2022年05月01日

象外


この外(ほか)、宗徒(むねと)の一族四十三人、或は象外(しょうがい)の撰に当たり、俗骨忽ち蓬莱の雲を踏み、或は乱階の賞によって、庸才たちどころに台閣の月を攀づ(太平記)、

とある、

象外の撰、

は、

高位高官に抜擢されること、

とあり(兵藤裕己校注『太平記』)、

昇殿はこれ象外の選び(予想外の抜擢)なり、俗骨(俗人)をもって蓬莱の雲を踏む(雲上人となる)べからず。尚書(太政官の弁官)はまた天下の望なり、庸才(凡人)をもって台閣の月を攀づ(弁官となる)べからず(和漢朗詠集・述懐)

と付記があり(仝上)、それに依っているようだが、同文は、

昇殿是象外之選也。俗骨不可以踏蓬莱之雲。
尚書亦天下之望也。庸才不可以攀台閤之月。

ともられ、これは、橘直幹の、

申文、

と題されているものではあるまいかhttps://ja.wikisource.org/wiki/%E5%92%8C%E6%BC%A2%E6%9C%97%E8%A9%A0%E9%9B%86。因みに、「尚書」は、

「弁官」の唐名

であり、「弁官(辨官 べんかん)は、

おおともいのつかさ、

ともいい、

律令(りつりょう)官制における太政官内の要職、

で、

左右の弁官局があり、少納言局と合せて、太政官三局という。太政官内の庶務を取扱い、下級機関からの上申文書の受理および太政官への申達(しんたつ)や、太政官符など太政官からの命令の下達(げたつ)書の発給事務を統轄した行政事務の執行機関、

であり、

左弁官は中務(なかつかさ)、式部、治部、民部の4省を、右弁官は兵部、刑部(ぎょうぶ)、大蔵、宮内の4省を分掌、長官である左右大弁は従(じゅ)四位上相当で、八省の卿(かみ)に次ぐ高官。左右ともに大弁、中弁、少弁が1人ずつあり、のちに権官1人を加えて、定員7人で七弁と称せられた。名誉ある職で、家柄、能力ともにすぐれたものが任命された。弁官の制は江戸時代末期まで存続し、明治維新にいたって弁事に改められた、

とある(広辞苑・ブリタニカ国際大百科事典・日本大百科全書)。

ただ、「象外」は、

しょうげ、

とも訓ませ(「げ」は「外」の呉音)、

至若御製令製、名高象外、韻絶環中(小野岑守「凌雲集(814)」・序)、
天狗と羽を并べて、象外(セウガイ)に遊ぶの夢に余念なかりき(北村透谷「三日幻境(1892)」)、

などと、

凡俗を離れた境界(広辞苑)、
俗世間を超越した境地(精選版日本国語大辞典)、

という意味で使われる。「象外」は漢語で、

西觸王宰畫山水樹石、出於象外(畫斷)、

などと、

心が形象の外に超然として常法に拘束せられざる義、

とある(字源)。ここでは、

象外の撰、

という言い方で、

世間の常識を大きく外れた抜擢、

と言った意味で使っている。その後に続く、

乱階の賞、

は、

順序を飛び越えた賞、

と注記がある(兵藤裕己校注『太平記』)。それまでの常識を外れた昇進や褒賞ということである。

「乱階」は、

無拳無勇、職為乱階(小雅)、

と、

階は梯、みだれるきざはし、

の意(字源)であり、

禍梯(かてい)、
乱梯、

と同義とある(仝上)。それをメタファに、

其乱階を尋るにイワンの姉……ソヒヤなる者奸才あり(福沢諭吉「西洋事情(1866~70)」)、

などと、

秩序の乱れのもと、
騒乱の起こるきざし、
騒乱の端緒、

の意で使い、また、

今年之春叙位、乱階不次之賞不見(「本朝文粋(1060頃)」)、

と、

順序を越えて位階を進めること、

つまり、

越階(おっかい)、

の意でも使う(広辞苑・精選版日本国語大辞典)。

「象」 漢字.gif


「象」(漢音ショウ、呉音ゾウ)は、

象形。ぞうの姿を描いたもの。ぞうは最も目だった大きいかたちをしているところから、かたちという意味になった、

とある(漢字源)。「圖象」「象形」のように「かたち」の意味の外に、「現象」というように、外にあらわれたすがたの意で、周易の卦(カ)のあらわれた姿の意でも使う。

「象」 甲骨文字・殷 .png

(「象」 甲骨文字・殷 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E8%B1%A1より)

象形。長い鼻をもち、大きなからだをしたぞうの形にかたどる。借りて「かた」の意に用いる(角川新字源)、

象形。長い鼻のゾウを形取ったもの。また、相に通じて姿の意味も表す。大きく目立つことから、「かたち」「すがた」の意を生じたものともhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E8%B1%A1

も同趣旨である。

「外」 漢字.gif

(「外」 https://kakijun.jp/page/0549200.htmlより)

「外」(漢音ガイ、呉音ゲ、唐音ウイ)は、

会意、「夕」(肉)+「卜」(占)で、亀甲占で、カメの甲羅が体の外にあることから、

とする「龜甲」占い由来とする説と、

「卜」+音符「夕」で、占で、月の欠け残った部分を指した会意形声とも(藤堂明保)、

とする「月」占い説とがあるhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%A4%96

会意兼形声。月(ゲツ)は、缺(ケツ 欠ける)の意を含む。外は「卜(うらなう)+音符月」で、月の欠け方を見て占うことを示す。月が欠けて残った部分、つまり外側の部分のこと。龜卜(キボク)に用いた骨の外側だという解説もあるが従えない、

とか(漢字源)、

会意。夕(ゆうべ)と、卜(ぼく うらない)とから成る。通常は昼間に行ううらないを夜にすることから、「そと」「ほか」「よそ」、また、「はずれる」意を表す、

とか(角川新字源)は、「月」占い説、

形声文字です(夕(月)+卜)。「月の変形」(「刖(ゲツ)に通じ、「かいて取る」の意味)と「占いの為に亀の甲羅や牛の骨を焼いて得られた割れ目の象形」から、占いの為に亀の甲羅の中の肉をかいて取る様子を表し、そこから、「はずす」を意味する「外」という漢字が成り立ちました、

あるhttps://okjiten.jp/kanji235.htmlのは、「龜甲」占い説になる。ただ、甲骨文字と金文(青銅器に刻まれた文字)とでは、かたちが異なり、途中で変じたのかもしれない。

「外」 甲骨・殷.png

(「外」 甲骨文字・殷 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%A4%96より)

「外」 金文・西周.png

(「外」 金文・西周 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%A4%96より)

参考文献;
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
簡野道明『字源』(角川書店)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

posted by Toshi at 04:18| Comment(0) | 言葉 | 更新情報をチェックする

2022年05月02日

龍鱗を攀じて鳳翼に附す


旧功の輩(ともがら)を招き集められけるに、龍鱗に付いて鳳翼を攀(よ)ぢ、宿望を達せばやと(太平記)、

にある、

龍鱗に付いて鳳翼を攀ぢ、

は、普通、

竜鱗に攀じて鳳翼に附す、

という。

天下士大夫、捐親戚棄土壌、従大王於矢石之閒者、其計固望其攀龍鱗、附鳳翼、以成其所志耳(後漢書・光武紀)、

に依る、

竜のうろこにつかまり、鳳凰の翼につき従う、

つまり、

「攀」は、とりすがって上る、「附」は、つきしたがう、

意で、

勢力のある者にすがりて、立身すること、

である(大言海)。「龍鱗」は、

リュウリン、
とも
リョウリン、

とも訓み、文字通り、

龍の鱗、

の意だが、

臣下のたのみとなる偉大な英主、

の意である(広辞苑)。

臣下が英主に従って功業を立てる、

の意をメタファに、

閉戸著書多歳月、種松皆老作攀龍(王維)、

と、

老松などの幹の樹皮が竜の鱗の形に似たもの、

に譬えたり、

先賢を手本に人徳を養うことのたとえ、

にも使ったり(広辞苑)、

敵虎韜(包囲、攻撃する陣立)に連ねて圍めば、虎韜に分れて相當り、龍鱗に結びて蒐(かか)れば、龍鱗に進んで戦ふ(太平記)、

と、

陣立て、

の一つとしても使う(大言海)。

鳳凰.bmp

(「鳳凰」 精選版日本国語大辞典より)

「鳳凰」は、

古来中国で、麒麟、亀、龍とともに四瑞(しずい 四霊)と尊ばれた想像上の瑞鳥、前は麒麟、後は鹿、頸は蛇、尾は魚、背は亀、頷(あご)は燕、嘴は鶏に似、五色絢爛、聲は五声にあたり、梧桐に宿り、竹実を食い、醴泉(れいせん)の水を飲むといい、高さ五、六尺(一・五~一・八メートル)、羽には五色の紋がある。聖徳の天子の兆しとして現れると伝え、雄を鳳、雌を凰という、

とある(広辞苑・精選版日本国語大辞典)。

鳳鳥、

ともいう(仝上)。「四霊」については、「四神相応」http://ppnetwork.seesaa.net/article/486277205.htmlでも触れた。

鳳凰(台湾).jpg

(鳳凰(台湾・艋舺龍山寺) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E9%9C%8Aより)

また、「龍鱗を攀じて鳳翼に附す」は、

攀龍附鳳勢莫當、天下盡化為侯王(杜甫)、

と、

攀龍附鳳(はんりょうふほう)、

という四字熟語になっていて、

附鳳、

ともいう(大言海)。似た言葉に、

蒼蠅(そうよう)驥尾に付して千里を致す、

というのがある。これも四字熟語で、

蒼蠅驥尾(そうようきび)、

ともいう。

驥尾に附く、
驥尾に付す、

ともいう(故事ことわざの辞典・広辞苑)。

蠅が驥尾について千里も遠い地に行くように、後進者がすぐれた先達につき従って、事を成し遂げたり功を立てたりする、

意で(広辞苑)、

蒼蠅附驥尾而致千里、以喩顔回因孔子而名彰(史記・伯夷傳)、
蒼蠅之飛、不過十歩、自託驥尾之髪、乃騰千里之路(漢書・張敞(ちょう しょう)傳)、

などによる(大言海・故事ことわざの辞典)。「蒼蠅」は、

あおばえ、

「驥尾」は、

駿馬の尾、

である。なお「蒼蠅」には、

營營青蠅、止手樊(まがき)、豈弟(がいてい 人柄のおだやかなこと)君子、無信、讒言(豈弟は楽易(心が安らかであること)の義)(詩経)、
匪鷄則鳴、蒼蠅之聲(齋風)、

などと、

讒人、

の意もある(字源・大言海)

「龍」 漢字.gif

(「龍」 https://kakijun.jp/page/ryuu200.htmlより)

「龍」(漢音リョウ、呉音リュウ、慣用ロウ)は、「神龍忽ち釣者の網にかかる」http://ppnetwork.seesaa.net/article/485851423.html「亢龍悔い有り」http://ppnetwork.seesaa.net/article/484356729.htmlで触れたように、

象形。もと、頭に冠をかぶり、胴をくねらせた大蛇の形を描いたもの。それにいろいろな模様を添えて、龍の字となった、

とある(漢字源)。別に、

象形。もとは、冠をかぶった蛇の姿で、「竜」が原字に近い。揚子江近辺の鰐を象ったものとも言われる。さまざまな模様・装飾を加えられ、「龍」となった。意符としての基本義は「うねる」。同系字は「瀧」、「壟」。古声母は pl- だった。pが残ったものは「龐」などになった、

ともあるhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E9%BE%8D

「鱗」 漢字.gif


「うろこ」http://ppnetwork.seesaa.net/article/484969775.htmlで触れたように、「鱗」(リン)は、

会意兼形声。粦(リン)は、連なって燃える燐の火(鬼火)を表す会意文字。鱗はそれを音符とし、魚を加えた字で、きれいに並んでつらなるうろこ、

とある(漢字源)。別に、

会意兼形声文字です(魚+粦)。「魚」の象形(「魚」の意味)と「燃え立つ炎の象形と両足が反対方向を向く象形」(「左右にゆれる火の玉」)の意味から、「左右にゆれる火の玉のように光る魚のうろこ」を意味する「鱗」という漢字が成り立ちました、

との解釈もあるhttps://okjiten.jp/kanji2354.html

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
尚学図書編『故事ことわざの辞典』(小学館)
簡野道明『字源』(角川書店)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

posted by Toshi at 03:53| Comment(1) | 言葉 | 更新情報をチェックする

2022年05月03日

怪談話型の完成


高田衛編・校注『江戸怪談集(全三巻)』を読む。

江戸怪談集上.jpg


江戸時代は怪談の好まれた時代で、本書は、その中でも、

江戸時代の基本的な「型」が定立しつつあった十七世紀の間に刊行された板木のうち、もっとも代表的と思われる怪談本を対象とすることを原則とし、各話は、行文の洗練よりも、話の質によって選んだ、

とされ(凡例)、

上巻
『宿直草』延宝五年(1677)
『奇異雑談(ぞうたん)集』貞享四年(1687)
『善悪報ばなし』元禄年間(1688~1704)
『義殘後覚(こうかく)』文禄年間(1592~96)
中巻
『曽呂利物語』寛文三年(1663)
『片仮名本・因果物語』寛文元年(1661)
『伽婢子(おとぎぼうこ)』寛文六年(1666)
下巻
『諸国百物語』延宝五年(1677)
『平仮名本・因果物語』寛文元年(1661)
『新伽婢子(おとぎぼうこ)』天和三年(1683)
『百物語評判』貞享三年(1686)

が載せられている。近世怪談集の「怪談」は、内容的には、

唱導仏教系怪談、
中国小説系怪談、
民俗系怪談、

に分けられるが、堤邦彦『江戸の怪異譚』http://ppnetwork.seesaa.net/article/432575456.htmlで触れたように、江戸時代の怪異譚を成り立たせている重要な特徴として、ひとつは、仏教唱導者の近世説教書(勧化(かんげ)本)のなかに類例の求められる、

仏教的な因果譚としての側面、

がある。

「檀家制度をはじめとする幕府の宗教統制のもとで、近世社会に草の根のような浸透を果たした当時の仏教唱導は、通俗平易なるがゆえに、前代にもまして、衆庶の心に教義に基づく生き方や倫理観などの社会通念を定着させていった。とりわけ人間の霊魂が引き起こす妖異については、説教僧の説く死生観、冥府観の強い影響がみてとれる。死者の魂の行方をめぐる宗教観念は、もはやそれと分からぬ程に民衆の心意にすりこまれ、なかば生活化した状態となっていたわけである。成仏できない怨霊の噂咄が、ごく自然なかたちで人々の間をへめぐったことは、仏教と近世社会の日常的な親縁性に起因するといってもよかろう。」

そうした神仏の霊験、利益、寺社の縁起由来、高僧俗伝などに関する宗教テーマが広く広まり、

仏教説話の俗伝化、

を強めて、宗教伝説が、拡散していった。

しかし、その一方で、結果として一族を滅ぼした亡霊には法力の霊験が効果がなかった怪異譚もあり、宗教的因果譚の覊絆から離れ、

もはや中世風の高僧法力譚の定型におさまりきれなくなった江戸怪談、

には、仏教説話の常套話型に比べてみた場合、決して救われることのない説話伝承史的な特性があり、そこには、
説話の目的と興味が、

「高僧の聖なる験力や幽霊済度といった『仏教説話』の常套表現を脱却して、怨む相手の血筋を根絶やしにするまで繰り返される(丹波国山家領の郷士楠数右衛門に起きた霊異におけるお梅のような)亡婦の復讐劇に転換する」

という怪異小説に脚色され、虚構文芸の表現形式を創り出すところへとつながっていく、という大まかな流れがある。そうした、

江戸時代の怪談の基本的な話型(パターン)、

は、

元禄期(1688~1704)頃、

までの怪談集によって完成させられている(編者・上巻「解説」)。その意味では、本書は、パターン化される前までの江戸初期の怪談集を集めていることになる。

江戸怪談集中.jpg


近世初期になると、ハナシという語に、「話」だけではなく、「噺」とか「咄」という漢字があてられてくる。いずれもハナシの口承性を示唆するあて字であることからも知られるように、人々の寄合から活性化した世間話が、逆にハナシの相互化を媒介に、相互にハナシを持ち寄り、交流をたのしむ、場や機会を広げることになった。連歌、俳諧、茶会、謡の会などの寄合は、同時にハナシの場となり、また葬祭の集りや寺院の法談の寄合や、庚申待、二十三夜待などの民俗宗教的行事の寄合もハナシの場となった、

とあり(編者・中巻解説)、

曽呂利物語、

のように、

一人のハナシ上手が演ずる百話形式、

だが、

諸国百物語、

などは、

巡(めぐり)物語形式の怪談会、

であり、こうした

百物語形式、

は、

ハンシの聞き手もまたいつでも語り手に転化しうるという意味で、共同体験への参加、

となっており、この、

百物語形式、

によって、江戸時代の怪談の刊行に大きな道が開かれた(編者・下巻解説)とされる(そういえば、鴎外にも『百物語』がある)。

こうした経緯を考えると、中国志怪小説の翻案である、

伽婢子(おとぎぼうこ)、

の、物語としての完成度が高いのは当然かもしれない。既に、

怪異小説、

としての、

体裁、
内容、

が整っていて、

江戸時代怪談集の傑作、

と言われる(編者・中巻解説)のも無理からぬ。その翻案に当たっては、浅井了意は、

「中国典拠や中国風俗を我が国の歴史や風俗に移すについても、きわめて注意深くこれに対処している。たとえば歴史については『将軍記』、『甲陽軍鑑』、『信長公記』等々の記述を重んじ、民俗伝承についても「雪白明神」、「早梅花妖精」などでは、その土地の伝承を重んじている」

とある(仝上)ので、ただの翻案というよりは、もはや筋のみ借りたほぼ創作に近い。

百物語評判、

では、

歌学者山岡元隣が、京都六条の自宅で開かれた百物語怪談会の話題を逐一とりあげて、陰陽五行説を中心にした、当時の合理的思惟にもとづいて、和漢の典籍を援用しつつ論評、

しているのが、確かに、

当時の時好や解釈がうかがえる、

とある(編者・下巻解説)が、かえって興ざめというか、ぶち壊しになっている気がしてならない。虚構への過渡としての「実話」ということを考えると、何だかんだと解釈しないと気がおさまらなかったのかもしれないが。

