2022年06月01日

したうづ


そのすみは、したうづがたにぞありける(宇治拾遺物語)、

の、

したうづかた、

は、

襪型、

であり、

したうづ、

は、

したぐつの音便、

靴の下に履く足袋、いまの靴下、

とある(中島悦次校注『宇治拾遺物語』)。

「したうづ(したうず)」は、

下沓、
襪、

と当て、

しとうず(しとうず)、

とも言う(広辞苑・岩波古語辞典)。

しとうず   下沓.bmp

(「しとうづ」 『和漢三才図絵』より)

類聚名義抄(11~12世紀)には、

襪、したうづ、

とあり、名目抄(塙保己一(はなわほきいち)編『武家名目抄』)には、

襪、したうつ、

とある。

下履の義、

であり(大言海)、

沓(くつ)を履くときに用いる布帛(ふはく)製の履物(靴下の類)、

だが、

礼服(らいふく)には錦(にしき)、
束帯には白平絹(しろひらぎぬ)、

を用いる。

足袋に似ているが底布・指の分かれはなく、足首につけた紐(ヒモ)で結ぶ、

とある(広辞苑・デジタル大辞泉・学研全訳古語辞典)。なお、「襪」を履くのは、

礼服、
束帯、

の時だけで、衣冠・直衣(のうし)・狩衣などでは穿くことができず、老齢、病気以外、

礼服・束帯以外の装束では素足が基本、

とされる(有職故実図典)。

しとうず.jpg

(「しとうづ」 広辞苑より)

「礼服(らいふく)」は、

隋・唐の制を参考に、大宝(たいほう)の衣服令(りょう)で、朝服に加えて礼服を制定し、養老(ようろう)の衣服令によって改修された、

もので(有職故実図典)、

即位、大嘗祭(だいじょうさい)、元日朝賀等の重要な儀式、

に着用、

文官、武官、女官の別、

さらに、

天皇は冕冠(べんかん 冠の上部に五色の珠玉を貫いた糸縄(しじょう)を垂らした冕板(べんばん 方形の薄い板。両端に連珠の糸縄を一二流(東宮は九流)ずつ垂らす)をつけた)、赤地に竜文の衣、皇太子は黄丹(おうに)の衣、

と定められていた(仝上・百科事典マイペディア)。

冕冠の図.jpg

(冕冠の図。ほぼ同形の実物が皇室御物として伝わる https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%95%E5%86%A0より)

文官の礼服は、

礼服冠(らいふくのかん)、衣(きぬ 大袖の下に小袖)、白袴(しろのはかま 下袴として大口(おおぐち 裾愚痴を括らずひろがっている)を使用)、帯(皇太子は白、他はすべて絛帯(くみのおび))、褶(ひらみ 裳(も)の一種。袴の上から腰にまとう)、綬(じゅ 乳の下から結んで垂れる白の絛帯(くみおび)で、平緒のように組んだもの平組みの帯 五位以上佩用))、玉佩(ごくはい・ぎょくはい 三位以上は付加)、牙(げ)の笏(しゃく)、襪(しとうず)、舃(せきのくつ)、

などからなり、武官の礼服は、

礼冠、緌(老懸 おいかけ)、位襖(いおう 「襖」は、わきを縫い合わせない上衣)、裲襠(うちかけ・りょうとう 長方形の錦(にしき)の中央にある穴に頭を入れ、胸部と背部に当てて着る貫頭衣)、白袴、行縢(むかばき 袴(はかま)の上から着装。「向こう脛巾(はばき)」から転じた)、大刀(たち)、腰帯、靴(かのくつ)、

などからなり(広辞苑・有職故実図典・精選版日本国語大辞典他)、

五位以上の所用で、衣は当色(とうじき 身分や位階に相当した色)によって区別があった、

とある(仝上)。

因みに、「玉佩」は、

腰に帯びるもの。上部及び中間部に金銅の花形の盤を設け、これに五色の玉を貫いた五筋の組糸を垂らし、各組糸の先端にも小さい花形の盤をつける。歩くと沓(くつ)の先端に当たって鳴る、

玉佩.bmp

(玉佩 精選版日本国語大辞典より)

「綬」は、

礼服の付属具。乳の下から結んで垂れる白の絛帯(くみおび)で、平緒のように組んだもの、

綬.bmp

(綬 精選版日本国語大辞典より)


「懸緒」は、

おいかけ(老懸・緌)、

ともいい、

懸緒.bmp

(懸緒 精選版日本国語大辞典より)

冠につけて顔面の左右に覆いかけるもの。馬の尾の毛などで作り、本(もと)を束ね、先端を平らに開いて半月形とし、懸緒(かけお)で左右につけるのを普通とする、

とある(仝上・精選版日本国語大辞典)。

また「舃(せきのくつ)」は、

爪先が高くなっているので「鼻高履」ともいいました。中国からの舶載によるもので、男子用は黒革でつくられ、裏は赤地錦、女子用は錦(にしき)か緑の裂(きれ)でつくられ、金銀で飾りました。いずれも礼服着用の際に用いるもの、

とあるhttp://www.so-bien.com/kimono/syurui/sekinokutu.html。「舃」(セキ)は「履(くつ)」の意である。

舃(せきのくつ) (2).jpg

(舃(せきのくつ)(正倉院蔵) https://ameblo.jp/nanohanacr/entry-12227501323.htmlより)

また、「靴(かのくつ)」は、

靴の沓、

とも当て、

牛革製黒塗の深沓様式で、立挙(たてあげ)を靴氈(かせん)と呼ぶ赤地または青地の錦で飾り、靴の上から足先を統べる靴帯(かたい)という金銅金具の帯をつけ、鉸具(かこ)に責金(せめがね)を入れ、着用後、鉸具によって締めた、

とあり(広辞苑・有職故実図典)、

毛の沓(くつ)、
靴(か)、

ともいう(広辞苑・精選版日本国語大辞典)。本来武官のものだが、平安時代になると文官も使用した(有職故実図典)。なお「沓」については、「水干」http://ppnetwork.seesaa.net/article/485691809.htmlで触れた。

靴の 沓.bmp

(靴(かのくつ) 精選版日本国語大辞典より)

「束帯」は、

飾りの座を据えた革の帯で腰を束ねた装束、

の意(有職故実図典)で、『論語』の公冶長篇の、公西華(字は赤)についての孔子の、

赤也何如(赤や何如)、
子曰、赤也、
束帯立於朝(赤(せき)は束帯して朝に立ち)、
可使與賓客言也(賓客と言(ものい)わしむべし)、

の言葉にある、

束帯立於朝、

に由来するとされ(仝上)、

公家(くげ)男子の正装。朝廷の公事に位を有する者が着用する。養老(ようろう)の衣服令(りょう)に規定された礼服(らいふく)は、儀式のときに着用するものとされたが、平安時代になると即位式にのみ用いられ、参朝のときに着る朝服が礼服に代わって儀式にも用いられ、束帯とよばれるようになった、

とある(有職故実図典・日本大百科全書)。

束帯姿.jpg

(「束帯姿」(『年中行事絵巻』) 『有職故実図典』より)

束帯装束の武官と文官.jpg

(束帯装束の武官と文官 日本大百科全書より)

その構成は、下から、

単(ひとえ 肌着として用いた裏のない衣。地質は主に綾や平絹)・袙(あこめ 「あいこめ」の略。下襲(したがさね)と単(ひとえ)との間に着用)・下襲(したがさね 内着で、半臂(はんぴ)または袍(ほう)の下に着用する衣。裾を背後に長く引いて歩く。位階に応じて長短の制がある)・半臂(はんぴ 内衣で、袖幅が狭く、丈の短い、裾に襴(らん)をつけたもの)・袍(ほう 上着。「うえのきぬ」)を着用、袍の上から腰の部位に革製のベルトである石帯(せきたい)を当てる。袴(はかま)は大口袴・表袴の2種類あり、大口を履き、その上に表袴を重ねて履く。冠を被り、足には襪(しとうず)を履く。帖紙(たとう)と檜扇(ひおうぎ)を懐中し、笏(しゃく)を持つ。公卿、殿上人は魚袋(ぎょたい)と呼ばれる装飾物を腰に提げた、

とあり、武家も五位以上の者は大儀に際して着用した。その構成は、

冠、袍、半臂、下襲(したがさね)、袙(あこめ)、単(ひとえ)、表袴、大口(おおぐち)、石帯(せきたい)、魚袋(ぎょたい)、襪(しとうず)、履(くつ)、笏(しゃく)、檜扇(ひおうぎ)、帖紙(たとう)、

よりなる。文官用と武官用、および童形用の区別がある。文官は、

有襴(うらん 両脇が縫いふさがり,裾に襴(らん 縫腋(ほうえき)の裾に足さばきのよいようにつける横ぎれ。両脇にひだを設ける)がついた)の袍または縫腋の袍とよばれる上着を着て、通常は飾太刀(かざりたち)を佩(は)かぬが、勅許を得た高位の者は儀仗(ぎじょう)の太刀(たち)を平緒(ひらお)によって帯び、

武官は、

冠の纓(えい)を巻き上げて、いわゆる巻纓(けんえい)とし、緌(おいかけ)をつけた緒を冠にかけてあごの下で結んで留める。そして無襴の袍または闕腋(けってき)の袍といわれる、両脇(わき)を縫い合わせずにあけた上着を着て、毛抜形(柄(鉄製)と刀身とが接合され一体となるよう作られている)と称される衛府(えふ)の剣〈たち〉を佩く。弓箭(きゅうせん)を携え、箭(や)を収める具として胡籙(やなぐい)を後ろ腰に帯びる、

とある(仝上・日本大百科全書)。

因みに、「半臂」は、

袍(ほう)や位襖(いおう)の下に着用した朝服の内衣で、袖幅が狭く、丈の短い、裾に襴(らん)をつけたもの、

で、

半臂.jpg

(半臂 デジタル大辞泉より)

「石帯」は、

袍(ほう)の腰に締める帯。牛革を黒漆で塗り、銙(か)とよぶ方形または円形の玉や石の飾りを並べてつける。三位以上は玉、四位・五位は瑪瑙(めのう)、六位は烏犀角(うさいかく)を用いた、

石帯.bmp

(石帯 精選版日本国語大辞典より)

「魚袋(ぎょたい)」は、

朝服である束帯着用のときに腰に帯びる。中国、唐の魚符の制に倣った、朝廷に出入するときの証契(通行証)が装飾品となった。着け方は、普通、石帯の第一、第二の石の間に結んで右腰に下げる、

もので(仝上)、

魚袋.bmp

(魚袋 精選版日本国語大辞典より)

鮫皮で包んだ長方形の小箱の表側に殿上人は銀、公卿は金の小さな魚の形6個、裏側に1個を飾り、その上に紫か緋(ひ)の組紐をつけた、

とあり(仝上・精選版日本国語大辞典)、

金魚袋は三位以上の者が用い、銀魚袋は四位・五位の者が用いた、

という(仝上)。

「襪」 漢字.gif

(「襪」 https://kakijun.jp/page/E643200.htmlより)

「襪」(慣用ベツ、漢音バツ、呉音モチ)、

は、

会意兼形声。「衣+音符蔑(見えない、隠してみえなくする)」。足先を隠す足袋や靴下、

とある(漢字源)。「韈」も同義となる。

「沓」 漢字.gif


「沓」(漢音トウ、呉音ドウ)は、

会意。「水+曰(いう)」で、ながれるようにしゃべることをあらわす。重ね合わせる意を含む、

とある(漢字源)。「靴」の意で使うのはわが国だけである。「鞜」は靴の意である。

「沓」については「水干」http://ppnetwork.seesaa.net/article/485691809.htmlで触れた。

参考文献;
鈴木敬三『有職故実図典』(吉川弘文館)
貝塚茂樹訳注『論語』(中公文庫)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

posted by Toshi at 03:22| Comment(0) | 言葉 | 更新情報をチェックする

2022年06月02日

おほらか


飯(いひ)・酒・くだ物どもなどおほらかにしてたべ(宇治拾遺物語)、
我も、子供にも、もろともに食はせんとて、おほらかにて食ふに(仝上)、

などの、

おほらか、

は、

たっぷりと、

の意である(中島悦次校注『宇治拾遺物語』)。

大から、
多らか、

と当て、

分量の多いさま、
たっぷり、

の意で、

「おほし」+接尾辞「らか」、

からきているhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E3%81%8A%E3%81%BB%E3%82%89%E3%81%8B

おほし、

は、

大し、
多し、

で、

オホ(大)の形容詞形。容積的に大きいこと、また、数量的に多いこと。さらに、立派、正式の意。平安時代に入って、オホシは数量的な多さにだけ使い、他の意味にはオホキニ・オホキナルの形を用いるように分化し、中世末期からオホイ(多)とオホキイ(大)との区別が明確になった。平安時代の仮名文学では、数の多さをいうオホシは連用形オホクの他はオホカリの諸活用形を使い、容積を表すにもオオキナリという終止形は使わない。おそらく、終止形オホシとオホキナリによって数量と容積とを区別することは漢文訓読体の文体的特徴と見られたので、女性語としてはそれを避けたものとみられる、

とあり、「おほし」自体に、

おほき海の水底(みなそこ)深く思ひつつ裳引(もび)き平(なら)しし菅原(すがはら)の里(石川女郎)
御文を面がくしにひろげたり、いとおほしくて(源氏物語)、

と、

容量の多さ、大きさ、

の意から、

所獲の功徳は其の量(はか)り甚だおほけむ(金光明最勝王経平安初期点)、

と、抽象的な、

分量の大きさ、

の意に、さらに、それをメタファに、

酒の名を聖(ひじり)と負(お)ほせし古(いにしへ)の大(おほ)き聖の言(こと)のよろしさ(大伴旅人)、

の、

立派である、

の意で使っている。この「おほし」の意味の幅が、

おほらか、

にもつながっていて、

容量の大きさ、

を、メタファに、

どこの鐘か、おほらかに空に響いて(里見弴『大道無門』)、
おおらかな人柄、

などというように、今日、

ゆったりとしてこせこせしない、
鷹揚、

の意でも使う。ちなみに、接尾語「らか」は、

まだらか、
うららか、
あららか、
あさらか、
なだらか、
たからか、

などと、たとえば、

時となく雲居雨降る筑波嶺をさやに照らしていふかりし国のまはらをつばらかに示し給へば(万葉集)、

と、

擬態語・形容詞語幹などを承けて、見た目に、~であるさま、の意で使う。

とある(岩波古語辞典)。

「大」.gif

(「大」 https://kakijun.jp/page/0321200.htmlより)

「大」(漢音タイ・タ、呉音ダイ・ダ)は、「大樹」http://ppnetwork.seesaa.net/article/487425798.htmlで触れたように、

象形。人間が手足を広げて、大の字に立った姿を描いたもので、おおきく、たっぷりとゆとりがある意。達(タツ ゆとりがある)はその入声(ニッショウ つまり音)に当たる、

とある(漢字源)。

「多」 漢字.gif

(「多」 https://kakijun.jp/page/0660200.htmlより)

「多」(タ)は、

会意。夕、または肉を重ねて、たっぷりと存在すること、

とあり(大言海)、いずれも会意文字としつつ、

夕(=肉)」を重ねて数多いことを意味するhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%A4%9A
夕+夕。「切った肉、または、半月」の象形から、量が「おおい」を意味する「多」という漢字が成り立ちましたhttps://okjiten.jp/kanji156.html
夕の字を二つ重ねて、日数が積もり重なる、ひいて「おおい」意を表す。一説に、象形で、二切れの肉を並べた形にかたどり、物が多くある意を表すという(角川新字源)、

と、微妙なニュアンスの差はあるが、

夕、または肉説、

をとる。

「多」 甲骨文字・殷.png

(「多」 甲骨文字・殷 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%A4%9Aより)

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

posted by Toshi at 03:13| Comment(0) | 言葉 | 更新情報をチェックする

2022年06月03日

かせぎ


身の色は五色にて、角の色は白き鹿(しか)一(ひとつ)ありけり。深き山にのみ住て人に知られず、……また烏あり、此かせきを友として過ごす(宇治拾遺物語)、

の、

かせき、

は、

鹿の異名、

とある(中島悦次校注『宇治拾遺物語』)が、

越国白き鹿(カセキ)一頭(ひとつ)を献れり(「日本書紀(720)」推古紀)、
一箇蒜(ひとつのひる)を白きかせぎに弾きかけ給ふ(景行紀)、

と、多く、

かせぎ、

といい、

鹿の古称、

である(岩波古語辞典・精選版日本国語大辞典)。

弓で鹿を仕留める源経基を描いた『貞観殿月』.jpg

(弓で鹿を仕留める源経基(月岡芳年『貞観殿月』「月百姿」) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%83%9B%E3%83%B3%E3%82%B8%E3%82%ABより)

この由来を、雄の頭部の樹枝状の、

角が桛木(かせぎ)に似ているところから(デジタル大辞泉・広辞苑)、

と、

角桛木に似たれば名とす、桛は工字型を成すに、古製なるは、両端、外に反りたり、空也の徒の桛杖(かせづえ)は、頭に鹿角をつけたり、

ともある(大言海)。「桛杖(かせづえ)」は、

鹿杖、

とも当て、

鹿の角を頭につけた杖、空也上人の徒が創めたものという、

とある(広辞苑)。

わさづの(わさ角)、
杈椏杖(またぶりづえ)、

ともいう(精選版日本国語大辞典)。

空也上人像の鹿の杖.jpg

(空也上人像の鹿の杖(六波羅蜜寺) https://kamakurakannon.fc2.net/blog-entry-3752.htmlより)

「桛木(かせぎ)」は、

紡錘(つむ)でつむいだ糸をかけて巻く工字形の木。織機に付属して、経(たていと)を巻いておくもの、

で、

かせ(桛・綛)、

ともいい(「桛」「綛」は国字)、

紡錘つむで紡いだ糸を巻き取るH形またはX形の道具、

ともある(デジタル大辞泉)。

今日でも、「糸巻とり」を、

かせくり器、

と呼んでいる。

桛木紋.bmp

(「桛木紋」 精選版日本国語大辞典より)

その形状は、「桛木」を図案化した「桛木紋」から推定できるが、どうも、鹿の角には見えない。

「桛杖(かせづえ)」は、上述したように、空也の徒の、

鹿の角を頭につけた杖、

の意もあるが、

鹿杖をつきてはしりまはりておこなふなりけり(宇治拾遺物語)、

と、

鹿杖、

あるいは、

鹿背杖、

とも当て、「鹿の角を頭につけた杖」とは逆に、

末端が叉(また)になった木の杖、

で(広辞苑)、

杈椏杖(またぶりづえ)、
わさづの、

あるいは、

帷(かたびら)計を着て中結て足駄を履て杈杖と云物を突て(今昔物語)、

と、

杈杖、

ともいう(精選版日本国語大辞典)。

杈椏杖(またぶりづえ).bmp

(杈椏杖(またぶりづえ) 精選版日本国語大辞典より)

また、

鹿杖、
あるいは、
杈椏杖(またぶりづえ)、

は、

末端が叉(また)になった木の杖、

の意の他に、

木の杖の上端に手をそえる架(かせ)を設けたもの、

であるため、別に、

杖の頭の丁字形をしたもの、

を、

鐘を打つ撞木(しゅもく)の形状に似るところから、

撞木杖、

ともいう(仝上)。取手の丁字形と杖先の叉(また)がセットになったものが多かったからであろうか。

撞木杖(しゅもくづえ).bmp

(撞木杖(しゅもくづえ) 精選版日本国語大辞典より)

