2022年07月01日
ねたむ
「ねたむ」は、
妬む、
嫉む、
と当てる(大辞泉・大言海)。「妬む」「嫉む」の「妬」「嫉」の字は、
そねむ、
とも訓ませ(広辞苑)、「妬」の字は、また、
うらやむ、
とも訓ませる(大言海)し、
妬く、
で、
やく、
とも訓ませる(広辞苑)。「ねたむ」は、
女は、今の方にいま少し心寄せまさりてぞ侍りける。それにねたみて、終に今のをば殺してしぞかし(源氏物語)、
と、
(負かされたり、他人の方が幸せであったり、まさっていたりする立場におかれて)相手をうらやみ、憎む、忌々しく思う、
意や、
翁、胸いたきことなし給ひそ。うるはしき姿したる使にも障らじと、ねたみをり(竹取物語)、
と、
悔しく思う、癪に障る、
意で使うが、
妻ねためる気色もなくて過ごしけり(鎌倉時代中期「十訓抄」)、
と、
男女間のことで嫉妬(しつと)する、
やきもちをやく、
と、より絞った意味でも使う。「ねたむ」の語源を、
うれたし(慨哉)と意通ず、
とし(大言海)、「うれたし」は、
心痛しの約轉か(何(いづく)、いづれ)、嫉(ね)し、恨めしと意通ず(大言海)、
ウラ(心)イタシ(痛)の約(岩波古語辞典)、
とある。「うらなう」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/452962348.html)で触れたように、「うら(占)」は、
事の心(うら)の意、
で(大言海)、「心(うら)」は、
裏の義。外面にあらはれず、至り深き所、下心、心裏、心中の意、
であり(仝上)、「うら」は、
裏、
心、
と当て、
平安時代までは「うへ(表面)」の対。院政期以後、次第に「おもて」の対。表に伴って当然存在する見えない部分、
である(岩波古語辞典)。その意味で、「ねたむ」を、
心痛む、
とする意図はわかるが、語意の範囲が広すぎないだろうか。別に、
相手の名、評判が高く、自分に痛く感じられる意のナイタシ(名痛)から(日本語の年輪=大野晋)、
ネイタム(性痛見)の義(日本語原学=林甕臣)、
ネイタム(心根痛)から変化した(語源辞典・形容詞篇=吉田金彦)、
ムネイタム(無念甚)の義、またムネイタム(心痛)の義(言元梯)、
等々あるが、「痛む」の共通項以上にはいかない。さらに、
「ねたし」+接尾辞「む」
とする説もある(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E3%81%AD%E3%81%9F%E3%82%80)。形容詞「ねたし」から動詞「ねたむ」が生まれたとする説である。「ねたむ」は、
形容詞ネタシ(妬)と語幹が共通する動詞で、
ウム(倦)-ウシ(憂)、
スズム(涼)―スズシ(涼)、
と同様の関係がある。またネタマシは、動詞ネタムを形容動詞化した派生語である、
とある(日本語源大辞典)。その意味では、動詞→形容詞なのか、形容詞→動詞なのかは即断できない。ちなみに、
ねたし(妬し)、
は、
相手に負かされ、相手にすげなくされなどした場合、またつい不注意で失敗した場合などに感じる、にくらしい、小癪だ、いまいましい、してやられたと思うなどの気持。類義語クヤシは、自分のした行為を、しなければよかったと悔やむ意。クチヲシは期待通りに行かないで残念の意、
とある(岩波古語辞典)。
別に、類義語「そねむ」と関連づけて、音韻変化から、
ムネイタム(胸痛む)は小開き母韻(下あごの開きが小さい)を落としてネタム(妬む)になった。「タ」が子交(子音交替)[ts]をとげて、ネサム・ネソム(嫉む、壹岐)になった。ネソムは音調上、安定性がないので転位してソネム(猜む、嫉む)になった。「自分よりまさっているものをうらみ憎む、嫉妬する」という意である。〈さまあしき御もてなし故こそすげのうそねみ給ひしか〉(源氏物語)、
とする(日本語の語源)ものもあり、語源ははっきりしないが、「ねたむ」と「そねむ」の関連性を音韻変化で後付けているのは説得力がある。
では「そねむ」からみていくとどうなるのか。「そねむ」は、
嫉む、
妬む、
猜む、
と当て(広辞苑)、
羨み極まりて、惡む、他の能を妬みて仇せむとす、
とあり(大言海)、「ねたむ」より悪感情が勝っているようで、
起逆、謀傾窺便、爰天且嫌之、地復憎之、訓釋「嫌、ソネミ」(日本霊異記)、
と、
嫌う、
憎む、
意、さらに、
参内し給ふ臣下をもそねみ給へば、入道の権威にはばかって、通ふ人もなし(平家物語)、
と、
厭に思って疎外する、
意で使い、類聚名義抄(11~12世紀)には、
嫌・憎、そねむ、
とあり、明らかに、嫌悪の情が表面に出てきている含意となる。だから、「そねむ」の由来を、
背き妬(ねた)むの略(大言海・名言通)、
相手をソネ(确・埆 石の多い、堅い瘦せ地)と思う意、ごつごつして、とがった、不快なものと思うのが原義(岩波古語辞典)、
等々とあるところからは、「ねたむ」に比べると、悪意がより出てきている。
「ねたむ」の関東地方の方言に、
やっかむ、
というのがある。
うらやむ、
ねたむ、
意で使うが、
焼噛む、
の転訛とする説がある(江戸語大辞典)が、
焼き、ねたむ、
から、たとえば、
yaki-netamu→yakkamu
と転訛したのではあるまいか。「ねたむ」の類義語には、
羨む、
妬む、
とあてる、
うらやむ、
がある(大言海)。
花をめで、鳥をうらやみ、霞をあはれび、露を悲しぶ心(古今和歌集・序)、
と、
人の様子を見て、そのようにありたいと思う、
意や、
群臣百寮、無有嫉妬(ウラヤミネタム)(推古紀)、
と、
ねたむ、
そねむ、
の意でも使う。字鏡(平安後期頃)に、
佒、懟(うらむ)也、心不服也、宇良也牟(ウラヤム)、又、阿太牟(アダム)、
とある。因みに、「あだむ」は、
仇む、
と当てる、
仇と思う意、
の、
この監(げん)にあだまれてはいささかの身じろぎせむも所せく(源氏物語)
と、
敵視する、
意となる(岩波古語辞典)。
「うらやむ」のの語源は、
ウラ(心)ヤム(病)が原義(岩波古語辞典・広辞苑)、
心病む(ウラヤム)の義にて、他を見て心悩む意なるべし、怨むと、粗、同意(大言海・和訓栞)、
と、ほぼ、
心(ウラ)病む、
意としている。これは、
優れている相手のように自分もありたいと憧れ、自分を卑しみ傷つく意。類義語のネタムは優位にある相手を傷つけようと思う意、ソネムは、良い状態の相手を、そね(确)のような石のごつごつした、とがった、嫌なものと思う意、
とある(岩波古語辞典)。なお、
妬く、
を、
やく、
と訓ませるのは、「火をつけて燃やす」意の、
焼く、
をメタファに、
冬ごもり春の大野を焼く人は焼き足らねかもわが情(こころ)焼く(万葉集)、
と、
心・胸などを熱くする、
意で使うが、それを更に絞って、
妬く代わりには手があるだらう(浮世床)、
と、
焼餅を焼く、嫉妬する、
意で使う(広辞苑・岩波古語辞典)。
こうみると、
うらやむ→ねたむ→そねむ、
と相手への悪感情が勝るが、
先に昇進した同期生をねたむ(そねむ)」など、うらやみ憎む意では相通じて用いられ、「順調な出世をそねみ、ねたまれる」のように重ねて使われることもある、
ともある(大辞泉)。
こうした心の内の思いの先は、結局、
うらむ、
へと行き着く。「うらむ」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/474030946.html)で触れたように、「うらむ」は、
恨む、
怨む、
憾む、
と当て、その語源は、
心(うら)見るの転、
とされる(大言海・岩波古語辞典)。
ウラミのミは、miであった。従って、ウラミの語源はウラ(心の中)ミル(見る)と思われる、
とある(岩波古語辞典)。上述したように、「うら(占)」は、
事の心(うら)の意、
で(大言海)。「心(うら)」は、
裏の義。外面にあらはれず、至り深き所、下心、心裏、心中の意、
となり、「うら」は、
裏、
心、
と当て、「かお」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/450292583.html)の項でも触れたように、「うら(心・裏・裡)」は、
顔のオモテに対して、ウラは、中身つまり心を示します、
とし、
ウラサビシ、ウラメシ、ウラガナシ、ウラブレル等の語をつくります。ウチウラという語もあります。後、表面や前面と反する面を、ウラ(裏面)ということが多くなった語です、
ということになる(日本語源広辞典)。「うらむ」は、
相手の心のうちをはかりかね、心の中で悶々とする、
というのが原意であったと考えられるが、
相手の仕打ちに不満を持ちながら、表立ってやり返せず、いつまでも執着して、じっとと相手の本心や出方をうかがっている意。転じて、その心を行為にあらわす意、
とある(岩波古語辞典)ので、ほとんど行動に出る寸前というところだが、まだ、しかし、心の内にとどまっているのは、「ねたむ」「そねむ」「うらやむ」と、「うらむ」も同じなのである。
「嫉」(漢音シツ、呉音ジチ)は、
会意兼形声。疾は「疒(やまい)+矢」からなり、矢のようにきつくはやく進行する病を意味する。嫉は「女+音符疾」。女性にありがちな、かっと頭にくる疳の虫、つまりヒステリーのこと、
とある(漢字源・https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%AB%89)。別に、
会意兼形声文字です(女+疾)。「両手をしなやかに重ねひざまずく女性」の象形と「人が病気で寝台にもたれる象形と矢の象形」(人が矢にあたって傷つき、寝台にもたれる事を意味し、そこから、「やまい」の意味)から、女性の病気「ねたみ」を意味する「嫉」という漢字が成り立ちました、
ともある(https://okjiten.jp/kanji2076.html)。
「妬」(漢音ト、呉音ツ)は、
形声。「女+音符石(セキ)」で、女性が競争者に負けまいとして真っ赤になって興奮すること。石の上古音は妬(ト・ツ)の音になりうる音であった、
とある(漢字源)。別に、
形声文字です(女+石)。「両手をしなやかに重ねひざまずく女性」の象形と「崖の下に落ちている石」の象形(「石」の意味だが、ここでは、「貯」に通じ(「貯」と同じ意味を持つようになって)、「積もりたくわえられる」の意味)から、夫人(妻)の夫に対する積もった感情「ねたみ」を意味する「妬」という漢字が成り立ちました、
ともある(https://okjiten.jp/kanji2077.html)。
「猜」(サイ)は、
会意。「犬+青(あおぐろい)」。もと、くろ犬のこと。くろ犬(中国では、人になつかないといわれている)のような疑い深いことをあらわす、
とある(漢字源)。中国最古の字書『説文解字』(後漢・許慎)の注に、
ある種の犬を元は表す、
というはその意味で、
犬が懐かない様を言った、
とある(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%8C%9C)。
「青」を音符とするのは説文解字来であるが「青」を音符をする漢字と音が大きく違うため、青黒い犬を表した会意文字、
とする説も成り立つ(仝上)、とある。
参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
2022年07月02日
区々
「区々」は、
くく、
とも、
まちまち、
とも訓ませる(広辞苑)。色葉字類抄(1177~81)に、
區區、クク、
とあり、類聚名義抄(11~12世紀)に、
區、マチマチ、
とある。
意見が区々(くく)に分かれる、
と
まちまちであること、
の意と、
悲むらくは、公の、ただ古人の糟粕を甘んじて、空しく一生を、區々の中に誤る事(太平記)、
と、
小さくてつまらぬさま、
の意で使う(広辞苑・大言海)。「區々」は、
以區區之齊在海濱(区区の斉を以て海濱に在り 史記・管晏傳)、
と、
小さい、
意で使っており、漢語である。だから、
且夫王者之用人。唯才是貴。朝為廝養。夕登公卿。而况区区生徒。何拘門資(「本朝文粋(1060頃)」)、
と、
面積、数量などがわずかであること、
それをメタファに、
物事の価値が少ないこと、とるにたりないこと、
の意や、
行人の毎日区々として、名利の塵に、奔走するを(「中華若木詩抄(1520頃)」)、
と、
小さなことにこだわること、こせこせすること、
の意や、
区々心地無煩熱、唯有夢中阿満悲(「菅家文草(900頃)」)、
と、
ものごとや意見などが一つ一つ別々でまとまっていないこと、
の意や、
区々渡海麑、吐舌不停蹄(仝上)、
と、
けんめいなさま、
の意で使う(精選版日本国語大辞典)が、何れも漢文系の文章で使われている。
「区々」を、
まちまち、
と訓ませる場合も、意味はほぼ同じで、
甄(あきらか)に道芸を崇め、区(マチマチ)に玄儒を別(わか)てり(「三蔵法師伝承徳点(1099)」)、
八方門の区(マチマチニ)別れたる十二部の綜要なり(「唐西域記巻十二平安中期点(950頃)」)、
それ出陣の道のまちまちなりとは申せども(平家物語)、
などと、
それぞれ異なること、
個々別々、
の意である(広辞苑・精選版日本国語大辞典)。「区々」に、
まちまち、
と訓じたのが何に因るのかは、
マ(間)チ(道)を重ねたもの(語源辞典・形容詞篇=吉田金彦)、
ワカチワカチ(分々)の義(言元梯)、
田間の町のように一所ずつ分かれている意(日本釈名)、
区々の訓、街衢の意(和訓栞)、
の諸説だけでははっきりしないが、漢語「区々」は、
秦以区々之地、致萬乗之權(賈誼(かぎ)、過秦論)、
と、
小さい、狭い、
意であり、そこから転じて、
答蘇武書、區區竊慕之耳(李陵)、
と、
おのれの心を謙していう、
とある(字源)。あるいは、
区々之心(くくのこころ)、
と、
小さくつまらぬ心、
の意、また、
おのれの心を謙していふ、
とあり、略して、
區區、
ともいう(仝上)とあるのを見ると、漢語「区々」には、
まちまち、
個々別々、
の意はない。とすると、「まち」からきたと考えるのが自然である。「まち」は、
町、
区、
と当て、
土地の区画・区切り、仕切りの意、
とあり(岩波古語辞典)、
田の区画、
市街地を道路で区切った、その一区画、
宮殿・寺院・邸宅内の一区画、
(「坊」と当て)都城の条坊制の一区画、
物を売る店舗、市場、
などといった意味があり(岩波古語辞典・大言海)、和名類聚抄(平安中期)には、
町、未知(まち)、田區也、
字鏡(平安後期頃)には、
町ハ、田區ノ畔埓(かこい)也、
とあり、さらに、和名類聚抄(平安中期)には、
坊、萬知、別屋也、
とも、また
店家、俗云東西町是也、坐売物舎也、
ともあり、平安末期『色葉字類抄』には、
市町(いちまち)、人皇廿代持統天皇之時、諸国市町始也、
ともある。「まち」の由来は、
閒路(マチ)の義にて、田閒の路の略の意と云ふ(大言海)、
田閒の路をいうマチ(間道・間路)の義(日本釈名・東雅・箋注和名抄・筆の御霊)、
ヒノミチ(間道)の略か(玄同放言)、
マチ(間道・間路)の義(俚言集覧・和訓栞・語簏・柴門和語類集・国語の語根とその分類=大島正健)、
ミチ(道)と同原同義(日本古語大辞典=松岡静雄)、
マチ(間地)の義か(和句解)、
マチ(間所)の義(言元梯)、
間処の義(国語の語根とその分類=大島正健)、
等々、区分の「道」を取るか、分かれた「土地」をとるかで別れるようだ。「みち」は、古く、
ち、
といい、
道、
方向、
と当て、
青丹よし奈良の大路(おほち)は行きよけどこの山道は行き惡しかりけり(万葉集)、
大坂に遇ふや嬢子(をとめ)を道(みち)問へばただには告(の)らず当麻路(たぎまぢ)を告る(万葉集)、
と、
道、また、道を通っていく方向の意、独立して使われた例はない、「……へ行く道」の意で複合語の下項として使われる場合は多く濁音化する、
とあり(岩波古語辞典)、「みち」は、
ミは神のものにつく接頭語、チは道・方向の意の古語。上代すでにチマタ・ヤマヂなどの複合語だけに使われ、また、イヅチのように方向を示す接頭語となっていた。当時は、人の通路にあたるところには、それを領有する神や主がいると考えられたので、そのミコシヂ(み越路)・ミサカ(ミ坂)・ミサキ(み崎・岬)などミを冠する語例が多く、ミチもその類。一方ミネ(み嶺)・ミス(み簾)など一音節語の上にミを冠した語は、後に、そのまま普通の名詞となったものがあり、ミチも同様の経過をとって、通路の意で広く使われ、転じて、人の進むべき正しい行路、修業の道程などの意に展開し、また、人の往来の意から、世間の慣習・交際などの意に用いた(岩波古語辞典)、
ミは発語、チは通路なり、古事記「味御路(ウマシミチ)」、神代紀「可恰御路(ウマシミチ)」と見ゆ(大言海)、
などとあり、和名類聚抄(平安中期)に、
大路、於保美知、
とある。他方、同じ「ち」と訓む、
地、
は、古く、呉音で、
雲の上より響き、地(ヂ)の下よりとよみ、風・雲動きて、月・星さわぐ(宇津保物語)、
と、
ヂ、
と訓ませていた(岩波古語辞典・明解古語辞典)。こう見ると、「まち」の、「ち」は、
路・道、
の「ち」のようである。
「區(区)」(漢音ク・オウ、呉音ク・ウ)は、
会意。「匸印+狭いかっこ三つ」で、こまごまとして狭い区画をいくつも区切るさま、
とあり(漢字源)、「区々」は、
こまごまと狭苦しいさま、
転じて、
自分のことをへりくだっていうことば、
とある(漢字源)が、
会意。匸(かくす)と、品(多くの物)とから成る。多くの物をしまいこむことから、くぎる、区分けする意を表す、
とか(角川新字源)、
「區」の略体。「區」は、「品(物の集合)」に「匸(かくしがまえ:「かくす」「わける」)」を併せた、会意文字。同系語に「躯」「駆」など、
とか(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%8C%BA)、
会意文字です(匸+品)。「四角な物入れ」の象形と「品(器物)」の象形から、多くの物を「くわけする」を意味する「区」という漢字が成り立ちました、
とか(https://okjiten.jp/kanji477.html)、「品(物)」「品(器物)」と「物」とする説が多数派である。