江戸怪談集下.jpg


「怪談」関連は、

今野円輔『日本怪談集 妖怪篇』http://ppnetwork.seesaa.net/article/461651277.html
今野円輔『日本怪談集 幽霊篇』http://ppnetwork.seesaa.net/article/461217174.html)、
高田衛『日本怪談集〈江戸編〉』http://ppnetwork.seesaa.net/article/456630771.html
種村季弘編『日本怪談集』http://ppnetwork.seesaa.net/article/456520310.html
岡本綺堂編訳『世界怪談名作集』http://ppnetwork.seesaa.net/article/447924158.html
田中貢太郎『怪談百物語』http://ppnetwork.seesaa.net/article/445163531.html
岡本綺堂『中国怪奇小説集』http://ppnetwork.seesaa.net/article/444432230.html
鳥山石燕『画図百鬼夜行全画集』http://ppnetwork.seesaa.net/article/480233767.html

で触れたし、「怪異」については、

小山聡子『もののけの日本史』http://ppnetwork.seesaa.net/article/480217461.html
阿部正路『日本の妖怪たち』http://ppnetwork.seesaa.net/article/432927068.html
堤邦彦『江戸の怪異譚―地下水脈の系譜』http://ppnetwork.seesaa.net/article/432575456.html

で触れた。

参考文献;
高田衛編・校注『江戸怪談集(全三巻)』(岩波文庫)
堤邦彦『江戸の怪異譚―地下水脈の系譜』(ぺりかん社)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

posted by Toshi at 03:57| Comment(0) | 書評 | 更新情報をチェックする

2022年05月04日

兵革


今、兵革(ひょうがく)の後、世未だ安からず、国弊(つい)え、民苦しみて(太平記)、

とある。

兵革、

は、

ひょうかく、
へいがく、
へいかく、

などと訓ませ、

「兵」は槍・刀などの武器、「革」は甲冑(かっちゅう)などの武具の意、

で、

人数きたり、兵革(ひょうかく)を帯して大蛇を退治す(奇異雑談集)、

と、

いくさの道具の総称、

の意(高田衛編・校注『江戸怪談集』)であるが、それをメタファに、冒頭の、

兵革(ひょうがく)の後、

のように、

兵乱、

の意(兵藤裕己校注『太平記』)や、

天子念、則兵革災害不入国裏(続日本紀)、

のように、

たたかい、戦争、干戈、

の意で使う(広辞苑・精選版日本国語大辞典)。

「兵革(へいかく)」は、

兵革非不堅利也(兵革堅利ならざるに非ず)
とか
威天下不以兵革之利(天下を威(おど)すに兵革の利をもってせず)、

と(孟子)、漢語であり、ここでは、

武器・甲冑、

の意で使う(小林勝人訳注『孟子』)が、転じて、

いくさ、

の意でも使い、

城郭不完、兵甲不多、非国之災也(城郭完(まった)からず、兵甲多からざるは、国の災いに非ざるなり)、

と使う(仝上)、

兵甲(へいこう)、

と同義で、「兵甲」は、

兵は矛戟、甲は甲冑、

の意で、

戦争、

の意にも、

兵士、
戦力、

の意でも使う(字源)。

「兵」 漢字.gif

(「兵」 https://kakijun.jp/page/0725200.htmlより)

「兵」(漢音ヘイ、呉音ヒョウ)は、

会意文字。上部は斤(おの→武器)の形、その下部に両手を添えたもので、武器を手に持つさまを示す。並べ合わせて敵に向かう兵隊の意。中国最古の字書『説文解字』(後漢・許慎)に、「力を并(あわ)すすがた」とある、

とある(漢字源)。つまり、

「斤(おの)」+「廾(キョウ 両手をそろえた様)」、

で、

斧(=武器)を両手で(かかげ)持つ様、

ということになる(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%85%B5・角川新字源)。別に、

「兵」 甲骨文字・殷.png

(「兵」 甲骨文字・殷 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%85%B5より)

会意文字です(斤+廾)。「曲がった柄の先に刃をつけた手斧」の象形と「両手」の象形から、両手で持つ手斧を意味し、そこから、「武器・兵士・軍隊」を意味する「兵」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji635.html

「革」 漢字.gif


「革」(漢音カク、呉音キャク)は、

象形。動物の全身の皮をぴんとはったさまを描いたもの。上部は頭、下部はしっぽと両足である。張り詰める意を含む、

とある(漢字源)。

上部「廿」は頭、下部「十」は尾と両足、

ということhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E9%9D%A9で、

克(コク はりきってたえる)、亟(キョク はりつめる)、改(カイ だれたものを伸ばして、起こし直す)などと同系とある(漢字源)。別に、

象形。角(つの)と尾がついたままの動物の皮の形にかたどり、毛を取り去ったかわの意を表す。借りて「あらためる」意に用いる、

とも(角川新字源)ある。

「革」 小篆・説文解字・漢.png

(「革」 小篆・説文解字・漢 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E9%9D%A9より)

参考文献;
小林勝人訳注『孟子』(岩波文庫)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
簡野道明『字源』(角川書店)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

ラベル:兵革
posted by Toshi at 03:49| Comment(0) | 言葉 | 更新情報をチェックする

2022年05月05日

弄璋


歓喜の眉を開き、弄璋(ろうしょう)の御慶(ぎょけい)天下に聞こえて(太平記)、

とある、

弄璋、

は、

男子が生まれること、生まれた男子に璋(玉の玩具)を与えた故事をふまえる、

とある(兵藤裕己校注『太平記』)。

乃生男子、載寝之牀、載衣之裳、載弄之璋(乃ち男子を生まば載(すなは)ち之れを牀(寝台)に寢(い)ねしめ載ち之れに裳(したばかま)を衣(き)せ載ち之れに璋を弄せしむ)、

と『詩経』(小雅・斯干)にあるのによる。

璋は玉、徳を玉に比せんことを欲す、

とある(字源)。「璋」は、

圭玉、

とあり(広辞苑)、

圭(たま)を半分にしたる玉の笏を與へて、弄とする、

とある。「璋」は、

半圭、曰璋(毛傳)、

と(大言海)、

上部を削いだ玉器である圭を縦に半分にしたもの、

で、中国最古の字書『説文解字』(後漢・許慎)に、

璋、上を剡(そ)ぎたるを圭と為し、半圭を璋と為す、

とあり、

片方だけ削いである玉器になる。見た目はまるで小刀のようである。『周礼』には、「以赤璋礼南方」とあり、祭祀に用いられたことが分かる、

とされるhttps://square.umin.ac.jp/mayanagi/students/99sasaki.html。この意味を、

出生した男の子にこの玉器を弄玉として与えたので、玉は、神秘的な力が備わっていると考えられ、生まれたての赤子に玉器を与えることは、魂に活力を与える、

とか、

璋の元になっている玉器・圭は男性器を象徴しているし、璋自体もその形が男性器に似ているように思われる。璋を与えることで、男児の生命力を強化させようとした、

といった理由が挙げられている(仝上)。

この「弄璋」の対が、

弄瓦(ろうが)、

で、

女子がうまれること、

で、

瓦、紡塼(いとまき)也(毛傳)、

と、

瓦(土製の糸巻)を与えたのでいう、

とあり(兵藤裕己校注『太平記』・字源)、やはり、『詩経』(小雅・斯干)に、

乃生女子、載寝之地、載衣之裼、載弄之瓦(乃ち女子を生まば載(すなは)ち之れを地に寢(い)ねしめ載ち之れに裼(せき)を衣(き)せ載ち之れに瓦を弄せしむ)、

にあるのによる(字源)。

乃生男子、載寝之牀、載衣之裳、載弄之璋(もしも男子が生まれれば、寝台に寝かせ、袴を着せ、璋の玉を持たせよう)、

乃生女子、載寝之地、載衣之裼、載弄之瓦(もしも女子が生まれたら大地に寝かせ、産着を着せ、糸巻きを持たせよう)、

と対になっていて、男子は「裳(ショウ・ジョウ)」、女子は「裼」と置く場所が違う。「裳」は、

したばかま、

で、衣(上半身につれる上着)に対して、下半身につけるスカート状の衣服を指し(漢字源)、「裼(セキ・テイ)」は、

はだぎ、

を意味しhttps://www.kanjipedia.jp/kanji/0003972000

女児を大地に寝かせる行為は、将来無事に多子を出産することを願って、大地の子を生む力が類間呪術的にその女児にも及ぶようにするのが目的、

とされるhttps://square.umin.ac.jp/mayanagi/students/99sasaki.html

以上の由来から、

弄璋(ろうしょう)の喜び、
弄瓦(ろうが)の喜び、

という言い方もある(デジタル大辞泉)。

「弄」 漢字.gif


「弄」(漢音ロウ、呉音ル)は、

会意文字。「玉+両手」で、両手の中に玉をいれてなぐさみにするさまを示す。転じて、時間をかけてもてあそぶこと、

とある(漢字源)。

「玉」+「廾(両手を添える様)」、

ということであるhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%BC%8。別に、

会意文字です(玉+廾)。「3つの玉を縦のひもで貫き通した」象形と「両手で捧げる」象形から、「両手で玉を持って遊ぶ」を意味する「弄」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji2080.html

「璋」 漢字.gif


「璋」(ショウ)は、

会意兼形声。「玉+音符章(鮮やかな模様)」、

で、上述したように、

圭を縦に半分に割った形の瑞玉、

である(漢字源)。「圭」(漢音ケイ、呉音ケ)は、

会意文字。圭は「土+土」で、土を盛ることを示す。土地を授ける時、その土地の土で円錐形の盛土をつくり、その上にたって神に領有を告げた。その形を象ったのが、圭という玉器で、土地領有のしるしとなり、転じて、諸侯や貴族の手にもつ礼器となった。その形は、日影をはかる土圭(ドケイ 日時計)の形ともなった、

とある(仝上)。

「寸(=手)」を添え行為を表したものが「封」、

となるhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%9C%AD。「圭」については、

中国古代の玉器の一種で、権威を象徴した。上方がとがった短冊形を呈し、半圭のものを璋と呼んでいる。圭の形は先史時代の有孔石斧から発達したといわれるが、確かではない。殷代鄭州期および安陽期には、圭、璋に属する玉器が発見されているが、斧形あるいは戈形のものである。西周になると長方形あるいは戈形のものがみられ、いわゆる圭、璋の形が出現するのは春秋・戦国期に入ってから、

とある(ブリタニカ国際大百科事典・精選版日本国語大辞典)。説文解字には、「圭」について、

古之王者、封諸侯建邦国、必以玉為信。名之曰圭、

とある(仝上)。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
簡野道明『字源』(角川書店)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

posted by Toshi at 03:27| Comment(0) | 言葉 | 更新情報をチェックする

2022年05月06日

精神現象学のバックボーン


ヘーゲル(長谷川宏訳)『哲学史講義』を読む。

哲学史講義 1 (河出文庫).jpg


本書は、

晩年の聴講生のノート三回分、

をもとにしたヘーゲルの哲学史講義である。その哲学を吟味していくプロセスは、まるで、『精神現象学』の流れを辿り直すように見えてくるところがある。逆にいうと、『精神現象学』http://ppnetwork.seesaa.net/article/486413116.htmlがこうした哲学の歴史ををふまえた著述だったことが、よりはっきりと見えてくるように思える。

哲学史なのだが、ヘーゲルは、わざわざ、

哲学史とはなにか、

と、

無尽蔵で多種多様な諸国民の精神文化について、そのどこまでを哲学史から除外すべきか、

哲学史の時代区分の必然性を示す、

の三点を論ずるための序論を設けている(序論)。厳密な定義を怠らないヘーゲルらしいといえばヘーゲルらしい。そして、

哲学史は、理念の発展の体系としてとらえられないかぎり、学問の名に値しない、

し、

具体的な哲学理念は、潜在的にふくまれるさまざまなちがいを顕在化させつつ、みずから発展していく活動、

だとして、

哲学史をどう扱うか、

について、

①哲学史の全体が内部に必然性のある一貫した歩みだということ、内部に理性をもち、理念に導かれた歩みである、
②哲学史上のどの哲学も必然的なものであったし、いまなお必然的なものであり、したがって、どれ一つとして没落することなく、すべてが一全体の要素として哲学のうちに保存されている、
③それぞれの原理は、一定期間、時代を支配し、その形式のうちに世界観の全体(それが哲学体系と呼ばれるものですが)が述べつくされている、
④哲学史は歴史にちがいないけれど、哲学の業績は、過去の像として記憶の殿堂に安置されているだけでなく、いまなお、それが生みだされたときの新鮮さを失わないで目の前にある、

といい、

哲学そのものにおける理念の組み立ての順序と、哲学的な概念が時間のなかにあらわれる順序とはべつものだと思われるかもしれないが、両者は全体としては同じ順序をなします、

と、まるで、ヘッケルの、

個体発生は系統発生を反復する、

のような言い方をし、だから、

のちの時代の前進した哲学は、その本質からして、それ以前の思考する精神の働きの結果であり、それは、その土台から切り離されて独立するものではなく、以前の立場からの要請と働きかけのもとになりたつ、

それ故に、

最初の哲学はもっともまずしく、もっとも抽象的、

だからといって、

作品にはあくまで歴史的に立ちむかうべきで、直接そこに示されている考え以外のものをおしつけてはならない、

のであり、

あらゆる哲学は、まさに特定の発展段階の表現であるがゆえに、その時代に帰属し、時代の制約にとらわれている、

と、『精神現象学』同様、歴史主義的である。

哲学と宗教は、普遍的で絶対的な理性という同じ土台の上に立ち、同一の対象をもつ、

だけに、哲学との境界で難しいのは、宗教との関係で、

神をどうとらえるか、
神とは何か、

は、ずっと大きな底流になっているし、

スコラ哲学、

のような神学と哲学の「混合」(ヘーゲル)もある。

哲学は、宗教とちがって、思考する意識という形式において対象と関係します。しかし二つの分野のちがいを、哲学には思考があるが宗教にはそれがないといったように、あまりに抽象的にとらえてはならない。宗教にも観念があり、普遍的な思想がある。むしろ両者はきわめて近い位置にある、

のである。で、結局、哲学史は、

神話、
宗教の芸術的表現、
宗教の内部に見出される哲学、

を除き、

哲学は本質を認識するものだといわれる。肝心なのは、なにかの本質がそのなにかの外にあるのではないということです。わたしの精神の本質はわたしの精神そのもののなかにあるので、外にあるのではない、

というところに落ち着く。

哲学史講義 II (河出文庫 ).jpg


そして、哲学の始まりを、

思考は自立し、自由に存在し、自然から解き放たれ、直観への埋没から身をひき離さねばならない。思考は自由な思考として自己のうちにはいっていかねばならず、そのとき自由がしっかりと意識される。だとすれば、哲学の本来のはじまりは、絶対者がもはやイメージとして存在するのではなく、自由な思想が絶対者を思考し、絶対者の理念をとらえるとき、いいかえれば、ものの本質として認識された存在(それは思想そのものでもありうるのですが)が絶対的な全体でもあり、万物の内在的本質でもあるものとしてとらえられたとき、つまり、存在がかりに外的存在のように見えても、にもかかわらず思想としてとらえられたとき、そのときが哲学のはじまりです、

とし、全体を三期に分けた。

第一期は、紀元前550年のタレスから新プラトン派の哲学(紀元485年に死んだプロクロス)を経て、紀元529年の異教哲学の諸施設(のちにキリスト教に流れこむ。キリスト教内の多くの哲学は新プラトン派の哲学を基礎とする)の滅亡までのおよそ1000年、
第二期は、6世紀から16世紀まで、中世の時代。スコラ哲学の時代、歴史的にはアラビアやユダヤの哲学もここにはいるが、中心はキリスト教会内部の哲学で、これまた1000年以上、中世を超えて生きたブルーノやヴァニニやラムスはやはり中世の人でしたが、実をいえば宗教改革とともに第三期がはじまったともいえます、
第三期は、近代の哲学。はっきりと形を取るのは30年戦争以後に、ベーコン、ヤコブ・ベーメ、デカルト(「われ思う、ゆえにわれあり」以後のデカルト)から、シェリングまで、第三期は200 年ほど、いまなおあたらしい哲学といえます、

と。とくに、ギリシャ哲学は、新プラトン派まで含めると、第三巻の半ばまで、本書の過半を占めているのが特徴だが、やはり第四巻を占める「近代の哲学」が読み応えがある。「近代の哲学」は、

思考の世界と存在する宇宙を分離する中世の立場を超えて、この二つの領域を対立するものととらえ、その対立を克服しようとする。したがって、主要な関心事は、対象の真理とはなにかを思考することではなく、対象の思考と把握を思考すること、つまり、前提された客観の意識化にほかならぬ、主客の統一過程を思考することにあります。

とし、

思考を原理とした点で、まさに近代哲学の真の創始者、

であるデカルトから、

カント哲学を完成させた、

フィヒテ、そのフィヒテを乗り越えようとしたシェリングまで、その対立と継承の流れがよく見える。それは、

デカルトとスピノザにあっては思考と延長が二つの側面をなしています。デカルトはこの二つを神において統一しますが、統一のしかたは概念的ではありません。スピノザも二つを神において統一しますが、スピノザのとらえる神は運動のない実体であって、自然や人間がこの実体から発展してきたものだといっても、それは名ばかりです。のちになって、統一の形式が、一部はさまざまな学問において、一部はカント哲学において、あきらかにされます。そして最後に来るフィヒテの哲学において、統一の形式そのものが主観性として取りだされ、主観性からすべての内容が出てくるとされます。いま必要なのは、色あせた皮肉や恣意に到達したかに見える主観性という無限の形式を、その一面性から解き放って、客観性や実体性と統一することです。いいかえれば、スピノザの実体を不動のものとしてではなく、内部に活動をもつ知的な形式としてとらえること、その形式からして必然的に自然を生みだす力であるとともに、知や認識の力でもあるのをとらえること、それが必要とされている。そこに哲学の課題がある。スピノザの形式的統一でも、フィヒテの主観的全体性でも不十分で、無限の形式をもつ全体性が求められている。

と簡潔に要約されるが、ここには、ヘーゲルがそれを成し遂げたという俯瞰する視点からの記述に見える気がしてならない。

哲学史講義 III (河出文庫).jpg


「むすび」で書く、

おのれを認識し、おのれを発見するという精神のこの労働、この活動こそが、精神そのものであり、精神の生命です。この労苦の結晶が、精神みずからがつかんだ精神の概念であって、哲学史は、それこそが歴史における精神の意志であった、ということを明晰に洞察します、

