2022年09月01日
はふはふ
其の中にひとり負けて、はふはふの有様なり(宿直草)、
とある、
はふはふ、
は、
頼みをかけ奉りて、這ふ這ふ参り候ひつるなり(今昔物語集)、
と、
這ふ這ふ、
と当てるが、
はふはふの有様、
で、
さんざんの有様、
の意とあり(高田衛編・校注『江戸怪談集』)、現代語では、
ほうほう、
と表記する(広辞苑)。書言字考節用集(享保二(1717)年)には、
匍匍、ハフハフ、
とある。
「はう(這)」の終止形が重なって成立した語、
で(日本国語大辞典)、
はうようなかっこうでやっと進むさま(学研全訳古語辞典)、
やっとのことで歩くさま(デジタル大辞泉)、
など、
這うようにしてやっと進むさま、
を言い、
散々な思いをして何とか逃げおおせる様子、
失敗(しくじ)りてそこそに逃げる様子、
を(大言海)、
這々の体(這う這うの体)、
と表現する(広辞苑)。日葡辞書(1603~04)にはき、
ハウハウノテイデニゲタ、
とある。「はふはふ」は、もともと、
太刀を抜き、杖に突き、はふはふ参り、縁へ上らんとしけれども(義経記)、
と、
這うようにして、かろうじて歩く、
という状態表現から、
希有にしてたすかりたるさまにて、はうはう家に入りにけり(徒然草)、
ほうほうと逃げてぞ残りける(伊曾保物語)、
と、
散々な目にあってかろうじて逃げだすさま、
という価値表現や、
大白衣にて、はうはう仁和寺へ参り(平治物語)、
馬を捨てて、はふはふ逃ぐる者もあり(平家物語)、
と、
あわてふためいて、
取るものも取りあえずに、
という価値表現に転じた(大辞林・日本国語大辞典・広辞苑)。
「這」(慣用シャ、漢音呉音ゲン)は、
会意兼形声。「辶(足の動作)+官符言(かどめをつけていう)」で、かどめのたったあいさつをのべるためにでていくこと、
とあり(漢字源)、「迎」と類義語で、
むかえる、
出迎えて挨拶する、
意である。
老人が人を出迎える時によろばいでてくるということから、這の字を当てた、
のではないか、とある(仝上)。
はう、
つまり、
手足を地面につけて進む、
意で使うのは、我が国だけである。
ただ、「這」は、
宋の時代に、「これ」「この」という意味の語を「遮個」「適個」と書き、その遮や適の草書体を誤って這と混同した。「這個」(シャコ これ)、「這人」(シャジン この人)で、指示代名詞の、
これ、
この、
の意で使い(仝上)、
現代中国では、"zhè"の音で近称の指示代名詞として用いられ(簡体字:这)、元の音(yán)及び意味は失われている。これは、宋代に「これ」「この」という意味の語を遮個・適個と書き、その遮や適の草書体を誤って這と混同したことによる、
とある(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E9%80%99)。別に、
会意兼形声文字です(辶+言)。「立ち止まる足・十字路の象形」(「行く」、「道」の意味)と「取っ手のある刃物の象形と口の象形」(「(つつし(慎・謹)んで)言う」の意味)から、「道を言う」を意味し、そこから「この」、「これ」を
意味する「這」という漢字が成り立ちました、
とある(https://okjiten.jp/kanji2752.html)。
参考文献;
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
2022年09月02日
三つ瀬の川
三つ瀬の川を瀬踏みして、手を取りて渡すは、初めて会ふ男の子なりと世話にも云ひならはせり(宿直草)、
に、
三つ瀬の川、
は、
三瀬川(みつせがわ)、
とも表記し、
死出の山、三途の河をば、誰かは介錯申すべき(保元物語)、
の、
三途の川、
の意である。
死後7日目に冥土(めいど)の閻魔(えんま)庁へ行く途中で渡るとされる川、
である。偽経「十王経」が説くところでは、
死出の山、
に対する語とされ、
川中に三つの瀬があって、緩急を異にし、生前の業(ごう)の如何によって渡る所を異にする、
といい(広辞苑)、
葬頭河曲(さうづがはのほとり)、……有大樹、名衣領樹、影住二鬼、一名脱衣婆、二名懸衣翁(十王経)、
と、
川岸には衣領樹(えりょうじゅ)という大木があり、脱衣婆(だつえば)がいて亡者の着衣をはぎ、それを懸衣翁(けんえおう)が大木にかける。生前の罪の軽重によって枝の垂れ方が違うので、それを見て、緩急三つの瀬に分けて亡者を渡らせる、
という(日本大百科全書)。「三途」については、『金光明経』では、
地獄・餓鬼・畜生の三途の分かれる所、
とあり(ブリタニカ国際大百科事典)、「三途(さんづ)」とは、
三塗、
とも当て、
死者が生前の悪業に応じて苦難を受ける火途・刀途・血途の三つをいい、これを地獄・餓鬼・畜生の三悪道に当てる、
とある(岩波古語辞典)。
「十王経」では、
葬頭河曲。於初江辺官聴相連承所渡。前大河。即是葬頭。見渡亡人名奈河津。所渡有三。一山水瀬。二江深淵。三有橋渡、
と、
緩急三つの瀬があり生前の罪によって渡るのに三つの途(みち)がある、
とし、生前の業ごうによって、
善人は橋を渡る(デジタル大辞泉)、
が、他は、
川の上にあるのを山水瀬(浅水瀬ともいう)といい、水はひざ下までである。罪の浅いものがここを渡る。川の下にあるのは強深瀬(江深淵)といい、流れは矢を射るように速く、波は山のように高く、川上より巌石が流れ来て、罪人の五体をうち砕く(世界大百科事典)、
とある。
(『十王図』(土佐光信)にある三途川。善人は橋を渡り、罪人は悪竜の棲む急流に投げ込まれている。左上、懸衣翁は亡者から剥ぎ取った衣服を衣領樹にかけて罪の重さを量っている https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E9%80%94%E5%B7%9Dより)
「十王経(じゅうおうきょう)」は、
中国の民間信仰と仏教信仰との混合説を示す偽経、
とされ、諸本があるが、唐代の、
閻羅王授記四衆逆修生七往生浄土経、
や、平安時代末期の、
地蔵菩薩発心因縁十王経、
などが流布した(仝上)とある。
死後、主として中陰期間中に、亡者が泰広王、初江王、宋帝王など、10人の王の前で、生前の罪業を裁かれる次第を述べ、来世の生所と地蔵菩薩の救いを説いて、遺族の追善供養をすすめるもの。期間はさらに百ヵ日、一周忌、三周忌に延長される、
といい(「中陰」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/485912319.html)については触れた)、
中世の中国で、泰山信仰や、冥府信仰が流行するのに伴って、仏教側で考えだしたものらしい、
ともある(仝上)。「十王経」などの説く「十王」は、
地獄において亡者の審判を行う10尊、
をいい、
閻魔大王、
はその一人になる(「十王」(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E7%8E%8B)に詳しい)。
「三途の川」は、
葬頭河(そうずか)、
渡り川、
とも称するが、「さうづ」というは。
三(サム)の音便、
とあり(大言海)、
葬頭河とは借字、
とあり、
そうずがわ(三途川・葬頭川)、
しょうずがわ(三途川)、
とも訓むのは転訛と思われる(広辞苑)。
因みに、「三途の川」に対する、
死出(しで)の山、
とは、
死後、越えて行かなければならない山、
つまり、
冥途、
とされる(精選版日本国語大辞典)が、「十王経」に、
閻魔王国境死天山南門、亡人重過、両基根逼、破膝割膚、折骨漏髄死而重死、故曰死天、従此亡人向入死山、
とあり、この、
死天山、
から出た語といわれる。これによれば、
閻魔王国との境に死天山の南門があり、死者はこの山に行きかかり、さらに死を重ねるほどの苦しみにあう、
という(精選版日本国語大辞典)。
しでの山ふもとを見てぞ帰りにしつらき人よりまづこえじとて(古今集)、
にあるように、「古今和歌集」以来、
「しでの山」は、「あの世」と「この世」とを隔てる山として理解されており、やはり両者を隔てる川「みつせ川(三途川)」とともに、しばしば、
又かへりこぬ四手(シデ)の山(ヤマ)、みつ瀬川(平家物語)、
と並べて用いられた(精選版日本国語大辞典)。
「三」(サン)は、「三会」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/484736964.html)で触れたように、
指事。三本の横線で三を示す。また、参加の參(サン)と通じていて、いくつも混じること。また杉(サン)、衫(サン)などの音符彡(サン)の原形で、いくつも並んで模様を成すの意も含む、
とある(漢字源)。また、
一をみっつ積み上げて、数詞の「みつ」、ひいて、多い意を表す、
ともある(角川新字源)。
「瀬」(ライ)は、
形声。瀬は「水+音符頼(ライ)」で、頼は音符としてのみ用い、その原義(他人になすりつける)とは関係がない。激しく水の砕ける急流のこと、
とあり(漢字源)、我が国では、「逢瀬」と、「場合」の意や、「立つ瀬」と立場、の意で使う。別に、
形声文字です(氵(水)+頼(賴))。「流れる水」の象形と「とげの象形と刀の象形と子安貝(貨幣)の象形」(「もうける・たよる」の意味だが、ここでは、「刺」に通じ(「刺」と同じ意味を持つようになって)、「切れ目が入る」の意味)から、「水がくだけて流れる、急流」を意味する「瀬」という漢字が成り立ちました、
ともある(https://okjiten.jp/kanji1464.html)。
「途」(漢音ト、呉音ド)は、
会意兼形声。「辶+音符余(おしのばす)」で、長くのびるの意を含む、
とある(漢字源)。別に、
会意兼形声文字です(辶(辵)+余)。「立ち止まる足・十字路の象形」(「行く」の意味)と「先の鋭い除草具の象形」(「自由に伸びる」の意味)から、「どこまでも伸びている道」を意味する「途」という漢字が成り立ちました、
ともある(https://okjiten.jp/kanji1135.html)。
参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
2022年09月03日
三諦円融
三諦(さんたい)円融(えんにゅう)の妙理を問ふに、果たして台密の極談(ごくだん)、その弁懸河(けんが とどこおることなくすらすら語る)なり(宿直草)、
の、
「三諦円融(さんたいえんにゅう・さんだいえんにゅう)」は、
円融三諦(えんにゅうさんたい・えんにゅうさんだい)、
ともいい(「えんゆう」は「えんにゅう」と連声になることが多い)、また、
不思議の三諦、
ともいう(http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E4%B8%89%E8%AB%A6%E5%86%86%E8%9E%8D)。
天台に説く、「諦」は真理の意。諸法は空・仮・中三諦に解釈されるが、本来真実としては区別なく、絶対的同一であること、
とある(高田衛編・校注『江戸怪談集』)。天台宗で説く三つの真理は、
空諦(くうたい 一切存在は空である)、
仮諦(けたい 一切存在は縁起によって仮に存在する)、
中諦(ちゅうたい一切存在は空・仮を超えた絶対のものである)、
とされ、それぞれ、
独立の真理(隔歴(きゃくりゃく)三諦)、
とみるのでなく、
その本体は一つで三者が互いに円満し合い融通し合って一諦がそのままただちに他の二諦である、
として、
即空・即仮・即中、
とする(デジタル大辞泉・精選版日本国語大辞典)をいう。円融と隔歴の関係は、
無差別と差別、
絶対と相対、
という関係に近い(精選版日本国語大辞典)とある。この、
一切の存在には実体がないと観ずる空観(くうがん)、
と、
一切の存在は仮に現象するものであると観ずる仮観(けがん)、
と、
この空仮の二観を別々のものとしない中観(ちゅうがん)、
との三観を、
一思いの心に同時に観じ取ること、
を、
一心三観(いっしんさんがん)、
という(精選版日本国語大辞典)。一瞬の心のうちに、
空観、仮観(けかん)、中観の三観が成立する、
というのは、
竜樹の思想を実践しようとするもの、
である(百科事典マイペディア)、ともされる。
「圓融」(えんゆう 「えんにゅう」と連声になることが多い)は、漢語で、
公家之費、敷於民閒者、謂之円融(長編)、
と、
あまねくほどこす、
あるいは、
靈以境生、境因円融(符載銘)、
と、
なだらかにして滞りなし、
の意(字源)だが、天台宗・華厳宗では、
一切存在はそれぞれ個性を発揮しつつ、相互に融和し、完全円満な世界を形成していること、
つまり、
円満融通、
をいう(広辞苑)。
「三諦」(さんたい・さんだい)は、
有諦・無諦・第一義諦、
とも、また、
空諦・色諦・心諦、
ともいう(http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E4%B8%89%E8%AB%A6%E5%86%86%E8%9E%8D)が、この三諦の真理を観ずる智慧として、
空観・仮観・中道観、
の三観を立てる。三諦と三観は、
所観の境、
と、
能観の智、
の関係だが、本来的には三観と三諦は同体であり、不二である(仝上)、とある。これを、
観法の側面、
から見ると、
一切の存在には実体がないとする空観、一切の存在は仮に現象するものであるとする仮観、空観と仮観の二観を別のものではないとする中道観の三観を順序や段階を経ずに一心のなかに同時に観じとること、
を、
一心三観、
といい、観法の究極的な目標とする。これに対して、
真理の側面、
から見ると、
空・仮・中の三諦が究極においてはそれぞれ別のものではなく、相互に障ることなく完全に融けあっているということ、
となる(仝上)。つまり、
相即無礙、
である(仝上)。
「圓」(エン)の字は、「まる(円・丸)」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/461823271.html)で触れたように、
会意兼形声。員(イン・ウン)は、「○印+鼎(かなえ)」の会意文字で、まるい形の容器を示す。圓は「囗(囲い)+音符員」で、まるいかこい、
とあり(漢字源)、「まる」の意であり、そこから欠けたところがない全き様の意で使う。我が国では、金銭の単位の他、「一円」と、その地域一帯の意で使う。別に、
会意兼形声文字です(囗+員)。「丸い口の象形と古代中国製の器(鼎-かなえ)の象形」(「口の丸い鼎」の意味)と「周
意味)から、「まるい」を意味する「円」という漢字が成り立ちました、
ともある(https://okjiten.jp/kanji194.html)。
「円」は、「圓」の略体。明治初期は、中の「員」を「|」で表したものを手書きしていた。時代が下るにつれ、下の横棒が上に上がっていき、新字体採用時の終戦直後頃には字体の中ほどまで上がっていた、
とある(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%86%86)。
「融」(漢音ユウ、呉音ユ)は、
形声。「鬲(ふかしなべ)+音符蟲の略体」で、なべてぐつぐつととかしたように、平均し調和したコロイド状(微細な粒子となって他の物質の中に分散している状態)になること。蟲の原義(へび・むし)には関係がない、
とある(漢字源)。別に、
形声、「鬲」は鼎(かなえ)で、鼎の中で「とかす」こと(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E8%9E%8D)、
形声、蒸気が立ちのぼる意を表す。ひいて「とおる」、転じて、物が「とける」意に用いる(角川新字源)、