しかし、撞木杖は、能の小道具でもあり、

頭の部分が丁字形をした杖、

であり、

検校および別当以上に用いることを許された、

とある(精選版日本国語大辞典)。ただ、同じく、

かせづえ、

ともいうのがややこしいし、また、

先に突きやすくするための叉(また)を設けたもの、

も、空也の徒の、

鹿の角を上端につけた杖、

も、ともに、皆、

杈椏杖(またぶりづえ)、
鹿杖、
桛杖(かせづえ)、

という(精選版日本国語大辞典)のは、まぎらわしい。というか、結構いい加減な使い方なのである。

しかし、この、

末端が叉(また)になった木の杖、

の、

杈椏杖(またぶりづえ)、

こそ、

桛木(かせぎ)、

とつながっていると思える。

確かに、平安後期の『散木奇歌集』(源俊頼家集)に、

山に遊び歩きけるに、鹿のひしる(叫ぶ)聲のしければ、

として、

桛(かせ)かけてひしる牡鹿の聲聞けば狙ふ我身ぞ遠ざかりぬる

とあり、「かせぎ」と「桛木」との関連が根深い気がするが、「杈椏杖(またぶりづえ)」を、

先に突きやすくするための叉(また)を設けたもの、

をいうところから気づくのは、「桛木」「桛(かせ)」には、

大猿ありければ、木に追ひのぼせて射たりけるほどに、あやまたずかせぎに射てけり(「古今著聞集(1254)」)と、

と、

木の股(また)、

の意味、また、

股のある木で作って、柱などが傾くのを支え、または物を高い所へ上げるのに用いるもの、

の意味もあることである。「さすまた」http://ppnetwork.seesaa.net/article/484234894.htmlで触れたように、

「さすまた」は、

杈首叉(さすまた)の義、

とあり(大言海)、「杈首(さす)」は、

叉手、

とも当て、「こまねく」http://ppnetwork.seesaa.net/article/484220493.html?1636055164で触れたように、

杈首股、

と当て、訛って、

さんまた、

といい、それに、

三脵、
三叉、

と当て(広辞苑・大言海)、また、

みつまた、
またふり、
またざお、
さまた、
脵棹(またざお)、

等々ともいう(仝上)。この古名「またふり」は、

杈椏に山橘作りてつらぬき添えたる枝に(源氏物語)、

と、

杈椏、

と当て(大言海)、

またぶり、

ともいい(岩波古語辞典)、和名類聚抄(平安中期)には、

杈椏、末太布里、

字鏡(平安後期頃)には、

萬太保利、

とあるように、

またほり、

ともいい(大言海)、

木や竿のさきを二またにしたもの、

を、

杈杖(またふり)、

という。つまり、

杈椏杖(またぶりづえ)、

の、

杈椏(またぶり)、

は、この、

叉(また)になった木の枝、

に由来するのである。

「鹿」を「かせぎ」といった、

かせぎ、

は、この、

杈杖(またふり)、
杈椏(またふり)、

の意の、

桛木(かせぎ)、

からきているのではあるまいか。この形は、「桛木」の持つ意味の、

末端が叉(また)になった木の杖、

の、

桛杖(かせづえ)、

つまり、

杈椏杖(またぶりづえ)、

とも重なる。だから、「かせぎ(鹿)」の由来を、

枝の三またになったところを切って柱などのカセに用いるさんまたぎ(三又木)をカセギといい、鹿の角がそれに似ているところから(擁書漫筆・比古婆衣)、

とするのは、まさにそれなのである。

花札10月札.jpg

(花札(10月札) 「もみじ(紅葉)」と「鹿」 https://www.tengudo.jp/blog/karuta-news/368.htmlより)

ただ別の視点から見ると、「鹿」の古名には、「かせぎ」のほか、和名類聚抄(平安中期)に、

鹿、加、

とある、

妻恋ひに鹿(か)鳴く山辺の秋萩は露霜寒み盛り過ぎゆく(万葉集)、
秋さらば今も見るごと妻恋ひに鹿(か)鳴かむ山そ高野原の上(仝上)、

という、

か(鹿)、

がある。これは、

鳴く声を名とす、「カヒヨとぞ鳴く」などいふ(大言海・広辞苑・松屋筆記・雅語音声考)、

とされる(日本語源大辞典)。「鹿」は、

ししおどり(鹿踊)、
ししおどし(鹿威)、

というように、

肉・宍(しし)」と同語源、

で、和名類聚抄(平安中期)に、

肉、之之、肌膚之肉也、

とあり、

二、三食用の獣類を、日本語でシシといった、

と(柳田國男『一目小僧その他』)、

猪(いのしし)や鹿など食肉用の野獣の総称、

で、

ゐのしし(豬の肉)

と区別して、

是の日に鹿(カノシシ)有て忽に野中より起(お)きて、民の中に入て仆れ死せぬ(仁徳紀)、

と、

かのしし(鹿の肉)、

といった。この「か(鹿)」に鑑みると、

かせぎ、

の「か」を「鹿」と考え、

カセキ(鹿柵)の意(和訓栞)、

と、「せき」を別に考え、

「か(鹿)」+「せき」

とする説もあり得る。「せき(柵)」が妥当とは思わないが、たとえば、「せく」には、

塞く、

があり、

セシ(狭)と同根、

とある(岩波古語辞典)。角からそう考える説も、まんざら憶説とばかりは言えない気がする。

ニホンジカ.jpg


「しか(鹿)」http://ppnetwork.seesaa.net/article/461284450.htmlについては触れたが、「しか」は、

其(かの)苞苴(ほうしょ つと)は何の物そ。対へて言はく、牡鹿(シカ)なり。問ひたまはく、何処(いつこ)の鹿(シカ)そ(仁徳紀)、

と、

めか(女鹿)にたいしていうせか(夫鹿・雄鹿)の転、

とされる(広辞苑・大言海・万葉集講義=折口信夫・日本語源広辞典・精選版日本国語大辞典)。この場合も、「か(鹿)」から考えられている。「鹿」の古名、

かせぎ、

もまたその可能性はある。

女鹿(めか)に対す、かせぎと云ふも、鹿夫君(かせぎみ)なりと云ふ、

とある(大言海)のも、「か(鹿)」から考える「か+せぎ」とする別説といえる。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

posted by Toshi at 03:19| Comment(0) | 言葉 | 更新情報をチェックする

2022年06月04日

かひ


大なる銀の提(ひさげ)に銀のかひをたてて、おもたげにもてまゐりたり(宇治拾遺物語)、
御膳まゐるほどにや、箸、かひなど、とりまぜて鳴りたる、をかし(枕草子)、
侍、かひに飯をすくひつつ、高やかに盛り上げて(今昔物語)、

などとある、

かひ、

は、

匙、杓子の類、

とある(中島悦次校注『宇治拾遺物語』)。

因みに、「ひさげ」は、「とっくり」http://ppnetwork.seesaa.net/article/474699082.htmlでも触れたが、

提子、

と当て、

金属にて鍋の如く造り、酒を盛りて盃に注ぐ器、注口あり、鉉(つる)有りて提(ひさ)ぐべし、

とあり、『類聚名義抄』(11~12世紀)に、

提、ひさげ、

『類聚雑要抄(るいじゅうぞうようしょう)』(平安時代後期)に、

提一口三升納、

とある(大言海・日本大百科全書)。

さて、「かひ」は、

匙、
匕、

と当て、

食物をすくう具、

つまり、

さじ、

の意である(広辞苑)。平安時代には、「かひ」が使われているが、

さじ、

の呼称は鎌倉時代の茶道の隆盛以降で、「茶匙」(さじ)の文字があてられ、銀、銅、陶磁器、木、竹などを材料とした、

とある(ブリタニカ国際大百科事典)。

和名類聚抄(平安中期)に、

匙、匕、和名賀比、所以取飯也、

字鏡(平安後期頃)に、

枸(杓の誤か)、杯也、加比、
匕、薬乃加比、

ともある。その由来は、

もと貝殻を用いたところから(デジタル大辞泉)、
貝の転用、古く実際に貝を使った(岩波古語辞典)、
その形が貝に似ていることから(和訓栞・名言通・和訓栞)、
古く貝殻を用いていたところから(精選版日本国語大辞典・国語大辞典)、

等々、

貝(かひ)、

とするものがある一方、

殻(かひ)を用ゐたるに起これるか、形の似たるにより云ふか、沖縄にて、匙をケエと云ふ(大言海)、

と、

殻(かひ)、

とするものもある。「たまご」http://ppnetwork.seesaa.net/article/481618276.htmlで触れたように、

かひ、

に当てるものには、

卵、
殻、
貝、

等々あり、「貝」は、

介、

とも、

殻、

とも当てる(岩波古語辞典)。「貝(かひ)」は、和名類聚抄(平安中期)に、

貝、加比、水物也、

とあり、

殻(カヒ)あるものの義、貝(バイ)の字はこやすがひなり(大言海)、

であり、「卵(かひ)」も、

殻(かひ)あるものの義、

であり、「殻(かひ)」は、和名類聚抄(平安中期)に、

殻、和名與貝(かひ)、同虫之皮甲也、

類聚名義抄(11~12世紀)に、

稃、イネノカヒ、

とあるように、

卵(かひ)、貝(かひ)などすべて云ふ(大言海)、
米のもみ殻(岩波古語辞典)、

と「殻」のあるものを指す(大言海・岩波古語辞典)。だから、

貝(かひ)、

も、

殻(かひ)、

に収斂する。因みに、「匙」を、

さじ、

と訓ませるのは、

茶匙の字音から(広辞苑・日本釈名)、
茶匙(さじ)は音訳(「茶」のサは唐音、「匙」のジは呉音)(漢字源)、
茶匙(さじ)の字音、匙(ヒ)、匕(ヒ)は、同じくして、飯杓子(めしじゃくし)なり、其形を、小さく作りたるものとおぼしく、茶録に、茶匙見えてあれば、元来は、末茶の用の物なりしを、種々の物にも用ゐることとなれるならむ(大言海)、
「さ」は「茶」の漢音で、「さじ」は「茶匙」の字音(日本語源大辞典)、

等々とあり、

飯杓子の如くして、小さきもの、

であり(大言海)、

中世の茶道、香道では「香匙(きょうじ)」、

といった使い方をするし、

匙を投げる、

は、

調剤用の匙を投げ出す意、

から、

医者がこれ以上治療の方法がないと診断する、
医者が病人を見放す、

となる(日本語源広辞典・精選版日本国語大辞典)。

「匙」 漢字.gif


「匙」(漢音シ、呉音ジ、慣用ヒ)は、

会意兼形声。是(シ・ゼ)は「まっすぐなさじ+止(足)」の会意文字で、匙の原字。のち「これ」という意の指示詞や、是非の是に用いられるようになったため、匕印(すきまに差し込むさじ)を添えた匙(シ)の字によって、原義を表すようになった。匙は「匕+音符是」、

とある(漢字源)。別に、

象形文字です。「匕」は「妣(ヒ)」の原字です「年老いた女性」の象形から、「亡き母」を意味する「匕」という漢字が成り立ちました。また、「比(ヒ)」に通じ(同じ読みを持つ「比」と同じ意味を持つようになって)、「亡き父と並ぶ人」の意味も表します。更に、箸(はし)と並ぶもの「さじ(スプーン)」の意味をも表すようになりました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji2824.html

「匕」 漢字.gif


「匕」(ヒ)は、

象形。匕は、「妣(ヒ 女)」の原字で、もと細かいすき間をはさみこむ陰門をもった女や牝(めす)を示したもの。匙(シ)の字に含まれる。また、この字全体を二またのスプーンを描いた象形文字と見てもよい。先端が薄くとがり、骨と肉とのすき間に差し込める食事用のナイフ。少しくぼみをつけるとスプーンともなり、もっぱら切り突くのに用いれば匕首(あいくち)となる、

とある(漢字源)が、「牝鶏の晨す」http://ppnetwork.seesaa.net/article/487851012.htmlで触れた、「牝」(漢音ヒン、呉音ビン)の字の、

会意兼形声。「ヒ」(ヒ)は、女性の姿を描いた象形文字で、妣(ヒ 女の先祖)の原字。牝は「牛+音符ヒ」で、めすの牛。女性の性器が左右両壁がくっついて並んださまをしていることからでたことば、

とあり(漢字源)、

「尼」「牝」の「ヒ」形は女性器を象ったものだが、さじの意の「匕」とは別源、また「化」「死」「北」等の「ヒ」形は人を象ったもので、これも別源・別形、

とあるhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%8C%95のと比較した時、上記「匕」の解釈では、「匕」(ヒ)が「ヒ」(ヒ)と重なっていて矛盾するような気がする。

「匕」 金文・殷.png

(「匕」 金文・殷 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%8C%95より)

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

posted by Toshi at 03:16| Comment(0) | 言葉 | 更新情報をチェックする

2022年06月05日

わらすべ


あるにもあらず手ににぎられたる物をみれば、わらすべといふ物ただ一筋にぎられたり(宇治拾遺物語)、

の、

わらすべ、

は、

わらしべ、

の転訛、

藁稭、

と当て、

わらしび、

とも訛るが、

稲の穂の芯、

の意で、

わらくず、
わらみご、

ともいい、その意味では、

藁の細いもの、

の意の、

わらすぢ(藁筋)、

とも重なり、「わらすぢ」は、

わらしべ、

の意でも使う(広辞苑・日本語の語源)。「しべ(稭)」は、『和玉篇』(室町初期)に、

筵、わらしべ、

とあり、

藁の穂の芯、

の意で(広辞苑)、

藁のしべをまはりにさし入れて、かねを隔てて、頸もちぎるばかり引きたるに(徒然草)、

と、「しべ」は、

藁蘂の義(大言海)、

とあり、いわゆる、

蘂、
蕊、
蕋、

と当てる「しべ」、和名類聚抄(平安中期)の、

蕊、和名之倍(しべ)、花心也、

とある、

花蕊、

つまり、

おしべとめしべの総称、

と繋がっている。「しべ」は、

シメ(締)の転、総べ括る意か(大言海)、
シメスベの略で、花の中心を占める義(本朝辞源=宇田甘冥)、
心辨の音か(和訓栞)、

等々諸説あるが、いずれにしても、

芯、

の意なので、本来は、

にごり酒などをしべの先にて請けのみ(狂言・夷毘沙門)、

と、

藁の穂の芯、

の意になるが、広く、

打藁のくず、
くずわら、

の意でも使う(広辞苑)。だから、

わらみご(藁稭)、

の「みご」は、

稭、
稈心

と当て、

藁の外側の葉や葉鞘(はざや)を取り除いた茎の部分、

を意味する(デジタル大辞泉)。因みに、「稈」(カン)は、

稲、竹などのイネ科植物を主とする単子葉植物の茎、

を指す(精選版日本国語大辞典)。「みご」は、

身子の義、

ともあり(大言海)、

みご箒、

ということばがあるように、

穂を着くる茎を云ひ、強靭にして種々の用に供せられる、

とある(仝上)。

稲藁の束.jpg

(稲藁の束 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%81より)

「藁」は、江戸後期の箋注和名抄に、

藁、和良、禾莖也、

とあり、

和和良にて、散乱の義(大言海)、
ワラワラから(日本語源=賀茂百樹)、
ばらばらにする意の、ワラ(散)クルから(国語の語根とその分類=大島正健)、
バラバラのバラの転bara→ wara(日本語源広辞典)、

などとあるように、

ばらばらの状態、

を表現する擬態語由来と見られ、

玉に貫き消(け)たず賜らむ秋萩の末(うれ)わわらばに置ける白露(万葉集)、

と、

ほつれ乱れた葉、
やぶれそそけた葉、

の意の

わわらば、

という言葉もある。もっとも、「わわらば」は、別に、

玉に貫き消たず賜(たば)らむ秋萩の末(うれ)和久良葉に置ける白露、

と、

和久良葉(わくらば)、

ともあり、諸本は、

和々良葉、

とあって、多く、

わわらば、

と訓ませるが、諸説ある(精選版日本国語大辞典)、ともあるが。

「かひ」http://ppnetwork.seesaa.net/article/488608272.html?1654280160で触れたことと重なるが、「かひ(殻)」は、類聚名義抄(11~12世紀)に、

稃(もみがら)、いねのかひ、

とあるように、

貝(かひ)、卵(かひ)などすべて(の殻に)いふ、米のもみ殻をも云ふ、

ので、

藁の穂の芯、

という意味で、

から(殻の莖・幹)の転、kwaraのkの脱落でwara(日本語源広辞典)、

も捨てがたいが。

「藁」 漢字.gif


「藁」(コウ)は、

会意兼形声。「艸+音符稾(コウ 立ち枯れ)で、きびやこうりゃんのたちがれ、

とある(漢字源)。どうやら、

きびがら(黍殻)、

を指したらしい。別に、

形声文字です(艸+高+木)。「並び生えた草」の象形と「高大な門の上の高い建物の象形(「高い」の意味だが、ここでは「確」に通じ(「確」と同じ意味を持つようになって)、「堅い」の意味)と大地を覆う木の象形」(木が堅くなる「枯れる」の意味)から、枯れた草「わら」を意味する「藁」という漢字が成り立ちました、

との解釈もあるhttps://okjiten.jp/kanji2716.html

「稭(すべ)」 漢字.gif


「稭」(カイ・カツ)は、

皮を取り去った藁、

の意であり、「わらしべ」である。それによってつくった「筵」の意でもある。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

posted by Toshi at 03:13| Comment(0) | 言葉 | 更新情報をチェックする

2022年06月06日

過渡


アリス・アンブローズ編(野矢茂樹訳)『ウィトゲンシュタインの講義―ケンブリッジ1932~1935年』を読む。

ウィトゲンシュタインの講義 ケンブリッジ.jpg


本書は、アリス・アンブローズとマーガレット・マクドナルドの聴講ノートをもとにした、1932~1935年の間のウィトゲンシュタインの講義記録である。この直後から『哲学探究』を書き始めるという意味で、この四年は、

「ウィトゲンシュタインの施策が中期から後期へと成熟していく時期」

にあたる(訳者あとがき)、とされる。

『論理哲学論考』http://ppnetwork.seesaa.net/article/488074547.html?1652639171は、

「世界が私の世界であることは、この言語(私が理解する唯一の言語)の限界が私の世界の限界を意味することに示されている。」

と、

言語は世界を写す像である、

とし、そのために、

「世界のあり方は、命題によってはじめて描写されるのであり、すなわち、諸対象の配列によって、はじめて構成されるからである。」

と突き詰め、

「世界の意義は世界の外になければならない。世界の中ではすべてはあるようにあり、すべては起こるように起こる。世界の中には価値は存在しない。」

のとなり、

「命題は(倫理という)より高い次元をまったく表現できない。」

ので、結局、

「語りうること以外は何も語らぬこと。」
「語りえぬものについては、沈黙せねばならない。」

へと行き着いた。このシンプルな現実の写像では、アナログの微妙な現実の揺らぎが捉えられるはずもなく、みずから、

「帰結するということがすべての場合に同一であるような計算を与えた。だが、それは誤りだった。」(1932~33年)

と認めた後の、ウィトゲンシュタインの悪戦苦闘が本講義となっている。自問自答するような講義に、自分だったらとてもついてはいけないが、このノートの筆記者のひとり、編者のアリス・アンプローズは、

「この期間はウィトゲンシュタインの哲学において、そしてまた哲学の歴史そのものにとって、革命的な時」

といっている(日本語版序文)。それは、『論理哲学論考』の、

現実の言語化(現実をことばにする)、

から、本書の、

言語のゲーム化(言葉の規則を作る)、

へ、そして『哲学探究』の、

言語の現実化(ことばが世界を成す)、

へと、

ことば、
規則、
認識、

のすべてが180度ひっくり返っていくプロセスの、本書は、まさしく、

過渡、

にある。本書では、

言語ゲーム

という言葉を使い始め、さらにそのルールを、

ゲームの規則、
文法、
文法規則、
方法、
定義、
計算体系、
適用の体系、

とさまざまに言い換えながら、淳淳と説いていく。その微妙な変化を跡づけてみると、まず、

「(チェスの)ある駒を動かす規則が変えられるとき、[それは端的にチェスならざる別のゲームになってしまい、もはや]そのゲームが変化するとも言えなくなるだろう。」(仝上)

「数学において新しい方法を見出すことは、そのゲームを変化させることになる。」(仝上)

「言語ゲームは論理を理解するときの手掛かりを与える。[とすれば、]われわれが命題と呼ぶものは[そうした言語ゲームの多様性に随って]多かれ少なかれ恣意的なのであるから、われわれが論理と呼ぶものもラッセルやフレーゲの考えていたものとは異なった役割を果たすことになる。」(仝上)

とある。この言い方には、『論考』における削ぎ落したような、例えれば、

0と1、

で言い切っていくような鋭角性は見られず、かなり幅広く揺れ動く。まず、

「ある言明が意味をなすことを示すには、それがいかにして検証されうるのか、その言明で何が為されうるのかが言われなければならない。あるモデルに倣って作られているからといって、それだけから、ある文がゲームの一部になるわけではない。われわれは適用の体系を与えねばならない。
 『それの検証は何か』という問いは『いかにしてそれを知りうるのか』のよい言い換えとなっている。そしてこの『いかにしてそのようなことを知りうるのか』という問いは、『その意味は何か』という問いとは無関係だと言う人もいる。しかし、ある答えがその[問われている命題の]意味を与えるのは、その命題と他の命題との関係を示すことによってなのである。すなわち、その命題が何から帰結し、その命題から何が帰結するかを、その答が示すことになる。それはその命題の文法を与える。そして、『それが真であるとはいかなることなのだろうか』という問の求めるものは、この文法なのである。」(仝上)

