2022年06月21日

花客


「花客」は、

カカク(クワカク)、

と訓ませ、

華客、

とも当て、

花をみる人、
花見客、

の意だが、

客の美称、

で、

おとくい、
とか
顧客、

の意で使い、さらに、

花客を作らんが為め殊に手土産などに気を注ぐ事(三宅雪嶺「偽悪醜日本人(1891)」)、
大事なお花客(とくい)である(泉鏡花「薄紅梅」)、
赤毛布(あかゲット)が上花客(じょうとくい)でなくなった(夢野久作「街頭から見た新東京の裏面」)、

などと、

とくい →92.3%、
おとくい→7.7%、

とも訓ませるhttps://furigana.info/w/%E8%8A%B1%E5%AE%A2

ただ、岩波古語辞典、江戸語大辞典などには載らず、大言海に、

商家などにて、得意の客、得意先、買い付けのひと、

の意と載るが、用例が、近代以降のものしか見当たらない。

「花客」は、平安後期の書簡文および教科書「明衡往来」(藤原明衡)に、

乃時(ナイジ すぐその時)刑部大輔平所召古今和歌集。或花客借取。未被返送、

と、

客人、
来訪者、

の意で使われている(背精選版日本国語大辞典)。

その意味で、

客人→顧客、

の意味の変化は納得できるが、『字源』には、「花客」は、

顧客、
花主、
華客、

と同義とあり、

とくい、

の意とある。漢語なのかどうかははっきりしないが、

顧客、

は、わが国だけの使い方でもある(字源)が、「顧」には、

客の来訪を丁寧にいう語、

とあり、

来て目をかけてくださる意から、

顧客、
惠客(おいでくださる)、

と使う(漢字源)。それを、わが国で、意訳して、

御得意、

の意に転じて使っているのかもしれない。その意味で、

花(華)客、

にも、和風漢字の感じがなくもない。「花」は、漢字では、

桃李花、
落花流水、

と、

牡丹、

をさす(漢字源)、あるいは、

洛陽の人は単に牡丹を花と言ふ、

とあり(字源)、日本では、「花」の含意は、特に、

桜の花、

を指し、そこから、

盛り、
栄えること、
時めくこと、

といった意味を含み、

花代(祝儀)、
花形、
花盛り、

といった言い方をする。何となく、

花客、

は、それとつながる気がしてならない。勿論憶説だが。

「花」 漢字.gif

(「花」 https://kakijun.jp/page/hana200.htmlより)

「花」(漢音カ、呉音ケ)は、「はな」http://ppnetwork.seesaa.net/article/449051395.htmlでも触れたが、

会意兼形声。化(カ)は、たった人がすわった姿に変化したことをあらわす会意文字。花は「艸(植物)+音符化」で、つぼみが開き、咲いて散るというように、姿を著しく変える植物の部分、

とある(漢字源)。「華」は、

もと別字であったが、後に混用された、

とある(仝上)。別に、

会意兼形声文字です。「木の花や葉が長く垂れ下がる」象形と「弓のそりを正す道具」の象形(「弓なりに曲がる」の意味だが、ここでは、「姱(カ)」などに通じ、「美しい」の意味)から、「美しいはな」を意味する漢字が成り立ちました。その後、六朝時代(184~589)に「並び生えた草」の象形(「草」の意味)と「左右の人が点対称になるような形」の象形(「かわる」の意味)から、草の変化を意味し、そこから、「はな」を意味する「花」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji66.html

「華」 漢字.gif

(「華」 https://kakijun.jp/page/1069200.htmlより)

「華」(漢音カ、呉音ケ・ゲ)は、

会意兼形声。于(ウ)は、丨線が=につかえてまるく曲がったさま。それに植物の葉の垂れた形の垂を加えたのが華の原字。「艸+垂(たれる)+音符于」で、くぼんでまるく曲がる意を含む、

とあり(漢字源)、

菊華、

と、

中心のくぼんだ丸い花、

を指し、後に、

広く草木のはな、

の意となった(仝上)とする。ただ、上記の、

会意形声説。「艸」+「垂」+音符「于」。「于」は、ものがつかえて丸くなること。それに花が垂れた様を表す「垂」を加えたものが元の形。丸い花をあらわす、

とする(藤堂明保説)とは別に、

象形説。「はな」を象ったもので、「拝」の旁の形が元の形、音は「花」からの仮借、

とする説もあるhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E8%8F%AF。さらに、

会意形声。艸と、𠌶(クワ)とから成り、草木の美しい「はな」の意を表す、

ともある(角川新字源)。ただ、西周の金文(きんぶん)をみると、どの説もぴたりとこないのだが。

「華」 金文・殷.png

(「華」 金文・西周 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E8%8F%AFより)

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
簡野道明『字源』(角川書店)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

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2022年06月22日

言語ゲーム


ウィトゲンシュタイン(藤本隆志訳)『哲学探究』を読む。

ウィトゲンシュタイン全集 8 哲学探究.jpg


本書は、

「1936年(47歳)の夏ノルウェーで書きはじめ、1945年初頭までかかって英国のケンブリッジで完成した手稿(第一部)と、1947年末から1949年までに主としてアイルランドで書き下ろした手稿(第二部)とを、その死後、愛弟子であったG・E・MアンスコムとR・リーズがまとめて、1953年オクスフォードのバジル・ブラックウェル社から出版したもの」

で(訳者あとがき)、「後期ウィトゲンシュタインの代表作と目されている」(仝上)が、丁度その直前までの、『ウィトゲンシュタインの講義』http://ppnetwork.seesaa.net/article/488677234.html?1654452931とほぼ地続きになっていて、冒頭しばらく、『講義』の延長線であるかのような錯覚を感じながら読んでいた。著者が「序」で、

「この書物は、もともと一冊のアルバムにすぎない」

と書いているように、普通の著作のように論旨を展開するというよりは、著者の着想を、スナップ写真のように、ちりばめたという印象は強く、アフォリズムの連続のようで、一貫した論旨を最後まで貫徹していた『論理哲学論考』http://ppnetwork.seesaa.net/article/488074547.htmlに比べると、言葉は悪いが、気づいたことを羅列しただけという印象はぬぐえない。そのために、書かれていることの意図が、理解できない箇所が何ヶ所もあって困惑させられた。

しかし、それでも、僕は、今回の読み直しで、二つのことに気づいた。

ひとつは、著者の有名な、

言語ゲーム、

にかかわる、言語のもつ、

文脈依存性、

ということについて、

いまひとつは、『論理哲学論考』での、

言語は世界を写す像である

とする、現実と言語との関係を、

~としてみる、

ということで180度ひっくり返したことについて、である。

言語ゲーム、

について、本書で、

「語の慣用の全過程を、子供がそれを介して自分の母国語を学びとるゲームの一つだ、と考えることができよう。わたくしは、こうしたゲームを『言語ゲーム』と呼び、ある原初的な言語をしばしば言語ゲームとして語ることにする。
 すると、石を名ざしたり、あらかじめ言われた語をあとから発音するような過程もまた、言語ゲームと呼ぶことができるだろう。円陣ゲームの際用いられる語について、いろいろ慣用例を考えてみよ。
 わたくしはまた、言語と言語の織り込まれた諸活動との総体をも言語ゲームとよぶ。」

と定義している。これは、

「ゲームというものは、ひとがある規則にしたがって物体を一平面上で移動させることによって成り立っている」

というゲーム観に対して示された言語観と言っていい。それは、例えば、シンプルな、

馬鹿!

という言葉が、

ばかやろう、
お前は馬鹿か、
ちがうだろう、
覚えろ、
駄目なひとねぇ、
あなたはばかねぇ、
おばかんさん、

等々様々な含意を持つのは、

「ここでは言語を話すということが、一つの活動ないし生活様式の一部である」

からであり、それを、

言語ゲーム、

と呼んでいるのである。それは違う言い方をすれば、

文脈依存、

ということになる。文字表現になった時も、

「語は文脈の中でのみ意味をもつ」(フレーゲ)

ことは同じだが、文字表現された「ことば」の含意に多く引きずられがちになる。特に、日本語だと、漢字の含意に引き寄せられることになるが、口頭の会話では、両者は同じ文脈で、同じ時間経過の中で、同じ体験をしている。そこでは、発せられた言葉は、

その状況(場、雰囲気、時間、関係性、表情、口調、言い方、その前の相手の言葉等々)に依拠している、

のである。だから、

「現象のすべてに対して同じことばを適用しているからといって、それらに共通なものなど何一つなく、――これらの現象は互いに多くの異なったしかたで類似している」

というしか言いようがないのである。ゲームの類似性を、

家族的類似性、

といい、それを

「互いに重なり合ったり、交差し合ったりしている複雑な類似性の網目を、大まかな類似性やこまやかな類似性を見ているのである」

というのはそういう意味で、「言語ゲーム」は、「概念の外延が何らかの境界によって閉ざされない」、

ピンボケの概念、

という。それは、別の言い方をすると、

ゆらぎ、

ではないのか。『論理哲学論考』でいう、

「命題は現実の像である。なぜなら、命題を理解するとき、私はその命題が描写している状況を把握し、しかもそのさい意味の説明を必要としたりはしないからである。」

現実と言語を一対一対応させようとした言語観とは180度違っている。それは、

生活現場、

では、

微妙に揺らぐ、意味の振幅、

があるからである。

いまひとつは、『論理哲学論考』で、

「世界が私の世界であることは、この言語(私が理解する唯一の言語)の限界が私の世界の限界を意味することに示されている。」

といった、

言語化の限界、

をも、180度ひっくり返したことである。

「言語そのものが思想の乗り物なのである。」

といい、

「自分たちはいつもことばによって考えている」
「〈痛み〉という概念を、あなたは言語とともに学んだのである。」

などというとき、言語は、「現実を写す像」ではないし、思いや、現実を捉える手段でもなく、逆に、言語こそが現実を見る(捉える)主体に変わっているのである。それを、

~として見る、

と、「見る」のさまざまにシチュエーションを想定しながら、

見なす、

とか、

そう見る、

とか言い変えつつ、「うさぎ―あひるの頭」を例に、

うさぎ-あひる.jpg

(うさぎ―あひるの頭 本書より)

「〈……として見る〉というのは知覚の一部ではない。そのために、それを見ることのようでもあり、また見ることのようでもない。」

と反芻しながら、

「それら二つの動物の形態を熟知しているひとだけが、〈うさぎとあひるの風景相(アスペクト)を見る〉」

と言うにとどめた。ウィトゲンシュタインがここまででとどめたことを、N.R.ハンソンは、

なぜ、同じ空を見ていて、ケプラーは、地球が回っていると見、ティコ・ブラーエは、太陽が回っていると見るのか?あるいは、同じく木から林檎が落ちるのを見て、ニュートンは万有引力を見、他人にはそうは見えないのか?