(「區」 甲骨文字・殷 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%8C%BAより)
なお「ちまた」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/464423994.html)については触れたことがある。
参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
簡野道明『字源』(角川書店)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
2022年07月03日
鍔目
せっかく今の時世にはやらぬ化物の話をしようという人も、鍔目があわぬと嘲られるのは厭だから、つい足のところは略してしまうようなことになる(柳田國男「一目小僧その他」)、
と、
鍔目が合わぬ、
という言い回しがあるらしい。ただし、この言葉では辞書には載らない。「鍔」は、
鐔、
とも当て、
刀剣の柄(つか)と刀身との境目に挟み、柄を握る手を防護するもの。平たくて中央に孔をうがち、これに刀心を通し、柄を装着して固定する。円形・方形その他大小種々ある、
とあり(広辞苑)。古くは、
つみは、
といった。
(太刀 広辞苑より)
「鍔目(つばめ)」は、
熊手を切て払ふ太刀、つばめに成ても天皇のお名を大事と(浄瑠璃「持統天皇歌軍法(1713)」)、
と、
つばぎわ(鍔際)、
の意とある(精選版日本国語大辞典)。「鍔際」は、
ずばと抜いて切かかる刀の鍔際(ツバギハ)むずと取(浄瑠璃「平仮名盛衰記(1739)」)、
と、
刀身と鍔との相接するところ(精選版日本国語大辞典)、
刀の刀身と鍔が接する部分のこと(https://www.meihaku.jp/sword-basic/swords-word/)、
を指し、
鍔目(つばめ)、
の他に、
つばもと、
ともいい、これをメタファに、
無分別人、跡先をふまず……左様の人は、必つはきは(鍔際)にて、をくるるといへど(甲陽軍鑑「(17世紀初)」)、
太夫もさらさら身の捨つるを、つばきはになって少しも惜しまぬに(浮世草子「諸艶大鑑」)、
などと、
いよいよという場合、
せとぎわ、
間際、
の意でも使う(精選版日本国語大辞典)。鍔際とは、
物事が差し迫り追い詰められるかどうかという状態のことを表現した言葉です。「切羽詰まる」状況よりも少し前の状態と言えます。また、「瀬戸際」(せとぎわ)と同じ意味で使われることが多いです、
とある(https://www.meihaku.jp/sword-basic/swords-word/)。
「つばもと」(鍔元)」は、
太刀は抜きたりけるが、鐔本(つばもと)までそり返りたりしを(「平治物(1220頃か)」)、
と、
つばぎわ(鍔際)、
と同義である(精選版日本国語大辞典・デジタル大辞泉)。
因みに、「切羽」とは、
切刃、
とも当て、
刀の鍔つばの表裏、柄つかと鞘さやとに当たる部分に添える板金いたがね。中ほどに刀身を貫く孔を設ける。太刀の鍔には鍔の周縁にそってややせまい板金を加え、大切羽(おおせっぱ)という、
とあり(広辞苑)、これをメタファに、
生きる死ぬるの切羽ぞと(浄瑠璃「雪女五枚羽子板」)、
と、
最後の土壇場、
の意でも使い、
切羽際(せっぱぎわ)、
切羽詰まる(せっぱつまる)、
等々と言う言い回しもある(仝上)。
(「太刀拵の切羽」 https://www.touken-world.jp/tips/51062/より)
「切羽」の構成は、
太刀に用いる切羽の枚数は6~8枚です。片側に「大切羽」(おおせっぱ 最も大きな切羽)を1枚、「小切羽」(しょうせっぱ・こせっぱ)を2枚、また「中切羽」とも言われる「簓切羽」(ささらせっぱ 小切羽より厚く、縁に深い刻みがある切羽)を小切羽の間に1枚挟むこともあります、
とある(https://www.touken-world.jp/tips/51062/)。「大切羽」は、
おおぜっぱ、
ともいい、
太刀の鍔に付属する金具。鍔と切羽(せっぱ)との間、表裏にそれぞれ入れる。革鍔に切羽がくいこむのを防ぐために鍔より小形の鉄や銅の板を加えたのが例となる、
とあり、「小切羽」は、
太刀の鐔に付随する大切羽に対して、通常の切羽をいう、
とある(精選版日本国語大辞典)。
「切羽」の役割は、
鍔がずれてしまうことを防ぐためと言われていますが、この他にも「激しい斬り合いで目釘(めくぎ:柄(つか)と茎(なかご 刀身の中でも柄に納める部分)を固定するための留め具)が折れるのを防ぐため」、「斬るときに手へ伝わる衝撃を和らげるため」、「柄の握り具合を調整するため」、「鎺(はばき:刀剣が鞘から抜けないようにするための金具)や縁(ふち:鍔を挟んで鎺の反対側に取り付ける金具)の底から穴の縁が見えないようにするため」等々、
様々ある(https://www.touken-world.jp/tips/51062/)が、「切羽」にからめては、
切羽脛金(はばき)、
という言葉がある。
先(さつき)にから切羽脛金する通り、銀(かね)渡したら御損であらう(浄瑠璃「五十年忌歌念仏」)、
と、
ぬきさしならない談判、詰め開き、
の意で使うが、それは、「はばき」が、
鍔元を固める金具、
の意で、
刀に手をかけて談判することから、
とある(広辞苑)。「はばき」は、
鎺、
鈨、
とも当て、
「刀身」と「鞘」(さや)を固定する他に、鞘に収めた刀身が鞘と直に触れるのを防ぐ役割、
がある(https://www.touken-world.jp/search-habaki/)。
では、「鍔目」の意味が分かってみると、
鍔目が合わぬ、
という言い方が、
鍔際が合わぬ、
鍔元が合わぬ、
でも、何となく、
整合性をもたせる、
辻褄を合わせる、
筋を通す、
といった意味がくみ取れなくもなく、
帳簿の最終的な収支がきちんと合わないこと、
の意から、
ある物事についてつじつまが合わず、整合性がとれない、
意で使う、
帳尻が合わない、
や、
漢詩を作るときに守るべき平声字と仄声字の配列が合わない、
意から、転じて、
物事の筋道がたたない、
意で使う、
平仄が合わない、
と同じような意味で使われていると見えなくもない。しかし、
鍔目が合わない、
は、
当て字ではあるまいか。思い当たるのは、
燕(つばめ)が合わない、
という言い回しである。「燕合わせ」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/417370670.html)で触れたことだが、
燕合わせ
は、
燕算用(つばめさんよう)、
とも言い、
(絶句の)三の句で転換するほどに、一・二の句と断ちたるやうなれども、四の句で燕を合するほどに、よく一・二と相続する也(三体詩賢愚抄)、
と、
しめ、
合わせ数えること、
合計すること、
という意味である。略して、
つばめ、
燕算、
とも言う。燕算用は、
毎月の胸算用せぬによつて、燕の合わぬ事ぞかし(井原西鶴「世間胸算用」)、
と、
収支の決算、
しめ、
の意で、「つばめ」は、
秋のかり春はつばめて返す也(雨旦 文化八年(1811)「柳多留」)、
の、
まとめる、
合算する、
意の、
つばめるの連用形名詞、
とある(江戸語大辞典)。
つばめ 算用の都合をツバメと云(俚言集覧)、
とあり、
燕、
自体が当て字で、
つばめが合う、
は、
こころづくしにつばめもあい(嘉永六年(1853)「切られ与三」)、
と、
総計ができる、
帳尻が合う、
つじつまが合う、
意となる(仝上)。
ついでながら、「鍔(つば)」の語源は、
古言、ツミハの略。留刃(とめは)の転か、或は抓刃(つみは)の義かと云ふ(大言海)、
とあり、和名類聚抄(平安中期)には、
神代紀鐔を訓みて都美波(つみは)と為す、劔鼻也、
類聚名義抄(11~12世紀)には、
鐔 ツミハ、タチノツハ、
色葉字類抄(1177~81)には、
鐔、ツハ、ツミハ、劔口也、
とあり、江戸中期「本朝軍器考」(新井白石)には、「つば」は、
都美波(つみは)の音の詰まったもの、
とある。つまり、古くは、
つみは、
あるいは、
つみば、
といったらしい(岩波古語辞典・大言海)。その語源は、
敵の刀の刃を止めるものであるところからトメハ(止刃・留刃)の義(名言通・和訓栞・日本語源=賀茂百樹)、
ツカと身とにハサマル部分であるところから(日本釈名)、
ツミはツミ(錘)に似るところから(名語記)、
などとあるがはっきりしない。
つみは→つば、
の転訛は、
(tumiha→)tumiba→tu[mi]ba→tuba、
というのが分かりやすいが、如何だろうか。
「鍔」(ガク)は、
会意兼形声。「金+音符咢(ガク ごつごつする)」。かたい物に、ごつごつとつきささるやいば、
とあり(漢字源)、刀の「刃」、「刀の峰」の意で、「鍔」の意で使うのはわが国だけの用法となる。
「鐔」(漢音タン・シン、呉音ドン・ジン)は、
会意兼形声。「金+音符覃(タン 深く入り込む)」。刀の身に深くはめこむ、つば、
とあり(仝上)、これが「つば」に当たる。
なお、「燕」については、「ツバメ」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/458420611.html)、「玄鳥」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/484842852.html)で触れた。
参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
2022年07月04日
てづつ
「てづつ」は、
手筒、
と当て、
片手であつかえる鉄砲、短銃(広辞苑・大辞林)、
片手に持って撃つ小銃、ピストルの大形のもの(大辞泉)、
等々とあり、
短筒(たんづつ)、
という言い方もあり、
銃身の短い火縄銃、
を指す(デジタル大辞泉・https://www.seiyudo.com/2252.htm)。
銃身が短い火縄銃というと、馬上からの射撃に用いる、
馬上筒(騎兵銃)、
があるが、短筒は、それよりもさらに銃身が短く、片手で扱うことができる、まさに、
火縄銃版の拳銃、
であり(仝上)、馬上筒と同じく、騎兵銃として用いられたが、
火縄に常に火を点す必要上、懐に隠すのは困難であり、後世の拳銃のような護身用、携帯用としての使用は困難であった、
ともある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%81%AB%E7%B8%84%E9%8A%83)。
「手筒」を、
てづつ(てずつ)、
と訓ませて、
てづつといふ文字をだに書きわたし侍らず、いとてづつにあさましく侍り(「紫式部日記(1010頃)」)、
さほどにてつつにていかにして下の句をば思ひ寄りけるにかとおぼえ侍なり(「無名抄(1211頃)」)、
針道ちがひ着にくしと、手づつのうき名は取るまいとよ(「浄瑠璃・薩摩歌(1711頃)」)、
と、
拙劣なこと、
たなこと、た、そのさま、
不器用、
不細工、
不調法、
の意で使う(岩波古語辞典・明解古語辞典)。近代でも、
とうていこの人の作とは思われぬ手筒な歌でありました(柳田國男「女性と民間伝承(大正十五年)」)、
と、同じ意味で使っていた。昨今は、ほぼ使われず死後である。この言葉は、
日本はゆゆしくてづつなる国かな(「今鏡(1170)」)、
と、少し広げて、
不便なこと、
融通がきかないこと、また、そのさま、
の意でも使う(精選版日本国語大辞典)。
この由来は、
手の約(つづ)しき意、
とある(大言海)。「つづし」は、
約し、
と当て、
いづつし、
ともいい、
夜目のいすすき、伊豆都志伎事なく(伊は発語、豆都は清濁転倒、眠の足らぬことなくの意)(大殿祭祝詞)、
と、
些か不足なり、
今少し足らず、
の意、とある(大言海)。「いづつし」は、
つづし(約)、
ともいい、
イは発語、ツツシは約(つづ)しなり、発語の下に、連声(れんじゃう)にて、清濁転倒するなり、てづつ、くちづつと云ふ語も、手約(てづつ)、口約(くちづつ)なり。屈む(くぐむ)、さくぐむ。被る(かぶる)、かがふるの、サも、カも、発語なれば、此の語の如し、ほぞ(臍)、とぼそ(戸臍、樞)、偶違(すみちがひ)、すぢかひ(筋違)も同例なり、
とあり(仝上)、
取葺ける萱(かや)の噪(そそき)無く、御床(みゆか)つひの響(さやぎ)(無く)、夜女(よめ 夜目)の伊須須伎(いすすき)伊豆都志伎(いづつしき)事無く、平(たいら)けく、安(やすら)けく護り奉(まつ)る神の御名を白(まを)さく(睡眠(ねむり)の寝つかれぬことなく、足らはぬことなく、平安に熟睡しまふ意なり)、
と(「大殿祭祝詞(おほとのほがひののりと 御殿(みあらか)の造れる賀詞(ほがひごと))」)、
足らはぬ、
の意(ハ行四段活用の動詞「足らふ」の未然形である「足らは」に、打消の助動詞「ず」の連体形が付いた形)、
つまり、
足らない、
意となる。しかし、「いつし」を、
いついつし(稜威)の約、
とし、上の同じ例の、
夜女のいづつしきことなく、
の、
いづつし、
を、
夜目にも恐ろしいものが見えるような恐怖を言うらしい、
とする(岩波古語辞典)異説もあるが、大言海説に従うなら、
手筒(てづつ)、
は、
浄衣(じょうえ)は狩衣よりつづしくすべし(「装束寸法口伝抄(1362~68)」)、
の、「つづし」の用例から見ても、
手約(てづつ)、
の当て字ということになる。平安時代には、口下手の意で、
口づつ、
という語もあり(精選版日本国語大辞典)、上記のように、これも、
口約(くちづつ)、
の意と思われる(大言海)。鎌倉時代になると、
手づつ、
は、
手の意が失せて、
拙劣、
の意だけとなり、
口てづつ、
という語を生み、江戸時代になると、「手づつ」を訛って、
手づち、
といい、その連想から、
槌の子
ともいった(精選版日本国語大辞典)、とある。ただ、
槌の子、
は、
大方は針手の利かぬ槌の子は、遣手になって果つるも多し(浮世草子「禁短気」)、
と、
裁縫が下手なこと、
の意に限定していたようである(岩波古語辞典)。これは、
木槌、
の意の、
槌の子、
には、
年越の夜は独寝をせぬものなど言ひて、好ける田舎の下女(げす)ばらは槌のこを(俳句「山の井」)、
と、
近世、年越しの夜に独身の女は槌の子を抱いて寝る風習があった、
ことに起因していると思われる(仝上)。
(「手」 金文・西周 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%89%8Bより)
「手」(漢音シュウ、呉音シュ・ス)は、
象形。五本の指ある手首を描いたもの、
で(漢字源)、また、手に取る意を表す(角川新字源)。「手写」「手植」というように「手」ないし「てずから」の意だが、「下手(手ヲ下ス)」「着手」のように仕事の意、「名手」「能手」というように「技芸や細工のうまい人」の意、「技手」「画手」と、「技芸や仕事を習得した人」の意でも使う。
しかし、わが国では、独自に、
「指し手」「舞手」と、字の書き方、筆跡、駒の指し方、舞の手さばき、武道の術、琴、笛、鼓などの奏法、
「奥の手」と、方法・手段、
「行く手」「搦め手」「上手(かみて)」「下手(しもて)」と、方向、
「手の者」と、部下、配下、
「二手(ふたて)」と、組、隊、
「深手」「浅手」と、傷、
「手を切る」と、付き合いや関係、
「酒手」と、代金、
「山手」「野手」「河手」と、利用税、
「織手」「話し手」「嫁のもらい手」と、その動作をする人、転じて、名手、上手などの意でも、
「厚手」「薄手」「古手」と、品種、品質、
「手箱」「手槍(てやり)」「手文庫」「手帳」と、持ち運び、取扱いに適する小型のもの、
「手織」「手料理」「手描(てがき)」「手打ち」と、手作り、自作、
等々様々な意味に使い分けている(仝上)。
「筒」(漢音トウ、呉音ズウ)は、
会意兼形声。「竹+音符同(つつぬけ)」、
とあり(漢字源)、別に、
会意形声。「竹」+音符「同」。「同」は、上部「凡」(盤、四角い板)+「口(穴)」で穴のあいた板。竹の茎の部分を言う、
とも(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%AD%92)、
会意兼形声文字です(竹+同)。「竹」の象形と「上下2つの同じ直径のつつ」の象形から、「内部になにもない竹のつつ」を意味する「筒」という漢字が成り立ちました、
とも(https://okjiten.jp/kanji1765.html)ある。「筒」は、「竹の管」「円柱状で中が空洞になっている」意だが、我が国では、「筒」で、
大筒、短筒のように、銃身、砲身の意から、小銃、大砲の意、
で使う。
参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
2022年07月05日
もどる
「もどる」は、
戻(戾)る、
と当てる(広辞苑)が、
帰る、
とも当てる(大言海)ように、意味は、大きく二つのようだ。ひとつは、
筑紫舟恨みをつみてもどるには葦辺に寝てもしらねをぞする(平安末期の私家集「散木奇(さんぼくき)歌集」)、
と、
ある場所からいったん移ったものが、もとへかえる、
意と、
また水に戻るも早し初氷(「俳諧古選付録(宝暦十三年(1763))」)、
と、
以前の状態に復する、
意とがある(日本語源大辞典)。前者は、
来た道を戻る、
と、
進んだ方向と逆の方向へ引き返す、
意や、
ただいま戻りました、
と、
帰宅する、
意になり、後者の意では、
貸した金が戾る、
という言い方や、
夜業(よなべ)さしよにもこの油の高さでは、儲ける程皆戾る(浄瑠璃「女腹切」)、
と、
得た利益がなくなる、
意で使う(広辞苑・デジタル大辞泉)。
「もどる」は、
モドは、モドク(擬)・モヂル(捩)と同根、物がきちんと収まらず、くいちがい、よじれるさま、
とあり(岩波古語辞典)、
もとる(悖る)と同根、
ともある(仝上)。しかし、
モトホルの転、
ともある(広辞苑)。柳田國男は、「戻る」には、
元来引き返す、遁げて行くという意味はなかったように思います。漢字の戻も同様ですが、日本語の「戻る」という語は古くは「もとほる」といって、前へも行かず後へも帰らず、一つ処に低徊していることであったのです、