と、こうして「文法」に焦点が当たる。だが、まだここには、現実との対応の尻尾を引きずっているように見える。

「『ゲーム』という語の定義を与えることが不可能であるように、命題の一般的定義も与ええないのである。なぜならば、われわれがいかなる境界を引こうとも、それは恣意的なものとなるだろうから。われわれは、つねに、特定の事例に即すやり方で命題について語る。というのも、特定のゲームについて語る以上に一般的に命題を語る方法はないからである。」(仝上)

「奇妙なことに、言語をゲームとして考えるとき、語の使用はあくまでもゲームの内側にあるが、他方その意味はゲームの外側にある何ものかを指示しているように思われてしまう。もしそうであるならば、『意味』と『使用』とは等しくないということになるだろう。たが、これは誤解を招くものでしかない。」(黄色本、1933~34)

等々と、すこしずつ、ゲームが自立し、文法は、現実との関係を切って、自立し始める。

「ある仮説に従えば楕円を描くとされているある惑星が、実際にはそうではなかったとしてみよう。われわれはそのとき、その惑星に作用している未発見の別の惑星があるに違いない、というだろう。だが、われわれの軌道の法則が正しいのであり、ただそれに作用している惑星が見つかっていないだけなのだと言うか、あるいはわれわれの軌道の法則の方がまちがっていると言うかは、任意である。ここにわれわれは仮説と文法法則との間の移行を見出す。観察が何であれ、近くに惑星があるのだと言うならば、われわれはこれを文法規則として提出しているのであり、それはいささかも経験を記述していない。」(仝上)

「われわれは命題に対しては実用的であるとか非実用的であるとか言いはしない。『実用的』や『非実用的』という言葉は規則を特徴けるものなのであり、ゲームの規則は真であったり僞であったりするものではない。だが、いまわれわれは仮説に対してこの二組の語の両方とも用いている。ある仮設を誤りであるという人もいれば(他のことがらに修正を加えたくない場合)、それを実用的でないと言う人もいる(他のことがらが修正できると認めた場合)。ある文が仮説として用いられるのか文法規則として用いられるかを決めることは、あるゲームがチェスなのか、あるいは、ゲームのある段階で新規則が導入される点がチェスと異なるようなチェスの変種であるのかを決めることに似ている。その段階に達するまでは、見ただけではいずれのゲームが行われているのかを言うことはできないのである。」(仝上)

規則と仮規則の幅は、チェスかチェスの亜種かの幅になるが、いずれにしても、規則がゲーム(とゲームの仕方)を変える。

「規則に従ってゲームをプレイすることと、たんに遊んでいることとの間にあらゆる種類の中間的事例がある。そしてそれはわれわれの言語においても同様である。ある語の使用を観察したあとで、その規則がはっきりする場合もあり、また、依然としてはっきりしない場合もある。『持ち上げることができる』、『たっぷりした食事をとることができる』、『がまんして退屈な人につきあうことができる』、こうした文における『できる』の使用を考察せよ。人々はこれらのすべてに共通の何かがあると言う。だが、そうではなく、それらの使用に見られる類似性は重なり合っているだけなのである。」(1934~35年 ミカエル祭学期)

この類似性の幅は、後期の「家族」と呼ばれる概念につながっていくように見える。たとえば、

「『……することができる』、『……の仕方を理解している』、『どう続ければよいか知っている』、これらの表現は、(例えば数列の場合)実際的には同じ文法をもっている。1、3、7、15、という数列が与えられ、ある人がその先をどう続ければよいか知っているとしよう。そのとき彼には心的状態やイメージといったものが生じているだろうが、それはけっしてつねに同一なのではなく、類似している、すなわち家族として似ているというものであるだろう。続け方を知っているときに起こっていることは数えきれないほどあり、そのすべてが一つの家族を作っているのである。(中略)そして『AがかくかくのことをすればAは理解しているのだ』とわれわれが正当に言えるという事実は、……(この)文が、定義と同様に、文法規則であることを示している」(仝上)

という。ここにあるのは、もはや、

言語は世界を写す像である、

という切り立った一本杉のような、

言語・世界関係ではなく、まさに、180度ひっくり返ったような、

知っている、
理解している、
できる、

というそれぞれが、

そのすべてが一つの家族を作っている、

のであり、そして、

「規則は観念から帰結するものではない。それは観念を分析しても得られない。規則が観念を構成するのである。規則は語の使用を示している。」(仝上)

こう言い切った時、うろ覚えなので、『哲学探究』で、正確にこうウィトゲンシュタインが書いていたかどうか自信はないが、

ひとはもっている言葉によって見える世界が違う、

という認識に転換していく兆しが見える。

規則が、観念を構成し、

やがて、

視界、

をも決める。だから、

知っている、
理解している、
できる、

は、類似性の家族をなしながら、

知っている、
のと、
理解している、
のと、
できる、

のとでは、その言葉から見えるものは微妙な差異がある。そこが180度違う所以である。

ただ、まだ、「ゲーム」は、

「そこで、言語のより原初的な例、すなわち私が『言語ゲーム』と呼ぶもの(それはほとんどの場合、『原始的言語』と同義である)を調べてみることはきわめて有意義なこととなる。これは、ちょうど原始的算術がわれわれの算術に対してもつのと同様の関係をわれわれの原語に対してもっている。」(仝上)

というように、言語の文法生成のモデル程度としか位置づけられていない箇所もあり、たとえば、

「命令を遂行する過程と命令の理解とには、同じ多様性があるからである。重要なのはこの多様性の共用なのであり、けっして両者が[見掛け上]類似しているという事実ではない。ここでわれわれが扱っているシステムは三つある。すなわち、(1)言語表現のシステム、(2)像のシステム、(3)行為のシステム。そしてこの三つはすべて同じ多様性をもっている。理解が存するためには、第二のものと第三のものが同じである必要はない。だが、(2)と(3)の事例は同じ多様性をもっていなければならない。かくして、何ものも余計ではない。われわれはここで、言葉から像へと導き、像から行為へと導く投影関係をもっているのである。」(仝上)

というように、言語表現を、

投影関係、

といった関係づけで、「現実を写す」尻尾を引きらなくては整理できていないように見える。『探求』でなら、極端かもしれないが、

言語に(なすべき)行為が見える、

というのではないか。

「論理は数学の命題の一般形式を与えるという考えが打ち壊されるのは、命題に対する、あるいは論理に対する唯一の観念のごときものなどありはしないと見てとられるときである。人は多くのものを命題と呼ぶ。この点を見てとるならば、ラッセルとフレーゲの抱いていた考え、論理とはある対象――命題、関数、論理定項――についての科学にほかならず、論理は動物学のごとき自然科学であって、動物学が動物について語るように、論理はこれらの対象について語るのである、という考えも捨て去ることができるだろう。」(1934~35年 四旬節學期)

という回りくどい説明には、まだ断定しきれていない歯切れの悪さがある。そして、ようやく、

「ラッセルとF・P・ラムジーは、われわれが[偶然に]出くわしうる[あらゆる]可能なことがらのために論理を用意しておくことがある意味で可能であると考え、また、[個々の場面での]分析の結果を受け入れるために、ある[一般的]体系を構成することができると考えた。われわれが二項ないし三項関係――それらに対しては事例をもっている――から始め、さらにまだ事例をもっていない三七項関係に対してもその計算を用意したと主張することは、可能である。[ところが]われわれは、[事例をもっていなかった] aRbの事例を[初めて]見出したとき、いまやaRbが適用されうる現象を見出したのだ、と考えてしまいがちである。だが、われわれが見出したのは、[体系の適用例たる事実ではなく、]ただ、われわれの言語においてaRbのようにふるまう語というにすぎない。aRbの事例が見出される前にも、その語は言語の内に存在しえただろう。ある関係を構成することは、現象を見出すことには依存していない。ある語ゲームを発見することは、事実を発見することとは異なっているのである。」(仝上)

に至って、完全に逆転し始めている。むしろ、

言葉がaRbの現象を(現実に)見出した、

のである。それは、

ある語ゲームを発見することは、事実を発見することとは異なっている、

からなのである。そして、まだ「範例」という言葉を使っているが、

「『愛』という語に内容をあたえるためには、必ずしも愛し合っている二人を発見しなくともよい。見出されるべきはむしろ範例なのであり、そして範例はわれわれの言語の側に属しているのである。範例がその語に意味を与えている、と言ってもよい。だが、いかなる意味で? ゲームを拡大するという意味で。範例を取り入れることによってわれわれはゲームを変える。われわれはその語に意味を与える現象を見出したのではなく、一つの計算を作ったのである。」(仝上)

と、むしろ、

「愛」という言葉が愛し合っている二人を見出す、

のである。例は悪いが、「パワハラ」という言葉を知ったから、

パワーハラスメント、

が見えてくる、ということである。

「(二つの集合の)『Aの数=Bの数』という言明は『一対一対応がつけられていると言うことには意味がある』を意味するものだというのであれば、そのとき同数性の主張は文法の命題ということになり、実在についてはなにも語っていないものとなる。『その要素が幾何学的に対応づけられているならば、10×10=2×50である』という主張は、文法の命題なのである。それは世界についての命題ではない。」(仝上)

つまり、

規則がゲームを定める、

ということ、要は、

そういう文法で世界を見る、

ということなのだ。すでに、『哲学探究』の世界へと足を踏み出している。

なお、『論理哲学論考』http://ppnetwork.seesaa.net/article/488074547.html?1652639171については触れた。

参考文献;
アリス・アンブローズ編(野矢茂樹訳)『ウィトゲンシュタインの講義―ケンブリッジ1932~1935年』(講談社学術文庫)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

posted by Toshi at 03:15| Comment(0) | 書評 | 更新情報をチェックする

2022年06月07日

紙衣


もとは紙ぎぬ一重ぞきたりける。さて、いとさむかりけるに(宇治拾遺物語)、

とある、

紙ぎぬ、

は、

紙衣、

と当て、

かみこ、
かみころも、
かみきぬ、

などと訓み、

紙子、

とも当て、

かみこ、

ともよませる。

紙製の衣服、

の意で、

生漉(きすき・きずき 楮(こうぞ)、三椏(みつまた)、雁皮(がんぴ)などを用い、他の物をまぜないで、紙を漉くこと)の腰が強い、

とされる(日本大百科全書)、

かみこ紙と云ふ一種の白き紙、

を(大言海)、糊(のり)で張り合わせ、着物仕立てにした、

保温用の衣服、

で(広辞苑・岩波古語辞典)、

紙を糊で張り合わせて、その上に柿渋を引いたりするため、紙自体がこわばりやすいので、これを柔らかくするために、張り合わせたあと、渋を引いてから天日で乾燥させ、そのあと手でよくもんで夜干しをする。翌日また干して、夕刻に取り込み、再度もむ。これを何回か繰り返して、こわばらないように仕上げ、

て(日本大百科全書)、

渋の臭みを去ってつくった

とある(広辞苑)。もとは、

律宗の僧が用いた、

が、後には一般の貧しいものの、

防寒用、

となり、元禄(1688〜1704)の頃には、

肩・襟などに金襴・緞子などをもちい、種々の染込みなどをした贅沢品も作られ、

遊里などでも流行した(広辞苑・岩波古語辞典)、とある。糊は、

江戸時代にはワラビの根からとったものであり、現在はこんにゃく糊を使用する、

とある(日本大百科全書)。

渋を用いずして白き、

を、

白紙子、

といい、

破れやすい部分には別に、

火打(ひうち)、

という三角形の紙を貼る(大言海)、とある。古代から僧衣として用いられ、その伝統を引いて今日も、奈良・東大寺の二月堂の修二会(しゅにえ)の際に着用されている(日本大百科全書)。

紙子四十八枚、

という言葉がある。「紙衣」は、

胴の前後に二十枚、左右の袖に四枚、裏に二十四枚の紙を用いて作る、

からである(岩波古語辞典)。もっとも、

身上は紙子四十八枚ばらばらとなつて(西鶴織留)、

というように、紙子を着る貧しさをいう喩えとして言うのだが。

さて、「紙衣」は、漢語で、

しい、

と訓ませると、

紙の衣、死者に用いる、

とあり(字通)、宋史・棲真伝に、

食はざること一月、~十二月二日を以て、紙衣を衣(き)て磚塕(せんたふ)に臥して卒(しゆつ)す。~歳久しきに及んで、形生けるが如し。衆始めてき、傳へて以て尸解(しかい 仙化の一、人がいったん死んだのちに生返り、他の離れた土地で仙人になること)と爲す、

とある(仝上)。ために、古く、

紙衣、

を、訛って、

しえ、

といったhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%99%E8%A1%A3らしい。

紙子.jpg

(「紙子」 広辞苑より)

「かみこ」は、

紙衣(かみころも)の略か、紙小袖(かみこそで)の略か、

とあり(大言海)、古くは、

かみぎぬ、

といい、中世末から、

かみこ、

と呼ぶようになった(日本語源大辞典)。

古へ、麻布なりしに起こる(大言海)、

という、

布子(ぬのこ)、

綿の入った、

綿子(わたこ)、

などのように「こ」は愛称(日本語源大辞典)と思われる。

「紙衣」は、

秀吉公、白紙子の御羽折、紅梅の裏御襟(続武家閑談)、

とあるように、貴賤を問わず着用しており、豊臣秀吉の小田原出陣の際には、

駿河宇津山にて馬の沓の切れたのを見た石垣忠左衛門という者が沓を献じたところ、秀吉手ずから紙衣の羽織を賜わった、

とあり(一話一言)、必ずしも貧者のみのものではなかったが、

綴り詫びたる素紙子(すがみこ)や、垢に冷たきひとへ物に(宿直草)、

と、

近世以降、安価なところから貧しい人々の間で用いられたもののようである。「素紙子」は、

すかみこ、

とも訓ませ、

柿渋を引かないで作った安価な紙子、

で(デジタル大辞泉)、

白紙子、

ともいい、

安価なところから貧乏人が用いた(精選版日本国語大辞典)。

また、紙衾(かみぶすま・かみふすま)、

というものもあり、

紙子作った粗末な夜具、

で、

槌(う)ちたる藁を綿に充(あ)て、紙を外被(かは)として、蒲団に製せるもの、

で(大言海)。別に、

天徳寺(てんとくじ)、

ともいうが、江戸時代、

江戸西窪、天徳寺門前にて、売りたれば名とす、

とある(仝上)。

日向ぼこりを、天道ぼこりと云ひし如く、日の暖なるを、天徳寺と云ふ、寺にかけて、戯として云ひしかと云ふ。紙衾は隠語とす。戯とは、どうしだもんだ、広徳寺の門だの類、

とある(仝上)。幕末の守貞謾稿には、

天徳寺、江戸困民、及武家奴僕、夏紙張を用ふ者、秋に至りて賣之、是にわらしべを納れて周りを縫ひ、衾として再び賣之、困民奴僕等、賈之て布團に代りて、寒風を禦ぐ也、……享保前は是を賣歩行く、享保以来廃して、今は見世店に賣るのみ、

とある。確かに、

紙子賣、

が居て、

引賣りやもみぢの錦紙子賣(誘心集)、
時なるを紙子賣る聲初時雨(柳亭筆記)、

などと、

初冬の頃、市中を売りて歩くを業とする者、

が居た。また、

紙子頭巾(かみこずきん)、

というのは、

紙子紙(かみこがみ)で作った頭巾、

で、防寒用であったが、浪人などが多く使用した(精選版日本国語大辞典)。

紙子羽織(かみこばおり)、

というものは、紙子の羽織。金襴や緞子などを施した奢侈品もあったが、多くは、

安物で貧乏人が着用した、

とある(仝上)。

なお、「紙子」には、

紙子着て川立ち、
紙子着て川へ陥(はま)る、

などと、

無謀なことのたとえ、

としていう諺もある。

「紙」 漢字.gif


「紙」http://ppnetwork.seesaa.net/article/465665211.htmlで触れように、「紙(帋)」(シ)の字は、

会意兼形声。氏は匙(シ さじ)と同じで、薄く平らなさじを描いた象形文字。紙は『糸(繊維)+音符氏』で、繊維をすいて薄く平らにしたかみ、

とある(漢字源)。別に、

会意兼形声文字です(糸+氏)。「より糸の象形」と「鋭い刃物で目を突き刺しつぶれた目の象形」から繊維の目をつぶして、平たくなめらかにした「かみ」を意味する「紙」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji369.html

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

posted by Toshi at 03:05| Comment(0) | 言葉 | 更新情報をチェックする

2022年06月08日

衲(のう)


ひきいでたるをみれば、ふくたいといふ物を、なべてにも似ず、ふときいとして、あつあつとこまかにつよげにしたるをもてきたり(宇治拾遺物語)、
その蔵にぞ、ふくたいのやれ(破れ)などは、をさめて、まだあんなり(仝上)、

とある、

ふくたい、

は、異本には、

たいといふもの、

とある(中島悦次校注『宇治拾遺物語』)とある。

たい、

は、和名類聚抄(平安中期)に、

玄弉三蔵表云、衲袈裟一領、俗云能不(のふ)、一云太比(たひ)、

とあり(仝上)、

衲(のう)、

つまり、

衲衣(なふえ・のうえ 納衣)、

言い換えると、

衲袈裟(なふげさ・のうげさ)、

の意味ではないかとし、「ふくたい」を、

服体(和訓栞)、
腹帯、
服衲、

とさまざまに当てる説があるとした上で、

胴着、

と見ている(仝上)。「衲(のう)」は、旧仮名遣いで、

なふ、

と表記し、

暑げなるもの 随身の長の狩衣。衲(のふ)の袈裟。出居(いでゐ)の少将(枕草子)、

とある、

衲の袈裟、

つまり、

衲衣、

の意であり、それを提喩として、

僧、

の意で、僧自身が、

小衲、
拙衲、

と使ったり、僧を、

衲僧、
衲子(のっす)、
老衲、
野衲(やのう)、

と言ったりする。「衲」には、

補綴、

の意があり(広辞苑)、「衲衣」は、

衲子(のっす)の行履(あんり)、旧損(くそん)の衲衣等を綴り補うて捨てざれば、物を貪惜(とんじゃく)するに似たり(正法眼蔵随聞記)、

と、

朽ち古びたぼろ布を集め綴って作った法衣(ほうえ)、

を意味する。「衲衣」は、

納衣、

とも当てるが、佛祖統紀(咸淳五年(1269) 南宋・僧志磐撰)の慧思傳、注に、

五納衣、謂、納受五種舊弊以為衣也、俗作衲字失義、

とあり、

納に作を正しとなす、

とある(大言海)。大乗義章(だいじょうぎしょう 慧遠(523~92年)著)に、

言納衣者、朽故破弊縫納供身、

とあり、

人の捨てて顧みざる布帛を繕い集めて作れる法衣、

である(大言海)。

衲袈裟、
糞掃衣(ふんぞうえ)、

とも言い、

比丘は、これを着するを十二頭陀行の一とする故、それを着る僧の称、

ともなる(仝上)。因みに、

糞掃衣残闕、

が東京国立博物館に残っている。この糞掃衣は、

不定形なさまざまな色の平絹を何枚か重ね合わせ、細かく刺し縫いして七条の袈裟に仕立てている。裂の表面は、ちょうど小波(さざなみ)がたったように波皺(なみしわ)状にみえ、一部には表面が擦れて下から別色の裂がわずかにのぞき、これらが相互に相まって微妙な色合いを呈し、一種独特な雰囲気を醸し出している、

とあるhttps://emuseum.nich.go.jp/detail?langId=ja&webView=null&content_base_id=100636&content_part_id=000&content_pict_id=000。「七条の袈裟」とあるのは、

二長一短の七条の袈裟、

をさし、

古くは布きれや使い古しの布を継ぎ合わせて作られていました。そのため、小さい面積の布を数枚継ぎ合わせたものを縫製して仕立てます。この継ぎ合わせた一枚を条といいます。腰に巻きつけるだけのものは、

五条袈裟、

と言われ、5枚の布から作られます。条は5~25までの枚数を用いて袈裟を縫製しますが、奇数の枚数のみが使われます。条の数が大きくなると、それだけ一条の幅が小さくなります。

