2023年01月02日
化生
いかさま化生(けしょう)の類ならんと、恐れてすすまず(新御伽婢子)、
化生、
は、
変化、幽霊の類、
と注記がある(高田衛編・校注『江戸怪談集』)。
化生、
は、
かせい、
と訓ませると、
汝天地の中に化生して(太平記)、
と、
形を変えて生まれること、
の意味で、
化身に同じ、
ともあり(広辞苑)、また、
変質形成、
の意で、
赤星病にかかったナシの葉での海綿組織から柵(サク)状組織への変化、
のように、
ある特定の器官に分化した生物の組織・細胞が再生や病理的変化に伴って著しく異なった形に変化する、
意で使う(大辞林)。また、
水面無風帆自前、徒弄化生求子戯(玩鴎先生詠物百首(1783)・泛偶)、
と、西域から中国に伝わった風俗の、
七夕の日に、女性が子を得るまじないとして水に浮かべる蝋作りの人形、
の意味もある(精選版日本国語大辞典)。
けしょう、
と訓ませると、
無而忽現、名化生(瑜加論)、
と、仏語の、
四生の一つ、
で、
湿生化生(ケシャウ)はいさ知らず体を受けて生るる者、人間も畜生も出世のかどは只一つ(浄瑠璃「釈迦如来誕生会(1714)」)、
と、
母胎や卵殻によらないで、忽然として生まれること、
をいい、
天界や地獄などの衆生の類、
を指す(精選版日本国語大辞典)。
「四生」(ししょう)は、「六道四生」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/486172596.html)で触れたように、生物をその生まれ方から、
胎生(たいしょう 梵: jarāyu-ja)母胎から生まれる人や獣など、
卵生(らんしょう 梵: aṇḍa-ja)卵から生まれる鳥類など、
湿生(しっしょう 梵: saṃsveda-ja)湿気から生まれる虫類など、
化生(けしょう upapādu-ka)他によって生まれるのでなく、みずからの業力によって忽然と生ずる、天・地獄・中有などの衆生、
の四種に分けた(岩波仏教語辞典)ひとつ。その意味から、
後時命終。悉生東方。宝威徳上王仏国。大蓮華中。結跏趺坐。忽然化生(「往生要集(984~85)」)、
と、
極楽浄土に往生する人の生まれ方の一つ、
として、
弥陀の浄土に直ちに往生すること、
の意、さらに、
其の柴の枝の皮の上に、忽然に彌勒菩薩の像を化生す(「異記(810~24)」)、
化身、
化人、
の意で、
仏・菩薩が衆生を救済するため、人の姿をかりて現れること、
の意として使うが、ついには、
まうふさが打ったる太刀もけしゃうのかねゐにて有間(幸若「つるき讚談(室町末‐近世初)」)、
と、
ばけること、
の意となり、
化生のもの、
へんげ、
妖怪、
の意で使われるに至る(精選版日本国語大辞典・広辞苑・大辞林)。で、
化生の者(もの)、
というと、
ばけもの、
へんげ、
妖怪、
の意の外に、それをメタファに、
美しく飾ったり、こびたりして男を迷わす女、
の意でも使う。
「化」(漢音カ、呉音ケ)は、
左は倒れた人、右は座った人、または、左は正常に立った人、右は妙なポーズに体位を変えた人、いずれも両者を合わせて、姿を変えることを示した会意文字、
とある(漢字源)が、別に、
会意。亻(人の立ち姿)+𠤎(体をかがめた姿、又は、死体)で、人の状態が変わることを意味する、
とか(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%8C%96)、
会意形声。人と、𠤎(クワ 人がひっくり返ったさま)とから成り、人が形を変える、ひいて「かわる」意を表す。のちに𠤎(か)が独立して、の古字とされた、
とか(角川新字源)、
指事文字です。「横から見た人の象形」と「横から見た人を点対称(反転)させた人の象形」から「人の変化・死にさま」、「かわる」を意味する「化」という漢字が成り立ちました、
とか(https://okjiten.jp/kanji386.html)とある。
参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
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2023年01月03日
偕老のふすま
夜半の鐘に枕をならべては、偕老のふすまをうれしとよろこび、横雲の朝(あした)に鳥の鳴く時は、別離の袂をしぼりて、悲しとす(新御伽婢子)、
の、