と指摘した(「女性と民間伝承)上で、いわゆる「戻橋」についても、
橋占、辻占を聴くために、人がしばらく往ったり来たりして、さっさと通ってもしまわぬ橋というのでありました、
ことを傍証として挙げている(仝上)。
「もとほる」は、
廻る、
徘徊、
などと当て(岩波古語辞典・大言海)、新撰字鏡(898~901)に、
邅、毛止保留(もとほる)、
類聚名義抄(11~12世紀)に、
紆、モトホル、マツフ・メグル、
纏、マツハル・モトホル、
色葉字類抄(1177~81)に、
繚、モトヲル、繞、旋、
等々とあり、多く、それを説明する漢字が、
邅(テン めぐる)、
紆(ウ めぐる)、
纏(テン まとう、まつわる、からまる)、
と、
よじれる、
くいちがう、
意ではなく、
めぐる、
や、それからの派生と思われる、
からまる、
の意としていたと見え、
神風の伊勢の海の生石(おひし)に這ひ廻(もと)ろふ細螺(しただみ)のい這ひもとほり撃ちてし止まむ(古事記)、
と、
ぐるぐると一つの中心をまわる、
めぐる、
まわる、
という意味である(岩波古語辞典・大言海)。また、
モトホルに反復・継続の接尾語ヒのついた形の、
大石に這ひもとほろふ細螺(しただみ)(仝上)、
と、
母登富理、
茂等倍屡、
とあるのを、「もとほる」ではなく、
と、
母登富呂布、
もとほろふ、
とし(仝上)、同じ歌を、どちらとも訓んでいる。
いずれにしても、
ぐるぐる回る、
意である。「もどる」と同根とされる「もぢる」は、
舞ふべき限り、すぢりもぢり、ゑい声を出して(宇治拾遺物語)、
と、
ねじる、
よじる、
意であるし、同じく「もどく」は、
狙った所、収まるべき所に物事がきちんと収まらず、はずれ、くいちがうさま、
とあり、
この七歳なる子、父をもどきて、高麗人(こまうど)と文を作りかはしければ(宇津保物語)、
と、
似て非なる真似をする、まがえる、
の意や、
世の人に似ぬ心の程は皆人にもどかるまじく侍るを(源氏物語)、
さからって非難する、
とがめる、
意で、色葉字類抄(1177~81)にも、
嫌、もどく、反謗也、
とあり、どうも「もどる」とは語感が異なる気がする。
「もどく」を、
戻るの他動詞、戻り説くの意、
とし、
避難する、
逆らう、
意とし、上記宇津保物語の、
この七歳なる子、父をもどきて、高麗人(こまうど)と文を作りかはしければ(宇津保物語)、
を上げている(大言海)のは、「もどる」との関係から見ると、これなら意味はつながる。
いずれにせよ、「もどる」の意味からすれば、
モト(元・本)へ帰る意(和句解・国語溯原=大矢徹・国語の語根とその分類=大島正健)、
本取るの意(大言海)、
元+ル、元を活用させた語。もとの状態に帰る意(日本語源広辞典)、
といった説までが、語源としては、意味が通る気がする。
「戻(戾)」(漢音レイ、呉音ライ)は、諸説があり、中国最古の字書『説文解字』(後漢・許慎)には、
会意。「戸」+「犬」、犬が扉の下で体を曲げるさまで曲がったこと、
とあるが、藤堂説は、
会意。「戸(とじこめる)+犬」で、暴犬が戸内にとじこめられて暴れるさまを示す。逆らう意から「もとる」という訓を派生した、
とあり(漢字源)、白川(静)説は、
扉の下に生贄の犬を埋めた呪術、
とする(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%88%BE)。
いずれも禁忌を意味。音は「辣(ラツ)」「剌(ラツ)」に通ずる。「もどる」「もどす」に当てるのは日本のみで、これは、訓読「もとる」に引かれたものか、
とある(仝上)。確かに、「暴戾」(荒々しく、道理に反する行い)「乖戾」(道理に反している)と「悖る」意や、「鳶飛戾天」(鳶飛ンデ天ニ戾ル)と、「はげしく動いてやっと届く」といった意味があり、「もどる」に当たる意味はない。
別に、
会意。戶と、犬(いぬ)とから成り、犬が戸の下を身をくねらせてくぐりぬける、転じて「もとる」「いたる」意を表す(角川新字源)、
会意。(戶(戸)+犬)。「片開きの戸」の象形と「耳を立てた犬」の象形から戸口にいる犬を意味し、そこから、「あらあらしい」、「そむく(もとる)」を意味する「戻」という漢字が成り立ちました(https://okjiten.jp/kanji1395.html)、
といった解釈も、「もとる」の意味の説明しかない。
参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
2022年07月06日
しのぶもじずり
陸奥(みちのく)のしのぶもぢずり誰(たれ)ゆゑに乱れそめにし我ならなくに(古今集)、
とある、
「しのぶもじ(ぢ)ずり」は、
忍綟摺り、
信夫綟摺り、
と当てる(大言海・学研全訳古語辞典)が、
信夫文字摺、
とも当てたりする(柳田國男「女性と民間伝承」)。
しのぶずり(忍摺・信夫摺)、
あるいは、
もじずり(捩摺)、
とも言い(広辞苑)、
しのぶの乱れ、
などともいう(大言海)。
春日野の若紫のすり衣しのぶの乱れ限り知られず(伊勢物語)、
と、
忍摺り模様の乱れの意から、転じて、ひそかに人を恋い慕う心の乱れ、
の意のメタファとしても使う(岩波古語辞典)。
摺込染(すりこみぞめ)の一種。昔、陸奥国信夫(しのぶ)郡から産出した忍草の茎・葉などの色素で捩(もじ)れたように文様を布帛(ふはく)に摺りつけたもの、
で、
捩摺(もじずり)、
ともいうのは、
忍草の葉を布帛に摺りつけて、捩(もじ)れ乱れたような模様を染め出したもの、
とも、
ねじれ乱れたような文様のある石(もじずりいし)に布をあてて摺りこんで染めたもの、
ともいう(広辞苑・精選版日本国語大辞典)。
延喜時代より、信夫郡の産物として、陸奥絹の一種の乱れ模様を捺したるを貢ぎしたり、
とあり(大言海)、平安末期の歌学書「和歌童蒙抄」には、
戻摺とは、陸奥の信夫郡にて摺り出せる布なり、打ちちがへて、乱りがはしく摺れり、
とあり、平安末期の歌学書「袖中抄」(しゅうちゅうしょう)には、著者顕昭の注に、
陸奥の信夫郡に、もぢずりとて髪を乱るやうに摺りたるを、しのぶずりと云ふ、
とある。
「摺込み染め」というのは、
布や反物の表面に模様を彫った型紙を置いて、染料液・樹脂顔料を含ませた刷毛を用いて染料刷り込んでいく手法、
とあり(http://www.mikisenryouten.co.jp/beginner/technical/tec_surikomi.html)、
再現性が難しい
ともある(仝上)。ただ、
忍草の茎・葉などの色素で捩(もじ)れたように文様を布帛(ふはく)に摺りつける
方法とは別に、
ねじれ乱れたような文様のある石(もじずりいし)に布をあてて摺りこんで染める、
方法が、
文知摺石(別名 鏡石)、
で有名な文知摺観音堂(福島県 http://antouin.com/about/fumonin.html)のある「かわまた織物展示館」で再現された、とある(https://www.town.kawamata.lg.jp/site/kanko-event/silkpia-orimono.html)。しかし、顕昭の、
髪を乱るやうに摺りたる、
と言う「しのぶずり」には見えない。
(「しのぶもじずり(もちずり)」の再現実験 https://bqspot.com/tohoku/fukushima/682より)
(「忍」 金文・戦国時代 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%BF%8Dより)
「忍」(漢音ジン、呉音ニン)は、
会意兼形声。刃(ニン・ジン)は、刀の刃のある方を、ヽ印で示した指示文字で、粘り強くきたえた刀の刃。忍は「心+音符刃」で、粘り強くこらえる心、
とあり(漢字源)、「忍耐」「堅忍不抜」と、「つらいことをねばり強くもちこたえる」意の「しのぶ」の意や、「有不忍人之心」(人に忍びざる之心有り)など、堪える意の「しのぶ」の意で、
人に目立たないようにする、
意の「しのぶ」の意は、わが国だけの用例である。当然「忍者」「忍術」という意味も、本来ない。
「綟」(漢音レイ、呉音ライ)は、
形声。「糸+音符戻(レイ)」。訓読みの「もぢる」は、「糸+戻(ねじる)」の会意文字とみて当てた読み方、
とあり(漢字源)、
草で染めた色、萌黄色、またその絹、
の意であるが、我が国では、
もじる、
と訓み、
もじり織、
綟摺り、
等々と使う。
「摺」(漢音ショウ・ロウ、呉音ショウ・ロウ)は、
会意兼形声。習は、羽を重ねること。摺は「手+音符習」で、折り重なること、
とあり(漢字源)、「たたむ」意で、「手摺(シュショウ)」は、折りたたんだ文書の意になる。
する、
意で使うのは我が国だけである。別に、
会意兼形声文字です(扌(手)+習)。「5本指のある手」の象形と「重なりあう羽の象形と口と呼気(息)の象形」(「繰り返し口にして学ぶ」、「重ねる」の意味)から「(手で)折りたたむ」を意味する「摺」という漢字が成り立ちました、
ともある(https://okjiten.jp/kanji2469.html)。
参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
2022年07月07日
神話への隘路
柳田國男「桃太郎の誕生(柳田国男全集10)」を読む。
本書は、
桃太郎の誕生、
の他、
女性と民間伝承、
竜王と水の神、
が所収されている。片や、桃太郎という「小さ子」説話から、昔話、伝説を縦横に遡り、古代の水の神信仰へとたどり着き、片や全国にちらばる和泉式部由来という伝承の地の比較検討から、その話を全国に持ち歩いた女性を通して、「歌占人」へと至り着く、という壮大な伝承の空間を再現しようとしている。
その縦横にくり広げられる仮説に裏打ちされている膨大な知識と情報に圧倒されるばかりである。「桃太郎」の「改版にさいして」で、
「この書に説くがごとき昔話の起源論、これと中間の成長発達とを、二つに引き離して見ようとする方法論は、まだ諸外国の通説とはなっていないようである。そうしてやや大雑把な私の検討では、まだ明白にこれらの仮定を、覆えすような資料は発見されていない。」
と、自身の「昔話」を発展段階を通して訴求していく方法に自信を見せている。とくに、日本では、説話と伝説と神話が、
三つ巴になって交錯、
し、「神話」も、
「數も少なく出現の機会も稀であり、また非常に荒れすさみかつ不純になってはいるが、とにかくこれらの伝説と民間説話へ、移り動いて往った足取りだけは見られる。それにはこの異類求婚譚、その中でもことに蛇の婿入りの話などが、かなり豊富に手頃の材料を供するかと思う。」
とし、桃太郎の昔話も、その原型は、蛇婿入譚のように、目に見える形で残されていないにしても、昔話成長の三つの変化、つまり、
一、 説話が上代において夙く芸術化し、そのやや成熟した形において弘く流伝していたもの、たとえば死人感謝譚や紅皿欠皿話、
二、 説話の信仰上の基礎がまったく崩壊せず、従ってこれを支持した伝説はもとより、その正式の語りごとがなお幽かながら残っていたもの、たとえば蛇婿入りのごとき一部の異類求婚譚、
三、 説話が近世に入って急に成長し、元の樹の所在は不明になったが、まだその果実の新鮮味をうしなわぬもの、たとえば桃太郎・瓜子姫説話の類、
の、「二種類三様式の説話が、入りまじってともに行われているということ」は、比較研究にとって便利だとし、江戸時代五大御伽噺(桃太郎・猿蟹合戦・舌切り雀・花咲爺・カチカチ山)に整理選択された中の「桃太郎」も、「少なくとも桃太郎と同時に並び行われ、九州中国にも稀に伝わり、東日本はほとんど到る処に保存せられている」、
瓜子姫、
の説話が童話化の潤色をうけずにあるのを比較しつつ、
桃と瓜、
という、
「元はおそらく桃の中から、または瓜の中から出るほどの小さな姫もしくは男の子」、
であり、
人間のはらからまれず、
しかも、
急速に成長してひととなった、
という、
小さ子(ちいさご)物語、
の骨子が引き出され、それは、
竹取物語、
一寸法師、
とも近く、『諸社根元記』の「倭姫古伝」にある、
姫が玉虫の形をして筥(はこ)の中に姿を現じたまふ、
と繋がっていく。「桃」や「瓜」の流れてくる川上の峰々はそこから下り給う神々の坐す場所であり、
「白蘞(かがみ)の皮で作った舟に乗り、鷦鷯(ささき)の羽衣を着て、潮のまにまに流れ寄った」
という「小男(おぐな)神」の物語と比べ合わせると、
「最初異常に小さかったということが、その神を尊くまた霊ありとした理由」
ではないか、と推測していく。それは、たとえば、
小犬が川を流れてくる、
とする「犬子噺」ともつながり、その犬が殺されて、その跡から木が生える話は、花咲爺につながり、その犬が「桃」のように川上から流れ着いたというのも、桃太郎と無縁ではなく、さらに流れてきた鳥籠に雀が入っていて、と舌切り雀につながったりと、
五大噺が互いに関係がある、
とまで推測していく。
「昔話の英雄の異常な出現、すなわちただの女の腹から生れなかったということと、同時にその普通でない成長のし方であるが、人が昔話は作り事、どうせありもせぬことをいうのだと思うようになって、かえってこの要件には重きを置かぬ結果を見た。しかも前代の常識においては、これほど人を感動させることはなかったので、ある一人の童子が誰にも予期し得ぬような難事業に成功したとすれば、それは必ず生まれから違っていたろうと思い、もしくはそれと反対に、不思議の誕生をするくらいの人間だから、鬼ヶ島の宝でも取ってこられたのだと解する風が、我々の祖先には行き渡っていた。従うて蟹や雀の大勝利という話が、かつては発端において桃太郎とよく似ていたとしても、必ずしも奇怪でなくまた混乱でもなかったと思う。その上に人が時あって異類に転身し、もしくは鳥獣草木の姿を具えつつも、人と同じく思惟し咏歎し得たということも、きわめてありふれたる上代人の考え方であった。桃や瓜の中からでさえ生まれると認められた者が、しばらくは小蛇・小犬の形をもって我々の間にいたとしても、それだけが特に不可思議というほどでもなかったのである。だからこのいわゆる五大噺の相互の類似なども、事によるとそれがある一つの根幹から、岐れて変化して行った経路を暗示する、偶然の痕跡であるかも知れぬと私などは思っている。」
そして、「小さ子」説話の、
田螺の長者、
一寸法師、
を経て、
「小さ子」説話の背後に水の神の信仰を見出そうとして行く。たとえば、「桃太郎」で、桃を拾い上げるのに直接関係のない、
爺が山へ柴苅りに行く、
と何気なく語られていることが、
柴苅爺の話、
にある、町に柴を売りに行ったが売れず、その柴を水底に向かって投げ込んだところ、その川ないし淵から美しい女性が出てきて、柴の礼を言い、水底へ導かれていくと、投げ込んだ柴がきちんと積み重ねてあった、という説話とつながり、
竜宮、
とつながっていた古い信仰の痕跡ではないか、と推測する。日本人にとっての「竜宮」が、いずれの国とも異なり、
妣(はは)の邦、
であり、
「ひとり蒼海の消息を伝えた者が、ほとんど常に若い女性であったというに止まらず、さらにまた不思議の少童を手に抱いて、来たって人の世の縁を結ぼうとした」、
のである(「竜宮」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/488132230.html)については触れた)。ちょうど、
河童、
が、
小さ子たる水神童子の零落した姿、
であるように、かつての信仰の翳がつきまとっていることは間違いない。
こうしたキーワードを手掛かりに深い深層を探っていく方法は、「女性と民間信仰」でも同じで、全国各地に伝わる和泉式部の墓や伝承を対比しつつ、「歌……に相応な解釈を付けて、神々の思召しのごとく説き聴かせる」、
歌占人(うたうらびと)、
の女性にたどり着く。そして、
「少なくとも和泉式部の諸国の伝説の、主要なる特色の一つであった親子再会譚は、舞踏と深い関係があった上に、また歌占とも因縁をもっております。」
と書く。
こうした仮説がどの程度検証されているのかは素人の自分には窺えないが、その視界の幅のひろさと奥行きの深さを、今日どれほどの人が追いかけられるものなのか、とため息が出る。
なお、柳田國男の『遠野物語・山の人生』(http://ppnetwork.seesaa.net/article/488108139.html)、柳田國男『海上の道』(http://ppnetwork.seesaa.net/article/488194207.html)、『妖怪談義』(http://ppnetwork.seesaa.net/article/488382412.html)、『一目小僧その他』(http://ppnetwork.seesaa.net/article/488774326.html)については別に触れた。
また、石田英一郎『桃太郎の母―ある文化史的研究』(http://ppnetwork.seesaa.net/article/456362773.html)についても触れた。
参考文献;
柳田國男「桃太郎の誕生他(柳田国男全集10)」(ちくま文庫)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
2022年07月08日
しとぎ
「しとぎ」は、
粢、
糈、
と当て、
神前に供える餅の名、
とある(広辞苑)が、「山神祭文」に、
今日山に入らず、明日山に入らずとも、幸ひ持ちし割子を、一神の君に参らせん。かしきのうごく、白き粢の物をきこしめせとてささげ奉る、
とある(柳田國男「山の人生」)。
古くは水に浸した生米をつき砕いて、種々の形に固めた食物。後世は、糯米(もちごめ)を蒸し、少し舂(つ)いて餅とし、楕円形にして供えた、
とあり(仝上・大辞泉)、古代の米食法で、
生で食べるという点から、餅(もち)以前の正式の米の食法、
とされ(日本大百科全書)、
しとぎ餅、
ともいい(仝上)、
粢餠(しへい)、
し、
とも、また、卵形の形状から、
鳥の子、
ともいう(精選版日本国語大辞典)。地方によっては、
しろもち(白餅)、
からこ、
おはたき、
なまこ、
等々とも呼ぶ(世界大百科事典)。津軽地方では、