会意兼形声文字です(鬲+虫)。「古代、中国の金属製の器、鼎」の象形と「頭が大きくてグロテスクなまむし」の象形から、鼎から虫がはい出るように蒸気が立ち上るさまを表し、そこから「とける」を意味する「融」という漢字が成り立ちました(https://okjiten.jp/kanji1380.html)、
等々ともある。
「三」(サン)は、「三会」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/484736964.html)で触れたように、
指事。三本の横線で三を示す。また、参加の參(サン)と通じていて、いくつも混じること。また杉(サン)、衫(サン)などの音符彡(サン)の原形で、いくつも並んで模様を成すの意も含む、
とある(漢字源)。また、
一をみっつ積み上げて、数詞の「みつ」、ひいて、多い意を表す、
ともある(角川新字源)。
「諦」(漢音テイ、呉音タイ)は、
会意兼形声、「言+音符帝(しめくくる)」、
とあり(漢字源)、
形声。言と音符帝(テイ)明らかにする意を表す、
とも(角川新字源)、
会意兼形声文字です(言+帝)。「取っ手のある刃物の象形と口の象形」(「(つつしんで)言う」の意味)と「木を組んで締めた形の神を祭る台」の象形(「天の神、天下を治める、みかど」の意味だが、ここでは、「しめくくる」の意味)から、「言葉で締めくくり、明らかにする」を意味する「諦」という漢字が成り立ちました、
ともある(https://okjiten.jp/kanji2135.html)。
参考文献;
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
簡野道明『字源』(角川書店)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
2022年09月04日
八識
智は是万代の宝、八識不忘(ふもう)の田地(でんち)に納む。師、訝しくは試みに問へ(宿直草)、
に、
八識不忘の田地、
とあるは、
唯識大乗の見地から、小乗仏教を合わせて、人間のもつ八種の悟性をいう。「田地」はそれを納める心、
とある(高田衛編・校注『江戸怪談集』)。
八識(はっしき)、
は、唯識(ゆいしき)宗で、
色・声(しょう)・香・味・触(そく)・法、
の六境を知覚する、
眼(げん)識・耳(に)識・鼻識・舌識・身識・意識、
の、
六識(ろくしき)、
に、
末那識(manas まなしき)、
阿頼耶識(ālaya-vijñāna あらやしき)、
を加えたものをいう(広辞苑・大言海)。天台宗では、
阿摩羅識(amala-vijñāna あまらしき)、
を立て、全九識とし、真言宗では、
乾栗陀耶識(紇哩陀耶識 hṛdaya-vijñāna けんりつだやしき)、
を立て、
十識、
とする(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E8%AD%98)。「識」は、
サンスクリット語でビジュニャーナvijñāna、パーリ語でビンニャーナviññāa、
で、
心(チッタcitta)、意(マナスmanas)と同義、
とある(日本大百科全書)が、
心の異名にて、了別の義。心境に対して、了別する故に識と云ふ、
とある(大言海)のが正確ではないか。「了別」(vijñapti りょうべつ)とは、
ものごとを認識する働き、
をいい、
八識(眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識・末那識・阿頼耶識)すべてに通じる働き、
で(http://www.wikidharma.org/index.php/%E3%82%8A%E3%82%87%E3%81%86%E3%81%B9%E3%81%A4)、識の業として、
了別外器、
了別依止、
了別我、
了別境界、
の4種があり、このなかの、
了別外器と了別依止は阿頼耶識、
了別我は末那識、
了別境界は六識、
の働きをいう(仝上)ともある。
「末那識(まなしき)」は、
意の常態、
とある(大言海)が、
眼、耳、鼻、舌、身、意という六つの識の背後で働く自我意識のこと、
で(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AB%E9%82%A3%E8%AD%98)、これを、
マナス(manas 思い量る意)、
もしくは、
クリシュタ・マナス(klia-manas 染汚意)と呼んだ(日本大百科全書)。それは、
第八の阿頼耶識(あらやしき)を対象として我執を起し、我見、我癡、我慢、我愛を伴って我執の根本となる「けがれた心」である、
からとされる(ブリタニカ国際大百科事典)。
その「阿頼耶識(あらやしき)」は、
一切諸法の種子を含蔵して、その根本となるもの、
とある(大言海)が、
眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識・末那識、
の七識が表層的、意識的であるのに対し、「阿頼耶識」は、
深層心理的、無意識的な認識、
であり、
前七識とその表象、つまり自我意識、意識ある存在者、自然などのあらゆる認識表象を生み出すとともに、それらの表象の印象を自己のうちに蓄える、
ことから、
種子、
に例えられ、
刻々に変化しながら成長し、成熟すると世界のあらゆる現象を生み出し、その果実としての印象を種子として自己のなかに潜在化する。世界は外的な実在ではなく、個体の認識表象である、
とある(日本大百科全書)。
「阿摩羅識(あまらしき)」は、
けがれが無い無垢識・清浄識、また真如である真我、如来蔵、心王、
であるとし、すべての現象はこの阿摩羅識から生れると位置づけた。したがってこれを、
真如縁起、
などともいう(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E6%91%A9%E7%BE%85%E8%AD%98)。
真如は絶対なる真我なれば「識」とは言い難いが、前の八識に隋縁生起する本源なることから阿摩羅識と名づけられた。したがって法性宗における、
仏性の異名、
である(仝上)とする。
「乾栗陀耶識(けんりつだやしき)」は、
最深層にある宇宙意識、
であるが、「仏性」を超えた物を何と呼んでいいのか。「識」の次元とは異次元のように思われる。
「八入」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/484945522.html)で触れたように、「八」(漢音ハツ、呉音ハチ)は、
指事。左右二つにわけたさまを示す(漢字源)、
指事。たがいに背き合っている二本の線で、わかれる意を表す。借りて、数詞の「やつ」の意に用いる(角川新字源)、
象形文字です。「二つに分かれている物」の象形から「わかれる」を意味する「八」という漢字が成り立ち、借りて、数の「やっつ」の意味も表すようになりました(https://okjiten.jp/kanji130.html)、
などと説明される。
(「識」 金文・西周 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E8%AD%98より)
「識」(漢音ショク、呉音シキ、漢音・呉音シ)は、
会意兼形声。戠の原字は「弋(棒ぐい)+Y型のくい」で、目印のくいをあらわす。のち、口または音を揃えた字となった。識はそれを音符とし、言を加えた字で、目印や名によって、いちいち区別して、その名をしるすこと、
とある(漢字源)が、
会意形声。「言」+音符「戠」、「戠」は「幟・織」の原字で「戈」に飾りをつけたもので、標識を意味する、
とも(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E8%AD%98)、
形声。言と、音符戠(シヨク)とから成る。意味をよく知る、記憶する意を表す。ひいて「しるし」の意に用いる、
とも(角川新字源)、
会意兼形声文字です(言+戠)。「取っ手のある刃物・口の象形」(「(つつしん)で言う」の意味)と「枝のある木に支柱を添えた象形とはた織り器具の象形」(はたを「おる」の意味)から、言葉を縦横にして織り出して、物事を「見分ける」、「知る」を意味する「識」という漢字が成り立ちました、
ともある(https://okjiten.jp/kanji787.html)。
参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
2022年09月05日
芝が眉宇
才(ざえ)も徳(とこ)も尊(たと)うして、また美僧なり。芝が眉宇(びう)も色を失う(宿直草)、
とある、
芝が眉宇、
は、
唐の房琯(ぼうかん)が紫芝の眉を誉めた故事により、立派な眉をもつ顔。眉宇は眉だけでなく、仏者の尊顔の意がある、
とある(高田衛編・校注『江戸怪談集』)。
「眉宇」は、
決意を眉宇に漂わせる、
というように、
眉のあたり、
を意味し(広辞苑・字源)、また、
聲名赫赫(かくかく)として、窮塞(きうさい)に在り、
眉宇堂堂として、眞に丈夫(梅尭臣・劉謀閣副に贈る)、
と、
眉つき、
の意でも使う(字通)。
「宇」は軒(のき)。眉(まゆ)を目の軒と見たてていう語、
とあり(広辞苑・精選版日本国語大辞典)、
太子曰、僕病未能也、然陽気見於眉宇之閒(枚乗)、
と、
眉端、額をいふ、眉の面における家に宇(のき)のある如し、故にいふ(字源)、
宇は簷(のき)、眉の顔面にあるは、家に簷あるが如ければ云ふ(大言海)、
などとある。
芝が眉宇、
は、多く、
芝眉(しび)、
あるいは、
芝宇、
ともいい、さらに、
紫眉、
紫宇、
ともいう(字源)。
宇は眉宇、
の意とあり(仝上)、
人の顔色をたたへ称す、
とある(仝上)。つまり、
遠く手諭を承け、芝眉に對するが如し。復(ま)た渥儀を荷ふ。安(いづく)んぞ敢て濫(みだ)りに拜せん。唯だ心に良友の至愛を銘するのみ(顔氏家蔵尺牘)、
と、
貴人の相。尊称に用いる、
のである(字通)。この由来は、
元徳秀、字紫芝、質厚少縁飾、房琯毎見徳秀、歎息曰、見紫芝眉宇、使人名利之心都盡(唐書・卓行傳)、
とある(字源)。
(「眉」 甲骨文字・殷 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%9C%89より)
「眉」(漢音ビ、呉音ミ)は、
象形。目の上の眉があるさまを描いたもので、細くて美しいまゆ毛のこと、
とある(漢字源)。
まゆ毛を美しくかざりたてたさまにかたどる(角川新字源)、
ともある。
「宇」(ウ)は、
会意兼形声。于は大きく曲がるさまを示す。宇は「宀(やね)+音符于(ウ)」で、大きくて丸い屋根のこと、
とある(漢字源)が、
形声。宀と音符于(ウ)とから成る。屋根のひさし、家の四方のすみ、ひいて、上からおおう所の意を表す、
とも(角川新字源)、
会意兼形声文字です(宀+于)。「屋根・家屋」の象形と「弓の反りを正す為の道具」の象形(「弓なりに曲がってまたがる」の意味)から、家屋の外で、またぐように覆う部分「軒(のき)」を意味する「宇」という漢字が成り立ちました、
とも(https://okjiten.jp/kanji992.html)ある。「宇」は、「屋根」よりは「軒」の意ではないか。
(「之」 甲骨文字・殷 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E4%B9%8Bより)
「芝」(シ)は、
会意兼形声。「艸+音符之(シ すくすくのびる)」。之は、象形。足の先が線から出て進みゆくさまを描いたもの。進みゆく足の動作を意味する。先(跣(セン)の原字。足先)の字の上部は、この字の変型である。「これ」という言葉に当てたのは音を利用した当て字。是(シ これ)、斯(シ これ)なども当て字で之(シ)に近いが、其・之、彼・此が相対して使われる、
とある(漢字源)。別に、
会意兼形声文字です(艸+之)。「並び生えた草」の象形と「立ち止まる足の象形と出発線を表す線」(出発線から一歩踏み出していく事を示し、「ゆく」の意味)から、地面などから、足を突き出したように生える、「しば」、「霊芝(れいし)」を意味する「芝」という漢字が成り立ちました、
ともある(https://okjiten.jp/kanji1204.html)。
参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
簡野道明『字源』(角川書店)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
2022年09月06日
入相の鐘
なほ入相の鐘に花を惜しみし春の夕暮れ、來し方なつかしく、その里、かれこれと歩(あり)くに(宿直草)、
とある、
入相(いりあい)の鐘、
は、
日没のとき、寺で勤行(ごんぎょう)の合図につき鳴らす鐘、また、その音、
の意であり、
三井の晩鐘、
というように、
晩鐘(ばんしょう)、
ともいい(この対が、暁鐘。)、
登攀春黛裡、拝頂暮鍾辰(杜甫)、
と、
暮鐘(ぼしょう)、
あるいは、
くれのかね、
ともいう(広辞苑・日本国語大辞典)。
「いりあひ」は、
或る夕ぐれの入りあひばかりの事なるに寝屋入り(善悪報いばなし)、
と、
日没、
の意である(高田衛編・校注『江戸怪談集』)。また、
間に y の音がはいって「いりやい」と読まれる場合もある、
ともある(精選版日本国語大辞典)。
日の、山の端に入る頃、
つまり、
たそがれ、
薄暮、
の意である(大言海・字源)。類聚名義抄(11~12世紀)に、
日没、イリアヒ、
とある。漢語の「入相」は、
にゅうしょう、
と訓ませ、
イリテショウタリ、
と、訓読し、
州郡の官より、朝廷に入りて宰相となること、
とある(字源)。「いりあひ」に、
入相、
と当てたのは当て字だが、その由来ははっきりしない。
入り(日の入る)+あい(接続詞 ちょうどそのころ)、
とある(日本語源広辞典)。「あふ」は、
逢、
合、
会、
嫁、
遇、
和、
饗、
等々と当て(大言海)、
楽浪(ささなみ)の志賀(しが)の大わだ淀(よど)むとも昔の人にまたも逢(あ)はめやも(万葉集)、
と、
二つのものが互いに寄っていきぴったりとぶつかる、
という、
出会う、
とか
対面する、
意や、
折にあひたる羅(うすもの)の裳あざやかに(源氏物語)、
と、
二つのものが近寄ってしっくりと一つになる、
という、
調和する、
とか、
ピッタリ一つになる、
意がある動詞「あふ」と関連する接続詞に、
相、
を当て、
相飲み、
相あらそひ、
と、
互いに、
の意や、
相栄え、
相寝、
と、
一緒に、
ともどもに、
の意で使う(岩波古語辞典)。しかし、接続詞であるより、動詞「あふ」で、
入りてあふ、
の意と考えれば、
日の、山の端に入る頃、
という意味(大言海)と重なる気がするのだが。別に、思い付きとしつつ、
村や集落で、山の柴草や山菜をとる為に、相互いの民が共同で立ち入る事が出来る山を、入相の山といいます。
入相の山に沈む陽から、転用されたものではないでしょうか、
とある(https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q143445679)のも、意味は同じである。
なお、
入相一里、
という諺がある。
入相の鐘を聞いてから、日が暮れるまでにはまだ一里は歩ける、
という意味らしい(故事ことわざの辞典)。
「たそがれ」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/479991859.html)、「逢魔が時」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/433587603.html)については触れたことがある。
「入」(慣用ジュ、漢音ジュウ、呉音ニュウ)は、「八入」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/484945522.html)で触れたように、
