2022年12月21日

望夫石


唐土にても望夫石(ぼうふせき)の故事と相ひ似たり、是れたまたま其の石の、人がたちに似たるを以て、名付けたるべし(百物語評判)、

とある、

望夫石、

は、

望夫石の故事は多いが、ここでは「武昌貞婦望失、化面為石」と『神異経』の述べる、湖北省武昌北山の石であろう、

と注記がある(高田衛編・校注『江戸怪談集』)。『神異経』は、

中国の古代神話を編纂した古書、

で、『山海経』に似ているhttps://prometheusblog.net/2017/12/01/post-6570/とある。

「望夫石」の故事は、各地にあるらしいが、

中国湖北省武昌の北山にある石、

は、

貞女が戦争に出かける夫をこの山上で見送り、そのまま岩になった、

と伝える(広辞苑・日本国語大辞典)が、『神異経』などに見える伝説にもとづく、とある(仝上)。

望夫石.jpg

(望夫石(香港の沙田区の丘の上にある自然にできた岩) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9B%E5%A4%AB%E7%9F%B3より)

日本でも、

はうふせきという石も、こひゆゑなれるすかたなり(「とはずがたり(14C前)」)、

と、

松浦佐用姫(まつらさよひめ)が夫の大伴狭手彦(おおとものさでひこ)を見送り、石になった、

というものなど各地にある(仝上)。万葉集にも、

山の名と言ひ継げとかも佐用姫(さよひめ)がこの山の上(へ)に領布(ひれ)を振りけむ、
万代(よろづよ)に語り継げとしこの岳(たけ)に領布(ひれ)振りけらし松浦佐用姫、
海原(うなはら)の沖行く船を帰れとか領布(ひれ)振らしけむ松浦佐用姫、
行く船を振り留(とど)みかね如何(いか)ばかり恋(こほ)しくありけむ松浦佐用姫、

などと詠われる「松浦佐用姫」伝説は、

大伴佐提比古(狭手彦 おとものさてひこ/さでひこ)が異国へ使者として旅立つとき、妻の松浦佐用比売(さよひめ)が別れを悲しみ、高い山の上で領巾(ひれ 首から肩に掛けて左右に垂らす白い布)を振って別れを惜しんだので、その山を「領巾麾(ひれふり)の嶺(みね)」とよぶと伝える、

とある(日本大百科全書)。大伴狭手彦が朝廷の命で任那(みまな)に派遣されたことは『日本書紀』の宣化(せんか)天皇二年(537)条にみえるが、佐用姫の伝えはない、とある(仝上)。肥前地方で発達した伝説で、奈良時代の『肥前国風土記』にも、松浦(まつら)郡の、

褶振(ひれふり)の峯(みね)、

としてみえるが、そこでは、

大伴狭手彦連(むらじ)と弟日姫子(おとひひめこ)の物語、

になっており、

夫に別れたのち、弟日姫子のもとに、夫に似た男が通ってくる。男の着物の裾(すそ)に麻糸をつけておき、それをたどると、峯の頂の沼の蛇であった。弟日姫子は沼に入って死に、その墓がいまもある、

と、昔話の、

蛇婿入り、

の三輪山型の説話になっている(仝上)。

佐賀県唐津市東郊鏡山(284メートル)を中心に東北地方まで伝説が分布、

しているという(日本伝奇伝説大辞典)。

狭手彦が百済救援のため渡海するときに名残りを惜しんだ、

名残りの坂、

焦がれ石、

がある(仝上)。姫は夫に焦がれて後姿を追って鏡山に登り領巾(ひれ)を振った。山頂に、

領巾振り松、

があり、それで鏡山を、

領巾振(ひれふり)山、

といい、姫は、軍船が小さくなると、松浦川の

松浦佐用姫岩、

に飛び降り、着物が濡れたので、

衣掛(きぬかけ)松、

で干し、呼子に走ったが及ばず、加部島の伝登(てんどう)岳で、悲しみの余り、

望夫石、

と化した(仝上)、とされる。なお、「呼子」の古名、

呼子の浦、

といい、姫がここで夫の名を呼んだのに由来すると伝える(日本大百科全書)。近年、

松浦佐用姫伝説、

が、干拓地に多いことから、

人柱、

とする説もあるようだ(若尾五雄「人柱と築堤工法」)。

松浦佐用姫「賢女烈婦傳」.PNG

(松浦佐用姫(歌川国芳「賢女烈婦傳」 「..恋慕の気凝りて、そのままに形(かたち)石となり」と伝わる https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E6%B5%A6%E4%BD%90%E7%94%A8%E5%A7%ABより)

参考文献;
乾克己他編『日本伝奇伝説大辞典』(角川書店)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
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2022年12月22日

如意宝珠


絵かきは尾さきに如意宝珠を書けるも、これらの故実にてや侍らん(百物語評判)、

とある、

如意宝珠は、

種々の物を意にまかせて出すという、寶の珠。火焔状で書かれるのが普通、

と注記がある(高田衛編・校注『江戸怪談集』)が、日本では一般的に、下部が球形、上部が山なりに湾曲して尖っているhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A6%82%E6%84%8F%E5%AE%9D%E7%8F%A0、とある。

梵語cintmai(チンターマニ)の訳語、

で(精選版日本国語大辞典)、サンスクリット語で、

チンターとは「思考」、マニは「珠」、

を指し、

意のままに願いをかなえる宝、

と解釈できるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A6%82%E6%84%8F%E5%AE%9D%E7%8F%A0

如意宝、
如意珠、
如意の珠、
摩尼(マニ)、
摩尼宝珠、

などともいう(広辞苑・大辞林・精選版日本国語大辞典)。

如意輪観音、
地蔵菩薩、
馬頭観音、

などの、

持物(じもつ)、

とされ、とくに真言宗などの密教で重んじられる(岩波古語辞典・日本大百科全書)。

摩尼宝珠瓔珞、如意珠瓔珞(法華経)、
諸佛入涅槃時、以方便力留砕身舎利、以福衆生、衆生福盡此舎利變為摩尼如意寶珠(往生論註)、

と(字源)、

一切の願いが自分の意の如くかなうという不思議な宝のたまの意で、民衆の願かけに対し、それを成就させてくれる仏の徳の象徴、

であり(広辞苑・精選版日本国語大辞典)、

意のままに、宝や衣服、飲食を出し、病気や苦悩をいやしてくれるまさに空想上の宝珠であり、また悪を除去し、濁った水を清らかにし、災禍を防ぐ功徳(くどく)があると信じられている(日本大百科全書)。

左手に如意宝珠をもつ吉祥天立像( 浄瑠璃寺).jpg

(左手に如意宝珠をもつ吉祥天立像(浄瑠璃寺) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A6%82%E6%84%8F%E5%AE%9D%E7%8F%A0よりり)

一説に、

竜王の脳の中にあり、これを手に入れると、多くの財宝が得られるだけでなく、毒にもおかされず、火にも焼かれない、

という(ブリタニカ国際大百科事典)。

如意宝珠の概念は、

天台智顗(智顗)の摩訶止観、

とともに日本に伝わったが、平安時代には神道にもとりこまれ、稲を持った豊穣の女神ウカノミタマが、富裕の神として如意宝珠を持った姿で描かれるようになった。この、

ウカノミタマとともに信仰されてきた如意宝珠の図柄、

は、「牛王」http://ppnetwork.seesaa.net/article/492844892.htmlで触れたように、

熊野本宮大社の牛玉宝印、

伏見稲荷大社のご朱印、

として押印されているhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A6%82%E6%84%8F%E5%AE%9D%E7%8F%A0