偕老のふすま、
は、
夫婦共に老いるまで連れ添おうという、睦まじいかたらい、
と注記がある(高田衛編・校注『江戸怪談集』)が、「ふすま」は、前に触れたように、
衾、
被、
と当てるかつての寝具で、
御ふすままゐりぬれど、げにかたはら淋しき夜な夜なへにけるかも(源氏物語)、
と、
布などで作り、寝るとき身体をおおう夜具、
で(広辞苑)、雅亮(満佐須計 まさすけ)装束抄(平安時代末期の有職故実書)には、
御衾は紅の打たるにて、くびなし、長さ八尺、又八幅か五幅の物也、
とあるように(一幅(ひとの)は鯨尺で一尺(約37.9センチ))、
八尺または八尺五寸四方の掛け布団、袖と襟がない、
とある(岩波古語辞典)が、
綿を入れるのが普通で、袖や襟をつけたものもある(日本語源大辞典)とある。そうなると、袖のついた着物状の寝具、
掻巻(かいまき)、
に近くなる。『観普賢経冊子(かんふげんきょうさっし)』(平安時代)の図を見ると、余計にそう見える。また、
御張台(みちょうだい)に敷く衾は、紅の打(うち)で襟のついていないもの、襟にあたるところに紅練糸(ねりいと)の左右撚(よ)り糸で三針差(みはりざし)といって縫い目の間隔を長短の順に置いた縫い方をする、
ともある(雅亮装束抄)。この起源を、日本書紀の天孫降臨の際に本文に、
高皇産霊尊が瓊瓊杵尊を「真床追衾」を以て覆い、天磐座を放ち天八重雲を排分けて降臨させたとあり、一書では高皇産霊尊が瓊瓊杵尊に「真床覆衾」を着せて、天八重雲を排分けて、天下し奉ったことに由来する、
という説がある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A1%BE)。平安時代などには、結婚時に、夫婦となった二人にこれを掛ける、衾覆い(同衾)という儀式に使われることもあった(仝上)という。
その意味では、
偕老のふすま、
は、
偕老同衾、
と、ほぼ同義と見ていい。
(ふすま(『和漢三才図会』) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A1%BEより)
「偕老」は、
老を偕(とも)にするの意、
で、
夫婦が老年になるまで、生活を共にすること、
また、
その仲がむつまじいこと、
をいうが、ほぼ同義の、
偕老同穴、
は、「同穴」が、
死んで穴を同じくして葬られること、
から、
生きては共に老い、死しては同じ穴に葬られる、
意に対して、「偕老のふすま」は、
生きては共に老い、
に意味の比重がある、という違いだろう。
偕老同穴は、詩経・邶風・撃鼓の、
死生契闊、與子成説、執子之手、與子偕老(子(し)の手を執りて子と偕(とも)に老いん)、
や、
詩経・王風・大車の、
穀(=生)則異室、死則洞穴(穀(い)きては則ち室を異にすとも、死しては則ち穴を同じうせん)、
等々を典拠とし(字源)、
生きては共に老い、死しては墓穴を同じくして葬られる、
意で、
偕老の契(ちぎ)り、
同穴の契り、
という言い方もする。
因みに、この「偕老同穴」にちなむ名を持つ、
カイロウドウケツ科の六放海綿類の一群、
がある。
単体で円筒状で、全長三〇〜八〇センチ。広い胃腔をもつ。上端の口は半球状に膨出した節状板で覆われ、ガラス質の骨格は格子状、下端は延びて長い根毛になり深海底に立つ。胃腔中にドウケツエビがすみ、多く雌雄一対が共にいることからこのエビに「偕老同穴」の名がつき、のち海綿の名となった、
とある(広辞苑)。
(カイロウドウケツ科の海綿動物の総称 広辞苑より)
(オーエンカイロウドウケツの胃腔に共生するドウケツエビの雄(上)と雌 大辞泉より)
しかし、「偕老洞穴」という言葉に、むしろ、
老妻の我を覩(み)る顔色(がんしょく)同じ(百憂集行)、
という一節を、ふと、思い出す。杜甫は嘆く、
即今倐忽已五十(即今倐忽(しゅくこつ)にして已(すで)に五十)
坐臥只多少行立(坐臥(ざが)のみ只だ多くして行立(こうりゅう)少(まれ)なり)
将笑語供主人(強(し)いて笑語(しょうご)を将(もっ)て主人に供し)
悲見生涯百憂集(悲しみ見る生涯に百憂(ひゃくゆウ)の集まるを)
入門依旧四壁空(門に入れば旧に依って四壁(しへき)空(むな)し)
老妻覩我顔色同(老妻の我を覩(み)る顔色(がんしょく)同じ)
痴児未知父子礼(痴児(ちじ)は未だ父子(ふし)の礼を知らず)
叫怒索飯啼門東(叫怒(きょうど)して飯(はん)を索(もと)め 門東に啼く)
