも(なお、「シン」の音はdhiəɔpのp音がmpを経てm音となったもの)、

ともhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%8D%81

「十」 金文・殷.png

(「十」 金文・殷 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%8D%81より)
「十」 金文・西周.png

(「十」 金文・西周 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%8D%81より)

象形文字です。「針」の象形から、「はり」の意味を表しましたが、借りて(同じ読みの部分に当て字として使って)、「とお」を意味する「十」という漢字が成り立ちました、

との解釈もあるhttps://okjiten.jp/kanji132.html

参考文献;
尚学図書編『故事ことわざの辞典』(小学館)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
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2022年02月07日

順逆二縁


垂迹(すいじゃく)和光の悲願を思へば、順逆の二縁、いづれも済度(さいど)利生(りしょう)の方便なれば、今生の逆罪飄(ひるがえ)りて、当来の知遇やなるらんと(太平記)、

とある、

順逆二縁、

とは、

順縁(善行が仏縁となること)と逆縁(悪行がかえって仏縁となること)、

の意とある(兵藤裕己校注『太平記』)。「垂迹」とは、

仏・菩提が、衆生済度のために仮の姿を取って現れること、

の意(広辞苑)だが、

本地垂迹説、

では、世の人を救うために仮に姿を現す、

仏菩薩を本地(真実の身)、神を垂迹(仮の身)とする、

となる(仝上)。上記、

順逆の二縁、

は、

順逆二縁共に成仏す、

と言われたりする。

妙法の功徳は、教えを聞いて正しい信仰に入る順縁の人と、教えを聞いて背き逆らう逆縁の人を、共に救う、

とあるhttps://hokkekou.com/67se/9jyungyaku/

順逆皆方便(首楞厳(りょうごん)経)、
因縁有順逆(天台大師智顗・摩訶止観)、

ともある。

順縁とは、

素直(すなお)に仏縁を結(むす)ぶということです。順は素直の意あり、縁は仏縁を意味します。したがって、仏の真実の教えである妙法の教えを聞いて素直に信じ、仏道に精進する者を、

順縁の衆生、

といいhttp://okigaruni01.okoshi-yasu.com/yougo%20kaisetu/junen-gyakuen/01.html、これらが済度されるのは当たり前に見えるが、

妙法の教えを聞いても信ずることなく破法(はほう)・謗法(ほうぼう)を重ね、後にその罪が逆に仏縁となっていくことを、

逆縁、

といい、

このような衆生は、永く悪道に堕(お)ちて苦しみを受けなければなりませんが、一度植られた妙法の仏種(ぶっしゅ)は失(う)せることなく衆生の心田(しんでん)に残ります。そして、その仏種が縁にふれて薫発(くんぱつ)し、やがて得脱(とくだつ)することができる、

とあり(仝上)、このような因縁(いんねん)で救われていく衆生を、

逆縁の衆生、

という(仝上)。逆縁は、

雑(ぞう)毒薬を以って用いて、太鼓に塗り、大衆の中において、之(これ)を撃ちて声を発(おこ)さしむるがごとし、聞かんと欲する心無しと雖も、之を聞けば皆死す、

とあり(涅槃経)、

毒鼓(どっく)の縁、

ともいわれる(仝上)。

当世の人何となくとも法華経に背く失(とが)に依りて、地獄に堕ちん事疑ひなき故に、とてもかくても法華経を強ひて説ききかすべし。信ぜん人は仏になるべし、謗ぜん者は毒鼓の縁となって仏になるべきなり。何(いか)にとしても仏の種は法華経より外(ほか)になきなり(日蓮・法華初心成仏抄)、

とあり、歎異抄で、親鸞が、他力本願から、

善人なおもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや、

というのは、

しかるを世の人つねにいわく、悪人なお往生す、いかにいわんや善人をや、

の意ではなく、

煩悩具足の我らはいずれの行にても生死を離るることあるべからざるを憐れみたまいて願をおこしたまう本意、悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もっとも往生の正因なり。よって善人だにこそ往生すれ、まして悪人は、

と言ったのとは、少し違う。というがまったく逆である。

これだけ信心したのだから、
これだけ善行を積んだのだから、

というのは、こちらの思惑に過ぎない。「はからい」http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163469.htmlで触れたように、

自力作善の人は、ひとえに他力をたのむ心欠けたる間、弥陀の本願にあらず、

とあり、大事なのは、

計らいを捨てる、

という。親鸞が晩年に弟子に語ったものを聞き書きした『自然法爾章』によると、

浄土の阿弥陀如来から射してくる光を信じて、一遍でもなんら計らうことなく念仏を称えるという状態にひとりでになっていったときに、その両者の光がうまくいきあったときには、必ず浄土へ行ける、

そういう自然な状態を、

自然法爾(じねんほうに)、

と言っているらしい(「自然」はおのずからそうであること、そうなっていること。「法爾」はそれ自身の法則で、そのようになっていることの意)。この考え方の面白いところは、

こちらが信じてみようという気持ちになったら、浄土から光が差してくる、

というのではなく、信の心の状態になれる人のところに光が差してくる、

というところにある。つまり、こちらの関心ではなく、関心を持つということは、

向こうから光が射してきた、だから関心をもった、

と考える。これが親鸞の到達した地点だという。

人に対してであろうと、信仰であろうと、そのことに関心を持ち始めるということは、すでに向こうからこちらを包み込んでいる、

それが、

第十八願、

たとい我、仏を得んに、十方の衆生、至心に信楽(しんぎょう)して我が国に生れんと欲し、乃至十念せん、若し生れずば正覚を取らじ、

つまり、

わたしが仏になるとき、すべての人々が心から信じて、わたしの国に生れたいと願い、わずか十回でも念仏して、もし生れることができないようなら、わたしは決してさとりを開きません、

という、至心、信楽、欲生我国の三心をもって念仏すれば必ず往生するようにさせるとする、

浄土三部経の一つ『大無量寿経』のうちに説かれる阿弥陀如来の48の誓願の第18番目の願で、この誓いの中に、

阿弥陀如来から射してくる光が向いている方向がある、

というのである。

至心に阿弥陀仏を信じて名号を称えれば、必ず浄土へ行けるとは、その状態が自然になれば、浄土の方から光が射してくる、という考え方になる。

しかし、こうすれば浄土へ行ける、と言うのは、こちらの計らいであって、それのない状態で、称える心の状態になれたら、と言う意味のようだ。そう考えると、

善人なおもて往生をとぐ、いはんや悪人をや、

とは、こちらの計らいのない状態、

よいことをするといい、
善行を積めば救われる、

いった計らいがないことを象徴的に言っているとみなすことができる。

僕は、信仰心のないものだが、信仰とは、こちらの思惑、意図とは関係ないものなのだということがよくわかるという意味で、親鸞の考えの方が納得できる。

「順」 漢字.gif


「順」(漢音シュン、呉音ジュン)は、

会意。「川+頁(あたま)」。ルートに添って水が流れるように、頸を向けて進むこと、

とある(漢字源)が、

形声。頁と、音符川(セン)→(シユン)とから成る。「したがう」意を表す、

とも(角川新字源)、

「順」 成り立ち.gif

(「順」 成り立ち https://okjiten.jp/kanji692.htmlより)

会意兼形声文字です(川+頁)。「流れる川」の象形と「人の頭部を強調した」象形(「かしら・頭部」の意味)から、
川の流れのように、事の成り行きにまかせる顔になる、すなわち、「したがう・素直」を意味する「順」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji692.html

「逆」 漢字.gif

(「逆」 https://kakijun.jp/page/0968200.htmlより)

「逆」(漢音ゲキ、呉音ギャク)は、

会意兼形声。屰は大の字型の人をさかさにしたさま。逆はそれを音符とし、辶を加えた字で、逆さの方向に進むこと、

とある(漢字源)が、

会意形声。辵と、屰(ゲキ、ギヤク 上下をさかさまにした人の形)とから成り、向こうからやってくる人を「むかえる」の意を表す。また、「さからう」意に用いる、

とも(角川新字源)、

会意形声。「辵」+音符「屰」(ゲキ)。「屰」は「大」を上下反転させたもので人をさかさまにした図。逆さの方向に進むこと、

ともhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E9%80%86

「逆」 成り立ち.gif

(「逆」 成り立ち https://okjiten.jp/kanji734.htmlより)

会意兼形声文字です(辶(辵)+屰)。「立ち止まる足の象形と十字路の右半分象形」(「行く」の意味)と「さかさまにした人」の象形から「さからう」・「さかさま」を意味する「逆」という漢字が成り立ちました。また、「迎」に通じ
(「迎」と同じ意味を持つようになって)、「迎える」の意味も表すようになりました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji734.html

「縁」 漢字.gif

(「縁」 https://kakijun.jp/page/1577200.htmlより)

「縁」(エン)は、

会意兼形声。彖(タン)は、豕(シ ぶた)の字の上に特に頭を描いた象形文字で、腹の垂れ下がったぶた。豚(トン)と同系のことば。縁は「糸+音符彖」で、布の端に垂れ下がったふち、

とある(漢字源)が、

形声。糸と、音符彖(タン)→(エン)とから成る。織物の「ふち」の意を表す。借りて「よる」意に用いる、

とも(角川新字源)、

形声文字です(糸+彖)。「より糸」の象形と「つるべ井戸の滑車のあたりから水があふれしたたる象形」(「重要なものだけ組み上げ記録する」の意味だが、ここでは、「転」に通じ(「転」と同じ意味を持つようになって)、「めぐらす」の意味)から、衣服のふちにめぐらされた装飾を意味し、そこから、「ふち」、「まつわる」を意味する「縁」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji1127.html

「縁」 成り立ち.gif

(「縁」 成り立ち https://okjiten.jp/kanji1127.htmlより)

参考文献;
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
吉本隆明『親鸞』(東京糸井重里事務所)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

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2022年02月08日

ばさら


武家の輩(ともがら)、……そぞろなるばさらによって、身には五色を粧(よそお)ひ、食には八珍を尽くし、茶の会、酒宴そこばくの費えを入れ、傾城田楽に無量の財(たから)を与へしかば(太平記)、

とある、

ばさら、

は、

婆沙羅、
婆佐羅、
時勢粧、

等々と当て(広辞苑・日本大百科全書)、

常軌を超えた豪奢な風俗、

とあり(兵藤裕己校注『太平記』)、

南北朝動乱期の美意識や価値観を端的にあらわす流行語、

である。

近日婆佐羅と号して、専ら過差(かさ 身分不相応なぜいたく)を好み、綾羅(りょうら)・錦繍(きんしゅう)・精好(せいごう)銀剣・風流(ふりゅう)服飾、目を驚かさざるなし、頗(すこぶ)る物狂(ぶっきょう)と謂ふべきか(建武式目(1336))、

とか、

佐々木佐渡判官入道々誉が一族若党共、例のばさらに風流を尽して(太平記)、

というように、

みえをはって派手にふるまうこと、
おごりたかぶって贅沢であること、
形式・常識から逸脱して、奔放で人目をひくようなふるまいをすること、また、そのさまやそのような行ない、
また珍奇な品物など、