神棚には不浄火が混じるのをきらい、生のしとぎを供えたと言われています。神棚に供した後、いろりの熱灰をかけて焼いて食べた、
とある(https://www.umai-aomori.jp/local-cuisine/about-local-cuisine/shitogimochi.html)。
「団子」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/475567670.html)で触れたように、「しとぎ」は、
中に豆などの具を詰めた「豆粢」や、米以外にヒエや粟を食材にした「ヒエ粢」「粟粢」など複数ある。地方によっては日常的に食べる食事であり、団子だけでなく餅にも先行する食べ物、
である(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%A3%E5%AD%90)。ただ、東北地方北部では、
年中行事において神の去来を示すとき、
に神供として用いることが多いが、静岡県沼津市付近では、
疫病神を送るとき、
しとぎを用いている。
地の神、田の神を送るとき、
に神供とする地方もある。四国・九州地方では、
死の直後死者の枕元(まくらもと)に供える白団子をしとぎとよんでいる。あるいは死者に供える団子だけをしとぎとよぶ所もある、
とあり、しとぎを供えることによって死者として確認するのである。また、しとぎは、
祭りに関与した神人(じんにん)が、これを食することによって神人から常人の状態に戻るとされている、
など、広義の意味の、
生と死の境界時に用いる転生の意義をもつ食物、
といえる(日本大百科全書)とあり、「しとぎ」は、
穀物を火食することを知らぬ時代からの食物とされているが、他方、火の忌みを厳しく考えた時代、火の穢(けがれ)を避ける方法として考えられた食物であったかもしれない、
ともある(仝上)。
和名類聚抄(平安中期)には、
粢餅・粢、之度岐(しとき)、祭餅也、
字鏡(平安後期頃)には、
糈、志止支、
とある。団子状にかためられる「しとぎ」であるが、「団子」は、
穀類の粉を水でこねて小さく丸めて蒸し、または茹でたもの、
をいう。「団子」は、
かつては常食として、主食副食の代わりをつとめた。団子そのものを食べるほか、団子汁にもする。また餅と同様に、彼岸、葬式、祭りなど、いろいろな物日(モノビ 祝い事や祭りなどが行われる日)や折り目につくられた、
とある(日本昔話事典)。柳田國男によると、
神饌の1つでもある粢(しとぎ)を丸くしたものが原型とされる。熱を用いた調理法でなく、穀物を水に浸して柔らかくして搗(つ)き、一定の形に整えて神前に供した古代の粢が団子の由来とされる、
としている(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%A3%E5%AD%90)。「粢(しとぎ)」が「団子」となったのは、
米の粒のまま蒸して搗いたものをモチ(餅)とよび、粉をこねて丸めたものをダンゴ(団子)といった。団粉(だんご)とも書くが、この字のほうが意味をなしている。団はあつめるという意で、粉をあつめてつくるから団粉といった。団喜の転という説もあるが、団子となったのは、団粉とあるべきものが、子と愛称をもちいるようになったものであろう、
とある(たべもの語源辞典)。「団子」は、
中国の北宋末の汴京(ベンケイ)の風俗歌考を写した「東京夢華録」の、夜店や市街で売っている食べ物の記録に「団子」が見え、これが日本に伝えられた可能性がある、
とされる(日本語源大辞典)。その「団子」の「シ」が唐音「ス」に転訛し、
ダンシ→ダンス(唐音)、
となり、
ダンス→ダンゴ、
と、重箱読みに転訛したともみられる。つまり「団子」は、「しとぎ」を始原とする神饌由来である。
ところで、「団子」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/475567670.html)でも触れたが、
団子、
と
餅、
の違いは、
餅はめでたいとき、
団子は仏事、
にとする所もあるが、この傾向は全国的ではない(日本大百科全書)し、上記のように、
米の粒のまま蒸して搗いたものをモチ(餅)、
粉をこねて丸めたものをダンゴ(団子)、
とする説(たべもの語源辞典)もあるが、
団子は粉から作るが、餅は粒を蒸してから作る」「団子はうるち米の粉を使うが、餅は餅米を使う」「餅は祝儀に用い、団子は仏事に用いる」など様々な謂れがあるが、粉から用いる餅料理(柏餅・桜餅)の存在や、餅米を使う団子、うるち米で餅を作れる調理機器の出現、更にはハレの日の儀式に団子を用いる地方、団子と餅を同一呼称で用いたり団子を餅の一種扱いにしたりする地方もあり、両者を明確に区別する定義を定めるのは困難である、
とあり(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%A3%E5%AD%90)、簡単ではない。もともと、「餅」(漢音ヘイ、呉音ヒョウ)は、中国では、
小麦粉などをこねて焼いてつくった丸くて平たい食品、
つまり、「月餅」の「餅」である。「もち米などをむして、ついてつくった食品」に「餅」を当てるのは、我が国だけである。
餻、
餈、
も「モチ」のことである(たべもの語源辞典)。「餻」(コウ)は、「糕」とも書き、
餌(ジ)、
と同じであり、
もち、だんご(粉餅)、
の意である。「餈」(シ)は、
稲餅、飯餅、
「餅」は、
小麦団子、
とある(仝上)。江戸中期の「塩尻」(天野信景)には、
餅は小麦の粉にして作るものなり、餈の字は糯(もちごめ)を炊き爛してこれを擣(つ)くものなれば今の餅也、餻の字も餅と訓す、此は粳(うるしね)にて作る物なり、
とあり、江戸後期の「嬉遊笑覧」(喜多村信節)にも、
餅は小麦だんごなり、それより転じてつくねたる物を糯(もち)といへり。だんごは餻字、もちは餈字なり。漢土にて十五夜に月餅とて小麦にて製することあり、よりて『和訓栞』に餅をもちひと訓は望飯(もちいひ)なりといへるは非なり、『和名鈔』に「糯をもちのよねと云るは米の黏(ねば)る者をいへり、是もちの義なり。故にここには餻にまれ餈にまれもちと云ひ餅字を通はし用ゆ、
とある(たべもの語源辞典)。つまり、「餅」の字は本来、小麦粉で作ったものであることをわかっていて、日本の糯米でつくるモチの借字として「餅」の字を使った、という経緯があり、もともと「団子」と「餅」の区別は、結構あいまいなのである。
「しとぎ」という言葉の由来は、
米を白くなるまでとぐところから、シロトギ(白浙・白磨・白遂)の略(大言海・和句解・日本釈名・東雅・和語私臆鈔・和訓栞)、
シラトギ(白研)の義(名言通)、
洗米の意のシネトキの略(俚言集覧)、
粉を湿らせてこねる意のシトネルと関係があり、原義は、米を水に浸して粉にする、あるいは粉を水で湿してかたくこねる意(綜合民俗語彙)、
朝鮮語stök(粢)と同源(岩波古語辞典)、
等々ある。是非の判断はできないが、「とぐ」よりも、「こねる」ほうに意味があり、
粉を湿らせてこねる意のシトネルと関係がある、
とする説に与したい。なお、「しとぎ」に当てる。
粢、
と、
糈、
で区別し、「粢(しとぎ)」は、
米粉やもち米から作る、米を粉状にして水で練っただけの加熱しない餅のこと、
だが、「糈」(奠稲、供米、くましね)は、
精米した舂米(つきしね)を神前に捧げるために洗い清めた米、
を指し、そのまま奉じる場合は「粢」と同様に「しとぎ」と言い、
かしよね、
おくま、
ともいう(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B1%B3)としている。
なお、「餅」については、「餅」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/474462660.html)、「もち」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/456276723.html?1583742170)、「団子」については、「すいとん」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/481242675.html)、「「団子」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/475567670.html)で触れた。
「粢」(シ)は、
会意兼形声。「米+音符次(ざっととりそろえる)」。もと、粗雑なあら米のこと、
とあり(漢字源)、
精白していない穀物、
の意で、
神前に供える穀物、
をいう(仝上)。六穀、
黍(モチキビ)・稷(キビ)・稲・梁(オオアワ)・麦(まこも)、
の総称でもある(仝上)が、
米でつくった餅、
の意、更に、
穀物でかもし赤くなるので保存した酒、
の意もある(仝上)。
「糈」(ショ)は、
かて(糧)、
の意で、
神前に供える精米、
の意である(字源)。
参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
2022年07月09日
もの狂い
世の中になほいと心憂きものは、人ににくまれんことこそあるべけれ。誰てふもの狂ひか、我、人にさ思はれんとは思はん(枕草子)、
にある、
もの狂ひ、
は、
物狂ひ、
と当て、古くは、
ものくるい、
と清音(大辞泉)、
正気でなくなること、
何かの原因で正常な判断ができなくなること、
の意で、
「もの(=霊・魂)」がついて、正気が狂う(大辞泉)、
鬼祟(もの)に狂ふ意といふ(大言海)、
とある(仝上)。
「もの」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/462101901.html)は、
形があって手に振れることのできる物体をはじめとして、広く出来事一般まで、人間が対象として感知・認識しうるものすべて。コトが時間の経過とともに進行する行為をいうのが原義であるに対して、モノは推移変動の観念を含まない。むしろ変動のない対象の意から転じて、既定の事実、避けがたいさだめ、普遍の慣習・法則の意を表す。また、恐怖の対象や、口に直接指すことを避けて、漠然と一般的存在として把握し表現するのに広く用いられた。人間をモノと表現するのは、対象となる人間をヒト(人)以下の一つの物体として蔑視した場合から始まっている、
とあり(岩波古語辞典)、「オニ」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/461493230.html)で触れたように、折口信夫は、
極めて古くは、悪霊及び悪霊の動揺によって著しく邪悪の偏向を示すものを「もの」と言った。万葉などは、端的に「鬼」即「もの」の宛て字にしてゐた位である、
とし(『国文学』)、『大言海』も、「もの(物)」を四項に区分し、そのひとつ「もの」は、「者」の意より移り、
神の異称、
転じて、
人にまれ、何にまれ、魂となれるかぎり、又は、靈ある物の幽冥に屬(つ)きたる限り、其物の名を指し定めて言はぬを、モノと云ふより、邪鬼(あしきもの)と訓めり。又、目に見えぬより、大凡に、鬼(万葉集七十五、「鬼(モノ)」)、魂(眞字伊勢物語、第廿三段、「魂(もの)」)を、モノと云へり、
としているが、大野晋は「『もの』という言葉」と題した講演で、
「もの」という精霊みたいな存在を指す言葉があって、それがひろがって一般の物体を指すようになったのではなく、むしろ逆に、存在物、物体を指す「もの」という言葉があって、それが人間より価値が低いと見る存在に対して「もの」と使う、存在一般を指すときにも「もの」という。そして恐ろしいので個々にいってはならない存在も「もの」といった。古代人の意識では、その名を傷つければその実体が傷つき、その名を言えば、その実体が現れる。それゆえ、恐ろしいもの、魔物について、それを明らかな名で言うことはできない。どうしてもそれを話題にしなければならないならば、それを遠いものとして扱う。あるいは、ごく一般的普遍的な存在として扱う。そこにモノが、魔物とか鬼とかを指すに使われる理由があった、
とする(http://www.fafner.biz/act9_new/fan/report/ai/oni/onitoyobaretamono.htm)。折口信夫が、古代の信仰では
かみ(神)と、おに(鬼)と、たま(霊)と、ものと、の四つが代表的なものであった、
とする(『鬼の話』)のに対し、
「かみ(神)と、おに(鬼)と、たま(霊)と、もの」は、平安時代なら適用するが、それ以前は、「かみ」「たま」「もの」の三つであって「おに」は入らない、
とする説も(大和岩雄『鬼と天皇』)あり(http://www.fafner.biz/act9_new/fan/report/ai/oni/onitoyobaretamono.htm)、ぼくには、憶説ながら、
もの、
としか呼べないものの中から、
かみ、
と、
たま(霊)、
と
もの、
が分化し、さらに「もの」から、
おに(鬼)、
が分化していった、というように見える。いずれにしろ、
その意味で、「もの狂い」の「もの」は、神なら、
神降ろし、
つまり、
神の託宣を聞くために、巫女などがわが身に神霊を乗り移らせること、
の意となり、霊なら、
憑依、
といい、あるいは、
狐憑き、
のように、
狐の霊に取り憑かれ精神が錯乱した状態、
に陥る。
だから、「もの狂い」には、現象として、
正気でなくなること、
の意だが、その因ってきたるものが、
神の乗り移ったもの、
なのか、
霊の憑依したもの、
なのか、
によって、
神かがる状態、
なのか、
もの(靈)に憑かれた状態、
なのかが違ってくる。いずれにしろ、一種狂乱状態をメタファに、
ものに憑かれた状態、
を表現するのが、「能」「狂言」の、
物狂い、
であり、
子や夫と別れるなどの精神的打撃により一時的に心の均衡を失った主人公がそれを自覚しながら周囲の風物に敏感に反応し、おもしろく戯れ歌い舞うこと、
を、
物狂い能、
という(大辞泉)。
「能の謡の五百以上もある曲目において、その半数までが神と人、もしくは精霊と人との交錯であり混同であって、必ず一人のシテが前後二つの舞を舞うことになっている」(柳田國男「女性と民間伝承」)
とされる能の演目の、
神・男・女・狂・鬼、
の五種類の、四番目、
「隅田川」
「班女」
「蘆刈」
等々の、
狂乱物、
狂い物、
と呼ばれるものである。
「物」(漢音ブツ、呉音モツ・モチ)は、「もの」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/462101901.html)で触れたが、
会意兼形声。勿(ブツ・モチ)とは、いろいろな布でつくった吹き流しを描いた象形文字。また、水中に沈めて隠すさまという。はっきりと見分けられない意を含む。物は、「牛+音符勿」で、色合いの定かでない牛。一定の特色が内意から、いろいろなものをあらわす意となる。牛は、物の代表として選んだにすぎない、
とあり(漢字源)、
天地間に存在する、有形無形のすべてのもの、
を意味する(字源)。そこから、コトに広がり、
物事、
へと意味を拡げる。上記の、
「牛」+音符「勿」。勿は「特定できない」→「『もの』の集合」の意(藤堂明保説)、
の他に、
犂で耕す様(白川静説)があるが、
古い字体がなく由来が確定的ではない(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%89%A9)とある。別に、
形声。牛と、音符勿(ブツ)とから成る。毛が雑色の牛の意から、転じて、さまざまのものの意を表す、
とも(角川新字源)、
会意兼形声文字です(牜(牛)+勿)。「角のある牛」の象形と「弓の両端にはる糸をはじく」象形(「悪い物を払い清める」の意味)から、清められたいけにえの牛を意味し、それが転じて(派生して・新しい意味が分かれ出て)、「もの」を意味する「物」という漢字が成り立ちました、
ともある(https://okjiten.jp/kanji537.html)。
「狂」(漢音キョウ、呉音ギョウ)は、「狂骨」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/485097166.html)で触れたように、
会意兼形声。王は二線の間に立つ大きな人を示す会意文字、また末広がりの大きなおのの形を描いた象形文字。狂は「犬+音符王」で、大げさにむやみに走り回る犬、あるわくを外れて広がる意を含む、
とあり(漢字源)、別に、
形声。犬と、音符王(ワウ)→(クヰヤウ)とから成る。手に負えないあれ犬の意を表す。転じて「くるう」意に用いる、
とも(角川新字源)、
形声文字です(犭(犬)+王)。「耳を立てた犬」の象形と「支配権の象徴として用いられたまさかりの象形」(「王」の意味だが、ここでは、「枉(おう)」に通じ(同じ読みを持つ「枉」と同じ意味を持つようになって)、「曲がる」の
意味)から、獣のように精神が曲がる事を意味し、そこから、「くるう」を意味する「狂」という漢字が成り立ちました、
ともある(https://okjiten.jp/kanji1163.html)。「王」を示す甲骨文字がかなりの数あって、「王」(オウ)の字の解釈には、
「大+―印(天)+-印(地)」で、手足を広げた人が天と地の間に立つさまをしめす。あるいは、下が大きく広がった、おのの形を描いた象形文字ともいう。もと偉大な人の意、
とある(漢字源)他、諸説あり、中でも、
象形文字。「大」(人が立った様)の上下に線を引いたもの。王権を示す斧/鉞の象形(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%8E%8B)、
象形文字です。「古代中国で、支配の象徴として用いられたまさかり」の象形から「きみ・おう」を意味する「王」という漢字が成り立ちました(https://okjiten.jp/kanji189.html)、
と、「まさかり」「おの」と見る説が目につく。
参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
2022年07月10日
さえの神
