只今の太政大臣の尻はけるとも、此の殿の牛飼にも触れてんや(「落窪物語(10C末)」)、
とある、
「ける」(カ行下一段活用)は、
蹴る、
と当てる(広辞苑)が、
蹶る、
とも当てる(大言海)。
「ける」の古形は、
帯刀どもして蹴させやましと思ひしかと(大鏡)、
殿上人、鞠けさせて御覧ずる(栄花物語)、
と、
け(蹴 カ行下一段活用)、
の形で使われるが、この「け」は、
馬(むま)の子や牛の子に蹴(く)ゑさせてむ踏み破(わ)らせてむ(「梁塵秘抄(1179頃)」)、
とある、
古形くゑ(蹴)の転(岩波古語辞典)、
古音くゑの約(大言海)、
であり、
若沫雪(あわゆき)以蹴散(くゑはらかす)、此、云、倶穢簸邏邏箇須(クヱハララカス)(日本書紀・神代紀)、
雷電霹靂、蹴裂(くゑさき)其磐、令通水(日本書紀・神功紀)、
と、
くう(蹴 ワ行下二段活用)、
に遡る(仝上)。
くう→くゑ→け、
と、古形「け」になったと思われるが、この「くう」は、
クユル、コユルと転じ、口語調に、クヱル、クエルとなり、また約まりて、ケルとなる(大言海)、
クヱル(蹴)の語は、クヱ[k (uw)e]の縮約でける(蹴る)という下一段動詞になった(日本語の語源)、
と、
くゑる(ワ行下一段活用)、
となるが、これは、
上代のワ行下二段活用「くう(蹴)」の未然・連用形「くゑ」が合拗音化して下一段活用の「くゑる」に変わり(その前に「くゑる」の語形を推定する考えもある)、さらにそれが直音化して「ける」になったものと推測される。ただし「くゑる」を本来の語形として、上代より下一段動詞であったとする説もある、
とあり(精選版日本国語大辞典・日本語源大辞典)、さらに、「ける」の古語には、
毬(まり)打(クユル)(別訓 くうる)侶(ともがら)に預(くはは)りて(日本書紀・皇極紀)、
と、
くゆ(蹴 ヤ行下二段活用)、
もあり、
くう(蹴)の転(移(うつ)る、ゆつる)、又、転じて、コユとなる(黄金(こがね)、くがね。いづく、いずこ)、
とある(大言海)ので、
くう→くゑ→け、
の転訛とは別に、
くう→くゆ→くゆる→くゑる→くゑる→ける、
という転訛もあったことになる。
しかも、蹴爪(けづめ)の古語「あごゆ」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/484128942.html)で触れたように、「ける」の転訛の系譜には、もう一つあって、類聚名義抄(11~12世紀)に、
蹴、化(け)ル、クユ、コユ、
とある、「くゆ」とは別の、
こゆ(蹴 ヤ行下二段活用)、
がある。蹴爪(けづめ)の古語「あごえ」は、
アは足、コエは蹴るの意のコユの名詞形、
であり(岩波古語辞典・大言海)、
「こゆ」は、
蹴、
と当て、
越ゆと同根、足の先を上げるのが原義、
とある(大言海)、「越ゆ」は、
コユ(蹴)と同根、目的物との間にある障害物をまたいで、一気に通り過ぎる意、
ともある(岩波古語辞典)。だから、「くう」は、
ケ(蹴)の古形コユとクユとが平安時代に混交したものか、
とする見方もある(岩波古語辞典)。字鏡(平安後期頃)に、
蹢、萬利古由、
蹹、古由、
天治字鏡(平安中期)に、
蹴然、豆萬己江、(爪蹴 つまこえ)、
和名類聚抄(平安中期)に、
蹴鞠、末利古由、
とある。つまり、「くう」が、混交の結果なのか、古形のひとつなのかは別として、「ける」に至るには、
くゆ形の転訛、
と、
こゆ系の転訛、
があり、
(くう→)くゆ、こゆ→くゆる、こゆる→くゑる、くえる→ける、
といった二系統の転訛を経てきたことになる。
これは、「くゆ」が、
毬(まり)打(クユル)(別訓 くうる)侶(ともがら)に預(くはは)りて(日本書紀・皇極紀)、
と、
脚の爪先で物を突きやる、
意なのに対して、
「こゆ」が、「越え」と同源のゆえに、
脚の指をもちて地を蹴(コエ)て、足を壊(こわ)りつ(「小川本願経四分律平安初期点(810頃)」)、
と
足の先を上げるのが原義、
とあり(岩波古語辞典)、原点は微妙に違ったのかもしれないが、平安後期の漢和辞書『字鏡』(じきょう)には、
距、足角也、阿古江、
和名類聚抄(平安中期)には、
距、鶏雉脛、有岐(また)也、阿古江、
類聚名義抄(11~12世紀)には、
距、アコエ、コユ、
とあるように(大言海)、「蹴爪」の意の「あごえ」では、
蹴る、
との意味の差は消えているように見える。
今日の「ける」は、ラ行五(四)段活用になっているが、江戸中期までは「けら」「けり」等の用例がみられないところから、四段活用の「ける」が登場するのは江戸時代後半からとみられている(日本語源大辞典・大辞林)。ただ、
現代語でも「け散らす」「け飛ばす」などの複合語には下一段活用が残存しており、命令形も「けれ」のほか「けろ」も用いられる、
し(デジタル大辞泉)、
「けたおす(蹴倒す)」「けちらす(蹴散らす)」など複合語、
にも、「け…」という古語の「け」の古形が残っている(大辞林)。ちなみに、「ける」のカ行下一段活用は、
未然形 け(蹴)・連用形 け(蹴)・終止形 け(蹴)る・連体形 け(蹴)る・已然形 け(蹴)れ・命令形け(蹴)よ、
となる。
「蹴」(慣用シュウ、漢音シュク、呉音スク)は、
会意兼形声。「足+音符就(シュウ 間隔を詰める、近づく)」
とあり(漢字源)、「ける」意味だが、別に、
(「蹴」 小篆(説文解字・漢) https://ja.wiktionary.org/wiki/%E8%B9%B4より)
会意兼形声文字です(足+就)。「胴体の象形と立ち止まる足の象形」(「足」の意味)と「丘の上に建つ家の象形と犬の象形」(高貴な(身分が高い)人の家に飼われた番犬のさまから、「つき従う・つける」の意味)から、ある物に足をつける事を意味し、そこから、「ける」、「ふむ」を意味する「蹴」という漢字が成り立ちました、
ともある(https://okjiten.jp/kanji1461.html)。
「蹶」(漢音ケツ・ケイ、呉音コチ・ケ)は、
会意兼形声。「足+音符厥(ケツ くぼんでひっかかる)」。くぼみに足をひっかけてかばっとはねおきること、
とある(漢字源)。つまずく意で、「蹶起」というように「たつ」意もあるが、これを「ける」に当てたのは、呉音「け」の音からではないかと勘繰りたくなるほど、「蹴る」の意味はこの字にはない。
参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95