がヘーゲルの結語といっていい。こう締めくくる。

哲学史全体を締めくくる結論としていえるのは、一、どの時代を取っても、ただ一つの哲学しかなく、同時代の複数の哲学説は、一つの原理から必然的に出てくる複数の諸側面をあらわすものであること。二、哲学体系の変遷は偶然におこるものではなく、哲学の必然的な発展段階を示すものであること。三、一時代の最後の哲学はこの発展の成果であり、時代の精神がみずから意識するに至った真理の最高形態を示していること。したがって、最後の哲学は以前の哲学のすべての段階をうちにふくむもので、以前のすべての哲学の結実であり結論です。

と。そして、シェリングを語った後、

わたしたちの考察すべき最終の、興味深い、真実の、哲学形態を見おわったことになります。真理が具体的なものであり、客観と主観の統一であるという理念そのものは、シェリングから引きだすことができる。それぞれの段階が体系のなかでそれぞれに形態をあたえられ、最終段階では、形態の全体があたえられます。シェリングの第二の功績は、その自然哲学において、自然のうちに精神の形態があるのを証明したことです。電気や磁気は、理念ないし概念が外的な形を取ったものにほかならない。シェリング哲学の根幹は、内容ないし真理が問題とされ、これが具体的にとらえられる点にある。シェリングの哲学には、深遠な哲学的内容が備わっていて、その内容は、哲学史の全体にわたって問題とされてきたものです。思考は自由で自立しているが、抽象的ではなく、具体的な内容をもち、自己を世界として、それもたんなる知的世界ではなく、知的かつ現実的な世界としてとらえます。自然の真理が、自然自体が、知的世界なのです。こうした具体的な内容をシェリングはとらえました。
欠点は、この理念が、そして、理念のこまかい内容とその内容の全体(観念界と自然界の全体)が、内的な必然性をもつものとして概念的にとらえられ、展開されることがない点にあります。シェリングの形式には、論理的な発展と、進行の必然性が欠けている。

と述べるヘーゲルには、それを成し遂げたのは自分だという暗々裏の自恃が垣間見える。『精神現象学』をなぞるようだという本書の印象は、『精神現象学』の絶対知にたどり着いたものが、ふたたび新たな経験をし直しているという雰囲気があるせいなのかもしれない。

本書は、シェリングで終わっているが、A・シュヴェークラー『西洋哲学史』http://ppnetwork.seesaa.net/article/475045121.htmlは、ヘーゲルで終える。そこで、シュヴェークラーは、ヘーゲルは、その方法によってその先行者と根本的にちがっている、とする。

絶対者はヘーゲルによれば、存在ではなく発展である。すなわち、それはさまざまな区別と対立とを定立するが、これらは独立であったり絶対者に対立したりするものではなく、個別的なもの各々もその全体も絶対者の自己発展の内部にある諸契機にすぎない。したがって絶対者が自分自身のうちに、区別――といっても絶対者内の諸契機をなしているにすぎないような区別――へ進む原理をもっていることが示されなければならない。この区別は、おのれが絶対者へ付加するのではなく、絶対者が自ら定立するのでなければならず、そしてそれはふたたび全体のうちへ消失して、絶対者の単なる契機であることを示さなければならない。

つまり、ヘーゲルの方法は、

各々の概念はそれに固有な対立、固有な否定を自分自身のうちにもっている。それは一面的であり、その対立をなしている第二の概念へ進んでいくが、この第二の概念もそれだけでは第一の概念と同様に一面的である。かくしてこれらが第三の概念の契機にすぎないこと、そして第三の概念ははじめの二つの概念のより高い統一であり、両者の統一へと媒介するより高い形態のうちで両者を自分に含んでいることがわかる。この新しい概念が定立されると、それはふたたび一面的な契機であることがわかり、この一面的なものは否定へ、そしてそれとともにより高い統一へ進んでいく。概念のこの自己否定が、ヘーゲルによれば、すべての区別と対立の発生である。

だから、ヘーゲルの方法とは、

絶対的なものは単純なものではなく、最初の普遍者のこのような自己否定によって生まれる諸契機の体系である。この諸概念の体系もまたそれ自身抽象的なものであって、たんなる概念的な(観念的な)存在の否定、実在性、(自然における)諸区別の独立的実在へと進んでいく。しかしこれもまた同様に一面的であって、全体ではなく一契機にすぎない。このようにして独立的に存在する実在もふたたび自己を止揚して、自己意識、思考する精神のうちで概念の普遍性へ復帰する。思考する精神は、そのうちに概念的存在と観念的存在とを包括して、それらを普遍と特殊のより高い観念的統一としている。このような概念の内在的な自己運動、

である、と。そういえば、「本書」でも、哲学史を、

具体的な哲学理念は、潜在的にふくまれるさまざまなちがいを顕在化させつつ、みずから発展していく活動、

と見ているのである。ゲーテではないが、

われわれは知っている物しか目に入らない、

のかもしれない。

哲学史講義 IV (河出文庫).jpg


参考文献;
G・W・F・ ヘーゲル(長谷川宏訳)『哲学史講義(全4巻)』(河出書房新社)
A・シュヴェークラー『西洋哲学史』(岩波文庫)
G・W・F・ヘーゲル(樫山欽四郎訳)『精神現象学(世界の大思想第12巻)』(河出書房)
G・W・F・ヘーゲル(長谷川宏訳)『精神現象学』(作品社)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

posted by Toshi at 03:28| Comment(0) | 書評 | 更新情報をチェックする

2022年05月07日

囊沙背水の謀


囊沙(のうしゃ)背水の謀(はかりごと)、一たび成って、大いに敵を破ることを得たり(太平記)、
これを名づけて、韓信が囊沙背水の謀と申すなり(仝上)、

とある、

囊沙背水の謀、

とは、何れも韓信の試みた兵法、

囊沙の計、
背水の陣、

のことである。「囊沙の計」は、

囊沙之計、

とも表記する四字熟語になっている(字源)が、「囊沙」とは、

土嚢、

のことで、

濰水(いすい)の戦い、

で、

土嚢を使って川の上流で水をせき止め、敵が川を渡るのを見計らい土嚢を外し、下流に一気に水を流して、多くの敵を倒したという策略

とある(史記・淮陰侯列伝、兵藤裕己校注『太平記』)のは、

漢の高祖四年(紀元前203)11月、韓信は斉の首府であった臨淄城を攻め落とし、斉王を追って高密城を包囲した。斉は楚に救援を求め、項羽は将軍龍且(りゅうしょ)と副将周蘭(しゅうらん)に命じて20万の軍勢を派遣させた。龍且は周蘭から持久戦を進言されたが、韓信を侮って決戦を挑んだ。韓信も龍且は勇猛であるから決戦を選ぶだろうと読み、広いが浅い濰水(いすい)という河が流れる場所を戦場に選んで迎え撃った。韓信は決戦の前夜に濰水の上流に土嚢を落とし込んで臨時の堰を作らせ、流れを塞き止めさせていた。韓信は敗走を装って龍且軍をおびき出し、楚軍が半ば渡河した所で堰を切らせた。怒涛の如く押し寄せた奔流に龍且の20万の軍勢は押し流され、龍且は灌嬰の軍勢に討ち取られ、周蘭も曹参(そうしん)の捕虜となった、

という経緯であるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9F%93%E4%BF%A1

「背水の陣」は、「敗軍の将は以て勇を言るべからず」http://ppnetwork.seesaa.net/article/486383116.htmlで触れたように、その翌年、紀元前204年10月の、

井陘(せいけい)の戦い、

で、韓信が取った兵法。史記に、

謂軍吏曰、趙已先據便地爲壁、且、彼未見吾大将旗鼓、未肯撃前行、恐吾至阻険而還、信(韓信)乃使萬人先行出、背水陳、趙軍望而大笑(淮陰侯傳)、

とある(大言海・https://kanbun.info/koji/haisui.html)ように、背水の陣は、武経七書のひとつ、中国戦国時代の、兵法書『尉繚子』(うつりょうし 尉繚)に、

背水陣為絶地、向阪陣為廃軍(尉繚子・天官篇)

とあり(大言海・字源)、

川などを背後にひかえて、陣を立てる、

のは、趙軍が「大笑」したというように、

兵法では自軍に不利とされ、自ら進んで行うものではなかった、

とされる。しかし、20万の趙軍を、狭隘な地形と兵たちの死力を利用して防衛し、その隙に別働隊で城砦を占拠、更に落城による動揺の隙を突いた、別働隊と本隊による挟撃で趙軍を打ち破った、

のであるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9F%93%E4%BF%A1

淮陰公韓信.jpg

(淮陰(わいいん)公韓信(『晩笑堂竹荘畫傳』より) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9F%93%E4%BF%A1より)


なお、「背水の陣」の「陣」(漢音チン、呉音ジン)は、

会意文字。陳(チン)の原字ば「東(袋の形)二つ+攴(動詞の記号)」の会意文字。その東一つを略して、阜(土盛り)→防禦用の砦)を加えたものが陳の本字。陣はその俗字、

とあり(漢字源)、正しくは、

背水の陳、

ということになる。

「囊」  漢字.gif



「嚢」 異字体 漢字.gif



「囊」 小篆 漢.png

(「囊」 説文解字(小篆)・漢 https://xn--ja-pd8c.wiktionary.org/wiki/%E5%9B%8Aより)


「囊(嚢)」(漢音ドウ、呉音ノウ)は、

会意兼形声。嚢の上の部分は、芯に棒を通し、両端と中央とをひもで縛った袋らを描いた象形文字で、東(芯を通したふくろ)の原字。嚢は「ふくろ+音符襄(ニョウ・ジョウ 中に入れ込む)の略体」、

とある(漢字源)。

「東」 甲骨文字・殷.png

(「東」 甲骨文字・殷 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%9D%B1より)

「沙」(漢音サ、呉音シャ)は、

会意文字。「水+少(小さい)」で、水に洗われてちいさくばらばらになった砂、

とある(漢字源)。別に、

「沙」 漢字.gif


象形。川べりに砂のあるさまにかたどる。水べの砂地、みぎわの意を表す、

とも(角川新字源)ある。

参考文献;
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
簡野道明『字源』(角川書店)
尚学図書編『故事ことわざの辞典』(小学館)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

posted by Toshi at 03:25| Comment(0) | 言葉 | 更新情報をチェックする

2022年05月08日

やませ


勝ち負けの弓のやませに散花をまとゐの外の人も見よかし(「弁乳母集(11世紀)」)、

とある、

「やませ」は、

山背、

と当て、

山風の名、近江にていふ(「俚言集覧(1797頃)」)、
山背風の略(広辞苑)、
山の背より吹けば云ふ(大言海)、
山を越えて吹き下ろす風(日本の言葉=山本健吉)、
山から吹く風・山の風の義(風位考=柳田國男)、

など、

山の向こうから吹いてくる風、

の意で、

六月から八月頃吹くことが多い、

とされ(風と雲のことば辞典)、

山瀬風、

とも当てる(仝上)。

「やませ」の「せ」は、

ヤマ(山)+セ・チ・ジ(風)、

とある(日本語源広辞典)ように、

セはシとともに風の意で、ハヤテ(疾風)、オヒテ(追風)などのテ、コチ(東風)のチと同源(風位考=柳田國男)、

とみられる。

海ではそれぞれの風の性質が、風の名となっているのだが、内陸では専ら方角を問題にするが故に、それを地方的に意味を限定して使い、従っていたる処少しずつ内容の差が生じている。たとえばヤマセは山の方から吹いてくる風である。それ故に江差松前では今もって東北風がヤマゼであり、瀬戸内海の北岸では四国の方からくる南風をそういう処もある(柳田國男「海上の道」)、

し、

やまぜ。南にて西へよる風の名、大悪風也(大坂繁花風土記(1814))、
其靡く向を見て、何月は山背(ヤマセ)(東風)なれど何月はクダリ(南風)なり(「風俗画報152号(1897)」)、
出雲では山が南にあるから南風、
函館では東風、
静岡では、陸から沖に吹く風、やまで、
瀬戸内海の北岸では、四国の方からくる南風をそういう処もある(柳田國男・前掲書)、

等々、地方によって風向きや付随する意味もさまざまである。しかし、この風を、

山を背にして吹くから〈やませ〉というのは漢字表記にとらわれ過ぎた解釈、

とあり(風と雲のことば辞典)、

この語が風の中でも比較的有名なのは、方言の分布地域の広さのほか、この風の東北地方の太平洋側での実態による、

との考えがある(日本語源大辞典)。つまり、

夏の東北地方に冷害をもたらす、

やませ、

は、

三陸沖のオホーツク高気圧から吹く、

海風、

で、「やませ」は、

闇風(やみかぜ)の転訛、

とする説がある(風と雲のことば辞典)。

オホーツク海高気圧や三陸高気圧から北日本、東日本に吹いてくる東寄りの風は夏でも湿っていて低温だ。東北地方では、冷害を運んでくる、

凶作風、
餓死風、

と恐れ、ケカジ(飢饉)は海からくると意味嫌った(仝上)、とある。その意味で「やませ」は、

沖の闇のように暗い空から吹き出してくる、

とする(日本大百科全書)、「闇風(やみかぜ)」という実感に由来するのかもしれない。

逆に、

日本海側では出港のために好ましい風とされる地域もある(日本国語大辞典)、
上方(かみがた)に米などの荷を積み出すのに好都合なところから、船頭衆にはむしろ順風として喜ばれた(日本大百科全書)、

と、地域や職掌によっては意味が変わってくる。

「やませ」は、東北では、

北東風、
東風、

だが、この「東風」を、

あゆ、

あるいは、

あゆのかぜ、

と訓ませると、

東風(あゆのかぜ)いたく吹くらし奈呉(なご)の海士(あま)の釣りする小舟(おぶね)漕ぎ隠るみゆ(万葉集)、

に、「東風」に注記して、

越(こし)の俗語(くにことば)に東風を安由乃可是(あゆのかぜ)と謂へり、

とあり(奈呉は今の富山県高岡市近辺の海岸)、

越前・越後地方で、

東風、

を指していた(風と雲のことば辞典)。今日、

あい、

あるいは、

あいのかぜ、

と転訛しているが、これが北前船によって、中央にも広まった。当然ながら、地方によっては、

北風、
北西風、

を指し、富山県の海岸でも、

方角によって能登アイと、宮崎(越後境)との二つのアイの風がある、

とし(柳田國男・前掲書)、「あゆのかぜ」は、柳田國男は、

海岸に向かってまともに吹いてくる風、すなわち数々の渡海の船を安らかに港入りさせ、またはくさぐさの珍らかなる物を、渚に向かって吹き寄せる風のこと、

とし(仝上)、「あゆ」は、風向きではないのではないかとし、

今日は半ば死語に属し、辛うじて字引と地方語の中に存留するのみであるが、果実のよく熟して樹から堕ちるのをアエルといい、またはアユ、アユル、アエモノ等の語の古くからあるように、人を悦ばせ、おのずから人の望みに応ずるというような楽しい状態を表示するために、夙(はや)く生まれていた単語ではなかったろうか。饗宴もしくは食物の供与を、アヘと謂っていたのも別の語ではないのかもしれぬ、

と(仝上)、

饗(あえ)の風、

とした(風と雲のことば辞典)。しかし、

山陰道、北陸道、羽前、羽後、陸奥にて、北風、又は、東北風、

を「あいのかぜ」というとある(大言海)ので、

アは雨、ユは由、雨気の風の義か(歌林樸樕(かりんぼくそく))、
アユはウ(卯)の延言、卯(東)の方の風(和訓集説)、
アヤという間に吹く意か(日本語源=賀茂百樹)、

と、諸説はあるが、あるいは、

語原異なるか、

とする(大言海)のもありえる。

北國にて、東風を、あゆの風と云ふ、北風を、ひとつあゆと云ひ、東北の風を、ぢあゆと云ひ、丑(北北東)の方より吹く風を、まあゆという(地(ヂ)、真(マ)なるか、安永年間(1772~81)までは、此の如し)、

とある(物類称呼)ので、「あゆ」は、方角ではない可能性はある。

また、

東風、

というと、

東風吹かばにほひおこせよ梅の花あるじなしとて春な忘れそ(菅原道真)、

の、

こち、

がある。これは、

春が近づき西高東低の冬型の気圧配置がくずれると、太平洋上から大陸に向かってゆるやかな東風又は北東風が吹くようになる、

のを呼んだ(風と雲のことば辞典)。この風は、

雨をともない寒さが緩む、

が、漁業者には、

時化をもたらす、

ものとして恐れられ、

初東風(はつこち)、
節東風(せちこち)、
雲雀東風(ひばりこち)、
鰆東風(さわらこち)、
梅東風、
桜東風、
朝東風、
夕東風、
伊勢ごち、
丑寅(北東)ごち、

等々土地ごとの生活暦と結びついた使われ方をしてきた(仝上)。この「こち」の「ち」は、

コチ、ハヤチ(疾風)のチと同じ、風の意、

で(岩波古語辞典)、

ツムジ(廻風)、アラシ(荒風)、トマキ(風卷)、

などと使われる、

風の古名、



の転じたものである(大言海)。「やませ」の「せ」も、

シの転訛、

である。「こち」の語源は、こうした経緯から見ると、

小風(こち)の義、春風の柔らかき意(大言海)、

ではなかろうか。

「山」 漢字.gif

(「山」 https://kakijun.jp/page/0326200.htmlより)

「山」(漢音サン、呉音セン)は、

象形。△型の山を描いたもので、△型をなした分水嶺のこと、

とある(漢字源)が、

「連なったやま」の象形から「山」という漢字が成り立ちました、

との解釈もあるhttps://okjiten.jp/kanji77.html

「山」 甲骨文字・殷.png

(「山」 甲骨文字・殷 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%B1%B1より)

「背」(漢音ハイ、呉音へ・ハイ、ベ・バイ)は、「背向(そがい)」http://ppnetwork.seesaa.net/article/482178677.htmlで触れたように、

会意兼形声。北(ホク)は、二人のひとが背中を向けあったさま。背は「肉+音符北」で、背中、背中を向けるの意、

とある(漢字源)。「北」は(寒くていつも)背中を向ける方角、とある(「北」は「背く」意がある)。また「背」の対は、「腹背」というように腹だが、また「背」は「そむく」意があり、「向背」(従うか背くか)というように「向」(=従)が対となる(仝上)。別に、