二長一短、

というのは、2枚の長い布と1枚の短い布を組みあわせて、七条に継ぎ合わせてあるという意味です、

とあるhttps://en-park.net/words/7926

「糞掃衣」というのは、

サンスクリットのパンスクーラpāsukūlaの訳、

で、

糞塵(ふんじん)中に捨てられた布を拾い集めてつくった袈裟。袈裟として、もっとも理想的なもので尊重される、

とある(日本大百科全書)。しかし、

衲衣と同一にみるのは中国に至ってからで、インドではまったく区別されている、

とあり、衣財(えざい)は、貪著(どんじゃく)の心を除くための衣財で

10種の衣があり、牛嚼(ごしゃく)衣、鼠噛(そこウ)衣、焼衣、月水(がっすい)衣、産婦衣、神廟(しんびょう)中衣、塚間(ちょうけん)衣、求願(ぐがん)衣、受王職衣、往還衣(おうげんえ)、

をあげている(「四分律(しぶんりつ)」)。同一視されてからは、糞掃衣は、

衣財についての名称、

衲衣は、

製法についての名、

としているようで(仝上)、「衲衣」は、

衣財(えざい)を細小に割截(かっせつ)し、縫納してつくるところから、

いい、5種の衣財(有施主衣、無施主衣、往還(おうげん)衣、死人衣、糞掃衣)による衲衣を、

五納衣、

という(仝上)ともある。

ちなみに、「法衣(ほうえ)」とは、

如法(にょほう)の衣服の略称、

で、

法服、
僧服、
僧衣、
衣(ころも)、

ともいい、

僧尼が着ける衣服、

で、インドにおける意味は、截しない一枚の布では、欲望がおこるため、それを小さく切り、一枚の長い布と短い布をつなぎ合わせて1条とし、

安陀会(あんだえ 5条つないだもの(布を10枚縫い合わせる))、
鬱多羅僧衣(うったらそうえ 7条つないだもの(布を21枚縫い合わせる))、
僧伽梨衣(そうぎゃりえ 9~13条は長い布を二枚、短い布を一枚、15~19条は三長一短、21~25条は四長一短に区画。25条衣は125枚の割截した布が必要)、

の、

三衣(さんえ・さんね)、

をさし、

安陀会(あんだえ)、

は、寺内で掃除など雑行のときに着用し、もっとも身近に着けた。

鬱多羅僧衣(うったらそうえ)、

は、

誦経(じゅきょう)したり講義を聞くときに着用し、

僧伽梨衣(そうぎゃりえ)、

は、宮や集落に入って乞食(こつじき)説法するときに着用した(日本大百科全書)。

一枚の方形の生地に仕立てた、

ので、

方衣、

ともいう。仏制に衣と称するのは、

袈裟、

の意だが、後世に袈裟と衣とを分けて、袈裟を、

三衣、

と称し、

衣、

と別物とした(啓蒙随録)とあるhttp://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E8%A2%88%E8%A3%9F

「袈裟」は、

カーシャーヤ(kāṣāya)の音訳、

で、

赤褐色、

を意味する(仝上)、

仏教修行者と他宗教の修行者とを見分けるために定められた制服、

である(仝上)。だから、もとは、

色名で、衣の名称ではなかったが、比丘の衣が不正色(ふせいじき 濁色)であったところから衣の名となった、

という(日本大百科全書)。その形は、

田の畦畔(けいはん)が整然としているのから、長い布と短い布をつなぎ合わせてつくった、

とあり、袈裟の条相が田の畦(あぜ)をかたどっており、田に種を播(ま)けば秋に収穫があるように、仏を供養(くよう)すればかならず諸々の福報を受ける、

という意味から、袈裟は、

福田衣(ふくでんえ)、

ともいわれる(仝上)。

ただ、後世、上半身を覆う、

偏衫(へんざん)、

腰より下をまとう、

裙子(くんず)、

上下を一つにした、

直裰(じきとつ)、

等々僧の身に着けるものすべてを仏法の衣服として法衣(ほうえ)と称したので、インドの仏教教団で着用した袈裟とはかなりかけ離れたものに変わっている(仝上)。

ちなみに、「衲衣」は、

十二頭陀行(「頭陀」はdhūta の音訳。払い除くの意)、

の一つとされるが、それは、

衲衣・但三衣・常乞食・不作余食(次第乞食)・一坐食・一揣食・住阿蘭若処・塚間坐・樹下坐・露地坐・随坐(または中後不飲漿)・常坐不臥、

となる。本来は、「乞食」http://ppnetwork.seesaa.net/article/454711838.htmlで触れたように、

衲衣、

ではなく、

糞掃衣、

なのかもしれない。

「衲」 漢字.gif

(「衲」 https://kakijun.jp/page/E5D3200.htmlより)

「衲」(漢音ドウ、呉音ノウ)は、

会意兼形声。「衣+音符内(中に入れ込む)」、

で、「繕う」意だが、

破れ目を縫い込めた衣、

の意から、

僧侶の衣服の意、

とある(漢字源)。

「納」 漢字.gif


「納」(漢音ドウ、呉音ノウ、唐音ナッ・ナ・ナン、慣用トウ)は、

会意兼形声。内(ナイ)は「屋根のかたち+入」の会意文字で、納屋の中に入れ込むこと。納は「糸+音符内(ナイ)」で、織物を貢物としておさめ、蔵に入れ込むことを示す、

とある(漢字源)が、

形声。糸と、音符內(ダイ)→(ダフ)とから成る。しめった糸の意を表す。転じて「いれる」意に用いる、

とも(角川新字源)、

会意兼形声文字です(糸+内)。「より糸」の象形と「家屋の象形と入り口の象形」(「いれる・はいる」の意味)から、水の中に入れひたした糸を意味し、そこから、「おさめる」、「入れる」を意味する「納」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji986.html

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

posted by Toshi at 04:05| Comment(0) | 言葉 | 更新情報をチェックする

2022年06月09日

しなしなし


凡そけだかくしなしなしう、をかしげなる事、ゐ中人(なかびと)の子といふべからず(宇治拾遺物語)、

にある、

しなしなし、

は、

上品で、

の意とある(中島悦次校注『宇治拾遺物語』)。「しなしなし」は、普通、

田舎びたるされ心もてつけて、しなじなしからず(源氏物語)、

と、

しなじなし、

といい、

品々し、

と当て、

いかにも品格が高い、
上品である、

という意で使う(広辞苑・岩波古語辞典)。

品格、

を、

しな、

と訓ませるのと繋がっている(大言海)。

品、

を、

しな、

と訓ませると、

品、
科、
階、

と当て、

階段のように順次に高低の差別・序列のあるもの、転じて、序列によって判定される物の良否、

の意味で(岩波古語辞典)、

層をなして重なったもの、

の、

階段、
種類、
地位、
品位、
巧拙、
事の次第、

といった意味の幅がある。「品」を漢語の音で訓んで、

品がある、

というのは、漢字のもつ意味からきているが、

しなじなし、

には、「品」を大宝令で、「三品(さんぼん)の親王」というように、一品(いっぽん)から四品(しほん)まで、親王に賜った位がある。この「品」のもつ意味の翳がある気がする。

なお、似ているが、

五体をも弱弱と、心に力を持たずして、しなしなと身をあつかふべし(「花鏡(1424)」)、

の、

しなしな、

は、

しなやかなさま、

で、

靭(しな)ひ、撓む状に云ふ語、

とある(大言海)ように、

撓(たわ)む、

意の、

しな(撓)ふ、

からきている。その転訛したのが、

萎れる、

意の、

しな(萎)ぶ、

とある(仝上)。ただ「しなふ」は、

しなやかな曲線を示す意、類義語たわむは加えられた力を跳ね返す力を中に持ちながらも、押され曲がる意、しなう(萎)は萎れる語で別語、

ともある(岩波古語辞典)。確かに、

しな(撓)ふ、

しな(萎)ぶ、

では、語意も語感も異なる気がするが、「しなしな」には、上記の、

心に力を持たずして、しなしなと身をあつかふべし(花鏡)、

の、

しないたわむさま、

の意が、江戸時代になると、

おかねや、其様にしなしなして居ちゃァならねへヨ(人情本「氷縁奇遇都の花(1831)」)、

と、

張りのないさま、
元気のないさま、

の意で使い、

「しなやか」「しなふ」の語幹を重ねた語、

とある(江戸語大辞典)ように、「しなしな」が、

しな(撓)ふ→しな(萎)ぶ、

と、意味が変化したようなのである。だから今日、擬態語、

しなしな、

は、

柔らかく弾力があって撓んだり身をくねらせる、

意と共に、

張りがなく、しぼんでいる様子、

の意があるが、

しなしなになっていく、

という言い方で、今日、

しぼむ、

意で使うことが多い(擬音語・擬態語辞典)とある。もはや、両者を別語とは見なしていないようである。

「品」 漢字.gif

(「品」 https://kakijun.jp/page/0929200.htmlより)

「品」(漢音ヒン、呉音ホン)は、

会意文字。口三つを並べて、いろいろの名の物をあらわしたもの。一説に、口ではなく、四角い形三つでいろいろな物を示した会意文字、

とある(漢字源)。「物品」「品級」「人品」「品評」などと使う。別に、

会意。口(しなもの)を三つ並べて、区別して整理された多くの物、ひいて、しなわけ、物の値うちの意を表す、

とも(角川新字源)、

会意文字です(口+口+口)。「色々な器物」の象形から、とりどりの個性を持つ「しな」を意味する「品」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji535.html

「品」 恍惚文字・殷.png

(「品」 恍惚文字・殷 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%93%81より)

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

posted by Toshi at 03:11| Comment(0) | 言葉 | 更新情報をチェックする

2022年06月10日

零落した神


柳田國男『一目小僧その他』を読む。

一目小僧その他.jpg

本書には、大まかにわけて、

一目小僧、
目一つ五郎考、
鹿の耳、

の御霊信仰、

橋姫、

の橋姫信仰、

隠れ里、
魚王行乞譚、
物言う魚、

の神霊譚、

流され王、
ダイダラ坊の足跡、

の異種神信仰、

餅白鳥に化する話、
熊谷弥惣左衛門の話、

の霊異信仰、

が掲載されている。一言で言うなら、

「一目小僧は多くの『おばけ』と同じく、本拠を離れ系統を失った昔の小さい神である。」(「一目小僧」)、
「それが次々にさらに畏き神々の出現によって、征服せられ統御せられて、ついに今日のごとく零落するに至ったので、ダイダばかりか見越し入道でも轆轤首でも、かつて一度はそれぞれの黄金時代を、もっていたものとも想像し得られるのである。」(ダイダラ坊の足跡)、

などというように、

信仰の対象であったものが零落し、妖怪と目されるようになっていく事例、

ということになる。その信仰が残っている間は、

伝説、

として語られる。もとは神聖なる神話であったかも知れないが、信仰の零落に伴って、伝説から信仰が失われると、やがて、

語り物、
あるいは、
昔話、

の形式となって語りつがれてゆくことになる(「物言ふ魚」)。

「説話と伝説との分界を、明らかにすることがことに必要である。説話は文芸だから、おもしろければ学びもしまねもしよう。伝説に至ってはとにかくに信仰である。万人がことごとく欺かれ、または強いられて、古きをすてて新しきに移ったとは思えぬ。外国の教法がこの土に根づくために、多くの養分日光をここで摂取したごとく、伝説もまたこれを受け入れて支持する力が、最初から内にあったがゆえに、これだけの発展をとげることが可能であったかも知れぬのである。伝説から信仰が失われると、あるものはやがてそれが語り物、あるいは昔話の形式となって語りつがれてゆく。」(魚王行乞譚)

だから、「日本伝説目録㈠」と名づけて、若き著者が、抜書き、整理したもののメモに、

「明に虚構と認めらるゝは如何におもしろくとも採らずただ迷信によりて伝はれるをのこし外国伝説のつくりかへ又とらず」

とあるという(小松 和彦「新版解説」)のも、その原則が早くから著者の基準にあったという証なのだろう。だから、
たとえば、

江戸本所の七不思議の一つ、足洗いという怪物、

というような、

「昔話にも、何か信仰上の原因があったのではないか」

と思う、とし、

「深夜に天井から足だけが一本ずつ下がる(という足洗という怪物も)。これを主人が裃で盥を採って出て、うやうやしく洗いたてまつるのだというなどは、空想としても必ず基礎がある。洗わなければならなかった足は、遠い路を歩んできた者の足であった。すなわち山を作った旅の大神と、関係がなかったとはいわれぬのである。」(ダイダラ坊の足跡)、

と推測するのである。また、たとえば、

「たいていは雨のしょぼしょぼと降る晩、竹の子笠を被った小さい子供が、一人で道を歩いているので、おうかわいそうに今ごろどこの子かと追いついてふり返ってみると、顔には目がたった一つで、しかも長い舌を出してみせる」(「一目小僧」)、

という、

一目小僧、

も、

「自分は主として一目の怪が、山奥においてその威力を逞しくしている事実に着眼して、実は最初にこれと昔の山の神の信仰との関係を、探ってみたいと思っているところなのである。
 かく申せば何か神を軽しめて、一方には妖怪に対し寛大に失するように評する人があるか知らぬが、いずれの民族を問わず、古い信仰が新しい信仰に圧迫せられて敗退する節には、その神はみな零落して妖怪となるものである。妖怪はいわば公認せられざる神である。」(仝上)、

という問題意識から、

「ことによると以前はこれも山神の眷属にして、眇目ということを一つの特徴とした神の、なれの果てではないかと推測し、他の方面にも神の片目という例はないかどうか、あるならどういう様子かということを、参考のために調べてみるだけである。(中略)神様が一方の目を怪我なされたというのは、存外に数多い話である。」(仝上)

といった検索を経て、縷々事例を分析し、

「何か上代の天目一神(あめのまひとつのかみ)神話から筋を引いてるものがあるのではないか」(仝上)

などと勘案しつつ、

「(同じ例は多いが)いずれも水の神が魚のみか人の片目なる者をも愛し選んだという証拠であって、それはもちろん食物としてではなく、たぶんは配偶者、少なくとも眷属の一人に加える場合の、一つの要件のごときものであったのである」(目一つ五郎考)

として、

「一目小僧は多くの『おばけ』と同じく、本拠を離れ系統を失った昔の小さい神である。見た人がしだいに少なくなって、文字通りの一目に絵にかくようにはなったが、実は一方の目をつぶされた神である。大昔いつの代にか、神様の眷属にするつもりで、神様の祭の日に人を殺す風習があった。おそらくは最初は逃げてもすぐつかまるように、その候補者の片目をつぶし足を一本折っておいた。そうして非常にその人を優遇しかつ尊敬した。犠牲者の方でも、死んだら神になるという確信がその心を高尚にし、よく神託予言を宣明することを得たので勢力を生じ、しかもたぶんは本能のしからしむるところ、殺すには及ばぬという託宣もしたかも知れぬ。とにかくいつの間にかそれがやんで、ただ目をつぶす式だけがのこり、栗の毬や松の葉、さては矢に矧(は)いで左の目を射た麻、胡麻その他の草木に忌みが掛かり、これを神聖にして手触るべからざるものと考えた。」(一目小僧)

と推測していくのである。この成れの果てが、全国に散らばる、

片目・片足の怪物・妖怪、
片目の魚、

等々の説話として残ったと見たのである。

この仮説の是非も、その後の検証がなされたかどうかは知らないが、大胆な説である。

この説でふと思い出したが、戦国期、村同士の自力救済による抗争や戦国領主との対抗時、あらかじめ後処理の時の責任を取らせる犠牲者を決めておく、というのを読んだ記憶がある。村の貧しいものか、余所からの流れ者か、いずれにしても、その家族の面倒を後々まで村で見ることを約束して、そういう役につけたという。どこか、この「一目」の生贄に似た、村々の民の発想の底流のような気がしてならない。

なお、柳田國男の『遠野物語・山の人生』http://ppnetwork.seesaa.net/article/488108139.html、『妖怪談義』http://ppnetwork.seesaa.net/article/488382412.htmlについては別に触れた。

参考文献;
柳田國男『一目小僧その他』(Kindle版)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

posted by Toshi at 03:07| Comment(0) | 書評 | 更新情報をチェックする

2022年06月11日

したなき


まめやかにさいなみ給へば、殿上の人々したなきをして、みなわらふまじきよしいひあへり(宇治拾遺物語)、

にある、

したなき、

は、

舌鳴、

と当て、

恐れるさま、

とある(中島悦次校注『宇治拾遺物語』)が、あまり辞書には載らない言葉で、ネットで検索しても、

下泣き、

は出るが、

舌鳴、

は出ない。わずかに、

舌鳴き、
舌哭き、

と当てて、

舌打ち、

の意としている(岩波古語辞典・広辞苑)。

上記の宇治拾遺の引用は、

青常(あをつね)の君、

などと陰であだなして嗤っているのを父の重明親王が、

まめやかにさいなみ給ふ、

つまり、

真顔で咎めた、

のだから、

舌打ち、

というよりは、

恐縮した、

という意味の方が近い。

「舌打ち」は、

舌を上あごに当てて、弾き鳴らす、

ことで、

失敗して舌打ちする、

というように、

思うようにならない時や、いまいましいときのしぐさ、

なのだが、小動物の注意を引くなどの行う場合は「舌打ち」とは呼ばれずに、

舌を鳴らす、

などと呼ばれることも多いともあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%88%8C%E6%89%93%E3%81%A1

「舌鳴」は、語の意味からいうと、

舌で鳴く、

舌が鳴く、

で、本来は、

舌打ち、

の意だったのだろうと、推測できる。その意味では、

心の中では承服していないが、親王に咎められたので不承不承したがった、

という含意なのかもしれない。「舌鳴き」に近い言葉に、

この為体(ていたらく)にした振ひ、慌しく船を返して(弓張月)、

と、

舌をふるふ、

という言葉がある。

舌を振ふ、

と当て、

兵どもこれを聞いて物も云はず、舌を振りて怖(お)ぢあへり

舌を振る、

ともいい、

恐れおののく、

意であるが、これだと、少し強すぎるようだが、この方が文脈に適う気がする。。

「舌」 漢字.gif


因みに、

天だむ軽のをとめの甚(いた)泣かば人知りぬべし波佐の山の鳩の下泣きに泣く(古事記)、

とある、

下泣き、

は、

まめやかに六借(むつか)らせ給ひければ、殿上人共皆したなきをして(今昔物語)、

と、

隠(しの)びて泣く、

つまり、

忍び泣き、

の意で、

「した」は心の意(デジタル大辞泉・広辞苑)、
シタは隠して見せない意(岩波古語辞典)、
心泣(したなき)の義(大言海)、

などとされる。「下」http://ppnetwork.seesaa.net/article/463595980.htmlは、

「うは」「うへ」の対。上に何か別の物がくわわった結果、隠されて見えなくなっているところが原義。類義語ウラは、物の正面から見たのでは当然見えないところ。シモは、一連の長いものの末の方をいう、

とあり、

その上や表面に別の物が加わっているところ、

の意で(岩波古語辞典)、

内側、
物の下部、

の意があり、

隠れて見えないところ、

の意で、

物陰、
(人に隠している)心底、

という意味がある。これは、「うらなう」http://ppnetwork.seesaa.net/article/452962348.htmlで触れたように、「心=裏」とする説に通じ、

ココロ(心)はココロ(裏)の義。ココロ(神)はカクレ(陰)の義(言元梯)、
諸物に変転するところから、コロコロ(転々)の義(百草露)、
ココはもとカクス・カクル(隠)の語幹カクと同源のカカ。本来隠れたもの・隠しているものの義(続上代特殊仮名音義=森重敏)、

等々とあり、

下泣き、

を、

心泣(したなき)、

としたのとつながる。だから、大言海は、

した、

に、

下、
舌、

とは別に、

心、

を当てる「した」を一項立て、

胸の下の義か、

とし、

したにのみ恋ふれば苦し紅の末摘花の色に出でぬべき(古今集)、

と、

心の底、
心中、
心裏、

の意としている。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

posted by Toshi at 03:11| Comment(0) | 言葉 | 更新情報をチェックする

2022年06月12日

した


「した」に当てるのには、

下、
舌、
簧、

がある。「下」http://ppnetwork.seesaa.net/article/463595980.htmlについては触れた。ここでは、

舌、
簧、

である。「舌」は、言うまでなく、

大きなる鹿、己が舌を出して、矢田の村に遇へりき(「播磨風土記(715頃)」)、

と、

口腔底から突出している筋肉性の器官。粘膜に覆われ、非常によく動き、食物の攪拌(かくはん)・嚥下(えんげ)を助け、味覚・発音、をつかさどる、

口中の器官の一つであり、

べろ、

あるいは、方言では、

したべろ(舌べろ)、
したべら、
したびろ、

などともいう(広辞苑・デジタル大辞泉)。和名類聚抄(平安中期)には、

舌、之太、

とある(大言海)。

鐙.bmp

(「鐙の舌(あぶみ) 精選版日本国語大辞典より)