と(http://itaka84.upper.jp/bookn/kansi/265.html)。
参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
簡野道明『字源』(角川書店)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
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2023年01月04日
家に杖つく
我にひとしき他国の男一人ありて、家に杖つくばかりの老人にむかひ、物がたりする有り(新御伽婢子)、
のある、
家に杖つく、
は、
五十歳をさす、
と(高田衛編・校注『江戸怪談集』)あり、
五十杖於家、六十杖於郷、七十杖於国、八十杖於朝(「礼記」王制)、
を引く。
昔、中国では五十歳になると、家の中で杖をつくことを許された、
とある(精選版日本国語大辞典)。
六十歳は村里で杖をつくことが許され、
七十歳は国都で杖をつくことが許され、
八十歳以上の老臣には天子が杖を賜わり、朝廷で杖をつくことが許された、
ということらしい。で、七十歳を指して、
国中どこでも杖を突くことを許された、
という意味で、
国に杖突く、
という言い方もある。『論語』には、
郷人飮酒、杖者出、斯出矣(郷人(きょうじん)の飲酒するときは、杖者(じょうしゃ)出(い)ずれば、斯(すなわ)ち出(い)ず)、
と、
杖者、
とあり、
六十歳以上の老人、
と注記がある(貝塚茂樹訳注『論語』)。郷で杖を突く以上の年齢という意味になる。
「いへ(え)」は、
家族の住むところ、家庭・家族・家柄・家系をいうのが原義。類義語ヤ(屋)は、家の建物だけをいう(岩波古語辞典)、
上代の文献では「家屋」はヤと表現されることが多く、イエ(いへ)はむしろ「家庭」の意味合いが強かった(精選版日本国語大辞典)、
とあり、ハードよりソフトを指していたと思われ、和名類聚抄(平安中期)に、
家、人所居處也、伊閉、
とある。その語源は、
イホ(盧)と同根か(岩波古語辞典)、
寝戸(いへ)の義(へ(戸)は乙類)にて、宿所の意かと云ふ(大言海・日本語源広辞典・家屋雑考)、
イ(一族)+へ(隔て、甲類へ)、一族を隔てるもの、一族を仕切るものもの意(日本語源広辞典)
イヘ(睡戸)の義(日本語原学=林甕臣)、
「い」は接頭語で「へ」は容器を意味し、人間を入れる器を表す(日本古語大辞典=松岡静雄)、
イハ(岩)の転、フエ(不壊)の意(和語私臆鈔)、
等々諸説あるが、「いへ」が、ハードではなくソフトを意味したとすると、「器」説は消えるように思う。
「つゑ(え)」は、
丈、
とも当てるが、
突居(ツキスヱ)の略、或いは突枝(ツキヱ)の略、ツの韻よりキヱはゑに約まる(大言海・日本語源広辞典)、
ツクヱダ(突枝)の義(和句解・日本釈名)、
ツはツク(突・衝)の語幹、ヱはエ(枝)の転(日本古語大辞典=松岡静雄・国語の語根とその分類=大島正健)、
ツキ--ヲエ(小枝)の義(雅言考)、
と諸説あるものの、ほぼ「つく」に絡ませている。
(「家」 甲骨文字・殷 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%AE%B6より)
「家」(漢音カ・コ、呉音ケ・ク)は、
会意文字。「宀(やね)+豕(ぶた)」で、大切な家畜に屋根をかぶせたさま、
とある(漢字源)。ただ、別に、
「豕」は生贄の犬で、建物を建てる際に犠牲を捧げたことによる(白川静)、
とする説もあり(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%AE%B6)、同趣旨の、
会意。宀と、豕(し いけにえのぶた)とから成る。もと、いけにえをささげて祖先神を祭る「たまや」の意を表した。ひいて、「いえ」の意に用いる、
とする説(角川新字源)の他に、
会意文字です(宀+豕)。「家の屋根・家屋」の象形と「口の突き出ている、いのしし」の象形から「いのしし等のいけにえを供える神聖な所」を表し、そこから、そこを中心とする「いえ」を意味する「家」という漢字が成り立ちました、
とするものもある(https://okjiten.jp/kanji265.html)。
「杖」(漢音チョウ、呉音ジョウ)は、
会意兼形声。丈は「十+攴(て)」の会意文字で、手尺の幅(尺)の十倍の長さをあらわす。杖は「木+丈」で、長い棒のこと、
