2022年12月09日

いはんや悪人をや


金子大栄校注『歎異抄』を読む。

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「直接に耳の底に留まるところを記録したのは、ただこの『歎異抄』のみ」(校注者解題)とされる、

弟子唯円が、親鸞の肉声を伝えている貴重な本である。本書の構成は、


親鸞の語録(第九章まで)
序(第十章)
唯円の歎異(第十一以下十八章まで)
結(述懐)

となっており、

大切の証文ども、少々ぬきいでまいらせさふらふて、目やすにして、この書にまいらせてさふらふなり、

と結びに書くように、親鸞の言葉を証文として示したかったもののようである。その意図は、最後に、

古親鸞のおほせごとさふらひしをもむき、百分が一、かたはしばかりをもひおもひでまいらせて、かきつけさふらふなり。かなしきかなや、さひはひに念仏しながら、直に報土にむまれずして辺地にやどをとらんこと。一室の行者のなかに信心ことなることなからんために、なくなくふでをそめて、これをしるす。なづけて歎異抄といふべし。

と結ぶ。様々な異論に対する唯円の抗議と嘆きの書である。

徹頭徹尾、他力の本意を述べていく。

他力真実のむねをあかせるもろもろの聖教は、本願を信じ、念仏をまうさば、仏になる、そのほかなにの学問かは往生の要(えう)なるべきや、

の真義は、自力の、

難行(なくぎやう)、

に対し、他力の、

易行(いぎやう)、

たる所以を示し続ける。有名な、

善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや、

も、自力の目から見るからで、

悪おそるべからず、彌陀の本願をさまたぐるほどの悪なきがゆへに、

ということもあるが、

(弥陀の)願ををこしたまふ本意、悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もともと往生の正因なり。よて善人だにこそ往生すれ、まして悪人はと、おほせさふらいき、

という意味なのである。なまじの、

はからい、

たとえば、

念仏まうさんごとに、つみをほろぼさんと信ぜんは、すでにわれとつみをけして、往生せんとはげむにてこそさふらふなれ、

とあるように、

これだけ善行をしたのだから、
これだけ喜捨をしたのだから、
これだけ念仏を唱えたのだから、

というおのが思惑そのものが、すでにおのれの力の拙さを知らないという意味で、

他力本願、

からそれている。親鸞は言う、

親鸞は弟子一人ももたずさふらふ。そのゆへは、わがはからひにて、ひとに念仏をまうさせさふらはばこそ、弟子にてもさふらはめ、ひとへに弥陀の御もよほしにあづかて念仏まうしさふらふひとを、わが弟子とまうすこと、きはめて荒涼(無遠慮)のことなり、

と。だから、念仏する行為を、

おのが善根とする故に、信を生ずることあたはず、

とする(教行信証)のであり、

念仏は行者のための非行・非善なり、

とし、

わがはからひにてつくる善にはあらざれば、非善といふ、

といい、唯円は、こんな皮肉を述べている

この身もて、さとりをひらくとさふらふなるひとは、釈尊のごとく種々の応化の身をも現じ、三十二相、八十随形好(ずいぎやうかう)をも具足して、説法利益さふらふにや、

と。

わがはからひなるべからず、
わがはからはざるを、自然とまうすなり、

の究極は、親鸞の、

念仏は、まことに浄土にむまるるたねにてやはんべるらん、また地獄におつべき業(ごふ)にてやはんべるらん、総じて存知(ぞんち)せざるなり、

と言い切るところに在る。究極、これは、

宗教、

そのものの破壊でもあるかに見える。しかし、中世、

一向門徒、

は、中世の潮流、現世での、

自力救済、

の象徴のような、

一揆、

によって、現世の武家権力と対峙していく、

巨大教団、

となっていくのは、何とも皮肉である。

参考文献;
金子大栄校注『歎異抄』(岩波文庫)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

posted by Toshi at 04:30| Comment(0) | 書評 | 更新情報をチェックする