この、「舌」をメタファに、

舌状をしているものの総称、

として、たとえば、

鐙の舌、

と言うように使う。また、同じように、

雅楽器の笙(しやう)・篳篥(ひちりき)などの竹管のそれぞれのもとにつけられている廬舌(ろぜつ)、つまりリードと呼ぶ吹き口から息を吐きまた吸って、振動させる、

のを、特に、

簧の字をしたとよむ、笙篳篥に通ずる歟(「塵袋(1264‐88頃)」)、
宇殿の芦名物にて、ひちりきの舌にもちゆ(「謡曲拾葉抄(1741)」)、

などとあるように、

簧、

と当て(岩波古語辞典・精選版日本国語大辞典)、和名類聚抄(平安中期)に、

簧、俗云之太、

類聚名義抄(11~12世紀)に、

簧、シタ、笙舌、

色葉字類抄(1177~81)に、

簧、シタ、中舌也、於管頭、横横施其中也、

とある。

ひちりきと簧.jpg

(舌(左)と篳篥(右) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AF%B3%E7%AF%A5より)

当然、今日の、

木管楽器やオルガンなどリード楽器の発音体となる部分、

も、

舌(簧)、

という。ついでながら、

舌が回る、
した先三寸、

と言うように、「舌」を提喩として、

舌のやはらかなるままに、君の御事な申しそ(平家物語)、

と、

ことば、
また、
話すこと、
弁舌、

の意でも用いる(精選版日本国語大辞典)。

ちなみに、「べろ」は、

べろべろ(擬態語)、

とあり(日本語源広辞典)、

動かす形容より云ふ語(大言海)、

とあるので、

舌を何度も出したり、なめたりする様子、

からきた語と思われる(擬音語・擬態語辞典)が、

なめる音から(新撰常陸國誌・方言=中山信名)、

と、擬音語とする説もある(日本語源大辞典)。

で、「舌」の語源はというと、「舌を巻く」http://ppnetwork.seesaa.net/article/461685620.htmlで触れたことがあるが、

シ(下)+タ(するもの)、口の下方にある器官の意(日本語源広辞典)、
シナフ義、ナとタと通じる(名言通・和訓栞・言葉の根しらべの=鈴木潔子・日本語源広辞典)、
柔らかにシタガフ意(和句解・日本釈名・柴門和語類集)、
シシ(肉)から(国語の語根とその分類=大島正健)、
シッタリと物の味をシタシ取るものであるところから(本朝辞源=宇田甘冥)、

等々諸説あるが、はっきりしない。むしろ、単純に、

下、

から来たという方がすっきりするのだが。

「舌」 漢字.gif


「舌」(漢音セツ、呉音ゼツ・ゼチ)は、

字源に、

象形説。二股に分かれ激しく動く蛇などのしたを象る(白川静)、
会意説。「干(おかして出入りする棒)+口」で、口の中から自由に出入りする棒状のしたをあらわす(藤堂明保)、

の二説があるhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E8%88%8C。しかし、

甲骨文は、口の中から舌が伸び出るさまに象る。舌の尖端が二叉に分かれているのは、これが蛇の舌を象るからである、

とある(香港中文大學「漢語多功能字庫」)。甲骨文字を見る限り、そうとも見えるが、

「舌」 甲骨文字・殷.png

(「舌」 甲骨文字・殷 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E8%88%8Cより)

他は、見た限りでは、

象形。口からしたを出したさまにかたどり、「した」の意を表す(角川新字源)、
象形文字です。「口から出した、した」の象形から「した」を意味する「舌」という漢字が成り立ちました(https://okjiten.jp/kanji49.html)、

と、後者をとっている。

「簧」 漢字.gif


「簧」(漢音コウ、呉音オウ)は、

会意兼形声。「竹+音符黄(コウ 四方に広がる光)」。固定しないで、自由に広がる意を含む、

とあり(漢字源)、「笛の舌」、つまりリードの意である。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

ラベル:した
posted by Toshi at 03:17| Comment(0) | 言葉 | 更新情報をチェックする

2022年06月13日

すまふ


せめののしりければ、あらがひて、せじと、すまひ給ひけれど(宇治拾遺物語)、

にある、

すまふ、

は、

争ふ、
抗ふ、
拒ふ、

などと当て、

相手の働きかけを力で拒否する意、

で(岩波古語辞典)、

人の子なれば、まだ心いきほひなかりければ、とどむるいきほひなし。女もいやしければ、すまふ力なし(伊勢物語)、

と、

争ふ、
負けじと張り合ふ、
抵抗する、
為さんとすることを、争ひて為させず、

という意味と、

もとより歌の事は知らざりければ、すまひけれど、しひてよませければ、かくなむ(仝上)
草子に歌ひとつ書けと、殿上人におほせられければ、いみじう書きにくう、すまひ申す人々ありけるに(枕草子)、

と(大言海)、

拒む、
ことわる、
辞退する、

と、微妙に意味のずれる使い方をする(広辞苑)。この名詞、

すまひ、

は、

相撲、
角力、

と当て、


乃ち采女を喚し集(つと)へて、衣裙(きぬも)を脱(ぬ)きて、犢鼻(たふさぎ)を着(き)せて、露(あらは)なる所に相撲(スマヒ)とらしむ(日本書紀)、

と、

互いに相手の身体をつかんだりして、力や技を争うこと(日本語源大辞典)、

つまり、

二人が組み合って力を闘わせる武技(岩波古語辞典)、

要するに、

すもう(相撲)、

の意だが、今日の「すもう(相撲・角力)」につながる格闘技は、上代から行われ、「日本書紀」垂仁七年七月に、

捔力、
相撲、

が、

すまひ、

と訓まれているのが、日本における相撲の始まりとされる(日本語源大辞典)。「捔力」は、中国の「角力」に通じ、

力比べ、

を意味する(日本語源大辞典)。字鏡(平安後期頃)にも、

捔、知加良久良夫(ちからくらぶ)、

とある(日本語源大辞典)。中古、天覧で、

儀式としての意味や形式をもつもの、

とみられ、

其、闘ふ者を、相撲人(すまひびと)と云ひ、第一の人を、最手(ほて)と云ひ、第二の人を、最手脇(ほてわき)と云ふ、

とあり(大言海)、これが、制度として整えられ、

勅すらく、すまひの節(せち)は、ただに娯遊のみに非ず、武力を簡練すること最も此の中に在り、越前・加賀……等の国、膂力の人を捜求して貢進せしむべし(続日本紀)、

とある、

相撲の節会、

として確立していく(仝上)。これは、平安時代に盛行されたもので、

禁中、七月の公事たり、先づ、左右の近衛、力を分けて、國國へ部領使(ことりづかひ)を下して、相撲人(防人)を召す。廿六日に、仁壽殿にて、内取(うちどり 地取(ちどり))とて、習禮あり、御覧あり、力士、犢鼻褌(たふさぎ 下袴(したばかま 男が下ばきに用いるもの)の上に、狩衣、烏帽子にて、取る。廿八日、南殿に出御、召仰(めしおほせ)あり、力士、勝負を決す。其中を選(すぐ)りて、抜出(ぬきで)として、翌日、復た、御覧あり、

とあり(大言海)、その後、

承安四年(1174)七月廿七日、相撲召合ありて、その後絶えたるが如し、

とある(仝上)。また、別に、

相撲の節は安元(高倉天皇ノ時代)以来耐えたること(古今著聞集)、

ともある(日本語の語源)。高倉天皇は在位は、応保元年(1161)~治承四年(1181)、承安から安元に改元したのが1175年、安元から治承に改元したのが1177年なので、安元から治承への改元前後の頃ということか。なお、「犢鼻褌(たふさぎ・とくびこん)」については「ふんどし」http://ppnetwork.seesaa.net/article/477980525.htmlで触れた。

スマヒの勝ちたるには、負くる方をば手をたたきて笑ふこと常の習ひなり(今昔物語)、

とあるように、禁中では、相撲の節会は滅びたが、民間の競技としては各地で盛んにおこなわれていた(日本語源大辞典)とある。また、「すまひ(相撲)」は、武技の一のひとつとして、昔は、

戦場の組打の慣習(ならはし)なり。源平時代の武士の習ひしスマフも、それなり、

と、

組討の技を練る目的にて、武芸とす。其取方は、勝掛(かちがかり 勝ちたる人に、その負くるまで、何人も、相撲こと)と云ふ。此技、戦法、備わりて組討を好まずなりしより、下賤の業となる(即ち、常人の取る相撲(すまふ)なり)、

とあり(大言海)、どうやら、戦場の技であるが、そういう肉弾戦は、戦法が整うにつれて、下に見る傾向となり、民間競技に変化していったものらしい。

ところで、「すまひ」は、動詞「すまふ」の名詞化とされているが、上代に動詞としての使用例は見られず、名詞形「すまひ」も、

一般に格闘技全般を表したか、すもう競技にかぎられたものか明らかでない、

とある(日本語源大辞典)。上代は、古事記の、

然欲爲力競、

として、

建御名方神(タケミナカタ)が建御雷神(タケミカヅチ)の腕を摑んで投げようとした、

とあるのが、いわば「すまひ」の原型とされhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B8%E6%92%B2、今日の「相撲」というよりは「格闘」を指していたと思われる。

和名類聚抄(平安中期)には、

相撲、角觝、須末比、

類聚名義抄(11~12世紀)には、

角觝、スマヒ、

とある。中古では、上記の例のように、「すまひ」は、

競技またはその行事、

を指し、「すまふ」は、

負けまいとして張り合う、

意で使い、中古和文の仮名書き例は、

すまふ、

のみであるが、中世には、

すまう、

も使用されるようになる(文明本節用集・運歩色葉・日葡辞書等々)。中世末には、「すまふ」より「すまう」の方が、より日常的な語形となっていたと考えられる(日本語源大辞典)、とある。

確定的な文献がないため、

動詞「すまふ」が名詞化して「すもう」になったか、「すまふ」の連用形「すまひ」がウ音便化されたか、

は、っきりしないとある(語源由来辞典)。ただ、「すまふ」を、

セメアフ(攻め合ふ)という語は、セの母音交替[eu]、メア〔m(e)a〕の縮約の結果、スマフ(争ふ)に変化した。「あらそふ。負けまいと張り合う。抵抗する」意の動詞である。〈女も卑しければスマフ力なし〉(伊勢)。〈秋風に折れじとスマフ女郎花〉(後拾遺集)、

とみなし、それが、

スマフ(相撲ふ)に転義、そして、二人が組み合い力を戦わせて勝負することをいう。その名詞形のスマヒ(相撲。角力)は力比べの競技のことをいう。〈当麻蹶速(たぎまのけはや)と野見宿禰(のみのすくね)とをスマヒとらしむ〉(垂仁紀)、

と、名詞に変化したとみている説もある(日本語の語源)。いきなり名詞というより、

動詞→名詞化、

の方が自然な気はする。

なお、「すもう」http://ppnetwork.seesaa.net/article/455706928.htmlについては触れたことがある。

「爭」  漢字.gif


「争」 漢字.gif

(「争」 https://kakijun.jp/page/0641200.htmlより)

「争」(漢音ソウ、呉音ショウ)は、

会意文字。「爪(手)+一印+手」で、ある物を両者が手で引っ張り合うさまを示す。反対の方向に引っ張り合う、の意を含む、

とある(漢字源)が、別に、

会意。爪と、尹(いん 棒を手に持ったさま)とから成る。農具のすきをうばいあうことから、「あらそう」意を表す、

とも(角川新字源)、

会意文字です。「ある物を上下から手で引き合う」象形と「力強い腕の象形が変形した文字」から力を入れて「引き合う」・「あらそう」を意味する「争」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji714.html

「抗」 漢字.gif


「抗」(漢音コウ、呉音ゴウ)は、

会意兼形声。亢(コウ)とは、人間のまっすぐに立ったのどくびの部分を示した会意文字。抗は「手+音符亢」で、まっすぐたって手向かうこと、

とある(漢字源)が、別に、

会意形声。「手」+音符「亢」、「亢」は人が直立することの象形又は会意。真っ直ぐに立って、手向かうこと。「杭(真っ直ぐなくい)」「航(真っ直ぐに進む)」「坑(真っ直ぐなあな)」と同系、「工(穴をあけ通す)」とも近縁か、

ともhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%8A%97

形声。手と、音符亢(カウ)とから成る。高くあげる意を表す、

とも(角川新字源)、

会意兼形声文字です(扌(手)+亢)。「5本指のある手」の象形と「盛りあがったのどぼとけ」の象形(「のど・たかぶる」の意味)から、「手を高くあげる」、「こばむ」を意味する「抗」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji1076.html

「拒」 漢字.gif


「拒」(漢音キョ、呉音ゴ)は、

会意兼形声。巨(キョ)は、取手のついた定規のかたちを描いた字。定規は上線と下線とが距離をおいて隔たっている。拒は「手+音符巨」で、間隔をおし隔てて、そばに寄せないこと、

とある(漢字源)が、

持ち手の付いた定規(「矩」)を象る。定規の両端をへだてる、

とあるのがわかりやすいhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%8B%92。別に、

形声文字です(扌(手)+巨)。「5本の指のある手」の象形と「とってのあるさしがね・定規」の象形(「さしがね・定規」の意味だが、ここでは、「却」に通じ(「却」と同じ意味を持つようになって)、「しりぞける」の意味)から、「手でしりぞける」を意味する「拒」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji1784.html

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
田井信之『日本語の語源』(角川書店)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

posted by Toshi at 03:12| Comment(0) | 言葉 | 更新情報をチェックする

2022年06月14日

いだしあこめ


直衣(なほし)のながやかにめでたきすそより、青き打ちたる(砧で打って光沢を出した)いだし袙(あこめ)して、指貫も青色のさしぬきをきたり(宇治拾遺物語)、

の、

いだし袙(あこめ)、

とあるのは、

直衣の下から下着(袙)の裾を出るようにして、

とある(中島悦次校注『宇治拾遺物語』)。

出衣(いだしぎぬ)、

ともいい、

貴族の男子の晴れの姿の折の、風流な衣服の着方の称。「直衣(なほし)」や「狩衣(かりぎぬ)」などの裾(すそ)から、下着の「衵(あこめ)」「袿(うちき)」などの裾を、わざとのぞかせて着るしゃれた着方をいい、それぞれ「出だし衵」「出だし袿」などとも呼ぶ、

とある(学研全訳古語辞典)。「出衣(いだしぎぬ)」は、

直衣の下、下着の衵(あこめ)の重ねを美麗に仕立て、前身を指貫(さしぬき)に着籠めずに、裾先を袍(ほう)の襴(らん)の下からのぞかせる、

という、いわば、

おしゃれな着方、

らしい(広辞苑・精選版日本国語大辞典)。

いだしぎぬ.bmp

(いだしぎぬ 精選版日本国語大辞典より)

「いだしぎぬ」の、

きぬと云ふは、衣服にて、仕立ては小袖の如し、此の語は、出褄(イダシヅマ)、出衵(イダシアコメ)、出袿(イダシウチギ)などの総称、

として用いている(大言海)。

出衣と申候は、直衣の衣冠等を、著(ちゃく)する時、風流のため、衣の裾を、聊、袍(ほう)の裾に見せ候やうに著成(きな)す事に候、是を出衣(いだしぎぬ)とも、出袿(いだしうちき)とも申す(新井白石と野宮定基の「新野問答」(黄門白石問答(こうもんはくせきもんどう)等々ともいう)、

とある(大言海)。ただ、「出衣」には、別に、

牛車の簾(すだれ)の下から女房装束の裾先を出して装飾とすること、寝殿の打出(うちで)のように装束だけを置いて飾りとするが、童女の車は実際に乗って童女装束の汗衫(かざみ)や袴の裾を出す、

ことにもいう(学研全訳古語辞典)。

いだしぎぬⅡ.bmp

(いだしぎぬ 精選版日本国語大辞典より)

「あこめ」は、

衵、
袙、

と当て、和名類聚抄(平安中期)に、

袙、阿古女岐奴、

とあり、類聚名義抄(11~12世紀)には、

衵、アコメキヌ、アコメ、

とあり、

あこめぎぬ、

の下略して、

あこめ、

という(大言海)。

装束の表着(うわぎ)と単(ひとえ)の間にこめて着る衣の略装です。男子は、腰下丈で、脇あきで、表袴(うえのはかま)に着込め、下襲(したがさね)を重ねますが、女子は、単と同様、脇は縫い合わせ、裾を長くひき、袴の上に重ねました。平絹(へいけん)の裏をつけた袷(あわせ)仕立てで、表は、固地綾に小葵(こあおい)や菱(ひし)文の浮き線綾などで、季節によって美を競いました、

とあるhttp://www.so-bien.com/kimono/syurui/akome.html。だから、「あこめ」は、

装束の表着(うわぎ)と単(ひとえ)の間にこめて着る衣の略装(仝上)、
下襲(したがさね)の下、単(ひとえ)の上に重ねて着用し、間籠(あいこめ)の意(有職故実図典・日本語の語源)、
単と下襲の間に着こむる故に、あひこめの訓にて、あこめと云ふ也(貞丈雑記)、
単と下がさねとの間に込めて着るので「間+込め」の音韻変化(日本語源広辞典)、

等々、「込」か「籠」の違いはあるが趣旨は同じである。

衵(あこめ).bmp

(あこめ 大辞林より)

もとは、防寒の具と見られるが、藤原時代の末から、

いわゆる打袙(うちあこめ 打衣(打衣) 砧で打ち、つやを出した)となり、表の地質を板引(いたびき 絹の張り方 砧打ちの手間を省くために、蝋などの植物性の混合物で生地をコートして艶と張りを持たせる)にするに及んで、強装束(こわしょうぞく 厚めの布地や糊を張ってこわばった生地を使って仕立てたもの)の衣紋の形を整えるのに役立つようになった、

とある(有職故実図典)。鎌倉時代になると、下襲(したがさね)の裏にも板引が施されるようになり、「あこめ」を省くようになったが、夏だけは他が皆薄物であるため、形を整えるために、(あこめの)裏地を除いた、

引倍木(ひへき)、

と称するものを用いた(仝上)という。

因みに、「下襲」とは、

下襲衣(したがさねきぬ)の略、

で、

半臂(はんぴ)の下、あるいは、直接袍の下に襲ねた。垂領(たりくび 領(えり)の左右を垂らして、引き違えて合わせる着用法)で、腋を闕腋(けってき 腋があいている)風にあけ、二幅の後身(うしろみ)の裾は時代の下降とともに長さを加え、下襲の尻とも、単に裾(きょ)とも称している、

とあり(有職故実図典)、

前より後ろ身頃が長く、「袍」の裾から出して着用、

するhttp://www.so-bien.com/kimono/%E7%A8%AE%E9%A1%9E/%E4%B8%8B%E8%A5%B2.html

下襲.jpg

(下襲 『有職故実図典』より)

「半臂」(はんぴ)は、

昔、束帯のとき、袍(ほウ)と下襲(したがさね)の間につける胴衣。身二幅で袖がない短い衣で、着けると臂(ひじ)の半ばまで達するのでこの名がある。裾に足さばきをよくするために襴(らん)という幅七寸(約二一センチメートル)の絹をつけるのを特色とする、

が(精選版日本国語大辞典)、後世、胴と襴を別にした切(きり)半臂(山科流)と、そのまま付属したのを用いる続(つづき)半臂(高倉流)とになる(仝上)。

半臂.bmp

(半臂 精選版日本国語大辞典より)

「袍(ほう)」は、

束帯や衣冠などの時に着る盤領(まるえり)の上衣、

で、

文官の有襴縫腋(ほうえき 両脇の下を縫ったもの)と武官の無襴闕腋(けってき)の二種がある。盤領(まるえり)で、身幅二幅、袖幅一幅半を例とする。地質は、冬は綾、夏は縠織(こめおり)。五位以上は家流による有紋、地下は無紋。文官の縫腋はまつはしのきぬといい、武官の闕腋はわきあけのころもともいう、