指事。↑型に中へ突き進んでいくことを示す。また、入口を描いた象形と考えてもよい。内の字に音符として含まれる、
とある(漢字源)。ために、
象形。家の入り口の形にかたどり、「いる」「いれる」意を表す(角川新字源)、
象形。「入り口」の象形から「はいる」を意味する「入」という漢字が成り立ちました(https://okjiten.jp/kanji177.html)、
と、象形説もある。
「相」(漢音ショウ、呉音ソウ)は、「麁相」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/490932051.html?1661281209)で触れたように、
会意。「木+目」の会意文字で、木を対象において目でみること。AとBが向き合う関係を表す、
とある(漢字源)。別に、
会意。目と、木(き)とから成り、目で木を見る、ひいて「みる」意を表す。借りて、すがた、あいたがいの意に用いる、
ともある(角川新字源)。
参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
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2022年09月07日
ひらたけ
小一條の社にありける藤の木に、平茸(ひらたけ)多くはえたりけるを、師に取り持ち來て(今昔物語集)、
にある、
平茸、
は、
榎の木などに生え、形は象の耳に似て、表面は褐色、裏面は白色、なま椎茸のようで味がよいという。ひじり好むもの、ひらの山こそ尋ぬなかれ、弟子やりて、松茸、平茸、なめすすき……(梁塵秘抄)、
と注記がある(佐藤謙三校注『今昔物語集』)。『梁塵秘抄』のくだりは、
聖の好むもの、比良の山をこそ尋ぬなれ、弟子やりて、松茸、平茸、滑薄(なめすすき 榎茸(えのきたけ))、さては池に宿る蓮のはい(蔤 蓮根)、根芹(ねぜり)、根ぬ菜(ねぬなは じゅんさい)、牛蒡(ごんぼう)、河骨(かわほね・こうほね)、独活(うど)、蕨、土筆(つくづくし)、
とある「ものづくし」の一節である(http://false.la.coocan.jp/garden/kuden/kuden0-2.html)。
「平茸」は、
あわびたけ、
かきたけ、
ともいい(たべもの語源辞典)、会津地方では、
カンタケ、
東北地方では、一般に、
ワカエ、
の名で親しまれ(日本大百科全書)、秋田県鹿角、岩手県釜石、青森県上北では、
ムキダケ、
熊本県では、
クロキノコ、
と呼ばれる(たべもの語源辞典)。
(ひらたけ 大辞泉より)
(ヤナギの枯れ木に発生した野生ヒラタケ https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%92%E3%83%A9%E3%82%BF%E3%82%B1より)
春から秋にかけて広葉樹の枯れ木に重なり合って発生する。カサは直径5~15センチの半円形、灰色または鼠色で、片側に柄がある。このカサの色や形は、発生する場所で異なる。肉は白く柔らかく、汁、煮物、焼いて田楽、あえ物、油いためなどにする、
とある(たべもの語源辞典)が、別名、
四季きのこ、
と言われ、年中発生しているように思われているが、本当の、
ひらたけ、
は、晩秋から採取できるものを言い、春から秋にかけて 採取できるのは、
うすひらたけ、
を指し、
一般的に採取され「ひらたけ」と呼ばれているのは、「うすひらたけ」のことをいう、
とある(http://www.sansaikinoko.com/hiratake.htm)。
だから、「ひらたけ」は、
かんたけ(寒茸)、
ともいい、
晩秋ブナの枯れ木などに折り重なって発生し、肉厚も十分で、ボリュームがあり、色は灰黒色が多いのですが、中には灰白色、茶褐色も時にはあります、
とある(仝上)。野生の「ひらたけ」は、
傘が半円形または扇形で、側方に短い茎をつける。幅5~15センチメートル。表面は滑らかで、若いときは青黒いが、まもなく色あせてねずみ色から灰白色になる。ひだは白く茎に垂生。茎には白い短毛が生えている。胞子紋は淡いピンク色を帯びる。晩秋から冬にかけて、広葉樹の枯れ木に重なり合って群生する、
とある(日本大百科全書)。
カンタケ、
ともよぶのは、しばしば雪の下からでも生える故らしい(仝上)。かさが、
表面は平滑、
なのが名前の由来らしく、
マツタケに似てやせて、カサが薄く平たいのでこの名がついた、
とある(たべもの語源辞典)。
「うすひらたけ」は、春から秋にかけて発生し、
傘の表面は灰色、ヒダは白色で、茎が無いのが特徴、
とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%B9%E3%83%92%E3%83%A9%E3%82%BF%E3%82%B1)。野生のものは、梅雨時期から初秋にさまざまな広葉樹の倒木や切り株の上に折り重なる様にして群生する。野生のウスヒラタケは小型で薄く、傘の色は白〜淡黄色のものが多い(仝上)という。「ひらたけ」との違いは、
発生時期が違うのと、きのこが小型で肉が薄く、傘の色も白に近い淡黄色、
で区別ができる(http://www.sansaikinoko.com/hiratake.htm)とある。
「ひらたけ」は、平安時代中期には食用にされていたが、
近来往々食茸有死者、永禁断食平茸、戒家中上下、
とある(藤原実資『小右記』)ように、毒キノコによる死亡事故の多発を理由に家中にヒラタケを食べることを禁じる旨が記されている(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%92%E3%83%A9%E3%82%BF%E3%82%B1)。
「ひらたけ」に外見が似ているのに、
つきよたけ(月夜茸)、
という毒きのこがある。別名、
わたり、
といい、『今昔物語集』には、「平茸」を御馳走すると偽って「わたり」を食わせて殺そうとしたが、相手は「わたり」と承知の上で、
年来、此の老法師は、未だかくいみじく調美せられたるわたりをこそ食ひ候はざりつれば、
と嘯いたとあり、
此の別當は、年来わたりを役(やく)と食ひけれども酔はざりける僧にてありけるを、知らで構へたりける事の、支度たがひてやみにけり。されば、毒茸を食へどもつゆ酔はぬ人の有りけるなりけり、
と結んでいる(佐藤謙三校注『今昔物語集』)。
このきのこは、
「うすひらたけ」ととても似かよっている「毒キノコ」です。 特に幼菌は傘を割って中の「シミ」を確認しないとわからないほどです。「うすひらたけ」より身が厚かったり、色が濃かったりして注意をすればわかります、
とある(http://www.sansaikinoko.com/hiratake.htm)が、
ひだと柄の境がはっきりしており、ひだは柄に垂生せず(稀に垂生することがある)、一種の臭気があり、柄の基部の肉は常に暗紫色である。新鮮なツキヨタケはひだが全面にわたって発光することから夜間に白く発光する、
ともある(たべもの語源辞典)。
「たけ(茸)」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/461300903.html)、「しめじ」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/480249609.html)、「マツタケ」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/479944235.html)については触れた。
(「平」 金文・西周 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%B9%B3より)
「平」(漢音ヘイ、呉音ビョウ、慣用ヒョウ)は、
象形。浮草が水面にたいらに浮かんだ姿を描いたもの、萍(ヘイ うきくさ)の原字。下から上昇する息が、一線の平面につかえた姿ともいう、
とある(漢字源)。後者の説は、
「于」+「八」の会意、気が立ち上り天井につかえ(于)、それが分かれる(八)、又は、斧(于)で削る(八)様、
とする(白川静)説(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%B9%B3)。
「茸」(漢音ジョウ、呉音ニョウ)は、
会意。「艸+耳(柔らかい耳たぶ)」。柔らかい植物のこと、
とある(漢字源)。
会意兼形声文字です(艸+耳)。「並び生えた草」の象形と「耳」の象形(「耳」の意味)から、耳のような草が「しげる」、耳のような形をした「きのこ」を意味する「茸」という漢字が成り立ちました、
とある(https://okjiten.jp/kanji2684.html)のも同趣旨。
参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
2022年09月08日
錦木
夜に増し日に添ひ、錦木(にしきぎ)も千束(ちくさ)になり、浜千鳥のふみ行く跡の潮干の磯に、隠れ難くぞ侍る(宿直草)、
にある、
錦木も千束になり、
の、
錦木、
は、落葉低木の、
ニシキギ、
ではなく、
男が女に逢おうとする時、女の家の門にこれを立て、女に応ずる心があれば取り入れ、取り入れなければ男がさらに加えて、千束を限りとする風習があった、
と注記がある(高田衛編・校注『江戸怪談集』)。
錦木はたてながらこそ朽ちにけれ狭布(けふ)の細布(ほそぬの)胸あわじとや(能因法師)、
思いかね今日(けふ)たちそむる錦木の千束にたらであうよしもがな(大江国房)、
たてそめてかへる心は錦木の千束(ちづか)まつべき心地こそせね(西行)、
などと詠われる題材になっているらしい。平安後期から中世にかけて、
(上記風習を念頭に)好んで和歌に詠まれた、
し、
文を付けて贈る習慣、
があり、
錦木にかきそへてこそ言の葉も思ひ染めつる色は見ゆらめ(顕昭 六百番歌合・恋)、
のような歌も残っている(精選版日本国語大辞典)とあり、
恋文の雅称、
として「錦木」は使われたりする。ちなみに、
狭布(けふ)の細布(ほそぬの)、
は、
歌語として「今日」をかけ、また、幅もせまく、丈(たけ)も短くて胸をおおうに足りないところから、「胸合はず」「逢はず」の序詞とする、
と解釈されている(精選版日本国語大辞典)。「細布」は、
新羅……調貢(みつぎものたてまつ)れり。金銀銅鉄鹿の皮細布(ホソヌノ)の類(たくひ)、各数有り(日本書紀)、
と、
細い糸で織った高級の布、
だが、
幅のせまい布。奥州の特産、
であったらしい(仝上)。「千束」は、上記引用では、
ちくさ、
と訓ませているが、
ちつか、
ちづか、
と訓み、
千たば、
の意である(仝上)。
「錦木」は、
昔、奥州で、男が恋する女に会おうとする時、その女の家の門に立てた五色にいろどった一尺(約三〇センチメートル)ばかりの木。女に応ずる意志があれば、それを取り入れて気持を示し、応じなければ男はさらに繰り返して、千本を限度として通ったという。また、その風習(精選版日本国語大辞典)、
五色に彩った30センチメートルばかりの木片。昔の奥州の風習で、男が女に逢おうとする場合に、女の家の門に立てて、女に応ずる心があればそれを取り入れ、取り入れなければ男がさらに加え立てて千束を限りとするという(広辞苑)、
いわゆる奥州錦木伝説にまつわる錦木。五彩の木片の束であるとも、5種類の木の小枝を束ねたものともいわれる(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8C%A6%E6%9C%A8)、
等々とあるが、錦木は、
楓木(かえでのき)、酸木(すのき)、かば桜、まきの木、苦木(にがき)の五種の木の枝を三尺(約90cm)あまりに切り一束(ひとたば)としたものである、
とある(https://www.city.kazuno.akita.jp)。これは別名、
仲人(なこうど)木、
といい、
縁組に用いられるもの、
とある(https://www.city.kazuno.akita.jp/soshiki/sangyokatsuryoku/kankokoryu/gyomu/2/3/densetu/8293.html)。そのもとになる説話は、「錦木塚物語」として、
ある日、若者は赤森の市で政子姫の美しい姿に心をうばわれてしまう。毎日毎日、若者は政子姫の門前に錦木を立てた。当時は、女の家の門前に錦木が立てられ、家の中に入れられると、男の気持ちが通じたものとする風習があったという。若者は姫の姿を見てから雨の降る日も風の吹く日も雪のふぶく日も、錦木を運んだ。しかし、錦木はむなしく積み重ねられるだけであった。姫は機織はたおる手を休め、そっと若者の姿を見つめるようになった。いつの間にか、姫は若者の心をあわれむようになっていた。しかし若者が門前に錦木をいくら高く積んでも、姫は若者の心を受け入れることはできなかった。なぜなら……、
と、載る(仝上)。
この伝説をもとにした謡曲『錦木』(世阿彌)は、
旅僧の一行が陸奥の狭布(きょう)の里で、細布を持った女と錦木を持った男に会う。二人は細布と錦木のいわれを語り、三年間女の家の門に錦木を立てて求婚し続けたというその男の塚に案内して消える。夜もすがら僧たちが弔っていると、二人の幽霊が現れ、男が錦木を立て続けた様子を見せ、仏果を得た喜びの舞を舞い、夜明けと共に消え失せる、
というあらすじで(http://www5.plala.or.jp/obara123/u1184ni.htm・精選版日本国語大辞典)、僧が、錦木の謂れを、夫婦と思しきこの男女から聴くシーンは、
ワキ 「猶々錦木細布の謂れ 御物語り候え」
シテ 「語って 聞かせ申し候べし。昔よりこの所の 習いにて。男女の媒(なかだち)にはこの 錦木を作り。
女の家の門に立てつる しるしの木なれば。美しくいろどり飾りてこれを 錦木(にしきぎ)という。
さるほどに逢うべき夫の 錦木をば取り入れ。逢うまじきをば 取り入れねば。
或いは百夜三年まで錦木 立てたりしによって。三年の日数重なるを以って千束(ちつか)とも詠めり。
又この山陰に 錦塚とて候 これこそ三年まで錦木立てたりし人の 古墳なれば。
取り置く錦木の数ともに塚に 築き籠めて。これを錦塚と 申し候。」
ワキ 「さらば其の 錦塚を見て。故郷の物語にし候べし教えて 給はり候え」
シテ 「おういでいでさらば 教え申さん」
と、錦木の由来を語ると、僧たちを錦塚へと案内する(http://www5.plala.or.jp/obara123/u1184ni.htm)。僧たちが、かの男女を弔うべく読経を始めると、男の亡霊(後シテ)が現れ、懺悔のため、昔の有り様を再現して見せる。
地クリ げにや陸奥の狹布の郡の習いとて。所からなることわざの。世に類いなき有様かな
シテ 申しつるだに憚りなるに。猶も昔をあらはせとの。
地 お僧の仰せに従いて。織る細布や錦木の。千度百夜を経るとてもこの執心はよもつきじ。
シテ 然れども今逢いがたき縁によりて
地 妙なる一乗妙典の。功力をえんと懺悔の姿。夢中に猶も。あらわすなり。
地クセ 夫は錦木を運べば女は内に細布の。機織る虫の音に立てて問うまでこそなけれども。
たがいに内外にあるぞとわ。知られ知らるる中垣の。草の戸ざしは其のままにて。
夜は既に明けければすごすごと立ち帰りぬ。さる程に思いの数も積もり来て。
錦木は色朽ちてさながら苔に埋れ木の。人知れぬ身ならばかくて思いもとまるべきに。
錦木は朽つれども。名は立ちそいて逢う事は。涙も色に出でけるかや。恋の染め木とも。
この錦木を詠みしなり。
シテ 思いきや。ひぢのはしがきかきつめて。
地 百夜も同じ丸寝せんと。詠みしだにあるものを。せめては一年待つのみか。