と問い、こういう例で説明したhttp://ppnetwork.c.ooco.jp/view04.htm

“見る”とは、次の図を、

これは何.gif


木によじ登っている熊として見ることであり、それは、九十度回転したら、次のような様子が現れるだろうことを見るのである、とする。

これは何・熊.gif


つまり、われわれは対象に自分の知識・経験を見る。あるいは知識でつけた文脈を見る。つまり、

もっている言葉によって見える世界が違う、

ということだ。同じことを、ゲーテは、

われわれは知っているものだけをみる、

と言った。ここまでウィトゲンシュタインの意図を収斂することが正しいかどうかは分からないが、ウィトゲンシュタインは、

現実を写す言語、

から、

言語が現実を見せる、

へと転換したということだけは確かに思える。ウィトゲンシュタインは、末尾近くで、

「長さとは何であるかを、長さの決定方法によって説明することはできない。(中略)〈長さをさらに精確に測る〉ことを、ひとは、ある対象にもっと近づくことと比較したがる。しかし、(中略)ひとは、長さの何たるか、決定することの何たるかを学ぶことによって学ぶのではない。そうではなく、『長さ』という語の意味を、ひとはとりわけ長さの決定ということがどういうことなのかを学ぶことによって、学ぶのである。」

と書いていることから、この意図は十分読み取れる。

参考文献;
ウィトゲンシュタイン(藤本隆志訳)『哲学探究(ウィトゲンシュタイン全集8)』(大修館書店)
N・R・ハンソン(野家啓一・渡辺博訳)『知覚と発見』(紀伊国屋書店)

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2022年06月23日

あまのじゃく


「あまのじゃく」は、

天邪鬼、
天邪久、

などと当て、昔話「瓜子姫」などに出てくる、

他人の心中を察することが巧みで、口まね、物まねなどして人に逆らい、人の邪魔をする悪い精霊、

とされる(広辞苑・岩波古語辞典)が、

妖怪(ようかい)とも精霊とも決めがたい、

ともある(日本大百科全書)。「瓜子姫」の話は、

子宝に恵まれない老夫婦が川で拾った瓜から小さな女の子が生れる。美しく成長したのち、殿様の嫁に望まれるが、あまのじゃくが老夫婦の留守中に姫を木に縛りつけ、嫁入りを妨げる。しかし鳥がそれを助け、姫は無事に嫁入りをし、幸福な結末を得る、

といった筋だが、別に、

東日本ではじいさんとおばあさんが町に買い物にでている間に天邪鬼にだまされて、連れ去られ殺されてしまうという結末になっているものが多いが、言葉巧みに柿の木に上らされ墜落死するという筋のものや、ただ殺されるのみならず剥いだ生皮を天邪鬼がかぶり、着物を着て姫に成りすまし老夫婦に姫の肉を料理して食わせるといった陰惨な話も伝えられる。西日本では対照的に、木から吊るされたり降りられなくなっているだけで死んではおらず、助けられるという話になっていることが多い、

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%86%E3%82%8A%E3%81%93%E3%81%B2%E3%82%81%E3%81%A8%E3%81%82%E3%81%BE%E3%81%AE%E3%81%98%E3%82%83%E3%81%8F等々様々のバリエーションがある。しかし、「あまのじゃく」は、

神の計画の妨害者であり、しかも通例は「負ける敵」、

で、

意地が悪くて常に神に逆らうとはいうものの、もとより神に敵するまでの力はなく、しかも常に負けるものの憎らしさと可笑味とを具えていた、

とあり(柳田國男「桃太郎の誕生」)、

神の引き立て役、

で(日本昔話事典)、その特徴を、第一に、

彼の所行というものが、いつの場合にもぶち壊しであり、また文字通りの邪魔であって、いまだかつてシテの役にまわったことはなく、相手なしには何事も企てていないこと、

第二に、

彼の存在がただ興味ある語りごとの中にのみ伝わっていること、

第三に、

その事蹟が、憎らしいとは言いながらも常に幾分の滑稽をおびていたこと、

を挙げている(柳田・前掲書)。昔話、民話では、アマノジャクの代わりに、

山母(やまはは)、
山姥(やまうば・やまんば)、

とされたり、近世には、

アマノジャクもまた山の神、

とされたりしたが、この混同は、

山の反響が人の声を真似るのを、……土地によってこれをヤマンボともいえば、あるいはまたアマノジャクともいう、

ということかららしく、「あまのじゃく」も、

山の中の魔物、

とひとくくりにされ、

アマノジャクの方が原(もと)の形、

であろうと推定している(仝上)。

天邪鬼(十返舎一九).jpg

(「天邪鬼」(十返舎一九) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E9%82%AA%E9%AC%BCより)

「あまのじゃく」は、

アマノザコ、
アマノジャコ、
アマンジャク、
アマノザク、
アマンジャメ、
アマノジャキ、
アマンシャグメ、
アマノサグメ、

などとも言い(精選版日本国語大辞典・日本昔話事典)、古事記の、

(天若日子が葦原中国を平定するために天照大神によって遣わされたが、務めを忘れて大国主神の娘を妻として8年も経って戻らなかったため、使者として遣わされた)鳴女(なきめ)、夫より降りて、天若日子(あめわかひこ)の門に居て、天神(あまつかみ)の詔を告(の)る、「天佐具間(あまのさぐめ)、聞此鳥言而語天若日子言、此鳥者、其鳴音甚惡、故可射殺云進(いひすすむ)」(鳴女は、天神の御使の雉の名なり)、

にある、

天佐具間(あまのさぐめ)、

あるいは、神代紀の、

天探女、此云阿麻能左愚謎(あまのさぐめ)、

の、

天探女(あまのさぐめ)の転、

とされる(広辞苑・大言海・岩波古語辞典・壒嚢抄・俗語考等々)。確かに、『日本書紀』の注釈書『日本書紀纂疏』(にほんしょきさんそ 一条兼良)には、

稚彦(わかひこ)之侍婢也(口訣(口伝)「天探女者、従神讒女也」、

とあり、

忌部家古説に、探女、探他心多邪思也、

ともあるので、

少なくともその名称は神代史の天之探女を承け継いだものということはまず確か、

とされる(柳田・前掲書)が、しかし、

難波高津は、天稚彦、天降りし時、屬(つ)きて下れる神、天探女、磐船に乗て爰に至る、天磐船の泊つる故を以て、高津と號(なづ)く、

ともあり(万葉代匠記)、

「天之探女の何物であるかが、きわめてうろんであったことも昨今のことではなかった。『日本書紀』の一書にはこれを国神(くにつかみ)と記しているのに、『倭名鈔』は鬼魅(きみ)類に編入している。後世の諸註にもあるいはこれに従神(じゅうしん)といい、また天稚彦(あめのわかひこ)の侍女であったと解しているが、果たして万葉集の歌(久方の天之探女之石船(いはふね)の泊てし高津は浅(あ)せるにけるかも)の歌にあるごとく、石船に乗って天降った神ならば、國神であったはずはないので、つまりは今あるわずかな記録ばかりでは、どうしてもその本体を突き留める途がなかった」

としている(柳田・前掲書)ように、「天探女」の実像ははっきりしない。ただ、「あまのさぐめ」の語源が、

ザグはサグル(探)の語根(古事記伝・大言海)、
サグはこまっしゃくれるという意のサクジルと同義(俚言集覧)、
サグメは巫女の名であろう(日本古語大辞典=松岡静雄)、

とあるなど、その名が表すように、

天の動きや未来、人の心などを探ることができるシャーマン的な存在、

と見られhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E9%82%AA%E9%AC%BC、天探女の、

他者の邪念を探ってそそのかしたことから、人の意向に逆らう邪悪な存在、心理を表す、

という意の言葉に転じ、

何事でも人の意に逆らった行動をすること、またその人、

を指すようになっていったと思われる(日本語源大辞典)とある。それ故、

瓜子姫譚を始め数多くの民間説話にも、負け滅びる悪役や、相手の意に逆らう悪戯者として登場するが、特に、他者の意を測り(サグル)、それを模倣する(モドク)ことで相手に違和感や反発を覚えさせる型のものが、上代神話の天探女と、人に逆らう、素直でないものという現在の意味と連なる、

とされている(仝上)。日葡辞書(1603~04)には、

アマノザコAmanozaco――ものをいうといわれる獣(けだもの)の名。また出しゃばって口数の多い者、

とあり、「あまのじゃく」というものから、ちょうど、そのことばが、意味として分離しつつある過渡と見える。

四天王の足下に踏みつけられている天邪鬼.bmp

(多聞天の足下に踏みつけられている天邪鬼(西大寺蔵) 精選版日本国語大辞典より)

むしろ、「あまのじゃく」イメージは、民間に広まった説話・伝承の影響の方が大きいのかもしれない。

かつては莖一面についていた五穀の実をしごいて穂先だけちょっぴり残したのも、
田畑に雑草の種、野山には人の困る茨の種をまいて歩いたのも、
一年中しのぎやすい気候だったのに夏冬をつくったのも、
橋や池の完成を邪魔して妨げたのも、
赤い根の穀物、菜類は、人間にはもったいないと手でしごいて赤くしたのも、