これも今はむかし、筑紫にたうさかのさへと申す斎(さい)の神まします(宇治拾遺物語)、
とある、
さへ、
は、
塞(斎)の神、
とある(中島悦次校注『宇治拾遺物語』)。
道祖神(だうそじん・どうそじん)、
のことである(仝上)。訛って、
道陸神(どうろくじん)、
ともいい、
さいのかみ、
さえのかみ、
と訓ませ、
道の神、
賽の神、
障の神、
幸の神、
とも当て、
久那止(岐神 くなど)の神、
手向(たむけ)の神、
布那止(ふなど)の神、
仁王さん(におうさん)、
塞大神(さえのおおかみ)、
衢神(ちまたのかみ)、
とも呼ばれたりする(大言海・https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%93%E7%A5%96%E7%A5%9E)。和名類聚抄(平安中期)に、
道祖、佐倍乃加美、
とある。
(夫婦(めおと)道祖神(長野県上田市) デジタル大辞泉より)
伊弉諾尊(いざなぎのみこと)が伊弉冉尊(いざなみのみこと)を黄泉(よみ)の国に訪ね、逃げ戻った時、追いかけてきた黄泉醜女(よもつしこめ)をさえぎり、
これよりな過ぎそ、
と言い(日本書紀)、
止めるために投げた杖から成り出た神、
とされ、一書に、その杖を、
岐神(ふなとのかみ)、
別の一書に、
クナトノサヘノカミ、
ともいう(日本伝奇伝説大辞典)
久那止(くなど)の神、
布那止(ふなど)の神、
の名は、ここに由来する。「さえの神」は、したがって、
障(さ)への神の意で、外から侵入してくる邪霊を防ぎ止める神(岩波古語辞典)
路に邪魅を遮る神の意(大言海)、
邪霊の侵入を防ぐ神、行路の安全を守る神(広辞苑)、
さへ(塞)は遮断妨害の意(道の神境の神=折口信夫・神樹篇=柳田國男)、
等々という由来とされ、近世には、
集落から村外へ出ていく人の安全を願う、
悪疫の進入を防ぎ、村人を守る神、
としてだけでなく、
五穀豊穣、
夫婦和合・子孫繁栄、
生殖の神、
縁結び、
等々、
性の神、
としても信仰を集めた。また、ときに、
風邪の神、
足の神、
などとして子供を守る役割をしてきたことから、道祖神のお祭りは、どの地域でも子供が中心となってきた、とされる(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%93%E7%A5%96%E7%A5%9E・日本昔話事典・大辞林)。中国では、もともと、
祖餞、崔寔(さいしょく 四民月令の著者)四民月(しみんげつれい 後漢時代の年中行事記)令曰、祖道神也、……故祀以為道祖、
と(「文選」李善註)、
行路神、
として祀られていたらしいが、平安期の御霊信仰の影響で、
境の神、
としての信仰が盛んになった(日本昔話事典)。
(「さえの神」 精選版日本国語大辞典より)
「庚申待」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/488918266.html)で触れたように、庚申講が、
申待(さるまち)、
と書かれたところから、猿の信仰と重なり、
猿を神使いとする日吉(ひえ)山王二十一社、
と結びつき、猿から、神道系では、
猿田彦神、
が連想され、記紀の伝承から、
八衢神(やちまたのかみ)、
とされ、庚申塔を、
道祖神、
と重ねて扱うようになっていった(日本伝奇伝説大辞典・日本昔話事典)。仏教系では、本地は、
地蔵菩薩、
とし、地蔵和讃の、
賽の河原、
とも関連があるとみられる(日本昔話事典)。
(道祖神(長野県軽井沢町にて) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%93%E7%A5%96%E7%A5%9Eより)
「境の神として日本に古くから有名であったのは、道祖すなわちサエノカミであります。あるいは道のはたの道六神(どうろくじん)などといって、東部日本では……その祭に参加する者は少年に限っております。仏法の方ではそれを地蔵菩薩の垂迹と考えており、その地蔵もまたちいさいものの保護者でありました。後世はサエノカハラは地獄に行く路にあるような話が行われましたが、そこでもこの菩薩は境の神であり、また幼き者の救い主として拝まれていました。サエというのも道祖と書くのもともに外部の害敵を遮ぎり防ぐ意味で、すなわちセキの神という誤解のよって来たるところであります。
ただ地蔵は僧でありますゆえに、早くから単独の像にして祭りましたが、道祖神の方は男女の二人の神であり、もとは女を主として男をこれに配していたようであります。現在でもこの男女二体以外に、別に子安と称して女性ばかりを拝む道の神もあります。」
というように(「柳田國男「女性と民間信仰」)、
峠や辻・村境などの道端に祀られる「さえの神」は、様々な役割を持った神であり、決まった形はなく、
神名や神像を刻んだもの、
銘を石に刻んだもの、
単身の神像、
男女二体の神像、
丸石・陰陽石・自然石、
男根形の石、
等々様々な形のものがある(日本昔話事典)。一般には神来臨の場所として、伝説と結びついた樹木や岩石があり、
七夕の短冊竹や虫送りの人形を送り出すところ、
であり、また、
流行病のときには道切りの注連縄(しめなわ)を張ったり、
あるいは、
小正月に左義長などの火祭、
も、ここで行うことがある(仝上・ブリタニカ国際大百科事典)
(道祖神(神奈川県藤沢市) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%93%E7%A5%96%E7%A5%9Eより)
「塞」(漢音サイ、漢音・呉音ソク)は、
会意兼形声。「宀(やね)+工印四つ+両手」の形が原形。両手でかわらや土を持ち、屋根の下の穴をふさぐことを示す会意文字。塞はそれを音符とし、土を加えた字で、隙間のないようにかわらや土をぴったりあわせつけること、
とある(漢字源)「厄塞」(ヤクソク 運勢がふさがって悪い)、「塞于天地之閒」(天地ノ間ニ塞ガル)などと使う。
参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
稲田浩二他編『日本昔話事典』(弘文堂)
乾克己他編『日本伝奇伝説大辞典』(角川書店)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
2022年07月11日
うはなりうち
松坂屋甚太夫が女房、うはなりうちの事(諸国百物語)、
にある、
「うはなりうち(うわなりうち)」とは、
後妻打(ち)、
と当て、
あさましや、六条の御息所(ミヤスドコロ)ほどのおん身にて、うはなりうちの御ふるまひ(謡曲「葵上」)、
と、
本妻や先妻が後妻をねたんで打つ、
意味で、
室町時代、妻を離縁して後妻をめとった時、先妻が意趣を晴らそうと、親しい女たちを語らって、予告して後妻の家を襲い、家財などを打ち荒らす習俗があった、
とあり(広辞苑・岩波古語辞典)、
輔親の家に雜人多く至りて濫行をなす。女方宇波成打(うはなりうち)と云々(「御堂関白日記(1012)」)、
と、平安時代から見られ、室町時代に多く見られ(仝上)、天正初期(1570年代半ば)の『林逸節用集』に、
嫌打、ウハナリウチ、
とある。
(「往古うはなり打の図」(歌川広重) 女たちが双方に別れ、箒や擂り粉木など日用の道具を持って争う https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E5%A6%BB%E6%89%93%E3%81%A1より)
相当打(さうたううち)、
騒動打、
ともいう(広辞苑)。
最古の記述は寛弘七年(1010)二月、
藤原道長の侍女が夫の愛人の屋敷を約30人の下女と共に襲撃した、
というのがある(平安中期「権記(藤原行成日記)」)し、北条政子が、
源頼朝の愛妾亀の前に後妻打ちをした(吾妻鏡)、
ともある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E5%A6%BB%E6%89%93%E3%81%A1)。「うはなりうち」の習俗は、寛永(17世紀前半)を過ぎた頃にはすでに絶えていたらしい(仝上)。
(後妻打(うわなりうち) 広辞苑より)
前妻が後妻をねたむこと、
は、
須勢理毘売命(スセリビメノミコト)甚(いた)くうはなりねたみしたまひき(古事記)、
と、
うはなりねたみ(後妻嫉妬)、
といい、平安末期『色葉字類抄』に、
妬 ウハナリネタミ、
とある。
うはなり(うわなり)、
は、
後妻、
次妻、
と当て、
ある女房、うはなりをたちまちとり殺さんと思ひ(御伽草子・火桶の草紙)、
と、一夫多妻のころの制度で、
あとに迎えた妻。上代は前妻または本妻以外の妻をいい、のちには再婚の妻をいう、
とあり(デジタル大辞泉)、
第二夫人や、めかけなどを云うことが多い、
とある(岩波古語辞典)。和名抄には、
後妻、宇波奈利、
とあるが、類聚名義抄(11~12世紀)には、
妬、ウハナリ、
とあり、「うはなり」そのものが、
妬み、
をも意味していたようだ(大言海・柳田國男「女性と民間伝承」)。
宇陀(うだ)の 高城(たかき)に 鴫罠(しぎわな)張る 我が待つや 鴫は障(さや)らず いすくはし 鯨障(さや)る 前妻(こなみ)が 菜乞はさば 立そばの 実の無けくを こきしひゑね 後妻(うはなり)が 菜乞はさば いちさかき 実の多けくを こきだひゑね ええ しやこしや こはいのごふぞ ああ しやこしや こはあざわらふぞ(古事記)、
うはなりこなみ、一日一夜よろづのことをいひ語らひて(大和物語)、
などとあるように、「うはなり」は、
嫡妻、
前妻、
と当てる、
こなみ、
の対である。「こなみ」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/478998852.html)で触れたことだが、
山彦冊子(橘守部 天保二年(1831))に、コナミは、着馴妻(こなれめ)の轉(着物、ころも。雀、すずみ)。ウハナリは上委積妻(ウハナハリメ)の轉(なげかはし、なげかし)。古へ、二妻(ふたづま)を、衣を、二重着るに譬えたり、とあり(和訓栞、コナミ「熟妻(こなめ)、或は、モトツメと読めり」、ウハナリ「ウハは、重なる義也、ナリは並(ならび)の義、ラ、ビの反(かえし)、リ」)。仁徳紀廿二年正月、「天皇納八田皇女将為妃、皇后御歌『夏蟲の譬務始(ヒムシ 夏蠶(ナツコ))の衣二重着て隠み宿りは豈良くもあらず』」、萬葉集「おおよそに吾し思はば下に着て馴れにし衣を取りて着めやも」「紅の濃染の衣下に着て、上らに取り着ば言成さむかも」。何れも、二妻のことを云へりなりと云ふ、
とあり(大言海)、「こなみ」「うはなり」ともに、着物に喩えた、と見る。「うはなり」の「うは」は、
ウハヲ(上夫)・ウハミ(褶)・ウハ(上)などのウハと同根、後から加えられるものの意、
とあり(岩波古語辞典)、
うはづつみ(上包)、
うはつゆ(上露)、
うはぬり(上塗り)
等々同趣の言葉が多く、これは、重ねるという意味にもなり、同趣旨の説が多い。
ウヘニアリ(上在)の転(名語記・俚言集覧)、
後にきてウヘ(上)ニナルという意か(和句解)、
ウハは上で、重なる意。ナリは並の義(和訓栞・名言通・日本語源=賀茂百樹)、
ウハ(上)ナリ‐メ(女)の略。ウハナルは下に着た着物の上にもう一重重ねる義(山彦冊子)、
ウハナリ(上也)の義(言元梯)、
ウハは後の意(古事記傳)、
しかし、「なり」の説明が得心がいかない。単純に考えれば、
上成、
なのだが、そうあけすけには言うまいから、
ならぶ(並)、
が妥当なのかもしれない。対して、後の夫の意の、
後夫(うはを)、
といい、和名類聚抄(平安中期)に、
後夫、宇波乎(ウハヲ 上夫)、一云、伊萬乃乎宇止(いまのをうと)、
とある。対して、前夫は、
之太乎(したを 下夫)、
で、類聚名義抄(11~12世紀)に、
前夫、シタヲ、一云、モトノヲトコ、
和名類聚抄(平安中期)に、
前夫、之太乎、
とわかりやすい言い方になっている。なお、「うはなり」に、
嫐、
の字を当てると、
歌舞伎十八番の一つ。元禄十二年(1699)中村座の「一心五界玉」で初代市川団十郎が初演、
の演目で、
(嫐を描いた錦絵(香蝶楼豊国)国立国会図書館蔵 デジタル大辞泉より)
うわなり打ち、
を題材に、
甲賀三郎(こうがのさぶろう)を間にはさんで、先妻と後妻がうわなり打ちをし、先妻が恨みから鬼と化したのを三郎が退治する、
というもので(https://www.eg-gm.jp/e_guide/memo/a/memo_uwanari.html)、
元となる資料が極端に少なく、昭和六十一年一月上演の際には、元禄十二年に初代市川團十郎が演じたときの評判記のわずか数行の記事から構想し、同時代の近松門左衛門の「弘徽殿鵜羽産屋(こきでんうのはのうぶや)」からストーリーと人物を借りて脚本が作られました、
とある(仝上)。
「妻」(漢音セイ、呉音サイ)は、
会意文字。「又(て)+かんざしをつけた女」で、家事を扱う成人女性を示すが、サイ・セイということばは、夫と肩をそろえる相手をあらわす、
とあり(漢字源)、「糟糠之妻」「荊妻(ケイサイ)」というように、「夫の配偶者」の意である。別に、
象形、(婚礼の)髪飾りをつけた女性。又は、「又」(手、動作)+「女」で会意とも。「夫」をそろうの意で「斉」等と同系、
とも(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%A6%BB)、
(「妻」 金文・西周 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%A6%BBより)
象形。かんざしをさし、手で髪を調えている女の形にかたどり、「つま」となった者の意を表す、
とも(角川新字源・https://okjiten.jp/kanji42.html)ある。
「嫐」(漢音ドウ、呉音ノウ)は、
会意文字。「女+男+女」、
としかなく、「なやむ」「うるさい」意とある(漢字源)。
嬲、
の異体字ともある(https://kakijun.jp/page/9B6B200.html)が、「嬲」(ジョウ)は、
なぶる、
からかう、
意で、意味を異にする(字源)。
参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
2022年07月12日
鼻の下くう殿建立
かまどのけむり賑々と立鼻の下建立の場と打見へて(雑俳「雲鼓評万句合(1745)」)、
人道の道徳のと云うが頭巾を取れば皆鼻の下喰う殿(でん)の建立だ(内田魯庵「社会百面相(1902)」)、
などとある、
鼻の下くう殿建立(でんこんりゅう)、
は、
鼻の下の建立、
鼻下建立(はなのしたのこんりゅう)、
ともいい、「鼻の下」は、
口、
の謂いだが、それをメタファに、
食べて行くこと、
生計、
の意でも使う。「くう」は、
食う、
の意で、
宮、
に掛けたもので、
社寺が社殿堂宇の建立修繕の名のもとに寄進を募るのも、実は神官僧侶の生活のためである、
という諷刺である(故事ことわざの辞典・広辞苑)。似た言い方に、
食う膳の勧化(かんげ)、
という言い方もある。「勧化」は、
勧進、
の意で、
鼻の下くう殿建立、
と同義になる。また、
冥土で亡者の罪の軽重を糺す十人の判官、
十王(じゅうおう)、
のうち、
閻魔王、
が有名で、閻魔だけを指すことがあるため、
九王、
に、
食おう、
をかけた、
十王が勧進も食おうがため、
という言い方もある。あるいは、
仏法も念仏も、要は世帯を維持し腹を一杯にするためのものだ、
という意味で、
世帯仏法腹念仏、
という言い方もする(仝上)。
「鼻」は、「はな」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/449051395.html)で触れたように、
端(はな)の義、
端と同源、
で(岩波古語辞典・大言海)、「はな(端)」に、
初、
とも当て、「物事の最も先なるところ。まっさき。はじめ」と意を載せる。「はな(花・華)」も、同源である(日本語源広辞典)。
「はな(鼻・端)」は、
著しく目立つ意の、ハナ
で(大言海)、顔の真ん中で著しく目立つ、ところからとする。ほかに、
フタアナ(二穴)は、フタ[f(ut)a]が熟訳されてハアナ・ハナになった(日本語の語源)、
ハジメノアナ(初穴)の義(和句解・日本釈名)、
ハアナ(方穴)の義(言元梯)、
等々「穴」にこだわる説もあるが。
「鼻」(漢音ヒ、呉音ビ)は、
形声。自ははなの形を描いた象形文字で、
「自」(鼻の象形)+音符「畀(ヒ)」、
で、
狭い鼻腔の特色に名づけたことば、
とある(漢字源・https://ja.wiktionary.org/wiki/%E9%BC%BB・角川新字源)。別に、
会意兼形声文字です。甲骨文では「はな」の形をした象形文字でしたが、後に、「畀(ヒ こしき(米などを蒸す為の土器)の中敷きと台の象形で「蒸気(空気)を通過させる」の意味)」が追加され「鼻」という漢字が成り立ちました、
ともある(https://okjiten.jp/kanji9.html)。
(「鼻」 説文解字・漢 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E9%BC%BBより)
参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
尚学図書編『故事ことわざの辞典』(小学館)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
2022年07月13日
歌占
「歌占(うたうら)」は、
巫女(みこ)や男巫(おとこみこ)が神慮を和歌で告げること、また、その歌による吉凶判断、
とあり(大辞泉)、
恵心僧都、巫女に心中の所願を占へとありければ、歌占に和讃を唱へて、「十万億の国国は、海山隔てて遠けれど、心の道だに直(なほ)ければ、つとめて至るとこそ聞け」と占ひたりければ(鎌倉初期の説話集『古事談』)、
と、
巫女などの口から出る歌を手掛かりに占いを行うこと、
である(岩波古語辞典)。本来は、神との交信をする行為、つまり、
巫(かんなぎ、古くはかむなき)、