二年余りありありてはや陸奥の今日まだも。年くれないの錦木は。千度にならばいたづらに。
我も門邊に立ちをり錦木と共に朽ちぬべき。袖に涙のたまさかにもなどや見みえや給はぬぞ。
さていつか三年はみちぬ。あらつれなつれなや
地 錦木は
シテ 千束になりぬいまこそは。
地 人に知られぬ閨の中見め。
シテ 嬉しやな。今宵鸚鵡のさかづきの。
地 雪を廻らす舞の袖かな 舞の袖かな(仝上)。
この伝説の「錦木塚」は、
秋田県鹿角市十和田錦木地区、
にある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8C%A6%E6%9C%A8%E5%A1%9A)。
因みに、「ニシキギ」は、
ニシキギ科の落葉低木。コマユミ(小真弓)の変種とされ、枝にコルク質の翼のある点が母種と異なる。初夏、帯黄緑色の小花を多数開く。果実は蒴果さくかで、晩秋熟し、裂けて橙紅色の種子を現す。紅葉美しく、観賞用。材は細工用、
とあり(広辞苑)、
鬼箭木、
五色木、
ともいい、「錦木」の名を付けられる所以はある。
(ニシキギ 広辞苑より)
(ニシキギ・実 日本国語大辞典より)
「錦」(漢音キン、呉音コン)は、
会意兼形声。「帛(絹織り)+音符金」。錦糸を織り込んだ絹織物。のち布帛の最高のものを錦といった、
とある(漢字源)。色糸で織った五色にかがやく絹の意(角川新字源)ともある。別に、
会意兼形声文字です。「金属の象形とすっぽり覆うさまを表した文字と土地の神を祭る為に柱状に固めた土の象形」(「土中に含まれる金属」の意味)と「頭の白い骨の象形と頭に巻く布にひもをつけて帯にさしこむ象形」(「白ぎぬ」の意味)から、金・銀・銅など5色の金属があるように、5色の糸で美しく織り出した「にしき」を意味する「錦」という漢字が成り立ちました、
ともある(https://okjiten.jp/kanji2115.html)。
「木」(漢音ボク、呉音モク)は、「千木」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/485451726.html)で触れたように、
象形。立ち木の形を描いたもの、
である(漢字源)。
参考文献;
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
2022年09月09日
不立文字
此の寺のきしねに沿ふてしばし休らふに、不立(ふりゅう)文字の霊場に読経の声も幽かに聞こえ(宿直草)、
にある、
不立文字の霊場、
は、
禅宗の寺、経論を行わないので、
と注記がある(高田衛編・校注『江戸怪談集』)「経論」とは、仏教における、
三蔵(経蔵・律蔵・論蔵)、
つまり、
仏陀の言葉の集成である経、
修行者のとるべき行動、態度を規定した律、
仏教教理の説明、解釈、研究の集成である論、
のうち、
仏陀の言葉の集成である経、
仏教教理の説明、解釈、研究の集成である論、
を行わないという意味である(精選版日本国語大辞典)。それが、
不立文字、
と関わる。禅宗史伝『正宗記(伝法正宗記(でんぽうしょうしゅうき))』(北宋)に、
初祖安禅在少林、不傳経教、但傳心、後人若悟真如性、密印由来妙理深、
とある。
(一行書「教外別伝不立文字」(一休宗純) https://colbase.nich.go.jp/collection_items/tnm/B-2944?locale=jaより)
「不立文字」(ふりゅうもんじ・ふりつもんじ)は、
禅門は、文字、言句に依りて宗旨を立せず、直に仏の心印を單傳して、自己の心地を開明するを本旨とする、
とある(大言海)。
悟りは文字・言説をもって伝えることができず、心から心へ伝えるものである、
という意の、
以心伝心、
と、故に、
仏の悟りは経論以外に、別に、佛祖の心印を伝え、以心伝心にて、師弟、相承す、
ということをいう、
教外別伝(きょうげべつでん)、
と共に、
禅宗の立場を示す標語。その故に、禅宗を、
不立文字宗、
不立文字の教、
などともいう(大言海)とある。禅宗の灯史「五燈會元」(南宋代)に、
世尊在霊山會上、拈華示衆、此時人天百萬、悉皆罔措、獨有金色頭陀、破顔微笑、世尊言、吾有正法眼蔵、涅槃妙心、實相無相、微妙法門、不立文字、教外別傳、附嘱大迦葉、
とあり、禅宗の語録『碧巌録』(宋代)第一則に、
達磨遥観此地有大乗根器、遂泛海、得得而來、單傳心印、開示迷途、不立文字、直指人心、見性成仏、若恁麼未得、辨有自由分、
ともある。
字典『祖庭事苑』(宋代)に、
吾祖教外別伝之道、不立文字、直指人心(ジキシニンシン)、見性成仏(ケンショウジョウブツ)、
とある、
不立文字(文字に(依って)立たない)、
教外別伝(言葉の教え以外で別に伝わる)、
直指人心(人の心を(ここに大事なものがある、と)直に指さす)、
見性成仏(仏に成る本性を見る)、
を、
四聖句、
とする(http://www.yougakuji.org/archives/365)とある。
文字に(依って)立たない。誰かがこのように書いているから、と鵜呑みにしない(不立文字)、
禅宗には根本経典がなく、言葉の教え以外で別に伝わる(教外別伝)、
故に、
座禅、
という、
経験・体験・実感、
を重んじ、
人の心を(ここに大事なものがある、と)直に指さす(直指人心)、
仏に成る本性を見る。よく自分と向き合う(見性成仏)、
という解釈がなされる(仝上)。
不立文字、
は、禅宗の開祖として知られるインドの達磨(ボーディダルマ)の言葉として伝わる。
文字(で書かれたもの)は解釈いかんではどのようにも変わってしまうので、そこに真実の仏法はない。したがって、悟りのためにはあえて文字を立てない、
という戒めを、唐代の中国の禅僧である慧能がこれを強調し、
禅の真髄、
として重視した(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8D%E7%AB%8B%E6%96%87%E5%AD%97)とある。
参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
ラベル:不立文字
2022年09月10日
郎等
助延が郎等どもの陵じ(乱暴する)もてあそびけるに、其の郎等の中に年五十ばかりなるありける郎等の(今昔物語集)、
にある、
郎等、
は、
郎党、
とも当て、
ろうどう、
とも、
ろうとう、
とも訓ませる。
郎は﨟の当字にて、使はるるもの、即ち、武士の黨の者の中にて、然るべきものを老黨と云ひしに起る、其次なるを若黨と云ひき、
とある(大言海)が、
漢語の「郎」は、元来、官職名であったが、転じて、男子・若者の意をも表わした。しかし、従者の意はない、
とあり(精選版日本国語大辞典)、平安時代は、
なほかみのたちにて、あるじしののしりて、郎等までにものかづけたり(土佐日記)、
と、
従者、身分的に主人に隷属する従僕、
の意であったが、平安末期・鎌倉時代の武家社会で、
斉明已乗船離岸、但捕郎等藤原末光(「小右記(985)」)、
院宣の御使泰定は、家子二人、郎等十人具したり(平家物語)、
と、主人と血縁関係のある家の子と区別して、
主人と血縁関係のない従者、
の意で使った。しかし江戸時代初期に区別が失われ、「とう(等)」と「たう(党)」がトウと同音になった結果、
郎党、
の表記も現われた(仝上)という経緯のようである。
国語辞典『下学集(かがくしゅう)』(室町時代)には、
郎等(らうとう)、
の注に、
等或作徒、
とあり、中山忠親の日記『山槐記』(平安末~鎌倉初期)には、
郎等五人相具、又郎従十人相従(郎等ハ近侍ノ義、郎従は外様ノ随身)、
とある(治承三年(1179年)三月三日)。
「家子郎等」という、「家子」は、
主人と血縁関係にある者、
を指し、
自己の所領を持ち独立の生計を営みながら、主家と主従関係で結ばれている者、
である。平安中期~鎌倉時代の武士団は、
惣領家(そうりょうけ)に率いられた庶家(しょけ 血縁者)と、惣領家・庶家それぞれに従属している非血縁者という二つの要素からなっていたが、前者の庶家の長を「家子」とよび、後者を「郎党」(郎等)、ときに「郎従」とよぶのが慣例であった。このため「家子」は、惣領家の従者でなく、惣領とともに所領の共同知行(ちぎょう)に携わる者というのがその本来の姿であった、
が、室町時代以降、所領の嫡子単独相続制が始まると、
家子、
も惣領の扶持(ふち)を受ける従者の一種と化し、「郎党」との区別がしだいにあいまいになっていった、
とある(日本大百科全書)。
「郎等」は、
主人と血縁関係のない従者、
だが、地位の高い者を、
郎等、
低い者を、
従類、
といった。家子・郎等・従類などを合わせて、
郎従(ろうじゅう)、
という言い方もする。
従類、
は、郎党の下の、
若党、
悴者(かせもの)、
を指す。家子・郎等・従類は、皆姓を持ち、合戦では最後まで主人と運命を共にする(精選版日本国語大辞典)。
(弘安の役の武士団(蒙古襲来絵詞) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%92%99%E5%8F%A4%E8%A5%B2%E6%9D%A5%E7%B5%B5%E8%A9%9Eより)
若党、
は、
譜代旧恩ノ若党、
とも言われ、悴者(かせもの)と同じく、名字を有し、主人と共に戦う下層の侍。この上に郎党、下に悴者がいる。
中世では年輩の侍(さむらい)である老党に対し、主人の身辺に仕えた若輩(じゃくはい)の侍、
をいった、
若侍、
を指し(大言海)、
主人の側近くに仕えて雑務に携わるほか、外出などのときには身辺警固、
を任とした。
悴者(かせもの)、
は、
かせきもの、
ともいい、
賤しい者の意で、姓をもつ侍身分の最下位になる。
地侍、
もそれに当たり、若党ともども、主人と共に戦う下層の侍になる。
この下に、
中間(仲間)、
がおり、その下に、
小者(こもの)、
荒子(あらしこ)、
がいる。戦場で主人を助けて馬を引き、鑓、弓、挟(はさみ)箱等々を持つ、
下人(げにん)、
である。身分は、
中間→小者→荒子、
の順。
あらしこ、
が武家奉公人の最下層。姓は持たない。中間の上が、悴者(かせもの)、若党(わかとう)、郎等となる。
中間・小者・荒子、
は、いわゆる、
雑兵、
で、
「あらしこ」は、
嵐子、
荒師子、
とも記し、原義は、
荒仕事をする卑しい男、
で、武士の最下層に位置し、
戦場での土木・大工・輜重などの雑役、死体の片付け、炊事など、
に従事した(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%92%E5%AD%90_%28%E6%AD%A6%E5%A3%AB%29)。天正19年(1591年)の豊臣秀吉の身分統制令では、
奉公人、侍、中間、小者、あらし子に至る、去七月奥州江御出勢より以後、新儀ニ町人百姓ニ成候者在之者(『小早川文書』)、
として武士身分に位置付けられ、新規に百姓・町人になることが禁じられている(仝上)。
「小者」は、
雑役に従事し、戦場では主人の馬先を駆走した、
が、将軍出行のときは数名が随従し、草履(ぞうり)持ちなどをつとめた、
とある(精選版日本国語大辞典)。「中間」は、
仲間、
とも表記し、
身分は侍と小者の間に位する、
のでいうらしいが、
中間男、
ともいい(仝上)、
中間男(はしたもの)の字を略して音読せしもの、
とある(大言海)。いわゆる、
足軽、
に重なる部分がある(「足軽」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/462895514.html)で触れた)。奈良興福寺の塔頭多聞院主英俊(えいしゅん)は、明智光秀の死を、
惟任日向守ハ十二日勝竜寺ヨリ逃テ、山階(やましな)ニテ一揆にタタキ殺サレ了、首ムクロモ京ヘ引了云々、浅猿々々、細川ノ兵部大夫ガ中間(ちゅうげん)にてアリシヲ引立之、中國ノ名誉ニ信長厚恩ニテ被召遣之、忘大恩致曲事、天命如此(多聞院(たもんいん)日記)、
と、光秀が中間であったと記している。一族である家子以外の臣下の、
郎等→若党→忰者→中間→小者→あらしこ、
という身分は、室町幕府では、
番衆(ばんしゅう)→走衆(はしりしゅう)→中間→小舎人→小者→雑色→公人(くにん)、
となっており、「番衆」は、
将軍近習、
であり、後に5番編成の直属軍である奉公衆へと発展する。江戸時代にも、
書院番、
奏者番、
使番、
などの将軍近侍・警固の役職に番衆制度として残る。「走衆」は、
将軍が外出する時、徒歩で随行し、前駆や警護をつとめた者、
である。「走衆」は、徒歩で戦う、
徒士(かち)、
つまり若党、忰者に当たるのではないか。
番衆・走衆、
は苗字のある侍である。
(「走衆」 精選版日本国語大辞典より)
ところで、「足軽」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/462895514.html)で触れたように、戦国時代の武士団の構成は、
かりに百人の兵士がいても、騎馬姿の武士はせいぜい十人足らずであった。あとの九十人余りは雑兵(ぞうひょう)と呼んで、次の三種類の人々からなっていた、
①武士に奉公して、悴者(かせもの)とか若党(わかとう)・足軽などと呼ばれる、主人と共に戦う侍。
②武士の下で、中間(ちゅうげん)・小者(こもの)・荒子(あらしこ)などと呼ばれる、戦場で主人を補(たす)けて馬を引き槍を持つ下人(げにん)。
③夫(ぶ)・夫丸(ぶまる)などと呼ばれる、村々から駆り出されて物を運ぶ百姓(人夫)たちである。
とある(藤木久志『雑兵たちの戦場』)。いわゆる、
雑兵、
に、侍と武家の奉公人(下人)と動員された百姓も混在していたことになる。
なお、「名簿」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/489961008.html)で触れたことだが、
罪軽応免、具注名簿、伏聴天裁……但名簿雖編本貫、正身不得入京(「続日本紀」宝亀元年(770)七月癸未)、
と、
古代・中世に、官途に就いたり、弟子として入門したり、家人(けにん)として従属したりする際主従関係が成立する時、服従・奉仕のあかしとして従者から主人へ奉呈される官位・姓名・年月日を記した書き付け(名札)、
を「名簿」という(精選版日本国語大辞典・デジタル大辞泉)が、武家の中で、所謂、代々主従関係を結んでいる譜代の家人(けにん)を中心とした直属の家人の他に、
名簿(みようぶ)を提出するのみのもの、
や、
一度だけの対面の儀式(見参の礼)で家人となったもの、
もあり、
家礼(けらい)、
と呼ばれて主人の命令に必ずしも従わなくてよい、服従の度合の弱い家人がある(仝上)。この場合、「家人」が、
郎等、
若党、
忰者、
のどれを指しているかはっきりしないが、
平将門が藤原忠平に名簿を呈した(将門記)、
とか、
平忠常が源頼信に名簿を入れて降伏した(今昔物語集)、
と見られるので、時代背景によって異なるが、
若党、
忰者、
といった下級武士ではなさそうである。ただ、上記『山槐記』にあった、
郎等ハ近侍ノ義、郎従は外様ノ随身、
とあるので、
外様の随身、
とあるのはその意と思われる。
(「郎」 説文解字・漢 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E9%83%8Eより)
「郎(郞)」(ロウ)は、
会意兼形声。良は粮の原字で、清らかにした米、郎は「邑(まち)+音符良」で、もとは春秋時代の地名であったが、のち、良に当て、男子の美称に用いる、
とある(漢字源)。別に、
会意兼形声文字です(良+阝(邑))。「穀物の中から特に良いものだけを選びだす為の器具」の象形(「良い」の意味)と「特定の場所を示す文字と座りくつろぐ人の象形」(人が群がりくつろぎ住む「村」の意味)から、良い村を意味し、それが転じて(派生して・新しい意味が分かれ出て)、「良い男」を意味する「郎」という漢字が成り立ちました、