すべて「あまのじゃく」のしわざであった。こうして「あまのじゃく」は、

百姓の讐(かたき)、

となる(柳田・前掲書)。だから、

九州の方では毘沙門天、東国ではまた路の傍の庚申さんが、足下に踏みつけられている醜い石の像を「あまのじゃく」と思っている者はおおいのである、

とある(仝上)。仏教由来の「あまのじゃく」とされるものは、

毘沙門の鎧の前に鬼面あり。其名如何常には是を河伯面と云。……或書に云。河伯面、是を海若(アマノジャク)と云(「壒嚢鈔( あいのうしょう 1445~6)」)

とあるように、人間の煩悩を表す象徴として、

四天王(持国天、増長天、広目天、多聞天)や執金剛神(金剛杵を執って仏法を守護する)に踏みつけられている悪鬼、

また、

四天王の一である毘沙門天像の鎧の腹部にある鬼面、

とも称されるが、これは鬼面の鬼が中国の、

河伯(かはく 海若とも)、

という水鬼に由来し(『荘子』秋水篇)、同じ中国の水鬼である、

海若(かいじゃく)、

が「あまのじゃく」と訓読されるように、日本古来の天邪鬼と習合され、足下の鬼類をも指して言うようになった、とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E9%82%AA%E9%AC%BC・日本大百科全書)。なお、「執金剛神」については、「那羅延」http://ppnetwork.seesaa.net/article/486035712.htmlで触れたし、「庚申」については「庚申待」http://ppnetwork.seesaa.net/article/488918266.html?1655318574で触れた。

仏教における「天邪鬼」 (2).jpg

(煩悩を踏みつけられている様とされる、四天王や執金剛神に踏みつけられている「天邪鬼」 http://honmonoyoukai.seesaa.net/article/433609387.htmlより)


天邪鬼を踏みつける青面金剛.jpg

(天邪鬼を踏みつける庚申の本尊「青面金剛」 https://arukunodaisuki.hamazo.tv/e8533905.html

江戸時代の『和漢三才図会』では或る書からの引用として、

スサノオが吐き出した体内の猛気が天逆毎(あまのざこ)という女神になった、

とあり、これが、

天邪鬼

天狗、

の祖先としているhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E9%82%AA%E9%AC%BC

天逆毎(鳥山石燕『今昔画図続百鬼』より).jpg

(「天逆毎」(鳥山石燕『今昔画図続百鬼』) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E9%80%86%E6%AF%8Eより)

天逆毎(あまのざこ)は、

スサノオが体内にたまった猛気を吐き出し、その猛気が形を成すことで誕生したとされる。姿は人間に近いものの、顔は獣のようで、高い鼻、長い耳と牙を持つ。物事が意のままにならないと荒れ狂う性格で、力のある神をも千里の彼方へと投げ飛ばし、鋭い武器でもその牙で噛み壊すほどの荒れようだとされている、

とし(和漢三才図絵)、鳥山石燕は、『今昔画図続百鬼』に、それを引用して、

或る書に云ふ、素戔嗚尊は猛気胸に満ち、吐て一の神を為す。人身獣首、鼻高く耳長し。大力の神と雖も、鼻に懸て千里を走る。強堅の刀と雖も、噛み砕て段々と作す。天の逆毎(ざこ)と名づく。天の逆気を服し、独身にして児を生む。天の魔雄(さく)と名づく、

と記す。天魔雄(あまのさく)は、後に、

九天の王となり、荒ぶる神や逆らう神は皆、この魔神に属した。彼らが人々の心に取り憑くことによって、賢い者も愚かな者も皆、心を乱されてしまう、

されている(先代旧事本紀大成経)。ただ、この記事は、『先代旧事本紀大成経』に依ると思われるが、同署は偽書とされており、これに基づいたとみられる『和漢三才図絵』の記述は、疑わしいとみられているhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E9%80%86%E6%AF%8E

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
稲田浩二他編『日本昔話事典』(弘文堂)
柳田國男『桃太郎の誕生』(ちくま文庫)
鳥山石燕『画図百鬼夜行全画集』(角川ソフィア文庫)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
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2022年06月24日

祇園


「祇園」は、

祇陀林(ぎだりん)、

という。

中印度、舎衛城(しゃえいじょう シュラーヴァスティー 古代インドのコーサラ国にあった首都)の南、祇陀太子(ぎだたいし)の園林、頭を取りて祇園と云ひ、須達長者(すだつちょうじゃ)がこの地を買い、広大なる寺を建てたるを、祇陀林(ぎだりん)寺、又祇園精舎と云ふ、須達の異称を、給孤独とも云ふに因りて、給孤独園(ぎっこどくおん)、略して孤独園とも云ふ。これを釈迦に献じたれば、釈迦多く、この園にて説教せりと云ふ、

とある(大言海・広辞苑)。従って、「祇園精舎」は、阿弥陀経に、

舎衛(しゃえい)国祇樹給孤独園(ぎじゅぎっこどくおん)、

とあるように、

祇樹給孤独園精舎(ぎじゅぎっこどくおんしょうじゃ)の略、

であるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%87%E5%9C%92%E7%B2%BE%E8%88%8E。「須達」、つまり、

スダッタ(Sudatta 須達多)、

が、

給孤独者、
あるいは、
給孤独長者(アナータピンディカ Anāthapiṇḍada)、

と呼ばれていたのは、

身寄りのない者を憐れんで食事を給していたため、

とあり、元々、釈迦の大口支援者であったらしい(仝上)。

祇園精舎の風景.jpg


なお、「精舎」は、

サンスクリット語Vihāra(ヴィハーラ、ビハーラ)、

で、

仏教の比丘(出家修行者)が住する修道施設、

つまり、

寺院、
僧院、

のことである(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B2%BE%E8%88%8E・岩波古語辞典)。

また、「祇園」には、

祇園精舎、

の意の他に、

行疫神(ぎょうえきしん)である牛頭天王(ごずてんのう)に対する信仰、

である、

祇園信仰、

の意があり、

災厄や疫病をもたらす御霊(ごりよう)を慰め遷(ウツ)して平安を祈願するもので、主として都市部で盛んに信仰された。祇園祭・天王(てんのう)祭・蘇民(そみん)祭などの名で各地で祭りが行われる、

とある(大辞林)。因みに、行疫神(ぎょうやくじん・ぎょうえきしん)とは、

流行病をひろめる神、

で、

厄病神、

ともいい、

疫病神、
疱瘡神、

と同趣の神になり、

疫病(エヤミ、トキノケと称した)などの災厄は古くは神のたたりや不業の死をとげた者の怨霊や御霊(ごりよう)のたたりと観念され、厄病神も御霊の一つの発現様式、

と見なしていた(世界大百科事典)。なお、「怨霊」http://ppnetwork.seesaa.net/article/407475215.htmlについては、触れたことがある。

牛頭天王(ごずてんのう)は、もともと、

祇園精舎(しょうじゃ)の守護神、

であったが、

蘇民将来説話の武塔天神と同一視され薬師如来の垂迹であるとともにスサノオの本地ともされた、

とありhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%9B%E9%A0%AD%E5%A4%A9%E7%8E%8B

武塔天神(むとうてんじん)、

あるいは、京都八坂(やさか)神社(祇園(ぎおん)社)の祭神として、

祇園天神、

ともいう(日本大百科全書)。「ごづ」は、

牛頭(ぎゅうとう)の呉音、此の神の梵名は、Gavagriva(瞿摩掲利婆)なり、瞿摩は、牛と訳し、掲利婆は、頭と訳す、圖する所の像、頂に牛頭を戴けり、

とあり(大言海)、

忿怒鬼神の類、

とし、

縛撃癘鬼禳除疫難(『天刑星秘密気儀軌』)、

とある(大言海)。これが、

素戔嗚を垂迹、

としたのは、鎌倉時代後半の『釈日本紀』(卜部兼方)に引用された『備後国風土記』逸文にある、

蘇民将来に除疫の茅輪(ちのわ)を与えし故事による、

とある(仝上)。すなわち、

備後國風土記曰、疫隅國社、昔北海坐志(マシシ)武塔神、南海神之女子乎(ムスメヲ)、與波比爾(ニ)出坐爾(ニ)、日暮多利(タリ)、彼所爾(ニ)、蘇民将来、巨旦将来二人在支(アリキ)、兄蘇民将来甚貧窮、弟巨旦将来富饒、屋倉一百在支、爰仁(ココニ)武塔神借宿處、惜而不借、兄蘇民将来借奉留(ル)、即以粟柄為座、以粟飯等饗奉留(ル)、饗奉既畢、出坐後爾(ニ)、経年率八柱子、還来天(テ)詔久(ク)、我将奉之為報答、曰、汝子孫其家爾(ニ)在哉止(ト)問給、蘇民将来答申久(マヲサク)、己女子與斯婦侍止(サモラフト)申須(ス)、即詔久(ク)、以茅輪令着於腰上、随詔令着、即夜爾(ソノヨルニ)、蘇民與女人二人乎(ヲ)置天(テ)、皆悉許呂志保呂保志天伎(コロシホロボシテキ)、即時仁(ソノトキニ)詔久(ツク)、吾者、連須佐能雄神也、後世仁(ノチノヨニ)疫気在者、汝蘇民将来之子孫(ウミノコ)止云天(トイヒテ)、以茅輪着腰上、随詔令、即家在人者将免止(ト)詔伎(キ)、

とある(釈日本紀)。要は、

北海の武塔天神が南海の女のもとに出かける途中で宿を求めたとき、兄弟のうち、豊かであった弟の巨旦将来(こたんしょうらい)はこれを拒み、貧しかった兄蘇民将来(そみんしょうらい)は髪を厚遇した。のちに武塔天神が八柱の子をともなって再訪したとき、蘇民将来の妻と娘には恩返しとして、腰に茅の輪を着けさせた。その夜、巨旦将来の一族はすべて疫病で死んだ。神は、ハヤスサノオと名のり、後世に疫病が流行ったときは、蘇民将来の子孫と称して茅の輪を腰につけると、災厄を免れると約束した、

