2022年10月30日
面(おも)なし
知康、昨日今日の者にてあれども、声悪しからぬうへに、面なく歌ふほどに、習ひたるほどよりは上手めかしき所ありて、悪しくもなし(佐々木信綱校訂『梁塵秘抄』)、
にある、
面(おも)な(無)し、
は、
恥じる様子がないさま、
あつかましい、
押しが強く平気である、
意とある(馬場光子全訳注『梁塵秘抄口伝集』)。
顔の意味の「おも」と形容詞「なし」とが結び付いてできた語、
とあり(精選版日本国語大辞典)、
臣未だ勅の旨を成さずして、京郷(みやこ)に還(まてこ)ば、労(ねぎら)へられて往きて、虚しくして帰れるなり。慚(はつか)しく悪(オモナイ)こと安(いずく)にか措(お)かむ(「日本書紀(前田本訓)」)、
はしたなかるべきやつれをおもなく御らんじとがめられぬべきさまなれば(源氏物語)、
などと、
(自分自身の事柄に関して)恥ずかしく、人に合わせる顔がない、
面目ない、
おもはゆい、
という意味である。上代では、すべてこの意であったが、中古になると、この意の例はまれになり、一般に第三者の立場からの、
おもなき事をば、はぢを捨つるとは言ひける(竹取物語)、
すこし老いて、物の例知り、おもなきさまなるも、いとつきづきしくめやすし(枕草子)、
と、
(他人の言動に関して)恥ずべきさまである、
恥知らずである、
あつかましい、
臆面(おくめん)もない、
また、
物怖じしない、
の意を表わすものとなった(精選版日本国語大辞典)。ただし、
中世、近世の擬古的文章では、再び、
(自分自身の事柄に関して)恥ずかしく、人に合わせる顔がない、
意にも用いられるようにもなっている(仝上)、ともある。つまり、自分自身の、
自責(自己評価)の価値表現、
から、
他責(他者評価)の価値表現、
へと180度転換したことになる。その意味で、上述の引用の「面なし」について、
例えば『今昔物語集』に「はかばかしくもなからむ言を、面無くうち出でたらむは」と使われるように、否定的な語感を拭い切ることはできない。それによる「上手めかしきところ」も、あくまで「めかす」のである。選び取られたこれらの言葉のニュアンスは、実質とは別の押しの強さで己の位置を築いた知康(平知康 北面、左衛門尉)の本質と通底するところである、
と、
押しが強く平気である、
との含意を補足している(馬場光子全訳注『梁塵秘抄口伝集』)。
この、
(自分自身の事柄に関して)恥ずかしく、人に合わせる顔がない、
の意の、
面なし、
の対になるのは、
面立(おもだた)し、
になる。「おもだたし」は、
おもたたし、
ともいい、
世間に対して顔が立つように感じる、
意とあり(岩波古語辞典)、
面目の意か、目ダタシキと同意(河海抄)、
とも、
面立(オモタテ)しの轉(轉(ウタテ)、うたた)にて、オモテオコシなどとも同意の語なるか、或は、重立つの未然形の、オモダタを活用させたる語か、うらやむ、うらやまし(大言海)、
ともあるが、いずれも、主体の、
面目が立つ、
意と重なり、
大すにまじらはんに、をもたたしく侍るべきもなく(宇津保物語)、
と、
身の光栄に思う、
面目が立つ、
はれがましい、
意で、主体的感情という意味で、
面なし、
と対になる。さらに、それが、
おもたたしき腹にむすめかしづきてげにきずなからむとおもひやりめでたきがものし給はぬは(源氏物語)、
と、客体評価へと転じていくのも「面なし」の意味変化と似ている。
「面」(漢音ベン、呉音メン)は、「面桶」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/491684942.html)で触れたように、
会意。「首(あたま)+外側をかこむ線」。頭の外側を線でかこんだその平面を表す、
とあり(漢字源)、
指事。𦣻(しゆ=首。あたま)と、それを包む線とにより、顔の意を表す(角川新字源)、
指事文字です。「人の頭部」の象形と「顔の輪郭をあらわす囲い」から、人の「かお・おもて」を意味する「面」という漢字が成り立ちました(https://okjiten.jp/kanji541.html)、
も、漢字の造字法は、指事文字としているが、字源の解釈は同趣旨。別に、
仮面から目がのぞいている様を象る(白川静)、
との説(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E9%9D%A2)もある。
参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95