熊野那智大社の牛王宝印.jpg

(熊野那智大社の牛王宝印 日本大百科全書より)

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
簡野道明『字源』(角川書店)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
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2022年12月23日

百歳の狐


唐土(もろこし)にては、百歳の狐、北斗を礼(らい)して美女となり、千歳にして其の尾わかれて、淫婦となれりとかや(百物語評判)、

にある、

百歳の狐、

は、

狐、百歳ニシテ美女ト為リ、神巫ヲ為ス。……千歳ニシテ即チ天ニ通ジ天狐ト為ル(玄中記)、

などによる伝説上の狐で、

つづいて、

宋の王欽若(おうきんじゃく)と云ふ者、其のむまれつきねぢけて、何共心得がたきを以て、九尾狐(きゅうびこ)と名付けし事、『宋史』にみえたり(仝上)、

とあり(高田衛編・校注『江戸怪談集』)、「百歳の狐」が「九尾の狐」となることになる(『玄中記』は、西晋(265~316年)代の編纂)。

九尾狐.jpg

(九尾狐(『山海経』) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E5%B0%BE%E3%81%AE%E7%8B%90より)

「九尾の狐」http://ppnetwork.seesaa.net/article/493610281.htmlは、

天竺では班足(はんそく)太子の塚の神、唐土では周の幽王の后褒姒(ほうじ)、また殷の紂王の妲己(だっき)、日本に渡来して鳥羽院の寵姫玉藻前(たまものまえ)となって、院を悩ました妖狐は九つの尾をもっていたという伝説。那須野で射殺されて殺生石となったとする、

とされる(仝上)。本来「九尾の狐」は、

中国に伝わる伝説上の、

9本の尾をもつキツネの霊獣、

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E5%B0%BE%E3%81%AE%E7%8B%90、『山海経』には、

有獸焉、其狀如狐而九尾、其音如嬰兒、能食人、食者不蠱、

とあり、

食べた者は蠱毒(あるいは邪気)を退ける、

と、

霊験として辟邪の要素を付与されており、瑞獣としてあつかわれている、

ようにhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E5%B0%BE%E3%81%AE%E7%8B%90、中国の各王朝の史書では、九尾の狐はその姿が確認されることが、泰平の世や明君のいる代を示す、

瑞獣、

とされ、『周書』や『太平広記』など一部の伝承では天界より遣わされた、

神獣、

とされる(世界大百科事典)。伝説時代から戦国時代の魏の襄王に至るまでを著述した、史記と並ぶ中国の編年体の歴史書『竹書紀年』(ちくしょきねん)には、

夏(か)の伯杼子が東征して〈狐の九尾なる〉を得た、

とあり(仝上)、戦国時代から秦朝・漢代にかけて徐々に付加執筆されて成立した『山海経』(戦国時代から秦朝・漢代(前4世紀~3世紀頃)にかけて付加執筆された地理書)「大荒東経」には、

有青丘之國、有狐而九尾、

とあり、

東方の霊獣、

と考えたらしい。九尾を瑞祥とする考えは、我が国の、「延喜治部省式」祥瑞上瑞に、

九尾狐、神獣也、其形、赤色、或白色、音如嬰児、

とあり、やはり同じ考え方が伝来したものと見ていい。

これが後世、

元の時代の『武王伐紂平話』や明の時代の『春秋列国志伝』などで、殷王朝を傾けたとされる美女・妲己の正体が九尾の狐(九尾狐、九尾狐狸)であるとされている

などhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E5%B0%BE%E3%81%AE%E7%8B%90、九尾狐は、

千年修行すると尾が一本増え、一万年修行をすると黒かった毛が白くなる、

などと妖獣とされていくことになる。

「百歳の狐」は、「玄中記」によると、

狐、五十歲能變化為婦人。百歲為美女。又、為巫神。或、為丈夫、與女人交接。能知千里外事、善蠱魅、使人迷惑失智。千歲即與天通為天狐、

と、

狐は、五十歳にして婦人と為り、百歳にして美女と為り、神巫と為り、丈夫と為り女人と交接し、千里の外の事を知り、人をして智を失わしめ、千歳にして天狐と為る、

という流れは、

神獣→妖獣、

となっていく、

九尾の狐、

の流れと真逆である。

江戸後期の辞書注釈書『箋注和名抄(箋注倭名類聚抄)』には、

狐 考聲切韻云。狐[音胡岐豆禰]。獸名射干也。關中呼爲野干。語訛也。孫面曰。狐能爲妖怪。至百歳化爲女者也、

とありhttp://www.hyakujugo.com/kitsune/kenkyu/kigen02.htm

按。太平御覧引玄中記云。百歳狐爲美女。孫面至百歳化爲女之説。蓋本之、

と注釈している(仝上)。『太平御覧』(たいへいぎょらん)は、北宋代初期(10世紀末)の類書である。そして、『太平御覧』は、

玄中記曰。五十歳之狐。爲淫婦。百歳狐。爲美女。又爲巫神。

と、「玄中記」へと返る。どうやら、「百歳の狐」の伝説は、「玄中記」の説を始まりとするようである。

なお、「野干」http://ppnetwork.seesaa.net/article/485021299.html、「きつね」http://ppnetwork.seesaa.net/article/433049053.htmlについては触れた。

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
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2022年12月24日

つかはしめ


是れ、世に云はゆる稲荷の狐なり。……神のつかはしめなりと云へり(百物語評判)、

にある、

つかはしめ、

は、

使者、
使役神、

とある(高田衛編・校注『江戸怪談集』)。

伏見稲荷の狐.jpg


「つかわ(は)しめ」には、

御使姫、
神使、
使婢、

等々とも当て(https://furigana.info/r/%E3%81%A4%E3%81%8B%E3%82%8F%E3%81%97%E3%82%81・精選版日本国語大辞典)、

使い姫、
神の使い(かみのつかい)、
御先(みさき)、

ともいい(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E4%BD%BF・デジタル大辞泉)、

稲荷の狐、

のほか、

日吉(ひえ)・鹿島の猿、
熊野の烏、
八幡の鳩、
春日(かすが)の鹿、
弁天の蛇、

等々、

神仏の使いといわれるもの、

を指し(精選版日本国語大辞典)、

神の眷属、御先神とも考えられ、神に先駆けて出現し、あるいは神の意志を知る兆し、

とされるhttps://genbu.net/tisiki/sinsi.htm

日吉の猿.jpg

(日吉大社の猿 楼門二階部分の正面の蟇股(かえるまた)部分に三匹の神猿の装飾が施されている http://hiyoshitaisha.jp/sarutoshi/より)


伊勢神宮の神使、鶏.jpg

(伊勢神宮で放し飼いにされている神使である鶏 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E4%BD%BFより)

しんし、

とも訓ませる、

神使、

は、神道において、

神の使者(使い)、
もしくは、
神の眷族で神意を代行して現世と接触する者、

と考えられる特定の動物のことであるが、時には、

神そのもの、

と考えられることもあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E4%BD%BF。その対象になった動物は哺乳類から、鳥類・爬虫類、想像上の生物まで幅広く、

