2022年11月28日
正念に往生す
母、程なく煩ひ付きて、正念往生す(片仮名本・因果物語)、
の、
正念に往生す、
は、
安らかな死を迎えた、
と注記がある(高田衛編・校注『江戸怪談集』)。別に、
臨終正念(りんじゅうしょうねん)、
という言葉があり(http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E8%87%A8%E7%B5%82%E6%AD%A3%E5%BF%B5)、
臨終のときに心が乱れることなく、執着心に苛まれることのない状態のこと、
とあるのに重なるのだろう。
願わくは弟子等、命終の時に臨んで心顚倒せず、心錯乱(しゃくらん)せず、心失念せず、身心に諸の苦痛なく、身心快楽(けらく)にして禅定に入るが如く、聖衆現前したまい、仏の本願に乗じて阿弥陀仏国に上品往生せしめたまえ、
とある(善導『往生礼讃』発願文)のが、
臨終正念のありさまを示したもの、
とされる(仝上)。これは、
臨終正念なるが故に来迎したまうにはあらず、来迎したまうが故に臨終正念なりという義明(あきらか)なり、
とある(法然『逆修説法』)ことや、
念仏もうさんごとに、つみをほろぼさんと信ぜば、すでに、われとつみをけして、往生せんとはげむにてこそそうろうなれ。もししからば、一生のあいだ、おもいとおもうこと、みな生死のきずなにあらざることなければ、いのちつきんまで念仏退転せずして往生すべし。ただし業報かぎりあることなれば、いかなる不思議のことにもあい、また病悩苦痛せめて、正念に住せずしておわらん。念仏もうすことかたし、
という(歎異抄)の、
他力本願、
からいえば、
念仏申す毎に罪を滅ぼして下さると信じて「念仏」申すのは、自分の力で罪を消して往生しようと励んでいること、
となり、
一心に阿弥陀如来を頼むこと、
に通じていく(http://www.vows.jp/tanni/tanni29.htm)。
「正念」は、「正念場」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/464644622.html)で触れたように、
八正道(はっしょうどう)、
の一つとされ(詳しくは、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E6%AD%A3%E9%81%93に譲る)、
八聖道、
とも書く、仏教において涅槃に至るための8つの実践徳目、
正見(しょうけん 正しい見解、人生観、世界観)、
正思(しょうし 正しい思惟、意欲)、
正語(しょうご 正しいことば)、
正業(しょうごう 正しい行い、責任負担、主体的行為)、
正命(しょうみょう 正しい生活)、
正精進(しょうしょうじん 正しい努力、修養)、
正念(しょうねん 正しい気遣い、思慮)、
正定(しょうじょう 正しい精神統一、集注、禅定)、
の1つで(日本大百科全書)、釈迦は、
それまでインドで行われていた苦行を否定し、苦行主義にも快楽主義にも走らない、中なる生き方、すなわち中道を主張したが、その具体的内容として説かれたのがこの八正道である、
とされ(世界大百科事典)、釈迦の教説のうち、おそらく最初にこの、
八正道、
が確立し、それに基づいて、
四諦(したい)、
説が成立し、その第四の、
道諦(どうたい 苦の滅を実現する道に関する真理)、
はかならず「八正道」を内容とした。逆にいえば、八正道から道諦へ、そして四諦説が導かれた、
とある(日本大百科全書)。「四諦(したい)」は、
四聖諦(ししょうたい)、
ともよばれ、「諦(たい) サティヤsatya、サッチャsacca)」は真理、真実をいい、
迷いと悟りの両方にわたって因と果とを明らかにした四つの真理、
とされ(精選版日本国語大辞典)、
苦諦(くたい 人生の現実は自己を含めて自己の思うとおりにはならず、苦であるという真実)、
集諦(じったい その苦はすべて自己の煩悩や妄執など広義の欲望から生ずるという真実)、
滅諦(めったい それらの欲望を断じ滅して、それから解脱し、涅槃の安らぎに達して悟りが開かれるという真実)、
道諦(どうたい この悟りに導く実践を示す真実)
で、この、
苦集滅道(くじゅうめつどう)、
の四諦は原始仏教経典にかなり古くから説かれ、とくに初期から中期にかけてのインド仏教において、もっとも重要視されており、その代表的教説とされた(日本大百科全書)、とある。
要は、「正念」とは、
四念処(身、受、心、法)に注意を向けて、常に今現在の内外の状況に気づいた状態(マインドフルネス)でいること、
とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E6%AD%A3%E9%81%93)。
意識が常に注がれている状態、
である。しかし、他力本願では、
自分の力で罪を消して往生しようと励んでいること、
ではなく、
一心に阿弥陀如来を頼み、命の終わる最後まで、怠ることなく念仏し続けること、
を指すと思われる。この、
正念、
と、
正念場・性念場、
との関係については、「正念場」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/464644622.html)で触れた。
「正」(漢音セイ、呉音ショウ)は、
会意。「一+止(あし)」で、足が目標の線めがけてまっすぐに進むさまを示す。征(真っ直ぐに進む)の原字、
とある(漢字源)が、
「止」が意符、「丁」が声符の形声字で、本義は{征(討伐する)}。従来は、「-」(目標となる線)+「止」からなり「目標に向けてまっすぐ進むこと」を表すとされたが、甲骨文・金文中でこの字の上部は円形もしくは長方形で書かれ、それらの部分(すなわち「丁」字)が後に簡略化されて棒線となったに過ぎないことから、この仮説は誤りである、
とする説がある(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%AD%A3)。別に、
会意。止と、囗(こく=国。城壁の形。一は省略形)とから成り、他国に攻めて行く意を表す。「征(セイ)」の原字。ひいて、「ただす」「ただしい」意に用い、また、借りて、まむかいの意に用いる、
とも(角川新字源)、
会意文字です(囗+止)。「国や村」の象形と「立ち止まる足」の象形から、国にまっすぐ進撃する意味します(「征」の原字)。それが転じて(派生して・新しい意味が分かれ出て)、「ただしい・まっすぐ」を意味する「正」という漢字が成り立ちました、
ともある(https://okjiten.jp/kanji184.html)。
「念」(漢音デン、呉音ネン)は、「繋念無量劫」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/491112345.html)で触れたように、
会意兼形声。今は「ふさぐしるし+-印」からなり、中に入れて含むことをあらわす会意文字。念は「心+音符今」で、心中深く含んで考えること。また吟(ギン 口を動かさず含み声でうなる)とも近く、経をよむように、口を大きく開かず、うなるように含み声でよむこと、
とある(漢字源)。別に、
形声。心と、音符今(キム、コム)→(デム、ネム)から成る。心にかたくとめておく意を表す、
とも(角川新字源)、
会意文字です(今+心)。「ある物をすっぽり覆い含む」事を示す文字(「ふくむ」の意味)と「心臓」の象形から、心の中にふくむ事を意味し、そこから、「いつもおもう」を意味する「念」という漢字が成り立ちました、
ともある(https://okjiten.jp/kanji664.html)。
参考文献;
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
]