「背」 漢字.gif


会意形声。「肉」+音符「北」、「北」は、二人が背中を合わせる様の象形。「北」が太陽に背を向けるの意から「きた」を意味するようになったのにともない、(切った)「肉」をつけて「せ」「せなか」「そむく」を意味するようになった、

ともあるhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E8%83%8C

「風」(漢音ホウ、呉音フウ・フ)は、

会意兼形声。風の字は大鳥の姿。鳳の字は大鳥が羽ばたいて揺れ動くさまを示す。鳳(おおとり)と風の原字は全く同じ。中国ではおおとりを風の使い(風師)と考えた。風はのち「虫(動物の代表)+音符凡(ハン・ボン)」。凡は広く張った帆の象形。はためきゆれる帆のように揺れ動いて、動物に刺激を与える風をあらわす、

とあり(漢字源)、また、

古代には、鳳がかぜの神と信じられていたことから、

ともある(角川新字源)。

のち、鳳の鳥の部分が虫に変わって、風の字形となった、

とする(仝上)のは同じである。別に、

「風」 漢字.gif


形声。「虫」(蛇、竜)+音符「凡」を合わせた字で、「かぜ」を起こすと見なされた蛇が原義(「虹」も同様で意符が「虫」)。「凡」は「盤」の原字で、盥盤の側面の象形。「虫」に代えて「鳥」を用いた文字が「鳳」であり、両方とも「かぜ」の使いとされた。古くは頭子音 pl- をもち、l の残った語が嵐である、

ともhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E9%A2%A8

会意兼形声文字です(虫+凡)。甲骨文では「風をはらむ(受ける)帆」の象形(「かぜ」の意味)でしたが、後に、「風に乗る、たつ(辰)」の象形が追加され、「かぜ」を意味する「風」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E9%A2%A8のは、「虫」に転じて以降の解釈である。

「風」 甲骨文字・殷.png

(「風」 甲骨文字・殷 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E9%A2%A8より)

「風」 ・簡牘(かんどく)文字.png

(「風」 ・簡牘(かんどく)文字(「簡」は竹の札、「牘」は木の札に書いた)・戦国時代 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E9%A2%A8より)

参考文献;
倉嶋厚監修『風と雲のことば辞典』(講談社学術文庫)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
柳田國男『海上の道』(岩波文庫)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

posted by Toshi at 03:25| Comment(0) | 言葉 | 更新情報をチェックする

2022年05月09日

牝鶏晨す


牝鶏(ひんけい)の晨(あした)するは家の尽きんずる相なりと、古賢の云ひし言(ことば)の末、げにもと思ひ知られたり(太平記)、
牝鶏晨する時は、其の里必ず滅ぶとい云へり、めんどりの時をつくるは、所の怪異にてその里滅ぶるごとく、婦人政(まつりごと)をいろ(綺)ふことあれば、国必ずみだると云へり(保元物語)、

などにある、

牝鶏晨する、
牝鶏の晨するは家の尽きんずる相なり、

は、普通、

牝鶏晨す、
牝鶏の晨するは、これ家の索(つ)くるなり、

などという(兵藤裕己校注『太平記』)。

めんどりが朝の時をつげる(後宮の女性が政治に口出しする)のは、家(国)の滅びるしるしである、

意である(仝上)。「牝鶏」は、

めんどり、

牝鶏晨す、

は、

牝鶏が時をつくる、

意だが、

(武)王曰、古人有言、曰、牝雞無晨、牝雞之晨、惟家之索(書経・牧誓篇)、

に由来する。索は盡とある(字源)。

牝鶏に明日せらる、
牝鶏晨して婦女權を奪う、
牝鶏時を告ぐる、
牝鶏牡鳴(ぼめい)、
牝鶏晨(あした)に鳴く、
牝鶏晨(しん)を司る、
牝鶏に朝せらる、

等々という言い方もし(故事ことわざの辞典)、

牝雞之晨、

という四字熟語にもなっている(字源)。「牝鶏晨す」には、

めんどりがおんどりに先んじて朝の時を告げる、

という含意だ(精選版日本国語大辞典)から、

女が男に代わって権勢をふるう、

意味もあり(仝上)、

雌鶏勧めて雄鶏時を作る、

も似た意味になる(デジタル大辞泉)。なお、「牝鶏晨す」の「晨す」は、

あさなきす、

とも訓ませる(精選版日本国語大辞典)。

王(武王)曰、古人有言曰、牝雞無晨、牝雞之晨、惟家之索、今商(殷)王(紂王)受惟婦言是用、昏棄厥肆祀弗答、昏棄厥遺王父母弟不迪、乃惟四方之多罪逋逃、是崇是長、是信是使、是以為大夫卿士、俾暴虐于百姓、以奸宄于商邑、今予(武王)發惟恭行天之罰……(書経・牧誓)、

とあり、

紀元前11世紀、殷王朝の紂(ちゅう)王が、妲己(だっき)という美女に溺れたため、政治が乱れてたため、周王朝の武王は、「牝鶏の晨(あした)するは、惟(これ)家の索(つ)くるなり」ということわざを引いてそれを批判し、軍を起こして、殷王朝を滅ぼした、

と、武王は「牝雞之晨」を例に挙げた、とされる(仝上)。本来、

夜明けを告げるのは雄鶏であって、雌鶏が鳴くのはまれ、

だからこういうのだが、

神降伍氏、有雌雞司晨者、問之、答曰、牝雞不鳴、鳴則神生、其家果大利(嘉蓮燕語)、

という兆しとすることもあり得る。

「牝」 漢字.gif


「牝」(漢音ヒン、呉音ビン)は、

会意兼形声。「ヒ」(ヒ)は、女性の姿を描いた象形文字で、妣(ヒ 女の先祖)の原字。牝は「牛+音符ヒ」で、めすの牛。女性の性器が左右両壁がくっついて並んださまをしていることからでたことば、

とあり(漢字源)、「尼」「牝」の「ヒ」形は女性器を象ったものだが、さじの意の「匕」とは別源、また「化」「死」「北」等の「ヒ」形は人を象ったもので、これも別源・別形とあるhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%8C%95

「鶏」 漢字.gif

(「鶏」 https://kakijun.jp/page/1923200.htmlより)

「鷄」 漢字.gif


「鶏(鷄)」(漢音ケイ、呉音ケ)は、

会意兼形声。奚(ケイ)は「爪(手)+糸(ひも)」の会意文字。系(ひもでつなぐ)の異字体。鷄は「鳥+音符奚」で、ひもでつないで飼った鳥のこと。また、たんなる形声文字と解して、けいけいと鳴く声を真似た擬声語と考えることもできる、

とある(漢字源・角川新字源・https://ja.wiktionary.org/wiki/%E9%B6%8F)。

「雞」 漢字.gif


「雞」(ケイ)は、

鷄の異字体、

で(字源)、

形声、「隹」+音符「奚」(ケイ 鳴き声から)、

とも、

会意形声、「奚」は「爪」+「糸」で鳥を糸でつなぐの意、

ともあるhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E9%9B%9E

なお、「隹」(スイ)は、

象形。尾の短いとりをえがいたもの、ずんぐりと太いの意を含む。雀(すずめ)・隼(はやぶさ)雉(きじ)などに含まれるが、「鳥」とともに広く、とりを意味する、

とある(漢字源)。

「隹」 漢字.gif


「隹」 甲骨文字・殷.png

(「隹」 甲骨文字・殷 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E9%9A%B9より)

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
尚学図書編『故事ことわざの辞典』(小学館)
簡野道明『字源』(角川書店)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

posted by Toshi at 04:03| Comment(0) | 言葉 | 更新情報をチェックする

2022年05月10日

空がらくる


剰(あまつさ)へかやうの空(そら)がらくる者ども、夜ごとに京、白河を回(めぐ)りて(太平記)、

とある、

空がらくる、

は、

みだりに武器をあやつりもてあそぶ、

意とある(兵藤裕己校注『太平記』)。

空がらくるは、からくる(あやつる)に、むやみにの意の接頭語「そら」のついた語、

となる(仝上)。

空からぐる、

は、当然、

空からくる、

とも言い、

妄(みだ)りに、刀槍などを操り弄ぶ、
ひねくりまわす、

意とある(大言海)。

「空(そら)」は、

天と地との間の空漠とした広がり、空間、

の意だが(岩波古語辞典)、

アマ・アメ(天)が天界を指し、神々の国という意味を込めていたのに対し、何にも属さず、何ものもうちに含まない部分の意、転じて、虚脱した感情、さらに転じて、実意のない、あてにならぬ、いつわりの意、

とあり(仝上)、

虚、

とも当てる(大言海)。で、由来については、

反りて見る義、内に対して外か、「ら」は添えたる辞(大言海・俚言集覧・名言通・和句解)、
上空が穹窿状をなして反っていることから(広辞苑)、
梵語に、修羅(スラ Sura)、訳して、非天、旧訳、阿修羅、新訳、阿蘇羅(大言海・日本声母伝・嘉良喜随筆)、
ソトの延長であるところから、ソトのトをラに変えて名とした(国語の語根とその分類=大島正健)、
ソラ(虚)の義(言元梯)、
間隙の意のスの転ソに、語尾ラをつけたもの(神代史の新研究=白鳥庫吉)、

等々諸説あるが、どうも、意味の転化をみると、

ソラ(虚)

ではないかという気がする。それを接頭語にした「そら」は、

空おそろしい、
空だのみ、
空耳、
空似、
空言(そらごと)、

等々、

何となく、
~しても効果のない、
偽りの、
真実の関係のない、
かいのないこと、
根拠のないこと、
あてにならないこと、
徒なること、

などと言った意味で使う(広辞苑・岩波古語辞典・大言海)。「からくる」は、

絡繰る、

とあてるが、

組み立て作る、
いろいろ工夫する

意の、

絡繰(からく)む、

と同根とある(岩波古語辞典)。「からくる」は、

絡み操る義(大言海)、
カラはからまく(絡巻く)、からみ、からめるのカラで巻く意、クルは繰るの意(嬉遊笑覧)、
カラクル(輕繰)の転(名言通)、
カリラクリ(漢繰)の意(夏山雑談)、

等々といった由来で、

巧妙に仕立てる、
精巧な仕立てで動かす、

といった意味や、それをメタファに、

巧みに策略をめぐらす、

と言った意味でも使う。

からくり.jpeg

(「竹田近江機捩戯場(たけだあふみ からくりしばい)」の図。「阿蘭陀が足もかゞまぬ目で見れば 天地も動く竹田からくり」の狂歌を添え、オランダ人たちが竹田からくりを見物する様子を描く。舞台にあるのは諌鼓鶏(かんこどり)と『船弁慶』のからくり(『摂津名所図会』) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8B%E3%82%89%E3%81%8F%E3%82%8Aより)

「からくる」の連用形から名詞化したのが、

からくり、

で、

絡繰、
機関、

などと当て、

からくり人形、
からくり芝居、

などと、

糸の仕掛けで操り動かすこと、また、その装置、

の意で、転じて、

仕掛け、

の意でも使う。

「空」 漢字.gif


「空」(漢音コウ、呉音クウ)は、

会意兼形声。工は、尽きぬく意を含む。「穴+音符工(コウ・クウ)」で、突き抜けて穴があき、中に何もないことを示す、

とある(漢字源)。転じて、「そら」の意を表す(角川新字源)。別に、

「空」 説文解字(小篆)・漢.png

(「空」 説文解字(小篆)・漢 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%A9%BAより)

会意兼形声文字です(穴+工)。「穴ぐら」の象形(「穴」の意味)と「のみ・さしがね」の象形(「のみなどの工具で貫く」の意味)から「貫いた穴」を意味し、そこから、「むなしい」、「そら」を意味する「空」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji99.html

「虚」 漢字.gif


「虚(虛)」(漢音キョ、呉音コ)は、

形声。丘(キュウ)は、両側におかがあり、中央にくぼんだ空地のあるさま。虚(キョ)は「丘の原字(くぼみ)+音符虍(コ)」。虍(トラ)とは直接の関係はない。呉音コは、虚空(コクウ)、虚無僧(コムソウ)のような場合にしか用いない、

とある(漢字源)。「虍」の下部は、「丘」の意味らしく、

神霊が舞い降りる大きなおかの意を表す。「墟(キヨ)」の原字。借りて「むなしい」意に用いる、

とある(角川新字源)。別に、

形声文字です。「虎(とら)の頭」の象形(「虎」の意味だが、ここでは「巨」に通じ(「巨」と同じ意味を持つようになって)、「大きい」の意味)と「丘」の象形(「荒れ果てた都の跡、または墓地」の意味)から、「大きな丘」、「むなしい」を意味する「虚」という漢字が成り立ちました、

と、「虎」と絡める説もあるhttps://okjiten.jp/kanji1322.html

「空」と「虚」の区別は、

「空」は、有の反、カラと訳す。空手・空牀・空山・空樽と用ふ、
「虚」は、實または盈の反、中に物なきなり、虚心・虚舟と用ふ、荘子「虚而往、實而帰」、

とある(字源)。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

ラベル:空がらくる
posted by Toshi at 03:43| Comment(0) | 言葉 | 更新情報をチェックする

2022年05月11日

諫鼓鶏


かんこどり、

は、

閑古鳥、

とあてると、当て字であるが、

仲夏後寂しい澄んだ声でかっこう、

と鳴くhttps://www.suntory.co.jp/eco/birds/encyclopedia/detail/1403.html

カッコウ(郭公)、

の意である(広辞苑)。

カッコウドリの転訛、

とされる(広辞苑・岩波古語辞典)。別に、

クヮンコどり(喚子鳥)の義(万葉考・古今要覧稿)、

とする説もあるが、

郭・喚ともに、音クヮク・クヮンとなればカンとは拗直の相違あり、この鳥は「かっこう」と鳴く、また東日本の方言に散在する名も直音カンコドリ、よってその鳴き声より言う名、

とある(江戸語大辞典)。因みに、「拗音(ようおん)」は、

キャ、キュ、キョ、シャ、シュ、ショのように小さなャ、ュ、ョを綴(つづ)りにもつ音節。本来、日本語にはなく、初めは漢語にのみ用いられた。ねじ曲がった音の意で、子音+半母音(jまたはw。半子音ともいう)+母音の構造をもつ音節。これに対しカ、ク、コ、サ、ス、ソなどは直音(ちょくおん)とよぶ。表記は、ヤ行、ワ行の仮名を小さく添えて書く。「キャ」、「シュ」、「チョ」のようにヤ行を添えるものを「開拗音」ないし「ヤ行拗音」、「クヮ」、「グヮ」のようにワ行を添えるものを「合拗音」ないし「ワ行拗音」という。古くはクヮ、グヮがあり、合拗音はのちに「火事(クヮジ)→カジ」のごとくすべて直音化した、

とある(日本大百科全書)。

カッコウ.jpg


その鳴き声を、寂しきもの、

として、

かんこ鳥鳴く、

と、

閑寂なさま、
物寂しいさま、

に用い、

閑古鳥が歌ふ、

ともいい、

商売などのはやらないさま、

に譬え、

閑古鳥が鳴く、

ともいう(仝上)。この、

かんこどり、

に、

諫鼓鶏、

と当てると、

かんこのとり、

とも訓むが、訓読して、

いさめのつづみ、

とも訓ます(大言海)「諫鼓」は、

堯置敢諫之鼓、舜立誹謗之木(淮南子・主術訓)

に基づき、

堯王が、施政に就きて、遍く人民の諫言を求むとて、朝廷に立てたる太鼓。諫めむと欲する者ある時は、これを撃ちて通ぜしむ、されど諫めむとする者なかりければ、鼓に苔を生じ、音することもなかりければ、鷄、鼓の上に止まりて、悠々たり、これを諫鼓の鷄と云ひ、政事治まりて、世の太平なる象とす、

とあり(大言海)、

諫鼓を用いぬこと久しい、

意から、

善政を施す、

という意味で、

諫鼓苔むす、

ともいう(広辞苑)。

敢諫(かんかん)の鼓(こ)、
敢諫鼓、

とも言う(精選版日本国語大辞典)。これに由来して、元和元年(1615)五月、大坂夏の陣に勝利して江戸へ凱旋した二代将軍徳川秀忠は、日枝神社の大祭である6月の山王祭を前に「太平の世を祝って諫鼓鶏の山車を末代に至るまで一番で渡せ」と上意を下し、それまでの「御幣猿」に代わって「諫鼓鶏」を先駆けとした(事績合考)、

といわれhttp://www.tokyo-jinjacho.or.jp/goshahou/kankodori/

諌鼓に鶏が止まっているのは善政が行われて世の中がうまく治まっている、

ということで、「諫鼓鶏」は、まさに、

天下泰平の象徴、

とされhttps://wheatbaku.exblog.jp/23562601/

江戸の山王祭に麹町から出る諫鼓(カンコ)、さし渡しが三百六十間、胴の廻りが五百四五十間(「咄本・御伽噺(1773)てっぽう)」、

と、

江戸時代、江戸の二大祭(神田祭、山王祭)の時に大伝馬町から出た山車(だし)に飾られた(精選版日本国語大辞典)。

山王祭の山車行列は1番が大伝馬町、2番が南伝馬町と決まっていました。1番目の大伝馬町の山車は「諫鼓鶏」の山車で、2番目の南伝馬町の山車が「猿」の山車、

とありhttps://wheatbaku.exblog.jp/23562601/

神田祭でも、この大伝馬町と南伝馬町は1番と2番と決まっていた、

とある(仝上)。「諫鼓鶏」の羽根の色は、

山王祭では、赤青黄白黒の五彩、

で、

神田祭では、白、

として区別されていた(仝上)とあり、広重の「糀町一丁目山王祭ねり込」は五彩ではなく、白なので、誤っていたことになる(仝上)らしい。

諫鼓鷄 広重.jpg

(「糀町一丁目山王祭ねり込」(歌川広重『名所江戸百景』) https://wheatbaku.exblog.jp/23562601/より)

さらに、この「諫鼓鶏」、

小さな太鼓の側面に風車をつけ、下部にとりつけた竹笛を吹いて回転させ、風車の一端につけた糸の先の豆が太鼓をたたくように仕組んだ玩具、

の名ともなった(精選版日本国語大辞典)。

諫鼓鶏(玩具).bmp

(玩具・諫鼓鶏 精選版日本国語大辞典より)