という(広辞苑・精選版日本国語大辞典)、

伊達(だて)な風体、

の状態表現の意味から、

大酒遊宴に長じ、分に過ぎたるばさらを好み(北条九代記)、

と、価値表現へシフトして、

遠慮なく、勝手に振る舞うこと、
しどけいこと、乱れること、また、そのさま、
放逸、放恣(ほうし)、

といった意味(広辞苑・デジタル大辞泉)で使われる。

此頃都ニハヤル物 夜討 強盗 謀(にせ)綸旨
召人 早馬 虚騒動(そらさわぎ)
生頸 還俗 自由(まま)出家
俄大名 迷者、

とはじまる、二条河原の落書(建武元年(1334年)8月成立)にも、

ハサラ扇ノ五骨、

とあり、

骨数の少ない扇面に粗放、はでな風流絵を施したもの、

をいうらしい(日本大百科全書)。

「ばさら」の由来は、

跋折羅(ばざら)から、

とあり(広辞苑)、

伐折羅(ばざら)、

とも当て、

サンスクリット語(梵語)vajraバジラ、

訳して、

金剛、
金剛石、

からけの転訛とされる(大言海)。

薬師如来および薬師経を信仰する者を守護するとされる十二尊の仏尊である、

十二薬叉大将(じゅうにやくしゃだいしょう)、
十二神王、

ともいう、

十二神将(じゅうにしんしょう)、

の一つである、

伐折羅大将(ばざらだいしよう)、

別に、

伐折羅陀羅(ばざらだら)、
跋闍羅波膩(ばじゃらぱに)、

つまり、

金剛力士、

を指すが、鎌倉時代の中期には、すでに「派手(はで)」「分(ぶ)に過ぎた贅沢(ぜいたく)」「乱脈」等々の意味をもつ言葉として用いられていたようである(世界大百科事典)。

なお、狛朝葛(こまあさかつ)の音楽書『続教訓抄』(文永七年(1270)頃成立)に、

友正が笛を、白河院聞しめして、褒めたまひて、下臈の笛ともなく、ばさらありて仕るものかな、

と、

音楽・舞楽で、本式の拍子からはずれて、技が目立つようにする自由な形式。また、そのような音楽・舞楽のさま、

の意で使われているのが、「ばさら」の語が文献に現れた早い例と見られる(仝上)。

伝統的な奏法を打ち破る自由な演奏、

を、

ダイヤモンドのような硬さで常識を打ち破るというイメージが仮託されたものである、

とされるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%B0%E3%81%95%E3%82%89。ここから由来して、

鎌倉時代末期以降、体制に反逆する悪党と呼ばれた人々の形式や常識から逸脱して奔放で人目を引く振る舞いや、派手な姿格好で身分の上下に遠慮せず好き勝手に振舞う者達を指すようになり、以降この意味で定着する、

とある(仝上)。

「ばさら」で有名なのは、

婆沙羅大名、

として知られる、

佐々木(京極)高氏、

で、

佐々木佐渡判官入道(佐々木判官)、
佐々木道誉、

の名でも知られる。有名なエピソードは、『太平記』(巻第三十七「新將軍京落事」)の、

正平17年/延文6年(1361年)の都落ちで、細川清氏が南朝の楠木正儀(まさのり)らとともに入京する前に、自身の邸宅を占拠する武将をもてなすとして六間の会所に畳を敷き、本尊・脇絵・花瓶・香炉・鑵子・盆に至るまで飾りたて、書院には王羲之の書や韓愈の文集を置いた。さらに眼蔵なども調え、三石入の大筒に酒を用意して、遁世者2人を置いて来訪者には誰に対しても酒を勧めるよう申し付けて退去したという。道誉の邸宅に入った正儀は遁世者から一献勧められたことで感じ入り、細川清氏らの主張する導誉邸の焼き払いを制し、……その後、戦況が一変して正儀が退去する立場となったが、『太平記』では正儀はさらに豪華に飾り立て、導誉へ返礼として鎧と白太刀を残して郎党2人を留め置いて退去した、

という出来事である(仝上)。「澆季」http://ppnetwork.seesaa.net/article/484264044.htmlで、『太平記』については触れた。

佐々木道誉 (2).jpg


この「ばさら」は、戦国時代末期から江戸時代初期にかけての社会風潮となった、

傾奇者、
歌舞伎者、

と表記する、

かぶきもの、

にも通じる。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
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ラベル:ばさら 婆沙羅
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2022年02月09日

夙に


「夙(つと)に」は、

夙に群臣を召して、御夢を問ひ給ふに(太平記)、

と、

早朝に、

の意味で使われる(兵藤裕己校注『太平記』)。

夙(つと)に行く雁の鳴く音はわが如くもの思へかも声の悲しき(万葉集)、

とあるように、古くから使われてきた。類聚名義抄(11~12世紀)には、

夙、ツトニ、アシタ、ハヤク、

とある。

人目もる君がまにまにわれともに夙興乍(ツトニオキツツ)裳の裾濡れぬ(万葉集)

と、

早く、

の意として、さらに、後には、

人夙(ツト)に事業に志を立つべし(「西国立志編(1870‐71)」)、

のように、

早くから、
以前から、

と、時間を広げて使うに至る。

「つとに」は、

ツトはツトメテ(朝)・ツトム(勤)のツト、朝早い意(岩波古語辞典)、
ツトはツトメテの義(和句解・日本釈名)、

とある。「つとめて」は、

前夜から引き続いた翌早朝、前夜に何か事があった翌日の朝、

の意(大言海・日本語源大辞典)で、類聚名義抄(11~12世紀)に、

旦、ツトメテ、アシタ、アケヌ、
朝、ツトメテ、
夙、ツトメテ、アシタ、ハヤク、

とあり、新撰字鏡(898~901)には、

暾、日初出時也、明也、豆止女天(つとめて)、又阿志太(あした)、

とある(「暾(トン) 丸い朝日、朝日のさし昇るさま)の意)。それが、

ツトは夙の意、早朝の意から翌朝の意になった、

とあるように(岩波古語辞典)、

つとめて少し寝過ごしたまひて、日さし出づる程に出でたまふ(源氏物語)、

と、

その翌朝、

の意でも使う(仝上)。そこから、

つとむ(務む・勤む)、

の、

早朝からことを行う意で、ツト(夙)を活用したもの、

で(日本古語大辞典=松岡静雄・大言海・日本語の年輪=大間晋)、

磯城島(しきしま)の大和(やまと)の国に明(あき)らけき名に負ふ伴(とも)の緒(を)心つとめよ(大伴家持)、

と、

気を励まして行う、
精を出してする、
努力する、

という意で使われるのにつながる(仝上・大言海)。

そうみると、「つとに」の語源を、

ツトはツトメ(勤)の略(万葉集類林・和訓栞・言葉の根しらべの=鈴木潔子・日本語源=賀茂百樹)、
ツトはツトメテ(朝)・ツトメ(勤)のツト、朝早い意(岩波古語辞典)、
ツトはツトメテの義(和句解・日本釈名)、

とし、「つとめて」の語源を、

翌朝を待ち設けての意で、ツトマウケテ(夙設)の約、また、ツトミエテ(夙見)の約か(大言海)、

「つとむ」の語源を、

早朝からことを行う意で、ツト(夙)を活用したもの(日本古語大辞典=松岡静雄・大言海・日本語の年輪=大間晋)、
ツトメ(晨目・早目)の義(言元梯・名言通)、
ツトは晨の義(国語本義)、

と、

つとに、
と、
つとめて、
と、
つとむ、

がにらみ合ったまま、確かに、

早朝をあらわす「つと(夙)」から派生した語、

であり、

「夙に」が漢文訓読調であるのに対して、「つとめて」は平安朝の和文に多く用いられた、

としても(日本語源大辞典)、結局、「つと」そのものの語源に至らない。

「つとむ」「つとめて」とのつながり以外で、「つと」の語源についての言及は、

ツトはハツトキ(初時)の上下略(和訓栞・言葉の根しらべの=鈴木潔子)、
ハツド(初時)ニの略(大言海)、
直ちにの意のツから(国語の語根とその分類=大島正健)、
ツトは日出の意の韓語ツタと同語(日本古語大辞典=松岡静雄)、

等々がある。新撰字鏡(898~901)のいう、

暾、日初出時成り、明也、豆止女天(つとめて)、又阿志太(あした)、

説明から見ると、

日の出、

とつなげる説に傾くが、断定は難しい。

「夙」 漢字.gif


「夙」(漢音シュク、呉音スク)は、

会意。もと「月+両手で働くしるし」で、月の出る夜もいそいで夜なべすることを示す、

とあり(漢字源)、「夙昔(シュクセキ)」と「昔から」の意、「夙興夜寝、朝夕臨政」と、「朝早く」の意である(仝上)。

「夙」 甲骨文字・殷.png

(「夙」 甲骨文字・殷 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%A4%99より)

「夙」 金文・西周.png

(「夙」 金文・西周 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%A4%99より)

別に、

会意文字です(月+丮)。「欠けた月」の象形(「欠けた月」の意味)と「人が両手で物を持つ」象形(「手に取る」の意味)から、月の残る、夜のまだ明けやらぬうちから仕事に手をつけるさまを表し、そこから、「早朝から慎み仕事をする」、「早朝」を意味する「夙」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji2302.html

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

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2022年02月10日

悪党


思ふに当国他国の悪党どもが、落人の物具(もののぐ)を剥がんとて集まりたるらん(太平記)、

とある、

悪党、

は、今日の語感では、

然不遵奉、隠蔵売買、是以、鋳銭悪党、多肆姧詐(「続日本紀(しょくにほんぎ)」五月丙申)、

の、

鋳銭の悪党、多く姧計を肆(ほしいまま)にして、

と、

悪人の集団、
悪人の仲間、

といった意味から、転じて、

わるもの、

の意で使う(広辞苑・岩波古語辞典)が、南北朝期、

荘園や公領を侵す反体制的な武士や荘民の集団、

と注記(兵藤裕己校注『太平記』)されるように、「悪党」は、

中世、荘園領主や(鎌倉)幕府の権力支配に反抗する地頭・名主などに率いられた集団(岩波古語辞典)、
鎌倉後期から南北朝時代にかけて、秩序を乱すものとして支配者の禁圧の対象となった武装集団。風体、用いる武器などに、従来の武士とは異なる特色を持ち、商工業・運輸業など非農業的活動に携わる者も少なくなかった(広辞苑)、
鎌倉中・末期から南北朝内乱期にかけて、反幕府、反荘園体制的行動をとった在地領主、新興商人、有力農民らの集団をいう。悪党は、山賊、海賊とともに、鎌倉幕府から鎮圧の対象とされた。悪党は、(1)荘園領主による代官職の否認、(2)得宗(とくそう 北条)政権による御家人所領(地頭職)の否定、(3)得宗政権の経済政策(港湾・都市など独占)の強行、(4)支配下農民との矛盾対立、(5)蒙古襲来を契機とする社会経済情勢の急激な変化、などを要因として発生した(日本大百科全書)、

等々とあり、「ばさら」http://ppnetwork.seesaa.net/article/485525197.html?1644264178で触れたように、

鎌倉時代末期以降、体制に反逆する悪党と呼ばれた人々の形式や常識から逸脱して奔放で人目を引く振る舞いや、派手な姿格好で身分の上下に遠慮せず好き勝手に振舞う者達を指す、

というhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%B0%E3%81%95%E3%82%89「ばさら」と称された人々と重なる、新たな価値観の体現者たちといっていい。彼らは、

悪党張本(ちょうほん)を中心に、一族、下人(げにん)、所従(しょじゅう)など血縁関係者を集め、さらに近隣の在地領主層と連携して、当該地域における分業、流通の支配を目ざし、数百人に及ぶ傭兵(ようへい)を組織することもあった、

とされる(日本大百科全書)。

上記の『続日本紀』霊亀2年5月21日条(716年)の勅に見える、

鋳銭悪党、

は、今日の意の「悪党」に近いが、12世紀後半以降は、

いずれも荘園や公領における支配体制または支配イデオロギーを外部から侵した者、

を指して用いられているhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%82%AA%E5%85%9A

安元元年(1175年)に東大寺領黒田荘(伊賀国名張郡)に乱入した名張郡司源俊方と興福寺僧らは、

東大寺の年貢米を奪い、寺使を追放して路次(ろじ)を切りふさぎ、やがて荘民の支持を受けて、東大寺から独立を宣言するに至った、

が(日本大百科全書)、東大寺の文書は、

悪党、

と記している。つまり、荘園領主や荘官の支配体系に対し、

外部から侵入ないし妨害しようとした者、

が悪党として観念されていたのである(仝上)。固定化した、

荘園支配、

に対する、

在地で荘園支配の実務にあたる荘官(彼らも在地領主層の一員である)、

との対立は、中世社会の流動化へとつながっていく。こうした、

外部から荘園支配に侵入する悪党のほか、蝦夷や海賊的活動を行う海民なども悪党と呼ばれたが、これは支配体系外部の人々を悪党とみなす観念に基づいている、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%82%AA%E5%85%9A。鎌倉幕府倒幕時に後醍醐天皇方についた、