というものである(日本伝奇伝説大辞典)。で、平安末期『色葉字類抄』は、

牛頭天王の因縁。天竺より北方に国有り。その名を九相と曰ふ。其の中に国有り。名を吉祥と曰ふ。其の国の中に城有り。牛頭天王、又の名は武塔天神と曰ふ、

とあり、

沙渇羅(娑伽羅、沙羯羅 しゃがら)竜王の娘と結婚して八王子を生み、8万4654の眷属神をもつ、

とある(世界大百科事典)。

牛頭天王と素戔嗚尊の習合神である祇園大明神(仏像図彙 1783年).png

(牛頭天王と素戔嗚尊の習合神である祇園大明神(仏像図彙 1783年) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%87%E5%9C%92%E4%BF%A1%E4%BB%B0より)

『三国相伝陰陽輨轄簠簋内伝金烏玉兎集(簠簋(ほき)内伝)』(安倍晴明編)には、

北天竺摩訶陀国、霊鷲山の丑寅、波尸城の西に、吉祥天の源、王舍城の大王を名づけて、商貴帝と号す。曾、帝釈天に仕へ、善現に居す。三界に遊戯す。諸星の探題を蒙りて、名づけて天刑星と号す。信敬の志深きに依りて、今、娑婆世界に下生(げしょう)して、改めて牛頭天王と号す。元は是、毘盧遮那如来の化身なり、

とあり、さらに、

簠簋内傳に、蘇民が事を以て、印度の伝説に基づくとなしたり、然れば、蘇民は、元印度の神にて、疫疾を祓うことを司りしを、両部習合の説、我国に行われて、素戔嗚尊の本地を、牛頭天王となししより、蘇民が事を付会することとなり、遂に、祇園社の摂社として、蘇民が祠を設くるに至りしなるべし、

ということになる(日本百科大辞典・大言海)。

奈良時代から平安時代にかけて天災や疫病の流行が続いたが、それを、怨みを持って死んだり非業の死を遂げた人間の「怨霊」のしわざと見なして畏怖し、これを鎮めて「御霊」とすることにより祟りを免れ、平穏と繁栄を実現しようとする、

御霊信仰(ごりょうしんこう)、

を背景に、それを鎮めるために、

祇園御霊会(御霊会)、

が始まり、

牛頭天王、

が、貞観十一年(869)清和天皇の代、感神院(かんしんいん 八坂神社)に勧請(かんじょう)され、祇園御霊会は、

10世紀後半には京の市民によって祇園社(現在の八坂神社)で行われるようになり、祇園社の6月の例祭として定着、天延三年(975)には朝廷の奉幣を受ける祭となる。後の祇園祭である。中世までには祇園信仰が全国に広まり、牛頭天王を祀る祇園社あるいは牛頭天王社が作られた、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%87%E5%9C%92%E4%BF%A1%E4%BB%B0

祇園社の由来については、

牛頭天皇、初て播磨国明石浦(兵庫県明石市一帯の海岸)に垂迹し、広峯(広峯神社 兵庫県姫路市広嶺山)に移る。其の後、北白川東光寺(岡崎神社 京都市左京区岡崎東天王町)に移る。其の後、人皇五十七代陽成院元慶年間(877~885)に感神院に移る、

とある(吉田兼倶『二十二社註式』)。また、

託宣に曰く、我れ天竺祇園精舎守護の神云々。故に祇園社と号す(『二十二社記』)とあり、

祇園天神、
婆利采女(ばりさいにょ)、
八王子、

を祭って、承平五年(953)六月十三日、

観慶寺を以て定額寺と為す、

と官符に記され、別名、

祇園寺、

といった(http://www.lares.dti.ne.jp/hisadome/shinto-shu/files/12.html・日本伝奇伝説大辞典)。「祇園天神」とは、

武塔天神と同一視され、薬師如来の垂迹であるとともにスサノオの本地ともされた、牛頭天王(ごずてんのう)、

のことであり、「婆利采女」とは、

牛頭天王の妃の名。沙伽羅(しゃがら)龍王の三女、

とされる。「八王子」とは、『備後国風土記』逸文にある、

武塔神の八柱の子、

であり、牛頭天王と同一視されているから、

婆利采女との間の子、

ということになる(精選版日本国語大辞典・http://www.lares.dti.ne.jp/hisadome/shinto-shu/files/12.html)のだが、八坂神社、つまり祇園社の祭神、

祇園の神、

は、

素戔嗚尊、
少将井の宮(奇稲田姫命 くしなだひめのみこと)、
八柱御子神(やはしらのみこがみ)、

で、この八柱は、

素戔嗚の五男三女、

とある(広辞苑・https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E5%9D%82%E7%A5%9E%E7%A4%BE)。ただ、別に、八柱御子神は、

天照大神の五男三女神、

ともある(精選版日本国語大辞典・デジタル大辞泉・大言海)。普通に考えると、素戔嗚尊、奇稲田姫命の子供ということだろう。

「祇」 漢字.gif

(「祇」 https://kakijun.jp/page/gi08200.htmlより)

「祇」(漢音キ、呉音ギ)は、

会意兼形声。「氏+音符示(キ・シ 祭壇)」で、氏神としてまつる土地神。示(キ)と同じ、

とあり、「神祇(ジンギ)」「地祇(チギ 地の神)」と使う。

祇攪我心(ただ我が心を攪すのみ)、

と、「祗(シ)」や只(シ)と同じに用いる場合、「祇」を「祗」の字と混用したもの、

とある(漢字源)。別に、

会意兼形声文字です(示(ネ)+氏)。「神にいけにえをささげる台」の象形(「祖先の神」の意味)と「刃物で目を突き刺しつぶれた目」の象形(「目をつぶされた被支配族」、「人間」の意味)から、人々の「神(かみ)」を「祇」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji2620.html

「園」(漢音エン、呉音オン)は、「竹園」http://ppnetwork.seesaa.net/article/486160699.htmlで触れたように、

会意兼形声。袁(エン)は、ゆったりとからだを囲む衣。園は「囗(かこし)+音符袁」、

とある(漢字源)。別に、

形声。囗と、音符袁(ヱン)とから成る。果樹・野菜などを植える「その」の意を表す、

とも(角川新字源)、

形声文字です。「周辺を取り巻く線」(「囲(かこ)い」の意味)と「足跡・玉・衣服」の象形(衣服の中に玉を入れ、旅立ちの安全を祈るさまから、「遠ざかる」の意味だが、ここでは、「圜(えん)」に通じ(同じ読みを持つ「圜」と同じ意味を持つようになって)、「巡る」の意味)から、囲いを巡らせた「その」を意味する「園」という漢字が成り立ちました、

ともhttps://okjiten.jp/kanji270.htmlある。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
乾克己他編『日本伝奇伝説大辞典』(角川書店)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

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2022年06月25日

後の千金


「後の千金」(のちのせんきん)は、

せっかくの援助も、時を失してはなんの効果もないことのたとえ、

にいう。「轍魚」http://ppnetwork.seesaa.net/article/484816260.htmlで触れた、『荘子』外物の、

莊周家貧、故往貸粟於監河侯、監河侯曰、諾我將得邑金、將貸子三百金、可乎、莊周忿然作色曰、周昨來、有中道而呼者、周顧視、車轍中、有鮒魚焉、周問之曰、鮒魚來、子何為者邪、對曰、我東海之波臣也、君豈有斗升之水而活我哉、周曰、諾我且南遊子呉越之王、激西江之水而迎子、可乎、鮒魚忿然作色曰、吾失我常與、我無所處。吾得斗升之水然活耳、君乃言此、曾不如早索我於枯魚之肆、

による(字源)。常與は水、の意。貧乏な莊周(荘子)が、

貸粟、

と頼んだところ、監河侯が、

諾我將得邑金、將貸子三百金、

と悠長なことを言ったのに対し、轍の鮒を喩えて、莊周が、

昨來、有中道而呼者、

見ると、

車轍中、有鮒魚焉、

その轍の鮒に、

君豈有斗升之水而活我哉、

と、一斗一升の水が欲しいと求められたのに対し、

諾我且南遊子呉越之王、激西江之水而迎子、

と間遠な答えをしたところ、

鮒魚忿然作色曰、吾失我常與、我無所處。吾得斗升之水然活耳、

と鮒が憤然として、そのように言うなら、

枯魚之肆、

つまり干物屋で会おうと言われたといって、監河侯をなじったのに由来する(故事ことわざの辞典)。これを、『宇治拾遺物語』に、「後ノ千金ノ事」と題して、まるで隣家にちょっと借米に行ったような話に変わっているが、

今はむかし、もろこしに荘子(さうじ)といふ人ありけり。家いみじう貧づしくて、けふの食物たえぬ。隣にかんあとうといふ人ありけり。それがもとへけふ食ふべき料(れふ)の粟(ぞく 玄米)をこふ。あとうがいはく、「今五日ありておはせよ。千両の金を得んとす。それをたてまつらん。いかでか、やんごとなき人に、けふまゐるばかりの粟をばたてまつらん。返々(かへすがへす)おのがはぢなるべし」といへば、荘子のいはく、「昨日道をまかりしに、あとに呼ばふこゑあり。かへりみれば人なし。ただ車の輪のあとのくぼみたる所にたまりたる少水に(せうすい)に、鮒(ふな)一(ひとつ)ふためく。なにぞのふなにかあらんと思ひて、よりてみれば、すこしばかりの水にいみじう大(おほ)きなるふなあり。『なにぞの鮒ぞ』ととへば、鮒のいはく、『我は河伯神(かはくしん)の使(つかい)に、江湖(かうこ)へ行也。それがとびそこなひて、此溝に落入りたるなり。喉(のど)かはき、しなんとす。我をたすけよと思てよびつるなり』といふ。答へて曰く、『我今二三日ありて、江湖(かうこ)といふ所にあそびしにいかんとす。そこにもて行て、放さん』といふに、魚のはく、『さらにそれまで、え待つまじ。ただけふ一提(ひとひさげ)ばかりの水をもて喉をうるへよ』といひしかば、さてなんたすけし。鮒のいひしこと我が身に知りぬ。さらにけふの命、物くはずはいくべからず。後(のち)の千のこがねさらに益(やく)なし。」とぞいひける。それより、「後(のち)の千金」いふ事、名誉せり、

