汝知らずや。九尾誅せられて千載にも許し無き事を。誰か汝が妖媚を厭ひ憎まざらん(伽婢子)、
にある、
九尾、
とは、
九尾の狐の故事、天竺では班足(はんそく)太子の塚の神、唐土では周の幽王の后褒姒(ほうじ)、また殷の紂王の妲己(だっき)、日本に渡来して鳥羽院の寵姫玉藻前(たまものまえ)となって、院を悩ました妖狐は九つの尾をもっていたという伝説。那須野で射殺されて殺生石となったとする、
とある(高田衛編・校注『江戸怪談集』)。
「九尾の狐」は、
九尾の狐(きゅうびのきつね)、
または、
九尾狐(きゅうびこ)、
九尾狐狸(きゅうびこり)、
と呼ばれる、中国に伝わる伝説上の、
9本の尾をもつキツネの霊獣、
で(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E5%B0%BE%E3%81%AE%E7%8B%90)、中国の各王朝の史書では、九尾の狐はその姿が確認されることが、泰平の世や明君のいる代を示す、
瑞獣、
とされ、『周書』や『太平広記』など一部の伝承では天界より遣わされた、
神獣、
とされる(世界大百科事典)。伝説時代から戦国時代の魏の襄王に至るまでを著述した、史記と並ぶ中国の編年体の歴史書『竹書紀年』(ちくしょきねん)には、
夏(か)の伯杼子が東征して〈狐の九尾なる〉を得た、
とあり(仝上)、戦国時代から秦朝・漢代にかけて徐々に付加執筆されて成立した『山海経』「大荒東経」には、
有青丘之國、有狐而九尾、
とあり、
東方の霊獣、
と考えたらしい。西晋・東晋の文学者・卜者、郭璞は、
太平則出而為瑞也、
と言っている。また、後漢の『白虎通(白虎通義)』(班固・編集)にも、
徳至鳥獣、則九尾狐見、九者子孫繁息也、於尾者後當盛也、
とあり、後漢初期の『呉越春秋』(趙曄)には、
禹(う)は九尾狐を見て塗山氏の娘をめとった、
とあるように、こうした祥瑞の観念の背後には、
婚姻と子孫の多産などの生命力に関する信仰があった、
と考えられる(仝上)。九尾を瑞祥とする考えは、我が国の、「延喜治部省式」祥瑞上瑞に、
九尾狐、神獣也、其形、赤色、或白色、音如嬰児、
とあり、やはり同じ考え方が伝来したものと見ていい。
これが後世、
元の時代の『武王伐紂平話』や明の時代の『春秋列国志伝』などで、殷王朝を傾けたとされる美女・妲己の正体が九尾の狐(九尾狐、九尾狐狸)であるとされている
など(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E5%B0%BE%E3%81%AE%E7%8B%90)、九尾狐は、
千年修行すると尾が一本増え、一万年修行をすると黒かった毛が白くなる、
などと妖獣とされていくことになる。
日本でも、上述のように、『延喜式』の治部省式祥瑞に、
神獣なり、その形赤色、或いはいわく白色、音嬰児の如し、
と同様の受け止め方であったものが、中国志怪小説の影響で、
邪悪な妖怪、
とされ、玉藻前の正体が狐であるとされることになる。室町時代の意義分類体の辞書『下學集』では、
狐、多疑之獣也、古之淫婦也、其名紫紫(しし)、化為狐也、
とあり、
支那の小説に、九尾狐、化して妲己となり、殷の紂王を蠱惑せしことを云へり、
とある(大言海)。「紫紫」は、
狐の別名、中国で紫という昔の淫婦が化して狐になったという、
とある(高田衛編・校注『江戸怪談集』)。日本の「九尾狐」つまり、玉藻前は、
陰陽師の安倍泰成に見破られて東国に逃れ、上総介広常と三浦介義純が狐を追いつめ退治すると狐は石に姿を変えた、
という伝説がある。その石は毒を発して人々や生き物の命を奪い続けたため、
殺生石、
と呼ばれるが、玄翁和尚によって打ち砕かれた(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%89%E8%97%BB%E5%89%8D)とされる
(玉藻前(鳥山石燕著『今昔画図続百鬼』) その姿の後ろには狐の尾が見える 『画図百鬼夜行全画集』より)
参考文献;
鳥山石燕『画図百鬼夜行全画集』(角川ソフィア文庫)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95