鼠 大黒天
牛 天満宮
虎 朝護孫子寺
蜂 二荒山神社
兎 住吉大社・岡崎神社・調神社
亀 松尾大社 
蟹 金刀比羅宮 
鰻 三嶋大社
海蛇 出雲大社
白蛇 諏訪神社
猿 日吉大社・浅間神社
烏 熊野三山・厳島神社
鶴 諏訪大社
鷺 氣比神宮
鶏 伊勢神宮・熱田神宮・石上神宮
狼 武蔵御嶽神社・三峰神社など奥多摩・秩父地方の神社
鯉 大前神社
猪 護王神社・和気神社
ムカデ 毘沙門天

等々多岐にわたる(仝上)

『日本書紀』の景行天皇記には、

伊吹山の荒神(あらぶるかみ)が大蛇に化身して日本武尊の前に現れたのを、尊は「大蛇は荒神の使いだろう」と言った、

という記述があり、『古事記』の皇極天皇記(4年正月条)には、

姿は見えないが猿の鳴き声がしたため、人々が「伊勢大神の使」として、その声で吉凶を判じた、

という記述がある(仝上)。三島宮御鎮座本縁には、

己酉二年……白鳥鷺、三島使女云、

とある(大言海・精選版日本国語大辞典)。江戸時代中期編纂の日本の類書(百科事典)『和漢三才図絵(わかんさんさいずえ)』には、

近江國、日吉山王権現、天智天皇御宇、始鎮座、……以猿為宦者(つかはしめ)、社傍養之、

とある。

なお、

つかはす、

は、

使はす、
遣はす、

と当て、

つかふ(使)に尊敬の助動詞シの添った形(岩波古語辞典)、
古くは「行かせる」「与える」の尊敬語として、「給う」などを付けないで用いる(精選版日本国語大辞典)、

とあり、

真蘇我(マソガ)よ蘇我の子らは馬ならば日向(ヒムカ)の駒(コマ)太刀(タチ)ならば呉(クレ)の真刀(マサヒ)諾(うべ)しかも蘇我の子らを大君のつかはすらしき(万葉集)、

と、

お使いになる、
お仕えさせになる、

意や、

朝(あした)には召して使ひ夕(ゆふへ)には召して使ひ使はしし舎人(とねり)の子らは 行く鳥の 群がりて待ち(万葉集)、

と、

使いとしてお行かせになる、
命じて行かせる、

意が原義であるが、後に敬意が薄れて下位者を派遣するだけの場合にも用いる(岩波古語辞典・精選版日本国語大辞典)。そのため、「つかはしめ」も、

国王大臣のつかはしめとして(正法眼蔵)、

召し使う者、
家人、
家来、

の意でも使うに至る(仝上)。

「使」 漢字.gif

(「使」 https://kakijun.jp/page/0810200.htmlより)


「吏」 金文・西周.png

(「吏」 金文・西周 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%90%8Fより)

「使」(シ)は、

会意文字。吏は、手に記録用の竹を入れた筒をしっかり持った姿を示す。役目をきちんと処理する役人のこと。整理の理と同系の言葉。使は「人+吏」で、仕事に奉仕する人を示す。公用や身分の高い人の用事のために仕えるの意を含む。また他動詞に転じて、つかう、使役するの意に専用されるようになった、

とある(漢字源)。別に、

会意形声。「人」+音符「吏」。仕える人の意味(説文)。「吏」は「㫃(旗の原字)」の略体+「中(記録を入れる竹筒)」+「又(手)」で記録したものを届けるさま、貴人に仕え、使役される人を意味する。「史」「事」と同系で音が通ずる、

ともhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E4%BD%BF

会意形声。人と、吏(リ→シ 仕事をする意)とから成り、人のために仕事をする人の意を表す。「吏」の後にできた字。古くは、「史」「吏」「事」と同字であった。転じて「つかう」意に用いる、

とも(角川新字源)、

会意兼形声文字です(人+吏)。「横から見た人の象形」と「官史(役人)の象徴となる旗ざおを手に持つ象形」(「役人」の意味)から「つかう・つかえる人」を意味する「使」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji388.htmlが、趣旨は同じである。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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2022年12月25日

みこし入道


さてさて、あやうきことかな、夫(それ)こそ見こし入道にて候はん(百物語評判)、

にある、

見こし入道、

は、

背が高く、首が伸びる大入道の妖怪。人が見上げれば見上げるほど、背が高くなるといわれる、

とある(高田衛編・校注『江戸怪談集』)が、必ずしも、

首が伸びる大入道、

とは限らないようだ。

「見こし入道(にゅうどう)」は、

見越し入道、
見越入道、

とも当て、

大なる法師の、鉄棒を杖にしたる、

という像とあり(大言海)、

見上げ入道、
次第高、
高入道、
入道坊主、

等々の呼名もある(デジタル大辞泉)。

首が長く、背の高い入道姿で、金棒などを持っている妖怪。人が見上げれば見上げるほど背が高くなり、また首が長くなる(精選版日本国語大辞典)、

ともあるが、

路上に現れ、出会ったものが目線を上げるほど巨大化するとされる(デジタル大辞泉)、

ともある。市井雑談集(1764年)には、見越入道の出現と思って肝をつぶした著者に、

此の所は昼過ぎ日の映ずる時、暫しの間向ひを通る人を見れば先刻の如く大に見ゆる事あり是れは影法師也、初めて見たる者は驚く也、

と語ったとある(世界大百科事典)。

多くの伝承があるが、

夜道や坂道の突き当たりを歩いていると、僧の姿で突然現れ、見上げれば見上げるほど大きくなる、見上げるほど大きい、

から、

見上げ入道、

の名がついた。そのまま見ていると、死ぬこともあるが、

見こした、
みぬいた、
見越し入道みこした、

などと言えば消える、

とか、

見越し入道に飛び越されると死ぬ、喉を締め上げられる、

といいhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A6%8B%E8%B6%8A%E3%81%97%E5%85%A5%E9%81%93、それで、

見こし入道、

ともいい、

主に夜道を一人で歩いていると現れることが多い、

とされ、

四つ辻、石橋、木の上、

等々にも現れる(仝上)というものである。

見越  鳥山石燕『画図百鬼夜行』より (2).jpg

(「見越」(鳥山石燕『画図百鬼夜行』) 『画図百鬼夜行全画集』より)

妖怪画では、鳥山石燕『画図百鬼夜行』の「見越」は、首が長めになっているが、これは背後から人を見る格好で、ろくろ首のように首の長さを強調していない(仝上)。

しかし、江戸時代のおもちゃ絵などに描かれたものは、

首の長いろくろ首かとさえ思える見越し入道、

も決して珍しくない(仝上)し、十返舎一九『信有奇怪会』では、

首の長い見越し入道、

が描かれている(仝上)。

草双紙での首の長い見越し入道例。十返舎一九『信有奇怪会.jpg

(草双紙での首の長い見越し入道(十返舎一九『信有奇怪会』) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A6%8B%E8%B6%8A%E3%81%97%E5%85%A5%E9%81%93より)

この首の長さは、時代を下るにつれて誇張され、江戸後期には、

首がひょろ長く、顔に三つ目を備えているものが定番、

となり、妖怪をテーマとした江戸時代の多くの草双紙でも同様に首の長い特徴的な姿で描かれ、その容姿から、

妖怪の親玉、

として登場する(仝上)、とある。

多く、

入道、
坊主、

とあることについては、

土着の信仰に根ざす生活をしていた日本人は、仏教に対して畏敬の念を持ちながらも、忌避の感情を捨てきれず、村落の外から入ってくる僧侶を異形(いぎよう)の者として畏怖の念を抱いていたので、そうした感情が複合して、入道ということばは、種々の妖怪と結びつけられるようになった。あいきょうもある小僧・小坊主に対して大入道は妖怪変化の王であり、見越(みこし)入道のように、仰ぎ見ればどこまでも大きくなっていく怪物などが語り伝えられた、