とある(漢字源)。
参考文献;
貝塚茂樹訳注『論語』(中公文庫)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
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2023年01月05日
黄泉
自ら参り侍らんが、司録神(しろくじん)に申せし暇(いとま)の限りは近ければ、又黄泉(よみじ)に帰るなり(新御伽婢子)、
にある、
黄泉、
を、
よみじ、
と訓ませているが、これは、
黄泉路、
冥途、
とも当て、
黄泉よみへ行く路、
冥土へ行く路、
の意(広辞苑・日本語の語源)で、また、
冥土、
あの世、
そのものをも指し、
よみ(黄泉)、
と同義でも使う(仝上)。因みに、司録神の「司録」は、
司命(しみょう)、
ともに、
閻魔庁(えんまのちょう)の書記官をいい、
閻魔卒(えんまそつ)、
は、閻魔に仕えて罪人を責める獄卒で、閻魔付きの鬼である。
黄泉、
は、漢語で、
こうせん、
と訓み、
中国で、「黄」は地の色にあてるところから、
蚓上食槁攘(乾土)、下飲黄泉(孟子)、
と、
地下の泉、
の意だが、転じて、
誓之曰、不及黄泉、無相見也(左伝)、
と、
使者の行くところ、
よみじ、
冥途、
の意でも使う(字源)。
(月原因不明の熱病に臥せった平清盛は三日三晩に亘ってうなされ悶え苦しんだ末に死んだ(岡芳年『平清盛炎焼病之図(たいらのきよもりひのやまいのず 1883年(明治16年)』)https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%80%B6%E7%94%9F%E7%A5%9Eより)
黄泉、
を当てた、和語、
よみ、
は、
下方、
黄泉、
と当てて、
したへ
したべ、
と訓ませ、
下の方の意、
で、
稚(わか)ければ道行き知らじ幣(まひ (謝礼の)贈物、まいない)は為(せ)む黄泉(したへ)の使負(つかひお)ひて通(とほ)らせ(万葉集)、
と、
死者の行く世界、
黄泉、
の意で使う。「よみ」を、
泉下、
九泉、
というのに通じる(大言海)。
さて、和語「よみ」は、
ヤミ(闇)の転か。ヤマ(山)の転とも(広辞苑)、
ヤミ(闇)の轉(仙覚抄・万葉集類林・冠辞考続貂・言元梯・国語の語根とその分類=大島正健・神代史の新研究=白鳥庫吉)、
ヨモツ(黄泉)のヨモ(ヨミの古形、ツは連帯助詞)の転、ヤミ(闇)の母音交替形(岩波古語辞典)、
夜見(ヨミ)の義にて、暗き處の意、夜の食國(ヲスクニ)を知ろしめす月読命(つくよみのみこと)のよみも夜見か、闇(やみ)と通ず(大言海)、
梵語Yami、中国語ヨミ(預見)で閻魔または夜摩の訛転(外来語辞典=荒川惣兵衛)、
と(なお、「よもつ」は、「つ」は「の」の意の格助詞。「黄泉(ヨミ)の」の意(日本国語大辞典・大辞林)で、「よもつ国」「よもつ醜女(しこめ)」「黄泉つ平坂(ひらさか)」「黄泉つ竈食(へぐい 黄泉の国のかまどで煮炊きしたものを食うこと、黄泉の国の者となることを意味し、現世にはもどれなくなると信じられていた)」「黄泉つ軍(いくさ)」「黄泉つ神(かみ)」「黄泉つ国(くに)=よみ(黄泉)」などと使う)、ほぼ、
死者の魂が行くという地下の世界をヤミ(闇)といった。「ヤ」が母交(母音転換)[ao]をとげてヨミ(夜見、黄泉)の国に転音し、そこへ行く道をヨミヂ(冥途)といった(日本語の語源)、
と、
闇(やみ)、
に収斂する。だから、
よみじ、
も、
ヤミジ(闇路)の義(日本釈名・和訓栞・本朝辞源=宇田甘冥)、
ヨミヂ(夜見地)の義(柴門和語類集)、
ヨミト(泉門)の転(河海抄)、
と、「よみ」の説の延長にある。
(黄泉比良坂(島根県松江市東出雲町) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%84%E6%B3%89より)
因みに、古事記で、
イザナギは死んだ妻・イザナミを追ってこの道を通り、黄泉国に入った、
という、
黄泉国の出入口を、
黄泉比良坂(よもつひらさか)、
といい、出雲国に存在する、
伊賦夜坂(いぶやざか)、
に擬されている(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%84%E6%B3%89)。また、出雲国風土記では、
黄泉の坂・黄泉の穴、
とあり、
人不得不知深浅也夢至此磯窟之辺者必死、