であったが、後に、中世、
男巫(みこ)の候が、小弓に短冊を付け歌占を引き候が(謡曲「歌占」)、
と、
白木の弓に、歌を書いた多くの短冊を下げ、その一つを当人に引かせ、出た歌によって神慮をうかがう占い(岩波古語辞典)、
となり、さらに近世になると、
七月七日「不論男女七人会同、各書旧歌百首、都合為一巻、用歌占(「長秋記(1133)」)、
とあるように、
草紙や百人一首を開いて出た歌などによって吉凶を占う(広辞苑・大辞林)、
ものに変わっていく。
(「歌占」 精選版日本国語大辞典より)
この「歌占」を主題にし、
伊勢の神職度会(ワタライ)家次が、歌占をして諸国を巡るうち、自分を尋ねる我が子幸菊丸と再会し、里人の所望で地獄巡りの曲舞(クセマイ)を舞う、
という能の「歌占」になる。それは、
加賀国 白山の麓に住む男(ツレ)は、父を捜す幼子(子方)を連れ、最近評判の占い師(シテ)のもとを訪れる。聞けば、彼はもと伊勢の神官で、かつて故郷を去った神罰により頓死し、三日後に蘇生した経験をもつという。彼はさっそく男と幼子の悩みを占うが、その中で、幼子は既に父と再会しているとの結果が出る。訝りつつも幼子の素性を尋ねる占い師。そうするうち、実はこの占い師こそ、幼子の父であったことが判明する。
この再会も神慮ゆえと、帰郷を決意した占い師。彼はその名残りにと、男の求めに応じ、頓死の折に体験した地獄の様子を舞って見せる。しかしこの舞は、神の憑依を招き寄せる恐ろしい舞であった。舞ううちに狂乱状態となって責め苛まれ、これまでの無沙汰を神に詫びる占い師。やがて正気に戻った彼は、我が子を連れ、故郷へと帰ってゆくのだった、
という概要(http://www.tessen.org/dictionary/explain/utaura)で、
弓につけた短冊を選ばせ、その歌で占う、
中世の風俗と、頓死して3日目に蘇生し、地獄を見た恐怖で白髪となっている、
シテの舞う地獄巡りの曲舞(くせまい)、
が眼目(日本大百科全書)とある(「歌占」については、https://www.nousyoukai.com/blank-26に詳しい)。因みに曲舞(くせまい)は、
久世舞、
九世舞、
とも書き、『七十一番職人尽歌合(しょくにんづくしうたあわせ)』に、
白拍子(しらびょうし)と曲舞とが対(つい)になっている
ので、囃子(はやし)、服装などの類似から、その母胎は白拍子舞にあるのではないかといわれている(仝上)。服装は、児(ちご)は水干(すいかん)、大口(おおくち)、立烏帽子(たてえぼし)、男は水干のかわりに直垂(ひたたれ)を着け、扇を持ち鼓にあわせて基本的には一人舞を舞った、
とあり、南北朝時代から室町時代にかけて流行した中世芸能の「曲舞」を、大和(やまと)猿楽の観阿弥(かんあみ)が自流の能の謡のなかに取り入れて独自の芸風を確立したとされる(仝上)。
その「歌占」の度会(わたらい)家次の後裔と称する伊勢の北村某という旧家に、
「持ち伝えた歌占の弓というものは、長さ三尺ばかりの木の弓で、取柄には赤地の絹を糸にて巻き、弓の本末(もとうら)に一種の歌が書いてありました。
神ごころ種とこそなれ歌うらのひくもしら木のたつた山かな
……意味がいっこうにはっきりせぬ歌ですが、謡の方には、「引くも白木の手束(たづか)弓」とありますから、これだけはもう誤っているのです。
なおそれ以外に八枚の短冊に歌が書いて、弓の弦に結びつけてありました。歌占を引くというのはすなわちこの短冊の一枚を、多分目でもつぶって手にとること、あたかも今日のおみくじのごときもので、かの「歌占」の男みこの、
小弓に短冊を付け歌占を引き候が、けしからず正しき由を申し候ふ程に云々、
と言われていたのは、疑いもなくこの事であります」
とあり(柳田國男「女性と民間伝承」)、歌は、たとえば、
鶯のかひこの中のほととぎすしやが父に似てしやが父に似ず、
といった類である(仝上)。上記に「本末(もとうら)」というのはよくわからないが、弓の場合、
弓を射る時、下になる方の弭(はず)を「もとはず(本弭・本筈)」、
上になる方を(弓材の木の先端を末(うら)と呼ぶことので)「うらはず(末弭・末筈)」、
というが、何処を指しているのかはっきりわからない。文意からすると、「歌占」の短冊とは別に、弓の上になる方(うらはず)辺りにつけた短冊に書いてあるということだろう。なお「弓」については「弓矢」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/450350603.html)で触れた。
「うた」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/448852051.html)で触れたことだが、「うた」は、古代特別な意味、神事や呪術性という意味を持っていると考えると、
ウタフ(訴)の語根。これからウタフを経過して、ウタヒとウタヘとに分化した(万葉集講義=折口信夫)、
という、
ウタフ(訴)、
ではないかという気がする。語源から考えれば、
ウタフ(ウ)、
は、色ふ、境ふ、等々と同趣で、
歌を活用せしむ、
でいいと思うのだが(大言海・日本語源広辞典)、もう少し踏み込んで、、
ウタガヒ(疑)・ウタタ(転)のウタと同根で、自分の気持ちをまっすぐに表現する意、
とし、
ウタ(歌)アヒ(合)の約で、もとは唱和する意か、
とする(岩波古語辞典)説もある。なお、「うらなう」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/452962348.html)、「うたがう」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/477908236.html)については触れた。
「歌」(カ)は、
会意兼形声。可は「口+⏋型」からなり、のどで声を屈折させて出すこと。訶(カ)・呵(カ のどをかすらせて怒鳴る)と同系。それを二つ合わせたのが哥(カ)。歌は「欠(からだをかがめる)+音符哥」で、のどで声を曲折させ、からだをかがめて節をつけること、
とある(漢字源)。別に、
会意兼形声文字です(哥+欠)。「口の象形と口の奥の象形×2」(「口の奥から大きな声を出す、うたう」の意味)と「人が口を開けている」象形(「口を開ける」の意味)から、「人が口をあけ大きな声でうたう」を意味する「歌」という漢字が成り立ちました、
ともある(https://okjiten.jp/kanji220.html)。
「占」(セン)は、「うらなう」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/452962348.html)で触れたように、
「卜(うらなう)+口」。この口は、くちではなく、あるものある場所を示す記号。卜(うらない)によって、ひとつの物や場所を選び決めること、
とある(漢字源)。「卜」(漢音ボク、呉音ホク)は、
亀の甲を焼いてうらなった際、その表面に生じた割れ目の形を描いたもの。ぼくっと急に割れる意を含む、
とあり(仝上)、これは、
亀卜(きぼく)、
というが、
亀の腹甲や獣の骨を火にあぶり、その裂け目(いわゆる亀裂)によって、軍事、祭祀、狩猟といった国家の大事を占った。その占いのことばを亀甲獣骨に刻んだものが卜辞、すなわち甲骨文字であり、卜という文字もその裂け目の象形である。亀卜は数ある占いのなかでも最も神聖で権威があったが、次の周代になると、筮(ぜい 易占)に取って代わられ、しだいに衰えていった、
とある(世界大百科事典)。
参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
柳田國男「女性と民間伝承(柳田國男全集10)」(ちくま文庫)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
2022年07月14日
影向の松
「影向(ようごう)の松」という名の松が、今日、
影向のマツ 善養寺(江戸川区東小岩)境内に生育している樹齢は600年以上のクロマツの巨木、
影向の松 善福院(三重県伊賀市)境内に生育している松(現在三代目)、
影向の松 春日大社(奈良県奈良市)境内に生育しているクロマツ(平成に入って枯れたため現在後継樹を育成)、
影向の松 不洗観音寺(岡山県倉敷市)境内に生育している推定樹齢200年のクロマツ、
があるらしい(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BD%B1%E5%90%91%E3%81%AE%E6%9D%BE)。
春日大社影向の松には、
春日大明神が降臨し万歳楽(まんざいらく)を舞ったとされ、能舞台の鏡板の松はこの松を描いたものとされる、
という(http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E5%BD%B1%E5%90%91)。
(万歳楽 精選版日本国語大辞典より)
「影向」は、
ようごう、
と訓ませ、また、
ようこう、
とも訓むが、
えいこう、
えこう、
とも、
えいきょう、
などとも訓む(広辞苑・字源・大言海)。これは、「影」が、
漢音エイ、呉音ヨウ、
「向」が、
漢音キョウ、呉音コウ、
と発音するため、
ようこう、
ようごう、
の訓みは、呉音によっている。『文明本節用集』(ぶんめいほんせつようしゅう 室町時代の文明年間以降に成立)には、
影向、ヤウガウ、
とある。
「影向」は、
誠に来迎引摂(らいごういんじょう)の悲願も、この所に影向を垂れ(平家物語)、
と、
神または仏が現れること、
また、
神仏が一時応現すること、
の意で(広辞苑・岩波古語辞典)、
衆生済度のため化身となり出現すること、
を意味する(大辞林)が、
神仏が本来の居場所を離れ有縁の人前に姿をとって赴くこと、
とある(http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E5%BD%B1%E5%90%91)のが、正確な意味に思える。この、
神仏が仮の姿となって、この世に現れること、
あるいは、
姿を見せずに現れること、
を、
権現、
という(世界大百科事典)。
神仏の影向は、中世の社寺縁起にしばしばみられ、それにちなんだ伝承地は各地に残されている。また、中世の絵画には、神仏の影向を具体的に描いたものが多くみられ、人々は、そのような神仏の具体的な姿を信仰の対象とした(仝上)、という。
「影向の松」の名も、
この松が枝を多くのばし、まるで母親が両手を広げて子どもたちを抱えるようなその姿に由来する、
とされる(https://www.city.kurashiki.okayama.jp/5547.htm)。
影とは、物の陰影なり、本体ありて、その陰(影)を他面に対向せとむるを影向と云ふ、即ち、月影の水面に映ずるが如し、
とある(大言海)。
「播州飾磨(しかま)の了覚寺という寺にも、孤松一名折居松というのがあって、和泉(式部)の手栽(てうえ)ともいえばまたこの松を栽えた時に、ちょうど彼女が生まれたから折居松だともいっていたそうであります。生まれたから折居松は意味がないようですが、折居は宛て字であって、実は降臨松であったらしいのであります。神木へ神が御降りになると称して、その下で祭りをした風習の盛んであった頃には、その木を影向松(ようごうまつ)とも、星降りの松とも、勧請(かんじょう)の木ともまた腰掛木ともいっておりました。今でも無数にその名の木が諸国に残っておりますが、その神を顕わしたのは通例は樹の下に立たしめた童男童女でありました。」
とあり(柳田國男『女性と民間伝承』)、
「神は高い空から、清い地の上に御降りなされるものという信仰から、枝ぶりの尋常でない木をもって神意を暗示するもの」
と考え、
枝垂れ木、
笠木(笠松)、
と呼んだりした(仝上)。また、各地には、
仏や神が姿を現した霊石、
を、
影向石(ようごういし)、
と呼ぶ、
神仏が顕現した事蹟が存在し、その地に寺社が建立されることも多い、
とあり(http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E5%BD%B1%E5%90%91)、
知恩院の影向石、
は、建暦二年(1212)法然の臨終に際し、瑞相や紫雲が立ちこめる奇瑞が現れたが、そのときに賀茂大明神がこの石に降臨した、
といわれる(仝上)。こうした由来からか、
影向石、
は、
拝み石、
とも言い、
遠くの神(神社)を遙拝したり、来臨する神を遥拝したりする場所にある石、また、その石にまつわる伝説、
を指す(精選版日本国語大辞典・日本伝奇伝説大辞典)。南高諏訪神社(福島県信夫郡)の「拝み石」は、
倭健命がここで諏訪を遥拝した、
と伝え、四天王寺(大阪市)南大門の「拝み石」は、
紀州の熊野神社に向かって礼拝する目印、
とされ、岡山県久米郡福渡町にある、
三尊石仏岩、
は、
弥陀三尊の来迎を拝んだ、
と伝承される(仝上)。
遥拝の場所を示す石、
であるか、
神仏の影向を伝える石、
であるか、いずれにしても、この背景には、
神が天上から岩石の上に降臨し、また遠来の神が石に一時休息して人界に来臨する、
という考えがあり、
腰掛石、
影向石、
降臨石、
勧請石、
と呼ぶ「石」は、
影向松、
降臨松、
勧請の木、
神代杉、
等々の「木」と同様に、
神の依代、
と考えていいようである(仝上)。
(影向寺(野川)の影向石(右) http://www.miyamae-kankou.net/historyculture-category/2009-11yougouji/より)
影向寺(野川)の影向石は、
江戸時代の初め万治年間に、当時の薬師堂が火を被ると、本尊薬師如来は自ら堂を出て、影向石の上に被災を逃れたと伝えられています。石に神仏が馮依しているとして爾来影向石と称されようになり、寺名も養光寺から影向寺と改めた、
とされる(http://www.miyamae-kankou.net/historyculture-category/2009-11yougouji/)。
こうした経緯からか、
庭園を眺めたり礼拝したりする場所に置く平たい石、
も、
お墓の手前に敷かれている板状の石、
も、
拝み石、
と呼ぶようである(精選版日本国語大辞典)。なお、歌舞伎(享保16年11月(京・早雲座)初演)の外題、
影向石、
は、
えいごうせき、
と通称するようである(歌舞伎・浄瑠璃外題よみかた辞典)。
「影」(漢音エイ、呉音ヨウ)は、
会意兼形声。景は「日(太陽)+音符京」からなり、日光に照らされて明暗のついた像のこと。影は「彡(模様)+音符景」で、光によって明暗の境界がついたこと。とくに、その暗い部分、
とあり(漢字源)、別に、
会意兼形声文字です(景+彡)。「太陽の象形と高い丘の上に建つ家」の象形(「光により生ずるかげ」の意味)と「長く流れる豊かでつややかな髪」の象形(「模様・色どり」の意味)から、「かげ」を意味する「影」という漢字が成り立ちました、
ともある(https://okjiten.jp/kanji1289.html)。「景」(漢音ケイ・エイ、呉音キョウ・ヨウ)は、
形声。京とは、高い丘にたてた家をえがいた象形文字。高く大きい意を含む。景は「日+音符京」で、大きい意に用いた場合は、京と同系。日かげの意に用いるのは、境(けじめ)と同系で、明暗の境界を生じること、
とある(仝上)。
「向」(漢音キョウ、呉音コウ)は、「背向(そがい)」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/482178677.html)で触れたように、
会意。「宀(屋根)+口(あな)」で、家屋の北壁にあけた通気口を示す。通風窓から空気が出ていくように、気体や物がある方向に進行すること、
とある(漢字源)。別に、
会意。「宀」(屋根)+「口」(窓 又は 窓に供えた神器)、
ともあり(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%90%91)、さらに、
象形文字です。「家の北側に付いている窓」の象形から「たかまど」を意味する「向」という漢字が成り立ちました。「卿(キョウ)」に通じ、「むく」という意味も表すようになりました、
との解釈もある(https://okjiten.jp/kanji487.html)。
参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
乾克己他編『日本伝奇伝説大辞典』(角川書店)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
2022年07月15日
きっちょむ話
「きっちょむ話」は、
吉四六話、
と当て、
大分県中南部に伝承されている笑い話、とんちばなし、
で、
「きっちょむ」は吉右衛門の転訛(広辞苑・大辞泉)、
「きっちょむ」という名は「きちえもん」が豊後弁によって転訛したもの(デジタル大辞泉)、
とされるように、
地元では、明暦から元禄(1655~1704)の頃酒造業を営み、豊後国野津院(現在の大分県臼杵市野津地区、旧大野郡野津町)の庄屋でもあった初代廣田吉右衛門(ひろた きちえもん)がモデル、
とされるが(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E5%9B%9B%E5%85%AD・日本昔話事典)、正徳五年(1715)の墓と目されるものも同様、確かな資料はない(仝上)。
(初代廣田吉衛門(吉四六さんのモデルとされる)のお墓(大分県臼杵市) https://www.visit-oita.jp/spots/detail/5583より)
「きっちょむ話」は、
おどけ者、
狡猾者、
和尚と小僧、
大話、
あわて者、
けちん坊、
愚か村、
愚か婿、
等々、
笑い話の各種の型を網羅している、
とされ(日本昔話事典)、
二百数十話、
にも及ぶが、
他地方に伝承されている笑話、
『醒睡笑』、『軽口居合刀』、『露休置土産』等々、近世出版された咄本収録の話、
等々も多く、さらに、
明治以降活字化される過程で脚色や創作が加えられている、