とある(精選版日本国語大辞典)。

袍.jpg

(袍 『有職故実図典』より)

「直衣(なほし)」は、

衣冠が宿衣(とのいぎぬ)なのに対して、直(ただ)の衣の意で、平常の服であることからきた名、

である。束帯、衣冠のように当色(とうじき 位階に相当する服色)ではなく、好みの色目を用いたことにより、

雜袍(ざつぽう)、

と呼ばれた。ただ、

雜袍聴許、

を蒙っての参内、あるいは院参などの場合は、一定の先例にしたがった(有職故実図典)、とある。その場合の

直衣姿、

は、

冠、
直衣付当帯、
衣(きぬ)、
指貫、
下袴、
檜扇(ひおうぎ)、
浅沓、

となっている(仝上)。

直衣(和漢三才図会).gif

(直衣(和漢三才図会) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B4%E8%A1%A3より)

「指貫」は、

袴の一種。八幅(やの)のゆるやかで長大な袴で、裾口に紐を指し貫いて着用の際に裾をくくって足首に結ぶもの。朝儀の束帯の際に略儀として用いる布製の袴ということから布袴(ほうこ)ともいうが、次第に絹製となり、地質・色目・文様・構造なども位階・官職・年齢・季節によって異なった、

とあり(精選版日本国語大辞典)、

横開き式の袴で前後に腰(紐)がつけられ、前腰を後ろで、後ろ腰を前で、もろわなに結ぶ。裾口(すそぐち)に通した緒でくくり、すぼめるようにしてある、

もので(日本大百科全書)、

衣冠、または直衣、狩衣の時に着用する、

とある(広辞苑)。

指貫.jpg

(指貫 『有職故実図典』より)

「狩衣」については、は「水干」http://ppnetwork.seesaa.net/article/485691809.htmlで触れた。

「衵」 漢字.gif

(「衵」 https://kakijun.jp/page/E5D0200.htmlより)

「衵」(漢音ジツ、呉音ニチ)は、

会意兼形声。「衣+音符日(柔らかく暖かい、ねっとりした)」

とあり(漢字源)、柔らかい普段着、の意であるが、これを、「あこめ」に当てた。

「袙」  漢字.gif

(「袙」 https://kakijun.jp/page/E5D8200.htmlより)

「袙」(漢音バク・ハ、呉音ミャク・ヘ)は、

会意兼形声。「衣+音符白」で、白い布のこと、

とあり(仝上)、

布の頭巾。昔武人が頭に巻いて飾りとし、同時に貴賤の別をあらわす目印とした

とある。「あこめ」に、

衵、

を誤用したことから慣用化したものとある(仝上)。いずれの字も原義とは異なっている。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
鈴木敬三『有職故実図典』(吉川弘文館)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

posted by Toshi at 03:14| Comment(0) | 言葉 | 更新情報をチェックする

2022年06月15日

犢鼻褌(たふさぎ)


みれば額に角おひて目一つある物、あかきたふさきしたる物出来て、ひざまづきてゐたり(宇治拾遺物語)、

の、

たふさき、

は、

たふさぎ、
たうさぎ、
とふさぎ、

とも表記し、古くは、

わが背子が犢鼻(たふさき)にする円石(つぶれし)の吉野の山に氷魚(ひを)ぞ懸有(さがれる)(万葉集)、

とあり、色葉字類抄(1177~81)にも、

犢鼻褌、たふさき、

と、

清音で、現代表記では、

とうさぎ、

となり、

犢鼻褌、
犢鼻、
褌、

と当てる(広辞苑・大言海・日本語源大辞典)。別に、

したおび、
はだおび、
まわし、
すましもの、
ちひさきもの、
したも、
したのはかま、
はだばかま、
とくびこん(犢鼻褌)、

等々ともいう(大言海)。いまでいう、

ふんどし(褌)

のようなものとされ、

今の越中褌のようなもの、まわし、したのはかま(岩波古語辞典)、
股引の短きが如きもの、膚に着て陰部を掩ふ、猿股引の類、いまも総房にて、たうさぎ(大言海)、
肌につけて陰部をおおうもの、ふんどし(広辞苑)、

等々とあるので、確かに、

ふんどし、

のようなのだが、「ふんどし」http://ppnetwork.seesaa.net/article/477980525.htmlで触れたことだが、

犢鼻(とくび)、

と当てたのは、それをつけた状態が、

牛の子の鼻に似ていること(「犢」は子牛の意)、

からきている(日本語源大辞典)とする説もあり、確かに、和名類聚抄(平安中期)に、

犢鼻褌、韋昭曰、今三尺布作之、形如牛鼻者也、衳子(衳(ショウ)は下半身に穿く肌着、ふんどしの意)、毛乃之太乃太不佐岐(ものしたのたふさき 裳下(ものしたの)犢鼻褌)、一云水子、小褌也、

とあり、下學集(文安元年(1444)成立の国語辞典)にも、

犢鼻褌、男根衣也、男根如犢鼻、故云、

とある。しかし、江戸中期の鹽尻(天野信景)は、

隠處に當る小布、渾複を以て褌とす。縫合するを袴と云ひ、短を犢鼻褌と云ふ。犢鼻を男根とするは非也、膝下犢鼻の穴あり、袴短くして、漸、犢鼻穴に至る故也、

とする。つまり、「ふんどし」状のものを着けた状態ではなく、「したばかま」と言っているものが正しく、現在でいうトランクスに近いものらしいのである。記紀では、

褌、

を、

はかま、

と訓ませているので、日本釈名に、

犢鼻褌、貫也、貫両脚、上繁腰中、下當犢鼻、

と言っているのが正確のようである。「すまふ」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/488850813.html?1655057522)で触れたが、相撲の節会では、禁中、

力士、犢鼻褌の上に、狩衣、烏帽子にて、取る、

とあり(大言海)、

右相撲犢鼻褌上著狩衣、開紐夾狩衣前(「江家次第(1111頃)」)、

ともある。この恰好なら、

したばかま、

つまり、

トランクス、

の方が似合いそうである。

また、「犢鼻」(とくび)は、

脛の三里の上の灸穴の名と云ふ、

とある(大言海)。

足の陽明胃経の35番目のツボ、

で、その位置は、

膝前面、膝蓋靭帯外方の陥凹部、膝を屈曲したとき、膝蓋骨外下方の陥凹部、

にあるhttps://www.higokoro.com/acupuncture-points/1576/。その位置が、

子牛の鼻に見えるからその名がつけられた、

らしいhttp://www.sun-seikotsuhari.com/blog/2017/04/post-111-438921.html。上記で、鹽尻が、

膝下犢鼻の穴あり、袴短くして、漸、犢鼻穴に至る故也、

といっているのは、その「犢鼻」の位置を言っているのである。

「犢鼻褌」に「犢鼻」を当てたのは、この、

灸穴の名、

から来ているようである。「たふさぎ」に当てた、

犢鼻褌、

は、漢音で、

トクビコン、

さるまた、

の意で、

相如身自著犢鼻褌、與保庸雑作、滌器於市中(史記・司馬相如伝)、
少孤食、愛學、閉戸読書、暑月惟著犢鼻(北史・劉畫傳)、

などと、

褌は貫、両脚を貫きて腰に繋ぐ、

とある(字源)。これもトランクス様である。

たふさき(ぎ)、

の由来については、

マタフサギ(股塞)の略(和字正濫鈔・漫画随筆・物類称呼・雅言考・言元梯・名言通・松屋筆記・和訓栞・大言海)、
タフサギ(手塞)の義(東雅・貞丈雑記・秋長夜話)、
タは助語、フサグ意(筆の御霊)、

といった諸説だが、上記の、

犢鼻(とくび)、

の意味から見れば、

マタフサギ(股塞)の略、

なのではあるまいか。

風神雷神図(俵屋宗達).png



三十三間堂の雷神.jpg



三十三間堂の風神.jpg


イメージとしては、

鬼が履いている虎柄のパンツ、

あるいは、

風神・雷神のはいている下着、

である。因みに、「追儺」http://ppnetwork.seesaa.net/article/485463935.htmlで触れたように、追儺の鬼は、裸ではない。

「犢」 漢字.gif


「犢」(漢音トク、呉音ドク)は、

形声、旁の字が音を表す、

とのみしかない(漢字源)が、別に、

形声。「牛」+音符「𧶠(イクまたはショク、古形は「𧷏・𧷗」、「賣(=売)」ではない)」、

とあるhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%8A%A2

子牛、

の意である。

「犢」 説文解字・漢.png

(「犢」 中国最古の字書『説文解字』(後漢・許慎) https://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%8A%A2より)

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
簡野道明『字源』(角川書店)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

posted by Toshi at 03:10| Comment(0) | 言葉 | 更新情報をチェックする

2022年06月16日

庚申待


若き僧綱(そうごう)・有職(ゆうそく)などが庚申して遊けるに、うへの童(わらは)のいとにくさげなるが、瓶子などしありける(宇治拾遺物語)、



庚申して、

とあるのは、

庚申待、

の意で、

庚申の夜、語り明かす行事、

とある(中島悦次校注『宇治拾遺物語』)。「庚申」は、十干十二支の組合せの一つで、

かのえさる、

の日で、60日または60年ごとに巡ってくるが、この日の、

夜ごもりの慎みをしたり、種々の禁忌を守る信仰行事、

を、

庚申待(こうしんまち)、

あるいは、

庚申、
庚申会、
庚申祭、
御申待(おさるまち)、

などという。

一年、六度、庚申を祭り、其夜は、眠らずと云ふは、人、生れて、腹中に三尸蟲ありて、身を離れず、人を害さむとす、此蟲、庚申の夜、人の罪咎を天に告ぐ(江戸時代の百科事典『年中重寶記』)、

とされ、ために、

晝の申の刻七ッ(今の午後四時)より始めて、夜の寅の刻七ツ(今の午前四時)に至る、七刻の間を待ちて、猿田彦大神を祭り、供物七種を備進す、或は云ふ、道家に、此の夜寝れば、三尸蟲、人命を短くするとて、夜を守ることあり。略して、庚申、佛家に、青面金剛を、庚申に祭るといふ、

とあり(大言海)、道教、仏教の入り交じった民間信仰らしいことがうかがえる。平安中期編纂の児童向けの学習教養書『口遊』(くちずさみ)には、

彭侯子、彭常子、命兒子、悉入窈冥之中、去離我身(謂之庚申夜誦)、今案、毎庚申勿寝而呼、其名、三尸永去、萬福自來、

とあり、平安時代院政期末の故実書『簾中抄(れんちゅうしょう)』にも、

庚申夜ノ誦、彭侯子、彭常子、命兒子、離我身、夜モスガラ、イネズシテ、コレヲ唱フレバ、三尸サリ、萬福キタル、

とある。中国では、

守庚申、
守庚申会、

といわれhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%B0%B8、仏教と結びついて唐の中頃から末にかけてひろまったとされ、平安時代に貴族たちの間で行われていた「庚申待」は中国の「守庚申」にかなり近いものであった、という(仝上)。

三尸.jpg

(「三尸」(人の腹の中に棲むと信じられた虫) 右から上尸、中尸、下尸(唐代『太上除三尸九虫保生経』より) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%B0%B8より)

もともとは道教の説で、

庚申の夜は三尸の虫が身体から脱け出して天に昇り、天帝にその人の罪過を報告するので、虫が脱け出さないように一晩中起きている、

とし、これを、

守庚申(しゅこうしん)、

と呼び、

この夜は徹夜する、

という作法は、奈良時代に輸入され、この慣習は、宮廷を中心に行われ、平安貴族にも受け継がれてゆくが、徐々に行事の中心は遊楽にシフトし、

徹夜するために仲間が集まり、酒食の宴を催す、

ということも生じ、中世になると、公家と武家が共同の庚申待を行ったり、町衆の寄合などにも、

夜を徹した連歌合や和歌合、

等々が行われ、

宗教的な場から逃避的な楽しみの場、

になっていく(日本伝奇伝説大辞典・日本昔話事典)。室町後期には、僧侶によって、

庚申縁起、

などが作られ、民間に普及し始め、仏教色の濃い、

庚申待供養の塔、

が建てられ、日本的なものに変質し、農村の村落社会の、

庚申さん、

と呼ばれる、

百姓の神さん、

と言われるようになる(仝上)。江戸時代になると、全国的に、

庚申講、

が組織され、

仲間が集まって供養しながら酒食をもてなす、

のが習慣となっていく(庚申塔は供養を三年目に行ったしるしである)。庚申講が、

申待(さるまち)、

と書かれたところから、猿の信仰と重なり、

猿を神使いとする日吉(ひえ)山王二十一社、

と結びつき、猿から、

猿田彦神、

が連想され、記紀の伝承から、

八衢神(やちまたのかみ)、

とされ、庚申塔を、

道祖神、

と重ねて扱うようになっていく(仝上)。

庚申塚(青面金剛) (2).jpg

(庚申塚(青面金剛) 大辞泉より)


庚申塚(三猿) (2).jpg

(庚申塚(三猿) 大辞林より)

因みに、古代伝承上、

八衢比売神(やちまたひめのかみ)、

と、

八衢比古神(やちまたひこのかみ)、

とは、

集落や道の要所にすわり、とともに邪神・悪霊の侵入をふせぐ、

とされ、伊奘諾尊(いざなぎのみこと)が檍原(あわきがはら)で禊(みそぎ)をしたときに、投げ棄てた御褌(みはかま たふさぎの意)から化生した神、

道俣神(ちまたのかみ)、

は、この両神をさしているともいうhttps://www.wikiwand.com/ja/%E9%81%93%E4%BF%A3%E7%A5%9E。「道俣神(ちまたのかみ)」の、ちまたは、「ちまた」http://ppnetwork.seesaa.net/article/464423994.htmlで触れたように、

「道(ち)股(また)」の意、

であり、

道の分かれるところ、
分れ道、

の意である。

庚申信仰の本尊.jpg

(庚申信仰は青面金剛を本尊とし、中央に青面金剛、上に日月、左右に猿、下に鶏 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%9A%E7%94%B3%E4%BF%A1%E4%BB%B0

佛家は、以上の神道系の庚申信仰に対して、

六臂の青面金剛(しょうめんこんごう)、

が付会され、

阿弥陀三尊を表したりするものもある(日本伝奇伝説大辞典・日本昔話事典)。このため、「庚申待」の説明に、

庚申の夜、仏家では帝釈天(たいしゃくてん)および青面金剛(しょうめんこんごう)を、神道では猿田彦を祀る(広辞苑)、

などと説明されることになる。青面金剛(しょうめんこんごう)は、

青面金剛明王、

とも呼ばれるが、

インド由来の仏教尊格ではなく、中国の道教思想に由来し、日本の民間信仰である庚申信仰の中で独自に発展した尊格、

であるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%92%E9%9D%A2%E9%87%91%E5%89%9Bとされ、

三眼の憤怒相で四臂、それぞれの手に、三叉戟(三又になった矛のような法具)、棒、法輪、羂索(綱)を持ち、足下に二匹の邪鬼を踏まえ、両脇に二童子と四鬼神を伴う、

とあり、

三尸(さんし)を押さえる神、

とされている(仝上)。

しかし、あくまで庚申信仰行事は、

種々の本尊の礼拝や供養、

ではなく、

眠らずに謹んで夜を明かすこと、

であり、このためのタブーとされた俗信は多い。たとえば、

この夜にできた子は、泥棒になる、

とされ、

この夜は婚姻はしない、
夫婦は同衾しない、

とか、身を慎むべきことして、

庚申の仕事は無駄仕事、
庚申の夜なべは後戻りする、

などと言われ(日本昔話事典)、

清浄な身体で夜明かしする、

のを心掛ける。そのため、

話は庚申の晩に、

という諺があるように、

眠気をさます話題が求められ、種々の口承文芸の語り継がれる場にもなった(仝上)。

「三尸」は、「むし」http://ppnetwork.seesaa.net/article/450968686.htmlでも触れたが、人間の体内にいると考えられていた虫で、

此蟲、其人の隠微なる罪咎を知り、庚申の夜に、人の眠るを窺ひて、出でて、天帝に讒す、

といい(大言海)、

三虫(さんちゅう)、
三彭(さんほう)、
伏尸(ふくし)、
尸虫(しちゅう)、
尸鬼(しき)、
尸彭(しほう)、

などともいいhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%B0%B8

上尸、
中尸、
下尸、

の三種類があり、日本では『大清経』を典拠とした三尸を避ける呪文が『庚申縁起』などに採り入れられ広まった。中唐の柳宗元の詩文に対する解説・注釈書『柳文抄』の、罵尸蟲文・序に、

有道士言、人皆有尸蟲三、處腹中、伺人微失誤、輙籍記(=記帳)、日庚申幸其人之昏睡、出讒于帝以求饗、以是、人多謫過疾癘夭死、

とある。また日本に現存する最古の医学書『醫心方』(いしんほう)には、

大清経、曰、三尸、其形、顔似人、長三寸許、上尸名彭踞(ほうきょ)、黒色、居頭、……中尸名彭躓(ほうしつ)、青色、居背、……下尸名彭蹻(ほうきょう)、白色、居腹、

とある。

「庚」 漢字.gif

(「庚」 https://kakijun.jp/page/kou200.htmlより)

「庚」(漢音コウ、呉音キョウ)は、

象形。Y型にたてた強い心棒を描いたもの(漢字源)、
象形。Y字型に立てた強い心棒(「午」=「杵」)を両手で持つ形https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%BA%9A

とする説と、

象形。かね状の楽器をつるした形にかたどる。借りて、十干(じつかん)の第七位に用いる(角川新字源)、

象形文字です。「きねを両手で持ち上げる象形または、植物の生長が止まって新たな形に変化しようとする象形」から、「十干の第七位」を意味する「庚」という漢字が成り立ちましたhttps://okjiten.jp/kanji2442.html

などの説とに分かれている。

「申」 漢字.gif

(「申」 https://kakijun.jp/page/0593200.htmlより)

「申」(シン)は、

会意文字。もと、いなずま(雷光)を描いた象形文字で、電の字の原字。のち「臼(両手)+丨印(まっすぐ)」のかたちとなり、手でまっすぐのばすこと。伸(のばす)の原字、

とある(漢字源・角川新字源)。稲妻の象形は同じだか、

象形。稲妻を象る。電(伸びる稲妻)の元字。そこから、「伸」(のびる)、神(かみ)の意が生じ、その神に、願い事などをすることから「もうす」の意が生じた。紳、引、呻と同系https://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%94%B3

象形文字です。「いなびかり(雷)の走る」象形から「のびる」・「天の神」を意味する「申」という漢字が成り立ちましたhttps://okjiten.jp/kanji500.html

の解釈もある。

「申」 金文・殷.png

(「申」 金文・殷 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%94%B3より)

参考文献;
乾克己他編『日本伝奇伝説大辞典』(角川書店)
稲田浩二他編『日本昔話事典』(弘文堂)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

posted by Toshi at 03:42| Comment(0) | 言葉 | 更新情報をチェックする

2022年06月17日

ひまち


「ひまち」は、

日待(ち)、

と当てるが、この、

マチ、

は、

待ち、

と当てているが、

祭りと同源(精選版日本国語大辞典)、
マツリ(祭)の約(志不可起・俚言集覧・三養雑記・桂林漫録・新編常陸風土記-方言=中山信名・綜合日本民俗語彙)、

とあり、その「まつり」は、

奉り、
祭り、

と当て、

神や人に物をさしあげるのが原義。類義語イワヒ(祝)は一定の仕方で謹慎し、呪(まじない)を行う義。イツキ(斎)は畏敬の念をもって守護し仕える義、

とある(岩波古語辞典)。だから、

待つこと、

は、本来、

神の示現や降臨を願って待ちうけ、これを祭る、

という素朴で原初的な意味の、

神祭のありかた、

を示していたものとみられる(日本昔話事典)。当然、そこに集まる者は、

厳重な物忌、精進潔斎、

が要求され、村落にあって近隣同信のものが同じ場所に集まり、

一夜厳重に物忌して夜を明かす、

という行事を、

まちごと(待ちごと)、

と総称した(仝上)。

庚申の日、
甲子の日、
巳の日、
十九夜、
二十三夜、

等々があり、

庚申(こうしん)待ち、
甲子(きのえね)待ち、
十九夜講、
二十三夜講、

等々と呼ばれる。「庚申待」http://ppnetwork.seesaa.net/article/488918266.html?1655318574については触れたが、この中でも一番普遍的な形のものが、