とあり、

入道は強大であるが、どこかうさんくさく得体の知れないものと感じられているが、それは日本人の仏教に対する感情の深層の反映でもあろう、

と説かれている(世界大百科事典)。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

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2022年12月26日

彭侯


併しながら草木に精なきといふにはあらず。又草木の精もこだまと申すべし。唐土(もろこし)にても彭侯(ほうこう)と云ふ獣(けだもの)は、千歳を経し木の中にありて、状(かたち)、狗(いのこ)の如しと云へり(百物語評判)、

にある、

彭侯、

は、

古代中国で信じられた、樹木に宿る妖精、

とある(高田衛編・校注『江戸怪談集』)。上記「百物語評判」では、つづいて、

むかし呉の敬淑(けいしゅく 陸敬淑)と云ひし人、大いなる樟樹(くすのき)をきりしに、木の中より血ながれ出で、あやしみ見れば、中に獣有りしが、彭侯ならんとて、煮て喰らひしに、味ひ狗のごとしといふ事、『捜神記』に見えたり。是れ、ただちに樹神(こだま)なるべし(仝上)、

とある(仝上)。『捜神記』は、

4世紀に東晋の干宝(かんぽう)が著した志怪小説集、

だが、干宝は、

当代一流の学者・文章家で、超自然的な摂理の虚妄でないことを明らかにしようとして本書を著した、

とされ、

神仙、方士(ほうし)、占卜(せんぼく)、風神、雷神など天地の神々、吉兆、凶兆、孝子烈女、妖怪(ようかい)、異婚異産、死者の再生、幽鬼幽界、動物の報恩復仇(ふっきゅう)、

等々多彩な内容で、

中国の説話の宝庫、

とされ、唐代の伝奇など、後世の小説に題材を提供した(日本大百科全書)とされる。同書によれば、中国の聖獣・白沢が述べた魔物などの名を書き記した、

白沢図、

の中に、彭侯の名があると記述している。

「彭侯」は、江戸時代の日本にも伝わっており、上記に引用した、怪談集、

古今百物語評判、

のほか、江戸時代中期編纂の日本の類書(百科事典)、

和漢三才図絵(わかんさんさいずえ 寺島良安)、

鳥山石燕による妖怪画集、

今昔百鬼拾遺、

にも中国の妖怪として紹介されている。

彭侯(寺島良安『和漢三才図会』より).jpg

(「彭侯」(『和漢三才図会』) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BD%AD%E4%BE%AFより)

『和漢三才図会』では『本草綱目』からの引用として、彭侯を、

木の精、
または、
木魅(木霊)、

としているhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BD%AD%E4%BE%AFが、山中の音の反響現象である山彦は、

木霊(木の霊)が起こす、

と考えられたことから、かつて彭侯は山彦と同一視されることもあった。江戸時代の妖怪画集である『百怪図巻』や『画図百鬼夜行』などにある、犬のような姿の山彦の妖怪画は、この彭侯をモデルにしたという説もある、とされる(仝上)。

彭侯(鳥山石燕『今昔百鬼拾遺』より) (2).jpg

(「彭侯」(『今昔百鬼拾遺』) 鳥山石燕『画図百鬼夜行全画集』より)

木魅(鳥山石燕『画図百鬼夜行』).jpg

(「木魅(こだま)」 鳥山石燕『画図百鬼夜行全画集』より)

鳥山石燕は、『画図百鬼夜行』で、「木魅」を、

百年の樹には神ありてかたちをあらはすといふ、

と記し(画図百鬼夜行)、「彭侯」を、

千歳(ざい)の木には精あり、状(かたち)黒狗(くろいぬ)のごとし。尾なし、面(おもて)人に似たり。又山彦とは別なり、

と、「彭侯」と「木魅」は、重ねながら、「山彦」とは、区別している。

幽谷響(やまびこ)(鳥山石燕『画図百鬼夜行』) (2).jpg

(幽谷響(やまびこ)(鳥山石燕『画図百鬼夜行』) 鳥山石燕『画図百鬼夜行全画集』より)

「こだま」http://ppnetwork.seesaa.net/article/433340757.htmlで触れたように、「こだま」は、

木霊
とか
木魂
とか
木魅
とか


と当て、

樹木の精霊、
やまびこ、反響、
歌舞伎囃子の一つ。深山または谷底のやまびこに擬す、

とある(広辞苑)。語源は、

「木+タマ(魂・霊)」

とある。

木の精霊、やまびこのこと。反響を。タマシイの仕業と見ている言葉、

とある(仝上)。和名類聚抄(平安中期)には、

文選、蕪城賦云、木魅、山鬼、今案、木魅、即、樹神也、内典云、樹神、古太萬、

とある。

「やまびこ」は、

山彦、

と当て、

山の神、山霊、
山や谷などで、声、音の反響すること、

とあり、語源は、

山+ヒコ(精霊・彦・日子)、
山響(やまひびき)、

で、山間での音の反響を指す。こう見ると、鳥山石燕のいうように、、

樹木の精霊

山霊

とは同義かどうかは疑問になる。箋注和名抄(江戸後期)は、「木魅」を、

涅槃経、如来性起品に見ゆる、樹神の文意を考ふるに、葉守の神にて、こだまにあらず、こだまは、天狗の類にて、木魅を充つるを、近しとすとあり(諸書に、樹神(こだま)とあるは、和名抄に據れるなり)、

としているが。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
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2022年12月27日

つるべおろし


それは俗にいへるつるべおろしと云ふ、ひかり物なり(百物語評判)、

とある、

つるべおろし、

は、

垂直に上下する妖怪、

とある(高田衛編・校注『江戸怪談集』)が、本文は続いて、

其の光り物は大木の精にて、即ち木生火(もくしょうか 五行相生説では木は火を生ずる)の理なり。さて昼も顕はれず、わきへも見えざる事は、火は暗きを得て色をまし、明らかなるにあひて光を失ふ。常の事なり。就中(なかんずく)、木の下の暗き所にあらはれ見ゆるなるべし。(中略)其の火のうちにて陰火(いんか)、陽火(ようや)のわかちあり、陽火は物を焼けども、陰火は物を焼くことなし。(中略)此のつるべおとしとかやも、陰火なり、

と解釈している(百物語評判)。

西岡の釣瓶おろし.jpg

(西岡の釣瓶おろし(『百物語評判』) 高田衛編・校注『江戸怪談集』より)

「つるべ」とは、

釣瓶、

と当て、言うまでもなく、

縄や竿の先につけて井戸の水をくみ上げる桶、

をいい、

つるべおけ、

ともいう(広辞苑・精選版日本国語大辞典)。後には、

滑車の先に桶を結び桶の重さを利用して水を汲み上げる、

スタイルとなるが、

豊玉姫の侍者玉の瓶(ツルヘ)を以て水を汲む(神代紀)、

とあるように古くから使われている。

鶴瓶桶.jpg

(釣瓶(桶) 広辞苑より)


つるべ.bmp

(つるべ 精選版日本国語大辞典より)