ともある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E5%9B%9B%E5%85%AD・日本昔話事典)。1926年(大正15年)に「きっちょむ会」を発足させた柳田國男は、
「吉右衛門……の逸話と伝えたものの数は、百や百五十では済むまいけれども、その中には明々白々に二種類の話があって、一人の所業としては如何(どう)しても合点が行かない。例を挙げて言うならば……天昇りの話のほかに、キッチョンはつまらぬ掛物の絵を持って来て、騙して高い金で愚か者へ売りつけた。傘を手に持つ画中の人物が、雨の降る日にはその傘を開くと謂うのであった。勿論ウソだから怒って談じ込むと、先生は平気で『あんたは飯をくわせたか、飯を食わせなければ何もせぬのは当たり前だ』と答えたと謂う。この話は西洋に二人椋助譚(ににんむくすけだん)などにもあるところの、黄金を糞する駒の話の同類で、他の地方では『金を食わせたか、食わせずに糞するわけがない』と答えたことになっていてその方が自然に聴こえる。」
と書き(「吉有会記事」)、
狡知譚、
と
愚者譚、
が一人の所業に集約されているのに首をかしげているが、しかし、これほど広範に「きっちょむ」に集約されるのは他の地方には見られない、ともしている。因みに、「天昇り」という話は、
怠け者の吉四六は田の代掻き(しろかき 田に水を入れた状態で、土の塊を細かく砕く作業)を楽に行う方法は無いかと考え、田の真ん中に高いハシゴを立てる。そして町の衆に「天に昇ってくる」と言い回る。天昇り当日、吉四六がはしごを登りだすと、集まった町の衆は「危ない危ない」と言いながら田んぼの中で右往左往する。吉四六もはしごの上でふらついてみせる。しばらくすると「皆がそんなに危ないというなら天昇りはやめじゃ」とはしごを降りてくる。結局、町の衆が右往左往して田の中を踏み付け回ったおかげで、田は代掻きされた状態になった、
というもの(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E5%9B%9B%E5%85%AD)である。
しかし、豊前の中津市に入ると、
吉吾話(きちごばなし)、
となり、八代に行くと、
彦市、
となり、岩手の紫波郡にも、
モンジャの吉、
と呼ばれる、
うそつきの民間英雄、
が居て(紫波郡昔話)、柳田國男は、
隠れた地下水脈、
がある(仝上)と指摘している。事実、笑話の主人公に、
吉、
という名のついた地域は、豊前中津の他に、
熊本、
東北、
四国、
と広がり、
咄の者の通り名、
になっているようである(日本昔話事典)。
実在の吉右衛門の「吉」から「きっちょむ」話が吉右衛門に収斂されたように、
「吉」の通り名に擬せらるべき実在人物がいた、
ことが、伝承をまつます強化したのではないか、と推測されている(仝上)。
臼杵の「吉四六」と比べ、中津の「吉吾」は、近世の宇佐道中唄に、
中津吉吾に欺されて、小祝地蔵に目を抜かれ、
という一節があり、
吉四六が豊後人にとっておどけ者の印象が強いのに対し、吉吾はややずるい人間というイメージがある、
といったように(仝上)、地域ごとに多少の差はあるようだが。
参考文献;
稲田浩二他編『日本昔話事典』(弘文堂)
柳田國男『不幸なる芸術・笑の本願』(岩波文庫)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
2022年07月16日
ほほえむ
「ほほえむ」は、
微笑む、
頬笑む、
と当てる(広辞苑)が、正確には、「頬」と「頰」とがあり、
微笑む、
頰笑む、
頬笑む、
となる(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E3%81%BB%E3%81%BB%E3%81%88%E3%82%80)。さらに、
忍笑、
とも当てる(大言海)。
御手は、いとをかしうのみなりまさるものかなと独りごちて、うつくしと、ほほゑみ給ふ(源氏物語)、
と、
声を出さずに笑う、
にっこりとする、
意だが、古くは、
苦笑・冷笑などにもいう、
とあり(大辞林)、
もの恐ろしくこそあれと、いと若びて言へば、げにとほほゑまれ給ひて(仝上)、
と、
微苦笑する、
意でも使い(岩波古語辞典)、
メタファとして、
ほかには盛りすぎたる桜も、今さかりにほほゑみ(仝上)、
と、
蕾つぼみがわずかに開く、
にも言う(岩波古語辞典)。
「ほほえむ」の語源は、
含(ほほ)み笑む意、
あるいは、
頬笑む、頬に其気色の顕はるるの意、
とある(大言海)が、
頬にそのヱマヒがまず現れるから(柳田國男「笑の本願」)、
と、
頬笑む、
の意と考えられる(日本語源大辞典)。因みに、「ゑまひ」は、
ゑまふの名詞形、
で、「ゑまふ」は、
笑まふ、
と当て、
笑むに反復・継続の接尾語フ(四段活用の動詞をつくり反復・継続の意を表わす)のついたもの(岩波古語辞典・明解古語辞典・広辞苑)、
動詞「ゑむ」の未然形+反復継続の助動詞「ふ」(日本国語大辞典・学研全訳古語辞典・デジタル大辞泉・https://ja.wiktionary.org/wiki/%E3%82%91%E3%81%BE%E3%81%B5)、
ゑむの延(大言海)
等々諸説あるが、
さ馴らへる鷹は無けむと心には思ひ誇りて恵麻比(ヱマヒ)つつ渡る間に(万葉集)、
と、
ほほえむ、
意であり、また、
梅柳常より殊に敷栄え咲万比(ヱマヒ)開て鶯も聲改めて(続日本後紀)、
と、
花が開く、
意でも使う(岩波古語辞典)。
中世の辞書類では、文明本節用集では、
頬(ホウ)―忍笑(ホホ・シノビワラヒ)
永禄五年本節用集では、
頬(ホフ)―忍咲(ホホエン)、
易林本節用集では、
頬(ホフ)―微笑(ホホヱム)、
と、
ほお(頬)、
と
ほほゑむ、
の語形が異なる(日本語源大辞典)のは、
複合語中に古形が保存されがちであり、単独語が形を変えやすいため、
としている(仝上)。
「ほほえむ」と関係があると思われるのは、
えくぼ(靨)、
で、
ヱ(笑)クボ(窪)の意(岩波古語辞典)、
笑窪の義(大言海・和訓考・箋注和名抄)、
ヱクボ(咲凹)から(言元梯)、
と、「ゑむ」と関わらせる。和名類聚抄(平安中期)には、
靨、惠久保、面小下也、
とある。
うぶ飯(めし)、
または、
産の飯、
という、生まれた赤児の前に据える、
高盛りの飯、
の風習があるが、男子だと、
盛り飯の上になるたけ重い石か金属の類を載せる、こうすると首の骨が強くなると言い伝える、
女子だと、
高く盛った飯の両側に、指または箸の先で附いて辰の穴をあける、その児の頬にエクボができて、愛嬌がよくなる、
という(柳田國男「女の咲顔」)。これも、女子の「ゑみ」と関わるらしい。
「わらふ」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/449655852.html?1494102077)が、
ワラ(割・破る)+ふ(継続)(日本語源広辞典)、
顔がワラ(散)クル意(大言海)、
相好が崩れ、破顔する義で、ワルル(破)からか(国語の語幹とその分類)、
口を大きく開く意の、ワル(割)から岐(わか)れた(名言通・女の咲顔=柳田國男)、
などと、
割れ、破れ、散る、
という眼前の表情変化から来た言葉であった(http://ppnetwork.seesaa.net/article/449655852.html?1494102077)ように、「えむ」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/449771882.html)も、
心に愛ずることありて、顔にあらはれて、にこやかなる。笑ひを含む、
と(大言海)表情の変化を意味するが、声のある、
わらふ、
に対し、
ゑむ、
は、聲がない(柳田・前掲書)など、両者は区別されていた、と見られる。「ほほゑむ」は、その「ゑむ」が、頬に現われている、と見ているようである。あるいは、
靨、
に「ゑむ」の象徴を見ていたのかもしれない。
なお、にっこりと、
といった、
笑みを含んださま、
に言う、
ゑみゑみ、
と訓む(岩波古語辞典・広辞苑・大言海)、
笑笑、
については触れたことがある(http://ppnetwork.seesaa.net/article/481859499.html)。
「微」(漢音ビ、呉音ミ)は、
会意兼形声。𣁋(音符ビ)は「-線の上下に細い糸端の垂れたさま+攴(動詞のしるし)」の会意文字で、糸端のように目立たないようにすること。微はそれを音符とし、彳(行く)を添えた字で、目立たないようにしのび歩きすること、
とあり(漢字源・角川新字源)、「衰微」「微細」といったように「かすか」、「小さくて目立たない」意である。別に、
会意兼形声文字です。「十字路の左半分」の象形(「道を行く」の意味)と「植物が芽を出し発芽した象形と植物の根の象形」(「もののはじめ・先端」の意味)と「ボクッという音を表す擬声語と右手の象形」(「手でうつ」の意味)から、「人目につかずに行く」、「かすか」、「わずか」を意味する「微」という漢字が成り立ちました、
ともある(https://okjiten.jp/kanji1249.html)。
(「㗛」(「笑」の正字) https://kanji.jitenon.jp/kanjir/8788.htmlより)
「笑」(ショウ)は、「わらう」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/449655852.html?1494102077)で触れたように、
会意文字。夭(ヨウ)は、細くしなやかな人。笑は「竹+夭(ほそい)」で、もと細い竹のこと。正字は「口+音符笑」の会意兼形声文字で、口を細くすぼめて、ほほとわらうこと。それを誤って咲(わらう→さく)と書き、また略して笑を用いる、
とある(漢字源)。「咲」(ショウ)は、
会意兼形声。夭(ヨウ)は、なよなよと細い姿の人を描いた象形文字。笑(ショウ)は、細い竹。細い意を含む。咲はもと、「口+音符笑」で、口をすぼめてほほとわらうこと。咲は、それが変形した俗字。日本では、「鳥なき花笑う」という慣用句から、花がさく意に転用された。「わらう」意には笑の字を用い、この字(咲)を用いない、
とある(仝上)。
「頬」(キョウ)は、
会意兼形声。「頁(あたま)+音符夾(キョウ はさむ)」。顔を両側からはさむほお、
で(漢字源・https://okjiten.jp/kanji2198.html)、
頰、
が正字、「頬」は俗字(https://kakijun.jp/page/hoo16200.html)。
「靨」(ヨウ)は、
面+音符厭(エン・ヨウ 抑えつける、くぼむ)、
で、
咲媚看婦靨(咲媚婦ノ靨ヲ看ル)(梅尭臣)、
と、
えくぼ、
の意である(漢字源)。
参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
柳田國男「不幸なる芸術・笑いの本願け」(岩波文庫)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
2022年07月17日
腰折れ
「腰折(こしを)れ」は、
奈良坂のさがしき道をいかにして腰折れどもの越えて来つらん(古今著聞集)、
と、文字通り、
年老いて腰の折れかがむこと、
また、
その人、
の謂いだが、それをメタファに、
今めきつつ、こしをれ哥好ましげに、若やぐ気色どもは(源氏物語)、
のように、
腰折れ歌、
の、
和歌の第三句(腰の句)の詠み方に欠点のあるもの、
の意味で使い(広辞苑・岩波古語辞典)、
第三句と第四の句との間の続かない歌(広辞苑)、
第三句と第四句の接続が不都合なもの(岩波古語辞典)、
と、
5・7・5・7・7の第3句目の〈5〉を腰句と呼ぶが、中心となるこの句の出来の可否が作品的価値を左右するところから、腰句が折れた短歌、下手な短歌という意味になる、
とする(世界大百科事典)。
ややもせば、腰はなれぬばかり、折れかかりたる歌をよみいで、えもいはぬよしばみごとしても、われかしこに思ひたる人、にくくもいとほしくも覚えはべるわざなり(紫式部日記)、
と、
腰のところで、離れてしまうほど、うまく整わない、
といっている(https://sorahirune.blog.fc2.com/blog-entry-275.html)のは、つまり、
上の句(かみのく) 上の方の5・7・5の3句 初句+第二句+腰の句、
と、
下の句(しものく) 下の方の7・7の2句 第四句+第五句、
の、関節役が「腰の句」なので、鎌倉中期の歌論書『悦目抄』(藤原基俊)は、
腰折に、あまたの品あり、一には、縁の字を、腰にすゑずして、なまじひに、かたがたにすゑたる也、一には、発句、後句に、物を言ひきりて、腰をば、別々になしたる也、
という。つまり、次へとつなぐ役割なのに、つながらなかったり、発句と、続く後句で、完結してしまっているのを、言っているらしいのだが、江戸後期の百科事典『類聚名物考』は、
本と末との間の細りて続かぬを云ふ。蜂腰(ほうよう)の意に同じ、蜂腰も腰のほそき物なればなり、
とし、江戸後期の『俗語考』(橘守部)は、
(藤原)家隆卿の詞に云、今時の歌は、よき歌といへども、皆、腰の句、折れたり、古の歌の腰の彊く続きたるを見れば誇りがたし、
と書き、鎌倉時代の歌論書『無名抄』(むみょうしょう 鴨長明)は、藤原俊成の、
夕されば、野辺の秋風、身にしみて、鶉(うずら)鳴くなり、深草の里、かの歌は、夕されば、野辺の秋風、身にしみてといふ腰の句の、いみじう無念におぼゆる也、
と書く。
鶉鳴くなり深草の里、
と続く下句は、『伊勢物語』(123段)の、
深草に住みける女を、やうやう飽きがたにや思ひけむ、
と、
年を経て住みこし里を出でていなばいとど深草野とやなりなむ
と詠み、女は、
野とならば鶉となりて鳴きをらむかりにだにやは君は来ざらむ
と、答えたというエピソードをふまえている。歌のことはよくわからないが、
夕されば、野辺の秋風、身にしみて、
で、
物を言ひきりて、腰をば、別々になしたる(悦目抄)、
と見えなくもない。で、
腰折れ、
あるいは、
腰折れ歌は、
下手な歌、
の意味となる。ただ、歌人でもあった柳田國男は、こう書いている。
「和歌に腰折れという批評の意味が、少しばかり昔は今と違っていた。即ち、下手は下手でも目的のある下手、とぼけて笑わせて落ちを取ろうという趣旨で、わざと様式を破り用語を慎まず、自ら柿の本の正統に対立して、栗の本と名のるほどの勇敢さであった。これを歌道の上から無心と名づけたのは、多分は万葉期の無心所着歌(こころのつくところのなきうた)の伝統を認めたもので、連歌などの集会は帰って有心一式のものよりは、しばしば栗の本の無心に腰を折らせた方が興味が濃(こま)やかであった」
と(「笑の文学の起源」)、定家流の有心意識に対する無心の技巧という面もあったとしているのは興味深い。
「腰折れ」は、
下手な歌、
の代名詞だが、あえて、自詠の歌を、
事よろしき時こそ、こしをれかかりたる事も、思ひ続けけれども、かくも、云ふべきかたも覚えぬままに、
かけてこそ 思はざりしか この世にて しばしも君に わかるべしとは
いとど人めも見えず、さびしく心ぼそくうちながめ(更級日記)、
と、
謙遜して
言う場合にも使う。
(百人一首 https://shikinobi.com/hyakuninisshuより)
わづかなる腰折れ文作ることなど習ひはべりしかば(源氏物語)、
の、
腰折れ文(ぶみ)、
も、
下手な文章、
の意にも、また、
自作の文章を謙遜して、
も言う(広辞苑)。
漢語に、
折腰(セツヨウ 腰を折る)、
があるが、これは、
吾不能為五斗米折腰事郷里小児(晉書・隠逸傳)、
と、
腰を屈む、
つまり、
人に下るに云ふ、
意でしかない(字源)。
(腰折れ屋根(駒形屋根・マンサード屋根 切妻屋根の勾配を途中から急にしたもの) デジタル大辞泉より)
「腰折れ」は、老人の腰の曲がったのに準えているので、それをメタファに、横に折れ曲がったり、腰のあたりが折れていたりする意で、
腰折れ松(横に折れまがって生えている松)、
腰折滝、
腰折れ地蔵、
腰折れ屋根、
等々でも使い、
景気が腰折れした、
などと、
景気や経済活動が、成長・回復・現状維持の状態から、はっきりとした悪化の局面に転じる、
意で使ったりする。
江戸時代の、髷に、
腰折島田(こしおりしまだ)、
というのもあり、
中央がひじょうにへこんでいて、根が低くなったもの、
を指したらしい(精選版日本国語大辞典)。
(腰折れ髷 精選版日本国語大辞典より)
参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
柳田國男『不幸なる芸術・笑の本願』(岩波文庫)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
2022年07月18日
へったくれ
「へったくれ」は、
規則もへったくれもあるか、
というように、
多く「…も―も」の形で、下に否定の語を伴う文脈でいうことが多い、
使い方で(広辞苑・大辞林)、
取るに足りないと思うものをののしっていう語、
であり(仝上)、
つまらないと思う、
価値を認めない、
軽んじる気持ち、
を表す語である(仝上・大辞泉)。古語辞典の類には載らないが、江戸時代から用例が見られ、
イヤ置け置け。断りもへったくれも入らぬ(浄瑠璃「小野道風青柳硯(1754)」)、
下女の恋文もへッたくれもいらず(「柳多留(1785)」)、
と、
現代風に、「…もへったくれも」の形で、下に否定の語を伴って、否定文脈で使う場合以外に、
おぐしだのへったくれのとそんな遊(あそば)せことばはみつとむねへ(浮世風呂)
それよしか、何院だらうが、へッたくれだらうが、オ歴々の御身分の事、平人は死んだ時ばかりの名聞だ(浮世床)、
と、
……のへったくれのと、
……だろうがへったくれだろうが、
と、対比して用いて、意味を強める、
という使い方でも用いている。由来については、
安房にて、愚者を、へうたくれと云ふ(大言海)、
ひょうたくれの訛(江戸語大辞典)、
ヘタキレ(端切)の訛かヘタクレ(蔕塊)の促呼(上方語源辞典=前田勇)、