日待ち、

であり、

日祭の約(大言海)、

とあるように、

「まち」は「まつり(祭)」と同語源であるが、のちに「待ち」と解したため、日の出を待ち拝む意にした、

ともいわれ(精選版日本国語大辞典)、

日を祭る日本固有の信仰に、中世、陰陽道や仏教が習合されて生じたもの、

で(日本史辞典)、

ある決まった日の夕刻より一夜を明かし、翌朝の日の出を拝して解散する、

ものだが、元来、神祭の忌籠(いみごもり)は、

夜明けをもって終了する、

という形があり、「日待」もその例になる(世界大百科事典)とある。その期日は土地によってまちまちで、

正・五・九月の一日と十五日(日本昔話事典)、
1、5、9月の16日とする所や、月の23日を重んずる所もある。なかでも6月23日が愛宕権現(あたごごんげん)や地蔵菩薩(ぼさつ)の縁日で、この日を日待とするのもある。また庚申講(こうしんこう)や二十三夜講の日を日待とする所もある(日本大百科全書)、
一般に正・5・9月の吉日(広辞苑・大辞泉・大辞林)、
正月・五月・九月の三・一三・一七・二三・二七日、または吉日をえらんで行なうというが(日次紀事‐正月)、毎月とも、正月一五日と一〇月一五日に行なうともいい、一定しない(精選版日本国語大辞典)、
1・5・9・11月に行われるのが普通。日取りは15・17・19・23・26日。また酉・甲子・庚申など。二十三夜講が最も一般的(日本史辞典)、
旧暦1・5・9月の15日または農事のひまな日に講員が頭屋(とうや(とうや その準備、執行、後始末などの世話を担当する人))に集まる(百科事典マイペディア)、

等々と、正・五・九月以外は、ばらつく。

江戸初期の京都を中心とする年中行事の解説書『日次紀事』には、

凡良賤、正五九月涓吉日、主人斎戒沐浴、自暮至朝不少寝、其間、親戚朋友聚其家、雜遊、令醒主人睡、或倩僧侶陰陽師、令誦経咒、待朝日出而獻供物、祈所願、是謂日待……待月其式、粗同、凡日待之遊、

とある。これは町家の例だが、村々でも似ていて、

その前夜の夕刻から当番の家に集まる。(中略)当番に当たったものは、一晩中、神前の燈明の消えないように注意し、カマドの灰はすべて取り出して塩で清め、柴でなくて薪を使うとか、家中の女は全部外に出して、男手だけで料理を用意したともいう。集まるものも必ず風呂に入り、清潔な着物で出席した、

とも(日本昔話事典)、あるいは、

講員は米を持参して当番の家に集まり、御神酒(おみき)を持って神社に参詣する。香川県木田(きた)郡では、春と秋の2回、熊野神社の祭日に餅(もち)と酒を持参して本殿で頭屋2人を中心として、天日を描いた掛軸を拝む。土地によっては日待小屋という建物があって、村の各人が費用を持参する例もある。変わったものに鳥取市北西部に「網(あみ)の御日待」というのがあり、9月15日に集まって大漁を祈願するという、

とも(日本大百科全書)、また、

家々で交代に宿をつとめ、各家から主人または主婦が1人ずつ参加する(世界大百科事典)、

ともある。もともとは、

神霊の降臨を待ち、神とともに夜を明かす、

ことが本来の趣旨だったからと思われる(日本昔話事典)。しかし、「待つ」という言葉の含意から、

日の出を待って拝む、

に力点が移った(仝上)とされ、

御日待(おひまち)、
影待(かげまち)、

とも呼ばれるが(精選版日本国語大辞典)、後には、大勢の男女が寄り集まり徹夜で連歌・音曲・囲碁などをする酒宴遊興的なものとなる(仝上)。だから、

単に仲間の飲食する機会、

を「日待」というところも出てくる。ただ、

マチゴトとして神とともにあったことから、その席には神と人の合歓(ごうかん いっしょに喜ぶこと)をめぐる口承文芸が伝承される場、

となり、やがては夜を徹して眠気を払うための話題が求められ(日本昔話事典)、様々な話を語り、伝え合うことになった(日本昔話事典)。

この「日待ち」と対になるのが、

月待(ち)、

で、

十九夜待、
二十三夜待、
二十六夜待、

は、日待と区別して月待と呼ぶ(世界大百科事典)。「月待」も、

月祭(つきまつり)の約、

とある(大言海)。

マチは待ちうけること(日本昔話事典)、
まち設けて物する意、稲荷待(稲荷祭)なども同じ(大言海)

で、「日待」で、上述の『日次紀事』に、

待月其式、粗同、

とあったように、

神の示現や降臨を願って待ちうけ、これを祭る、

ことは同義だか、「月待」は、

特定の月齢の日を忌籠りの日と定め、同信の講員が集まって飲食をし、月の出を待って拝む行事、

で、「日待」と同様、

原始以来の信仰、

と見られ(日本昔話事典)、實隆公記(室町時代後期)に、

今夜待月看経、暁鐘之後参黑戸、就寝(延徳二年(1490)九月二十三日)、

と、

室町時代から確認され、江戸時代の文化・文政のころ全国的に流行した、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%88%E5%BE%85%E5%A1%94。待つのは、

十三夜、
十五夜、
十七夜、
十九夜、
二十三夜、

などで(仝上・日本大百科全書)、十五夜の宴や名月をめぐる句会や連歌会などは、「月待」の行事から派生したとみられる。

二十三夜塔(横浜市緑区) 弘化3年.jpg

(「二十三夜塔」(横浜市緑区)弘化3年) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%88%E5%BE%85%E5%A1%94より)


十七夜塔(下妻市皆葉) 天保10年.jpg

(「十七夜塔」(下妻市皆葉)天保10年 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%88%E5%BE%85%E5%A1%94より)

十九夜に馬頭観音、
二十三夜に勢至観音、

をまつるところが多いのは、

修験道の七夜待ち、

といい、

十七夜に聖観音(千手観音)、
十八夜に千手観音(聖観音)、
十九夜に馬頭観音、
二十夜に十一面観音、
二十一夜に准胝観音(じゅんでいかんのん、じゅんていかんのん)、
二十三夜に勢至観音、

を拝むのに由来している(日本昔話事典)らしい。とりわけ、「二十三夜待ち」は、

三夜待ち、
三夜講、

といい、

正・五・九・十一月、正・六・九月、または正・十一月の二十三夜に営んだ(仝上)とある。そのスタイルは、

村落員全部の加入する講と女子のみの講とがあり、後者は子安観音の信仰と重なっている(仝上)、
月待は、組とか小字(こあざ)を単位とすることが多く、年齢によるもの、性別によるもの、あるいは特定の職業者だけの信仰者によるものなど、さまざまである。日を1日ずらして、男子の二十三夜に対し、女子だけ二十二夜に集まり、安産祈願を行う所もある(日本大百科全書)、

などとあり、二十三夜待はもっとも古く、實隆公記にあるように、

15世紀ごろに京都の公家社会では行われ、正月、5月、9月の月待が重視され、その夜は家の主人は斎戒沐浴して、翌朝まで起きているのが本来であった、

とあり(世界大百科事典)、

神道的に行う場合は月読(つくよみ)尊の掛軸を床の間に飾り、仏教的に行う場合は勢至(せいし)菩薩の掛軸を飾った、

とある(仝上)。村々でも、

十三夜塔、
十四夜塔、
十七夜塔、
十八夜塔、
十九夜塔、
二十夜塔、
二十一夜塔、
二十二夜塔、
二十三夜塔、
二十六夜塔、

等々「月待」の供養として立てた塔https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%88%E5%BE%85%E5%A1%94がさまざま残されているが、

村の四つ辻に、講員が拠出しあって建てた、

二十三夜塔、

が、

十九夜観音、
子安観音、

などとともにきわめて多い(日本昔話事典・百科事典マイペディア)、とある。

「日」 甲骨文字・殷.png

(「日」 甲骨文字・殷 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%97%A5より)

「日」http://ppnetwork.seesaa.net/article/463232976.htmlで触れたように、「日」(呉音ニチ、漢音ヅツ)の字は、

太陽の姿を描いた象形文字、

である(漢字源)。

「月」 甲骨文字・殷.png

(「月」 甲骨文字・殷 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%9C%88より)

「月」http://ppnetwork.seesaa.net/article/444490307.htmlで触れたが、「月」(漢音ゲツ、呉音ゴチ)は、

象形、三日月を描いたもので、まるくえぐったように、中が欠けていく月、

とある(漢字源)。

「待」 漢字.gif

(「待」 https://kakijun.jp/page/0961200.htmlより)

「待」(漢音タイ、呉音ダイ)は、

会意兼形声。寺は「寸(て)+音符之(足で進む)」の会意兼形声文字で、手足の動作を示す。待は「彳(おこなう)+音符寺」で、手足を動かして相手をもてなすこと、

とある(漢字源)が、「待つ」という意味がここからは出てこない気がする。別に、

形声。彳と、音符寺(シ)→(タイ)から成る。道に立ちどまって「まつ」意を表す(角川新字源)、

形声文字です(彳+寺)。「十字路の左半分」の象形(「道を行く」の意味)と「植物の芽生えの象形(「止」に通じ、「とどまる」の意味)と親指で脈を測る右手の象形」(役人が「とどまる」所の意味)から歩行をやめて「まつ」を意味する「待」という漢字が成り立ちましたhttps://okjiten.jp/kanji514.html

とある。

参考文献;
稲田浩二他編『日本昔話事典』(弘文堂)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

posted by Toshi at 03:10| Comment(0) | 言葉 | 更新情報をチェックする

2022年06月18日

ぬさ


山科の石田の社の皇神(すめかみ)に奴左(ヌサ)取り向けて吾れは越えゆく相坂山を(万葉集)、
このたびは幣(ぬさ)も取りあへず手向(たむけ)山紅葉(もみぢ)の錦神のまにまに(菅原道真)、

とある、

「ぬさ」は、

幣、

と当て、

麻・木綿・帛または紙などでつくって、神に祈る時に供え、または祓(はらえ)にささげ持つもの、

の意で、

みてぐら、
にぎて、

ともいい、共に、

幣、

とも当てる。「ぬさ」は、

祈總(ねぎふさ)の約略なれと云ふ、總は麻なり、或は云ふ、抜麻(ぬきそ)の略轉かと(大言海)、

とあり、「ねぎふさ」に、

祈總(ねぎふさ)を当てるもの(国語の語根とその分類=大島正健・日本語源広辞典)、

抜麻(ねぎふさ)を当てるもの(雅言考)、

があり、「抜麻」を、

抜麻(ねぎあさ)と訓ませるもの(日本語源広辞典・河海抄・槻の落葉信濃漫録・名言通・和訓栞・本朝辞源=宇田甘冥)、

があり、その他、

ヌはなよらかに垂れる物の意。サはソ(麻)に通じる(神遊考)、
抜き出してささげる物の義(本朝辞源=宇田甘冥)、
ユウアサ(結麻)の略(関秘録)、

等々、その由来から、「ぬさ」が、元々、

神に祈る時に捧げる供え物、

の意であり、また、

祓(ハラエ)の料とするもの、

の意、古くは、

麻・木綿(ユウ)などを用い、のちには織った布や帛(はく)も用い、或は紙に代えても用いた、

とあり(大言海・精選版日本国語大辞典・デジタル大辞泉他)、

旅に出る時は、種々の絹布、麻、あるいは紙を四角に細かく切ってぬさぶくろに入れて持参し、道祖神の神前でまき散らしてたむけた、

ともある(精選版日本国語大辞典)。後世、

紙を切って棒につけたものを用いるようになる、

とある(仝上)。

ぬさ.bmp

(幣 精選版日本国語大辞典より)

「にぎて」は、

下枝に白丹寸手(にきて)、青丹寸手を取り垂(し)でて(古事記)、

と、

にきて、

と清音、

平安以降ニギテと濁音、

とあり(岩波古語辞典)、

和幣、
幣帛、
幣、

と当て(広辞苑・大言海)、

にきたへ(和栲・和布・和妙)の約(広辞苑・大言海・和訓栞・神遊考)、
テは接尾語で、手で添える物の意、あるいはタヘ(栲)の転か(岩波古語辞典)、
ニキは和の意。テはアサテ・ヒラデ・クボデなどのテと同じく「……なるもの」の意(小学館古語大辞典)、
ニキは和の義、テは、是を執って神に見せる義(東雅)、
ニギは和、テは手の義(日本語源=賀茂百樹)、

とある。「にきたへ」(和栲)は、

片手には木綿(ゆふ)取り持ち、片手には和栲(にきたへ)まつり平(たひら)けくま幸(さき)くいませと天地(あめつち)の神を祈(こ)ひ祷(の)みまつり(万葉集)、

と、

「荒稲(あらしね)」の対、平安時代以後はニギタヘと濁音、

打って柔らかくした布、神に手向ける、

意である(岩波古語辞典)が

たへ→て、

の音韻変化は考えにくく、

「くぼて」「ながて」の「て」と同様に「……なるもの」の意、

と見るべきとされ(日本語源大辞典)、「にき」は、

和魂(にきたま)、

の、

やわらかい、
おだやか、

という意になる(広辞苑)。斎部(いんべ)氏の由緒記『古語拾遺』(807)に、

和幣、古語、爾伎底、
神衣、所謂和衣、古語、爾伎多倍、

と別けて記している(大言海)。「にぎて」は、

木綿(ゆふ)の布、麻の布を神に供ふる時の称、後に、絹、又、後に布の代わりに紙を用ゐる。

とあり(仝上・岩波古語辞典)、

白和幣(しらにぎて 白幣)は木綿の糸似て作り、色白ければ云ひ、青和幣(あをにぎて 青幣)は麻の糸にて作り、稍、青みれば云ふ、古語拾遺に穀(カヂ)を植えて白和幣を造り、麻を植えて青和幣を作る、

とある(仝上)。「にきて」は、神代紀に、

枝下懸青和幣、

とある注に、

和幣此云、尼枳底、

とあるように、

榊の枝などに取り懸けて神をまつるしるしとする、

とあり(岩波古語辞典・精選版日本国語大辞典)、

棒につけたものを用いるようになる、

と「ぬさ」と変わらなくなる。

「みてぐら」は、

幣、
幣帛、

などと当てる。古くは、

みてくら、

と清音、その由来は、

御手座の意(本居宣長・広辞苑・岩波古語辞典・デジタル大辞泉・日本釈名・東雅・日本語源=賀茂百樹・日本の祭=柳田國男)、
御手座の義、置座(おきぐら)に手向ける義、或は云ふ、御栲座(みたへぐら)の約、或は云ふ、充座の義とか、いかがか(大言海)、
ミテ(充)クラ(座)、たくさんの供物を案上に置いて献上すること。クラとは、物をのせたり、物をつける台となるものをいう(賀茂真淵)、
ミ(御)タヘ(栲)クラ(台)の約、ミは接頭語、タヘは古代に用いられた織物の総称で、タヘがテとなった(敷田年治)、
御手向クラの義(箋注和名抄)、
マテクラ(真手座)の義(類聚名物考・名言通)、
ミテは天王の御手の意、クラは神にクレ(遣)るの意(雅言考)、

等々とされ、

元来は神が宿る依代(よりしろ)として手に持つ採物(とりもの)、

を指し(百科事典マイペディア)、

祭人が手に持って舞うことにより、神がそこに降臨すると信ぜられた神座をいう。それが祭場に常に用意されるところから、神への供物と考えられるようになった、

とあり(岩波古語辞典)、

神に奉納する物の総称、

として、

布帛・紙・玉・兵器・貨幣・器物・獣類、

のちには、

御幣(ごへい)、

をもいうようになる(岩波古語辞典・デジタル大辞泉)。それは、「みてぐら」に、

幣の字を当てたため、幣帛(にぎて)と混用される、

に至ったもののようである。だから、「みてぐら」は、

絹布などを串に挟みて奉るを云ふ、後には、紙にも代ふ、木綿(ゆふ)の布の遺なるべし。今は、紙を長く段々に切りたるを、みてぐら、又、幣帛(へいはく)と云ひ、紙をたたみて、水竹に挟みたるを、幣束(へいそく)、又御幣(ごへい)とも云ふ、切りたるは御衣(みけし)に裁ちたる意、切らぬは裁たず、たたみながら獻ずる意と云ふ、

とあり(大言海)、これでは、

ぬさ、

にぎて、
も、
幣帛(へいはく)、

幣束、
も、
御幣、
も、

ほぼ同義になってしまっている。

ぬさ(広辞苑).jpg

(幣 広辞苑より)

因みに、「幣」は、

稚(わか)ければ道行き知らじ幣(末比 まひ)は為(せ)む黄泉(したへ)の使負(つかひお)ひて通(とほ)らせ(万葉集)、

と、

まひ(まひ)、

と訓ませ、

神への供え物、

という「ぬさ」などの意味を広げて、

謝礼として奉るもの、
贈り物、
まいない、

といった意味でも使っている(デジタル大辞泉)。

念のため、

幣帛、
幣束、
御幣、

の意味を確認しておくが、「幣」は、

麻(麻布)、

「帛」は、

絹(白絹、絹布)、

を意味し、両者は捧げ物の代表的な事物であることから、本来、「幣帛」は、

神々への捧げ物の「総称」、

を意味する(広辞苑・https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E5%B9%A3)。古代では貴重だった布帛が神への捧げ物の中心だったからである。『延喜式』の祝詞の条に、幣帛として、

布帛、衣服、武具、神酒、神饌、

などがある。しかし、幣帛は、同時に、

神の依り代、

とも考えられていたため、

串の先に紙垂を挟んだ依り代や祓具としての幣束・御幣、

なども「幣帛」と呼ぶhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%A3%E5%B8%9B)とある。で、結局、「幣帛」は、

みてぐら、
にぎて、
ぬさ、

と同義になり(大言海)、

充座(みてぐら)、
礼代(いやじり)、

ともいいhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E5%B9%A3

宇豆乃幣帛(うずのみてぐら)、
布刀御幣(ふとごへい)、
大(おお)幣帛、伊都(いつの)幣帛、
安(やす)幣帛、
足(たる)幣帛、
豊(とよ)幣帛

等々と、「幣帛」を「みてぐら」と訓ませ、「みてぐら」の美称として使われて、結局、

布帛をさしたり、あるいは、紙垂(しで)を串(くし)に刺した幣束、

をいうようになり、

御幣(ごへい)、

ということなる(日本大百科全書)。

「幣束」は、

神に捧げるもの、

の意で、

ほぼ「にきて」、「ぬさ」と区別がつかないが、今日、

裂いた麻や畳んで切った紙を、細長い木に挟んで垂らしたもの、

をいい(広辞苑)、

御祓に用い、又、神体とするも、是は誤れるなり。其大なるものを、

はらひぬさ(祓幣)、

という(大言海)。「みてぐら」で

紙をたたみて、水竹に挟みたるを、幣束(へいそく)、又御幣(ごへい)とも云ふ、

とあった(大言海)とおり、「御幣」は、

幣束の尊敬語、

である。

白色、または金銀、五色の紙を幣串に挟んだもの、

であり(広辞苑)、

捧げ物としての御幣の中心は、両側に長く折り下げられた部位(紙垂)ではなく、串に挿(はさ)まれた部分、そのものにある、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E5%B9%A3

折り畳んだ布を串(=「幣挿木」(へいはさむき))に挿んで捧げる形式、

が登場するのは、奈良時代後半から平安時代前期にかけてで、これが、結局、

御幣、

につながることになる。幣挿木が神々への捧げ物だと示すため、捧げ物本体である「幣帛」とともに、神聖性を表現する「木の皮の繊維(これを「木綿」という)や麻」を、串に挿んで垂らした、

ので、ある意味では、「幣」が「木」に挟まれてからは、御幣への一本道になる。

幣串を担いだ大工の棟梁.jpg

(幣串(へいぐし)を担いだ大工の棟梁を先頭に町を練り歩く「棟梁送り」(歌川広重『名所江戸百景』「大伝馬町呉服店」) 幣串は上棟式の際に飾られる祝い柱で、昔は3mほどあった。柱の先端に鏡と日の丸の扇、御幣を付け、その下に櫛、手絡、かもじと五色の布を飾ったもので、髪結い道具は古代に若い女性を人柱にした習わしを象徴しているという https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E5%B9%A3より)

