永春も、少しいぶせく思ひ、何かと陳じけれども、女房聞きもいれず(片仮名本・因果物語)、
にある、
いぶせく思ひ、
は、
気づまりに思い、
とある(高田衛編・校注『江戸怪談集』)。「いぶせく」は、形容詞「いぶせし」のク活用の、
未然形 いぶせ・(く){ズ}
いぶせ・から
連用形 いぶせ・く{ナル/ケリ}
いぶせ・かり
終止形 いぶせ・し{。}
連体形 いぶせ・き{トキ}
いぶせ・かる
已然形 いぶせ・けれ{ドモ・バ}
命令形 いぶせ・かれ{。}
と活用する「いぶせし」の連用形になる(広辞苑)。日葡辞書(1603~04)には、
いぶせい、
とあり、
中世、近世には口語形「いぶせい」も見られる、
とある(精選版日本国語大辞典)。「いぶせし」は、
鬱悒し、
と当て、
セシは狭しの意、憂鬱な気持ちの晴らしどころがなく、胸のふさがる思いである、
意とあるが(岩波古語辞典)、
「何らかの障害があって、対象の様子が不分明なところから来る不安感・不快感」を示すのが原義、
と見られる(精選版日本国語大辞典)ともある。だから、
たらちねの母がかふ蚕(こ)の眉(まよ)ごもり馬声蜂音石花蜘蟵(いぶせくも)あるか妹にあはずして(万葉集)、
と、
心がはればれとしないで、うっとうしい、
気がふさぐ、
気づまりだ、
という意味になる。そこから、
いかで、いとにはかなりける事にかはとのみ、いぶせければ(源氏物語)、
と、
気がかりでおぼつかない、
心にかかる、
気にかかる、
と少し気がかりの焦点が合い、さらに、
いぶせくなどはあらで、いとらうらうじく恥づかしげなる気色も添ひて(源氏物語)、
と、
(対象となる人や事物が)いとわしくていやだ、
不快だ、
不愉快だ、
と、状態表現から、明らかな価値表現へと転じ、
是を見かける万人、まことに目覚ましくいぶせきこと限りなし(室町殿日記)、
と、
(胸が苦しくなるほど)怖ろしい、
気味がわるい。
恐ろしく、危険にみえる、
と、感情表現が極まる(岩波古語辞典・精選版日本国語大辞典)。
これが中世になると、「いぶかし」と混用して、
さやうの人のいかなる事にてか(越後へ)出で給ふらめと、いぶせくはべりしかば(選集抄)、
と、
気がかりである、
不審である、
意で使うに至り、
いぶせき事も忘られて、あさましげなるかたはうどにまじはって(平家物語)、
と、
きたならしい、
むさくるしい、
貧しく、みすぼらしい、
意で使い、また、
気味がわるい、
恐ろしい、
の意に用いられるが、現在では方言として残存するのみである(精選版日本国語大辞典)とある。因みに、
いぶせし、
と、
いぶかし、
の違いは、
「いぶせし」は、どうしようもなくて気が晴れない。「いぶかし」はようすがわからないので明らかにしたいという気持ちが強い、
とある(学研全訳古語辞典)。
なお、「いぶせし」の由来は、
鬱悒狭(いぶせ)し、
とある(大言海)ように、「せし」は、
狭し、
のようだが、「イブ」については、
動詞イブス(燻)と同根か(角川古語大辞典)、
イブカル・イブカシのイブ、オホ(オボ)ロカのオボと同源(古代日本語文法の成立の研究=山口佳紀)、
などとあるがはっきりしない。
(「鬱」 甲骨文字・殷 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E9%AC%B1より)
(「鬱」 金文・西周 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E9%AC%B1より)
「鬱」(漢音ウツ、呉音ウチ)は、字源について説が分かれていて、一つは、
甲骨文字・金文は「林」+「勹」(かがんだ人)+「大」(立った人)、人が生い茂った草木の中に隠れる様子を象る。「茂る」を意味する漢語{鬱 /*ʔut/}を表す字。「爵」の略体を加えて「鬱」となる、
とするもの、いまひとつは、
会意形声。「林」+音符「𩰪」(ウツ:「臼」+「缶」+「鬯」+「冖+「彡」)。音符の文字は、瓶にこもらせ酒に香草でにおいをつけることを意味する会意文字。木に囲まれ、ふさがった様子、
とするものとがある(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E9%AC%B1)、とする。漢字源は、
会意兼形声。鬱の原字は、「臼(両手)+缶(かめ)+鬯(香草で匂いを付けた酒)」の会意文字で、かめにとじこめて酒ににおいをつける草。鬱はその略体を音符とし、林を添えた字で、木々が一定の場所にとじこめられて、こんもりと茂ることをあらわす。中に香りや空気がこもる意を含む、
とするが、
この記述は甲骨文字や金文などの資料と一致していない記述が含まれていたり根拠のない憶測に基づいていたりするためコンセンサスを得られていない、
とある(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E9%AC%B1)。別に、
会意兼形声文字です。「大地を覆う木の象形と酒などの飲み物を入れる腹部の膨らんだふたつき土器の象形」(「柱と柱の間にある器」の意味)と「穀物の粒と容器の象形とさじの象形と長く流れる豊かでつややかな髪の象形」(「におい草」の意味)から、「立ち込めるよい香り」、「(よい香りが)ふさがる」
を意味する「鬱」という漢字が成り立ちました、
とあるのも(https://okjiten.jp/kanji2081.html)、漢字源と同趣旨である。「鬱蒼」「憂鬱」などと、「こもる」「ふさがる」という意である。
「悒」(漢音ユウ、呉音オウ)は、
会意兼形声。邑(ユウ)とは「口(一定のわく内の場所)+人の服従した姿」からなり、配下の人民が服従している領地のこと。枠の中に押し込めて屈服させる意を含む。「悒」は、「心+音符邑」で、心が狭い枠の中に押し込められて伸びないこと、
とあり(漢字源)、「悒悒」「悁悒(エンユウ)」「悒鬱(ユウウツ)」と「うれえる」「うっとおしい」意である。
参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95