つるべ.jpg



瓶を使う井戸を、

釣瓶井戸、

といい、縄を付け滑車にかけて使う釣瓶を、

縄釣瓶、

といい、

二岐釣瓶 縄の両端に付けて上部の滑車で交互に上げ下げする釣瓶、
竿釣瓶 竹竿の片方に水かごを付けて上げ下げする釣瓶、
はね釣瓶 竹竿の片方に重石を付けて上げ下げする釣瓶、
投げ釣瓶 縄の一端に付け一方の端を持って水中に投げ込む釣瓶、

といった種類があるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%A3%E7%93%B6らしい。

「つるべ」の語源は、

吊瓶(つるへ)の義(大言海)、
ツル(蔓)へ(瓶)の意(岩波古語辞典)、

とされ、

連るぶ、

とし、

続けざま、

という意とするhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%A3%E7%93%B6ものもあるが、それは滑車を使うようになってのことではないか。

釣瓶落とし・釣瓶下し、
あるいは、
釣瓶おろし、

という言い回しは、釣瓶を井戸へ落とす感覚でわかるが、

釣瓶打ち・連るべ打ち、

というのは、滑車のそれで、手でくみ上げている感覚とは程遠い気がする。和名類聚抄(平安中期)には、

罐、楊氏漢語抄云、都留閇、汲水器也、

とある。

「つるべおろし」は、

釣瓶下ろし、

と当てるが、

釣瓶落とし(つるべおとし)、

ともいい、鳥山石燕の『画図百鬼夜行』では、

釣瓶火(つるべび)、

としている(鳥山石燕『画図百鬼夜行全画集』)が、これは、上記『百物語評判』で、

西岡の釣瓶おろし、

として、

京都西院の火の玉の妖怪が描かれたもの、

が原典としているhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%A3%E7%93%B6%E7%81%ABとある。

釣瓶火(鳥山石燕『画図百鬼夜行』).jpg

(「釣瓶火」(鳥山石燕『画図百鬼夜行』) 鳥山石燕『画図百鬼夜行全画集』より)

木の精霊が青白い火の玉となってぶらさがったもの、

とする見方があるようである(仝上)が、

通行人が通ると木の上から降りてきて、食べてしまうという妖怪、

または、

大きな釣瓶を落として通行人を掬い、食べてしまう、

とも言われているhttps://mouryou.ifdef.jp/100wa-mi/tsurube-otoshi.htm

参考文献;
鳥山石燕『画図百鬼夜行全画集』(角川ソフィア文庫)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
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2022年12月28日

富楼那 ( ふるな )の弁


浄土の荘厳(しょうごん)のおごそかなるさま、独り来て独り行くのことわり、富楼那の弁をかつて一時ばかり説き聞かせ給ふほどに(新御伽婢子)、

にある、

富楼那の弁をかつて、

とは、

釈迦十大弟子のうち、弁舌第一といわれた、富楼那(ふるな)のような巧妙な弁舌を駆使して、

と注記がある(高田衛編・校注『江戸怪談集』)。因みに、上記の、

独り来て独り行く、

は、

人の死の道理、

の意とある(仝上)。

富楼那 ( ふるな )の弁、

とは、

弁舌第一といわれた富楼那のような巧妙な弁舌、

の意で、

すらすらとよどみなくしゃべる、

ことのたとえとして使われ(精選版日本国語大辞典)、

舎利弗が知恵、富楼那の弁舌、なほし及ぶところにあらず(宝物集)、
阿難の才覚、舎利弗の知恵、富楼那の弁舌にて(風姿花伝)、

などと、

富楼那の弁舌、舎利弗(しゃりほつ)の知恵、目連(もくれん)が神通、

という言い方もする(故事ことわざの辞典)。

巧みでよどみない話術の富楼那、知恵のすぐれた舎利弗、何でもできる力を具えた目連、

と、

十大弟子の長所をいうが、それを包み込む、

釈迦の教え、

の広大であることの謂いでもある(仝上)。最初期には特定の弟子はいなかったとされるが、大乗経典では十大弟子の呼称が固定し、

舎利弗(しゃりほつ 智慧第一)、
目犍連(もくけんれん 略して目連 神通力(じんずうりき)第一)、
摩訶迦葉(まかかしょう 頭陀(ずだ(苦行による清貧の実践)第一)、
須菩提(しゅぼだい 解空(げくう すべて空であると理解する)第一)、
富楼那(ふるな 説法第一)、
迦旃延(かせんねん 摩訶迦旃延(まかかせんねん)とも大迦旃延(だいかせんねん)とも、論議(釈迦の教えを分かりやすく解説)第一)、
阿那律(あなりつ 天眼(てんげん 超自然的眼力)第一)、
優婆(波)離(うばり 持律(じりつ 戒律の実践)第一)、
羅睺羅(らごら 羅睺羅(らふら) (密行(戒の微細なものまで守ること)第一)、
阿難(あなん 阿難陀 多聞(たもん 釈迦の教えをもっとも多く聞き記憶すること)第一)、

をいう(日本大百科全書、https://true-buddhism.com/founder/ananda/他)。

十大弟子.jpg

(十大弟子 日本大百科全書より)

「富楼那」は、正式には、

富楼那弥多羅尼子(ふるなみたらにし)、

で、

パーリ語でプンナ・マンターニープッタ(Puṇṇa Mantānīputta)、
サンスクリット語でプールナ・マイトラーヤニープトラ(Pūrṇa Maitrāyanīputra)、

略称として、

富楼那、

他の弟子より説法が優れていたので、

説法第一、

とされるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E5%A4%A7%E5%BC%9F%E5%AD%90。音写では、

富楼那弥多羅尼弗多羅、

とも表記するが、

弥多羅尼(ミトラヤニー)とは母親の名であり、弗多羅(プトラ)は「子」、

を意味する。漢訳では、

満願子、
満願慈、
満足慈、
満厳飾女子、
満見子、

等々と記されるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%8C%E6%A5%BC%E9%82%A3

「富楼那」は、

十大弟子の中では一番早く弟子となった人、

で、富楼那と呼ばれた人は複数いたとされるが、

各地に赴き、よく教化の実を挙げ、9万9000人の人々を教化した、

とも伝えられるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%8C%E6%A5%BC%E9%82%A3。なお、法華経(授記品)に、

佛告諸比丘、汝等見是富楼那彌多羅尼子不、我常稱其於説法人中、最為第一、

とある。

阿難陀.gif



富楼那 (2).jpg


「富楼那」については、https://true-buddhism.com/founder/punna/に詳しい。

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
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2022年12月29日

入子の語りと入子の解体


高沢公信『古井由吉・その文体と語りの構造』を読む。

古井由吉論.jpg


最初の出会いは、『現代文学の発見』(學藝書林)と題された全集(全16巻)の別巻で企画された、無名の作家特集、『孤独のたたかい』http://ppnetwork.seesaa.net/article/469436412.htmlの中に、

犬養健、
竹内勝太郎、

などと並んで、古井由吉の、

先導獣の話、

が収録されていて、それが初見だと思う。そして、遡って処女作『木曜日に』を読み直した。『木曜日に』の冒頭は、古井由吉の語りの特徴を余すところなく示している。『木曜日に』は、次のように語り始められている。