因みに、御輿の上にあるのは、

鳳凰、

で、日本の鳳凰は、

伝来の鳳凰に八咫烏(ヤタガラス)のモデルである金鳥や朱雀がブレンドされ、日本独自に変化したものになっている、

とあるhttp://makotomi-do.com/blog2/1161/。山車の上のは「鷄」、御輿の上のは「鳳凰」ということになる。

諫鼓鷄.jpg

(諫鼓鷄(泉町の山車) https://www.tochigi-city-kura-navi.jp/spot/page.php?id=311より)

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
簡野道明『字源』(角川書店)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

posted by Toshi at 04:06| Comment(0) | 言葉 | 更新情報をチェックする

2022年05月12日

天狗


「伽縷羅煙」http://ppnetwork.seesaa.net/article/486022291.htmlで触れた、

伽縷羅(かるら)、

は、梵語Garuḍaで、

インド神話における巨鳥で、龍を常食にする、

とある(広辞苑)が、

インド神話において人々に恐れられる蛇・竜のたぐい(ナーガ族)と敵対関係にあり、それらを退治する聖鳥として崇拝されている。……単に鷲の姿で描かれたり、人間に翼が生えた姿で描かれたりもするが、基本的には、

人間の胴体と鷲の頭部・嘴・翼・爪を持つ、翼は赤く全身は黄金色に輝く巨大な鳥、

として描かれhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AC%E3%83%AB%E3%83%80、それが、仏教に入って、

天竜八部衆の一として、仏法の守護神、

とされ(広辞苑)、

翼は金色、頭には如意珠があり、つねに口から火焔を吐く、

が、日本の、

天狗、

は、この変形を伝えたもの(仝上)とされる。

ガルダの像.jpg


確かに、曹洞宗 大雄山最乗寺にある、

道了尊・天狗化身像、

や、

大天狗、
小天狗、

を見ると、ガルダの像と似ていなくもない。道了尊は、

了庵慧明禅師の弟子だった道了尊者は、師匠の了庵慧明禅師が最乗寺を建立することを聞いて、近江の三井寺から天狗の姿になって飛んできて、神通力を使って谷を埋めたり、岩を持ち上げて砕いたりして寺の建設を手伝いました。そして了庵慧明禅師が75歳でこの世を去ると、寺を永久に護るために天狗の姿に化身して舞い上がり、山中深くに飛び去ったといわれ、以来、寺の守護神として祀られています、

とありhttps://daiyuuzan.or.jp/plan/tengu/、特に、小天狗は、

インドの神話の巨鳥が烏天狗として表された。烏のような嘴をもった顔、黒い羽毛に覆われた体を持ち、自在に飛翔することができる、

とある(仝上)。

道了尊 天狗化身像.jpg

(道了尊 天狗化身像 五大誓願文を唱え、火炎を背負い、右手には拄状(しゅじょう)左手に縄を持ち、両手両足に幸運の使いの蛇を従え天狗に化身し、白狐の背に立ち、天地鳴動して山中に身を隠された、という伝説がある https://daiyuuzan.or.jp/plan/tengu/より)


小天狗.jpg

(小天狗 別名烏天狗。 https://daiyuuzan.or.jp/plan/tengu/より)

「天狗(てんぐ)」は、古くは、

てんぐう、

とも訓んだらしいが、

(この山伏は)天狗にこそと思ふより、怖ろしきこと限りなし(古今著聞集)、
天狗・木魅などやうの物の、あざむき率(ゐ)てたてまつりたりけるにや(源氏物語)、

などと、

空を自由に飛び回る想像上の山獣。後には、深山で宗教的生活を営む行者、特に山伏に擬せられ、大男で顔赤く、鼻高く、翼あって神通力を持つものと考えられた。高慢な者、または、この世に恨みを残して死んだ人がなる(岩波古語辞典)、

とか、

山中に住むといわれる妖怪。日本では仏教を、当初は山岳仏教として受け入れ、在来の信仰と結び付いた修験道(しゅげんどう)を発達させたが、日本の天狗には修験道の修行者(=山伏)の姿が色濃く投影している。一般に考えられている天狗の姿は、赤ら顔で鼻が高く、眼光鋭く、鳥のような嘴をもっているか、あるいは山伏姿で羽根をつけていたり、羽団扇(はうちわ)を持っていて自由に空を飛べるといったりする。手足の爪が長く、金剛杖(づえ)や太刀(たち)を持っていて神通力があるともいう。これらの姿は、深山で修行する山伏に、ワシ、タカ、トビなど猛禽の印象を重ね合わせたものである(日本大百科全書)

とか、

天上や深山に住むという妖怪。山の神の霊威を母胎とし、怨霊、御霊など浮遊霊の信仰を合わせ、また、修験者に仮託して幻影を具体化したもの。山伏姿で、顔が赤く、鼻が高く、翼があって、手足の爪が長く、金剛杖・太刀・うちわをもち、神通力があり、飛行自在という。中国で、流星・山獣の一種と解し、仏教で夜叉・悪魔と解されたものが、日本にはいって修験道と結びついて想像されたもの。中世以降、通常、次の三種を考え、第一種は鞍馬山僧正坊、愛宕山太郎坊、秋葉山三尺坊のように勧善懲悪・仏法守護を行なう山神、第二種は増上慢の結果、堕落した僧侶などの変じたもの、第三種は現世に怨恨や憤怒を感じて堕落して変じたものという。大天狗、小天狗、烏天狗などの別がある。天狗を悪魔、いたずらものと解するときはこの第二・第三種のものである(精選版日本国語大辞典)、

とか、

深山に生息するという想像上の妖怪の一つ。一般に天空を飛び、通力をもって仏法の妨げをするといわれる。中国の古書『山海経』や『地蔵経』の夜叉天狗などの説が、日本古来の異霊、幽鬼、物怪(怨霊)などの信仰と習合したものと思われる。初期には異霊やコダマ(木霊)、変化、憑物の類なども天狗とされていたが、中世以後は山伏姿の赤ら顔で、鼻が高く、口は鳥のくちばしのようで、羽うちわをたずさえ、羽翼をたくわえて自由に空中を飛び回り、人に禍福を授ける霊神として祀られるようになった。天狗はまた、ぐひん、山の神、大人、山人とも呼ばれ、山に対する神秘観と信仰の現れでもある。大天狗、小天狗、からす天狗、木の葉天狗などの別があり、鞍馬、愛宕、比叡、大山、彦山、大峰、秋葉の各山々に住むとされ、武術の擁護者、讃岐金毘羅さんの使者ともされる(ブリタニカ国際大百科事典)、

等々と説明があるが、平安時代までは、

流星、
とび、

のように、人に憑いたり未来を予言する物の怪と考えられ、鎌倉時代以降、

山伏、

にたとえられるようになる(日本昔話事典)。今日の、

山伏姿で、顔が赤くて鼻が高く、背に翼があり、手には羽団扇はうちわ・太刀・金剛杖を持つ、

姿は、中世以降に確立した。「天狗」は、各地で、

狗賓(ぐひん)、
山人、
大人(おおひと)、
山の神、

とも呼ばれ(仝上・日本昔話事典)、

天狗をグヒンというに至った原因もまだ不明だが、地方によってはこれを山の神といい、または大人山人ともいって、山男と同一視するところもある、

とし(柳田國男「山の人生」)、その性格、行状ともに、

山の神、

と密接に繋がっている(日本昔話事典)。柳田國男も、

自由な森林の中にいるという者に至っては、僧徒らしい気分などは微塵もなく、ただ非凡なる怪力と強烈なる感情、極端に清浄を愛して叨(みだ)りに俗衆の近づくを憎み、ことに隠形自在にして恩讎ともに常人の意表に出でた故に、畏れ崇められていたので、この点はむしろ日本固有の山野の神に近かった、

と指摘している(柳田國男・前掲書)。

天狗 歌川国芳筆.jpg

(「天狗」(歌川国芳) 「競(くらぶ)れば、長し短し、むつかしや。我慢の鼻のを(置)き所なし」と記す https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E7%8B%97より)

大天狗、

は、顔が赤く鼻高く、

鞍馬山の僧正坊、愛宕山の太郎坊、比叡山の次郎坊、飯綱山(いづなさん)の三郎坊、大山の伯耆坊、彦山の豊前坊、白峯の相模坊、大峰の前鬼、

などが大天狗とされる(大言海)。

小天狗、

は、烏天狗ともいい、烏様の顔をしている(日本伝奇伝説大辞典)。ただ、小天狗の小さきを、

烏天狗、
木の葉天狗、

という(大言海)ともある。『沙石集(鎌倉時代中期)』で、無住は、

天狗ト云事ハ日本ニ申伝付タリ、聖教に慥ナル文証ナシ。先徳ノ釋ニ魔鬼ト云ヘルゾ是ニヤト覚エ侍ル。大旨ハ鬼類ニコソ。真実ノ智恵ナクテ、執心偏執、我相驕慢等アル者有相ノ行徳アルハ皆此道ニ入也、

として、

善天狗、
惡天狗、

があるとする(仝上)。

極楽に行くために修行を積んだため、法力はあるが、しかしながら、慢心や邪心などから悟ることができない。そんな人間が天狗道に落ち、天狗になると信じられるようになった、

ものらしいhttps://hetappi.info/fantasy/zentengu.html。「天狗道」とは、

怪しや我天狗道に落ちぬるか、落ちぬるか(太平記)、

と、

天狗の住む天界・鬼道、

を、仏教の六道(天道、人間道、修羅道、畜生道、餓鬼道、地獄道)にならっていい、

増上慢や怨恨憤怒によって堕落した者の落ちる魔道、

をもいう(精選版日本国語大辞典)とある。

「天狗」は漢語で、

流星の聲を発するもの、

とされる(字源)。

落下の際、音響を発するもの、

の意で、大気圏を突入し、地表近くまで落下した火球がしばしば空中で爆発、大音響を発する現象を言っていい、

天狗、状如犬、奔星有聲、其下止地類狗(史記)、

といい、

天狗星、

ともいう。転じて、

陰山有獣焉、其状如狸而白首、名曰天狗、其音如橊橊可以禦凶(山海経)、

と、

狸、

の如きものとされる(大言海・字源)。

天狗 『山海経』より.jpg

(「天狗」(山海経) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E7%8B%97より)

日本でも天狗の初見は、日本書紀・欽明天皇九年(637)で、

雷に似た大音を発し、東西に流れた流星、

を指し、

あまつきつね(天狗)、

と呼んでおり、当初は、伝来そのままの呼称であったと思われ、

天狗流星、

は、

大乱ノ可起ヲ天予メ示サレケルカ(応仁紀)、

と、

大乱・兵乱の兆し、

と記している。柳田國男ではないが、

時代により地方によって、名は同じでも物が知らぬまに変わっている、

ような「天狗」については、

かつては天狗に関する古来の文献を、集めて比較しようとした人がおりおりあったがこれは失望せねばならぬ労作であった。資料を古く弘く求めてみればみるほど輪廓は次第に茫漠となるのは、最初から名称以外にたくさんの一致がなかった結果である、

と述べている(山の人生)のが正直、妥当なところなのかもしれない。たとえば、

山中にサトリという怪物がいる話はよく方々の田舎で聴くことである。人の腹で思うことをすぐ覚って、遁げようと思っているななどといいあてるので、怖しくてどうにもこうにもならぬ。それが桶屋とか杉の皮を剥く者とかと対談している際に、不意に手がすべって杉の皮なり竹の輪の端が強く相手を打つと、人間という者は思わぬことをするから油断がならぬといって、逃げ去ったというのが昔話である。それを四国などでは山爺の話として伝え、木葉の衣を着て出てきたともいえば、中部日本では天狗様が遣ってきて、桶屋の竹に高い鼻を弾かれたなどと語っている、

と(仝上)、同じ話題が、サトリにも、山爺にも、天狗にもなる。その区別はつかないのである。それが文字や絵の話ではなく、現実の里での話なのである。

さて、漢字「天」(テン)は、「天知る」http://ppnetwork.seesaa.net/article/484881068.htmlで触れたように、

指事。大の字に立った人間の頭の上部の高く平らな部分を一印で示したもの。もと、巓(テン 頂)と同じ。頭上高く広がる大空もテンという。高く平らに広がる意を含む、

とある(漢字源)。

別に、

象形。人間の頭を強調した形からhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%A4%A9

指事文字。「人の頭部を大きく強調して示した文字」から「うえ・そら」を意味する「天」という漢字が成り立ちましたhttps://okjiten.jp/kanji97.html

指事。大(人の正面の形)の頭部を強調して大きく書き、頭頂の意を表す。転じて、頭上に広がる空、自然の意に用いる(角川新字源)、

等々ともある。

「狗」 漢字.gif


「狗」(漢音コウ、呉音ク)は、「狡兎死して」http://ppnetwork.seesaa.net/article/485426752.htmlで触れたように、

会意兼形声。「犬+音符句(小さくかがむ)」

で、愛玩用の小犬を指すが、後世には、犬の総称となったが、

走狗、

のように、いやしいものの喩えとして用いることがある(漢字源)。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
乾克己他編『日本伝奇伝説大辞典』(角川書店)
稲田浩二他編『日本昔話事典』(弘文堂)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
柳田國男『遠野物語・山の人生』(岩波文庫)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

posted by Toshi at 03:27| Comment(0) | カテゴリ無し | 更新情報をチェックする

2022年05月13日

天狗のつぶて


爰元(ここもと)にても礫(つぶて)打ちし事、度度あり。いかなる術を得しものに候哉(百物語評判)、

にある、

礫打ち、

は、

俗にいう「天狗つぶて」。家の戸板、壁などにどこからともなく、つづけざまに投石があること、

とある(高田衛編・校注『江戸怪談集』)。「天狗つぶて」は、

其の町のさる家へ夜ごとに礫(つぶて)打つ。数も多からず、七つ八つ、或は十、十四、五も打ち打ちて、音無きもあり、また玉霰の枯れ野の篠を走るが如く、其の音ころころするもあり。(中略)天狗つぶて打つ家は、必ず焼亡(じょうもう)の難あり(宿直草)、

と、

天狗礫(てんぐつぶて)、

とも書き、

天狗の投げるというつぶて。どこからとも知れずとんでくるつぶて、

とされ(広辞苑)、

木の葉打つ霰は天狗つぶてかな(犬子集)

ともある。

天狗の礫と称して人のおらぬ方面からぱらぱらと大小の石の飛んできて、夜は山小屋の屋根や壁を打つことがあった。こんな場合には山人が我々の来住を好まぬものと解して、(山の民は)早速に引きあげてくるものが多かった、

とある(柳田國男「山の人生」)ように、「天狗」http://ppnetwork.seesaa.net/article/487940696.html?1652293645で触れたことだが、「天狗」は、各地で、

狗賓(ぐひん)、
山人(やまびと)、
大人(おおひと)、
山の神、
山鬼(さんき)、

とも呼ばれ(仝上・日本昔話事典)、

天狗をグヒンというに至った原因もまだ不明だが、地方によってはこれを山の神といい、または大人、山人ともいって、山男と同一視するところもある、

とし(柳田國男『山の人生』)、その性格、行状ともに、

山の神、

と密接に繋がっている(日本昔話事典)のがよくわかる。「天狗のつぶて」は、

通例は中(あた)っても人を傷つけることがない、

という(柳田國男「山人考」)。この現象は、一般には、

ファフロツキーズ現象(Fafrotskies、Falls From The Skiesの略)、

というらしくhttps://aglamedia.com/spiritual/1500/、『和漢三才図会』には、

怪雨(あやしのあめ)、

とするhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%95%E3%83%AD%E3%83%84%E3%82%AD%E3%83%BC%E3%82%BA

天狗礫.jpg

(「天狗礫」 鳥山石燕『画図百鬼夜行全画集』より)

天狗のしわざとされるものには、「天狗礫」の外に、

天狗倒し、
天狗笑い、
天狗のカゲマ、
天狗の酒買い、
天狗の通路、
天狗囃子(ばやし)、
天狗隠し、
天狗の太鼓、
天狗ゆすり、
天狗火、
天狗風、

等々さまざまな怪異が挙げられている(柳田・前掲書・日本昔話事典)。

「天狗倒(たふ)し」は、

二百余間の桟敷、皆天狗倒しに遭てげり。よそよりは、辻風の吹くとぞ見えけり(太平記)、

と、

深山で、突然樹木が倒れるような原因不明の大音響が立つこと、天狗が暴れる音と信じられていたのでいう。また、家などが、突然原因もなくたおれること、

とある(岩波古語辞典)が、しかし、

非常な大木をゴッシンゴッシンと挽き斫(き)る音が聴こえ、ほどなくえらい響きを立てて地に倒れる。しかも、後にその方角に行ってみても、一本も新たに伐(き)った株などはなく、もちろん倒れた木などもない、

という(柳田・前掲書)、

山中で大木を切り倒す音がするが行ってみると何事もない、

という方が原型のようである。天狗の、

山中を自在に駆け、背が高く眼光が鋭いという山人など山住みの生活者のイメージ、

を反映したものと考えられ(世界大百科事典)、

天狗倒しの音響に至っては、……或いは狸の悪戯などという地方もあるが、本来跡方もない耳の迷いだから、誰の所業と尋ねてみようもない。深夜人定まってから前の山などで、大きな岩を突き落す地響がしたり、またはカキンカキンと斧の音が続いて、やがてワリワリワリワリバサアンと、さも大木を伐り倒すような音がする。夜が明けてからその附近を改めて見ると、一枚の草の葉すら乱れてはいなかった、などというのが最も普通の話、

とあり(柳田・前掲書)、これを、

其怪を伐木坊(きりきぼう)又は小豆麿(あずきとき)と謂ふ。伐木坊は夜半に斧伐(ふばつ)の聲ありて顛木の響を為す。明くる日其処を見るになんの痕(あと)も無し(白河風土記)、