と載せた。「かんあとう」は、監河候(かんかこう)の誤りとされ、中国最古の字書『説文解字』(後漢・許慎)には、

魏文侯、

とあり、詳しく伝わらないが、

河を監督する役人、

ともありhttps://j-trainer.blogspot.com/2021/04/blog-post_5.html

官職、

であるらしい(中島悦次校注『宇治拾遺物語』)。「河伯(かはく)」は、和名類聚抄(平安中期)に、

河伯、一云水伯、河之神也、和名、加波乃加美、

とある(仝上)。

荘子.gif


「後の千金」は、

後の千金より今の百金、
後の千金よりも今の百文、

等々ともいうが、

明日の百より今の五十、

という言い方もある。

明日になればたくさん手に入るかもしれないが、不確実なことに期待するより、量は少なくとも今日手に入る確実なことの方がよい、

という意味で、

時を失してはなんの効果もない、

という含意よりは、

末の百両より今の五十両、
聴いた百文より見た一文、

と、

遠い不確実なことより手近な確実さを取る、

と、少し意味がシフトしていく。

先の雁より手前の雀、
先の雁より前の雲雀、

もその意味になる。しかし、

不応遠水救近渇、空倉四壁雀不鳴(陳師道詩・通俗編)、

とある、

遠水(えんすい)渇(かつ)を救わず、

もその意味になるが、

失火而取水於海、海水雖多、火必不滅矣、遠水不救近火也(韓非子・説林上篇)、

とある、

遠水は近火を救わず、

も、

遠くにあっては急の役は立たない、

と、意味が、

急場の用にシフトしている。

参考文献;
尚学図書編『故事ことわざの辞典』(小学館)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
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2022年06月26日

けんけん


「けんけん」は、辞書(広辞苑)を引くと、

件件(あの件、この件)、
娟娟(うるわしいさま、しなやかなさま)、
涓涓(小川など、水が細く流れるさま)、
眷眷(いつくしんで目をかけるさま、ねんごろに思うさま)、
拳拳(ささげ持つさま、うやうやしくつつしむさま)、
喧喧(やかましいさま、がやがや)、
蹇蹇(なやみ苦しむさま、忠義を尽くすさま)、

等々同音異議の言葉が並ぶが、ここでは、子どもの遊びの、片足でぴょんぴょん跳ぶ、

片足跳び、

の意の「けんけん」であるが、「けんけん」には、

犬や雉などの鳴き声、

の擬音語、

や、日葡辞書(1603~04)に、

Qenqẽto(ケンケント)モノヲイウ、

と載るように、

つんけん、

と同義で、

つっけんどんなさま、
無愛想なさま、

の意もある(仝上・大辞林)。その他に、相撲の手の一つ、

「掛投げ」の俗称、

としても言われる(「相撲講話(1919)」)。

片足跳びの「けんけん」は、

上方から広がった新しい言い方、

とあり(大阪弁)、

片足を上げることから、犬芸のちんちんはここからきている、

とも(仝上・擬音語・擬態語辞典)、

関西畿内の方言、

とも(隠語大辞典)あり、柳田国男は、

京都を中心とする新しい文化の発信地から次第に列島の南北にその文化の波が伝播し新旧の言葉が同心円状に分布する、

という考えを提示している(「シンガラ考」)。確かに、江戸語大辞典には、「けんけん」は載らず、

東京でももともとは「ちんちん」と言った、

とあり(大阪弁)、福沢諭吉も、

東京にて子供の戯に片足を揚げて片足にて飛ぶ、之を称してチン/\モガ/\と云ふ、

と、明治30年(1897)に言っている(田端重晟宛書簡)が、江戸時代から、

ちんがちがちがちんがらこ、走り走り走り着きて(明和六年(1769)「隈取安宅末(長唄)」)、

と、

ちんがらこ、

とか、あるいは、

ちんちんもんがら、チンガラコとも云、一足にて躍り行を云(江戸中期(1795以降)「俚言集覧」)、

と、

ちんちんもんがら、

とか、あるいは、「ちんちんもがら」の転訛で、

足を上げてふるっても踵へぴつたりくつ附いて放れぬゆゑ、ちんちんもぐらではねてゐる足元へ(安政四年(1857)「七偏人」)、

と、

ちんちんもぐら、
ちんちんもぐらこ、

といい(江戸語大辞典・精選版日本国語大辞典)、さらに、

ちんちんがいこ、

とも訛り、

ちんぐらはんぐら、
ちんちんまごまご、

とも言い、

略して、

ちんちん、

といった(仝上)。

「けんけん」の語源は、

蹴る蹴るの転か(あるめり、あんめり。なんてん、なるてん)(大言海)、
足踏の音からか(綜合日本民俗語彙)、

とあるが、どうだろう。

片足飛びの所作は、かつて戦場等で実際に必要とされた武術の一種であったが、やがて子供がそれをまねて自分たちの遊びに取り入れていったと考えられている。万一、戦さの場で片足を負傷した場合でも、この片足飛びの技を身につけていれば敵から逃れることも可能であった。また負け戦さで退却する軍の最後尾について決死の覚悟でなんとか味方の友軍を守る役割を担うことをシンガリ(殿)をつとめるというが、この言葉もやはり片足飛びを意味するチンガラやシンガラ系統の方言のーっとされている、

と、片足飛びを、

しんがら、

とする説がある(飯島吉晴「『片足飛び』遊びの呼称とその意味」)。確かに、柳田國男は、

(片足飛びをシンガラまたはチンガラと呼んだのは)単なる童詞の章句に依るといふ以上に、最初は一本足の足踏みの頭に響く感覚を、誰かが始めて斯くの如く形容し、それを成程と承認した群が、段々に其使用を流行させたので、発生の過程はほぼ他の色々の民間文芸、例ば諺や小唄なども同じであった、

とし、

郷里の播州中部(兵庫県福崎町)では、かれの子供時代まで、

ジンジン、

という言葉と、

ケンケン、

という言葉とが併存していたとしている(柳田・前掲書)。

チンガラ、
シンガラ、

は、こう見ると、「頭に響く感覚」(柳田)なのかどうかは別にして、

擬音語、
あるいは、
擬態語、

に由来するのではないかという気がする。

これと類似する、

チンチン(吉野)、
チンチンガエコ(大垣)、
チンココ(遠州)、
チンギリコッコ(甲州)、
シンシンサ(横手)、

などという分布をみると、江戸の、

ちんがらこ、
ちんちんもんがら、

ともつながってくる(仝上)。で、

チンギリコッコ、

の、コッコは、鬼ゴッコのゴッコと同じく真似または仕草の意味で、

事(コト=儀式・行儀)を子供が訛って発音した言葉、

で、他地方でナンゴやナゴという遊戯やナドという類例を意味する言葉とも同じもの(仝上)、とある。柳田國男によれば、

チンギリ、
チンギリコ、
シンガリコ、
チンガラ、
チンギチョンギ、
チンガラポツチャ、
チンキリカイコ、
チンココ、
チンチンコロ、

等々といった「チンガラ系統」とされる方言に、江戸の、

ちんちんもんがら、

は含まれ、かつて子供たちは、

ヅンガラモンガラとかチンコロマンコロ、あるいは「しんがらかいたからかいたお寺の前でからかいた」などと唱えながら、片足遊びをしていた、

とみられるとする(仝上)。他方、

けんけん、

は、

ケンケンパタ(伊豆賀茂郡)、
アシケンケン(常陸)、
ケンチョケンチョ(下総)、
テンテンカラカラ(上総)、
ケッケナゲ(江刺)、
ケンケンパネ(気仙)、
ケンケンブツ(越中)、
ケンケンツクック(伊勢)、

などに分布、

京都を包含し、しかもチンガラ区域を南北から囲緯して、

山城、近江、阿波、岡山、山口、壱岐、越中、伊豆、

に広がる。新たに「けんけん」が全国を席巻する中で、折衷的に、

アシケンケン、
アシコンコン、

が千葉、茨城、埼玉など関東地方の一部に、

イッケンケン、
イケンチョ、

が、伊勢や近江などに、また、全く別由来で、

ギッチョ、
ギッチョンチョン、

という呼び名が名古屋や広島などに見られる、とある(仝上)。これは、今日差別用語として禁じられている、跛行を意味する「びっこ」とか「ちんば」に由来するとみられる。しかし、全国的にいうと、

けんけん、

が今日標準化してしまったのかもしれない。

「跳」  漢字.gif


ただ、今日よく、

けんけん、

は、

石けり、

と同義で使われているが、これは、明治時代以降に欧米諸国から輸入された、

「ホップスコッチ Hopscotch」系の遊び

から派生したもので(仝上・http://www.worldfolksong.com/songbook/japan/warabeuta/ishikeri-game.html)、昭和期に流行し、昭和40年代頃まで人気があったし、

けん→片足、ぱ→両足、

の、

けんぱ、
けんけんぱ、
ちょんぱ、
ちんぱっは、

などと呼ばれる遊びも、やはり明治時代にヨーロッパから伝わったもので、昭和40年代ごろまで子どもたちのあいだでとても人気があり(仝上)、「けんけん」が、片足跳びの名称として定着していったのには、

石けり、

けんぱ、

の定着があずかっていると思える。

参考文献;
飯島吉晴「『片足飛び』遊びの呼称とその意味」https://opac.tenri-u.ac.jp/opac/repository/metadata/3209/KOJ000802.pdf
前田勇編『江戸語大辞典 新装版』(講談社)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