楠木正成(河内国)、
赤松則き(播磨国)、
名和長年(伯耆国)、
瀬戸内海の海賊衆、

らは、悪党と呼ばれた人々だったと考えられている(仝上)。

楠木正成.jpg


この「悪党」の「悪」は、

物が類を以て集まる習ひなれば、……所大夫怪舜とて、少しも劣らぬ悪僧あり(太平記)、

と使われ、

勇猛な僧、

の意とされ(兵藤裕己校注『太平記』)、「悪」は、

気の強きこと、猛き、荒々しき意として、接頭語の如く用ゐらる、

とあり(大言海)、

惡左府頼長、
惡源太義平、
惡七兵衛景清、

等々があり、

惡逆の意には非ず、又、自ら称するにあらず、外聞よりの呼名なり、

とある(大言海)。

荒夷(あらえびす)、
鬼武者、
鬼柴田、

などと云ふと同意なり、

惡獣も猛獣なり、惡龍、惡魚もあり、惡物食(アクモノクヒ)などと云ふ語も是なり、

ともある(仝上)。この由来は、

あし宰相、
あし法眼、

など云ひしを、惡の字を書きて、音読するやうになりしなり、

とある(仝上)。雄略紀に、

天皇以心為師、誤殺人衆、天下誹謗、言大悪天皇也、

の旁注に、

ハナハダ、アシクマシマス、スハメラミコト、

とあるも、

荒々しくまします、

意なり(仝上)、とある。

「悪」 漢字.gif


「悪」(漢音呉音アク、漢音オ、呉音ウ)は、

会意兼形声。亞(ア)は、角型に掘り下げた土台を描いた象形文字。家の下積みとなるくぼみ。惡は「心+音符亞」で、下に押し下げられてくぼむ気持ち。下積みでむかむかする感じや欲求不満、

とある(漢字源)が、

形声。心と、音符亞(ア、アク)とから成る。あやまち、まちがい、ひいて「わるい」意を表し、また、「にくむ」意に用いられる、

とも(角川新字源)、

会意兼形声文字です(亞(亜)+心)。「古代の墓の部屋を上から見た象形」と「心臓の象形」から、墓室に臨んだときの心、「わるい・いまわしい」を意味する「悪」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji434.html

「党(新字)」 漢字.gif

(「党」 https://kakijun.jp/page/1089200.htmlより)

「党」 漢字.gif

(「黨」 https://kakijun.jp/page/EA7D200.htmlより)

「党(黨)」(トウ)は、

形声。「黑+音符尚」。多く集まる意を含む。仲間で闇取引をするので黒を加えた、

とある(漢字源)が、「黨」の字源には、

形声。儿と、音符尙(シヤウ)→(タウ)とから成る。もと、西方の異民族の名を表したが、(「党」は)古くから俗に黨の略字として用いられていた、

と、

形声。意符黑(=黒。やみ)と、音符尙(シヤウ)→(タウ)とから成る。さえぎられてはっきりしない意を表す。借りて、「なかま」の意に用いる、

の二説あるらしく(角川新字源)、

形声文字、音符「尚」+「人」 。部族の一つ、タングート(党項)族を指す。黨の略字(別字衝突)。「なかま」「やから」の意味。意符「人」から通じて略字として用いられるようになったか、

https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%85%9A、前者をとり、

形声文字です(尚(尙)+黑)。「神の気配を示す文字と家の象形と口の象形」(「強く願う」の意味だが、ここでは「堂」に通じ(「堂」と同じ意味を持つようになって)、「一堂に集まった仲間」の意味)と「上部の煙だしに「すす」がつまり、下部で炎があがる」象形(連帯感を示す色(黒)だと考えられている)から、「村」、「仲間」を意味する「党」という漢字が成り立ちました、

https://okjiten.jp/kanji1038.html、別の解釈である。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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ラベル:悪党
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2022年02月11日

鯨桓の審


道士どもが朝夕(ちょうせき)業とする処なれば、するに難からじとて、玉晨(ぎょくしん)君を礼(らい)し、芝荻(してき)を香に烓(た)いて、気を飲み、鯨桓(げいかん)の審に向かって、天に昇らんとすれども(太平記)、

にある、

鯨桓の審、

とは、

鯢桓之審、

である。

鯢桓之審、

とは、

雌くじらの集まる淵、

の意である。ここにある、

玉晨(ぎょくしん)君を礼(らい)し、
芝荻(してき)を香に烓(た)いて、
気を飲み、
鯨桓(げいかん)の審に向かって、

云々は、

道士の術、

らしく、後漢の顕宗皇帝の前で、摩騰法師という沙門と道士に、

天に上り、地に入り、山を擘(つんざ)き、月を握る術

を競わせんとしたもの。当然、道士たちには、

朝夕(ちょうせき)業とする、

術のはずだから、容易だと考えたらしい、ということなのである。結果は、

仏力に押されて、することを得ざる、

破目に陥った、ということなのだが、この中の、

玉晨(ぎょくしん)君、

は、

道教で祀る仙人、

であり、

芝荻(してき)

は、

香に焚く芝や荻、

の意であり、

気を飲み、

は、

気分を集中する、

意である(兵藤裕己校注『太平記』)。

「鯢」 漢字.gif


鯢桓之審、

の「鯢」は、

雌くじら、

の意で、

雄くじら、

の意の、

鯨、

に対して言う。「雄くじら」は、

鰕(カ)、

とも当てる。ただ、「鯢」(漢音ゲイ、呉音ゲ)は、

会意兼形声。「魚」+音符「兒(=「児」)」。「兒」は「ちいさい、おとる」の意、

で(漢字源・https://ja.wiktionary.org/wiki/%E9%AF%A2)、「雌くじら」の意よりは、

サンショウウオ、

や、

鯢鰕(ゲイカ)、

というように、

小さい魚、

の意もある。「人魚」http://ppnetwork.seesaa.net/article/483024554.htmlで触れたように、「さんしょううお」の意の、

鯢(ゲイ)、

は、

䱱魚、
鯢魚、

と当て、

鯢魚、

の漢名は、

人魚、

である(大言海)。

その面、猴に似て、其聲、小児の啼くが如し、

とある(仝上)。

貝原益軒編纂の『大和本草』(宝永七(1709)年)には、「䱱魚(ていぎょ)」は、

名人魚此類二種アリ江湖ノ中ニ生シ形鮎ノ如ク腹下ニツハサノ如クニ乄足ニ似タルモノアリ是䱱魚ナリ人魚トモ云其聲如小兒又一種鯢魚アリ下ニ記ス右本草綱目ノ說ナリ又海中ニ人魚アリ海魚ノ類ニ記ス、

とし、「鯢魚(げいぎょ)」は、

おおさんしょううお、

と訓まし、

溪澗ノ中ニ生ス四足アリ水中ノミニアラス陸地ニテヨク歩動ク形モ聲モ䱱魚ト同但能上樹山椒樹皮ヲ食フ国俗コレヲ山椒魚ト云四足アリ大サ二三尺アリ又小ナルハ五六寸アリ其色コチニ似タリ其性ヨク膈噎ヲ治スト云日本處〻山中ノ谷川ニアリ京都魚肆ノ小池ニモ時〻生魚アリ小ナルヲ生ニテ呑メハ膈噎ヲ治ス、

とあるhttps://onibi.cocolog-nifty.com/alain_leroy_/2019/06/post-58535d.html

さて、「鯢桓之審」の由来は、『荘子』応帝王にある、

鯢桓の審を淵と為す、

であり(兵藤裕己校注『太平記』)、

鯨(くじら)が旋回して集まるような、大海の水深が深い場所、

の意である(四字熟語辞典)。「審」は、

水深が深いところ、淵(ふち)など、

の意である(仝上)。応帝王(おうていおう)篇には、

明日、列子與之見壺子。出而謂列子曰、嘻子之先生死矣、弗活矣、不以旬數矣、吾見怪焉、見灰焉。列子入、泣涕沾襟、以告壺子。壺子曰、鄉吾示之以地文、萌乎不震不正。是殆見吾杜德機也。嘗又與來。明日、又與之見壺子。出而謂列子曰、幸矣子之先生遇我也。有瘳矣、全然有生矣。吾見其杜權矣。列子入、以告壺子。壺子曰鄉吾示之以天壤、名實不入、而機發於踵。是殆見吾善者機也。嘗又與來。明日、又與之見壺子。出而謂列子曰、子之先生不齊、吾無得而相焉。試齊、且復相之。列子入、以告壺子。壺子曰、吾鄉示之以太沖莫勝。是殆見吾衡氣機也。鯢桓之審為淵、止水之審為淵、流水之審為淵。淵有九名、此處三焉。嘗又與來、

とあるhttp://furoppa.blog.fc2.com/blog-date-20111206.html

列子は、心服している占い師季咸(きかん)を師匠の壷子に引き合わせた。壷子に会った季咸は、

あなたの先生はまもなく死ぬでしょう。せいぜい十日の命です。先生に湿った灰の相を見たのです、

と告げる。慌てて師匠にその話をすると、

吾示之以地文、

と、

地文、

を見せた、という。翌日、壷子にあった季咸は、生気が戻った、と告げる。そのことを列子が壷子に告げると、

吾示之以天壤、

と言い、翌日、再び壷子にあった季咸は、

子之先生不齊、吾無得而相焉、

と、相が変じて占えぬ、と言った。それを列子が壷子に告げると、

示之以太沖莫勝、

と、太沖莫勝(たいちゅうばくしょう)の相を見せたのだという。自分の中の、九つある淵のうち、

鯢桓之審為淵、
止水之審為淵、
流水之審為淵、

を見せたのだ(仝上)と言ったというところに依る。結局、この占い師季咸は、

明日、又與之見壺子。立未定、自失而走

四度目に壷子の顔を見た途端逃げだした、という落ちがあるhttps://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5033/らしい。

なぜ「鯨」でなく、「鯢(「雌くじら)」なのかはよくわからない。「雌くじら」の集まる処には、多くの雄くじらが集まってくる、それほど深い淵という喩えなのだろうか、と推測するが。

「桓」 漢字.gif


「桓」(漢音カン、呉音ガン)は、

会意兼形声。亘(カン)は、ぐるりを取り巻く意を含む。桓は「木+音符亘」で、ぐるりと取巻いて植えた木、

とある(漢字源)。「漢代、郵亭(宿場)のしるしとして、宿場の周りに立てた木」の意である。

「桓」 金文・西周.png

(「桓」 金文・西周 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%A1%93より)

「審」(シン)は、

会意。番(ハン)は、穀物の種を田にばらまく姿で、播(ハ)の原字。審は「宀(やね)+番」で、家の中にちらばった細かい米粒を、念入りに調べるさま、

とある(漢字源)。別に、

本字は、会意。宀と、釆(はん わける)とから成る。おおわれているものを区別して明らかにすることから、「つまびらかにする」意を表す。のち、宀と番とから成る字形となった、

とも(角川新字源)、

「審」 漢字.gif

(「審」 https://kakijun.jp/page/1513200.htmlより)