とある(https://okjiten.jp/kanji1482.html)。
「党(黨)」(トウ)は、「悪党」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/485549242.html)で触れたように、
形声。「黑+音符尚」。多く集まる意を含む。仲間で闇取引をするので黒を加えた、
とある(漢字源)が、「黨」の字源には、
形声。儿と、音符尙(シヤウ)→(タウ)とから成る。もと、西方の異民族の名を表したが、(「党」は)古くから俗に黨の略字として用いられていた、
と、
形声。意符黑(=黒。やみ)と、音符尙(シヤウ)→(タウ)とから成る。さえぎられてはっきりしない意を表す。借りて、「なかま」の意に用いる、
の二説あるらしく(角川新字源)、
形声文字、音符「尚」+「人」。部族の一つ、タングート(党項)族を指す。黨の略字(別字衝突)。「なかま」「やから」の意味。意符「人」から通じて略字として用いられるようになったか、
は(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%85%9A)、前者をとり、
形声文字です(尚(尙)+黑)。「神の気配を示す文字と家の象形と口の象形」(「強く願う」の意味だが、ここでは「堂」に通じ(「堂」と同じ意味を持つようになって)、「一堂に集まった仲間」の意味)と「上部の煙だしに「すす」がつまり、下部で炎があがる」象形(連帯感を示す色(黒)だと考えられている)から、「村」、「仲間」を意味する「党」という漢字が成り立ちました、
は(https://okjiten.jp/kanji1038.html)、別の解釈である。
「等」(トウ)は、
形声。「竹+音符寺」で、もと竹の節、または竹簡の長さが等しくそろったこと。同じものをそろえて順序を整えるの意となった。寺の意味(役所、てら)とは直接の関係はない、
とある(漢字源)。別に、
形声文字、「竹」+音符「寺」(「待」「特」の音と同系)。原義は竹の節がそろっていることで、竹の節々が「おなじ」「ひとしい」こと(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%AD%89)、
形声。竹と、音符寺(シ)→(トウ)とから成る。竹の札をそろえる、ひいて「ひとしい」、転じて、順序・等級の意を表す(角川新字源)、
形声文字です(竹+寺)。「竹」の象形(「竹簡-竹で出来た札」の意味)と「植物の芽生えの象形(「止」に通じ、「とどまる」の意味)と親指で脈を測る右手の象形」(役人がとどまる「役所」の意味)から、役人が書籍を整理するを意味し、それが転じて(派生して・新しい意味が分かれ出て)、「ひとしい」を意味する「等」という漢字が成り立ちました(https://okjiten.jp/kanji532.html)、
などともある。
参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
2022年09月11日
古則話頭
憂うることなかれ、ただ汝がいにしへの知るところの、古則話頭、よく憶持してわするる事なく(奇異雑談集)、
とある、
古則話頭(こそくわとう)、
は、
禅宗で、古則・公案の一節、または、その一則、
と注記がある(高田衛編・校注『江戸怪談集』)。似た言葉で、
酒掃(さいそう)をいたし、古則法問を糾明し、夜話坐禅おこたる事なく、つとめ申しさふらひしが(奇異雑談集)、
とある、
古則法問(こそくほうもん)、
は、
禅宗修行者が瞑想すべき先人の教えと、仏法についての問答と、
と注記がある(高田衛編・校注『江戸怪談集』)。因みに、「酒掃」は、当て字、普通は、
洒掃、
と表記し、
水をそそぎ、塵を掃っての掃除、禅宗の修行の一つ、
とある(仝上)。
「古則」(こそく)は、
古人が残した法則、
の意で、
参禅者の手本となるものの総称、
をいい、
古則公案、
と併称する(日本国語大辞典・広辞苑)とあるが、「話頭」は、一般には、
話のいとぐち、
や、また、
話頭を転ずる、
と、
話の内容、話題、
の意だが、禅宗では、
古則、公案、
のこととある(http://www.rinnou.net/cont_01/words.html)ので、
古則話頭、
も、
古則公案、
と同義になるが、「話頭」には、
学道の人、話頭を見る時、目を近け、力を尽して、能々是を可看(正法眼蔵随聞記)、
あるように、
禅宗で、古則・公案の一節。または、その一則のこと、
に限定されるので、
特定(特別)の一節、
を意味している(精選版日本国語大辞典)。
ちなみに「公案」とは、
元来は公府の案牘、
という意で、
国家の法令または判決文、
をさすが、禅宗では、
祖師の言行や機縁を選んで、天下の修行者の規範としたもので、全身心をあげて究明すべき問題のこと。修行の正邪を鑑別する規準でもある、
とあり(http://www.rinnou.net/cont_01/words.html)、
高僧が、史中より、宗旨の本色をあらはして、依標とするに足る語を、弟子に、悟道(ごどう)上の問題として示すもの、碧巌集に、古則、又は、本則といへる、是なり、
とある(大言海)。無門関に、
遂将古人公案、作敲門瓦子(がす)、随機導引學者、
と(西村恵信訳『無門関』)、
門を敲(たたく)瓦子(がす)と作(な)す、
とある。門が開けば無用となるもの(西村恵信訳『無門関』)、とある。「公案」は、
具体的には、祖師の言葉・言句・問答などをさす。禅の問答は、時と所を異にして第三者のコメントがつくのがふつうで、はじめになにも答えられなかった僧にかわる代語や、答えても不十分なものには別の立場から答えてみせる別語など、第2次・第3次の問答をうみだした、
とある(http://www.historist.jp/word_j_ko/entry/033038/)。
公案中の緊要の一句を特に、
話頭、
という(http://www.rinnou.net/cont_01/words.html)と、「話頭」の意味は限定されている。だから、
古則話頭、
と、
古則公案、
が重なるのである。
因縁話頭(いんねんわとう)、
ともいう。元来は、
祖師の言行を簡潔に記し、仏道修行上の指針手引としたものであったが、中国唐代にすでに語録として記録されている。宋代にはとくに臨済宗で、師家が学人を悟道(ごどう)に導くために、
趙州(じょうしゅう)無字、
の公案などを学人に示して工夫参究させる禅風が盛行し、
圜悟克勤(えんごこくごん)、
大慧宗杲(だいえそうごう)、
らにより大成された(日本大百科全書)とある。こうした公案を参究して段階的に修行者を大悟徹底させる禅風を、
公案禅、
看話禅(かんなぜん)、
とよぶ(仝上)。公案集に、
碧巌録(へきがんろく)、
従容録(しょうようろく)、
無門関、
などがあり、また、
景徳伝燈録(けいとくでんとうろく)、
には1700余人の祖師の伝記があり、
千七百則の公案、
と称されている(仝上)。この多くは、
中国禅宗が斜陽に向かう宋時代の所産、
とされる(西村恵信訳『無門関』)。宋代の禅僧たちは、
禅宗の命脈を護るための自浄努力として、修行生活の行儀作法を規制した各種の『清規』(生活規則)や、禅の法灯護持のために自家の家風の特質を宣揚したややデモンストレーティブな語録も多く産んだのである、
とある(仝上)。
いずれも唐代禅者の語録や史伝を基礎とするもので、独創性という点においては乏しい、
けれども、
宋代禅者たちによる護法のためのそういう創意工夫があったがゆえに、禅宗が現代にまで存在しえた、
とされる(仝上)。日本の禅宗も、
初期の曹洞(そうとう)宗を除き大方は公案禅が採用され、その手引書も多くつくられた、
とあり、その手引書を、
密参録(みっさんろく)、
門参(もんさん)、
というとある(日本大百科全書)。宋代禅者たちの、
「看話禅」(かんなぜん、かんわぜん 古人の古則話頭を鑑として弟子を開悟に導く指導方法)、
と呼んで始まった起死回生の手段もそれなりの功を奏し、その後の禅宗史の発展にとって貴重な命綱となった(西村恵信訳『無門関』)ことは否定できないとしても、これって、「不立文字」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/491347637.html?1662665083)で触れた、
不立文字、
と矛盾しないのだろうか。結局、
教外別伝、
といいつつ、別の、
経典、
になっているような気がするのだが。
なお、「無門関」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/473155387.html)については触れた。
(「古」 甲骨文字・殷 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%8F%A4より)
「古」(漢音コ、呉音ク)は、
象形。口印は頭、その上は冠か髪飾りで、まつってある祖先の頭蓋骨を描いたもの。克(重い頭をささえる)の字の上部と同じ。ひからびてかたい昔のものを意味する、
とある(漢字源)。別に、
「干」(盾たて)+「口」(神器)で、神器の上に盾をおいて神意を長持ちさせる意の会意(白川静)、
とする説(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%8F%A4)、あるいは、
会意。口と、十(おおい)とから成り、何代も語り伝える昔のことの意を表す、
とも(角川新字源)、
象形文字です。「固い兜(かぶと)」の象形から「固くなる・古い・いにしえ」を意味する「古」という漢字が成り立ちました、
ともある(https://okjiten.jp/kanji210.html)。
(「則」 金文・西周 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%89%87より)
「則」(ソク)は、
会意。「刀+鼎(かなえ)の略形」。鼎にスープや肉を入れ、すぐそばにナイフをそえたさま。そばにくっついて離れない意を含む。即(そばにくっつく)と同じ。転じて、常によりそう法則の意となり、さらにAのあとすぐBがくっついておこる意をあらわす助詞となった、
とある(漢字源)。
会意。「貝(元は「鼎」)」と「刀」を合わせて、鼎かなえで煮物をする脇に取り分ける刃物を置き、場に「のっとる」こと。音は「即」等と共通(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%89%87)、
会意。刀と、鼎(てい 貝は誤り変わった形。かなえ)とから成り、かなえを供えた前で、犠牲の動物を切ることから、規定・模範の意を表す。借りて、助字「すなわち」の意に用いる(角川新字源)、
はほぼ同趣旨、別に、
会意文字です(貝+刂(刀))。「鼎」(かなえ-中国の土器)」の象形と「刀」の象形から、昔、鼎に刀で重要な法律を刻んだ事から「法律」、「法則」、「規則」を意味する「則」という漢字が成り立ちました、
ともある(https://okjiten.jp/kanji754.html)。
参考文献;
西村恵信訳『無門関』(岩波文庫)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
2022年09月12日
五蘊
肉身は地水火風空の五蘊、かりに和合して、実なる物にあらざるなり(奇異雑談集)、
とある、
五蘊(ごうん)、
は、
集まって肉体を形成する五つの要素、
と注記がある(高田衛編・校注『江戸怪談集』)が、これでは何のことかわからない。
「中陰」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/485912319.html)で触れたように、「五蘊」は、
五陰(ごおん)、
ともいい(「おん」は「陰」の呉音)、「蘊(うん)」(「陰(おん)」)は、
集まりの意味、
で、
サンスクリット語のスカンダskandhaの音訳、
である(精選版日本国語大辞典)。
五陰(ごおん)は、旧訳(くやく)、
とあり(広辞苑)、同じく、
五衆(ごしゆ)、
ともいう(大辞林)。
仏教では、いっさいの存在を五つのものの集まり、
と解釈し、生命的存在である「有情(うじよう)」を構成する要素を、
色蘊(しきうん 五根、五境など物質的なもののことで、人間についてみれば、身体ならびに環境にあたる)、
受蘊(じゅうん 対象に対して事物を感受する心の作用のこと)、
想蘊(そううん 対象に対して事物の像をとる表象作用のこと)、
行蘊(ぎょううん 対象に対する意志や記憶その他の心の作用のこと)、
識蘊(しきうん 具体的に対象をそれぞれ区別して認識作用のこと)、
の五つとし、この五つもまたそれぞれ集まりからなる、とする。いっさいを、
色―客観的なもの、
受・想・行・識―主観的なもの、
に分類する考え方である(日本大百科全書)。仏教では、あらゆる因縁に応じて五蘊がかりに集って、すべての事物が成立している(ブリタニカ国際大百科事典)とする。
色蘊(rūpa)
には、
肉体を構成する五つの感覚器官(五根)、
と、
それら感覚器官の五つの対象(五境)、
と、
行為の潜在的な残気(無表色 むひようしき)、
とが含まれる(世界大百科事典)。また、
受蘊(vedanā)、
想蘊(saṃjñā)、
行蘊(saṃskāra)、
の三つの心作用は、
心王所有の法、
あるいは、
心所、
といわれ、
識蘊(vijñāna)、
は心自体のことであるから、
心王、
と呼ばれる(ブリタニカ国際大百科事典)。
仏教では、
あらゆる因縁に応じて五蘊がかりに集って、すべての事物が成立している、
と考えているから、
五蘊仮和合、
五蘊皆空、
などと説かれる(仝上)。字典『祖庭事苑』(宋代)には、
變礙曰色、領納曰受、取像曰想、造作曰行、了知曰識、亦名五蘊、
とある。
(「五」 甲骨文字・殷 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E4%BA%94より)
「五」(ゴ)は、
指事。×は交差をあらわすしるし。五は「上下二線+×」で、二線が交差することを示す。片手の指で十を数えるとき、→の方向に数えて、五の数で←の方向に戻る。その転回点にあたる数を示す。また語(ゴ 話をかわす)、悟(ゴ 感覚が交差してはっと思い当たる)に含まれる、
とある。(漢字源)。互と同系(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E4%BA%94)ともある。別に、
指事文字です。「上」・「下」の棒は天・地を指し、「×」は天・地に作用する5つの元素(火・水・木・金・土)を示します。この5つの元素から、「いつつ」を意味する「五」という漢字が成り立ちました、
との解釈もある(https://okjiten.jp/kanji127.html)。
「蘊」(ウン)は、
会意兼形声。「艸+糸+音符温(ウン 中にこもる)の略体」、
とある。「積み貯える」意の、「蘊蓄」「余蘊」、「物事の奥底」の意の。「蘊奥(うんおう・うんのう)」等々と使う。
参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
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2022年09月13日
四苦八苦
人間の事は、愛別離苦(あいべつりく)、怨憎会苦(をんぞうゑく)、共(とも)に我身に知られてさぶらふ。四苦八苦、一つとして残る所さぶらはず(平家物語)、
にある、
四苦八苦、
は、仏語で、