鈍色にけぶる西の中空から、ひとすじの山稜が遠い入江のように浮び上がり、御越山の頂きを雷が越しきったと山麓の人々が眺めあう時、まだ雨雲の濃くわだかまる山ぶところの奥深く、幾重もの山ひだにつつまれて眠るあの渓間でも、夕立はそれと知られた。まだ暗さはほとんど変わりがなかったが、まだ流れの上にのしかかっていた雨雲が険しい岩壁にそってほの明るく動き出し、岩肌に荒々しく根づいた痩木に裾を絡み取られて、真綿のような優しいものをところどころに残しながら、ゆっくりゆっくり引きずり上げられてゆく。そして雨音が静まり、渓川は息を吹きかえしたように賑わいはじめる。
 ちょうどその頃、渓間の温泉宿の一部屋で、宿の主人が思わず長くなった午睡の重苦しさから目覚めて冷い汗を額から拭いながら、不気味な表情で滑り落ちる渓川の、百メートルほど下手に静かにかかる小さな吊橋をまだ夢心地に眺めていた。すると向こう岸に、まるで地から湧き上がったように登山服の男がひとり姿を現し、いかにも重そうな足を引きずって吊橋に近づいた。

と、まるで“いま”起きつつあることを、同時進行に語るような語り口が、実は、

《あの時は、あんたの前だが、すこしばかりぞっとさせられたよ》と、主人は後になって私に語ったものである。

と、「私」が、過去において宿の主人から聞いた話を再現して語っているのだということが、種明しされる。つまり、ここでまるでゼロ記号の羅列のような、終止形止めが目立つのも、それを思い出している“いま”ではなく、“そのとき”を“いま”とした語りを入子にしている(剥き出しにしている)からにほかならない。
だからむろん、この場合の「た」と「る」の不統一な使用は、語っている“いま”からの過去形と、“そのとき”を“いま”とする現在形の混同でないの、「た」が判断のそれとして、物語の現在に結びついて」語っている“そのとき”において、“いま”のように現前化されているからにほかなない。
だから、冒頭、「長くなった午睡」から目覚めた宿屋の主人の視線で、自分を客観化した「男」、つまり“そのとき”の「私」について、“そのとき”を現在として現前させた語りをとっている。

古井由吉の最も典型的な語りの特徴は、既に『木曜日に』でよく示されている。

「私」は、宿の人々への礼状を書きあぐねていたある夜更け、「私の眼に何かがありありと見えてきた」ものを現前化する。

それは木目だった。山の風雨に曝されて灰色になった板戸の木目だった。私はその戸をいましがた、まだ朝日の届かない森の中で閉じたところだった。そして、なぜかそれをまじまじと眺めている。と、木目が動きはじめた。木質の中に固く封じこめられて、もう生命のなごりもない乾からびた節の中から、奇妙なリズムにのって、ふくよかな木目がつぎつぎと生まれてくる。数かぎりない同心円が若々しくひしめきあって輪をひろげ、やがて成長しきると、うっとりと身をくねらせて板戸の表面を流れ、見つめる私の目を眠気の中に誘いこんだ。

厳密に言うと、木目を見ていたのは、手紙を書きあぐねている“とき”の「私」ではなく、森の山小屋にいた“そのとき”“そこ”にいた「私」であり、その「私」が見ていたものを「私」が語っている。つまり、
 ①「私」について語っている“いま”、
 ②「私」が礼状を書きあぐねていた夜更けの“とき”、
 ③山小屋の中で木目を見ていた“とき”、
 ④木目になって感じている“とき”、
の四層が語られている。しかし、木目を見ていた“とき”に立つうちに、それを見ていたはずの「私」が背後に隠れ、「私」は木目そのものの中に入り込み、木目そのもののに“成って”、木目が語っているように「うっとり」と語る。見ていたはずの「私」は、木目と浸透しあっている。動き出した木目の感覚に共感して、「私」自身の体感が「うっとり」と誘い出され、その体感でまた木目の体感を感じ取っている。

節の中心からは、新しい木目がつぎつぎに生まれ出てくる。何という苦しみだろう。その時、板戸の一隅でひとすじのかすかな罅がふと眠りから爽やかに覚めた赤児の眼のように割れてわずかに密集の中へ喰いこみ、そのまま永遠に向かって息をこらしている……。私も白い便箋の前で長い間、息をこらしていた。

最後に、視線は、“いま”語っている「私」へと戻ってくる。そして、その「私」のパースペクティブの入子になって書きあぐねていた“そのとき”の「私」の視線があり、その入子となって、小屋の中で木目を見ていた“そのとき”があり、更に木目に滑り込んで、木目に感応していた“そのとき”がある。と同時に、浸潤しあっていたのは、“そのとき”見ていた「私」だけでなく、それを“いま”として、眼前に思い出している語っている「私」もなのだということである。
そのとき、《見るもの》は《見られるもの》に見られており、《見られるもの》は《見るもの》を見ている。《見るもの》は、《見られるもの》のパースペクティブの中では《見られるもの》になり、《見られるもの》は、《見るもの》に変わっていく。あるいは《見るもの》は《見られるもの》のパースペクティブを自分のものとすることで、《見られるもの》は《見るもの》になっていく。その中で《見るもの》が微妙に変わっていく。
だが、その語りは、語っている「私」が、“いま”見たのにすぎない。“いま”“そのとき”を思い出して語っている「私」も、その入子になっている「私」も、木目も、その距離を埋めることはない。いやもともと隔たりも一体感も「私」が生み出したものなのだ。ただ、「私」はそれに“成って”語ることで、三者はどこまでいっても同心円の「私」であると同時に、それはまた「私」ではないものになっていく。それが「私」自身をも変える。変えた自分自身を語り出していく。そういう語りの可能性が、既に処女作で達成されたいるのである。

こうした語りの特徴を分析するツールとして、

三浦つとむ『日本語はどういう言語か』http://ppnetwork.seesaa.net/article/483830026.html

に出会ったことが大きい(『日本語はどういう言語か』については「詞と辞」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/483830026.html)で触れた)。ある意味、古井由吉の語りを絵解きするキー概念が見つかったと感じている。それを、
『槿(あさがお)』で例示してみるなら、『槿(あさがお)』は、こう始まる。

腹をくだして朝顔の花を眺めた。十歳を越した頃だった。

「腹をくだして朝顔の花を眺めた」とあれば、読み手は、話者が朝顔を眺めている場面を想定する。しかし続いて、「十歳を越した頃だった」とくると、なんだ、想い出の中のことだったかと思い知らされる、ということになる。しかし、ここに古井氏の語り構造の特徴がある。こういう次第を普通の(?)表現にしてみれば、

十歳を越した頃、腹をくだして朝顔の花を眺めていたことがあった。

となるだろう。両者のどこが違うのか。前節で取り上げたように、構造上は、「腹を下して朝顔の花を眺めてい」る場面が「た」によって客観化され、現前化されて、その上で、それが「十歳を越した頃」で「あった」と、過去のこととして時間的に特定され、語っている“いま”へと戻ってくるという構造になることはいずれもかわりない。
つまり、そう語る心象においては、一旦現前化された「朝顔の花を眺めてい」る場面が想定されており、その上で、“いま”へと戻って来ることで、時間的隔たりが表現されることとなる。
この日本語的表現からみた場合、

腹をくだして朝顔の花を眺めた。十歳を越した頃だった。

は、その心象の構造を語りに写し取ったものだということができるはずである。「辞」によって主体的表現が完結するとは、こういう構造にほかならない。これが古井氏の語りの第一の特色ということができる。

更に、『槿』の例を分析してみると、注意すべきなのは、この「腹をくだして朝顔の花を眺め」ていたのを想い出していたということをただ語っているだけではないということだ。それなら、