形声文字です。「屋根・家屋」の象形(「屋根・家屋」の意味だが、ここでは、「探(シン)」に通じ(同じ読みを持つ「探」と同じ意味を持つようになって)、「さぐる」の意味)と「種を散りまく象形と区画された耕地の象形」(「田畑に種をまく」の意味)から、要素的な物をばらばらにして「つまびらかにする」を意味する「審」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji1689.html。ここで、「鯢桓之審」の、

鯢桓之審為淵、

の「淵を為す」の意味が幽かに繋がる。

「審」 成り立ち.gif

(「審」 成り立ち https://okjiten.jp/kanji1689.htmlより)

なお、「くじら」http://ppnetwork.seesaa.net/article/456973765.htmlについては触れた。

参考文献;
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

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2022年02月12日

学問の底力


丸山眞男『現代政治の思想と行動』を読む。

現代政治の思想と行動.jpg


本書について、著者は、

「戦後の私の思想なり立場なりの大体の歩みがなるべく文脈的に明らかになるように配慮しながら、同時に、現代政治の諸問題に対する政治学的なアプローチとはどのようなものかというあらましのところを広い読者に紹介し、……日本における政治学の『内』と『外』との交通の甚だしい隔離をいくぶんでも架橋しよう」

という意図が交錯するものになった、と述べている(旧版への後記)。戦後16年にわたる著述である。そして、

「私自身の選択についていうならば、大日本帝国の『実在』よりも戦後民主主義の『虚妄』のほうに賭ける」

と述べた(増補版への後記)、まさに戦後80年近くなって、ますます、

戦後民主主義を虚妄、

にしようとする傾向が著しい現在、本書の、戦中、戦後を見る論旨が、そのまま、現在の政治を射る矢となって、

正鵠を射ている、

ことに吃驚させられる。たとえば、安保闘争のさなかに書かれた、「現代における人間と政治」に引かれた、ルッター教会牧師マルチン・ニーメラーが、ナチスの権力集中過程「グライヒシャルトゥング」(強制的同質化)を振り返って述べた言葉、即ち、

「ナチが共産主義者を襲ったとき、自分はやや不安になった。けれども結局自分は共産主義者でなかったので何もしなかった。それからナチは社会主義者を攻撃した。自分の不安はやや増大した。けれども依然として自分は社会主義者ではなかった。そこでやはり何もしなかった。それから学校が、新聞が、ユダヤ人が、というふうに次々と攻撃の手が加わり、そのたびに自分の不安は増したが、なお何事も行わなかった。さてそれからナチは教会を攻撃した。そうして自分はまさに教会の人間であった。そこで自分は何事かをした。しかしそのときにはすでに手遅れであった。」

という言葉がある。著者は、

「あの果敢な抵抗者として知られたニーメラーでさえ、直接自分の畑に火がつくまでは、やはり『内側の住人』であったということであり、……すべてが少しずつ変わっているときには誰も変わっていない」

と、中側にいるとき、「最初から少し離れてみていない限り」、

「一つ一つの措置はきわめて小さく、きわめてうまく説明され、時折遺憾の意が表明される次第で、……こうしたすべての小さな措置が原理的に何を意味するということを理解しない限りは、人々が見ているのは、ちょうど農夫が自分の畠で作物が伸びていくのを見ているのと同じなのです。ある日気づいて見ると作物は頭よりも高くなっている」(ミルトン・メイヤー『彼等は自由だと思っていた』の中の言語学者の証言)、

事態に驚愕することになるのである。いま日本で起きていることが、これと異なると、断言できる人は、よほどの楽天的な人か、時代に掉さす人なのだろう。

そういう目で見ると、今日のことを書いたものではないにもかかわらず、まるで今日を予言したかの如き分析が、随所に見える。

例えば、戦前についての言及の、

「国家のための芸術、国家のための学問という主張の意味は単に芸術なり学問なりの国家的実用性の要請ばかりではない。何が国家のためかという内容的な決定をば『天皇陛下及天皇陛下ノ政府ニ対シ』(官吏服務規程)の忠勤義務を持つところの官吏が下すという点にその核心があるのである。そこでは、『内面的に自由であり、主題のうちにその定在をもっているものは法律のなかに入ってきてはならない』(ヘーゲル)という主観的内面性の尊重とは反対に、国家は絶対価値たる『国体』より流出する限り、自らの妥当根拠を内容的正当性に基礎づけることによっていかなる精神領域にも自在に浸透しうるのである。
 従って国家的秩序の形式的性格が自覚されない場合は凡そ国家秩序によって捕捉されない私的領域というものは一切存在しないことになる。我が国では私的なものが端的に私的なものとして承認されたことが未だ嘗てないのである。(中略)こうしたイデオロギーは何も全体主義の流行と共に現われ来ったわけでなく、日本の国家構造そのものに内在していた。従って私的なものは、即ち惡であるか、もしくは惡に近いものとして、何程かのうしろめたさを絶えず伴っていた。(中略)『私事』の倫理性が自らの内部に存せずに、国家的なるものとの合一化に存するというこの論理は裏返しにすれば国家的なるものの内部へ、私的利害が無制限に侵入する結果となるのである。」

という(「超国家主義の論理と心理」)、

「私事」の倫理性が自らの内部に存せずに、国家的なるものとの合一化に存するというこの論理は裏返しにすれば国家的なるものの内部へ、私的利害が無制限に侵入する結果となるのである、

の、

国家的なるものの内部へ、私的利害が無制限に侵入する結果、

を、今日までの10年余の政権運営に、目の当たりにしてきたのではなかったか。この文章は、國のため、国家の名目で、私的利害を平然と導入して恥じない、今日の風潮をそのまま指摘しているに等しい。それは、戦後80年近くたって、

民主主義の鍍金、

が剥げ、明治以来の利権体質が、国家の名目でまかり通っていることを示している。明治以降、基本的に日本の政治制度も行政制度も、官僚機構も、その体質を、敗戦にもかかわらず、少しも変化させず、底流で存続してきたのではないか、とふと慄然とする。

そして、こうした政治勢力のトップ集団の特色は、

「ナチスの指導者は今次の戦争について、その起因はともあれ、開戦への決断に関する明白な意識を持っているに違いない。然るに我が国の場合はこれだけの大戦を起こしながら、我こそ戦争を起こしたという意識がこれまでの所、どこにも見当たらないのである。何となく何物かに押されつつ、ずるずると国を挙げて戦争の渦中に突入した、」

という体たらく(仝上)にもかかわらず、

国民がおさまらないから、

という口実を設ける。しかし、

「『国民』というのは……、軍務課あたりに出入りする右翼の連中であり、更に背景となっている在郷軍人その他の地方の指導層である。軍部はしばしば右翼や報道機関を使ってこうした層に排外主義や熱狂的天皇主義をあおりながら、かくして燃え広がった『世論』によって逆に拘束され、事態をずるずると危機まで推し進めていかざるをえなくなった」

と(「軍国支配者の精神形態」)、その「国民」が、

畢竟匿名の無責任な力の非合理的な爆発、

なのである(仝上)。民主主義の機能しない社会では、

下からの力が公然と組織化、

されることはない。まさにこの、

匿名の無責任な力、

が、「反日」(かつてなら「アカ」と呼んだだろう)の名のもとに、イベントや美術展、映画上演、憲法勉強会すらを脅迫し、追い詰めている。その背後に、今日、為政者の隠然とした意志がある。

著者は、その時代を論述しているだけだが、皮肉なことに、次の文章は、まさに、今日の議会の空洞化、民主主義の形骸化を予測するものになっている。それが学問の持つ底力なのかもしれないが。

ひとつは、

「国民の政治的権利の行使は投票日に行って、投票する権利だけでそれ以外の政治行動は議会政治下においてはあるべからざる『暴力』だ――こういう考え方で、国民の日常的な政治活動を封殺していく。形式的な選挙のメカニズムは保存しながら、その結果を『国民の意思』に等置するというフィクションで体制への黙従を推し進めるだろう。」(追記及び補注)

いまひとつは、

「『民主主義』の名において『民主主義』の敵を排除するということが第一の主要な課題になっていく。異端の排除すなわち民主主義的自由と考えられてくるということです。異質的なものを排除するというプロセスを通じて――例えば左右独裁を排除するという名目の下に、実質的にはヴァラエティをなくして正統化された思想に画一化していくわけです。個々の政党なり政治家の批判は許しても、体制自身の批判はタブーになる。」(仝上)

こんにちの、

デモ、

抗議行動、

そのものが批判にさらされつつある風潮が、やがてはデモが規制されるだろう傾向を、既に予言している。

すぐれた学問的な分析が、真理を導き出す見本のように思うとともに、結局、戦後民主主義自体が、形骸化され、元の木阿弥になっていこうとする、この社会の本質に、絶望的になる。

なお丸山眞男『日本政治思想史研究』http://ppnetwork.seesaa.net/article/481665107.htmlについては別に触れた。

参考文献;
丸山眞男『現代政治の思想と行動』(未来社)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

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2022年02月13日

無作(むさ)の大善


「無作」は、

むさく、

と訓ますと、文字通り、

何も作らない、生み出さない、

意だが、

技量のないこと、無骨であること、

の意で使う。その場合、

くちのひろげやう、ぶさくだつた(「本福寺跡書(1560頃)」)、

と、

ぶさく、

とも訓ます(広辞苑・精選版日本国語大辞典)。しかし、

むさ、

と訓ますと、

無作滅諦即如来蔵(「勝鬘経義疏(611)」)、

と、

有作(うさ)、

の対になり、仏教用語で、

因縁によって生成されたものでないこと、

つまり、

因縁の世界を超越した悟りの境地、

の意とある(広辞苑)。しかし、

有作、

は、

作られたもの、自然ならぬこと、

であり、

有為(うゐ)、
有相(うそう)、

と同じとある。となると、「無作」は、

身口意の動作を假らずして、自然に相続すること、
自然にして作為なきこと、
分別造作なきこと、

とある説明(大言海)の方が、正確である。それが、

道常無為、而無不為、侯王若能守、万物将自化(老子)、

の、

無為(むい・ぶい)、

に同じで、

自然にまかせて、作為するところのない、

つまりは、

因縁の造作なきこと、
因縁によって作られたものでなく、生滅変化を離れたもの、

となり、

その境地、

へと意味がつながる。

無作無起、観法如化(無量寿経)、

とある。「無作」は、

叡慮の驕慢の心を破って、無作の大善(だいぜん)に帰せしめんとなり(太平記)、

と、

無作の大善、

とも使う。

人為的でないおのずからの善、

とある(兵藤裕己校注『太平記』)が、

菩薩がする、分別を離れた無為自然の善根(広辞苑)、
はからいを離れた偉大な善(精選版日本国語大辞典)、

ともあり、「無作」の境地からの、

菩薩がする、分別を離れた無為自然の善根、

の意味の方がいい気がする。

有作、

には、

有相(うそう)、

の意がある。仏教用語で、

すがた、形のあるもの、
存在するもの、

の意で(広辞苑・精選版日本国語大辞典)、

それは生滅変化するところから有為(うい)、

の意味にも用いる。また、

相対、差別においてとらえられるものをさす、

ともあり(精選版日本国語大辞典)、

うぞう、

と訓ますと、

有象無象(うぞうむぞう)、

となり、

有相無相(うそうむそう)、

の、

形をもっている存在と、すがた、形によって特質づけられている存在自体、すなわち存在の本性、

の意と同じで(精選版日本国語大辞典)、そこから、

宇宙にある有形・無形の一切の物、

つまり、

森羅万象、

の意となり、そのメタファで、

有象無象(うぞうむぞう)、

は、

世にいくらでもある種々雑多のつまらない人々、

の意で使う(広辞苑)。

「無」 漢字.gif

(「無」 https://kakijun.jp/page/mu200.htmlより)

「無」(漢音ブ、呉音ム)は、

无、

とも書き、

形声。原字は、人が両手で飾りを持って舞うさまで、のちの舞(ブ・ム)の原字。無は「亡(ない)+音符舞の略体」。古典では无の字で無をあらわすことが多く、今の中国の簡体字でも无を用いる、