生・老・病・死の四苦に、愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五陰盛苦を合わせたもの、
をいい(広辞苑)、
人生の苦の総称、
を言う(仝上)。転じて、
弱り切ったお初を見れば、両手を伸ばして断末魔の四く八く哀れというも余りある(浄瑠璃「曾根崎心中」)、
と、
非常な苦しみ、
の意や、
弁解に四苦八苦する、
と、
さんざん苦労する、
意で使う(仝上)。釈迦は、
人生の現実を直視して、自らの思うままにならぬもの・ことの満ちあふれているさまをつきとめ、それを苦とよんだ。それは自己の外部だけではなくて、自己の内にもあり、究極は人間の有限性とそれから発する自己矛盾とに由来する、
とし、その「苦」を、
生苦(jāti dukkha しょうく)人は生まれる場所、条件を選べないなど、衆生の生まれることに起因する苦しみ、
老苦(jarāpi dukkha)衆生の老いていくことに起因する苦しみ。体力、気力など全てが衰退していく苦しみ、
病苦(byādhipi dukkha)様々な病気があり、痛みや苦しみに悩まされる、
死苦(maraṇampi dukkha)衆生が免れることのできない死という苦しみ。また、死ぬときの苦しみ、
の(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E8%8B%A6%E5%85%AB%E8%8B%A6)、
生老病死、
の、
四苦、
とし(https://www.nichiren.or.jp/glossary/id154/・日本大百科全書)。さらに、
愛別離苦(あいべつりく 愛するものと別れなければならない苦しみ)、
怨憎会苦(おんぞうえく 怨(うら)み憎むものと出会わなければならない苦しみ)、
求不得苦(ぐふとっく 求めるモノゴトが手に入らない苦しみ)、
五蘊盛苦(ごうんじょうく 五陰盛苦(ごおんじょうく) 自分の心や、自分の身体すら思い通りにならない苦しみ)、
の四つを加えて(「五蘊(五陰)」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/491410283.html?1662923683)については触れた)、
八苦、
とした(仝上)。仏教では、
これらは避けようとしても避けられず、むしろそれら苦のありのままをそのまま知り体験を深めることによって、それからの超越、
すなわち、
解脱(げだつ)、
を説く(仝上)。
生は苦なり、老は苦なり、病は苦なり、死は苦なり、
怨憎するものに曾(会)ふは苦なり、愛するものと別離するは苦なり、求めて得ざるは苦なり、
略説するに五蘊取蘊は苦なり、
とある(南伝大蔵経)。
「四」(シ)は、「六道四生」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/486172596.html?1648323250)で触れたように、
会意。古くは一線四本で示したが、のち四と書く。四は「口+八印(分かれる)」で、口から出た息がばらばらに分かれることを表す。分散した数、
とある(漢字源)。それは、
象形。開けた口の中に、歯や舌が見えるさまにかたどり、息つく意を表す。「呬(キ)(息をはく)」の原字。数の「よつ」は、もとで4本の横線で表したが、四を借りて、の意に用いる(角川新字源)、
とか
指事文字です。甲骨文・金文は、「4本の横線」から数の「よつ」の意味を表しました。篆文では、「口の中のに歯・舌の見える」象形となり、「息」の意味を表しましたが、借りて(同じ読みの部分に当て字として使って)、「よつ」を意味する「四」という漢字が成り立ちました(https://okjiten.jp/kanji126.html)、
とか、
象形。口をあけ、歯と舌が見えている状態。本来は「息つく」という意味を表す。数の4という意味はもともと横線を4本並べた文字(亖)で表されていたが、後に四の字を借りて表すようになった(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%9B%9B)、
とかと、「指事」説、「象形」説とに別れるが、趣旨は同じようである。
「八入」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/484945522.html)で触れたように、「八」(漢音ハツ、呉音ハチ)は、
指事。左右二つにわけたさまを示す(漢字源)、
指事。たがいに背き合っている二本の線で、わかれる意を表す。借りて、数詞の「やつ」の意に用いる(角川新字源)、
象形文字です。「二つに分かれている物」の象形から「わかれる」を意味する「八」という漢字が成り立ち、借りて、数の「やっつ」の意味も表すようになりました(https://okjiten.jp/kanji130.html)、
などと説明される。
(「苦」 説文解字・漢 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E8%8B%A6より)
「苦」(漢音コ、呉音ク)は、
会意兼形声。古は、かたい頭骨を描いた象形文字で、ふるい、固く乾いたの意を含む。苦は「艸+音符古」で、口がこわばってつばが出ない感じがする、つまり、苦い味のする植物のこと、
とある(漢字源)。
そのようなものを飲む、辛く苦しいことを意味する、
の意もある(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E8%8B%A6)。別に、
会意兼形声文字です(艸+古)。「並び生えた草」の象形と「固いかぶと(兜)」の象形(「固い」の意味)から、固い草⇒にがい草を意味し、さらに転じて(派生して・新しい意味が分かれ出て)「にがい・くるしい」を意味する「苦」という漢字が成り立ちました、
ともある(https://okjiten.jp/kanji262.html)。
参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
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スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
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ラベル:四苦八苦
2022年09月14日
闡提
闡提(せんだい)半月二根無根のたぐひなるは、世に多きものなりとのたまへば(奇異雑談集)、
にある、
闡提半月二根無根、
は、
仏教で、到底成仏し得ぬ者である闡提の身、半陰陽の者と、男根と女根(陰)の二根いずれも持たない者、
と注記がある(高田衛編・校注『江戸怪談集』)。
闡提、
は、
一闡提(いつせんだい)の略、
とあり、
一闡提、
は、
梵語icchantikaの音写、
詳しくは、
一闡底迦(いっせんていか)、
と音写され、
闡提、
と略称された(日本大百科全書)。原意は、
名聞利養を欲求しつつある人、
とするが、その語源については種々に論議があり、
欲する者、
の意で、
他人の得る世俗的な利益をみてこれに嫉妬して、それを得ようと願う者、
の意味であった(ブリタニカ国際大百科事典)ともある。仏教では、
仏教の正しい法を信ずることなく、悟りを求めないために成仏の素質や縁を欠く者、
仏教の正法を毀謗(きぼう)し、救われる望みのない人、
を意味し(世界大百科事典)、これが、
極欲(ごくよく)、
信不具足(しんふぐそく 信をもたない者)、
断善根(だんぜんこん 善行を断じた者)、
等々と漢訳され(仝上)、
釈尊遮闡提、得人身徒不作善業、聖教嘖空手(「願文(785)」)
と、
解脱の因を欠き、成仏することのできない者、
の意だが(広辞苑)、『楞伽経』では、
この「闡提」には、もとより解脱(げだつ)の因を欠く、
断善闡提、
と、菩薩が衆生(しゅじょう 生きとし生けるもの)を救済する大悲(だいひ)を行って故意に悟りに入らない状態にある、
大悲闡提(または菩薩闡提)、
の2種にわける(精選版日本国語大辞典・日本大百科全書)。
地蔵菩薩、
十一面観音、
のように、
一切のかよわき命総てを救うまではこの身、菩薩界に戻らじ、
との誓願を立て、人間界へ下りた一部の菩薩について、
一斉衆生を救うため、自ら成仏を取り止めてあえて闡提の道を取った仏、
として、一般の闡提とは区別して、
大慈大悲闡提(または大悲闡提)、
と呼称する(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E9%97%A1%E6%8F%90・仝上)とする。
別に、しばらくは成仏できないが仏の威力(いりき)によって成仏するに至る、
有性(うしょう)闡提、
と、けっして成仏することのできない、
無性(むしょう)闡提、
とに分ける場合もある(日本大百科全書)ともある。
一闡提が仏陀になり得るかどうかについては古来重要な論争があった(仝上)が、
衆生の根機をえらばねば、五逆闡提もみなうまる、このゆゑわれら本願に、帰して御(み)なを称念す(「浄業和讚(995~1335)」)、
と、
中国や日本では一闡提でさえも最終的には成仏できるとする説が次第に強くなり、盛んに議論された、
とあり広辞苑)、大乗涅槃経では、
一切衆生悉有仏性、
を説き、いかなる人も成仏する可能性をもつことを強調する天台宗・華厳宗その他大乗の諸宗はこれを肯定するが、法相宗はこれを否定する(世界大百科事典)とある。
(「闡」 説文解字・漢 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E9%97%A1より)
「闡」(セン)は、
会意兼形声。「門+音符單(ひとえ、平ら、奥がない)」、
とあり、「闡発(せんぱつ)」と、あける、開く意と、「闡明」と、明らかにする、意とで使う(漢字源)。
闡は、開也、明也、大也と註す。暗を開き、明らかにするなり、闡幽と用ふ、
とある(字源)。「闡提」の「闡」が音写の所以である。
「提」(漢音テイ、呉音ダイ)は、
会意兼形声。是(ゼ・シ)は「まっすぐなさじ+止(あし)」の会意文字で、まっすぐ進むことをあらわす。提は「手+音符是」で、まっすぐに↑型にひっぱる、差し出すこと、
とある(漢字源)。別に、
会意兼形声文字です(扌(手)+是)。「5本指のある手」の象形と「柄の長く突き出たさじの象形と立ち止まる足の象形」(「柄の長く突き出たさじ」の意味)から「手にさげて持つ」を意味する「提」という漢字が成り立ちました、
ともある(https://okjiten.jp/kanji773.html)。
参考文献;
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
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2022年09月15日
業障
我々は、男身にはかに変じて女身になり候こと、あさましき進退、業障(ごうしょう)深重(じんじゅう)に候(奇異雑談集)、
にある、
業障、
は、
仏教で、悪業をつくって正道を邪魔する三障、または四障の一つ、
と注記がある(高田衛編・校注『江戸怪談集』)。因みに、「深重」(しんじゅう)は、
古くは「じんじゅう」、
とあり、
幾重にもつみ重なる、
意である(精選版日本国語大辞典)。
業障(ごうしょう)、
は、
ごっしょう、
とも訓み、
悪業のさわり、
の意で、
悪業(あくごう)によって生じた障害、
であり、
五逆、十悪などの悪業による罪、
とある(精選版日本国語大辞典・広辞苑)。「五逆」(ごぎゃく)とは、
五逆罪、
ともいい、仏教で説く、
五種の重罪、
ともいい、この五つの重罪を犯すと、もっとも恐ろしい無間地獄(むけんじごく)に落ちるので、
五無間業(ごむけんごう)、
ともいう。その数え方に諸説あるが、代表的なものは、
母を殺すこと、
父を殺すこと、
悟りを開いた聖者(阿羅漢)を殺すこと、
仏の身体を傷つけて出血させること(仏身を傷つけること)、
仏教教団を破壊し分裂させること(僧の和合を破ること)、
とされる。前二者は、
恩田(おんでん 恩に報いなければならないもの)に背き、
後三者は、
福田(ふくでん 福徳を生み出すもの)に背く、
もので、仏法をそしる謗法罪(ぼうほうざい)とともに、もっとも重い罪とされる(日本大百科全書・広辞苑)。
「十悪」(じゅうあく)は、
離為十悪(南斉書・高逸伝論)、
とあるように、
身、口、意の三業(さんごう)が作る十種の罪悪、
の意で、
殺生(せっしょう)・偸盗(ちゅうとう)・邪淫(じゃいん)、
の、
身三(しんさん)、
妄語(もうご)・両舌(りょうぜつ)・悪口(あっく)・綺語(きご)、
の、
口四(くし)、
貪欲(とんよく)・瞋恚(しんい)・邪見(じゃけん)、
の、
意三(いさん)、
をいい、
げに嘆けども人間の、身三・口四・意三の、十の道多かりき(謡曲・柏崎)、
と、
身三口四意三(しんさんくしいさん)、
という言い方をする(精選版日本国語大辞典・広辞苑)。この逆が、
十善(じゅうぜん)、
で、
十悪を犯さないこと、
で、
不殺生・不偸盗(ちゅうとう)・不邪淫・不妄語・不綺語(きご)・不悪口(あっく)・不両舌・不貪欲・不瞋恚(しんい)・不邪見、
といい、
十善業、
十善戒、
十善業道、
という(仝上)。
「三障」(さんしょう)は、
正道やその前段階である善根をさまたげる三つのさわり、
の意で、
煩悩障(ぼんのうしょう 貪欲、瞋恚(しんい)、愚痴(ぐち)などの煩悩)、
業障(ごうしょう 五逆、十悪などの行為)、
報障(異熟障すなわち地獄、餓鬼、畜生の苦報など)、
をいい、「四障」(ししょう)は、
悟りを得るための四つの障害、
の意で、
仏法を信じない闡提(闡提障)、
我見に執着する外道(外道障)、
生死の苦を恐れる声聞(声聞障)、
利他の慈悲心がない独覚(独覚障)、
の四つを言う(「闡提」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/491461201.html?1663096126)については触れた)が、一説に、
惑障(物に迷うこと=煩悩)、
業障(悪業のさわり)、
報障(悪業のむくい)、
見障(邪見)、
ともある。ついでに「五障」というのもあり、
修道上の五つの障害、
を指し、
煩悩障(煩悩(ぼんのう)のさわり)、
業障(ごつしよう 悪業のさわり)、
生障(しようしよう 前業によって悪環境に生まれたさわり)、
法障(ほつしよう 前生の縁によって善き師にあえず、仏法を聞きえないさわり)、
所知障(しよちしよう 正法を聞いても諸因縁によって般若波羅蜜(はんにやはらみつ)の修行ができないさわり)、
をいう(仝上・世界大百科事典)。ただ、信、勤、念、定、慧の五善根にとってさわりとなる、
欺、怠、瞋、恨、怨、
を五障ということもある(仝上)。
こうみると、冒頭の、
仏教で、悪業をつくって正道を邪魔する三障、または四障の一つ、
という注記は少し訂正が必要である。「業障」は、
三障のひとつ、
ではあるが、
四障のひとつ、
とするには異説があるようだ。
「業」(漢音ギョウ、呉音ゴウ)は、「一業所感」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/485653172.html)で触れたように、
象形。ぎざぎざのとめ木のついた台を描いたもの。でこぼこがあってつかえる意を含み、すらりとはいかない仕事の意となる。厳(ガン いかつい)・岩(ごつごつしたいわ)などと縁が近い、
とある(漢字源)が、別に、
象形。楽器などをかけるぎざぎざのついた台を象る。苦労して仕事をするの意か、
とも(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%A5%AD)、