「木綿・麻」の代わりに、細長く折り下げた紙を両側に垂らす形式、

が見られるようにもなるのが中世(13世紀末頃)。これが、

紙垂(しで)、

である。

榊(玉串・真榊)の他、神前に御幣を捧げる形、

が普及・定着化したのは、室町時代から江戸時代にかけて、中世以降の御幣は、

捧げ物本体である「幣紙」(へいし)

神聖性を示す「紙垂」(しで)

それらを挿む「幣串」(へいぐし)

から成るようになるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E5%B9%A3)。なお、長い棒や竹の先端に幣束を何本か取付けたもののことを、特に、

梵天(ぼんてん)、

という(仝上)らしい。

しで.png


いまでは、

紙垂、

が御幣の象徴として認識されているが、元来の捧げ物としては、その中心である、

幣帛、

である。だから、柳田國男をして、

「ヌサまたは捧げ物は、出来るかぎり清く汚れなくして、元は最も神の御座に近く進(まい)らせんとして、時としては眼に見えぬ零体の所在を標示する樹枝や斎串(いわいぐし)の木に、直接結(ゆ)わえつける習わしがあった……。花や芒の葉のような自然物を、しでで目じるしとする場合はそうであるまいが、木綿(ゆう)・麻・帛・白紙の類を用いるときは、シデとヌサを混同し、また時としては兼用せられた。紙などは近世得やすくなったので、細く長く翦って垂れて、もっぱらシデの用に供することになったのに、なお二つの境を明らかにし得ず、ゴヘイというような新しい日本語が生まれて、……殊に迷惑というべきは特殊のミテグラ、すなわち幣帛を取り付けたる斎串が珍重せられて、それをトヨミテグラ、ウズノミテグラなどと呼んだのが原因となってか、『日本書紀』の傍訓が幣帛をミテグラと読ましめた……。」

と嘆かしめることになる。しかし、この混同、同一化は、実に古い歴史がある。

因みに、「しで」は、

垂、
紙垂、
四手、

などと当て、

「垂づ(しづ)」の連用形、「しだれる」と同根であるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%99%E5%9E%82
垂ヅの義(大言海)、
シヅル(垂)・シズム(沈)のシヅと同根、シダル(垂)の他動詞形から(岩波古語辞典)、
シダレ(垂)の反(類聚名物考・嬉遊笑覧)、

など、動詞、

しづ(垂)、

からきているとあるように、

玉串、注連(しめなは)などに、垂(し)でかくるもの、古へ、多くは、木綿(ゆふ)を用ゐ、木綿四手など云ふ、紙を切りて用ゐるを紙四手と云ふ、

とある(大言海)。

しで(広辞苑).jpg

(しで 広辞苑より)

神に捧げるヌサの一種、

とある(岩波古語辞典)ように、「しで」の初出は、前出の、

天の香山の五百津真賢木(いほつまさかき)を根こじにこじて、上枝に八尺の勾玉の五百津の御すまる(美須麻流)の玉を取り著け、 中枝に八尺鏡を取り繋け、下枝には白丹寸手、青丹寸手を取り垂でて(古事記)、

と、岩戸の前で賢木の枝に下げた、

白丹寸手(しらにきて)、
青丹寸手(あをにきて)、

つまり「にぎて」で触れた、

白和幣(しらにぎて 白幣)は木綿の糸似て作り、色白ければ云ひ、青和幣(あをにぎて 青幣)は麻の糸にて作り、稍、青みれば云ふ、

である(大言海)。ここで、すでに、「にぎて」と「しで」は、区別が曖昧になっている。

「しで」は、祓具として、

玉串、
祓串、
御幣、

につける他に、注連縄に垂らして神域・祭場に用いる場合は、

聖域、

を表すhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%99%E5%9E%82。もともと、串に挿む紙垂は、

四角形の紙、

を用いたが、のちに、その下方両側に、紙を裁って折った紙垂を付すようになり、さらに後世には紙垂を直接串に挿むようになった(日本大百科全書)が、その断ち方・折り方にはいくつかの流派・形式があり、主なものに吉田流・白川流・伊勢流がある、とされる(仝上)。この形の由来については、

無限大の神威説(白い紙を交互に切り割くことによって、無限大を表わす)、

雷説(雷(稲妻)を表わしている)、

があるとされる(仝上)。

「幣」 漢字.gif

(「幣」 https://kakijun.jp/page/1517200.htmlより)

「幣」(漢音ヘイ、呉音ベ)は、

会意兼形声。敝の左側は「巾(ぬの)+八印二つ」の会意文字で、八印は左右両側に分ける意を含む。切り分けた布のこと。敝(ヘイ)は、破って切り分ける意。幣は「巾(ぬの)+音符敝」で、所用に応じて左右にわけて垂らし、または、二枚に切り分けた布のこと、

とある(漢字源)。別に、

形声。巾と、音符敝(ヘイ)とから成る。祭りや贈り物用の布、ひいて、礼物、また礼物の帛(はく)・玉などの財物に代えて銭が用いられるようになったことから、「ぜに」の意を表す、

とも(角川新字源)、

形声文字です(敝+巾)。「破れた衣服の象形とボクっという音を表す擬声語と右手の象形」(「破れる」の意味だが、ここでは、「拝」に通じ(「拝」と同じ意味を持つようになって)、「おがむ」の意味)と「頭に巻く布きれにひもを付けて、帯にさしこむ」象形(「布きれ」の意味)から、「神に拝み捧げる布」を意味する「幣」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji2025.html。「幣帛」(神にささげる白絹)として使われる。「ぬさ」「みてぐら」に当てたのは字義にかなっている。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

posted by Toshi at 03:16| Comment(0) | 言葉 | 更新情報をチェックする

2022年06月19日

つややか


「つややか」は、

艶やか、

と当て、

見やれば、木の間より水のおもてつややかにて、いとあわれなるここちす(かげろう日記)、

などと、

表面が美しく光って見えるさま、
光沢(つや)有りて、麗しく光って、

の意から、

桃の木わかだちて、いとしもとがちにさし出でたる、片つ方は青く、いま片枝は濃くつややかにて、蘇枋(すおう)の日かげに見えたるが(枕草子)、

と、

艶があって美しいさま、

にシフトし、さらに、

かしこまりてはなはだしう置きたれば、つややかなることはものせざりけり(かげろう日記)、

と、

色めいた感じのするさま、

の意へ変化していく(岩波古語辞典・大言海)。類聚名義抄(11~12世紀)に、

暉、つややかにして、

色葉字類抄(1177~81)に、

光、つややかなり、

とある。暉(キ)は、輝と同義で、「光」「輝く」意(漢字源)なので、原義は、

表面が美しく光って見えるさま、

になる。で、「つややか」に、

瑩瑩、

と当てるもの(大言海)もある。「瑩」(エイ)も、「光」「あきらか」の意(漢字源)である。

「つややか」は、

「つや」(艶)+接尾辞「やか」

とあるhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E3%81%A4%E3%82%84%E3%82%84%E3%81%8B。「やか」は、

奈良時代に、柔らかな感触を表す接尾語ヤがあって、ニコヤ・ナゴヤ・タワヤ・フハヤなどと擬態語の下に使われた。さらにその下に、目に見える状態の意から転じた接尾語カを加えて成立した語、

とあり(岩波古語辞典)、

しづやか、
さはやか、
しめやか、
こまやか、
そびやか、
つづやか、

など、

擬態語・擬音語を承けて、

あなうたて、このひとのたをやかならましかばと見えたり(源氏物語)、

と、

感じとして……である、
見た印象として……らしいさま、

の意で使う場合と、

つややか、
あてやか、
ふさか、
きはやか、

など、

名詞を承けて、

いとにほひやかに、うつくしげなる人の、いたう面やせて(仝上)、

と、

いかにも……の感じがするさま、
いかにも……らしいさま、

の意で使う場合、さらに、

あをやか、
ちかやか、
をかしやか、

など、

形容詞の語幹を承けて、形容詞のような直截的な断定を下すのを避けて、用例は少ないが、

なぎさにちひさやかなる舟よせて(仝上)、

と、

……の感じである、

など意で使う(仝上)。「やか」の類義語に、

いふかりし国のまほらばをつばらかに示し給はば(万葉集)、

と、

らか、

がある。「らか」は、

音のするさま、……という(見た目の)状態の意を表わし、古くはヤカとは相違していた。もともと奈良時代に、耳に聞く音のさま、目で見る物のさまを表わす接尾語ラがあって、カワラ・ヤララ・ツブラ・ハダラ・アカラ・ウスラなど、擬音語・擬態語及び形容詞語幹の下についた。さらにその下に接尾語カがついてラカが成立した。ヤカもラカも、その下にナリをともなって形容詞として働く。既に奈良時代に「はなやかに」「つばらかに」などの例があるが、平安時代初期から中期にかけてヤカ・ラカによる形容詞は盛んにつくられ、漢文訓読体・和文脈の両法に多い。ヤカとラカは、承ける語幹を異にするのが原則で、ニコヤカはニコラカとはならず、ツブラカはツブヤカとはならないが、ヤカとラカの意味上の区別は平安中期に至っては次第に明瞭でなくなる。平安中期以降は、ヤカ・ラカに代わって接尾語ゲが使われるようになり、鎌倉時代の軍記物語などでは、ヤカ・ラカを含む語の使用は激減した、

とある(仝上)。

なお、「つややか」の「つや」は、

艶、

と当てるが、

ツヤ(擬態語)、ツヤツヤのツヤ、

からきているとする(日本語源広辞典)。

つやつや、

は、

艶々、

とあて、平安時代から使われている(擬音語・擬態語辞典)とあるので、ありえるかもしれない。

「つや」は、

濃き衣のいとあざやかなる、つやなど月にはえて、をかしう見ゆる(枕草子)、

と、

ものの表面の美しくみずみずしい光沢、

の意だが、平安女流文学では、衣服について言う、とある(岩波古語辞典)。その意味から、

笛達者にて……拍子につやありて能く吹く(近代四座訳者目録)、

と、

美しくなめらかなこと、

の意で使うが、

つやのある声、

と言うように、

若々しく張りのある感じ、

の意や、

つやのある話、

と言うように、

味わいのある、

の意や、

つやもなくぞ言ひたりける(浄瑠璃・京童)、

と、

愛想、
愛嬌、
世辞、

の意で使い(広辞苑・岩波古語辞典)、

つやを云ふとは世辞を云ふ、

意とあり(大言海)、たとえば、

つやを付けて言う、

という言い回しは、

少し艶をつけて気に障(あ)てない様に言ひもしませうが(春色湊の花)、

と、

お上手をまぜて言う、

意となる(江戸語大辞典)。さらに、

艶もの、
艶ごと
艶ものがたり、
艶だね、

というように、江戸時代になると、

男女の情事に関したること、
色めいたこと、

の意でも使うようになる(大言海・広辞苑・江戸語大辞典)。これは、「艶」を当てたため、後述のように、漢字「艶」の意味の翳かと思われる。ただ、この意で、

つややか、

とはいわない。

また、「艶」を、

エン、

と漢字の音で訓むと、意味が変わる。

漢字としての意味は、美色。奈良時代には、華麗で輝くような男女の美しさにこの字を使う。平安時代の漢詩文では「艶情」「妖艶」など魅力的な美を言う。女流文学では、ハナヤカナリ・イロウ(彩)などがこれの意味に近い。しかし、それらの和語では表わしきれない、これこそが魅力的な、風情のある情景だ、しゃれて粋な感じだ、人の気をひく派手な様子だ、という場合の形容にこれを使う。進んでは思わせぶりな男女の振舞いをいう。和文脈でこの語を使ったのは清少納言・紫式部など限られた人で、漢文の素養によって、この漢語を、文学語として和文にも取り入れたものらしく、人によって異なった状況にこれを用いた。中世になると、歌謡などで、「艶にやさしい」と使うことが多く、優美さの一つの姿を言う、

とある(岩波古語辞典)。たとえば、紫式部は、

夕闇すぎておぼつかなき空の気色の曇らはしきりに、うちしめしたる宮の御けはひもいと艶なり(源氏物語)、

と、

情景・景色を眺めて個人の印象として、風情があるさま、

の意で、

鈍色の紙の、いとかうばしう艶なるに(仝上)、

と、

粋な、しゃれいる、

の意で、

近う呼び寄せ奉り給へるに、かの御移り香の、いみじう艶にしみかへり給へれば(仝上)、

と、

はっきりと目につくさま、はっきりと匂うさまも

の意で、

いたう言こめたれば、例の艶なると憎み給ふ(源氏物語)、
いとこそ艶に、われのみ世にはもののゆゑを知り、心深き、類(たぐひ)はあらじ(紫式部日記)、

と、

あでやかな魅力的なさま、また思わせぶりなさま、

の意でと、様々な含意を使い分けている(岩波古語辞典・広辞苑・精選版日本国語大辞典)。

「艷」 漢字.gif

(「艷」 https://kakijun.jp/page/E486200.htmlより)

「艶(艷)」(エン)は、「色ふ」http://ppnetwork.seesaa.net/article/484562978.htmlで触れたように、

会意。「色+豐(ゆたか)」で、色つやがゆたかなことをあらわす。色気がいっぱいつまっていること、

とあり(漢字源)、「艷話(えんわ)」のように、エロチックな意味もあるので、「つや」に、男女間の情事に関する意で「艶物(つやもの)」という使い方はわが国だけ(仝上)だが、語義から外れているわけではない。別に、同趣旨の、

本字は、形声で、意符豐(ほう ゆたか)と、音符𥁋(カフ)→(エム)とから成る。旧字は、会意で、色と、豐(ゆたか)とから成り、容色が豊かで美しい意を表す。常用漢字は俗字による、

とする(角川新字源)ものの他に、「豔・豓」と「艷」を区別して、「豔・豓」は、「艶」の旧字とし、

会意兼形声文字です(豐+盍)。「草・木が茂っている象形と頭がふくらみ脚が長い食器(たかつき)の象形」(「豊かに盛られた、たかつき」、「豊か」の意味)と「物をのせた皿にふたをした」象形(「覆う」の意味)から、顔形が豊かで満ち足りている事を意味し、そこから、「姿やしぐさが色っぽい(異性をひきつける魅力がある)」、「顔・形が美しい」を意味する「豔・豓」という漢字が成り立ちました、

とし、「艶(艷)」は、

会意文字です(豊(豐)+色)。「草・木が茂っている象形と頭がふくらみ脚が長い食器(たかつき)の象形」(「豊かに盛られた、たかつき」、「豊か」の意味)と「ひざまずく人」の象形と「ひざまずく人の上に人がある」象形(「男・女の愛する気持ち」の意味)から、「男・女の愛する気持ちが豊か」を意味する「艶」という漢字が成り立ちました、

とする説明もあるhttps://okjiten.jp/kanji2086.html

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
山口仲美編『擬音語・擬態語辞典』(講談社学術文庫)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

posted by Toshi at 03:12| Comment(0) | 言葉 | 更新情報をチェックする

2022年06月20日

ねんごろ


「ねんごろ」は、

懇ろ、

と当てる。

ネモコロの転(広辞苑・大言海・岩波古語辞典)、

とある。「ねもころに」は、

ネを根、

と見るのは同じだが、その解釈は、

根モコロの意、モコロは、同じ状態にある意、草木の根が、こまやかに絡み合って土の中にあるのと同様にの意(岩波古語辞典)、
ネは根なり、モコロは如の義、物の極(きはみ)と等しくの意ならむ(大言海・日本語源広辞典)
ネは根、ゴロは如の義。草木の根の行き渡るがごとき心配りの意(万葉集類林・俚言集覧・日本語源=賀茂百樹・和訓栞)、
コロはカラム(絡)のカラ、根も絡みつく程に(小学館古語大辞典・古代日本語文法の成立の研究=山口佳紀)、

と、「根」の絡み合って張っている如くとする説と、

ネ(根)+も+コロ(凝・凝りかたまる)、心根が凝り固まる程に真心をこめての意(日本語源広辞典)、
ネ(根)モ-ゴロ(凝)の転(国語の語根とその分類=大島正健)、

と、「根」が固まっている状態とする説、

に大別され、いずれも、

根の如く密に絡み合う、

意だが、前者は、

根の如く、

に、後者は、

密に絡み合う、

に重点がある(語源由来辞典)とする。その他に、

ネモは字音語ネム(念)、コロは形容詞クルシ(苦)の語根(続上代特殊仮名音義=森重敏)、
ネは系、モコロは庶兄弟姉妹の意、近親者の転義(日本古語大辞典=松岡静雄)、

等々もあるが、大勢は、

根の状態、

になぞらえていると思われる。「ねもころ」に、

懇、

の他に、

惻隠、

とも当てている(岩波古語辞典)ように、本来は、

見渡しの三室の山の巖菅(いはほすげ)ねもころ我は片思ひする(万葉集)、

と、

こまやかに情の絡むさま、

の意や、

あしひきの山に生ひたる菅(すげ)の根のねもころ見まく欲しき君かも(仝上)

と、

こまやかに、周到にものをみるさま、

の意や、

菅の根の君が結びてし我が紐の緒を解く人はあらじ(仝上)、

こまやかに心を遣うさま、

の意等々、

こまやかな心情表現、

を示す言葉である。上代には、副詞、

ねもころごろに、

と、

ねもころのコロを重ねて、

用いられ、

慇懃に、
惻隠惻隠に、
懇、

などと当て、「ねもころ」と似たように、たとえば、

菅の根のねもころごろにわが思へる妹に縁(よ)りては言の忌みもなくありこそと斎瓮(いはひべ)を斎ひ(仝上)

と、

こころこまやかに、

とか、

菅の根のねもころごろに照る日にも乾(ひ)めや我が袖妹に逢はずして(仝上)、

すみずみまで、至らぬところなく、

といった意味で使われた(岩波古語辞典)。中古に入って、

ネモコロ→ネムコロ→ネンゴロ、

と転じていく(日本語源大辞典)。で、

ねんごろ、

も、

ただ片時のほど、いと聞き侍らまほしきを、必ず聞かせ給へど、ねんごろに聞こえ給へば(宇津保物語)、

と、

こまやかに心遣いするさま、
真心を持ちて、

といった意味から、少しずつ、

地蔵を田の中の水に押しひたしてねんごろに洗ひけり(徒然草)、

と、

念入りに、
丁重に、

といった意や、

さる仲らひといふなかにも心かはしてねんごろなれば(源氏物語)、

と、

こまやかに情愛のからみあっていること、
仲が親密であること、

といった意へとシフトし、江戸時代になると、

鼓の師匠源右衛門とねんごろしてござらぬかと(浄瑠璃・堀川波鼓)、

と、

男女がひそかに情を通じる、

意へと意味を広げていく(岩波古語辞典・広辞苑・大言海)。江戸時代の用例では、

番頭が念頃(ねんごろ)に申てくれまする(お染久松色読取)、

と、

親切、
丁寧、

の意か、

私は、……お絹さんとは別けての御懇情(ごねんごろ)(軒並娘八丈)、

と、

親密な間柄、

の意が主となっていく(江戸語大辞典)。たとえば、

懇ろ切る、

というと、

おのれは傾城なれば飽いた時は懇ろ切る(浄瑠璃・用明天王職人鑑)、

と、

男女の関係を絶つ、

意になり(広辞苑)、

懇ろ分(ねんごろぶん)、

というと、

ねんごろな関係にある人

の意だが、特に、

衆道の兄弟分、

を指したらしい(仝上)。

今日の用例でいうと、

懇ろになる、

というと、ほぼ、

男女が仲の良い親しい関係になる、

意で、含意として、

肉体関係が入ってくる場合がある、

とある(語感の辞典)。

「懇」 漢字.gif

(「懇」 https://kakijun.jp/page/1706200.htmlより)

「懇」(コン)は、

会意兼形声。貇(コン)は深くしるしをつける意を含む。懇はそれを音符とし心を加えた字で、心を込めて深く念をおすこと、

とあり(漢字源)、「懇切」「懇情」などと使う。別に、

会意兼形声文字です(貇+心)。「獣が背を丸くして獲物に襲いかかろうとする象形と、人の目を強調した象形(「とどまる」の意味)」(「ふみとどまる」の意味)と「心臓」の象形から、一定の範囲内に心をふみとどめておく事を意味し、そこから、「ねんごろ(心がこもっているさま)」を意味する「懇」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji1580.html

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

ラベル:ねんごろ 懇ろ
posted by Toshi at 03:11| Comment(0) | 言葉 | 更新情報をチェックする