とあり(漢字源)、

「無」 甲骨文字・殷.png

(「無」 甲骨文字・殷 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%84%A1より)

音を仮借したものhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%84%A1
もと、舞(ブ)に同じ。借りて「ない」意に用いる。のち舞とは字形が分化し、さらに省略されて無の字形となった(角川新字源)、
「人の舞う姿」の象形から「まい」を意味していましたが、借りて(同じ読みの部分に当て字として使って)、「ない」を意味する「無」という漢字が成り立ちましたhttps://okjiten.jp/kanji730.html

等々とあり、「舞」を略して借字したということのようだ。

「作」 漢字.gif

(「作」 https://kakijun.jp/page/0709200.htmlより)

「作」(サク・サ)は、

会意兼形声。乍(サク)は、刀で素材に切れ目を入れるさまを描いた象形文字。急激な動作であることから、たちまちの意の副詞に専用するようになったため、作の字で人為を加える、動作をするの意をあらわすようになった。作は「人+乍(サ)」、

とある(漢字源)。同趣旨で、

会意形声。「人」+音符「乍」。「乍」は、ものに刃物を入れる様を象ったもの。ものに刃物を入れ作ることを意味したが、「たちまち」の意の副詞として用いられるようになったため、意味を明確にするため「人」を添え、人為であることを明確にした。「做」(サ)と同音同系、

とありhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E4%BD%9C、別に、

会意兼形声文字です(人+乍)。「横から見た人の象形」と「木の小枝を刃物で取り除く象形」から人が「つくる」を意味する「作」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji365.html

「作」 甲骨文字・殷.png

(「作」 甲骨文字・殷 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E4%BD%9Cより)

参考文献;
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

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2022年02月14日

窮子(ぐうじ)


諸軍勢に至るまで、ただ窮子(ぐうじ)の他国より帰て、父の長者に逢へるか如く、悦ひ合事限なし(太平記)、

にある、

窮子(ぐうじ)の他国より帰て、

の、

窮子(ぐうし)、

は、

「法華経」信解品(しんげほん)の譬喩を踏まえる。長者の息子が家出して流浪し、五十年後に偶然長者の邸を訪れたのを、長者は下男として召使い、後に親子の名乗りをして財宝を譲ったこと。仏を長者、仏道修行者を子、仏法を財宝に喩えた譬喩、

と注される(兵藤裕己校注『太平記』)が、「窮子」を、

きゅうし、

と訓ますと、

中国古代の伝説に基づく貧乏神、

の意とされる(広辞苑)。あるいは、

窮鬼、

とされ、

貧乏神あるいは生霊のこと、

とあるhttps://chinki-note.blogspot.com/2021/02/kyuki.html。この窮鬼は、

五帝の一人である顓頊(せんぎょく)の息子とされており、生まれつき体が弱くて背も低く、いつもボロボロの服を着て、白粥ばかり食べていたという。新しい服を与えても、着る前に破ったり、火で焼いて穴を作ってしまうので、周りの人々は、

窮子、

と呼んだという。

窮子は正月晦日に死んだので、宮中ではこの日を「窮子を送り出す日」と定めて葬り、これ以来窮鬼と呼ばれて人々に恐れられる存在になったとされている。なお、唐代には窮鬼に由来する「送窮」あるいは「送窮鬼」と呼ばれる民間行事が起こったという、

とある(仝上)。なお和名類聚抄(平安中期)には、

窮鬼は『遊仙窟』で伊岐須太萬(イキスダマ)、

と注釈されるとあり、

窮鬼と書いてイキスダマと読まれることもある、

とある(仝上)が、

窮鬼(きゅうき)は生霊にあらず、

とある(大言海)。「鬼」(き)は、

死者の精霊、

つまり、

幽霊、

のことだからである(仝上)。

しかし、「きゅうし」と訓ます「窮子」は、また、

困窮している人、

の意で、仏教で、

困って身の置き所のない子、

の喩えとして、

ぐうじ、

と訓ます、

窮子、

の意でもある。「窮子(ぐうじ)」は、法華七喩のひとつ、法華経信解品(しんげほん)」に説かれた、

窮子喩(ぐうじゆ)、

を指す(広辞苑・精選版日本国語大辞典)。「窮子喩」は、紹介によって多少の移動がある。ひとつは、

ある長者の子供が幼い時に家出した。彼は50年の間、他国を流浪して困窮したあげく、父の邸宅とは知らず門前にたどりついた。父親は偶然見たその窮子が息子だと確信し、召使いに連れてくるよう命じたが、何も知らない息子は捕まえられるのが嫌で逃げてしまう。長者は一計を案じ、召使いにみすぼらしい格好をさせて「いい仕事があるから一緒にやらないか」と誘うよう命じ、ついに邸宅に連れ戻した。そしてその窮子を掃除夫として雇い、最初に一番汚い仕事を任せた。長者自身も立派な着物を脱いで身なりを低くして窮子と共に汗を流した。窮子である息子も熱心に仕事をこなした。やがて20年経ち臨終を前にした長者は、窮子に財産の管理を任せ、実の子であることを明かした。この物語の長者とは仏で、窮子とは衆生であり、仏の様々な化導によって、一切の衆生はみな仏の子であることを自覚し、成仏することができるということを表している。なお長者窮子については釈迦仏が語るのではなく、弟子の大迦葉が理解した内容を釈迦仏に伝える形をとっている、

とありhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%95%E8%8F%AF%E4%B8%83%E5%96%A9。いまひとつは、

ある男が幼くして「父の膝下を離れ」「他国へ行った」。やがて「大人」になったが貧しく、「生業を求めて衣食のため十方を放浪し」た。「彼の父も他国に移住し、多くの財宝・穀物・金貨・倉庫を所有し、多量の金・銀・真珠・瑠璃・螺貝・水晶・珊瑚を蓄え、また大勢の男女の奴隷や雇用人・使用人がおり、また象・馬・牛・羊を幾頭も所持するようになった」。「また、大勢の眷属をつれ、諸大国の中でも有数な金持となり、そして農業や商業を手広く営んで、財産を蓄積しただけではなく、利殖をはかって繁盛していた」。息子は貧しく「各地を放浪して、ついに大金持の彼の父親が住む都城にたどり着いた」。「貧乏人の父親である大金持は、この町に住んでなに不自由なく暮らして」いたが、息子と別れてこのかた息子のことを片時も忘れたことはなかった。しかし。「誰にも打ち明けず、自分ひとりで悩み苦しみ」心を痛めていた。ところが、ある日のこと、貧しい息子が、衣食を求めて父の家とは知らず、その門の前に立った。しかし息子は「その豪勢な様子に驚くと同時に全身の毛がよだつほど怖れおののき」慌てて立ち退いてしまった。父親は「一目で自分の息子であることに気がつき」、一計を案じ、息子を使用人とした。長者である父親は、「華美な服を脱ぎ、汚れた衣服をまとい、自分の手足を泥土でよごし、かの貧乏な男に近づいて話しかけ」、「わたしをおまえの父親と思うがよい」。「おまえは今日からは、わたしの実の子と同じだ」と言った。やがて、年月が流れ、長者は死期の近づいたことを悟り、貧しかった男に財産を譲り渡し、おおやけに自分の実子であることを宣言するという喩である、

とあるhttp://www.n-seiryo.ac.jp/library/kiyo/tkiyo/11pdf/%E7%9F%AD%E5%A4%A71105.pdf

また別に、『法華経』や『涅槃経』等の影響下に作成された、如来蔵系経典である『大法鼓経』にも長者窮子喩が説かれているが、

『法華経』の長者窮子喩では、貧者は長者の家で仕事をしつつも財産を望まず、長者から真実を告げられ、思いもかけずに相続者となるのに対し『大法鼓経』では、長者から真実を聞かされる前であったにもかかわらず、貧者は自発的に財産の相続者となることを望み、そして長者から真実を告げられ、望み通りに相続者となる、

とされている。これは、『大法鼓経』が、

「衆生の内側に実在する如来蔵・仏性」に見出しているため「教えられずとも衆生(貧者)の側から成仏(財産)を求める」という構図、

を描いたためとされるhttps://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk/63/3/63_KJ00009915786/_article/-char/ja/

ま、ともかく、『法華経』信解品(しんげぼん)」の「窮子喩(ぐうじゆ)」は、

長者の出と知らずに流浪している貧窮の子を父親が見つけ、手段を尽くしてその嗣子であることを自覚させる、衆生が三界(欲界(よっかい)・色界(しきかい)・無色界(むしきかい)の三つの世界)に流転しているのを仏の慈悲方便で善導し、正道を悟らせる、

のを喩えている(仝上)、とされる。他の喩えは、

譬喩品に説かれる三車火宅の喩、
薬草喩品に説かれる三草二木喩、
化城喩品に説かれている化城宝処喩、
五百弟子受記品に説かれている衣裏繋珠喩、
安楽行品に記されている髻中明珠喩、
如来寿量品にみられる良医治子喩、

とされる。この七つのたとえ話は、

釈迦仏がたとえ話を用いてわかりやすく衆生を教化したスタイルに則している、

とされるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%95%E8%8F%AF%E4%B8%83%E5%96%A9

「窮」 漢字.gif

(「窮」 https://kakijun.jp/page/1571200.htmlより)

「窮」(漢音キュウ、呉音グ・グウ)は、

会意兼形声。「穴(あな)+音符躬(キウ かがむ、曲げる)」で、曲がりくねって先がつかえた穴、

とあり(漢字源)、「困窮」の「きわまる」、「貧窮」の「行き詰まる」、「窮理」「窮尽」の「きわめる」、「究極」の「行き詰まり」「果て」等々の意である。別に、

会意。「穴+躬(きゅう)」。穴中に躬(み)をおく形で、進退に窮する意。〔説文〕七下に「極まるなり」と訓し、……究・穹と声義近く、「究は窮なり」「穹は窮なり」のように互訓する。極は上下両木の間に人を入れて、これを窮極する意で、罪状を責め糾す意。窮にもその意があり、罪状を糾問することを窮治という、

とあり(白川静『字通』)、また、

会意兼形声文字です(穴+身+呂)。「穴居生活の住居」の象形と「人が身ごもった象形と背骨の象形」(「体」の意味)から、「人の体が穴に押し込められる」、「きわまる」を意味する「窮」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji1691.html

類似の「窮」「極」「究」の違いは、

窮は、行き詰まる意。をはる、盡く。稗編「史記上起黄帝、下窮漢武」、転じて困窮と連用す、
極は、至極の義、行き届きて、もはやその先なきを言ふ、
究は、推尋也、竟也、深也、窮尽也と註す。考究・研究と連用す。困窮の義はなし、

とある(字源)。

参考文献;
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
簡野道明『字源』(角川書店)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

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2022年02月15日

虎を養いて自ら患いを招く


人望に背きて自滅せんとする悪人を、御方となされたらば、豈に聖運の助けとならんや。虎を養いて自ら患(うれ)ひを招く風情なるべきものを(太平記)、

とある、

虎を養いて自ら患いを招く、

は、

虎を養いて自ら患(うれ)いを遺す、
虎を養いて患(うれ)いを残す、
虎の子を養いて患(うれ)いを忘れる、

などといい、

災いの種を絶たずに将来に禍根を残す、

意で(兵藤裕己校注『太平記』)、史記・項羽本紀の、

今釈弗撃、此所謂養虎自遺患也(今釈(す)てて撃たざれば、此所謂虎を養いて自(みずか)ら患いを残すなり)、

とあるのによる(故事ことわざの辞典)。

虎の子を殺さずに育てたために、いつの間にか凶暴な猛虎になって、我が身の心配をしなければならないようなことになる、

情愛に引かれてわざわいの種を絶たなかったために、後日のわざわいとなる、

などに喩えて言う(仝上)、とある。

項羽(上官周『晩笑堂竹荘画伝』).jpg

(項羽(上官周『晩笑堂竹荘画伝』) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A0%85%E7%BE%BDより)