とされ、
猪目洞窟(出雲市猪目町)、
に比定されている(仝上)。
(猪目洞窟(いのめどうくつ) http://furusato.sanin.jp/p/mysterious/izumo/2/より)
参考文献;
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
簡野道明『字源』(角川書店)
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コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
2023年01月06日
盂蘭盆会
文月(ふみづき)は、諸寺より始めて、在家に至って、盂蘭盆会の仏事を営み、なき人の哀れをかぞへて、しるしの墓に詣でて(新御伽婢子)、
にある、
盂蘭盆会、
は、
梵語ullambana、倒懸(とうけん)と訳され、逆さ吊りの苦しみの意とされるが、イランの語系で霊魂の意のurvan、
とする説もあり(広辞苑)、また最近では、
盂蘭盆を「ご飯をのせた盆」である、
とする説(辛嶋静志)もある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%82%E8%98%AD%E7%9B%86%E4%BC%9A)。
「盂蘭盆会」は、また、
盂蘭盆供(供(く)を読まず)、
とも言い、略して、
盂蘭盆、
うらんぼん、
さらに略して、
盆、
お盆、
また、
歓喜会、
精霊会(しようりようえ)、
魂祭(たままつ)り、
盆祭、
等々とも言い(大言海・日本国語大辞典他)、
盂蘭盆経の目連(もくれん)説話、
に基づき、もと中国で、
苦しんでいる亡者を救うための仏事で七月一五日に行われた、
が、日本に伝わって、
初秋の魂(タマ)祭りと習合し、
祖先霊を供養する仏事、
となった(大辞林)。江戸時代からは、
一三日から一六日、
にかけて行われ、現在では、一三日夜に迎え火をたいて霊を迎えいれ、一六日夜に送り火で霊を送る。
ふつう、迎え火をたいて死者の霊を迎え、精霊棚(しようりようだな)を作って供物をそなえ、僧による棚経(たなぎよう)をあげ、墓参りなどをし、送り火をたいて、霊を送る、
が、現在は、地方により陰暦で行う所と、一月遅れの八月一五日前後に行う所とがある(大辞泉・日本国語大辞典)。因みに、棚経とは、
お盆の時期に菩提寺の住職が、檀家の家を一軒一軒訪ね、精霊棚(しょうりょうだな)や仏壇の前でお経を読むこと、
をいい、棚経の棚とは、
精霊棚(盆棚 お盆に仏壇の前に設置する供養の棚)、
をいう(https://www.bonchochin.jp/bonchochin3-5.html)。
ただこの行事の典拠になった、
盂蘭盆経、
は、
西晋の竺法護(じくほうご)訳の経典と伝えるが、インドに素材を求めた後代の中国偽経、
で、釈迦の十大弟子の一人、
目連が餓鬼道の母を救う孝行説話が中心、
となり(仝上)、たとえば、
(目連)法眼を以て、其亡母の、地獄の餓鬼道に在りて、頭下足上(づげそくじゃう)の苦を受け居るを見て、救はむことを釈迦に請ひ、其教に因りて、餓鬼に施さむの心にて、七月十五日、百味の飲食(おんじき)を供へて衆僧に供養し、母の倒(さかしま)に懸かるを解かむ(解倒懸(げたうけん)と云ふ)としたりと云ふ、十六日に行ふは、僧の自恣の日を期したるなるべし、
とある(大言海)。「頭下足上」は、
地獄へ堕ちてゆく時は頭を下にして、足を上にして真っ逆様に落ちてゆく、
のをいい、
頭下足上にして二千年を経て下に向かいて行けども、いまだ無間地獄に至らず、
というように、落ち続けている状態である(http://aki-ryusenji.jugem.jp/?eid=271)。
また、「自恣」とは、
一般に夏安居(げあんご)の最後の日(七月一五日)に、集会した僧が安居中の罪過の有無を問い、反省懺悔(ざんげ)しあう作法、
で(精選版日本国語大辞典)、「安居」とは、
仏教の出家修行者たちが雨期に1か所に滞在し、外出を禁じて集団の修行生活を送ること、
をいい、
サンスクリット語バルシャーバーサvārāvāsaの訳、
で、
雨(う)安居、
夏(げ)安居、
ともいい、4か月ほどインドの雨期のうち3か月間(4月16日~7月15日、または5月16日~8月15日)は、修行者は旅行(遊行 ゆぎょう)をやめて精舎(しょうじゃ)や洞窟(どうくつ)にこもって修行に専念した(日本大百科全書)とある。つまり、
