慕虎馮河して死すとも悔ゆる事なき者は与せじ、と夫子(ふうし)の戒めしもひとりこの人の爲にや(宿直草)、
にある、
夫子、
は、
孔子、
を指す(高田衛編・校注『江戸怪談集』)。ちなみに、「慕虎馮河」は、ただしくは、
暴虎馮河、死而無悔者、吾不与也(論語・述而篇)、
である(仝上)。
「夫子」は、
孤實貪以禍夫子、夫子何罪(左伝)、
と、
先生、長者の尊称、
として使ったり、
夫子温良恭謙譲(論語)、
と、
師を尊び称す、単に子と云ふに同じ、
意に使ったり、
勖哉夫子(書・秦誓)、
と、
将士を指して云ふ、
意に使ったり、
信乎夫子不言不笑不取乎(論語)、
と、
大夫の位に在る者を呼ぶ敬称、
の意や、
必敬必戒、無違夫子(孟子)、
と、
妻、その夫を指す、
意など、意味の幅がある(字源)。我が国でもそれに準じた使い方になるが、
夫子自身、
という言い方で、
僕の事を丸行灯(まるあんどん)だといつたが、夫子自身は偉大な暗闇(クラヤミ)だ(夏目漱石・三四郎)、
と、
あなた・あの方などの意で、その当人をさす語、
としても使う。しかし、
夫(フウ)子とよめば孔子にまぎれてわるいぞ(「土井本周易抄(1477)」)、
とあるように、冒頭に上げた例もそうだが、
孔子の敬称、
として使われることが多い。
ところで「夫子」を、我が国では、
せこ、
とも訓ませ、
兄子、
背子、
とも当てる(広辞苑)。
コは親愛の情を表す接尾語、
とある(岩波古語辞典)。「せ」は、
兄、
夫、
背、
等々と当て(仝上)、
いも(妹)の対、
で(仝上)、
兄(エ)の転か、朝鮮語にもセと云ふ(大言海・和訓栞)、
セ(背)の高いところから(名言通)、
セ(兄)はエ(甲)の義、セ(夫)はテ(手)の義(言元梯)、
など、諸説あるが、「背」だとすれば、「背」の語源は、
ソ(背)の転(岩波古語辞典)、
反(ソレ)の約、背(ソ)と通ず(大言海)、
とあり、
本来「せ」は外側、工法を意味する「そ」の転じたもので、身長とは結びつかなかった。ところが、今昔物語に、「身の勢、極て大き也」とあるように、身体つき・体格を意味する「勢(せい)」が存在するところから、音韻上の近似によって、「せ(背)」と「せい(勢)」とが混同するようになった、
とある(日本語源大辞典)のが注目される。「せこ」に、
吾が勢(セコ)を大和へ遣るとさ夜深けて暁露に吾が立ち濡れし(万葉集)
我が勢故(セコ)が来べき宵なり(書紀)、
と、
女性が夫、兄弟、恋人など広く男性を親しんでいう語、
として使うとき、
勢、
を当てている(日本国語大辞典・精選版日本国語大辞典)。「せ」は、この、
身体つき・体格、
を意味する、
勢(せい)、
由来なのではないか、という気がする。勿論憶説だが。このいみの「せこ」は、
せな、
せなな、
せのきみ、
せろ、
等々という言い方もする。ただ、対の、
いも、
が、中古以降、
いもうと、
に変化したのに対応して、
せうと、
に変化し、
せ、
単独では使われなくなった(日本語源大辞典)、とある。「せこ」は、
沖つ波辺波立つともわが世故(セコ)が御船(みふね)の泊り波立ためやも(万葉集)、
と、
男性が他の親しい男性に対して用いる語、
としても使う(仝上)。
(「背子(はいし)」 デジタル大辞泉より)
ちなみに「背子」を、
はいし、
と訓ませると、
奈良時代から平安時代初期に着用された女子朝服の内衣で、冬期に袍(ほう 朝服の上衣)の下、衣(きぬ)の上に着た袖(そで)なしの短衣。しかし袍はほとんど用いられなかったため、背子が最上衣として使われた、
とある(日本大百科全書)。
(「唐衣」 デジタル大辞泉より)
唐衣(からぎぬ)の前身、
であるため、
唐衣の異称、
の意もある(デジタル大辞泉)。「唐衣」は、背子(はいし)が変化し、
十二単(じゅうにひとえ)の最も外側に裳(も)とともに着用した袖(そで)幅の狭い短衣、
で、
袖が大きく、丈が長くて、上前・下前を深く合わせて着る、
とある(仝上)。
(「夫」 甲骨文字・殷 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%A4%ABより)
「夫」(漢音呉音フ、慣用フウ)は、
象形。大の字に立った人の頭に、まげ、または冠のしるしをつけた姿を描いたもので、成年に達した男をあらわす、
とある(漢字源)。別に、
象形。髷に簪を挿した人の姿(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%A4%AB)、
象形。頭部にかんざしをさして、正面を向いて立った人の形にかたどる。一人まえの男の意を表す。借りて、助字に用いる(角川新字源)、
とあるが、
指事文字です。「成人を表す象形に冠のかんざしを表す「一」を付けて、「成人の男子、おっと」を意味する「夫」という漢字が成り立ちました、
とあるので、意味が分かる(https://okjiten.jp/kanji41.html)。
(「子」 甲骨文字・殷 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%AD%90より)
(「子」 金文・西周 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%AD%90より)
「子」(漢音・呉音シ、唐音ス)は、
象形。子の原字に二つあり、一つは、小さい子どもを描いたもの、もう一つは子どもの頭髪がどんどん伸びるさまを示し、おもに十二支の子(シ)の場合に用いた。後この二つは混同して子と書かれる、
とある(漢字源)。
参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
簡野道明『字源』(角川書店)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95