いつの頃にか有りけん、都のもどり橋の辺に、夜な夜な変化のもの有りと云ひわたる事あり(曽呂利物語)、
とある、
もどり橋、
は、
一条戻り橋、
のことで、
堀川の一条大路に架かる。古代、中世を通じて京域の境とされ、多くの伝承を生んだ。橋名の由来は、「一条の橋をもどり橋といへるは、宰相三善清行のよみがへり給へるゆへに名付けて侍る」(『撰集抄』)とされている、
とある(高田衛編・校注『江戸怪談集』)。
(一条戻り橋(都名所図会) https://www.nichibun.ac.jp/meisyozue/kyoto/page7/km_01_015.htmlより)
『都名所図会』には、
戻橋(もどりばし)は一条通堀川の上にあり。安倍晴明十二神将をこの橋下に鎮め事を行なふ時は喚んでこれを使ふ。世の人、吉凶をこの橋にて占ふ時は神将かならず人に託して告ぐるとなん。『源平盛衰記』に中宮御産の時二位殿一条堀川戻橋の東の爪に車を立てさせ、辻占を問ひ給ふとなん。また三善清行(みよしきよつら)死する時、子の浄蔵、父に逢はんため、熊野・葛城を出て入洛し、この橋を過ぐるに及んで父の喪送に遇ふ。棺を止めて橋上に置き、肝胆を摧き、数珠を揉み、大小の神祇を禱り、遂に咒力陀羅尼の徳によって閻羅王界に徹し、父清行(きよつら)忽ち蘇生す。浄蔵涙を揮ふて父を抱き、家に帰る。これより名づけて世人戻橋といふ。これ洛陽の名橋なり。
とある(https://sites.google.com/site/miyakomeisyo/home/maki-no-ichi--heian-jou-kubi/modo-hashi)。
この橋は、
794年の平安京造営に際し、平安京の京域の北を限る通り「一条大路」に堀川を渡る橋として架橋された、
とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E6%9D%A1%E6%88%BB%E6%A9%8B)が、文献上は、平安中期の『権記』(藤原行成の日記)の長徳四年(998)の条に見えるのが最も古いとされる(日本伝奇伝説大辞典)。当時は、一条大路を、
戻橋路、
と呼んだとある(仝上)。
橋は、何度も作り直され、現在も当時と同じ場所にある。
平安中期以降、堀川右岸から右京にかけては衰退著しかったために、堀川を渡ること、即ち戻り橋を渡ることには特別の意味が生じ、さまざまな伝承や風習が生まれる背景となった、
という(仝上)。
(一条戻橋(いちじょうもどりばし)晴明神社に復元された架替前のもの https://sites.google.com/site/miyakomeisyo/home/maki-no-ichi--heian-jou-kubi/modo-hashi)
「一条戻り橋」は、
洛中と洛外を分ける橋である、
と同時に、
この世とあの世の境目、
という意味も持っているとも言われ(仝上)、『平家物語』では、
源頼光の頼光四天王の一人、渡辺綱が、鬼の腕を太刀で切り落とした場所、
と伝える。また、
願い事をすると陰陽師・安倍晴明が橋の下に隠した式神・十二神将が橋を渡る人の口を借りてお告げをする「橋占」としても有名、
とあり、
平時子は娘の建礼門院徳子が高倉天皇の子・安徳天皇を生む際、難産なため橋の東のたもとで橋占を行った、
とされている(仝上)。
(渡辺綱・一條戻り橋の辺にて髭切丸の太刀を以茨木童子の腕を斬((歌川国芳) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%A1%E8%BE%BA%E7%B6%B1より)
「戻り橋」の名の由来は、上記中にもあった通り、鎌倉後期の仏教説話集『撰集抄』に、
一条の橋をもどり橋といへるは、宰相三善清行のよみがへり給へるゆへに名付けて侍る。源氏宇治の巻に、ゆくはかへるの橋なりと申たるは是なり、
とあるのによる。それは、
三善清行が病篤くなり、熊野にいた子浄蔵が急ぎ帰ったが、すでに善行は没し、野辺の送りの一行とこの橋の上で出会い、父の棺に向かって加持祈祷すると善行が蘇生した、
という話である。この橋は、前述の通り、
京の内外をわかつ、
だけではなく、
橋占い、
の場所としても知られ、『源平盛衰記』に、
一条戻橋と云ふは、昔安倍晴明が天文の淵源を極めて、十二神将を仕ひにけるが、其妻、職神の貌に畏れければ、彼十二神を橋の下に呪し置きて、用事の時は召仕ひけり。是にて吉凶の橋占を尋ね問へば、必ず職神、人の口に移りて、善悪を示すと申す、
とある。こうした伝承のせいか、
今も婚儀の際はこの橋を通行せず、古は旅立には態(わざ)とこの橋を通って発足したという、
という民俗もあったようである(大辞典)。
(一条戻橋(堀川の水流が戻る前の一条戻橋) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E6%9D%A1%E6%88%BB%E6%A9%8Bより)
(現在の一条戻橋 https://www.digistyle-kyoto.com/magazine/10861より)
ただ、「もどる」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/489522919.html)で触れたように、「もどる」は、
モドは、モドク(擬)・モヂル(捩)と同根、物がきちんと収まらず、くいちがい、よじれるさま、
とあり(岩波古語辞典)、
もとる(悖る)と同根、
ともある(仝上)。しかし、
モトホルの転、
ともある(広辞苑)。柳田國男は、「戻る」には、
元来引き返す、遁げて行くという意味はなかったように思います。漢字の戻も同様ですが、日本語の「戻る」という語は古くは「もとほる」といって、前へも行かず後へも帰らず、一つ処に低徊していることであったのです、
と指摘した(女性と民間伝承)上で、いわゆる「戻橋」についても、
橋占、辻占を聴くために、人がしばらく往ったり来たりして、さっさと通ってもしまわぬ橋というのでありました、
ことを傍証として挙げている(仝上)。
「もとほる」は、
廻る、
徘徊、
などと当て(岩波古語辞典・大言海)、新撰字鏡(898~901)に、
邅、毛止保留(もとほる)、
類聚名義抄(11~12世紀)に、
紆、モトホル、マツフ・メグル、
纏、マツハル・モトホル、
色葉字類抄(1177~81)に、
繚、モトヲル、繞、旋、
等々とあり、多く、それを説明する漢字が、
邅(テン めぐる)、
紆(ウ めぐる)、
纏(テン まとう、まつわる、からまる)、
と、
よじれる、
くいちがう、
意ではなく、
めぐる、
や、それからの派生と思われる、
からまる、
の意としていたと見え、
神風の伊勢の海の生石(おひし)に這ひ廻(もと)ろふ細螺(しただみ)のい這ひもとほり撃ちてし止まむ(古事記)、
と、
ぐるぐると一つの中心をまわる、
めぐる、
まわる、
という意味である(岩波古語辞典・大言海)。「戻り橋」は「橋占」由来のほうが、上述の、
ゆくはかへるの橋(源氏物語)
の意味を合わせてみると、リアリティがある気がするのだが。
参考文献;
乾克己他編『日本伝奇伝説大辞典』(角川書店)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
ラベル:一条戻り橋