旧暦7月15日、
は、仏教では安居が開ける日である「解夏」にあたり、
仏教僧の夏安居の終わる旧暦7月15日に僧侶を癒すための施食を行う、
つまり、本来、
安居の終った日に人々が衆僧に飲食などの供養をした行事、
が転じて、祖先の霊を供養し、さらに餓鬼に施す行法(施餓鬼)となっていき、それに、儒教の孝の倫理の影響を受けて成立した、目連尊者の亡母の救いのための衆僧供養という伝説が付加された、
と考えられる(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%82%E8%98%AD%E7%9B%86%E4%BC%9A)。
唐代から宋代には中国の民俗信仰を土台として盂蘭盆、施餓鬼と中元節が同じ7月15日に行われるようになり、儀礼や形式、作法などにも共通性が見られるようになるなど道教の行事との融合が進んだとされる(仝上)が、日本では、斉明天皇三年(657)に、
須弥山の像を飛鳥寺の西につくって盂蘭盆会を設けた、
記され、同五年7月15日(659)には京内諸寺で『盂蘭盆経』を講じ七世の父母を報謝させたと記録されているのが古い例となる(仝上)。
(「盆踊り」(歌川豊国『十二ケ月 七月盆踊』) 盆(盂蘭盆)に人々が広場などに集まって歌や音頭に合わせて踊る行事。本来は迎えた祖先の霊や精霊を楽しくにぎやかにあの世に送り返すためのものであったといわれる。中世以後は念仏踊の流行に伴って、各地で多彩な盆踊りが生まれた。日本大百科全書より)
参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
2023年01月07日
不興
一念をはげみて、敵の命をとれ。相かまへて忘失せば、不興するぞ(新御伽婢子)、
の、
不興、
は、
勘当、親子の縁を切って追放すること、
と注記がある(高田衛編・校注『江戸怪談集』)。
「不興」は、
ふきょう、
あるいは、
ぶきょう、
とも訓ませ、その場合、
あまりに何もかも一つ御事にて、無興なるほどなれば(「愚管抄(1220)」)、
旨酒高会も無興(ブケウ)して、其の日の御遊はさて止みにけり(太平記)、
などと、
無興、
とも表記する(精選版日本国語大辞典)。
不興、
は、文字通り、
不興其藝不能楽學(礼記)、
と、
面白からず、
興味なし、
しらける、
の意である(字源)。で、
不興をかこつ、
という言い方をする。しかし、我が国では、
ふけうしたてまつりて、こもりをりてこひかなしび(「宇津保物語(970~999頃)」)、
と、
機嫌を悪くする、
機嫌が悪い、
また、
立腹、
といった意味で使い(精選版日本国語大辞典)、さらに限定して、
主従三世の契り絶え果て、永く不興と宣へば(大観本謡曲「巴(室町末)」)、
久しく父為義が不興を得て豊後のかたに身を寓(よ)せし(椿説弓張月)、
と、
主君や父母の機嫌をそこね勘気を蒙ること、
勘当を受けること、
の意で使い(仝上・広辞苑)、
不興を買う、
不興をこうむる、
という言い方をする。また、その特殊な使い方として、
あづまやが思はく余り不興(フケウ)ととどむる折から(浄瑠璃「平家女護島(1719)」)、
と、男女関係での、
つれないこと、
無愛想なこと、
かわいがらないこと、
といった意味にも使ったりする(仝上)。
(「興」 甲骨文字・殷 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E8%88%88より)
「興」(漢音キョウ、呉音コウ)は、
会意文字。舁は「左右の手+左右の手」で、四本の手で担ぐこと。興は「舁+同」で、四本の手で同じく動かして、一斉に持ち上げおこすことを示す、
とある(漢字源)が、
舁(よ 両手で持ち上げる)と、同(ともにする)とから成る。力を合わせて持ち上げる、「おこす」「おこる」意を表す、
とあるのが分かりやすい(角川新字源)。同趣旨ながら、
会意文字です(舁+同)。「4つの手」の象形(「4つの手で物をあげる」の意味)と「上下2つの筒」の象形(同じ直径のつつが「あう・同じ」の意味)から、力を合わせて物をあげる事を意味し、そこから、「おこす」、「始める」、「よろこぶ」を意味する「興」という漢字が成り立ちました、
ともある(https://okjiten.jp/kanji815.html)。
参考文献;