とするものもある(仝上)。

こうした怪を体験すると、山の神を祭り、仕事を休んだり、作法にのっとって酒や餅(狗びん餅、ごへい餅など)を供えたり、仕事場や山小屋の向きを変えたりする、

という(日本伝奇伝説大辞典)。西日本では、

山童(やまわろ 人間の嬰児に似た妖怪)、
セコ(ヨイヨイとかショウショウと勢子に似た声を出す)、

がそういうしわざをすると考えられていたが、天狗、セコ、山童は、

山で働く人々の間の山の神、

の信仰が零落して、妖怪化したものとみられる(仝上)。これらは、

天狗さんの遊び仕事、
狗(ぐ)びさんの空木倒し、
天狗なめし、
天狗かえし、

などともいう(日本昔話事典・日本伝奇伝説大辞典)。

「天狗囃子」は、

どこからともなく祭囃子の音が聞こえてくるというもの、

である。

「天狗笑い」は、

人数ならば十人、十五人が一度に大笑いする声が、不意に閑寂の林の中から聴こえる、

というもの(柳田・前掲書)、

もともとは神霊の威力を示し、人々を畏怖させる目的であった、

と考えられる(日本伝奇伝説大辞典)。

「天狗ゆすり」は、

夜小屋がユサユサとゆすられているので、……窓からそっと覗くと、赤い顔をした大男がいた、

という類の話である(日本昔話事典)。

「天狗のカゲマ」は、

天狗攫い、
天狗隠し、

といわれる、

神隠し、

と繋がっている。子供が神隠しに遭うのは、大体、

旧暦四月ごろ、

と決まっていいたらしく、たとえば、

跡にはきちんと履物が揃えられており、村中が鉦や太鼓で探す。見つかる時には、何度も探した場所に不意に現れたり、屋根の棟など思ってもいない場所にいたりする、中には、天狗と一緒に遠くの土地を見物したなどという者もいる、

といい(日本昔話事典)、

なお人が設けたのでない法則のごときものが、一貫して存するらしい、

とある(柳田國男「山の人生」)。

例えば信州などでは、山の天狗に連れて行かれた者は、跡に履物が正しく揃えてあって、一見して普通の狼藉、または自身で身を投げたりした者と、判別することができるといっている、

という(仝上)。たとえば、

松崎村の寒戸というところの民家にて、若き娘梨の樹の下に草履を脱ぎ置きたるまま行方を知らずなり、三十年あまり過ぎたりしに、或る日親類知音の人々その家に集まりてありしところへ、きわめて老いさらぼいてその女帰り来たれり。いかにして帰って来たかと問えば人々に逢いたかりし故帰りしなり。さらばまた行かんとて、再び跡を留めず行き失せたり。その日は風の烈しく吹く日なりき。されば遠野郷の人は、今でも風の騒がしき日には、きょうはサムトの婆が帰って来そうな日なりという(柳田國男「遠野物語」)、

とあり、その探し方は、

北大和の低地部では狐にだまされて姿を隠した者を捜索するには、多人数で鉦と太鼓を叩きながら、太郎かやせ子か やせ、または次郎太郎かやせと合唱した。この太郎次郎は子供の実名とは関係なく、いつもこういって喚んだものらしい。そうして一行中の最近親の者、例えば父とか兄とかは、一番後に下ってついて行き、一升桝を手に持って、その底を叩きながらあるくことに定まっており、そうすると子供は必ずまずその者の目につくといっていた。(中略)播磨の印南郡では迷子を捜すのに、村中松明をともし金盥などを叩き、オラバオオラバオと呼ばわってあるくが、別に一人だけわざと一町ばかり引き下って桝を持って木片などで叩いて行く。そうすると狐は隠している子供を、桝を持つ男のそばへほうり出すといっていた。同国東部の美嚢郡などでは、迷子は狐でなく狗賓さんに隠されたというが、やはり捜しにあるく者の中一人が、その子供の常に使っていた茶碗を手に持って、それを木片をもって叩いてあるいた、

などとある(柳田國男「山の人生」)。

「天狗のカゲマ」と呼ばれるのは、

(『黒甜瑣語(1795年)』によると)当時神隠しに遭って帰ってきた少年や男たちは「天狗の情朗」と呼ばれていたとある。情朗は「陰間」とも呼ばれ、神隠しの犠牲者は邪な性的欲求の犠牲者と認識されていた、

ことと関係があるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E7%8B%97%E6%94%AB%E3%81%84。たとえば、

世の物語に天狗のカゲマと云ふことありて、爰かしこに勾引さるゝあり。或は妙義山に将て行かれて奴となり、或は讃岐の杉本坊の客となりしとも云ふ。秋田藩にてもかゝる事あり。元禄の頃仙北稲沢村の盲人が伝へし『不思議物語』にも多く見え、下賤の者には別して拘引さるゝ者多し。近くは石井某が下男は、四五度もさそはれけり。始は出奔せしと思ひしに、其者の諸器褞袍(おんぽう)も残りあれば、それとも言はれずと沙汰せしが、一月ばかりありて立帰れり。津軽を残らず一見して、委しきこと言ふばかり無し。其後一年ほど過ぎて此男の部屋何か騒がしく、宥して下されと叫ぶ。人々出て見しに早くも影無し。此度も半月ほど過ぎて越後より帰りしが、山の上にてかの国の城下の火災を見たりと云ふ。諸人委しく其事を語らせんとすれども、辞を左右に托して言はず。若し委曲を告ぐれば身の上にも係るべしとの戒を聞きしと也。四五年を経て或人に従ひ江戸に登りしに、又道中にて行方無くなれり。此度は半年ほどして、大阪より下れりと云う(黒甜瑣語)、

とある(柳田國男・前掲書)。

天狗 鳥山石燕.jpg

(「天狗」 鳥山石燕『画図百鬼夜行全画集』より)

また、不思議の現象の起きる道筋を、

天狗の通い路、
天狗の道、

といい、

山の頂の草原の間に、路らしい痕跡のあるところ、

は、

いずこの嶺にも山鬼(さんき)の路とて、嶺の通路はあけるもの也。此道を行かば又何処とも無く踏み迷ひなん、

と(菅江真澄「遊覧記」)、

山男の往来に当たっている、

として、

露宿の人がこれを避けたり、

樵夫(きこり)の輩一切夜分は居らぬことにしている、

とか、山中に小屋を掛ける人たちも、

谷の奥が行抜けになって向こう側へ越えうる場所は此れを避け、奥の切り立って行詰まりになった地形を選定する、

といい、

途中にて石を撃たるゝこと、土民は天狗の道筋に行きかゝりたるなりと謂ふ。何れの山にても山神の森とて、大木二三本四五本も茂り覆ひたる如くなる所は其道なりと知ると言へり(笈埃随筆)、

とある(柳田・前掲書)。また、山中の茂みにある小さな空地を、

天狗の相撲場、

といい、

予期しない時に急に空から吹き下ろしてくる旋風、

つむじ風、
辻風、

を、

天狗風、

といい(風と雲のことば辞典)、

人心を惑わすあやしいデマを、

天狗沙汰、

不審火・鬼火を、

天狗火、

などといったりする(日本伝奇伝説大辞典)。

天狗を題材にした、昔話には、そこで天狗が休んだ、という、

天狗松、

や、天狗をだまして手に入れた、

隠れ蓑笠、

というのがある。それは、大略、

ある子供が「めんぱ」に弁当を入れて山へ行く。天狗がいるので「めんぱ」でのぞき、京が見える、五重塔が見えると欺く。天狗が貸せというので隠れ蓑笠と交換する。天狗はのぞいてみたが何も見えないので、だまされたと気づいて子供を探すが、隠れ蓑笠を着ているのでみつからない。子供は隠れ蓑笠を使って盗み食いする。あるとき母親が蓑笠を焼いてしまう。灰を体に塗り付けて酒屋で盗み飲みすると、口の周りの灰がとれて発見され、川へ飛び込んで正体が現れる、

といった話である(日本昔話事典・日本大百科全書)。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
稲田浩二他編『日本昔話事典』(弘文堂)
柳田國男『遠野物語・山の人生』(岩波文庫)
乾克己他編『日本伝奇伝説大辞典』(角川書店)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

posted by Toshi at 04:01| Comment(0) | 言葉 | 更新情報をチェックする

2022年05月14日

みだりに


何事につけても、己一人(おのれいちにん)をのみ責めて敢えて叨(みだ)りにお勢を尤(とが)めなかッた(二葉亭四迷『浮雲』)、
ただ非凡なる怪力と強烈なる感情、極端に清浄を愛して叨(みだ)りに俗衆の近づくを憎み(柳田國男「山の人生」)、

と、

叨りに、

とあてる「みだりに」は、普通、

妄りに、
濫りに、
猥りに、

と当て(広辞苑)、あるいは、

漫りに、
乱りに、
浪りに、

とも当てたりするhttps://mojinavi.com/d/list-kanji-yomikata-midarini

乱る(四段活用)の未然形、みだらにとなる、

とあり(大言海)、

斯れは亦、漫(みた)りに傷急(あつか)ふことを為るなり(「南海寄帰内法傳(平安後期点)」)、

と、

順を乱して、
秩序を破って、
禮を外れて、
無作法に、
締まりなく、
思慮もなく、
むやみに、

などといった意味の幅(広辞苑・大言海・岩波古語辞典)で、

白川の瀧のいと見まほしけれどみだりに人を寄せじとものとや(後撰集)

と使われる。訛って、

みだらに、

ともいう(仝上)「みだる」は、

乱る、
紊る、

と当て、

四段活用の他動詞、
と、
下二段活用の自動詞、

とがあるが、前者は、

物や心の秩序を混乱させる意、中世以降、次第にミダス(乱す・紊す)に取って代わられるようになる、

とあり(岩波古語辞典・デジタル大辞泉)、後者は、

保たれるべき秩序が失われる、

意で、口語では、

乱れる、
紊れる、

となる(仝上)。形容詞としては、

虫の聲聲みだりがはしく(源氏物語)、

と、

秩序乱しているさまが不愉快である、

と、価値表現へシフトしている(岩波古語辞典)。

「みだりに」の漢字の当て分けで、

「妄りに」 しっかりした根拠もなく。むやみやたらに。「妄りに人を信用するな」「妄りに論ずべからず」「妄りに会社を休む」、
「漫りに」 しまりなく。だらだらと。勝手きままに。「漫りに時間を過ごす」「漫りに女性を口説く」「漫りに軽口をたたく」、
「濫りに」 抑制しないでむやみに。度を超して。「濫りに原生林を伐採する」「濫りに酒を飲むな」「濫りに金を遣う」、
「猥りに」 正当な意味もなく、原則を押しまげてやたらに。「猥りに禁句を口にする」「猥りに立ち入ることを禁止する」、

と含意の差異を整理するものがあるhttps://www.kanjipedia.jp/sakuin/doukunigi/items/0006609600が、漢字の差異は、

妄は、めった(滅多)になり、妄言・妄語・妄作の類、
濫は、妄に近く、まぎれる意あり、濫眞は、眞物にまぎれるなり、濫入はまぎれて入りこむなり、
漫は、差別もなく、わけも無き義、漫歩と用ふ、
猥は、煩雑の義、軽々しくなれる意、煩猥、猥雑と連用す、
叨は、濫と同義、

とある(字源)。「妄」「妄」「叨」はほぼ同義で、「むやみに」の意でいいが、「漫」は、漫然とといった含意、「猥」は、「猥雑」の含意で、やたらと、と言った意味の差になるが、しかし、漢字の意味で使い分けるほどのことかどうか、微妙である。

「叨」 みだりに 漢字.gif


「叨」(トウ)は、

会意兼形声。「口+音符刀(ゆるくまがる)」、

で、「むさぼる」意であるが、

叨在知己(叨りに知己在り)、

と、「みだりに」の意で、「不相応に恩恵を受けるさま」の意で使う(漢字源)。

「妄」 漢字.gif

(「妄」 https://kakijun.jp/page/0664200.htmlより)

「妄」(漢音ボウ、呉音モウ)は、

会意兼形声。亡は「ない、くらい」などの意を含む。妄は「女+音符亡(モウ)」で、女性に心がまどわされ、我を忘れたふるまいをすること、

とあり、

不知常妄作凶(常ヲ知ラズシテ妄に作るは凶なり)(老子)、

と使う(漢字源)別に、

会意兼形声文字です(亡+女)。「人の死体に何か添えた」象形(「人がなくなる」の意味)と「両手をしなやかに重ねひざまずく女性」の象形(「女」の意味だが、ここでは、「女性の心理状態を表す語」)から、「道理がない」、「でたらめの」を意味する「妄」という漢字が成り立ちました、

との解釈もあるhttps://okjiten.jp/kanji1979.html

「漫」 漢字.gif

(「漫」 https://kakijun.jp/page/1460200.htmlより)

「漫」(漢音バン、呉音マン)は、「そぞろ」http://ppnetwork.seesaa.net/article/484051057.htmlで触れたように、

会意兼形声。曼(マン)は「冒の字の上部(かぶせるおおい)+目+又」の会意文字で、ながいベールを目にかぶせたさま。ながい、一面をおおうなどの意を含む。漫は「水+音符曼」で、水が長々と続く、また水が一面におおうなどの意、

とあり(漢字源)、「みちる」「一面を覆う」意だが、「漫談」「冗漫」と、「とりとめがない」意もある。で、水がひろがる、から転じて、とりとめがない意を表す(角川新字源)、とある。別に、

会意兼形声文字です(氵(水)+曼)。「流れる水」の象形と「帽子の象形と目の象形と両手の象形」(目の上下に手をあてて目を切れ長にみせるような化粧のさまから、擬態語として「とおい・長い」の意味)から、「どこまでものびる広い水」、「勝手きまま」を意味する「漫」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji1264.html

「濫」 漢字.gif

(「濫」 https://kakijun.jp/page/1808200.htmlより)

「濫」(ラン)は、

会意兼形声。監は「うつむいた目+人+水をはった皿」の会意文字で、人がうつむいて水鑑に顔をうつすさま。そのわくの中に収まるようにして、よく見る意を含む。鑑(かがみ)の原字。檻(カン 枠をはめて出ぬようにするおり)と同系のことば。濫は「水+音符監」で、外に出ないように押さえた枠を超えて、水がはみ出ること、

とあり(漢字源)、「氾濫」のように「あふれる」意だが、

濫入党中(濫りに党の中に入る)(後漢書)、

と、「みだりに」の意で用いる。別に、

会意兼形声文字です(氵(水)+監)。「流れる水」の象形(「水」の意味)と「たらいをのぞきこむ人の象形としっかり見開いた目の象形と水の入ったたらいの象形」(「のぞきこむ」の意味)から、のぞきこんではじめて見える、地中からふきだす泉を意味し、そこから、「あふれる」を意味する「濫」という漢字が成り立ちました、

の解釈もあるhttps://okjiten.jp/kanji1517.html

「猥」 漢字.gif


「猥」(漢音ワイ、呉音エ)は、

会意兼形声。「犬+音符畏(くぼんでまがる、押し曲げる)」で、押し下げる、凹む意を含む、

とあり(漢字源)、「猥雑」のように乱れている意だが、

猥自枉屈、三顧臣於艸廬之中(猥ニミヅカラ枉屈シ、三タビ臣を艸廬ノ中ニ顧ミル)(諸葛亮)、

と、「みだりに」の意でも使う。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
簡野道明『字源』(角川書店)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

posted by Toshi at 03:38| Comment(0) | 言葉 | 更新情報をチェックする

2022年05月15日

くちなわ


此虵(くちなは)ものぼりて、かたはらにわだかまりふしたれど(宇治拾遺物語)、

にある、

くちなは、

は、

蛇の異名、

とされる(広辞苑)。「虵」は、「蛇」の俗字である(字源)。「くちなわ」は、

朽縄に似ているから(広辞苑)、
身、縄の如くにして、口ある意ならむ、くちばみ(蝮)のクチも、口なり、今、紐の端に、小さき輪をつけたるものを、蛇口といふ(大言海)、
クチナワ(口縄)の義(東雅・名言通・嫁が君=楳垣実)、
形が朽ちた縄に似ているところから(デジタル大辞泉)、
クチナワ(朽縄)の義(名語記・円珠庵雑記)、
ツチナハ(地縄)の義(言元梯)、

と、「縄」と関わらせる説が多いが、「へび」http://ppnetwork.seesaa.net/article/433628380.htmlで触れたように、

朽ち(罵り語)+ナワ(青大将)、「朽ち+縄」は俗解、

と「朽ちた縄」説を退ける(日本語源広辞典)もの、逆に、

ヘビを「くちなわ」というのは、ヘビの形が朽ちた縄(腐った縄)に似ていることから。口が付いた縄の意味ではない、

と「口縄」説を否定するものもある(語源由来辞典)。他に、

クチナブサの四音変化、クチは、有害な蛇に対する称呼。ナブサは、害の無い蛇の名(青大将の起源=柳田國男)、
その舌の様子から、クチノハリ(口之針)の約略(俗語考)、
コトニナガキ(殊に長き)虫は、「コ」の母交[ou]、「トニ」[t(on)i]の縮約の結果、クチナガになった。さらに「ガ」が子交[gh]をとげてクチナハになった(日本語の語源)、

などがあるが、大勢は、

朽+縄、

口+縄、

になるが、その判別はつかない。ただ、「縄」に似ているのに、「朽ち」ている必要があるのかどうか。よく道に落ちている縄を蛇と見間違えることは実際にあるのだから、

口+縄、

の方が妥当な気がするのだが。勿論憶説である。和名類聚抄(931~38年)に、

蛇、倍美(へみ)、一云、久知奈波、日本紀私伝云、乎呂知、毒虫也、

とあり、類聚名義抄(11~12世紀)には、

蛇、ヘミ、クチナハ、オロチ、

とあるように、「くちなは」は、

平安時代には「へみ」とともに無毒の蛇の総称であった。「へみ」は、

四つのへみ五つの鬼(もの)集まれる、きたなき身をば、いとひ捨つべし、離れ捨つべし(仏足石歌)、

と見えているが、「くちなは」は、平安時代以降の和文脈で用いられることが多い(日本語源大辞典)。

「へび」の古称「へみ」は、

延蟲(はへむし)の約(白蟲(しらむし)、しらみの類)、転じてへびとなる(黍(きみ)、きび。夷(エミシ)、えびすと同趣)。長蟲(ながむし)の名もあり(大言海)、
ハヘムシ(這虫)の義(名言通)、
ハヒ(匍)の義(言元梯)、
朝鮮語peiyam(蛇)と同源(岩波古語辞典)、
ヘビは脱皮をすることから、「ヘンミ(変身)」の転(語源由来辞典)、
小動物を丸呑みするところから、「ハム(食む)」の転(仝上)、
ハムの義(日本釈名)、