膠着状態が続いた「広武山の戦い」(前203年)で、鴻溝より西を漢が、東を楚が領有するという盟約を結び、盟約がなった後、西楚王項羽(姓は項、名は籍、字は羽)は陣を引き払い、帰国の途に就いたが、漢の陣営では、謀将陳平と帷幄の将張良が、劉邦(姓は劉、諱は邦、字は季)に、

漢、天下の大半を有(たも)ち、楚の兵 饑疲(きひ)す。今 釈(ゆる)して撃たずんば、此れ所謂、虎を養いて自ら患いを遺すなり、

と、帰心矢の如き項羽軍の追撃を進言し、ついに項羽を垓下(がいか)に追い詰めた(垓下の戦い)。

四面楚歌、

は、

夜聞漢軍四面皆楚歌、項羽乃大驚曰、漢皆已得楚乎、是何楚人之多也、

と、包囲された項羽は楚の民が漢軍に降伏したと驚いた逸話へとつながり、別れの宴席を設けた時に虞美人に送った詩、

力拔山兮 氣蓋世 (力は山を抜き 気は世を蓋う)
時不利兮 騅不逝 (時利あらず 騅逝かず)
騅不逝兮 可奈何 (騅逝かざるを 奈何すべき)
虞兮虞兮 奈若何 (虞や虞や 汝を奈何せん)

垓下の歌につながるhttps://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E9%9D%A2%E6%A5%9A%E6%AD%8C

劉邦.jpg


最後従うもの二十八騎になり、烏江(うこう)(という長江の渡し場)にたどり着き、烏江の亭長(ていちょう)に、

江東(こうとう)小なりと雖も、地は方千里(ほうせんり)、衆は数十万人、亦王たるに足るなり。願わくは大王急ぎ渡れ。今独り臣のみ船有り、漢軍至るも、以て渡ることなからん、

と勧められたが、

天の我を亡ぼすに、我何ぞ渡ることを為さん。且つ籍江東の子弟八千人と江を渡りて西し、今一人の還る者なし。縦(たと)い江東の父兄憐れみて我を王とすとも、我何の面目ありてかこれに見えん。縦い彼言わずとも、籍独り心に愧(は)じざらんや、

https://esdiscovery.jp/knowledge/classic/china2/shiki010.html

乃ち騎をして皆馬より下りて歩行せしめ、短兵(たんぺい)を持ちて接戦す。独り籍の殺す所の漢軍数百人なり。項王自らも亦十余創を被る。顧みて漢の騎司馬(きしば)の呂馬童(りょばどう)を見て曰く、若(なんじ)は吾が故人に非ずやと。馬童これに面(そむ)き、王翳(おうえい)に指さして曰く、これ項王なりと。項王乃ち曰く、吾聞く、漢我が頭(こうべ)を千金、邑(ゆう)万戸(ばんこ)に購うと。吾若の為に徳せんと。乃ち自刎(じふん)して死す、

とある(仝上)。

虎を野に放つ、
虎を千里の野に放つ、
虎を赦して竹林に放つ、
千里の野辺に虎の子を放つ、
虎の子を野に放し、龍に水を与える、

なども、

虎を養いて患(うれ)いを遺す、

と似た意味で、

後に災いを残すような危険なものを野放しにしておく、

意のたとえとして使う。「虎の尾」http://ppnetwork.seesaa.net/article/454576631.htmlで触れたが、

履虎尾不咥人(易経)、

由来の、

虎の尾を踏む、

などと、虎は危険なものの代名詞として使われる。

「虎」 漢字.gif


「虎」http://ppnetwork.seesaa.net/article/482959788.htmlで触れたように、「虎」(漢音コ、呉音ク)は、

象形、虎の全体を描いたもの、

である(漢字源)が、

儿(元の形は「几」:床几)にトラの装束を被った者が座っている姿、

とする説もあるhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E8%99%8E

「虎」 甲骨文字・殷.png

(「虎」 甲骨文字・殷 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E8%99%8Eより)

「虎嵎を負う」http://ppnetwork.seesaa.net/article/456719697.htmlも触れたことがある。

参考文献;
尚学図書編『故事ことわざの辞典』(小学館)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
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2022年02月16日

傾城傾国


その比(ころ)、世に聞こえし勾当内侍(こうとうのないし)を貴重せられける初めにて、暫時の別れをも悲しみて、……西国下向の事を延引せられけるぞ、誠に傾城傾国(けいせいけいこく)の謂はれなりける(太平記)、

に、

美女が城や国を傾ける故事の通りである、

と注記する(兵藤裕己校注『太平記』)、

傾城傾国、

は、

傾国傾城、

とも言い、「傾城」は、

町を危うくさせること、

「傾国」は、

国を危うくさせること、

とあり(故事ことわざの辞典)、

男がおぼれて、町も国も顧みぬまでに進水させるほどの絶世の美人、

の意とある(仝上)が、「傾城」を、

城を傾けしむるものなれば云ふ、傾くるは、ほろぼすにて、不詳の語原なり、傾国と云ふも意同じ、草苞(くさづとと 賄賂)に国傾くと云ふ諺あり、大砲を国崩(くにくづし)などとも云ふ、

とある(大言海)。

「傾」 漢字.gif


「傾」(漢音ケイ、呉音キョウ)は、

会意兼形声。頃(ケイ)は「頁(あたま)+化(かわる)の略」の会意文字で、頭を妙な具合にまげ、垂直の状態から変化させる意を示す。傾は「人+音符頃」。頃が田畑の単位(一頃が一畝)に転用されたため、傾でその原義(かたむく)をあらわした、

とあり(漢字源)、「傾覆」「傾陥(人をたおしておとしいれる)」と使い、「立っている物を倒す」意がある。「傾城」「傾国」を、メタファと考えれば、意は通じる。別に、

会意兼形声文字です(人+頃)。「横から見た人」の象形と「かたむく人の象形と人の頭部を強調した象形」(「頭をかたむける」の意味)から、「かたむく」、「かたむける」を意味する「傾」という漢字が成り立ちました、

との説もあるhttps://okjiten.jp/kanji1105.html

「傾」 成り立ち.gif

(「傾」 成り立ち https://okjiten.jp/kanji1105.htmlより)

「傾城」「傾国」は、「詩経」大雅・蕩之什・膽卬編に、

哲夫成城、哲婦傾城、……婦有長舌、維厲之階(ミダレノハシ)(哲は聟なり、これは、支那の三代の周の幽王の寵姫褒姒(ほうじ)をさして云ふ)、

とあり(大言海)、さらに、「漢書」外戚伝に、

北方有佳人(北方に佳人有り)
絶世而獨立(絶世に而て獨り立つ)
一顧傾人城(一たび顧みれば人の城を傾け)
再顧傾人國(再び顧みれば人の國を傾ける)
寧不知傾城與傾國(寧ぞ傾城と傾國を知らずや)
佳人難再得(佳人を再び得るは難し)

と、漢の李延年(りえんねん)の「佳人の歌」がある。これは、自分の妹を武帝に売りこむために作ったといわれる。その結果、妹は李夫人と呼ばれ武帝の寵愛を得ることになるhttps://www.minyu-net.com/serial/yoji-jyukugo/yoji0602.html

李夫人.jpg


また、白居易(字は楽天)の長恨歌に、

漢皇重色思傾国(漢皇(かんのう)色を重んじて傾国(けいこく)を思う)
御宇多年求不得(御宇(ぎょう)多年(たねん)求むれども得ず)
楊家有女初長成(楊家(ようか)に女(むすめ)有り初めて長成(ちょうせい)す)
養在深閨人未識(養われて深閨(しんけい)に在り人未(いま)だ識(し)らず)
天生麗質難自棄(天生(てんせい)の麗質(れいしつ)自(みずか)ら棄(す)て難(かた)く)
一朝選在君王側(一朝(いっちょう)選ばれて君王(くんのう)の側(かたわら)に在り)
迴眸一笑百媚生(眸(ひとみ)を迴(めぐ)らして一笑すれば百媚(ひゃくび)生じ)
六宮粉黛無顔色(六宮(りくきゅう)の粉黛(ふんたい)顔色(がんしょく)無し)

と詠われた、

楊貴妃、

もある。

壁画中の楊貴妃.jpg


あるいは、古くは、夏の最後の帝・桀(けつ)の妃、

末喜(ばっき、まっき)、

殷の紂王の妃、

妲己(だっき)、

も有名だ。しかし、わが国では、「傾城」は、

契情、

と、音意ともに写した当て字(広辞苑)で、

色をもって人を溺らする意、

で(大言海)、

昔一條の桟敷屋に、或男、泊まりて、けいせいと臥したりけるに(宇治拾遺)、

と、

遊女、

を指す(広辞苑)。

浄瑠璃、歌舞伎の役柄に多く取入れられ、女方の基本の一つとされる。特に上方歌舞伎では『傾城浅間獄』『傾城壬生大念仏』など、「傾城」「契情」「けいせい」の字を外題につける習慣があった、

ともある(ブリタニカ国際大百科事典)。

紂王と妲己.jpg

(紂王と妲己(右) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A6%B2%E5%B7%B1より)

「傾城」にかかわる、

傾城買いの糠味噌汁、
傾城買いと灰吹きは青いうちが賞翫、
傾城買いより紙屑買い、
傾城狂いによい程という程がない、
傾城と行燈、昼は見られず、
傾城と辻風は会わぬが秘密、
傾城に誠なし、
傾城に誠あれば晦日に月が出る、
傾城の千枚起請、
傾城の柄(づか)を握る、
傾城小忠実(こまめ)に盥が女房、

等々の多くの諺は、遊女の意意である。

なお、和語「傾く」については、「傾く」http://ppnetwork.seesaa.net/article/463942949.html、「かぶく」http://ppnetwork.seesaa.net/article/463958263.htmlで触れた。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
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2022年02月17日

猫又


簀の子の下尋ぬるに、母常々秘蔵せし虎毛の猫死し居たりとなり。是猫又か(宿直草)、

千歳の狐は美女となり、百年の鼠は相卜すと経文に見えたり。年経し猫は猫又とも成るべし(仝上)、

とある、「猫又」は、

猫股、

とも当て、「化け猫」http://ppnetwork.seesaa.net/article/461633915.htmlで触れたように、

古猫の尻尾の二本に裂けた猫股(猫又とも)はよく化ける、

とか、

飼猫が一三年たつと化けて人を害す、

というが、

想像上の怪獣で、年をとって犬のような大きさになったもの、

ともあり(岩波古語辞典)、

奥山に猫又といふものありて人をくらふなり(徒然草)、

とある。

猫又を射る.jpg

(荻田安静『宿直草』「ねこまたといふ事」 狩人が自分の母に化けた猫又(左下)を射る場面 『江戸怪談集』より)

和名類聚抄(平安中期)には、

猱㹶、萬太、

とあるものが、

是か、

とある(大言海)。明月記(藤原定家)天福元年(1233)八月二日には、

南都云、猫股獣出来、一夜噉七八人死者多、或又打殺件獣、目如猫、其體如犬長、

と載る。これが初出らしいが、「猫又」は、

大別して山の中にいる獣といわれるものと、人家で飼われているネコが年老いて化けるといわれるものの2種類、

あるらしいhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8C%AB%E5%8F%88。貞享二年(1685)『新著聞集』で、紀伊国山中で捕えられた猫又は、