「続日本紀」に見られる惡奴の名クナタブレを屎(くそ)タフレと誤って、その対音に屁タクレと言ったものをさらにヒョウタクレと音便に言ったか(野乃舎随筆)、
並立を表すハタコレ(将此)の転訛(日本語の語源)、
といった諸説があるが、「ひょうたくれ」「へうたくれ」は、
明和頃(1764~72)、深川の岡場所語、
とあり、
ひやうたくれ、悪敷客を云(明和七年(1770)「辰巳之園」)、
と、
不粋客の侮称、
とあり(江戸語大辞典)、転じて、
おらんだにて馬鹿をヘケレンツウといへば、かみがたにてあほうそろまといふ、江戸にてひやうたくれと言しも今はうすどんとひゐきの沙汰によびけらし(天明二年(1782)「通人の寝言」)、
と、
ばか、
あほう、
といった、
人を罵る語、
としても使う。「安房で云々」との関連を考えると、「ひょうたくれ」「へうたくれ」が「へったくれ」の由来の可能性が高い。たとえば、
知恵もひやうたくれもいらぬ、ぶんのめして通るまでの事(天明初年(1781)「通増安宅関」)、
と、
ひやうたくれ、
を、
へったくれ、
と同義に使った例もある(もっとも、へったくれ→ひやうたくれ、と転訛したということもありえなくもないが)。
他方、大阪弁で、
へったくれ、くそ、
という言い方があり、
「へったくれ」は、ヘチマのまくれた形の「へちまくれ」から、
とし(大阪弁)、
「くそ」は係助詞「こそ」の転、
で、
あれもこれも、の不特定のものの強調を示す。価値を認めたくないものに対して、辞めるもへったくれもあるかい、愛想もくそもあれへんわ、と使う。どうもこうもないという意味。単体では使わない、
とする説がある(https://www.weblio.jp/cat/dialect/osaka)。つまり、
へちまくれの転訛、
という説である。同趣旨の説は、
「へちまくれ」とは、「へちま」+「まくれ」で、「まくれているヘチマ」という意味です。ヘチマは、昔大切な水を入れる水筒の役割をしていましたが、まくれているヘチマは使い物になりませんでした。まくれているヘチマは、「不要な(とるにたらない)もの」だったのです。「でも○○と言っても、お前ではとるにたらない」という意味で、「でもも、へったくれもない」ということになった様です、
ともある(https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1118607276)。大阪から伝わった言葉でないとすると、大阪弁の「へったくれ」と江戸の「ひやうたくれ」は別由来かもしれない。
ハタコレ(将此)の転訛、
とする説は、武士を嘲罵する言葉として、上記の、
おぐしだのへったくれのとそんな遊(あそば)せことばはみつとむねへ(浮世風呂)
それよしか、何院だらうが、へッたくれだらうが、オ歴々の御身分の事、平人は死んだ時ばかりの名聞だ(浮世床)、
等々「浮世床」「浮世風呂」で使われているとして、
「ハタコレモ(将此も)は並列をあらわすことばで、『武士もハタコレ(自分たち)も違いがあるものか』といった。高いものを低いものと同等に引き下げて平等を主張するときの慣用句である。これを早口に発音するときヘタクレ・ヘッタクレ・ヘッチャクレに転音し、「違いが」を落とし、武士を嘲罵することばとして浮世床の類に用例が多い」
と詳説している(日本語の語源)。ここで、注目すべきは、
「取るに足らぬ者、愚者」という意の名詞になって東京・千葉方言として残っている、
とあることだ(仝上)。地理的に、上述の、
深川の岡場所語、
とする説との関連が気になる。
もうひとつ、柳田國男は、全く別の語源として、
「神社に従属した小区域の地名に手倉田(たくらだ)というものが諸国に存する。羽後の雄物(おもの)川の岸には「言語道断」と文字に書いて、タクラダという村さえあった。タクラダ・タクラは多く地方の方言で愚か者を意味し、ノンダクレとかヘッタクレとかいう普通語もそれから出ている。或いはまた馬鹿をオタカラモノと呼ぶ土地もある。手倉田・田倉田は即ち彼らに田を給し、神役を勤めさせた名残かと思われる。三河の山村の花祭の囃しの詞に、笛に合わせて一同がターフレタフレと囃すのも、やはり一つの語の変化であって、いわゆるクナタフレが神に仕え、その愚かさを役に立てたこと、今の馬鹿囃しの火男(ひょっとこ)などと、本の趣旨を同じくする者かと思う。」
と、神の前で「笑わせる」職分役という民間習俗からきているという説を述べている(「笑の文学の起源」)。さらに、
「タクラという語は少なくとも方言ではなかった。今も複合語としては標準語の中にも通用している。たとえば泥酔者をノンダクレ、是をもう少し悪い発音にかえて、ドンダクレという語は田舎にあり、関西の方では是をヱヒタクレという者が多く、ヨッタクレという語もまだ東京には少し残っている。それからまたヒョウタクレという語があり、東日本の方言集には多く採録されていて、愚人を意味する。」
とあり(「たくらた考」)、この説によれば、
ひやうたくれ、
も、
へったくれも、
も、
のんだくれ、
の「たくれ」も、
たくらた、
由来ということになる。「たくらた」は、
癡、
とも当て、
癡の字をばたくらたと読むなり。世間の人のたくらたと云ふは、愚癡の癡なり(法華経直談鈔)、
と、
愚か者、
の意味である(岩波古語辞典)。「たくらた」の由来を、柳田國男が、
ふざけきった俗説、
と一蹴した、
たくらだ(田蔵田)は麝香鹿に似た、芳香のない動物、せっかくとらえても、麝香鹿のかわりにはならず無駄に死ぬばかりである、
とする説(運歩色葉集)を取って、
獣の名、麝香に似たるものにて、人の麝香を猟る時、此獣、出でて人に殺さる。故に我が事ならで、好みて死するを田蔵田という(節用集大全)、
とする説(大言海)もあるが、これはいただけない。柳田國男は、
タクラフ(較)という動詞から出たタクラにタを添えたもの。またタクラは、タクラブ(較)と同源で、いたずらに人の真似をしてしくじり笑われる物を言った、
とする説を立てる(「たくらた考」)。あくまで、
神に使える役、
由来を取る。「たくらふ」は載らないが、
タクラブ(較ぶ)という語が源の一つ、
のものとある(仝上)「たくらぶ」は、
タは接頭語、
で、
た比ぶ、
た較ぶ、
と当て(岩波古語辞典)、
較、タクラブ、
とある(室町末期書写「黒本節用集」)ように、
比較する、
意であるところから、
二人相対しての動作、
を意味する、と推測している(柳田・仝上)。
比較する、
という意味は、江戸時代の、「へったくれ」の用法の、
……のへったくれのと、
……だろうがへったくれだろうが、
と、対比して用いる使い方とぴたりと符合する。これが、
神前での道化役、
からきているとすると、
手倉田、手倉森という名の地名、
が全国にある、
たくらた、
から、各地域ごとに、
へったくれ、
も、
ひやうたくれ、
も、
へちまくれ、
も転訛したものということになる。底流として、
愚か者、
意が通底していたということになる。この説の前では、他の諸説は、その転訛に過ぎなくなってくる気がする。
「癡(痴)」(チ)は、
会意文字。疑は、とどまって動かないこと。癡は「疒+疑」で、何かにつかえて知恵の働かないこと、
とあり(漢字源)、当用漢字の、
痴、
は、
知(チ)を音符とした俗字、
である(角川新字源)。別に、
会意兼形声文字です(疒+疑(知))。「人が病気で寝台にもたれかかる」象形(「病気」の意味)と「人が頭をあげ思いこらしてじっと立つ象形と十字路の左半分・角のある牛・立ち止まる足の象形」(人が分かれ道にたちどまってのろま牛のようになる、すなわち、「じっと立ち止まってためらう」の意味)から、「物事にうまく対応できない病気」、「愚か」、「狂う(正常でなくなる)」を意味する「痴」という漢字が成り立ちました、
との解釈もある(https://okjiten.jp/kanji1469.html)。「痴」については、
会意形声、「疒」+ 音符「知」で、言い当てる(=知)力を失うこと、
と解釈される(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%97%B4)。
参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
柳田國男『不幸なる芸術・笑の本願』(岩波文庫)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
前田勇編『江戸語大辞典 新装版』(講談社)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
2022年07月19日
語源のもつ意味
柳田國男『不幸なる芸術・笑の本願』を読む。
本書には、
笑の本願、
不幸なる芸術、
の二著が収められており、「笑の本願」は、
笑の文学の起源、
笑の本願、
戯作者の伝統、
吉右会記事、
笑の教育、
女の咲顔、
が、「不幸なる芸術」には、
不幸なる芸術、
ウソと子供、
ウソと文学の関係、
たくらた考、
馬鹿考異説、
烏滸の文学、
涕泣史談、
が、収められている。いつも通りの柳田節なのだが、中でも、
へったくれ、
の語源と絡めて、
「神社に従属した小区域の地名に手倉田(たくらだ)というものが諸国に存する。羽後の雄物(おもの)川の岸には『言語道断』と文字に書いて、タクラダという村さえあった。タクラダ・タクラは多く地方の方言で愚か者を意味し、ノンダクレとかヘッタクレとかいう普通語もそれから出ている。或いはまた馬鹿をオタカラモノと呼ぶ土地もある。手倉田・田倉田は即ち彼らに田を給し、神役を勤めさせた名残かと思われる。三河の山村の花祭の囃しの詞に、笛に合わせて一同がターフレタフレと囃すのも、やはり一つの語の変化であって、いわゆるクナタフレが神に仕え、その愚かさを役に立てたこと、今の馬鹿囃しの火男(ひょっとこ)などと、本の趣旨を同じくする者かと思う。」
と、神の前で「笑わせる」職分役という民間習俗に至る「笑の起源」に迫った、
笑の文学の起源、
その「たくらた」を、
「タクラという語は少なくとも方言ではなかった。今も複合語としては標準語の中にも通用している。たとえば泥酔者をノンダクレ、是をもう少し悪い発音にかえて、ドンダクレという語は田舎にあり、関西の方では是をヱヒタクレという者が多く、ヨッタクレという語もまだ東京には少し残っている。それからまたヒョウタクレという語があり、東日本の方言集には多く採録されていて、愚人を意味する。」
とし、その語源を、
「タクラフという動詞が、都にもあったということである。……或いはタクラブ(較)という語と源が一つのもので、二人相対しての動作に限っていたのではないかとも思う。」
と探って、
神前での道化役、
へと遡及させていく、
たくらた考、
の二編が、とりわけ面白い。「へったくれ」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/489851160.html?1658081573)で触れたことだが、
へったくれ
愚か者、
の意味が通底していることの意味の奥行きを考えさせられる。この二編と関わるが、
烏滸、
と
馬鹿、
との関係を、
日本語のワ行がバ行に、WがBに移ってくるのは通例、
で、
母音のオ列からア行に移ること、
から、新村説である、
ワカ(若)→バカ(馬鹿)、
つまり、
Waka→Baka、
という転訛を取り上げながら、暗に、ぼくには、
オコ(烏滸)→バカ(馬鹿)、
つまり、
Woko→Baka、
の転訛に読みこめて、「愚か者」のもつ意味が、
烏滸→馬鹿、
と転じることから、
笑が凋落したこと、
の象徴とする、
烏滸の文学、
も、深読みすると、パースペクティブの深い読み物であった。また、
うそ、
と
いつわり、
の違いを探り、
「何処の田舎に行って見ても、今はまだウソとイツハリと、もしくはデタラメとゴマカシと、即ち笑うべき虚言(ソラゴト)と憎むべき虚言(キョゴン)との、二つ別々の名詞の併存を必要としている。」
とする、
ウソと子供、
ウソと文学の関係、
また、生まれた赤児の前に据える、
高盛りの飯、
の風習があるが、女子だと、
高く盛った飯の両側に、指または箸の先で附いて辰の穴をあける、その児の頬にエクボができて、愛嬌がよくなる、
という風習のもつ「えくぼ」の意味から、「えむ」と「わらふ」との違を探った、
女の咲顔(えがお)、
も興味深い。なお、
吉右会記事、
については、「きっちよむ話」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/489762390.html?1657822771)で触れた。
なお、柳田國男の『遠野物語・山の人生』(http://ppnetwork.seesaa.net/article/488108139.html)、『妖怪談義』(http://ppnetwork.seesaa.net/article/488382412.html)、柳田國男『海上の道』(http://ppnetwork.seesaa.net/article/488194207.html)、『一目小僧その他』(http://ppnetwork.seesaa.net/article/488774326.html)、『桃太郎の誕生』(http://ppnetwork.seesaa.net/article/489581643.html)については別に触れた。
参考文献;
柳田國男『不幸なる芸術・笑の本願』(岩波文庫)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
2022年07月20日
佯狂して奴となる
「佯狂(ようきょう)して奴(ど)と為(な)る」は、
狂人を装って下僕となった、
という意味である。
「佯狂」は、
箕子(きし)被髪佯狂而為奴(史記・宋世家)、
と、
イツワリキョウス、
と読ませ、
狂人のふりをする、
意であり(「被髪」は束ねずに乱れた髪の毛の意)、
陽狂不識駿(後漢書・丁鴻傳)、
と、
陽狂、
あるいは、
紂怒、……剖比于觀其心、箕子懼、乃詳狂為奴(史記・殷紀)、
と、
詳狂、
などとも当て(大言海・デジタル大辞泉・字源)、箕子(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AE%95%E5%AD%90)の、
殷の紂王の臣下である箕子は、暴政を行う紂王を諫めたが聞き入れられなかった。君主のもとを去れば、君主の悪が公になってしまい、また、自分自身を弁解することにもなってしまうと考えた箕子は、髪を乱し、狂ったふりをして奴隷となった、
という故事に基づき(https://yoji.jitenon.jp/yojif/2860.html)、
被髪佯狂(ひはつようきょう)、
と、四字熟語にもなっているし、
狂人のふりをして俗世を避ける、
狂人を装って隠遁する、
意の、
佯狂避世、
という成語もあり(白水社中国語辞典)、今日、
阳(陽)狂、
と表記する(仝上)。
佯狂、
陽狂、
詳狂、
と当てる「佯」「陽」「詳」は、「偽」と同義だが、各字義の差は、
偽は、人為にて、天真にあらざるなり、いつわりこしらへたるなり、虚偽、詐偽と用ふ。「太子有淳古之風、而末世多偽、恐不了家事」(晉紀)、
詐は、詐欺と連用す、欺きだますこと、誠実の反なり。「巧詐不如拙誠」(説苑・貴徳)、
譎は、權詐なり、正しからず、詐謀を設けていつはるなり、すべて言行器服などのあやしく異様なるをいふ。
詭は、譎に同じくして、あやしくて正からざる義、詭巧、詭変と用ふ。「兵者詭道也」(孫子)、
佯・陽は、同音同義。内心は然らずして、うはべをいつはるなり。「箕子佯狂為奴」(史記)、
詳は、佯に同じ。後世は用いず、史記に佯狂を一本詳狂に作る、
矯は、よい加減に誣(し)いて(=強いて)いつはる、矯詔と用ふ。「矯誣上天」(書経)、
贋は、にせものなり、真の反。「魯以贋鼎往」(韓非子)、
などとある(字源)。
箕子の逸話は、「十八史略」に、
紂、有蘇氏を伐つ。有蘇、妲己(だっき)を以って女(めあ)はす。寵あり。其の言、皆從ふ。賦税を厚くし、以って鹿臺之財を實(み)て、鉅橋(倉庫)の粟を盈つ。沙丘の苑臺を廣め、酒を以って池と為す、肉を懸けて林と為し、長夜の飮を為す。百姓、怨望し、諸侯畔く者り。紂、乃ち刑辟を重くす。銅柱を為(つく)り、膏を以って之を塗り、炭火の上に加へ、罪有る者をして之に縁らしむ。足、滑かにして跌き火の中に墜つ。妲己と之を觀で大いに樂しむ。名づけて曰く炮烙の刑と。淫虐なること甚し。庶兄微子數しば諌むれども從はず。之を去る。比干、諌めて三日去らず。紂、怒りて曰く、吾聞く、聖人の心に、七竅(しちきょう 人の顔にある七つの穴)有りと。剖(さ)きて其の心を觀んと。箕子、佯狂して奴と為る。紂之を囚ふ。殷の大師其の樂器祭器を持ちて周に奔る云々、
とある(https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1359744118)。これを見ると、上記の、
剖比于觀其心、
の意味が分かる。
微子、
比干、
箕子、
は、
殷の三仁、
と言われていた。
「佯」(ヨウ)は、
形声。佯は「人+音符羊」で、外面の姿の意を含む。羊は音だけを示し、ここでは意味に関係がない、
とある(漢字源)。
「陽」(ヨウ)は、
会意兼形声。昜(ヨウ)は、太陽が輝いて高く上がるさまを示す会意文字。陽は「阝(阜=丘)+音符」で、明るい、はっきりしたの意を含む、
とある(漢字源)。別に、
台上に玉を置き、その光がさす様、
とも(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E9%99%BD)、
会意兼形声文字です(阝+昜)。「段のついた土山」の象形と「太陽が地上にあがる」象形から、丘の日のあたる側、「ひなた」を意味する「陽」という漢字が成り立ちました、
ともある(角川新字源・https://okjiten.jp/kanji547.html)。
参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
簡野道明『字源』(角川書店)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95