十歳を越した頃、腹をくだして朝顔の花を眺めていたことがあった。

と語ればすむ。こう語るのとの違いは、思い出されている場面を思い出しているのを語っているということにある。そこには、想い出の場面と思い出している場面の二つが現前しているのである。実は、これも、日本語の構造に根差している。
「詞」で客体的表現(これは客観的という意味だけではない。客観化した表現)であり、「辞」は主体的表現(主観的な感情や意志の表現)であり、“そのとき”について“いま”感じているという場合が一番分かりやすい。それを具体的に表現するとすれば、“そのとき”見えたものを描き、それを“いま”どう受け止めているかを描けば、正確に構造を写したことになるだろう。このとき、“そのとき”と“いま”は二重に描き出される。
もう少し突っ込んだ言い方をすれば、主人公を語っている“いま”と、主人公が朝顔を眺めている“とき”とは一致しているわけではないから、
 ①主人公を語っている“とき”、
 ②主人公が朝顔を眺めている“とき”、
 ③主人公に語られている、「十歳を越した」“そのとき”、
と、三重構造になっているというべきである。同時に、思い出されている“そのとき”の場面と、それを思い出している“いま”の場面とが、それを語る語り手のいる“とき”から、二重に対象化して、語り手は、それぞれを“いま”として、現前させているということにほかならない。日本語の例で言えば、

と言った.gif

 ①「桜の花が咲いて」いる“とき”、
 ②「桜の花が咲いていた」と「言っ」た“とき”、
 ③「桜の花が咲いていた」と「言った」と語っている“いま”、
の三つの“とき”があり(むろん、前述の通り、この語りを囲んで、④「と言った」と書いている“とき”があることは言うまでもない)、それぞれを現前化させていると言ったらわかりやすいはずである。そして現前化するとき、“そのとき”は“いま”として、それぞれがゼロ記号化した語りとなっているはずである。そうすることで、実は入子の語りは完結し、そこまで語りのパースペクティブは到達しているということを意味する。

そして、ここには、古井氏の語りを考えるとき、重大な意味が隠されている。
すなわち、③の語りの時点から見たとき、②の“とき”も①の“とき”も入子になっているが、単純な入子ではない。③から①を現前化するとき、話者は、②の発話者に“成って”それを現前化しているのである。もし、①が自分の回想だとしたら、“そのとき”の自分になっているし、もし他人(相手)の発話だとしたら、“そのとき”の他人(相手)の発話になって、それを現前化しているのである。だから、ここで語りのパースペクティブの奥行というとき、入子になっているのは、語られたこと自体だけではなく、語るもの自体をも入子にし、しかもその発話を入子の発話者に転換して入子にしているということを見逃してはならない。
だから、前節で触れたように、これがゼロ記号となっているときは、

と言う.gif

前述の①の時間を欠き、その分語りが奥行を欠いていることになるというのは見易いし、また「と言」う“とき”を“いま”としたとき、話者には相手が目の前にいることになり、その言う「桜の花が咲いていた」という言葉が“いま”発せられたことを写しているために、その発話だけが対象として見えるだけになるというのも見易いはずだ。
前者のような語りの構造は、語りのパースペクティブという面で考えるなら、語り出される“そのとき”が、前へ前へ(あるいは過去へ過去へ)と、発話者も含め、入子になって重ねられていくということでもある。これが、古井氏の語りの第二の特色ということができる。

これが『槿』だけではなく、処女作『木曜日に』以来のものなのだということは、前述の。『木曜日に』の冒頭の例で示したところだ。

古井氏の語りの第三の特色は、このようにゼロ記号化に落ち込まないことによって、“そのとき”を現前化するだけでなく、それぞれ入子とした語りの“いま”との距離を、つまり「辞」としての“いま”からの隔たりのすべてを語りのなかに持ち込んでくることに自覚的な点なのだ。これを語りのパースペクティブの奥行と言わなくてはなるまい。

こうした古井由吉の語りの奥行きを象徴的に描き出しているのは『哀原』である。

語り手の「私」は、死期の近い友人が七日間転がり込んでいた女性から、その間の友人について話を聞く。その女性の語りの中に、語りの“とき”が二重に入子となっている。
一つは、友人(文中では「彼」)と一緒にいた“とき”についての女性の語り。

お前、死んではいなかったんだな、こんなところで暮らしていたのか、俺は十何年間苦しみにくるしんだぞ、と彼は彼女の肩を掴んで泣き出した。実際にもう一人の女がすっと入って来たような、そんな戦慄が部屋中にみなぎった。彼女は十幾つも年上の男の広い背中を夢中でさすりながら、この人は狂っている、と底なしの不安の中へ吸いこまれかけたが、狂って来たからにはあたしのものだ、とはじめて湧き上がってきた独占欲に支えられた。

これを語る女性の語りの向う側に、彼女が「私」に語っていた“とき”ではなく、その語りの中の“とき”が現前する。「私」の視線はそこまで届いている。「私」がいるのは、彼女の話を聞いている“そのとき”でしかないのに、「私」は、その話の語り手となって、友人が彼女のアパートにやってきた“そのとき”に滑り込み、彼女の視線になって、彼女のパースペクティブで、“そのとき”を現前させている。「私」の語りのパースペクティブは、彼女の視点で見る“そのとき”を入子にしている(厳密にいうと、「私」を語る語り手がその外にいるが、それは省く)。

もう一つは、女性の語りの中で、男が女性に語ったもうひとつの語り。

或る日、兄は妹をいきなり川へ突き落とした。妹はさすがに恨めしげな目で兄を見つめた。しかしやはり声は立てず、すこしもがけば岸に届くのに、立てば胸ぐらいの深さなのに、流れに仰向けに身をゆだねたまま、なにやらぶつぶつ唇を動かす顔がやがて波に浮き沈みしはじめた。兄は仰天して岸を二、三間も走り、足場の良いところへ先回りして、流れてくる身体を引っぱりあげた。

と、そこは、「私」のいる場所でも、女性が友人に耳を傾けていた場所でもない。まして「私」が女性のパースペクティブの中へ滑り込んで、その眼差しに添って語っているのでもない。彼女に語った友人の追憶話の中の“そのとき”を現前させ、友人の視線に沿って眺め、友人に“成って”、その感情に即して妹を見ているのである。

時間の層としてみれば、
「私」の語る“とき”、
彼女の話を聞いている“とき”、
彼女が友人の話を聞いている“とき”、
更に、
友人(兄)が妹を川へ突き落とした“とき”、
が、一瞬の中に現前していることになる。
また、語りの構造から見ると、「私」の語りのパースペクティブの中に、女性の語りがあり、その中に、更に友人の語りがあり、その中にさらに友人の過去が入子になっている、ということになる。
しかも「私」は、女性のいた“そのとき”に立ち会い、友人の追憶に寄り添って、「友人」のいた“そのとき”をも見ている。“そのとき”「私」は、女性のいるそこにも、友人の語りのそこにもいない。「私」は、眼差しそのものになって、重層化した入子のパースペクティブ全てを貫いている。
それは、敢えて言えば、「私」の前に、時間軸を取り払えば、それぞれの語りを“いま”として、眼前に、並列に並べているのと同じなのである。

しかし、この折り畳まれた「入子」構造が、古井由吉の達成した語りの頂点ではない。『眉雨』では、その折り畳まれた入子の語りの「辞」をすべてゼロ記号化し、全く別の語りの世界を描いて見せたのである。それは、『山躁賦』『仮往生伝試文』へとつながる分水嶺になっているのである。