イノシシほどの大きさ、

とあり、安永四年(1775)『倭訓栞』では、

猫又の鳴き声が山中に響き渡った、

とあり、ライオンほどの大きさだったと見られ、文化六年(1809)『寓意草』では、

犬をくわえていたという猫又は全長9尺5寸(約2.8メートル)、

とあるとか(仝上)と、

山中の猫又は後世の文献になるほど大型化する傾向、

がある(仝上)が、江戸時代以降には、人家で飼われているネコが年老いて猫又に化けるという考えが一般化し、

江戸中期の『安斎随筆』(伊勢貞丈)に、

数歳のネコは尾が二股になり、猫またという妖怪となる、

とあり、また江戸中期の新井白石も、

老いたネコは「猫股」となって人を惑わす、

と述べるなど、

金花猫(ねこまた)でも化けたと申スやうな事かナ(文化十一年(1814)「素人狂言紋切型」)、

と、老いたネコが猫又となることが常識となっていたようだ(仝上)。

猫また(鳥山石燕).jpg

(「猫また」 鳥山石燕『画図百鬼夜行』より)

「猫又」の語源は、

「又」は尾が二又に分かれているから、

とされているが、民俗学的には、

年を重ねて化けることから、重複の意味である「また」、

とする説、あるいは、

老いたネコの背の皮が剥けて後ろに垂れ下がり、尾が増えたり分かれているように見える、

とする説、

かつて山中の獣と考えられていたことから、サルのように山中の木々の間を自在に行き来するとの意味で、サルを意味する「爰(また)」、

とする説などがあるが、

サルを意味する爰(また)、

から思い至るのは、和名類聚抄(平安中期)の、

猱㹶、萬太、

とする説である。「㹶」(テイ・ジョウ)はどの漢和辞典にも載らなかったが、「猱」(ドウ・ジョウ)は、

さる、テナガザルの一種、

とされているhttps://kanji.jitenon.jp/kanjiy/16418.html。あるいは、「猫又」は猿の謂いなのかもしれない。いまひとつ、「猫又」は、中国の、

仙狸、

が由来とする説https://dic.pixiv.net/a/%E4%BB%99%E7%8B%B8がある。「仙狸(せんり)」は、

中国に伝わる猫の妖怪。歳を経た山猫が神通力を得て妖怪化したもので、美男美女に化けては人間の精気を吸う、

とされているhttps://dic.pixiv.net/a/%E4%BB%99%E7%8B%B8。「狸(リ)」は、

貍(リ)、

と同義で、

むじな、
たぬき、

の意の他に、

野生の猫、

の意がある(漢字源)。

「猫」 漢字.gif


「猫」(漢音ビョウ・ボウ、呉音ミョウ)は、

会意兼形声。「犬+音符苗(なよなよとして細い)」。からだがしなやかで細いねこ。あるいは、ミャオと鳴く声になぞらえた擬声語か、

とか(漢字源)、

会意形声。犬+音符「苗」(ビョウ・ミョウ;なよなよして弱い。一説に、ニャーという猫の鳴き声をあらわす。cf.喵(miāo) 中国語における猫の鳴き声の擬声語)、

と、二説があるようであるhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%8C%ABが、

「猫」 小篆・説文・漢.png

(「猫」 小篆・説文・漢 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%8C%ABより)

会意兼形声文字です(犭(犬)+苗)。「犬」の象形(「獣」の意味)と「並び生えた草の象形と区画された耕地の象形」(「田畑に生えた苗(なえ)」の意味)から、苗を荒らす鼠(ねずみ)を捕まえて苗の害をなくす獣、すなわち「ねこ」を意味する「猫」という漢字が成り立ちました、

と、「苗」説をとるものhttps://okjiten.jp/kanji56.htmlもある。

「猫」 成り立ち.gif

(「猫」 成り立ち https://okjiten.jp/kanji56.htmlより)

「ねこ」http://ppnetwork.seesaa.net/article/451841720.html、「猫も杓子も」http://ppnetwork.seesaa.net/article/451814115.html?1500062074、については、別に触れた。

参考文献;
高田衛編・校注『江戸怪談集』(岩波書店)
鳥山石燕『画図百鬼夜行全画集』(角川ソフィア文庫)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

ラベル:猫又
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2022年02月18日

一業所感


よしや、ただ一業所感(いちごうしょかん)の者どもが、この所にて皆死すべき果報にてこそあらめ(太平記)、

にある「一業所感」は、

同じ業により現世で同じ報いを受ける者たち、

と注記がある(太平記)。「業(ごう)」は、

サンスクリット語のカルマンkarmanの訳語、

で、

羯磨(かつま)、

とも当てられる(広辞苑)。

もともとクル(為(な)す)という動詞からつくられた名詞であり、行為を示す、

が、しかし、

一つの行為は、原因がなければおこらないし、また、いったんおこった行為は、かならずなにかの結果を残し、さらにその結果は次の行為に大きく影響する。その原因・行為・結果・影響(この系列はどこまでも続く)を総称して、業という、

とある(日本大百科全書)。それはまず素朴な形では、

いわゆる輪廻思想とともに、インド哲学の初期ウパニシャッド思想に生まれ、のち仏教にも取り入れられて、人間の行為を律し、また生あるものの輪廻の軸となる重要な術語、

となり、

善因善果・悪因悪果、さらには善因楽果・悪因苦果の系列は業によって支えられ、人格の向上はもとより、悟りも業が導くとされ、さらに業の届く範囲はいっそう拡大されて、前世から来世にまで延長された、

とある(仝上)。

現在の行為の責任を将来自ら引き受ける、という意味に考えてよいであろう。確かに行為そのものは無常であり、永続することはありえないけれども、いったんなした行為は消すことができず、ここに一種の「非連続の連続」があって、それを業が担うところから、「不失法」と術語される例もある、

との解釈は、「業」を身に受けるという主体的解釈に思える(仝上)。仏教では、

三業、

といい、

その行為が未来の苦楽の結果を導く働きを成す、

とし、

善悪の行為は因果の道理によって後に必ずその結果を生む、

としている(広辞苑)。だから、業による報いを、

業果や業報、

業によって報いを受けることを、

業感、

業による苦である報いを、

業苦、

過去世に造った業を、

宿業または前業、

宿業による災いを、

業厄、

宿業による脱れることのできない重い病気を、

業病、

というhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%AD。で、自分の造った業の報いは自分が受けなければならないゆえに、

自業自得、

ということになる。初期の仏教では、業をもっぱら、

個人の行為、

に直結しているが、やがては社会的に拡大して多くの個人が共有する業を考えるようになり、

共業(ぐうごう)、

とよび、個人ひとりのものは、

不共業、

と名づけるともある(日本大百科全書)。

こうみると、

一業所感、

は、

一業所感の身なれば、先世の芳縁も浅からずや思ひしられけん(平家物語)、

と、

同一の善悪の業(ごう)ならば同一の果を得る、

という意味であり、

共業共果(きょうごうきょうか)、

ともいう(大辞泉)。「一業」は、

一つの行為、

だが、

ひとの業因(岩波古語辞典)、

つまり、

結果を招く一種の力をもったはたらき、

を指し(精選版日本国語大辞典)、「所感」は、今日では、

今日の事件を材料にして、早速、所感を書いて送る事にしよう(芥川龍之介「手巾」)、

と、

心に感じたこと、感想、

の意だが、仏教用語では、

此業力所感の故に、業の尽不尽に依て生を改めて(「覚海法橋法語(12C終~13C前)」)、

と、

(前世での)過去の行為が、その結果としてもたらすもの、

の意となる(四字熟語を知る辞典・精選版日本国語大辞典)。「字通」(白川静)には、「所感」について、

心に感じる。〔列女伝、母儀、周室三母伝〕子を姙(はら)むの時は、必ず感ずるを愼む。善に感ずるときは則ち善、惡に感ずるときは則ち惡なり。人生まれて物に肖(に)るは、皆其の母、物に感ずればなり、

とある。

「一」 漢字.gif

(「一」 https://kakijun.jp/page/0101200.htmlより)

「一」(漢音イツ、呉音イチ)は、

指事。一本の横線で、一つを示す意のほか、全部をひとまとめにする、一杯に詰めるなどの意を含む。壱(イチ)の原字壹は、壺に一杯詰めて口をくびったたま、

とある(漢字源)。

「一」 金文・殷.png

(「一」 金文・殷 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E4%B8%80より)

「業」(漢音ギョウ、呉音ゴウ)は、

象形。ぎざぎざのとめ木のついた台を描いたもの。でこぼこがあってつかえる意を含み、すらりとはいかない仕事の意となる。厳(ガン いかつい)・岩(ごつごつしたいわ)などと縁が近い、

とある(漢字源)が、別に、

「業」 漢字.gif

(「業」 https://kakijun.jp/page/1366200.htmlより)

象形。楽器などをかけるぎざぎざのついた台を象る。苦労して仕事をするの意か?

ともhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%A5%AD

象形。かざりを付けた、楽器を掛けるための大きな台の形にかたどる。ひいて、文字を書く板、転じて、学びのわざ、仕事の意に用いる、

とも(角川新字源)、

象形文字です。「のこぎり状のぎざぎざの装飾を施した楽器を掛ける為の飾り板」の象形から「わざ・しごと・いた」を意味する「業」という漢字が成り立ちました、

ともありhttps://okjiten.jp/kanji474.html

ぎざぎざのとめ木のついた台、

が、

のこぎり状のぎざぎざの装飾を施した楽器を掛ける為の飾り板、

と特定されたものだということがわかる。

「業」 成り立ち.gif

(「業」 成り立ち https://okjiten.jp/kanji474.htmlより)

「所」(漢音ソ、呉音ソ)は、

形成。「斤(おの)+音符戸」で、もと「伐木所所(木を伐ること所々たり)」(詩経)のように、木をさくさくと切り分けること。その音を借りて指示代名詞に用い、「所+動詞」の形で、~するその対象を指し示すようになった。「所欲」とは、欲するそのもの、「所至」とは、至るその目標地をさし示した言い方。後者の用法から、更に場所の意を派生した、

とある(漢字源)。

「所」 漢字.gif



別に、

会意文字です(戸(戶)+斤)。「入り口の戸」の象形と「斧(おの)」の象形から斧等を置いた入り口の戸を意味し、それが転じて(派生して・新しい意味が分かれ出て)、「ところ・ばしょ」を意味する「所」という漢字が成り立ちました

ともありhttps://okjiten.jp/kanji468.html

会意、「斤」(おの)で「戸」を守るの意で、神の居る所(白川静)。または、「戸」を音とし、「斤」で切り開く意であったものが、音を仮借し指示代名詞として用いた(藤堂明保)、

https://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%89%80

「戸」を守る、

の意と、

「戸」を音、

の意との二説ある。

「所」 成り立ち.gif

(「所」 成り立ち https://okjiten.jp/kanji468.htmlより)

「感」(漢音カン、呉音コン)は、

会意兼形声。咸(カン)は、戈でショックを与えて口を閉じさせること。緘(とじる)の原字。感は「心+音符咸」で、心を強く動かすこと。強い打撃や刺激を与える意を含む、

とあり(漢字源)、

「感」 漢字.gif

(「感」 https://kakijun.jp/page/1344200.htmlより)

形声。心と、音符咸(カム)とから成る。外物に対して心が動く意を表す、

と(角川新字源)、

会意文字です(咸+心)。「口の象形とまさかりの象形」(「大きなまさかりの威圧の前に口から大声を出し切る」の意味)と「心臓の象形」から大きな威圧・刺激の前に「心が動く・かんじる」を意味する「感」という漢字が成り立ちました、

https://okjiten.jp/kanji439.html

これも、

会意形声。「心」+音符「咸」、「咸」は「戌(←戈+一)」+「口」の会意文字で、

武具で脅して口を閉じさせるの意であり、「緘」の原字で、「感」は口を閉ざすほどの心理的に強い衝撃の意(藤堂)、

または、

神器に武具をあわせ神威を得るの意(白川)、

の二説があるhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%84%9F

「感」 成り立ち.gif

(「感」 成り立ち https://okjiten.jp/kanji439.htmlより)