象形。かざりを付けた、楽器を掛けるための大きな台の形にかたどる。ひいて、文字を書く板、転じて、学びのわざ、仕事の意に用いる、
とも(角川新字源)、
象形文字です。「のこぎり状のぎざぎざの装飾を施した楽器を掛ける為の飾り板」の象形から「わざ・しごと・いた」を意味する「業」という漢字が成り立ちました、
ともあり(https://okjiten.jp/kanji474.html)、
ぎざぎざのとめ木のついた台、
が、
のこぎり状のぎざぎざの装飾を施した楽器を掛ける為の飾り板、
と特定されたものだということがわかる。
「障」(ショウ)は、
形声、「阜(壁や塀)+音符章」で、平面をあてて進行をさしとめること。章の原義(あきらか)には関係ない、
とある(漢字源)。遮るの「障害」、防ぐの「堤障」、進行を止めるの「故障」「障壁」、さわりの「罪障」等々と使う。別に、
形声文字です。「段のついた土山」の象形(「丘」の意味)と「墨だまりのついた大きな入れ墨ようの針」の象形(「しるし」の意味だが、ここでは「倉(ショウ)」に通じ(同じ読みを持つ「倉」と同じ意味を持つようになって)、「かくしおおう」の意味)から、丘でかくし「へだてる」を意味する「障」という漢字が成り立ちました、
ともある(https://okjiten.jp/kanji989.html)。
参考文献;
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
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2022年09月16日
洒掃
名をば何と申して、酒掃(さいそう)をいたし、古則法問を糾明し、夜話坐禅をおこたる事なく(奇異雑談集)、
とある、
「酒掃」は、「古則話頭」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/491390938.html?1663096955)でも触れたように、
水をそそぎ、塵を掃っての掃除、禅宗の修行の一つ、
とある(高田衛編・校注『江戸怪談集』)が、
酒掃、
は当て字で、本来は、
塵を掃ひ、水を洒(そそ)ぐこと(大言海)、
意の、
洒掃、
あるいは、
灑掃、
と当てる。「洒掃」は、
夙興夜寝、洒掃廷内(詩経)、
と漢語で、
洒掃応対、
とも使い、
子游曰、子夏之門人小子、當洒掃應對進退、則可矣、抑末也、本之則無、如之何(論語)、
と、
水をまきてはらひきよめ、尊長者の呼ぶに応じ、問いに応ふ、皆年少者の職、
とある(字源)。ここで「応対」は、
来客に対する応対、
の意で、広く、
年少者が学ぶべき、日常生活に必要な家事や作法のこと、
の意で使い(四字熟語辞典)、
洒掃薪水、
という言い方もする(仝上)。『論語』の上記、子游の主張は、
抑末也、本之則無、
と、
洒掃応対、
という末梢的なことだけで、根本的なことはない、
という批判にある。それに対して、子夏は、
子夏聞之曰、噫、言游過矣、君子之道、孰先傳焉、孰後倦焉、譬諸草木、區以別矣、君子之道、焉可誣也、有始有卒者、其唯聖人乎、
と、
君子之道、孰先傳焉、孰後倦焉、譬諸草木、區以別矣
と、
草木と同じく育て方は一様ではない、
と反論している(貝塚茂樹訳注『論語』)。しかし、この、
洒掃、
を、
普請作務のところに、かならず先赴す(正法眼蔵)、
と(「普請」とは「衆を普く請す」こと)、
一作務・二看誦(経)・三坐禅、
のひとつ、
作務(さむ)、
として、
行持(ぎょうじ 仏道修行)のひとつとしたのが、禅宗ということになる。禅宗では、「洒掃」を、
しゃそう、
と訓ませるらしい(http://chokokuji.jiin.com/%E3%80%8E%E6%B4%92%E6%8E%83%E3%81%97%E3%82%83%E3%81%9D%E3%81%86%E3%80%8F/)が、作務は、
作業勤務の略、
と言われ、日課である洒掃(作務)は、静の坐禅に対して、
動の坐禅、
といわれ、
仏の行(ぎょう)として取り組む、
とし、
作務の時は作務に徹する、
ことで、作務が分別する心を生じさせない、
仏行三昧(ぶつぎょうざんまい)、
として、自らが仏として現れる、とある(仝上)。
(作務は)禅院では坐禅と同じく大切な修行です。事務仕事から労働作業に至るまで、日常の様々な労務が作務として行われます。特に小食(朝食)後に行われる作務のことを「日天作務(にってんさむ)」と言い毎日欠かさず行われます。作務の中でも代表的なものが清掃で、水を用いて洗ったり、箒で掃いたりすることから「洒掃(しゃそう)」と言います、
とある(仝上)。
「洒」(漢音サイ・セイ・サ、呉音セ・サイ・シャ)は、
会意兼形声。西は、目の荒い笊を描いた象形文字。栖(ざるのような鳥の巣)の原字。笊の目の間から、細かく水が分散して出ていく。洒は「水+音符西」で、さらさらと分散して水を流すこと、
とあり(漢字源)、「洗」「灑」と同義。「洒掃」と「サイ」と訓むが、「洒脱」と「シャ」とも訓む。
「灑」(漢音サイ・サ、呉音セ・シャ)は、
会意。麗(レイ)は、鹿の角が二本並んで美しいさま。灑は「水+麗(きれいさっぱり)」で、水を流してさっぱりさせること、洒(サイ・シャ)とまったく同じ、
とあり(漢字源)、「灑掃」と「サイ」とも訓むが、「灑脱」(=洒脱)、「瀟灑」(=瀟洒)と「シャ」とも訓む。
「掃」(ソウ)は、
会意兼形声。帚(シュウ・ソウ)は、ほうきを持つさまを示す会意文字。掃は「手+音符箒」で、ほうきで地表をひっかくこと、
とある(漢字源)。
参考文献;
貝塚茂樹訳注『論語』(中公文庫)
簡野道明『字源』(角川書店)
田部井文雄編『四字熟語辞典』(大修館書店)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
2022年09月17日
三昧
宵より夜の明くるまで三昧を鉦(かね)うちたたきて念仏して通りけり(「義殘後覚(ぎざんこうかく)」)、
とある、
三昧、
は、
墓場、
とあり(高田衛編・校注『江戸怪談集』)、
無縁の聖霊を弔はんために、夜な夜な五三昧をめぐり、念仏を思ひ立つ(奇異雑談集)、
は、
平安末期に著名だった洛中の五ヵ所の死体捨て地。五三昧所(ごさんまいしょ)の略、世塚、三条河原、千本、中山、
鳥辺野の五所、
とある(仝上)。「三昧」は、
三昧場の略、
である。
三昧所、
の意とある(大言海)。「三昧」は、
梵語にて、定(ジョウ)の義、入定(ニュウジョウ 入滅)、火定(カジョウ 荼毘)などより云ふ語、
とある(仝上)。で、
荼毘所、
の意もある(仝上・岩波古語辞典)。「定」は、
心を一処に定めて動くことがない、
の意である(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%98%A7)。合類節用集(江戸時代)に、
三昧場(サンマイバ)、本朝俗、斥葬所云爾、西域所謂、尸陀林、是乎、
とある。「尸陀林(しだりん)」は、
寒林、
とも訳し、
中インドのマガダ国の王舎城の北方にあった死者の埋葬所、
をいい、転じて、
死体を埋葬する場所、
を尸陀林というようになり、
屍陀林、
の字をあてている(ブリタニカ国際大百科事典)、とある。
「三昧」は、
梵語samādhiの音訳、
で、
三摩地(サンマジ)、
三摩提(サンマダイ)、
とも当て(大言海)、原意は、
心を一か所にまとめて置くこと、
をいい、
定(ジョウ)・正定(セイジョウ)・等持・寂静(仝上)、
あるいは、
定(ジョウ)・正定(セイジョウ)・止息、寂静、正受(ショウジュ)(大言海)、
平等・正受・正定(字源)、
等々とも訳す。中国の字典『祖庭事苑(そていじえん)』(宋代)には、
亦云正受、謂正定不亂、能受諸法、
とある。
心を一所に住(とど)めて、動かざること、妄念を離れて、心を寂静にし、我が心鏡に映じ来る諸法の実相を、諦観する、
意で、
禅定(ゼンジョウ)、
ともいう(大言海)。金剛経・註に、
導云真一、儒云致一、釋云三昧、
とある。で、
法華経を読誦(どくしょう、古くは、とくしょう)して、専心に、其妙理を観念すること、
を、
法華三昧(ほっけざんまい・ほっけさんまい)、
というが、転じて、
途中にして此の二人の沙彌、俄に十八変を現じ、菩薩普現三昧(ざんまい)に入て、光を放て、法を説き、前生の事を現ず(今昔物語集)、
と、
精神を統一、集中することによって得た超能力、
の意で使ったりするが、
晩来狩野大炊助来云、此五六十日在大津。与京兆同所。件々彼三昧話之。実異人也(蔭凉軒日録)、
と、
物事の奥義を究め、その妙所を得ること、
の意でも使う。
高眠得茶三昧、夢断已窓明(陸游詩)、
の注解に、
得妙處曰得三昧、柳子厚詩、共傾三昧酒(註「三昧、唐言、正受」)(書言故事)、
ともある。そこから、
専心、
の意の、
俗に、他念なく、其の事を行ふこと、一途に其の事に心を傾くること、
の意で使い(大言海)、江戸後期の『俗語考』(橘守部)に、
歌三昧、仏三昧など平語にも云へり、
江戸中期の国語辞書『俚言集覧』(太田全斎)には、
俗、常に、他念なき事を云へり、……又俗に、何三昧と云ふ語あり、酒狂にて、刃物を抜きたるを刃物三昧と云ふ類なり(是れは、ややもすれを行ふ意なり)、婆さんは、念仏ざんまい、
とある。さらに転じて、
紙子着て川へ陥(はま)らうが、油塗て火に焼(くば)らうが己(うぬ)がさんまい(女殺油地獄)、
と、
心のままなること、勝手、放題、
の意ですら使う。
しかし、「三昧」は、本来、仏教語として、念仏や誦経の場に用い、
阿彌陀三昧、
法華三昧、
といった用い方、また、
一心不乱に仏事を行なう、
意の、
三昧、
で使うのが一般的であった。そこから、広く、
精神を統一、集中する、
意が派生し、近世以降、この仏教的意味の翳から離れて、
ある一つのことだけを(好き勝手に)する、
心のままである、
といった意味を派生し、
ざんまい、
と濁音化し、
放蕩三昧、
悪行三昧、
等々、多く名詞と結びついて用いられるようになった(精選版日本国語大辞典)とある。たとえば、
朝夕弓矢三昧ぞ(古活字本荘子抄)、
と、
その事に専心、または熱中する、
意を表わしたり、
遺恨あらば折こそあらめ、今、時宗に向っての太刀ざんまい(浄瑠璃・頼朝浜出)、
と、
そのことをもっぱら頼りにしたり、その方向に一方的に傾いたりする、
意を表わしたりした(仝上)。
「三」(サン)は、「三会」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/484736964.html)で触れたように、
指事。三本の横線で三を示す。また、参加の參(サン)と通じていて、いくつも混じること。また杉(サン)、衫(サン)などの音符彡(サン)の原形で、いくつも並んで模様を成すの意も含む、
とある(漢字源)。また、
一をみっつ積み上げて、数詞の「みつ」、ひいて、多い意を表す、
ともある(角川新字源)。
「昧」(漢音バイ、呉音マイ)は、
会意兼形声。未(ミ・ビ)は、小さくて見えにくい梢のこと。昧は「日+音符未」、
とある(漢字源)。「暗」「冥」は類義語、「くらい」意である。別に、
会意形声。「日」+ 音符「未」で、未まだ日ひが昇らず「くらい」こと、
とも(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%98%A7)、
会意兼形声文字です(日+未)。「太陽」の象形と「木に若い枝が伸びた」象形(「若い、まだ小さい、はっきり見えない」の意味)から、「暗い」、「夜明け」を意味する「昧」という漢字が成り立ちました、
とも(https://okjiten.jp/kanji2073.html)ある。
参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
簡野道明『字源』(角川書店)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
2022年09月18日
東司
僧は入る由して、脇へはづして、東司(とうす)のうちに隠れ居て、よく見れば(奇異雑談集)、
にある、
東司、
は、
禅家での称、厠のこと、
である(高田衛編・校注『江戸怪談集』)。
登司、
とも当てる(大言海・精選版日本国語大辞典)。
スは唐音、
とある(岩波古語辞典)。
東浄(とうちん)、
ともいう。
チンは唐宋音、
である(世界宗教用語大事典)。もと、本堂の両側にあって、
東司(東浄)、
西司(西浄)、
といい、使用者は役職により分けられており、
東序者知事。西序者頭首。此謂両班也(「禅林象器箋(1741)」)、
とあるように、禅家で、
仏殿・法堂でならぶ諸役僧の座位を東西に分け、
「東序」は、、
法堂・仏殿の東側に並ぶ、都寺(つうす)・監寺(かんす)・副寺(ふうす)・維那(いの)・典座(てんぞ)・直歳(しっすい)などの六知事(雑事や庶務をつかさどる六つの役職)、
のいるところを指し、
東班、
ともいう(精選版日本国語大辞典)。「西序」(せいじょ)は、
中央の仏壇に向かって左すなわち西側に並ぶ、首座、書記、知浴、知殿等の六頭首(ちょうしゅ 知事に対して修道の方面を掌る)、
のいるところをさす(デジタル大辞泉・仝上)が、のち西司をも東司と呼ぶようになった、とある(仝上)。
東司、
の語を使うのは曹洞宗で、臨済宗では、
雪隠、
といい、
烏蒭沙摩(ウズサマ)の真言は東司にて、殊に誦すべきなり、……不動明王の垂迹として不浄金剛と號して、東司の不浄の時、鬼若し人を悩ます事あらば、守護せん爲御誓なり(鎌倉後期の仏教説話集「雑談集」)、
とあるように、
不浄を清める烏蒭沙摩明王(うすさまみょうおう・うすしまみょうおう)、
が祀られ、
登司同郭登、厠神也(明『事物異名』)、
と、東司はもともと、
便所の守護神、
のことを指した(仝上)。因みに、「烏蒭沙摩」は、
烏枢沙摩、
烏枢瑟摩、
烏瑟娑摩、
とも表記し、
不浄潔金剛、
火頭金剛、
穢積(迹)金剛、
不壌金剛、
受触金剛、
ともいう。
いっさいの不浄や悪を焼きつくす霊験のある明王として、死体や婦人の出産所、動物の血の汚れを祓う尊としての信仰が主流、
で、
真言宗や禅宗では東司(とうす)すなわち便所の守護神としてまつられている場合が多い、
とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%83%8F%E6%9E%A2%E6%B2%99%E6%91%A9%E6%98%8E%E7%8E%8B・世界大百科事典)。
日常すべて修行とする禅においては、
便所すら心身練磨の道場であり、禅堂・浴室とともに、静謐を旨とし、私語を交わしたり、高声を発してはならない、
三黙道場、
の一つとされる(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E5%8F%B8)。使用にあたっては入り方・衣のさばき方・しゃがみ方などの作法や、唱える偈文などが細かく規定されている(仝上)という。
「東司」の遺構で、現存かつ実際に使用されているものの一つに、
東福寺の東司、
がある。室町時代唯一、日本最大最古の禅宗式の東司とされる(仝上)。
「東司」は、寺院を構成する七つの施設である、
七堂伽藍、
の一つであるが、伽藍は、
サンスクリット語 saṃghārāmaの音写である僧伽藍の略、
で、
インド本来の意味は、修行者たちが住する園林、
であるが、中国、日本では一般に、
僧侶の住む寺院堂舎の称、
で、後世、一つの伽藍には7種の建物を備えなければならないとし、「七」は、
数量を表すのではなく、必要なものがみな備わっている、
という意味で(旺文社日本史事典)、これを、
七堂伽藍、
という。七堂の名称や配置は時代や宗派によって一定していないが、鎌倉時代の『古今目録抄』には、