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2022年06月27日

よりまし


「よりまし」は、

尸童、
寄坐
憑坐、
憑子、
神子、
依巫、
寄りまし、

等々とあてる(広辞苑・大言海・大辞泉・日本語源大辞典・岩波古語辞典他)。その由来を、

神霊の寄り坐し(岩波古語辞典)、
神霊の憑坐(よりまし)の義か(大言海)、
依巫(よりまし)の義(和訓栞)、
寄在(よりまし)の義(俚言集覧)、

等々とする(岩波古語辞典・日本語源大辞典)ように、

依代(よりしろ 憑代 神霊が寄りつくもの)となるもの、

の意で、依代は、多く、

憑依(ひょうい)物としての樹木・岩石・動物・御幣・人間、

等々で、この場合、

人間の神霊が宿り憑く者、

の意で(岩波古語辞典)、

子供、

である場合が多い。神意を伺おうと、験者や巫女が神降ろしをする際、

男女の幼童の上に神霊を招いて乗移らせ、神の依りますところとして、神の意志は清純な童子の口をかりて託宣(たくせん)として示される、

のであり(仝上・世界大百科事典)、室町中期の用字集「饅頭屋本節用集」には、

降童、ヨリマシ、

とある。

寄り、
寄体(よりがら)、

とも(日本語源大辞典)、

かんこ(神子)
かむなぎ(巫)
みかんこ(御坐・御神子)、
みかむのこ(御坐 御神の子の転)、

ともいい(大言海)、「かんなぎ」http://ppnetwork.seesaa.net/article/483366329.htmlで触れたように、

(「かみなぎ」は)女子の、神に奉仕し、神楽に舞ひなどする者、多くは少女なり、又、かみおろしなどするものあり、専ら音便に、かんなぎと云ふ。又、かうなぎ。みこ。官に仕ふる者を、御神(ミカン)の子と云う、

とある(大言海)。

御神(みかん)の子→巫女(みこ)、

とつながるように、「巫女」と重なる。

かたしろ.bmp

(かたしろ 精選版日本国語大辞典より)

「尸童」の「尸」は、

かたしろ(形代)、

の意、「かたしろ」は、

人形(ひとがた)、

ともいい(日本大百科全書)、

神霊が依り憑く(よりつく)依り代の一種。人間の霊を宿す場合は人形を用いるなど、神霊が依り憑き易いように形を整えた、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BD%A2%E4%BB%A3が、多く児童をあてたので、

尸童、

と書き、「よりまし」とよぶのは、

神霊がその童子によりつくことから、

いう(日本大百科全書)。よりましに立てられた童子に対して祈祷を行うと、神霊がこれにのりうつって託宣をする。古代の祭りはこの尸童が主体であった(仝上)とあり、

伊勢の斎王(いつきのみこ)、

は大和朝廷がたてたよりましであったとされる(仝上)。現在でも各地の祭礼にみられ、神幸の際に行列の中心になり、美しく着飾らせ(稚児舞)たり、人形を用い、馬に乗せて尸童とすることもあり、また祈り終ってから川に流すこともある。

神霊ではなく死霊がついた場合は、

尸者(ものまさ)、

と呼ばれる(仝上)とある。

「尸」  漢字.gif

(「尸」 https://kakijun.jp/page/si03200.htmlより)

「尸位素餐」http://ppnetwork.seesaa.net/article/486247452.htmlで触れたように、「尸」(シ)は、

象形。人間がからだを硬直させて横たわった姿を描いたもの。屍(シ)の原字。また、尻(シリ)・尾の字におけるように、ボディを示す音符に用いる。シは矢(まっすぐなや)・雉(チ まっすぐに飛ぶきじ)のように、直線状にぴんとのびた意味を含む、

とあり(漢字源)、

魂去尸長留(魂は去りて尸は長く留まる)、

と(古楽府)、「しかばね」の意味だが、

弟為尸則誰敬(弟、尸となせばすなはち誰をか敬せん)

と(孟子)、

かたしろ、
古代の祭で、神霊の宿る所と考えられた祭主、

の意味で、

孫などの子供をこれに当てて、その前に供物を供えてまつった。のち、肖像や人形でこれに代えるようになった、

とある(仝上)。のちに、

死体のみならず、精神と切り離された肉体そのものを指すようになった、

ともあるhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%B0%B8

「童」.gif


「童」(慣用ドウ、漢音トウ、呉音スウ)は、「大童」http://ppnetwork.seesaa.net/article/484158438.htmlで触れたように、

会意兼形声。東(トウ 心棒を突き抜けた袋、太陽が突き抜けてくる方角)はつきぬく意を含む。「里」の部分は、「東+土」。重や動の左側の部分と同じで、土(地面)つきぬくように↓型に動作や重みがること。童は「辛(鋭い刃物)+目+音符東+土」で、刃物で目を突きぬいて盲人にした男のこと、

とあり(漢字源)、「刃物々目を突きぬいて盲人にした奴隷」の意とあり、僕と同類で、「童僕」(男の奴隷や召使)と使うが、「童子」というように「わらべ」の意もある。別に、

形声。意符辛(入れ墨の針。立は省略形)と、音符重(チヨウ)→(トウ)(里は変わった形)とから成る。目の上(ひたい)に入れ墨をされた男子の罪人の意を表す。借りて「わらべ」の意に用いる、

ともあり(角川新字源)、

会意兼形声文字です(辛+目+重)。「入れ墨をする為の針」の象形と「人の目」の象形と「重い袋」の象形から、目の上に入れ墨をされ重い袋を背負わされた「どれい」を意味する「童」という漢字が成り立ちました。転じて(派生して・新しい意味が分かれ出て)、「未成年者(児童)」の意味も表すようになりました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji530.html

「憑」 漢字.gif


「憑」(漢音ヒョウ、呉音ビョウ)は、

会意兼形声。馮(ヒョウ・フウ)は、「馬+冫(ヒョウ こおり)」の会意兼形声文字。冫(にすい)は、氷の原字で、ぱんとぶつかり割れるこおり。馬が物を割るような勢いでぱんとぶつかること。憑は「心+音符馮」で、AにBをぱんとぶつけて、あわせること。ぴたりとあわせる意からくっつける意となり、AとBとあわせてぴたりと符合させる証拠の意となった、

とあり(漢字源)、「憑欄(欄に憑る)」と、「寄りかかる」意や、「憑付(ヒョウフ)」と「たのむ」意や、「憑拠(ヒョウキョ)」と「あかし」の意で使い、

暴虎馮河(論語)、

のように、「がむしゃらに黄河をわたろうとする」意で使う。

憑依、

のように、

霊などが乗り移る、
狐が憑く、

の使い方はわが国だけのようだ(仝上)。漢語「憑依」は、

神所憑依、将在徳矣(左伝)、

と、

のりうつる、

意に近いが、

よりたすく、よりかかる、

意で、含意が異なる。

「坐」  漢字.gif


「坐」(漢音サ、呉音ザ)は、

会意。「人+人+土」で、人が地上に尻をつけることを示す。すわって身たけを短くする意、

とある(漢字源)。別に、

象形。土の上に二人の人が向かい合っているさまにかたどる。「すわる」意を表す、

とも(角川新字源)、

会意文字です(人+人+土)。「向かい合う人の象形と、土地の神を祭る為に柱状に固めた土の象形(「土」の意味)」から、向かい合う2人が土にひざをつけて「すわる」を意味する「坐」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji2404.html

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
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2022年06月28日

ける


只今の太政大臣の尻はけるとも、此の殿の牛飼にも触れてんや(「落窪物語(10C末)」)、

とある、

「ける」(カ行下一段活用)は、

蹴る、

と当てる(広辞苑)が、

蹶る、

とも当てる(大言海)。

「ける」の古形は、

帯刀どもして蹴させやましと思ひしかと(大鏡)、
殿上人、鞠けさせて御覧ずる(栄花物語)、

と、

け(蹴 カ行下一段活用)、

の形で使われるが、この「け」は、

馬(むま)の子や牛の子に蹴(く)ゑさせてむ踏み破(わ)らせてむ(「梁塵秘抄(1179頃)」)、

とある、

古形くゑ(蹴)の転(岩波古語辞典)、
古音くゑの約(大言海)、

であり、

若沫雪(あわゆき)以蹴散(くゑはらかす)、此、云、倶穢簸邏邏箇須(クヱハララカス)(日本書紀・神代紀)、
雷電霹靂、蹴裂(くゑさき)其磐、令通水(日本書紀・神功紀)、

と、

くう(蹴 ワ行下二段活用)、

に遡る(仝上)。

くう→くゑ→け、

と、古形「け」になったと思われるが、この「くう」は、

クユル、コユルと転じ、口語調に、クヱル、クエルとなり、また約まりて、ケルとなる(大言海)、
クヱル(蹴)の語は、クヱ[k (uw)e]の縮約でける(蹴る)という下一段動詞になった(日本語の語源)、

と、

くゑる(ワ行下一段活用)、

となるが、これは、

上代のワ行下二段活用「くう(蹴)」の未然・連用形「くゑ」が合拗音化して下一段活用の「くる」に変わり(その前に「くゑる」の語形を推定する考えもある)、さらにそれが直音化して「ける」になったものと推測される。ただし「くる」を本来の語形として、上代より下一段動詞であったとする説もある、

とあり(精選版日本国語大辞典・日本語源大辞典)、さらに、「ける」の古語には、

毬(まり)打(クユル)(別訓 くうる)侶(ともがら)に預(くはは)りて(日本書紀・皇極紀)、

と、

くゆ(蹴 ヤ行下二段活用)、

もあり、

くう(蹴)の転(移(うつ)る、ゆつる)、又、転じて、コユとなる(黄金(こがね)、くがね。いづく、いずこ)、

とある(大言海)ので、

くう→くゑ→け、

の転訛とは別に、

くう→くゆ→くゆる→くゑる→くる→ける、

という転訛もあったことになる。

しかも、蹴爪(けづめ)の古語「あごゆ」http://ppnetwork.seesaa.net/article/484128942.htmlで触れたように、「ける」の転訛の系譜には、もう一つあって、類聚名義抄(11~12世紀)に、

