2022年05月21日
にいなめ
「にいなめ(にひなめ)」は、
新嘗、
とあて、
にひなへの転、
とあり(岩波古語辞典・広辞苑)、
新饗(にひのあへ)の約轉、口に嘗(な)むる意と紛ふべからず、嘗(シャウ)は、支那の秋祭りの名なるを借りれるなり、
ともある(大言海)。中国最古の字書『爾雅(じが)』(秦・漢初頃)釋天篇に、
春祭曰祠(シ)、夏祭曰礿(ヤク)、秋祭曰嘗(シャウ)、冬祭曰蒸(ジョウ)、
とあり、注に、
嘗、嘗新穀也、
とあり、また、班固編『白虎通』(後漢 正しくは『白虎通義』)には、
嘗者、新穀熟而嘗之、
とある(仝上)。「にいなめ」は、
にひなへ、
にはなひ、
ともいい(仝上・岩波古語辞典)、また、「新嘗」を、
シンジョウ、
とも訓ますが、
宮中にて行はせらるる神事、古へは陰暦十一月、下の卯の日(三卯のあるときは中の卯の日 今は陽暦、十一月二十三日)に、其年の新稲を始めて神に奉らせたまひ、主上、御躬(みずから)も聞し召す、
とあり(大言海・精選版日本国語大辞典)、宮中神嘉殿(しんかでん 平安大内裏の中和院(ちゅうかいん)の正殿の称。天皇が神をまつるところ)にて行われるこの儀式を、
新嘗祭(にいなめさい・にいなめまつり・しんじょうさい・しんじょうえ)、
といい、
當年の新稲を以て酒撰を作り、天照大神を始め奉り、普く天神地祇に饗(あ)へ給ひ、天皇御躬らも聞し食し、諸臣にも賜る式典、
で(大言海)、
稲の収穫を祝い、翌年の豊穣を祈願する祭儀、
である(仝上)。なお、天皇の即位の年、一代一度行うのを、
大嘗祭(だいじょうさい・おおにえまつり・おおなめまつり・おおんべのまつり)、
といい、
天皇は新しく造られた大嘗宮の悠紀殿ついで主基殿(東(左)を悠紀(ゆき)、西(右)を主基(すき)という)、
で行う(精選版日本国語大辞典・広辞苑)。一世一度の新嘗であるから、
大新嘗(おおにいなめ)、
ともいう(仝上)。
「にいなめ」は、
古へは、朝家のみならず、民間にもせし饗(あへ)なり、いたく斎み謹みて、神に祭るを主(むね)として、其餘の人にも饗へ、自らも食したるなり。後世、九月日待と云ひ、村村にて鎮守の神の縁日に祝ひ饗することあるは、其遺風なり、
とある(大言海)。
新粟(にひしね 新米)の初嘗(なへ)して、家内諱忌(ものいみ)せり(常陸風土記)、
とあり、
新粟嘗(にひなへ)、
と訓ます(仝上)。
「にいなめ(新嘗)」の語源を、
ニヒ(新設)ノ(助詞)アヘ(饗)の約、新穀を差し上げる神事(岩波古語辞典)、
新饗(にひのあへ)の約轉(大言海・広辞苑)、
ニイナアヘ(新肴饗)の約(日本古語大辞典=松岡静雄)、
と、
にひのあへに関する考証が多く、ニヒが体言を修飾するとき、ノを介さないのが普通だから、
アヘはナヘのnが脱落したとする説(山口佳紀「古代日本語分謗の成立の研究」)、
もある(日本語源大辞典)。「あ(饗)ふ」は、
遭ふの他動詞、待遇の意、
とあり(大言海)、
食物を作ってもてなす、
意であり、その名詞形、
あへ(饗)、
は、新撰字鏡(898~901)に、
佐客、饗於他、
とあり、
饗応、
の意である(岩波古語辞典)
いずれも、多少の差があっても、本居宣長が、
にひのあへ、それを約めてにひなへ、
としたところに由来があるが、万葉集の、
誰ぞ此の、屋の戸押(お)そぶる爾布奈末に、吾が背を遣りて齋(いは)ふ此の戸を、
とあるのには、
爾布奈末(にふなみ)、
とある。だから、柳田國男は、
『書紀』神代巻でも、「新嘗」の文字を用いつつも、天照大神当時新嘗時を、ニハナへきこしめす時と訓ませ、またその新宮をニハナヘノミヤと訓ませていた。『古事記伝』巻八などには、『日本紀』の全巻を通じて、爾波那比、爾波能阿比、爾波那閇、爾波比、爾波閇などの読法があることを列記しながら、独り「爾波那閇」をもって正とし、他はみな正しからずと決定せられたのは、いささか専断のきらいがあった。『書紀』の振仮名はもとより一度に成ったものではなく、歴代の教師の口伝が積り溜まったものであろうが、この数々の不一致こそはむしろ意味があり、後久しからずして公けにも、シンジョウの音読を認められたのも、多分は言葉の本義が夙く失われて、家々の伝えが区々になった結果ともみられる。つまりは本居氏が是をニヒナメの一つに統一せられたのは何の詮もなく、いわば後代の研究者のために、なお発見の喜びを遺されたものと言ってもよい。(『海上の道』「稲の産屋」)、