簡野道明『字源』(角川書店)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
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ラベル:不興
2023年01月08日
かぞいろ
つづきて知らぬ位牌あり。「いづれぞ」と問ふに、父母(かぞいろ)の二人也(新御伽婢子)、
にある、
かぞいろ、
は、
かぞいろは、
ともいい、
父母、
両親、
の意で、古くは、
かそいろ(は)、
と、
清音(広辞苑)、
「かぞ」(父)+「いろは」(生母)、
である(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E3%81%8B%E3%81%9E%E3%81%84%E3%82%8D%E3%81%AF)。
父母、
は、
故、天稚彦の、親(チチハハ)、属(うからやから)、妻、子(こ)、皆、謂(おも)はく(神代紀)、
と、
ちちはは、
とも訓み、日葡辞書(1603~04)には、
Chichifaua(チチハワ)、
とあり、
ちちはわ、
とも訓んだ(精選版日本国語大辞典)。上代東国方言では、
等知波波(トチハハ)え斎(いは)ひて待たね筑紫なる水漬(みづ)く白玉取りて来(く)までに(万葉集)、
と、
とちはは、
とも訓ませた(仝上)。また、
近くをだにはなたずててははのかなしくする人なりければ(「大和物語(947~57頃)」)、
と、
ててはは、
とも、「父母(ふぼ)」が訛って、
身躰髪ふは父母(フホ)のたまはれる処也(「百座法談(1110)」)、
と、
ふほ、
とも、
夫母(ブモ)の諫にもかかはらず(「源平盛衰記(14C前)」)、
と、
ぶも、
とも訓ませた(「も」は「母(ボ)」の呉音)。
其(そ)れ父母(カゾイロ)の既に諸子(もろもろのみこたち)に任(ことよせ)たまひて(神代紀)、
かぞいろとやしなひ立てし甲斐もなくいたくも花を雨のうつをと(「信長公記(1598)」)、
と、
「かぞいろ」(古くは「かそいろ」)は、
故其の父母(カソイロハ)二はしらの神(神代紀)、
かぞいろは何に哀と思ふらん三年(みとせ)に成ぬ足立ずして(「太平記(14C後)」)、
と、
「かぞいろは」(古くは「かそいろは」)の、「かぞ」(古くは「かそ」)は、
いろ(生母)の対、
で、
父、
を指し、「いろ」は、
母を同じくする(同腹である)ことを示す語、
で、
同母兄弟(いろせ)、
同母姉妹(いろも)、
同母弟・妹(いろど)、
等々と使う(岩波古語辞典)。
「かぞ」の由来は、
小児に起れる語なるべし、畏(かしこ)の略転か、小児語には、下略して訛れる多し(大言海)、
世次を数えるのは父をもってするところから、数ふる義か(円珠庵雑記)、
数えることを教えるところからか(和訓栞)、
動詞カサヌ(層)の語幹カサと同源(続上代特殊仮名音義=森重敏)、
カズ(一)の転(言元梯)、
家呂の義で、ロは助語(百草露所引賀茂真淵説)、
家尊の音(類聚名物考)、
カタセコの反(名語記)、
と諸説あるが、はっきりせず、また、
「ちち」との相違も不明、
とある(日本語源大辞典)。なお、「父」については「おやじ」で触れたように、古くは、「父」を、
ち、
と言っており、それに、
父、
と当てるのは、古く、古事記にも、
甘(うま)らに聞こし以ち食(を)せまろが父(ち)(古事記)、
とあり、この場合、「ち」は、父親の意だけではなく、
男性である祖先・親・親方などに対する親愛の称、
で(広辞苑)、
チチ、オヂのチ、祖先、男親の意、
として使われた(岩波古語辞典)。で、
おほぢ(祖父)、
おぢ(「おぼぢ」の転)、
おぢ(小父)
のように他の語の下に付く場合は連濁のため「ぢ」となることがある(デジタル大辞泉)。いずれにしても、
もとは「ち」に父の意があったことは(上記の古事記から)わかる。「ち」はまた「おほぢ」(祖父)「をぢ」(叔父、伯父)の語基である、
とある(日本語源大辞典)ように、「ち」を父親の意味でも使っていたことに変わりはない。では、いつごろから、「ちち」と使っていたのかというと、
労(いた)はしければ玉鉾(たまほこ)の道の隈廻(くまみ)に草手折(たお)り柴(しば)取り敷きて床(とこ)じものうち臥(こ)い伏して思ひつつ嘆き伏せらく国にあらば父(ちち)取り見まし家にあらば母(はは)取り見まし……、
と万葉集にある。「ち」も「ちち」も、ほぼ同時期に使われていたと思われる。ただ、