蹴、化(け)ル、クユ、コユ、

とある、「くゆ」とは別の、

こゆ(蹴 ヤ行下二段活用)、

がある。蹴爪(けづめ)の古語「あごえ」は、

アは足、コエは蹴るの意のコユの名詞形、

であり(岩波古語辞典・大言海)、

「こゆ」は、

蹴、

と当て、

越ゆと同根、足の先を上げるのが原義、

とある(大言海)、「越ゆ」は、

コユ(蹴)と同根、目的物との間にある障害物をまたいで、一気に通り過ぎる意、

ともある(岩波古語辞典)。だから、「くう」は、

ケ(蹴)の古形コユとクユとが平安時代に混交したものか、

とする見方もある(岩波古語辞典)。字鏡(平安後期頃)に、

蹢、萬利古由、
蹹、古由、

天治字鏡(平安中期)に、

蹴然、豆萬己江、(爪蹴 つまこえ)、

和名類聚抄(平安中期)に、

蹴鞠、末利古由、

とある。つまり、「くう」が、混交の結果なのか、古形のひとつなのかは別として、「ける」に至るには、

くゆ形の転訛、
と、
こゆ系の転訛、

があり、

(くう→)くゆ、こゆ→くゆる、こゆる→くゑる、くえる→ける、

といった二系統の転訛を経てきたことになる。

これは、「くゆ」が、

毬(まり)打(クユル)(別訓 くうる)侶(ともがら)に預(くはは)りて(日本書紀・皇極紀)、

と、

脚の爪先で物を突きやる、

意なのに対して、

「こゆ」が、「越え」と同源のゆえに、

脚の指をもちて地を蹴(コエ)て、足を壊(こわ)りつ(「小川本願経四分律平安初期点(810頃)」)、



足の先を上げるのが原義、

とあり(岩波古語辞典)、原点は微妙に違ったのかもしれないが、平安後期の漢和辞書『字鏡』(じきょう)には、

距、足角也、阿古江、

和名類聚抄(平安中期)には、

距、鶏雉脛、有岐(また)也、阿古江、

類聚名義抄(11~12世紀)には、

距、アコエ、コユ、

とあるように(大言海)、「蹴爪」の意の「あごえ」では、

蹴る、

との意味の差は消えているように見える。

今日の「ける」は、ラ行五(四)段活用になっているが、江戸中期までは「けら」「けり」等の用例がみられないところから、四段活用の「ける」が登場するのは江戸時代後半からとみられている(日本語源大辞典・大辞林)。ただ、

現代語でも「け散らす」「け飛ばす」などの複合語には下一段活用が残存しており、命令形も「けれ」のほか「けろ」も用いられる、

し(デジタル大辞泉)、

「けたおす(蹴倒す)」「けちらす(蹴散らす)」など複合語、

にも、「け…」という古語の「け」の古形が残っている(大辞林)。ちなみに、「ける」のカ行下一段活用は、

未然形 け(蹴)・連用形 け(蹴)・終止形 け(蹴)る・連体形 け(蹴)る・已然形 け(蹴)れ・命令形け(蹴)よ、

となる。

「蹴」 漢字.gif


「蹴」(慣用シュウ、漢音シュク、呉音スク)は、

会意兼形声。「足+音符就(シュウ 間隔を詰める、近づく)」

とあり(漢字源)、「ける」意味だが、別に、

「蹴」 小篆(説文解字・漢.png

(「蹴」 小篆(説文解字・漢) https://ja.wiktionary.org/wiki/%E8%B9%B4より)

会意兼形声文字です(足+就)。「胴体の象形と立ち止まる足の象形」(「足」の意味)と「丘の上に建つ家の象形と犬の象形」(高貴な(身分が高い)人の家に飼われた番犬のさまから、「つき従う・つける」の意味)から、ある物に足をつける事を意味し、そこから、「ける」、「ふむ」を意味する「蹴」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji1461.html

「蹶」  漢字.gif

(「蹶」 https://kakijun.jp/page/E74B200.htmlより)

「蹶」(漢音ケツ・ケイ、呉音コチ・ケ)は、

会意兼形声。「足+音符厥(ケツ くぼんでひっかかる)」。くぼみに足をひっかけてかばっとはねおきること、

とある(漢字源)。つまずく意で、「蹶起」というように「たつ」意もあるが、これを「ける」に当てたのは、呉音「け」の音からではないかと勘繰りたくなるほど、「蹴る」の意味はこの字にはない。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
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ラベル:ける 蹴る
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2022年06月29日

とぶ


「とぶ」は、

跳ぶ、
飛ぶ、

と当て(広辞苑)、また、

翔ぶ、

と当てたりする。「とぶ」は、

鳥が空中を羽で飛行する意。類義語カケルは、鳥にかぎらず馬・龍・蠅などが宙を走り回る意、

とある(岩波古語辞典)。「かける」は、

翔る、

と当て、

礒(いそ)に立ち沖辺(おきへ)を見れば藻(め)刈り舟海人(あま)漕ぎ出(づ)らし鴨翔(かけ)る見ゆ(万葉集)、

と、

空中を飛び回る、

意や、

苦しきままにかけりありきて、いとねむごろに、おほかたの御後見を思ひあつかひたるさまにて、追従しありきたまふ(源氏物語)、

と、

飛ぶように走る、

意で、「飛ぶ」とは意味が重なる。「とぶ」には、

あしひきの山とび越ゆる雁がねは都に行かば妹に逢ひて来ね(万葉集)、

と、

鳥などが飛行する(岩波古語辞典)、
翼を動かして空を行く、翔る(大言海)、

意と、

真土山(まつちやま)越ゆらむ君は黄葉(もみちば)の散りとぶ見つつ(万葉集)、

と、

大地から離れ空に上がる、高く舞い上がる、空中を移動する(広辞苑)、
(空中を)舞う(岩波古語辞典)、
吹き上げられて散りゆく、翻る(大言海)、

意と、

獅子王の吼ゆる声の一たび発(おこ)る時には一切の禽獣、悉皆、驚き怖りてとび落ち走り伏して(地蔵十輪経)、

と、

(足ではずみをつけて地面・床などをけり)からだが空中にあがるようにする、はねる(岩波古語辞典・デジタル大辞泉)、
空中にはねあがる、跳躍する(広辞苑)、
をどる、跳(は)ぬ(大言海)、

などの意があり、特に、「はねあがる」「はねる」意の場合、

ジャンプ競技でK点まで跳ぶ、

と、

跳ぶ、

を当てたりする(広辞苑・岩波古語辞典・デジタル大辞泉・大言海)。

後は、そうした「とぶ」の意味をメタファとして、

ヤジが飛んだ、
礫が飛んだ、
火花が飛んだ、
事故現場へ飛ぶ、
心は故国に飛んでいる、
びんたがとぶ、
デマがとぶ、
染めがとぶ、
ヒューズがとぶ、
ページがとぶ、
五百飛んで六円、

等々と、

空中を通り、離れた所に達する、動き出しの強い力で遠いところまでゆく(広辞苑)、
遠くへだたる(岩波古語辞典)、
間を隔てる、間を置く(大言海)、
大急ぎで、また、あわててある所へ行く、かけつける(デジタル大辞泉)
つながったものが切れる、あった者が消える(仝上)、
うわさ・命令などがたちまちひろがる(仝上)、

等々の意でも使う(仝上)。

「とぶ」は、

疾(と)を活用せる語か(大言海・国語の語根とその分類=大島正健)、
トクフ(疾経)の義(名言通・和訓栞)、
トフ(速経)の義(言元梯)、
疾(ト)+ブで、早くとぶ(日本語源広辞典)、

と、「疾」あるいは「速」と絡ませる説、

トヲヒク(遠引)の反、またはトヲフル(遠経)の反(名語記)、
遠キニ-フル(歴)の義(柴門和語類集)、

と、「隔」てから解釈する説、

鳥(ト)+ブ、鳥のように早く飛ぶ意(日本語源広辞典)、
トブ(鳥羽)の義(和語私臆鈔)、

と、「鳥」と絡ませる説等々がある。確かに「と(鳥)」は、

とがり(鳥狩)、
となみ(鳥網)、

と使われるが、これは、

他の名詞の上について複合語を作る際、末尾のriと次の来る語の語頭の音とが融合した形、

で、

törikari→törkari→töngari→tögari、

と変化するもので、

鳥ぶ、

という変化はない(岩波古語辞典)ようだ。常識に考えれば、

疾(と)の活用、

ということに落ち着きそうだが、どうだろう。

因みに、

飛ぶ、
跳ぶ、
翔ぶ、

の使い分けを、

「飛ぶ」は空中を移動する時や速く移動する時に使われます、
「跳ぶ」は地面をけって高く上がるという意味です、
「翔ぶ」は翼を広げてとぶ、空高くとぶ、という意味です、

と説く説があるhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E3%81%A8%E3%81%B6他)が、

地上から跳ねる、

のが、

跳ぶ、

で、

空を飛ぶ、

のが、

飛ぶ、

という使い分けて十分だろう。「翔ぶ」は、空駆ける意を含ませたいときに使うということだろうか。結局漢字の意味におぶさった使い方ということになる。

「跳」  漢字.gif


「跳」(漢音チョウ、呉音ジョウ)は、

会意兼形声。兆は、亀の甲を焼いて占うときに生ずるひびを描いた象形文字。左右二つに分かれる、ぱっと離れる意味を含む。跳は「足+音符兆」で、足ではねて体が地面から離れること、

とあり(漢字源)、「跳躍」といった使い方をする。同趣旨で、

会意兼形声文字です(足+兆)。「胴体の象形と立ち止まる足の象形」(「足」の意味)と「占いの時に亀の甲羅に現れる割れ目」の象形(「きざし(前触れ)」の意味だが、ここでは、「弾け割れる」の意味)から、「はねあがる」、「おどる」、「つまずく」を意味する「跳」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji1233.html

「兆」 甲骨文字・殷.png

(「兆」 甲骨文字・殷 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%85%86より)

「飛」(ヒ)は、

象形。鳥の飛ぶ姿を描いたもので、羽を左右に開いて飛ぶこと、蜚(ヒ)と同じ、

とある(漢字源)。

三年不蜚、蜚将沖天(三年蜚バス、蜚ベバ将ニ天ニ沖(まっすぐ高く上がる)セントス)(史記)、

と、「蜚鳥」は「飛鳥」と同じである(仝上)。別に、

「飛」 漢字.gif

(「飛」 https://kakijun.jp/page/tobu200.htmlより)