等々とあるが、「はう」という擬態によると見るのが大勢なのだが、ただ、

ヘミ→ヘビ、

と転訛したと見るわけにもいかないようだ。ヘビの方言には、

ヘミ、ヘブ、ヘベ、ハビ、ハベ、ハム、ハメ、バブ、パプ、ヒビ、ヘンビ、ヘンミ、

等々数多くの呼称があり、

「ハブ」や「ハミ(マムシ)」は、「ハム(食む)」からきた、

とされる(語源由来辞典)ように、「ハム」と関わる呼び名もあり、

ハミムシ(咬み虫)の略省形ハミ(波美 和名抄)も中・四国ではマムシ(蝮)の別名になっている、

ともあり(日本語の語源)、

ヘミ→ヘビ、

ではなく、

ハミ→ハビ→ヘミ→ヘビ、

と、「ハム(食む)」からきたとする見方もあり、

上代には「へみ」と呼ばれていたが、平安時代に「くちなは」が現れ、「へみ」と共存した、

のは確かである(日本語源大辞典)が、

ヘミ→ヘビ、

の転訛とのみは確定しにくい(語源由来辞典)。ほかにも、「へび」には、

やまとのかみ、
ながむし、
たるらむし、
たるなむし、
かがち、

等々の異称がある(大言海・広辞苑)、

へび、

は、だから、

へみ→へびの転訛、

以外にも、

ハミ(蝮)の義(言元梯)、
反鼻(ハンピ)の義(滑稽雑談・和訓栞)、
ハヒウネリムシ(這蜿蜒虫)の義(日本語原学=林甕臣)、

と、「ハム」の音韻を引きずっていなくもないのだ。だから「ハム(食む)」の、

はむ(蝮)、

が、「へび」の総称に変化したという見方もできる。「マムシ」は、

真虫、

と当て、易林節用集(慶長)には、

蝮、ハミ、

とあり、

蝮蟲(ハミムシ)の略転(はたら、まだら。かはち、かまちと同趣)、真虫の義、真は害をなすこと甚だしき故に、狼を真神と云ふが如し(大言海)、
ハミムシ(喰虫・蝮虫)の転(柴門和語類集)、
はむのを恐れて云ふ(俗語考)、

と、「はむ」由来で、あるいは、

ハム→ハビ→ヘミ→ヘビ、

と、蛇の総称へと転じていった可能性もある。因みに「反鼻(ハンピ)」は、

漢土の蝮の一名にて、その鼻反りたれば云う、その音を我が国の蛇にあつるは牽強なり、

とあり(大言海)。反鼻は、

本来、中国大陸にすむアオハブ(タイリクハブ)あるいはその近縁種のことで、鼻先が短く上に反り返っているところから命名された。マムシは日本での代用品といえる、

からなのである(日本大百科全書)。「反鼻」は(まむしの)漢方薬として名が使われる。

ところで、「へび」の異称には、

おろち、
うわばみ、
みづち、

等々があるが、「おろち」は、「をろち」http://ppnetwork.seesaa.net/article/469001407.htmlで触れたように、

大蛇、

と当て、

オは「峰」、ロは接尾語、チはミヅチ(蛟)イカヅチ(雷)などのチで、はげしい勢いのあるもの、霊威あるものの意(広辞苑・岩波古語辞典)、

で、「ヲ」を「尾」とするものも多くある(日本語源広辞典)が、「を(尾)」は、

小の義。動物體中の細きものの意、

で(大言海)、そのメタファで、

山尾、

という使い方をし、

山の裾の引き延べたる處、

の意に使い、転じて、

動物の尾の如く引き延びたるもの、

に使った(仝上)。「ヲ(峰・丘)」は、その意味の流れの中で重なったとみられる。「チ」は、「ち(血)」http://ppnetwork.seesaa.net/article/465705576.html?1557945045、「いのち」http://ppnetwork.seesaa.net/article/465724789.html、で触れたように、

いかづち(厳(いか)つ霊(ち)。つは連体助詞)、
をろち(尾呂霊。大蛇)、
のつち(野之霊。野槌)、
ミヅチ(水霊)、

と重なり、「ち(霊)」は、

原始的な霊格の一。自然物のもつはげしい力・威力をあらわす語。複合語に用いられる、

ので、

いのち(命)、
をろち(大蛇)、
いかづち(雷)、

等々と使われ(岩波古語辞典)、

神、人の霊(タマ)、又、徳を称へ賛(ほ)めて云ふ語。野之霊(ノツチ、野槌)、尾呂霊(ヲロチ、蛇)などの類の如し。チの轉じて、ミとなることあり、海之霊(ワタツミ、海神)の如し。又、轉じて、ビとなることあり、高皇産霊(タカミムスビ)、神皇産霊(カムミムスビ)の如し、

とある(大言海)。つまり、「をろち」は、

尾の霊力、

という意味になる(日本語源大辞典)。

源頼光、渡辺綱、卜部季武、藤原保昌によるうわばみ退治.jpg

(源頼光、渡辺綱、卜部季武、藤原保昌によるうわばみ退治(曲亭馬琴作、歌川豊国画「四天王剿盗異録」(1806年) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%86%E3%82%8F%E3%81%B0%E3%81%BFより)

「うわばみ」は、

蟒蛇、

と当て、

巨大な蛇、

の意で、「ばみ」は、

はみ、へびと同根、

つまり、

オオハミ(大蝮 大蛇の意)の轉。うごく、おごく。うつほもの、うつはもの。やほら、やわら(大言海)、
ウハヘミ(大蛇)の義(南留別志・言元梯・名言通)、

等々、「バミ」は、「ヘミ」「ハミ」の転訛なのである。

「みづち」は、

蛟、
虬、
虯、
螭、
蛟龍、

などと当て(広辞苑・岩波古語辞典)、古くは、

みつち、

と清音。

想像上の動物。水に棲み、蛇に似て、角と四足をもち、人に害を与えるという、

とあり、和名類聚抄(平安中期)は、

蛟、美豆知(みつち)、龍属也、

類聚名義抄(11~12世紀)は、

蛟、大虬、ミツチ、

天治字鏡(平安中期)は、

蛟、龍名、美止知(止は豆か)、

とあり、龍との関連を思わせる。

ミは水、ツは助詞、チは靈で、水の霊(広辞苑)、
チはオロチのチに同じ、威力あるものの意(岩波古語辞典)、
ミは蛇(ヘミ)にて、ツは之なり、或は云ふ、合して水なりと。チは靈の異称(大言海)、
ミは蛇の古称、ツチは尊称、蛇の主の義(蛇に関する民俗と伝説=南方熊楠)、

という字解の上、

水神の義(類聚名物考)、
ミツチ(水之神)の義(琅玗記=新村出)、
ミツチ(水霊)の義(大言海)、
朝鮮語mirï(龍)と同源(岩波古語辞典)、

等々、水神化された龍、或は大蛇というところに落ち着く。

「蛇」 漢字.gif


「へび」http://ppnetwork.seesaa.net/article/433628380.htmlで触れたように、漢字の「蛇」(慣用ダ、漢音呉音タ・イ、漢音シャ、呉音ジャ)の字は、

会意兼形声。它(た)は、頭の大きいヘビを描いた象形文字(虫」もへびを象った字)。蛇は、「虫+音符它」で、うねうねとのびる意を含む。它が三人称の代名詞(かれ、それ)に転用されたため、蛇の字で它の元の意味をあらわした、

とあり(漢字源・https://ja.wiktionary.org/wiki/%E8%9B%87)、它(シヤ)∔(ジヤ)と転音した(角川新字源)。だから、

会意兼形声文字です(虫+它)。「頭が大きくてグロテスクなまむし」の象形と「へび」の象形から、「へび」を意味する「蛇」という漢字が成り立ちました、

となるhttps://okjiten.jp/kanji310.html

「蛇」 簡牘文字.png

(「蛇」 簡牘(かんどく)文字(「簡」は竹の札、「牘」は木の札)・戦国時代 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E8%9B%87より)

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

posted by Toshi at 03:28| Comment(0) | 言葉 | 更新情報をチェックする

2022年05月16日

言語化の限界


ウィトゲンシュタイン(野矢茂樹訳)『論理哲学論考』を読む。

論理哲学論考 (岩波文庫).jpg


本書について、ウィトゲンシュタインは、

「ここに表されている思想ないしそれに類似した思想をすでに自ら考えたことのある人だけに理解されるだろう。」

と書く。その意味では門外漢には、分からないことだらけなのもやむを得まい。

かなり前、本書と『哲学探究』を読んだとき、うろ覚えだが、

ひとはもっている言葉によって見える世界が違う、

というフレーズが心に残っている。しかし、この意味は、本書の論旨とは180度違う気がする。似た言い回しは、

「世界が私の世界であることは、この言語(私が理解する唯一の言語)の限界が私の世界の限界を意味することに示されている。」

だが、これは、

言語化の限界、

を言っているのであって、

もっている言葉によって見える世界が違う、

とは、真逆である。たぶん、『哲学探究』の、

~として見る、

つまり、

同じ空を見ていて、ケプラーは、地球が回っていると見、ティコ・ブラーエは、太陽が回っていると見る、

あるいは、同じく、

木から林檎が落ちるのを見て、ニュートンは万有引力を見、他人にはそうは見えない、

のは、われわれは、

知っていることを見ている、

つまり、

知の函数として見る、

という意味だからだhttp://ppnetwork.c.ooco.jp/view04.htm

本書の主張は、

「世界のあり方は、命題によってはじめて描写されるのであり、すなわち、諸対象の配列によって、はじめて構成されるからである。」
「命題は現実の像である。なぜなら、命題を理解するとき、私はその命題が描写している状況を把握し、しかもそのさい意味の説明を必要としたりはしないからである。」

にみえるように、

言語は世界を写す像である、

として、では、

どれだけ世界を言語化できるか、

であるように見える。しかし、読みつつ感じた違和感は、

事実の配列を言語に置き換えても、実は何一つ現実を捉えたことにはならないのではないか、

という思いであった。とりわけ、日本語は、

状況依存型、

である。言葉に置き換えられない、

余韻、
余白、
余情、

などこそが、現実なのではないか。多少センチメンタルかもしれないが、論理構造に置き換えても、

事柄のつながり、構造、

だけが、置き換えられるだけではないか、という思いであった。因みに、その「論理形式」「論理空間」については、

「論理形式ある対象の論理形式とは、その対象がどのような事態のうちに現れうるか、その論理的可能性の形式のことである。」
「命題はその意味〔すなわち論理空間における論理的領域〕を示す。」
「論理は自分で自分自身の世話をみるのでなければならない。ある記号が〔構成〕可能であるならば、それは同時に表現としても成立しているのでなければならない。論理においては、可能というだけでそれは認可されているのである。(「ある記号 が〔構成〕可能であるならば、それは同時に表現としても成立しているのでなければならない。論理においては、可能というだけでそれは認可されているのである。」

等々と定義する。だから、

「明らかに、『Aはpと信じている』『Aはpと考える』『Aはpと語る』は、もとをたどれば『「p」はpと語る』という形式となる。そしてここで問題になるのは、事実と対象の対応関係ではなく、対象と対象の対応を通して与えられる事実相互の対応関係なのである。」

では、例えば、時枝誠記の日本語の風呂敷構造で、

三浦④.gif


という表現の示しているのは、「桜の花が咲いてい」る状態は過去のことであり(〃いま〃は咲いていない)、それが「てい」(る)のは「た」(過去であった)で示され、語っている〃とき〃とは別の〃とき〃であることが表現されている。そして「なァ」で、語っている〃いま〃、そのことを懐かしむか惜しむか、ともかく感慨をもって思い出している、ということである。この表現のプロセスは、
①「桜の花が咲いてい」ない状態である〃いま〃にあって、
②話者は、「桜の花の咲いてい」る〃とき〃を思い出し、〃そのとき〃にいるかのように現前化し、
③「た」によって時間的隔たりを〃いま〃へと戻して、④「なァ」と、〃いま〃そのことを慨嘆している、
という構造になる、

のとよく似ているhttp://ppnetwork.c.ooco.jp/critic1-1.htm

「A=p」と信じている

という構造を、

事実と対象の対応関係ではなく、対象と対象の対応を通して与えられる事実相互の対応関係なのである、

ととらえることで、ウィトゲンシュタインは、事実と認識との問題ではなく、

事実相互の対応関係、

に置き換えている。しかし、「 」の中のことは事実ではない。つまり、認識側の事実理解に過ぎない。こうした主観の中の「事実」、想像の「事実」は「事実関係」としては捉えきれない。しかも、こうした主観の延長線上に、価値観や倫理観がある。

「世界の意義は世界の外になければならない。世界の中ではすべてはあるようにあり、すべては起こるように起こる。世界の中には価値は存在しない。」

のであり、

「命題は(倫理という)より高い次元をまったく表現できない。」

のである。で、結局、

「語りうること以外は何も語らぬこと。」
「語りえぬものについては、沈黙せねばならない。」

となる。しかし、本書で、

「視野のうちに視野の限界は現れない。」

は、後期、

視野の限界が視野である、

という言い方の変わるような気がする。つまり、真逆に、

われわれは知っている物しか目に入らない(ゲーテ)、

のであり、

ひとはもっている言葉によって見える世界が違う、

とはそういう意味ではないか、と。ならば、

「私の言語の限界が私の世界の限界を意味する。」

とは言わないだろう。たぶん、

私の言語の限界が私の世界になる、

というだろう。

参考文献;
ウィトゲンシュタイン;(野矢茂樹訳)『論理哲学論考』(岩波文庫)
N・R・ハンソン(野家啓一・渡辺博訳)『知覚と発見』(紀伊国屋書店)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

posted by Toshi at 03:26| Comment(0) | 書評 | 更新情報をチェックする

2022年05月17日

異界の人


柳田國男『遠野物語・山の人生』を読む。

遠野物語・山の人生.jpg


遠野物語、

で、遠野地方の、

山の神、
神女、
天狗、
山男、
山女、

等々とさまざまに呼ばれる、

山人、

を、広く全国で展開したのが、

山の人生、

で、それを要約したのが、

山人考、

という関係になるのが、本書所収の、

遠野物語、
山の人生、
山人考、

の三作の関係になる。「天狗」http://ppnetwork.seesaa.net/article/487940696.htmlで触れたように、「天狗」は、各地で、

狗賓(ぐひん)、
山人(やまびと)、
大人(おおひと)、
山鬼(さんき)、

とも呼ばれ(仝上・日本昔話事典)、

山の神、

と繋がっているが、さらに柳田が、

山男山女、
山童山姫、
山丈山姥、

を括って、

山人、

と呼ぶ人々は、

ダイダラボッチ、

ともつながる(山人考)。

神人、

から、

妖怪、

へと堕していく流れがあるが、柳田國男は、この源流を、古代の文献の、

土蜘蛛、
国樔(くず)、

にさかのぼり、播磨風土記に、

神前(かみさき)郡大川内、同じく湯川の二処に、異俗人三十許口(みそたりばかり)、

とある、

異俗人、

とつなげ(山人考)、

風俗を異にする人民、

が居たのだとする仮説を展開する。その流れは、たとえば、

高野山の弘法大師などが、猟人の手から霊山の地を乞い受けたなどという昔話は、恐らくはこの事情を反映するものであろうと考えます。古い伽藍の地主神が、猟人の形で案内をせられ、また留まって守護したもうという縁起は、高野だけでは決してないのであります(山人考)。

の、

猟人、

も、また、

平野神社の四座御祭、園神(そのがみ)三座などに、出でて仕えた山人という者も、元は同じく大和の国栖であったろうと思います(山人考)、

の、

山人、

も、

(『今昔物語』などに登場する奇怪な)鬼とは併行して、別に一派の山中の鬼があって、往々にして勇将猛士に退治せられております。斉明天皇の七年八月に、筑前朝倉山の崖の上に踞まって、大きな笠を着て顋を手で支えて、天子の御葬儀を俯瞰していたという鬼などは、この系統の鬼の中の最も古い一つである(仝上)、

という、

鬼、

もまた、同じ系統と見なし、

日本の先住民族、

とするのである(そういえば、確か、鬼は、「化外の民」とされたのを思い出す)。そして、こう整理する。

山人すなわち日本の先住民は、もはや絶滅したという通説には、私もたいていは同意してよいと思っておりますが、彼らを我々のいう絶滅に導いた道筋……は六筋、その一は帰順朝貢に伴なう編貫であります。最も堂々たる同化であります。その二は討死、その三は自然の子孫断絶であります。その四は信仰界を通って、かえって新来の百姓を征服し、好条件をもってゆくゆく彼らと併合したもの、第五は永い歳月の間に、人知れず土着しかつ混淆したもの、数においてはこれが一番に多いかと思います(仝上)、

そして、

以上の五つのいずれにも入らない差引残、すなわち第六種の旧状保持者、というよりも次第に退化して、今なお山中を漂泊しつつあった者が、少なくとも或る時代までは、必ず必ずいたわけだということが、推定せられる、

とする(仝上)。これが、様々な異名をつけられた、

山人、

である、と。山人の特色は、

一つには肌膚の色の赤いこと、二つには丈高く、ことに手足の長いことなどが、昔話の中に今も伝説せられます。諸国に数多き大人の足跡の話は、話となって極端まで誇張せられ、加賀ではあの国を三足であるいたという大足跡もありますが、もとは長髄彦(ながすねひこ)もしくは上州の八掬脛(やつかはぎ)ぐらいの、やや我々より大きいという話ではなかったかと思われます、

とする。この仮説の是非はともかく、よく柳田國男が嘆く、

文字偏重、
欧米学問の踏襲、

ではなく、地道に現場の中から収斂させた独自の仮説の力は、その是非は別として、こんにちもまだ欧米学問の軛から脱しきれない社会科学系学者からは、到底出てこない仮説といっていい。

参考文献;
柳田國男『遠野物語・山の人生』(岩波文庫)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

posted by Toshi at 03:27| Comment(0) | 書評 | 更新情報をチェックする

2022年05月18日

竜宮


「竜(龍)宮」は、

浦島太郎、

で名高いが、一応、

深海の底にあって、龍神の住む宮殿、

とされ(広辞苑)、中国伝説や物語では、

龍宮(りゅうぐう 竜宮)、
竜宮城(りゅうぐうじょう)、
水晶宮(すいしょうきゅう)、
水府(すいふ)、

は、竜王が主(あるじ)で、四海竜王等々、各地にいくつもの竜王が存在する。日本では、これを

うみのみやこ、
たつのみや、
たつのみやこ、
たつのみやい、
わたつみのみや、
わたつみのみやい、

等々日本風に訓む(仝上・大言海)が、いわゆる、

竜宮城、

であり(仝上)、

竜神のすみか、

とされる(マイペディア)が、必ずしも、

海の底、

ではなく、

湖沼や川、井戸の底、洞窟が龍宮への通路となっているものも存在している、

とされ(仝上・https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BE%8D%E5%AE%AE)、俵藤太は、龍宮の使いの小男と共に、瀬田の唐橋から、