参考文献;
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

ラベル:一業所感
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2022年02月19日

宗と


一生のうち、むねとあらまほしからん事の中に、いづれかまさると(徒然草)、

とある、

むねと、

は、

宗とは仁木右京大夫(うきょうのだいぶ)義長が過分の振る舞ひを徇(しず)めんがためにて候ひき(太平記)、

と、

宗と、

と当て、副詞として、

主として、
もっぱら、

の意で(岩波古語辞典)使い、この場合、

旨、

の字も当てる(大言海)。また、

宗とあると見ゆる大将、横座にゐたり(宇治拾遺)、

と、

大将として、

の意でも使う(明解古語辞典)。さらに、

宗徒、

と当て、

海賊が宗との物、くろばみたる物きて、あかき扇ひらきつかひて(宇治拾遺)、
洛中の勢を集められけれども、宗徒の勢は、摩耶城より追つ立てられて(太平記)、

と、名詞として、

主だったもの、
中軸となるべき、

の意でもつかう(岩波古語辞典)。

宗とあるものの意、

とあり(明解古語辞典)、この「むね」は、

宗、

と当てると、

家の造やうは夏を宗とすべし(徒然草)、
宗とは詩作り給ふ事を好みて(今鏡)、

と、

主とすること、
中心とすること、
専らとすること、

の意(広辞苑・大言海・明解古語辞典)や、

(歌合は)歌を宗としたる事に、(絵を)などわろきものにかかすべき(栄花根合)、

と、

最高の価値として一貫すべきもの、

の意ともなり(岩波古語辞典)、

旨、

と当てると、

方等経の中におほかれど、言ひもてゆけば、ひとつむねに當りて、菩提と煩悩とのへだたりなし(源氏物語)、

こころ、
ことのおもむき、
趣意、

の意で(広辞苑・大言海)、

其の有らゆる深き致(むね)、亦一に十を斯に尽くしつ(三蔵法師傳)、

と、

致、

とも当てる(広辞苑・大言海)。

「宗」は、

心(むね)の義、

「旨」は、

事の宗の義、胸、心と通ず、

とある(大言海)が、別に、「むね(宗・旨)」は、

ム(含・内容のまとまり)+ネ(根幹)、

とし、

宗は、主とすること、旨は、趣旨の意、

とする説(日本語源広辞典)もある。しかし、「むね(宗・旨)」は、

ムネ(棟)・ムネ(胸)と同根。家の最も高いところで一線をなす棟のように、筋の通った最高のもの、

とある(岩波古語辞典)。「胸」は、古形は、

胸先、
胸騒ぎ、

に残るように、

むな、

であり、

身根(むね)の転、

「棟」も、

身根(むね)の転、

とする説があり(大言海)、いずれも、

(人や建物の)根幹、

の意であり、「宗」の意と繋がり、「宗」と「胸」「棟」とは、漢字を当て別けるまで、ひとしく「むね」であった可能性が高い。

「宗」 漢字.gif

(「宗」 https://kakijun.jp/page/0867200.htmlより)

「宗」(慣用シュウ、漢音ソウ、呉音ソ)は、

会意。「宀(やね)+示(祭壇)」で、祭壇を設けたみたまやを示す。転じて、一族の集団を意味する。族はその語尾がつまってkに転じたことば、

とあり(漢字源)、ひいて、祖先、また、祖先神の祭りを主宰する族長の意に用いる、ともある(角川新字源)。

「宗」 甲骨文字・殷.png

(「宗」 甲骨文字・殷 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%AE%97より)

「旨」(シ)は、

会意。もと「匕+甘(うまい)」の会意文字。匕印は人の形であるが、まさか人肉の脂ではあるまい。匕(さじ)に当てた字であろう。つまり「さじ+甘」で、うまい食物のこと。のち指(ゆびで示す)に当て、指し示す内容の意に用いる、

とある(漢字源)が、

「旨」 漢字.gif

(「旨」 https://kakijun.jp/page/0636200.htmlより)

諸説あり、

とありhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%97%A8、中国最古の字書『説文解字』(後漢・許慎)は、

「曰」は「甘」の転で「匕」を音符とするが、後代の研究において否定的(唐韻においても、「旨」は「職雉切」であるが、「匕」は「卑履切」と遠い。但し、「是(承旨切)」に音を借りた「匙(是支切)」や、匙を原義とする「氏(承旨切)」の音は近い)。「匕」は「匕首」即ち小型の刃物であり、それで、食物をとりわけ味わうの意であろうとされる。白川静は「曰」を神意を得たもの(この場合は食物)を封じた容器(サイ)と解する。「意義・内容」の意義は、皇帝が「指」したものからの派生、

と説明する(仝上)。しかし、多くは、

会意形声。意符甘(あまい。日は変わった形)と、匕(ヒ)→(シ さじ)とから成り、さじに取って口でなめる、ひいて「うまい」意を表す(角川新字源)、

会意文字です(匕+日(口))。「さじ」の象形と「口」の象形から、さじで口に食物を流し込む事を意味し、そこから、「うまい」、「よい」を意味する「旨」という漢字が成り立ちましたhttps://okjiten.jp/kanji1158.html

と、「さじ」説を取っている。

「旨」 甲骨文字・殷.png

(「旨」 甲骨文字・殷 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%97%A8より)

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
金田一京助・春彦監修『明解古語辞典』(三省堂)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

ラベル:宗と むねと 宗徒
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2022年02月20日


「宗と」http://ppnetwork.seesaa.net/article/485666532.html?1645214436で触れたように、「宗と」の「むね(宗・旨)」は、

ムネ(棟)・ムネ(胸)と同根。家の最も高いところで一線をなす棟のように、筋の通った最高のもの、

である(岩波古語辞典)。だから、「胸」は、

古形ムナの転。ムネ(棟)と同根。棟木(むなぎ)の高く張るように、胸骨の張っている所の意、

とあり(仝上)、和名類聚抄(平安中期)に、

胸、膺、臆、無禰、

とある(膺、臆はいずれも「むね」の意)。

「棟」は、

ムネ(胸)・ムネ(宗)と同根、

とあ(仝上)、和名類聚抄(平安中期)には、

棟、無禰、

とある。

古形ムナ、

は、

ぬばたまの黒き御衣(みけし)をまつぶさに取り装ひ淤岐都登理(オキツトリ)胸(むな)見る時羽叩(はたた)ぎもこれは相応(ふさ)はず(古事記・歌謡)、

と、

胸先、
胸騒ぎ、
胸板、
胸骨、

など、

多く他の語に冠して複合語をつくる(仝上)。

もちろん、「胸」の語源には、

ムネ(身根)の義か(古事記伝・和訓集説・国語の語根とその分類=大島正健・日本語原学=林甕臣)、
ミネ(身根)の転か(大言海)、
ム(身)+ネ(根幹)、人の根幹をなす部分(日本語源広辞典)、

と、「身根」とする説があり(「身(み)」の古形は「身(む)」で、「身代(むかはり)、「身胴(むくろ)」、「身実(むざね)」、「身屋(むや)、「身根(むね)」等々複合語を作っている)、「棟」の語源にも、

ムネ(身根)の義(大言海)、
その形から胸の義(名言通)、
ム(建物のまとまり)+ネ(根幹)、建物の根幹をなす材の意(日本語源広辞典)、

と、「身根」とする説がある。さらに、「胸」を、

ムナギ(棟木)のムナと同源で、身体中で最も大切な部分の意(おしゃれ語源抄=坂部甲次郎)、

と、「棟」とつなげる説もある。「棟」を「棟木(むなぎ)」のように「ムナ」と訓ませるところも、「胸」との関連を感じさせる。しかし、別に、「棟」を、

山の峯のように屋の最も高いところから、ミネ(峯)の転(日本釈名・和語私臆鈔・家屋雑考・和訓栞・言葉の根しらべの=鈴木潔子)、
ウナ(頂)の転で、ミネ(峯)と同根(日本古語大辞典=松岡静雄)、

と、「みね(峯・峰)」と関連付ける説がある。

しかし、「みね」http://ppnetwork.seesaa.net/article/468333451.htmlで触れたように、

峰(ヲ)はタニの対、

とあり(岩波古語辞典)、「を(峰)」は、

尾、

と重なり、

尾根、
稜線、
脊梁(せきりょう)、

であり、「みね(峰)」は、

山の頂の尖ったところ、

の意であり、「を(峰)」とは由来を異にする言葉らしい。谷に対なのは、

峰々の連なり、

であって、

みね(峰)、

ではない、ということになる。「みね」は、

ミは發語。ネは嶺なり(大言海)、
ミは神のものにつける接頭語。ネは大地にくいいるもの、山の意。原義は神聖な山(岩波古語辞典)、
ミ(御)+ネ(嶺)(日本語源広辞典)、
ミは褒称。ネは高峻の義(箋注和名抄・東歌疏=折口信夫)、
ミは尊称、ネは止まり動かない意(東雅)、
ミネ(御根)の義。山上に神のあるところから(名言通)、
ミは神の略、ネはナル(成)の転(和語私臆鈔)、
ミはマシの約で美称、ネ(根)は山の義(和訓集説)、

など、「み」は「御」の意で、かつてヤマはご神体であり、とりわけ尖った頂は神聖視された。「ミ」はその名残りで、

ご神体、

の意味であると見ていい。つまり、「棟」と「峯」はつながらないのである。ちなみに、

峰打ち、

という、

刀の峰でうつ、

意も、

刀背打ち、
棟打ち、

とあて、

むねむち、

であり、「みねうち」はその転訛と見られる。

「胸」 漢字.gif


「胸」(漢音キョウ、呉音ク)は、

会意兼形声。もと匈と書く。凶の字の凵印がくぼんだ穴をあらわし、×印はその中にはまり込んで交差してもがくことをあらわす。匈(キョウ)は空洞を外から包んださま。胸は「肉+音符匈」で、中に空洞をつつみこんだむね。肺のある胸郭はうつろな穴である、

とある(漢字源)。別に、

会意兼形声文字です(月(肉)+匈)。「切った肉」の象形と「胸に施された不吉を払う印(しるし)と人が腕を伸ばして抱きかかえ込んでいる象形」(「むね」の意味)から、「むね」を意味する「胸」という漢字が成り立ちました、

との解釈もあるhttps://okjiten.jp/kanji282.html

「棟」 漢字.gif


「棟」(漢音トウ、呉音ツ・ツウ)は、

会意兼形声。「木+音符東(真ん中を通す)」。家の頂上を通す棟木、

とある(漢字源)。「東」は、

袋の真ん中を通した様を象った文字で、家の真ん中を貫く「むなぎ」を意味する、

とありhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%A3%9F、別に、

形声文字です(木+東)。「大地を覆う木」の象形と「袋の両端をくくった」象形(重い袋を動かすさまから、万物を眠りから動かす太陽の出る方角「ひがし」の意味だが、ここでは、「重」に通じ(「重」と同じ意味を持つようになって)、「おもい」の意味)から、家屋の中で最も重要な部分「むね」を意味する「棟」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji1981.html。因みに、「東」は、

象形。中に心棒を通し、両端をしぼった袋の形を描いたもの。嚢(ノウ 袋)の上部と同じ。太陽が地平線をとおしてつきぬけて出る方角。白虎通(後漢の班固の編集の書。正しくは『白虎通義』という)に、「東方者動方也」とある、

とある(漢字源)。別に、

象形。上下を縛った袋の形から。袋から棒が突き抜けるように、日が地平線から突き出る様、

ともhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%9D%B1

象形文字です。「袋(ふくろ)の両端を括った」象形から、袋を動かし万物を眠りから動かす太陽の方角「ひがし」を意味する「東」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji148.html

「東」 甲骨文字・殷.png

(「東」 甲骨文字・殷 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%9D%B1より)

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

ラベル: むね
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