象形。鳥が羽を振ってとぶさまにかたどり、「とぶ」意を表す。角川新字源

象形。鳥のとぶ様を象る。音声的には、左右に分かれるを意味する「非」「扉」「排」と同系、「蜚」は同音同義。篆書以前の字体は確たる採取例がない、

とあるhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E9%A3%9B

「飛」甲骨文字・殷.png

(「飛」 甲骨文字・殷 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E9%A3%9Bより)


「飛」 楚系簡帛文字.png

(「飛」 楚系簡帛文字(簡帛は竹簡・木簡・帛書全てを指す)・戦国時代 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E9%A3%9Bより)


「飛」 中国最古の字書『説文解字』・小篆.png

(「飛」 中国最古の字書『説文解字』・小篆(漢) https://ja.wiktionary.org/wiki/%E9%A3%9Bより)

「翔」(漢音ショウ、呉音ゾウ)は、

形声文字(意味を表す部分と音を表す部分を組み合わせて作られた文字)。「羽+音符羊」、

とある(漢字源)。「羽」(ウ)は、「非想非々想天」http://ppnetwork.seesaa.net/article/485982512.htmlで触れたように、

二枚のはねをならべおいたもの、

を描いた象形文字である(仝上)。

「飛翔」と、「かける」「羽を大きく広げて飛びまう」「とびめぐる」意である(漢字源・字源)。「飛」との違いは、

翔而後集(翔リテ後ニ集ル)(論語)、

と、

鳥に限定していないように見えるが、

室中不翔(室中ニテ翔せず)(礼記)、

と、

鳥が飛ぶ、

意でも用いている(漢字源)。「翔禽」「翔天」「翔空」などと使う(字源)。

「翔」 漢字.gif


別に、

形声文字です(羊+羽)。「羊の首」の象形(「羊」の意味だが、ここでは「揚(ヨウ)」に通じ(同じ読みを持つ「揚」と同じ意味を持つようになって)、「あがる」の意味)と「鳥の両翼」の象形から、「かける・とぶ」を意味する「翔」という漢字が成り立ちました、

とありhttps://okjiten.jp/kanji1458.html)、飛ぶ意味があることは確かである。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
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ラベル:とぶ 跳ぶ 飛ぶ 翔ぶ
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2022年06月30日

矧(は)ぐ


「矧(は)ぐ」は、古くは、

ハク、

と清音、

とあり(広辞苑・岩波古語辞典)、

佩くと同語(広辞苑)、
刷くと同根(岩波古語辞典)、

とある。

淡海(あふみ)のや矢橋(やばせ)の小竹(しの)を矢着(やは)かずてまことありえめや恋しきものを(万葉集)、

と、他動詞四段活用に、

竹に矢じりや羽をはめて矢に作る、

意で(岩波古語辞典・学研全訳古語辞典・広辞苑)、天正十八年(1590)本節用集に、

作矢、ヤヲハグ、

とある。さらに、それをメタファとして、

三薦(みすず)刈る信濃の真弓引かずして弦作留(をはぐる)わざを知ると言はなくに(万葉集)、
梓弓弦緒取波気(つらをとりはけ)引く人は後の心を知る人ぞ引く(万葉集)、

と、他動詞下二段活用に、

填(は)む、つくる、引き懸く(大言海)、

の意に、更に、

弛(はず)せる弓に矢をはげて射んとすれども不被射(太平記)、

と、

弓を矢につがえる(広辞苑)、

意でも使う。和漢音釈書言字考節用集(1717)には、

ツゲル、屬弓弩於弦、

とある。ここから、

いくさみてやはぎの浦のあればこそ宿をたてつつ人はいるらめ(鎌倉後期「夫木和歌抄(ふぼくわかしょう)」)、

と、

戦(いくさ)見て矢を矧ぐ、

という諺が生まれる。

盗人を捕らえて縄を綯う、
難に臨んで兵を鋳る、

といった「泥縄」の意である(故事ことわざの辞典)。

「矧ぐ」と同根、同語とされる、

佩(は)く、

は、

着く、
穿く、
帯く、

などとも当て(広辞苑・大言海)、

細長い本体に物をとりつけたり、はめ込んだりする意、類義語オブ(帯)は巻き付ける意、

とあり(岩波古語辞典)、

やつめさす出雲健(いずもたける)がはける太刀つづら多(さわ)纏(ま)き真身(さみ)なしにあはれ(古事記)、

と、

太刀を身につける、

意や、

信濃道は今の墾道(はりみち)かりばねに足踏ましなむ履(くつ)はけ吾が背(万葉集)、

と、

袴、くつ、足袋などを着用する、

意の他に、

陸奥(みちのく)の安太多良真弓はじき置きて(弦ヲハズシテオイテ)反(せ)らしめきなば(ソセシテオイタナラ)弦(つら)はきかめかも(萬葉集)、

と、

弓弦を弓に懸ける、

意がある。同語で漢字を当て分けただけというのもうなずける。

佩く→矧く→矧ぐ、

と、漢字を当て分けることで、意味を際立たせることになったのではあるまいか。

「佩く」の語源は、

ハ(間)に着くるの義(国語の語根とその分類=大島正健)、
ヒク(引)に同じ(和語私臆鈔)、
フレキル(触着)の義(言元梯)、

等々とあるが、古く清音という難はあるが、

接ぐ、
綴ぐ、

と当てて、

板を接(は)ぐ、
布を接(は)ぐ、

というように、

間を繋ぎ合わす、
接(つ)ぐ、
着け合わす、

という意味で使う「はぐ」がある(大言海)。由来は、

ハ(閒)の活用(大言海)、
ハ(間)を着け合わす魏(国語の語根とその分類=大島正健)、

とされる(日本語源大辞典)。「矧ぐ」は、この「はぐ」とつながるのではないか。

http://ppnetwork.seesaa.net/article/473416760.htmlで触れたように、「柱」の語源に、

ハシは屋根と地との間(ハシ)にある物の意、ラは助辞(大言海)、
ハシ(間)+ラ、屋根と地のハシ(間)に立てるものをいいます(日本語源広辞典)、

とする説を採るものが多い(古事記傳・雅言考・国語の語根とその分類=大島正健・日本語源=賀茂百樹等々)。

「はし」と訓ませるものには「はし」http://ppnetwork.seesaa.net/article/473930581.html)で触れたように、

橋、
箸、
端、
梯、
嘴、
階、

などと当て分け、「端」は、

縁、辺端、といった意味、

で、

は、

とも訓ませ、

間、

の意味である。万葉集には、

まつろはず立ち向ひしも露霜の消(け)なば消(け)ぬべく行く鳥の争う端(はし)に渡會(わたらい)の斎の宮ゆ神風(かむかぜ)にい吹き惑はし(柿本人麻呂)
くもり夜の迷へる閒(はし)に朝もよし城上(きのえ)の道ゆつのさはふ磐余(いわれ)を見つつ(万葉集)、

などの例があり、「はし」に「閒」と「端」を使っているし、古事記には、

閒人(はしびと)穴太部王、

という例もあり、

端、

閒、

は、「縁」の意と「間」の意で使っていたように思われる。だから、大言海は、「橋」を、

彼岸と此岸との閒(はし)に架せるより云ふ、

とし、国語大辞典も、

両岸のハシ(間)をわたすもであるところから、ワタシの略転、早く渡れるところからハヤシ(早)の中略、両岸のハジメ(初)からハジメ(初)へ通ずるものであるところから、

とあるhttp://www.kumamotokokufu-h.ed.jp/kumamoto/isibasi/hasi_k.html。さらに、「はし」は、

現在「橋」と書くが、古くは「間」と書いていたことが多かった。もともと、ものとものとを結ぶ「あいだ」の意味から、その両端部の「はし」をも意味するようになった、

ともあり(仝上)、「はし(閒)」とする説は多く、

両岸のハシ(間)にわたすものであるところから(東雅・万葉集類林・和語私臆鈔・雅言考・言元梯・和訓栞・国語の語根とその分類=大島正健・日本語源=賀茂百樹)、

この他、

ハザマ(狭間)・ハサム(挟)等と同源か。ハシラ(柱)・ハシ(端)とも関係するか(時代別国語大辞典)、
ハシラ(柱)の下略(和句解)、
ハシ(端)の義(名言通・言葉の根しらべの=鈴木潔子)、
橋は「端」と同源。「端」の意味から「間(あいだ)」の意味も持ち、両岸の間(はし)に渡す もの、離れた端と端を結ぶものの意味から(語源由来辞典)、
ハシ(間)です。隔たったある地点の閒(ハシ)に渡すもの、の意です。高さのハシ、階、梯、谷や川を隔てた地点のハシ、橋、食べ物と口とのハシ、箸、いずれもハシ(閒)を渡したり、往復するものです(日本語源広辞典)、

と、「橋」と「箸」「梯」「階」ともすべてつなげる説まである。その意味で、

矧ぐ、

を、

ハ(閒)の活用(大言海)、

とする説は、「柱」が、

天と地のハシ(閒)、

であったことから類推するなら、弓の場合、弓を射る時、

下になる方の弭(はず)を「もとはず(本弭・本筈)」、
上になる方を(弓材の木の先端を末(うら)と呼ぶことので)「うらはず(末弭・末筈)」、

というが、もとはず(本弭・本筈)とうらはず(末弭・末筈)を、

は(接)ぐ、

といったのではないか。古く「はく」と清音であったのは難点だが、

は(間)→はく(接)→はぐ(接)→はぐ(矧)、

と変化したとみるのはいかがであろうか。

「矧」 漢字.gif


「矧」(シン)は、

会意文字。「矢+音符引」で、矢を引くように畳みかける意をあらわす、

とあり、

至誠感神、矧茲有苗(至誠神ヲ感ゼシム、イハンヤコノ苗ヲヤ)(書経)、

と、

いわんや、

の意味で使い、

況、

と同義である。これを、

矢を矧ぐ、

と、羽をつける意で用いたのは、

笑不至矧(笑ヒテ矧ニ至ラズ はぐきを現わすほどに大笑いせず)(礼記)

にある、

はぐき、

の意からの連想なのだろうか。その理由が分からない。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

posted by Toshi at 03:07| Comment(0) | 言葉 | 更新情報をチェックする