なお、全集『現代文学の発見』については、

『言語空間の探検(全集現代文学の発見第13巻)』http://ppnetwork.seesaa.net/article/477112809.html、『性の追求(全集現代文学の発見第9巻)』http://ppnetwork.seesaa.net/article/474922780.html、『政治と文学(全集現代文学の発見第4巻)』http://ppnetwork.seesaa.net/article/474256411.html、『日本的なるものをめぐって(全集現代文学の発見第11巻)』http://ppnetwork.seesaa.net/article/473881878.html)、『証言としての文学(全集現代文学の発見第10巻)』http://ppnetwork.seesaa.net/article/473706547.html、『物語の饗宴(全集現代文学の発見第16巻)』http://ppnetwork.seesaa.net/article/473489712.html、『青春の屈折上(全集現代文学の発見第14巻)』http://ppnetwork.seesaa.net/article/473010392.html、『青春の屈折下(全集現代文学の発見第15巻)』(http://ppnetwork.seesaa.net/article/473336507.html)、『日常の中の危機(全集現代文学の発見第5巻)』http://ppnetwork.seesaa.net/article/472764538.html、『存在の探求(上)(全集現代文学の発見第7巻)』http://ppnetwork.seesaa.net/article/471663095.html、『存在の探求(下)(全集現代文学の発見第8巻)』http://ppnetwork.seesaa.net/article/472034541.html、『黒いユーモア(全集現代文学の発見第6巻)』http://ppnetwork.seesaa.net/article/470946114.html、『方法の実験(全集現代文学の発見第2巻)』http://ppnetwork.seesaa.net/article/470800504.html、『歴史への視点(全集現代文学の発見・12巻)』http://ppnetwork.seesaa.net/article/470502694.html

で触れた。

参考文献;
高沢公信『古井由吉・その文体と語りの構造』(西田書店)
高沢公信「語りのパースペクティブ」http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic1-1.htm
高沢公信「眉雨論」http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic1-3.htm
高沢公信「中上健次論」http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic2-1.htm

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

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2022年12月30日

八功徳池(はっくどくすい)


西方にあり、八功徳水(はちくどくすい)といふ(新御伽婢子)、

の、

八功徳水、

は、

はっくどくすい、

とも訓ませるが、

極楽浄土にある七宝の池、

と注記がある(高田衛編・校注『江戸怪談集』)。阿弥陀経に、

また舎利弗、極楽国土には七宝(しっぽう)の池あり。八功徳水(はっくどくすい)そのなかに充満(じゅうまん)せり。池の底にはもつぱら金(こがね)の沙(いさご)をもつて地(じ)に布(し)けり。四辺の階道(かいどう)は、金(こん)・銀(ごん)・瑠璃(るり)・玻璃(はり)合成(ごうじょう)せり。上に楼閣(ろうかく)あり。また金・銀・瑠璃・玻璃・硨磲(しゃこ)・赤珠(しゃくしゅ)・碼碯(めのう)をもつて、これを厳飾(ごんじき)す。池のなかの蓮華は、大きさ車輪のごとし。青色(しょうしき)には青光(しょうこう)、黄色(おうしき)には黄光(おうこう)、赤色(しゃくしき)には赤光(しゃっこう)、白色(びゃくしき)には白光(びゃっこう)ありて、微妙(みみょう)香潔(こうけつ)なり、

とあるのを指しhttp://www.smj.or.jp/posts/houwa907.html

その(七宝の池)中に充満せり。その水清く涼しくて味(あぢはひ)甘露の如し(孝養集)、

とある、「七宝の池」は、

宝池をよめるはちす咲くたからの池にうく舟のまづ面影に浮びぬるかな(「草庵集(1359頃)」)、

と、

宝(たから)の池、

ともいい、

極楽浄土にある七宝で飾られた池で、そこには八功徳の水がたたえられている、

とある(精選版日本国語大辞典)。

「八功徳水」は、

八つの功徳を持つといわれる霊水、

をいうが、

八池水、
八定水、
八昧水、
八支徳水、

ともいいhttp://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E5%85%AB%E5%8A%9F%E5%BE%B3%E6%B0%B4、親鸞が、

七宝(しっぽう)の宝池(ほうち)いさぎよく 八功徳水(はっくどくすい)みちみてり 無漏(むろ)の依果(えか)不思議なり 功徳蔵(くどくぞう)を帰命(きみょう)せよ(浄土和讃)

と称えており、無量儒経には、

八功徳水、湛然盈満、清浄、香潔、味如甘露、

とあるが、その「八つの功徳」については、たとえば、

清、冷、軽、美、香、飲む時に適う、飲み已(をは)って患(うれへ)なし、臭からず、

の八種とあり(岩波古語辞典)、書言字考節用集(1717)には、

清浄、清冷、甘美、軽輭、美、香、飲無厭、潤沢、安和、飲時除飢渇一切患、飲已長養四大、

とあるが、「八つの功徳」は、経典によって異なり、倶舎論(くしゃろん)は、

須弥山をとりまく七内海に満ちる水、

として、

七中皆具八功徳水。一甘。二冷。三軟。四輕。五清淨。六不臭。七飮時不損喉。八飮已不傷腹、

と、

甘・冷・軟・軽・清浄・不臭・飲時不損喉(のどを損しない)・飲已不傷腹(腹を痛めない)、

の八徳としhttp://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E5%85%AB%E5%8A%9F%E5%BE%B3%E6%B0%B4

『称讃浄土経』(『仏説阿弥陀経』の異訳)は、

何等名爲八功徳水。一者澄淨、二者淸冷、三者甘美、 四者輕輭、五者潤澤、六者安和、七者飮時除飢渇等无量過患、 八者飮已定能長養諸根四大、增益種種殊勝善根、

と、

澄浄(ちょうじょう 澄み切っていて、底まで明らかに見える)・清冷(しょうりょう 清くて冷たい)・甘美(かんみ 甘くて美味しい)・軽軟(きょうなん 軽くて軟(やわ)らかい)・潤沢(じゅんたく 色艶があって、よく潤す)・安和(あんわ 身にも心にも心地が良い)・飲む時飢渇(きかつ)等の無量の過患(かげん)を除く(飲むと飢えや病気をいや)・飲み已(おわ)りて定(さだ)んで能(よ)く諸根(しょこん)四大(しだい)を長養(ちょうよう)し種々の殊勝の善根を増益(ぞうやく)す(飲むと心身を健やかに育てる)、

とするhttp://shinshu-hondana.net/knowledge/show.php?file_name=hakkudokusui

八功徳池図 (2).jpg

(八功徳池図(東本願寺) https://www.higashihonganji-gansyosya.jp/より)

『観経疏』(善導 ぜんどう)には、

此水即有八種之德。一者淸淨潤澤、即是色入攝。二者不臭、即是香入攝。三者輕。四者冷。五者輭、即是觸入攝。六者美、是味入攝。七者飮時調適。八者飮已無患、是法入攝。此八德之義已在『彌陀義』中廣説竟。

と、

清浄(しょうじょう)・潤沢(にんたく 清浄で光っている)・臭(くさ)からず・軽(かろ)し・冷(すず)し・軟やわらか・(やわらかい)・美(うま)し・(甘美かんびである)飲む時調適(じょうちゃくす 飲んでいるときに心地がよい)・飲みをはりて患(うれひ)なし、

とあるhttp://www.smj.or.jp/posts/houwa907.html

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

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