塔、金堂、講堂、鐘楼、経蔵、僧坊、食堂(じきどう)、
の7種を伽藍としており、普通は、この、
塔・金堂・講堂・鐘楼・経蔵・僧房・食堂(じきどう)、
をいうが、禅宗では、
法堂・仏殿・山門・僧堂・庫院・西浄・浴室、
をいい、曹洞宗の永平寺では、
法堂(はっとう)・仏殿・僧堂・庫院(くいん 台所)・東司・三門・浴室、
をさす。南都六宗では、
金堂(こんどう)・講堂・塔・食堂(じきどう)・鐘楼(しょうろう)・経蔵・僧坊、
をいい、天台宗では、
中堂・講堂・戒壇堂・文殊楼(もんじゅろう)・法華堂・常行堂・双輪橖(そうりんどう)、
をいう(日本大百科全書・精選版日本国語大辞典)。
(「東」 甲骨文字・殷 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%9D%B1より)
「東」(漢音トウ、呉音ツウ)は、
象形。中に芯棒を通し、両端をしばった袋の形を描いたもの。「木+日」の会意文字と見る旧説は誤り。囊(ノウ ふくろ)の上部と同じ。太陽が地平線を通して突き抜けて出る方角。「白虎通」五行篇に、「東方者動方也」とある、
とある(漢字源)。別に、
象形。両端を縛った袋の形を象る。もと「束」と同字で、「しばる」「たばねる」を意味する漢語{束 /*stok/}を表す字。のち仮借して「ひがし」を意味する漢語{東 /*toong/}に用いる、
とも(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%9D%B1)、
象形。上下をくくったふくろの形にかたどる。借りて、日がのぼる方角の意に用いる(角川新字源)、
とも、
象形文字です。「袋(ふくろ)の両端を括(くく)った」象形から、袋を動かし万物を眠りから動かす太陽の方角「ひがし」を意味する「東」という漢字が成り立ちました、
ともある(https://okjiten.jp/kanji148.html)が、「束」の象形が、なぜ「東」とされたのかよくわからない。
「司」(漢音呉音シ、唐音ス)は、
会意。「人+口」。上部は、人の字の変型。下部の口は、穴のこと。小さい穴からのぞくことをあらわす。覗(シ のぞく)や伺(シ うかがう)・祠(シ 神意をのぞきうかがう→まつる)の原字。転じて、司祭の司(よく一事をみきわめる)の意となった、
とある(漢字源)。別に、
象形。天から降りて来た神に、口でことばを告げる形にかたどる。「祠(シ まつる)」の原字。まつることから転じて、「つかさどる」意を表す、
とも(角川新字源)、
会意文字です。「まつりの旗」の象形と「口」の象形(「祈りの言葉」の意味)から、祭事をつかさどる、すなわち、「つかさどる(役目とする)」を意味する「司」という漢字が成り立ちました、
ともある(https://okjiten.jp/kanji620.html)。
参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
2022年09月19日
雑談
ある人、雑談(ぞうたん)にいはく、女人の執心、忽ちに蛇になりし事(奇異雑談集)、
などとある、
雑談、
は、
用談に対す、
とあり(大言海)、
種々の要用(ようよう)ならぬ話、
つまりは、
重要であること、
必要であること、
とは関わらない、
むだ話、
とりとめのない話、
つまり、今日でいう、
雑談(ざつだん)、
である。
「雑談(ザツダン)」は漢語である。
よもやまの話、
の意で(「四方山話」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/456319981.html)については触れた)、
相見無雑言、但道桑麻長(陶濳)、
と、
雑言(ゾウゲン)、
も同義である。
「悪行雑言」というような、ののしる意で「雑言」を使うのはわが国だけで、「罵詈雑言」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/443722588.html)で触れたように、わが国でも、
諷諫の後、已に雑言(ざふごん)に及び、風月の事、和歌の興、言雜せらるるの間(中右記)、
と、
雑談、
の意で使っているが、後に、
無益(むやく)の殿ばらの雑言かな(平家物語)、
と、
悪態、
悪口、
の意に転じている。億説かもしれないが、どうやら、日本で、
雑談→よもやま話→わけのわからない物言い→うわごと→讒言→悪口、
といったように変じたらしいのである。「雑言」の意味変化と並ぶように、「雑談」も、
夫婦の語ひなんどとは勿躰至極の雑談(ザフダン)(浄瑠璃・「丹生山田青海剣(1738)」)、
と、
種々の悪口。無礼な言葉。雑言(ぞうごん)、
の意で使われた例もあるが、あまり一般的ではないようだ。
「雑談」という表記は平安期の古記録に見いだせ、
ざふたん、
つまり、
ぞうたん、
と訓ませるが、日葡辞書にも、
Zǒtan(ザウタン)、
とあり、古くは、
ゾウタン、
と訓み、江戸時代中期ごろから、
ゾウダン、
の訓みが出現し、明治になって、
ザツダン、
ゾウダン、
が並用され、
ザツダン、
が一般化するのは明治中期から末期にかけてである(精選版日本国語大辞典)とある。
此の雑談(ぞうたん)、奇異の儀にあらずといへども、火焔の中において、その真実をみる事、ふしぎにあらずや(奇異雑談集)、
とある「雑談」は、
世間話(せけんばなし)、
に近く、この形式の、
口承形式で伝えられてきた民話、
との関連で、
説話文学、
とつながり、平安末から鎌倉初期の三井寺(みいでら)関係の説話集、
雑談鈔、
鎌倉末期の無住編の説話集、
雑談集(ぞうたんしゅう)、
がある。また、鎌倉時代以降、芸道の同好の士が寄合で交わした芸談も、
雑談(ぞうたん)、
といい、其角の俳諧評釈書に、
雑談集、
があるが、南北朝期の頓阿(とんあ・とんな)の歌論書『井蛙抄(せいあしょう)』は、
雑談記、
和歌雑談聞書、
などと呼ばれることがあり、戦国時代の猪苗代兼載(いなわしろけんさい)の歌論・連歌論書も、
兼載雑談、
である(百科事典マイペディア)。なお、
雑談のなかで語られた芸の秘訣や苦労話など、有用な談話を書き留めてまとめたものを、
聞書、
という(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%91%E8%AB%87)とある。
(「雜」 簡牘(かんどく)文字(「簡」は竹の札、「牘」は木の札に書いた)・戦国時代 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E9%9B%9Cより)
「雑(雜)」(慣用ザツ・ゾウ、漢音ソウ、呉音ゾウ)は、
会意兼形声。木印の上は衣の変形、雜は、襍とも書き、「衣+音符集」で、ぼろぎれを寄せ集めた衣のこと、
とある(漢字源)。混ぜ合わせることを意味する、ともある(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E9%9B%9C)。別に、
形声。意符衣(ころも)と、音符集(シフ→サフ)とから成る。いろいろのいろどりの糸を集めて、衣を作る意を表す。ひいて「まじる」意に用いる、
とも(角川新字源)、
会意兼形声文字です(衣+集)。「衣服のえりもと」の象形(「衣服」の意味)と「鳥が木に集まる」象形(「あつまる」の意味)から、衣服の色彩などの多種のあつまりを意味し、そこから、「まじり」を意味する「雑」という漢字が成り立ちました、
ともある(https://okjiten.jp/kanji875.html)。
「談」(漢音タン、呉音ダン)は、
会意兼形声。「言+音符炎(さかんな)」で、さかんにしゃべりまくること、
とある(漢字源)。おだやかに「かたる」意(角川新字源)ともある。ただ、「炎」は、
火が盛んに燃える様で、盛んに話すの意、
とあり(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E8%AB%87)、
会意兼形声文字です(言+炎)。「取っ手のある刃物の象形と口の象形」(「(つつしんで)言う」の意味)と「燃え立つ炎」の象形(「盛んに燃え上がる炎」の意味)から、さかんに交わされる言葉、「かたり」を意味する「談」という漢字が成り立ちました、
と考えられる(https://okjiten.jp/kanji448.html)。
参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
2022年09月20日
竜灯
毎月に三度参詣し、通夜して仏前に夜もすがら横寝せず、称名念仏し給へば、竜灯をしげくみるといへり(奇異雑談集)、
にある、
竜灯は、
夜、海上に光が連なって見える現象(大辞泉)、
海中の燐火の、時として、燈火の如く連なり光りて現るるもの(大言海)
をいい、
竜神が神仏にささげる灯火といい伝え、各地の神社に伝説があるが、特に九州の有明海や八代海で、盆の前後や大晦日に見られるものが有名、
とあり、
蜃気楼現象で、漁火の光の異常屈折現象、
ともいわれ、
不知火(しらぬい)、
ともいい(日本国語大辞典)、
磐城(福島県浜通り)の閼伽井(アカヰ)の火、最も名あり(大言海)、
という、
怪火、
の意と共に、
神社に奉納する灯籠。
神社でともす灯火、
つまり、
神灯、
の意もある(広辞苑・仝上)。上述の「奇異雑談(ぞうたん)集」には、つづいて、
竜灯とは、橋立の切戸(きれと)二丁ばかりの中に、俄かに一段ふかき所あり。是を竜宮の門なりといひつたへたり。天気よく波風なき夜、切戸よりともし火出でて、文殊の御前にまゐる。無道心の人は、みる事まれなり。あるひはみて漁火なり、といふ人もあり。文殊堂の前、二十間ばかり南に、高き松あり。その上に竜灯住(とま)るなり。半時ばかりありて消ゆ。あるひははやくも消ゆるなり。もし松の上に童子ありて、ともし火をささぐる事あり、是をば天灯(てんどう)といふなり。昔は天灯しげかりしが、今は稀なりといへり、
と説いている(奇異雑談集)。ここの「文殊」とは、九世戸の文殊堂のことで、
五台山知恩寺、文殊堂周辺には海が入り込み、切戸の文殊とも称された。久世戸の呼称は、切戸・渡の意と、「くし(奇)び」の意が重なって成立したものらしい、
と注記がある(高田衛編・校注『江戸怪談集』)。「松の灯火」は、
竜とか竜神などが火を献じ、松の木の頂にそれを点じたという由来をもつ松を、
竜灯松、
と呼ぶものと関りがありそうである。多くは、
松の木、
で、杉だと、
竜灯杉、
と呼ばれ、そういう名称を持つ木は各地に伝わる(日本伝奇伝説大辞典)。その一つに、
枝幹屈曲して、龍の臥せるが如く、實に数百歳の樹なり、この所より海上にうかぶ龍燈を拝するが故に名とす、龍燈は、正月元日より三日、又は六日、風静かに波穏かなるとき、大宮の沖手に現ず、
とある(厳島図会・龍燈杉)。
(「竜灯松」(西国三十三所名所図会) 日本伝奇伝説大辞典より)
「竜灯」は、
龍燈、
龍灯、
等々とも表記されるが、
竜が水と密接な関係を持ち、海の神そのものとして、水の管理を司る農業神の性格をもっている、
とされる点から考えると、「海上の火」とは、
海神の化身である竜の献じた火、
を意味していると解釈される(仝上)。柳田國男は、その由来を、
「竜燈と云ふ漢語はもと水辺の怪火を意味して居る。日本でならば筑紫の不知火、河内の姥が火等に該当する。時あつて高く喬木の梢の辺を行くなどは、怪火としては固より怪しむに足らぬが、常に一定の松杉の上に懸かると云ふに至つては、則ち日本化した竜燈である。察する所五山の学僧などが試に竜燈の字を捻し來つて此燈の名としたのが最初で、竜神が燈を献じたと云ふ今日の普通の口碑は、却つて其後に発生したものであらう。各地の山の名に燈籠塚山、又地名として燈籠木などと云ふのがあるが、竜燈松の昔の俗称は多分それであらふと思ふ」(竜燈松伝説)
とし、更に、竜燈松(杉)は、
神の降臨の際の目印とした柱松(柱の上に柴などをとりつけておき、下から小さいたいまつを投げて点火させる、盆の火焚き行事)に発展する、
と考え、これが、
トンド焼、
左義長、
の風習につながる、と見なした(日本伝奇伝説大辞典)。
(「竜燈」(竜斎閑人正澄画『狂歌百物語』) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BE%8D%E7%87%88より)
しかし、南方熊楠は、龍灯伝説の起源を、
インド、
とし、
自然の発火現象を人心を帰依せしめんとした僧侶が神秘であると説き、それが海中から現れ空中に漂う怪火を龍神の灯火とする伝承があった中国に伝わって習合し、更に中国に渡った僧侶によって日本に伝来、同様の現象を説明するようになった、
とし、また左義長や柱松は、
火熱の力で凶災を避けるもの、
龍灯は、
火の光を宗教的に説明したもの、
で、
熱と光という火に期待する効用を異にした習俗、
であると説いた(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BE%8D%E7%87%88)とある。是非は判断がつかないが、中国同様に、龍神の灯火とみるわが国では、たやすく受け入れられたとみられる。
「龍」(漢音リョウ、呉音リュウ、慣用ロウ)は、「神龍忽ち釣者の網にかかる」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/485851423.html)で触れたように、
象形。もと、頭に冠をかぶり、胴をくねらせた大蛇の形を描いたもの。それにいろいろな模様を添えて、龍の字となった、
とある(漢字源)。別に、
象形。もとは、冠をかぶった蛇の姿で、「竜」が原字に近い。揚子江近辺の鰐を象ったものとも言われる。さまざまな模様・装飾を加えられ、「龍」となった。意符としての基本義は「うねる」。同系字は「瀧」、「壟」。古声母は pl- だった。pが残ったものは「龐」などになった、
ともある(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E9%BE%8D)。
「灯(燈)」(①漢音呉音トウ、②漢音テイ、呉音チョウ、唐音チン)は、
音によって意味が異なり、①は「燈」(=鐙)、「灯火」「法灯」というように、ともしび、あかり、ひ、それを喩えとした仏の教え、の意であり、②は「灯」、ひ、ともしび、ひと所にとめておくあかり、
の意とあり、①「燈」は、
会意兼形声。登は「両足+豆(たかつき)+両手」の会意文字で、両手でたかつきを高くあげるように、両足で高くのぼること。騰貴(のぼる、あがる)と同系のことば。燈は「火+音符登」で、高くもちあげる火、つまり高くかかげるともしびのこと、
とあり、②「灯」は、
会意兼形声。灯は「火+音符丁(=停、とめおく)で、元(ゲン)・明(ミン)以来、燈の字に代用される、
とある(漢字源)。同趣旨は、
(A)形声。火と、音符丁(テイ)とから成る。もと、燃えさかる火の意を表したが、俗に燈の意に用いる。教育用漢字はこれによる、
(B)形声。火と、音符登(トウ)とから成る。「ともしび」の意を表す、
ともある(漢字源)。「燈」を「灯」の旧字と見なして、
会意兼形成文字です(火+登)。「燃え立つ炎」の象形(「火」の意味)と「上向きの両足の象形と祭器の象形と両手の象形」(祭器を持って「上げる」、「登る」の意味)から、「上に登る火」を意味する「燈」という
漢字が成り立ちました、
とする説がある(https://okjiten.jp/kanji96.html)が、上述の説明からみて、「燈」→「灯」と略字化したと見るのは、明らかに誤っているのではないか。
参考文献;
乾克己他編『日本伝奇伝説大辞典』(角川書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95