と批判している。常陸風土記の
初嘗(なへ)して、
で、「嘗」一字で、
にひなめ、
の意となっており、また、『釋日本紀』の私記に、
爾波奈比は嘗也、之を爾波と謂ふなり、
ともあり、「新嘗」の「嘗」の字自体、
新たなる穀物を食べ試みる意味をはじめから持っていた、
とし、
(「新」の字を当てた)ニヒがはたしてその宛て字のごとく、単純なる形容詞の語根であったならば、是にノをつけてニヒノアヘ、それを約(つづ)めてニヒナヘとし、またニヒナメとしたという本居説は、いよいよもってこころもとない……、
としている。『書紀』神武紀には、
天皇、其の厳瓮(いつへ)の粮(おしもの)を嘗(にひなへ)したまひて、兵を勒(ととの)へて出でたまふ。
とあり、「嘗」を、
たてまつる、
なむ、
と訓むこともできるのは確かだが、「嘗(にひなへ)」とみると、
にひなへ、
の「にひ」を「新」とみるのは意味が重複することになってしまう。そこで、柳田は、
にひ、
には、
にふ、
を、折口信夫の、
稲村、
稲積、
と関わらせる説から、
ニホ、
ニオ、
の「ニオ(ニホ)」の転訛を提唱している。「稲積」は、
いなづみ、
とも訓むが、
ニオ、
とも訓ませる。その是非はともかく、「稲積」は、
刈取った稲束を円錐形に積上げたもの、
で、
イナムラ、
イネコズミ、
イナコヅミ、
ホヅミ、
ニゴ、
ミゴ、
ニュウ、
ニョー、
ニョウ、
スズキ、
ツブラ、
ススキ、
等々全国さまざまな異名があり(ブリタニカ国際大百科事典・世界大百科事典)、
今日では脱穀したのちわら束を積上げるワラニオが普通であるが、昔は穂のついたままの穂稲を積み、必要に応じて脱穀したものである。ニオの頂上にはわら帽子をつくっておおう習慣があり、本来ここが稲の収穫を祝う祭場であったらしい、
とある(仝上)。沖縄ではニオを、
シラ、
といい、それがまた産屋(うぶや)とつながることを「稲の産屋」で展開しているが、
刈ったばかりの稲穂のついたままの束を積み上げた場所は、そのまま田の神をまつる祭場、
と考えられ、
ニオ場、
とも呼び、
翌年の穀種が生育するという信仰があった、
とみられ(柳田・前掲書)、「ニオ」は、
新嘗(にひなめ)のニヒ、ニフのほか、ニエすなわち贄の語とも関連する、
ともある(仝上)ので、
神霊に捧げる供物、
という意味があり、頂に、
ワラトベ、
トツワラ、
トビ、
等々と呼ぶわら製の笠形の飾りや屋根をのせる(仝上)。これは、種俵の前後に取り付ける、
桟俵(さんだわら)、
つまり、
俵の両端の口に当てる直径30センチメートルくらいの円形の藁蓋(わらぶた)、
ともつながるように見え(柳田・前掲書)、
物の貴さを標示する一種の徽章、
ではないか、と柳田はみる(仝上)。こうした稲を収穫した後の農民のさまざまな振舞い、思いを背景に考えると、
にひのなへ説、
は、
新嘗、
と当てた漢字の言葉面だけをなぞった軽薄な説だということが見えてくる気がする。
「嘗」(漢音ショウ、呉音ジョウ)は、
会意兼形声。嘗は「旨(うまいあじ)+音符尚(のせる)」で、食べ物を舌の上にのせて味をみること、転じて、試してみる意となり、さらにやってみた経験が以前にあるという意の副詞となった、
とある(漢字源)。「嘗烝(蒸)」という言葉があるが、これは前出の『爾雅(じが)』にある、
春祭曰祠、夏祭曰礿、秋祭曰嘗(シャウ)、冬祭曰蒸、
で、
春の祠、夏の礿、秋の嘗、冬の烝
を、
四祭(しさい)、
四時祭、
という(精選版日本国語大辞典)。別に、「嘗」を、
形声文字です(尚+旨)。「神の気配の象形と屋内で祈る象形」(「請い願う」の意味だが、ここでは、「当(當)」に通じ(同じ読みを持つ「当(當)」と同じ意味を持つようになって)、「当てる」の意味)と「さじの象形と口の象形」(さじで口に食物を流し込む事から、「うまい」の意味)から、「旨い物を舌に当てる」、「味わう」を意味する「嘗」という漢字が成り立ちました、
との解釈もある(https://okjiten.jp/kanji2401.html)。漢字の、
新嘗(しんじょう)、
は、
野露及新嘗(杜甫)、
とあるように、
新穀を廟にすすめて神をまつる、
意である(字源)。「にいなめ」に当てたのは、この故であろう。
参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95