不孝無残のともがらが、懺悔のこころもなき身として、禅定するこそもったいなし(善悪報ばなし)、
にある、
禅定、
は、仏教語で、
霊山に登り修行すること、
とある(高田衛編・校注『江戸怪談集』)が、ちょっとわかりづらい。「禅定」に、
禅定する、
という言い方があり、これは、
かくて立山禅定(ゼンヂャウ)し侍りけるに(「廻国雑記(1487)」)、
と、
修験(しゅげん)道で、富士山・白山・立山などの霊山に登って修行すること、
の意で使い(広辞苑)、この背景に、
高い山が信仰登山の対象となったところから、「禅定」が、
客人宮は、十一面観音の応作、白山禅(セン)定の霊神也(太平記)、
と、
高い山の頂上、
霊山の頂上、
の意を持ったためと思われる。もっとも、この場合、
ぜっちょうの訛音ならむ(和訓栞)、
と、絶頂の転訛とする説もあるが(大言海)。
「禅定」は、本来、
禅に同じ、
とある(岩波古語辞典)。「禅」は、
梵語dhyānaの音写、
とされ、その音訳、
禅那の略、
で(大言海)、
静慮、定・禅定などと訳す、
とある(岩波古語辞典)。つまり、「禅定」には、
禅と定、
の意味が重なっているらしく、
「禅」と「定」の合成語、
とあり(精選版日本国語大辞典)、「禅定」は、
dhyānaの訳語であるが、また、dhyāna を音訳した「禅那」を略した「禅」を「定」と合成したもので、「定」はもとsamādhi の訳語で、心を一つの対象に注いで、心の散乱をしずめるのが「定」、その上で、対象を正しくはっきりとらえて考えるのが「禅」、
とある(仝上)。「定」と訳すSamādhiは、「三昧」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/491525087.html?1663354987)で触れたように、「三昧」とも訳されたりする。「禅定」は、
心を一点に集中し、雑念を退け、絶対の境地に達するための瞑想、また、その心の状態、
をいい(広辞苑・精選版日本国語大辞典)、
禅定に入る、
という言い方をする(仝上)が、
如来。無礙力無畏禅定解脱三昧諸法皆深成就故。云広大甚深無量(法華義疏)、
と、
散乱する心を統一し、煩悩の境界を離れて、静かに真理を考えること、
である(岩波古語辞典)。
入定(にゅうじょう)三昧、
ともいう(大言海)。「入定」は、
禅定(ぜんじょう)の境地にはいること、
をいう。
これは、大乗仏教の修行法である、
六波羅蜜の第五、
また、
三学(さんがく 戒・定・慧)の一つ、
である(精選版日本国語大辞典)とされ、仏道修行の、
三学、
六波羅蜜、
の一つとされる。「三学(さんがく)」は、
仏道修行者が修すべき三つの基本的な道、
つまり、
戒学(戒学は戒律を護持すること)、
定学(精神を集中して心を散乱させないこと)、
慧学(煩悩を離れ真実を知る智慧を獲得するように努めること)
をいう。この戒、定、慧の三学は互いに補い合って修すべきものであるとし、
戒あれば慧あり、慧あれば戒あり、
などという(仝上・ブリタニカ国際大百科事典)。この三学が、大乗仏教では、基本的実践道である六波羅蜜に発展する。「波羅蜜(はらみつ)」は、
サンスクリット語のパーラミター pāramitāの音写、
で、「六波羅蜜(ろくはらみつ)」は、
大乗仏教の求道者が実践すべき六種の完全な徳目、
布施波羅蜜(施しという完全な徳)、
持戒波羅蜜(戒律を守るという完全な徳)、
忍辱波羅蜜(にんにくはらみつ 忍耐という完全な徳)、
精進波羅蜜(努力を行うという完全な徳)、
禅定波羅蜜(精神統一という完全な徳)、
般若波羅蜜(仏教の究極目的である悟りの智慧という完全な徳)、
を指し、般若波羅蜜は、他の波羅蜜のよりどころとなるもの、とされる(仝上)。
なお、禅定の四段階については、「三界」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/491997710.html?1664651664)で触れた。なお、「三昧」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/491525087.html?1663354987)で触れたように、「三昧」は、
梵語samādhiの音訳、
で、
定(ジョウ)・正定(セイジョウ)・等持・寂静(大言海)、
と訳し、
心を一所に住(とど)めて、動かざること、妄念を離れて、心を寂静にし、我が心鏡に映じ来る諸法の実相を、諦観する、
意で、
禅定(ゼンジョウ)、
ともいう(大言海)。
(「禪」 説文解字・漢 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%A6%AAより)
「禪(禅)」(漢音セン、呉音ゼン)は、
会意兼形声。「示(祭壇)+音符單(たいら)」で、たいらな土の壇の上で天をまつる儀式、
とある(漢字源)。別に、
形声。示と、音符單(セン、ゼン)とから成る。天子が行う天の祭り、転じて、天子の位をゆずる意を表す。借りて、梵語 dhyānaの音訳字に用いる、
とも(角川新字源)、
形声文字です(ネ(示)+単(單))。「神にいけにえを捧げる台」の象形と「先端が両またになっているはじき弓」の象形(「ひとつ」の意味だが、ここでは、「壇(タン)」に通じ(同じ読みを持つ「壇」と同じ意味を持つようになって)、「土を盛り上げて築いた高い所」の意味)から、「壇を設けて天に祭る」を意味する「禅」という漢字が成り立ちました、
とも(https://okjiten.jp/kanji1666.html)ある。
「定」(漢音テイ、呉音ジョウ)は、「定力」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/485898873.html)で触れたように、
会意兼形声。「宀(やね)+音符正」で、足をまっすぐ家の中に立ててとまるさまを示す。ひと所に落ち着いて動かないこと、
とある(漢字源)が、
形声。宀と、音符正(セイ)→(テイ)(𤴓は誤り伝わった形)とから成り、物を整えて落ち着かせる、ひいて「さだめる」意を表す、
とも(角川新字源)、
会意形声。「宀」+音符「正」、「正」は「一」+「止(=足)」で目標に向け進むこと、それが、屋内にとどまるの意。「亭」「停」「鼎」「釘」と同系、
とも(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%AE%9A)、
会意兼形声文字です(宀+正)。「屋根・家屋」の象形と「国や村の象形と立ち止まる足の象形」(敵国へまっすぐ突き進むさまから、「まっすぐ」の意味)から、家屋がまっすぐ建つ、すなわち、「さだまる」を意味する「定」という漢字が成り立ちました、
とも(https://okjiten.jp/kanji520.html)ある。
参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95