二人共湖水の水の波を分けて水中に入ること五十余町あつてひとつの楼門あり、開いて中に入るに、瑠璃の砂(いさご)、厚く玉の甃(いしだたみ)あたたかにして落花自から繽紛たり(太平記)、

とある。

新版浮絵浦島竜宮入之図(葛飾北斎).jpg

(新版浮絵「浦島竜宮入之図」(葛飾北斎) https://ja.ukiyo-e.org/image/ritsumei/mai02e06より)

しかし、柳田國男が、日本の昔話では、

竜宮には竜はいない。そうしてしばしば乙姫様という美しい一人娘がいる、

といったように(『海上の道』・海神竜考)、

美女と歓楽と不老と珍宝珍味の宮殿、

のイメージで(マイペディア)、

国外から運び入れたのは、主として語音の珍しいその仙郷の名だけであって、説話の内容は是がために大きな変化をとげていなかった、

もののようだ(仝上)。それまでは、

蓬莱山、

を使い、

トコヨノクニ、

と訓ませていたが、万葉集では、

潮満たばいかにせむとか海神(わたつみ)の神が手渡る海人娘子(あまをとめ)ども、

と、

わたつみの神の宮(綿津見神宮)、

とか、

海境(うなさか)を過ぎて漕ぎ行くに海神(わたつみ)の神の娘子(をとめ)にたまさかにい漕ぎ向ひ相とぶらひ、

と、

わたつみの神のをとめ、

という言葉を使っていた、これは、

浦島太郎、
海幸(うみさち)・山幸、

や、売れ残りの花を水に投じた礼に竜宮に招かれる花売りの説話などで語り継がれてきた、

海中または海上、

の、

海の国の名、

であった(柳田・前掲書)し、記紀の、

根の国、
常世の国、

とも関わり、奄美や沖縄などの南島諸島で、海の向こうにあるとされる異世界、

ニライカナイ、

と通じるものである。「竜宮」を、

ニルヤ、

に近い語をもって呼んでいた、ともある(柳田・仝上)。因みに「蓬莱」は、

よもぎがとま、

とも訓ませ、

蓬莱山、
蓬莱島、

とも呼び、「仙人」http://ppnetwork.seesaa.net/article/483592806.htmlで触れたように、『史記』秦始皇本紀に、

斉人徐市(じょふつ 徐福)、上書していう、海中に三神山あり、名づけて蓬莱(ほうらい)、方丈(ほうじょう)、瀛州(えいしゅう)という。僊人(せんにん)これにいる。請(こ)う斎戒(さいかい)して童男女とともにこれを求むることを得ん、と。ここにおいて徐をして童男女数千人を発し、海に入りて僊人を求めしむ、

とある三神山の一つ、

東海中にあって、仙人が住み、不老不死とされる霊山で、不老不死の神薬があると信じられた、

とあり(広辞苑)、この薬を手に入れようとして、秦の始皇帝は方士の徐福(じょふく)を遣わした。

仏教においても、

爾時、文殊師利、坐千葉蓮花、大如車輪、俱來菩薩、亦坐寶蓮華、従於大海、婆竭羅龍宮、自然湧出、住虚空中(妙法蓮華経・提婆達多品)、

とあるように、

大海の底に娑竭羅(しやから)竜王の宮殿があって、縦広8万由旬(ゆうじゆん 1由旬は帝王1日の行軍里程)もあり、七重の宮牆(きゆうしよう)、欄楣(らんび)などはみな七宝をもって飾られている(長阿含経)、

とか、

海上に白銀、瑠璃、黄金の諸竜宮があって、毒蛇大竜がこれを守護しており、竜王がここに住み珍宝が多い(賢愚因縁経)、

などと説く(大言海・世界大百科事典)。

娑竭羅龍王(しゃからりゅうおう)の娘(第三王女)は、

善女(如)龍王、

と呼ばれ、

その年わずか八歳の竜少女、

とあり(妙法蓮華経・提婆達多品)、文殊師利菩薩はこの竜女は悟りを開いたと語るも、

智積菩薩はこれに対し、お釈迦様のように長く難行苦行をし功徳を積んだならともかく、僅か8つの女の子が仏の悟りを成就するとは信じられないと語った。また釈迦の弟子の舎利弗も、女が仏になれるわけがないと語った。

のに、

竜女はその場で法華経の力により即身成仏し、それまで否定されていた女子供でも動物でも成仏ができることを身をもって実証した、

とあるhttps://www.wdic.org/w/CUL/%E5%A8%91%E7%AB%AD%E7%BE%85%E9%BE%8D%E7%8E%8B%E3%80%82%E5%A5%B3。「娑竭羅(サーガラ Sāgara)」は、仏法を守護する天龍八部衆に所属する竜族の八王、

八大竜王(はちだいりゅうおう)、

の一人とされ(法華経)、

娑伽羅、
沙掲羅、
沙羯羅、

とも音訳され、

大海、
龍宮の王、
大海龍王、

と漢訳されているhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E5%A4%A7%E7%AB%9C%E7%8E%8B

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
乾克己他編『日本伝奇伝説大辞典』(角川書店)
柳田國男『海上の道』(岩波文庫)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

posted by Toshi at 03:27| Comment(0) | 言葉 | 更新情報をチェックする

2022年05月19日

蓬莱


「蓬莱は、

蓬莱隔弱水三十万里、非舟楫可行、非飛仙無以到(太平広記)、

とある、

蓬莱弱水の隔たり、
蓬莱弱水、

などと成語になっている。「弱水」とは、

北の果てにあるとされる川、

で、

遥かに遠く隔たっている喩え、

としていう(故事ことわざの辞典)。「蓬莱」は、

蓬丘、
蓬壺、
蓬島、
蓬莱山、
蓬莱島、

等々ともいい、

よもぎがとま、
よもぎがしま、

とも訓ます(広辞苑)、

使人入海求蓬莱・方丈・瀛洲、此三山者相傳在渤海(漢書・郊祀志)、

と、

渤海中にあって仙人が住み、不老不死の地とされ、不老不死の神薬があると信じられた霊山、

で、

三壺海中三山也、一曰方壺、則方丈也、二曰、蓬壺則蓬莱也、三曰瀛壺洲也(拾遺記)、

と、

方丈(ほうじょう)山、
瀛洲(えいしゅう)山、

と共に、

三神山(三壺山)の一つ、

とされ(仝上・日本大百科全書)、前二世紀頃になると、

南に下って、現在の黄海の中にも想定されていたらしい、

と位置が変わった(仝上)が、

伝説によると、三神山は海岸から遠く離れてはいないが、人が近づくと風や波をおこして船を寄せつけず、建物はことごとく黄金や銀でできており、すむ鳥獣はすべて白色である、

という(仝上)。

船に乗る徐福.jpg

(「船に乗る徐福」(任熊『列仙酒牌』) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%90%E7%A6%8Fより)

「仙人」http://ppnetwork.seesaa.net/article/483592806.htmlで触れたように、戦国時代から漢代にかけて、燕(えん)、斉(せい)の国の方士(ほうし 神仙の術を行う人)によって説かれ、

(仙人の住むという東方の三神山の)蓬莱・方丈・瀛州(えいしゅう)に金銀の宮殿と不老不死の妙薬とそれを授ける者がいる、

と信ぜられ、それを渇仰する、

神仙説、

が盛んになり、『史記』秦始皇本紀に、

斉人徐市(じょふつ 徐福)、上書していう、海中に三神山あり、名づけて蓬莱(ほうらい)、方丈(ほうじょう)、瀛州(えいしゅう)という。僊人(せんにん 仙人)これにいる。請(こ)う斎戒(さいかい)して童男女とともにこれを求むることを得ん、と。ここにおいて徐をして童男女数千人を発し、海に入りて僊人を求めしむ、

と、この薬を手に入れようとして、秦の始皇帝は方士の徐福(じょふく)を遣わした。後世、この三神山に、

岱輿(たいよ)、
員嶠(えんきよう)、

を加えた、

五神山説、

も唱えられたが、昔から、

蓬莱、

だけが名高い(仝上)。

蓬萊山は海中にあり、大人の市は海中にあり(山海経)、

とあり、「市」とは蜃気楼のこととされたhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%93%AC%E8%90%8Aともある。

日本では、

蓬莱山(蓬山)、

を、

トコヨノクニ、

と訓ませ(丹後国風土記)、「竜宮」http://ppnetwork.seesaa.net/article/488132230.html?1652812023と重なり、「竹取物語」では、

蓬萊の玉の枝、

が難題として課されたが、

然れば本号は不死山なりしを、郡の名に寄せて、士の山とは申すなり、蓬萊の、境たり(謡曲「富士山」)、

と、富士山とつなげられたりもした。

また、

蓬莱飾り、
蓬莱台、

については、「すはま」http://ppnetwork.seesaa.net/article/473834956.htmlで触れたが、

御前に扇ども数多さぶらふ中に、ほうらいつくりたるをしも選りたる(「紫式部日記(1010頃)」)、

と、

蓬莱山をかたどった台上に、松竹梅、鶴亀、尉姥などを飾って、祝儀や酒宴の飾りものとしたもの、

をいい、

蓬莱山、
蓬莱盤、
蓬莱台、

ともいい、

婚礼や供応などの時の飾り物。州浜台の上に松・竹・梅などを飾り、鶴・亀を配し、尉(じょう)・姥(うば)を立たせたりしたもので、蓬莱山(ほうらいさん)を模した、

すはま、
島台、

とも重なる。「蓬莱飾り」は、主として関西では、

新年の祝儀に、三方(さんぼう)の上に白紙、羊歯(しだ)、昆布などを敷き、その上に熨斗鮑(のしあわび)・勝栗・野老(ところ)・馬尾藻(ほんだわら)・橙(だいだい)・蜜柑などを飾ったもの、

を言う(精選版日本国語大辞典)。

蓬莱台.bmp

(「蓬莱飾り」 精選版日本国語大辞典より)

「すはま」http://ppnetwork.seesaa.net/article/473834956.htmlは、

洲浜台、

で、略して、「洲浜」といい、

洲浜の形に似せて作れる物の台(大言海)、

に、

岩木・花鳥・瑞祥のものなど種々の景物を設けたもの、もと、饗宴の飾り物としたが、のち正月の蓬莱・婚姻儀式の島台として肴を盛るのに用いた、

とある(広辞苑)。

島台.bmp

(「島台」 精選版日本国語大辞典より)

洲浜(すはま)形の台に松竹梅を立て、足元に鶴亀、翁と媼の人形などを飾る置物で古来より不老不死の仙山として信仰される蓬莱山を写し、慶事の祝儀として用いられてきたものだ。特に近世以降は「婚礼」の席に欠かせない調度品として飾られてきたものだという、

とありhttps://karuchibe.jp/read/4476/、貞丈雑記に、

洲濱形に、臺の板を作る、海中の島のすその、海へさし出たる形なるを、洲濱と云ふなり、されば島形とも、洲濱形とも云ふ、其上に肴を盛る也、飾のには、岩木、花鳥などを置く也、

とあり、松屋筆記にも、

島臺は、蓬莱島の造物の臺なれば、サ(島臺と)云ふ也、洲濱など同物成り、

とある(大言海)。守貞謾稿には、

蓬莱、古は正月のみの用に非ず、式正の具と云にも非ず、貴人の宴には、唯、臨時風流に製之、今も貴人の家には、蓬莱の島臺と云、島臺と云は、洲濱形の臺を云也、今世は三都とも蓬莱同制なれども、京坂にては蓬莱と云、或は俗に寶來の字を用るも有り、江戸にては蓬莱と云ず、喰積(くいつみ)と、……今俗は、島臺と、蓬莱は二物とし、島臺は婚席の飾とし、蓬莱は、正月の具とし、其製も別也、

と、蓬莱と島臺が別扱いになっている経緯を書いている。「喰積(くいつみ)」は、

三方などに米、餅、昆布、熨斗鮑、ゴマメ、橙、ユズリハなどの種々の縁起物を飾り、年賀客にも供した、

とあり、これが

重詰め

となったhttps://kigosai.sub.jp/001/archives/9094とみられる。

「蓬」 漢字.gif


「蓬」(漢音ホウ、呉音ブ)は、

会意兼形声。「艸+音符逢(△型にであう)」で、穂が三角形になった草、

とあり(漢字源)。ヨモギの意である。

「莱」 漢字.gif


「莱」(ライ)は、

会意兼形声。「艸+來(ライ 来 むぎ)で、麦に似た雑草、

とある(仝上)。別に、

会意兼形声文字です(艸+來)。「並び生えた草」の象形と「ライむぎ」の象形から「あかざ」を意味する「萊」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji2692.html

「莱」 小篆(説文解字)・漢.png

(「莱」 小篆(説文解字)・漢 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E8%8E%B1より)

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
簡野道明『字源』(角川書店)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

posted by Toshi at 03:30| Comment(0) | 言葉 | 更新情報をチェックする

2022年05月20日

海上の異郷


柳田國男『海上の道』を読む。

海上の道 (岩波文庫 ).jpg


名も知らぬ 
遠き島より
流れ寄る 
椰子の実一つ

で知られる島崎藤村の「椰子の実」が、柳田國男が伊良湖岬(いらごみさき)での体験が元になっていることは、夙に有名だが、日本の海岸に流れ着く椰子の実から、日本列島への、

海上の道、

を構想したところが、本書の冒頭にある「海上の道」である。

「あらゆる穀作にも通じて言えることだが、稲にはことに年久しい観察に養われた、口伝とも加減とも名づくべき技芸が備わっていた。籾種ばかりを只ひょいと手渡しされたところで第一に食べてみることすらできない。単に栽培者が自ら携えてきたという以上に、父祖伝来の経験が集積調和して、これを教訓の形をもって引き継がれなかったら、この作物の次々の改良はさておき、外部の色々の障碍にすらも、対抗することができなかったろう。すなわち最初から、少なくとも或る程度の技術とともに、或いはそれ以外に米というものの重要性の認識とともに、自ら種実を携えて、渡って来たのが日本人であったと、考えずにはおられぬ理由である。」

と鋭い指摘をし、

「私の謂う海上の道、潮がどのように岐れ走り、風がどの方角へ強く吹くかを、もっと確実に突き留めてからでないと断定し難いが、稲を最初からの大切な携帯品と見る限りにおいては、南から北へ、小さな低い平たい島から、大きな高い島の方へ進み近よったという方が少しは考えやすい。」

と、島伝いの伝播を想定した。しかし、今日の考古学の知見では、弥生時代の水田耕作は、たとえば板付遺跡のように、

「農耕具や土木技術などのハードウエアから、豊穣を祈るためのまつりなどのソフトウエアにいたるまで、水田耕作を行うための一式を保持」

して(藤尾慎一郎『日本の先史時代』)、

完成形が突然出現する、

ようにして始まっており(仝上)漸近的に伝わってきたのではないのは、柳田の指摘する通り、水田耕作は一式セットのものだからだ。これは、弥生時代に水田農耕技術をもった弥生人が大挙して渡来してきたことをうかがわせる。溝口優司『アフリカで誕生した人類が日本人になるまで』http://ppnetwork.seesaa.net/article/484577228.htmlで触れたように、

「縄文時代、日本には縄文人が広く分布していましたが、ユーラシアでは、バイカル湖からアルタイ山脈あたりにいた北方アジア系の遊牧民が、中央アジアや北東アジアへ拡散し始めました。そして弥生時代頃になると、彼らの子孫たちが中国北東部や朝鮮半島でも暮らすようになり、その中の一部の人々が西日本に渡来してきた」

ものだと推測される。

ただ日本最古の人類の化石は、沖縄で見つかったとされる、約4万年前のものになる。

「琉球諸島は約20万年前から1万8000年前までの間のかなりの間、台湾を含む細長い陸橋で大陸と地続きになっていたらしいので、東南アジア、あるいは中国南部にいた人々がその陸橋を通って北上してきた」

可能性がある。ただ、この沖縄の化石と、1万6000年くらいから始まる縄文人とはつながらないようである。そして、沖縄本島で見つかった、2万3000~1万8000年前の、

港川人、

と呼ばれる化石は、

「額が狭く、頬骨が横に張り出し、鼻の根元が窪んで、幅広の彫の深い顔立ち」

とされ、

縄文人、

に似ており、「縄文人」は、

「それ以前に日本列島にやってきた旧石器時代人の子孫が主体をなしていた」

と目される。その縄文人に最も似ていたのは、

オーストラリア南東部で見つかった化石、

とされるのは、ユーラシアの端で南と北へ分かれたホモ・サピエンスの一部が、確かに、島伝いに、日本列島にまで到達したということではある。確かに、

海上の道、

はあったが、それは、列島への七つのルート、

朝鮮半島経由、
サハリン島経由、
カムチャッカ半島経由、
台湾、琉球列島経由、
中国南東部から東シナ海経由、
沿海州から日本海経由、

の一つと考えられ(斎藤成也編『図解 人類の進化』)、

旧石器時代人、

は確かに、島伝いに北上したことは間違いはない。

しかし、本書の魅力は、そうした、

海上の道、

ではなく、

海上の仙郷、

の分布の分析ではないか。「竜宮」http://ppnetwork.seesaa.net/article/488132230.html?1652812023で触れたように、本土では、

根の国、
常世の国、

ともいい、

奄美や沖縄などの南島諸島では、海の向こうにあるとされる異世界、

ニライカナイ、

ともいう、

海のかなたの異郷、

の、北から南までの分布の広さは、中国の伝説の、

蓬莱山、

を、

トコヨノクニ、

と訓ませることとも重なり、さらには、

みろくの船、

という、

弥勒出世、

ともからめ、

海上の浄土、

ともつながる奥行きの深さに、圧倒される。そこには、列島の北から南まで共通の、海の方に仙郷をみるという共通の心性、精神構造がある。そこには南から北だけではなく、北から南へも、相互に影響し合う、海上の道があるように見える。

参考文献;
柳田國男『海上の道』(岩波文庫)
溝口優司『アフリカで誕生した人類が日本人になるまで』(SB新書Kindle版)
斎藤成也編『図解 人類の進化―猿人から原人、旧人、現生人類へ』(ブルーバックス)
藤尾慎一郎『日本の先史時代―旧石器・縄文・弥生・古墳時代を読みなおす』(中公新書)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

posted by Toshi at 03:46| Comment(0) | 書評 | 更新情報をチェックする