歴史的には、チ・チチ・テテ・トトの順で現われる、
とある(日本語源大辞典)ので、「ち」が先行していたようであるが、
常に重ねてちちと云ふ、
ともあり(大言海)、
母(おも)、母(はは)との対、
とあるところを見ると、
ちち、
と
はは、
は対である。こう見ると、古くから「ちち」と「かぞ」とは並行して使われており、どう区別していたのかははっきりしない。
では、「いろ」はどうかというと、「同母(いろ)」で触れたように、
イラ(同母)の母音交替形(郎女(いらつめ)、郎子(いらつこ)のイラ)。母を同じくする(同腹である)ことを示す語。同母兄弟(いろせ)、同母弟(いろど)、同母姉妹(いろも)などと使う。崇神天皇の系統の人名に見えるイリビコ・イリビメのイリも、このイロと関係がある語であろう、
とある(岩波古語辞典)。この「いろ」が、
イロ(色)と同語源(続上代特殊仮名音義=森重敏)、
色の語源は、血の繋がりがあることを表す「いろ」で、兄を意味する「いろせ」、姉を意味 する「いろね」などの「いろ」である。のちに、男女の交遊や女性の美しさを称える言葉となった。さらに、美しいものの一般的名称となり、その美しさが色鮮やかさとなって、色彩そのものを表すようになった(語源由来辞典)、
と、色彩の「色」とつながるとする説もあるが、
其の兄(いろえ)神櫛皇子は、是讃岐国造の始祖(はじめのおや)なり(書紀)、
と、
血族関係を表わす名詞の上に付いて、母親を同じくすること、母方の血のつながりがあることを表わす。のち、親愛の情を表わすのに用いられるようになった。「いろせ」「いろと」「いろも」「いろね」など、
とあり(精選版日本国語大辞典)、
異腹の関係を表わす「まま」の対語で、「古事記」の用例をみる限り、同母の関係を表わすのに用いられているが、もとは「いりびこ」のイリ、「いらつめ」のイラとグループをなして近縁を表わしたものか。それを、中国の法制的な家族概念に翻訳語としてあてたと考えられる、
とされる(仝上)。
「いろ」の由来は、
イラ(同母)の母音交替形(岩波古語辞典)、
イロ(色)と同語源(続上代特殊仮名音義=森重敏)、
など以外に、
イは、イツクシ、イトシなどのイ。ロは助辞(古事記伝・皇国辞解・国語の語根とその分類=大島正健)、
イロハと同語(東雅・日本民族の起源=岡正雄)、
イヘラ(家等・舎等)の転(万葉考)、
イヘ(家)の転(類聚名物考)、
蒙古語elは、腹・母方の親戚の意を持つが、語形と意味によって注意される(岩波古語辞典)、
「姻」の字音imの省略されたもの(日本語原考=与謝野寛)、
等々あるが、蒙古語el説以外、どれも、「同腹」の意を導き出せていない。といって蒙古語由来というのは、いかがなものか。
イロハと同語、
であり、類聚名義抄(11~12世紀)に、
母、イロハ、俗に云ふハハ、
とある。つまり、
イロは、本来同母、同腹を示す語であったが、後に、単に母の意とみられて、ハハ(母)のハと複合してイロハとつかわれたものであろう(岩波古語辞典)、
ハは、ハハ(母)に同じ、生母(うみのはは)を云ひ、伊呂兄(え)、伊呂兄(せ)、伊呂姉(セ)、伊呂弟(ど)、伊呂妹(も)、同意。同胞(はらから)の兄弟姉妹を云ひしに起これる語なるべし(大言海)
とあるので、「いろ」があっての「いろは」なので、先後が逆であり、結局、
いら、
いり、
とも転訛する「いろ」の語源もはっきりしない。
(「父」 甲骨文字・殷 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%88%B6より)
「父」(「父の意」の意;慣用ホ、漢音フ、呉音ブ、「年老いた男」の意;慣用ホ、漢音呉音フ)は、
会意文字。父は「おの+又(手)」で、手に石おのを持って打つ姿を示す。斧(フ)の原字。もと拍(うつ)と同系。成人した男性を示すのに、夫(おっと)という字を用いたが、のち、父の字を男の意に当て、細分して、父は「ちち」を、夫は「おとこ、おっと」をあらわすようになった。また甫をあてることもある。覇(ハ おとこの長老)・伯(長老)もこれと同系、
とある(漢字源)が、
おのを持った手を象る象形文字で(ただし普通おのは「斤」と描かれるためこの分析は不自然である)、
ともある(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%88%B6)。で、
会意。(手)と、丨(おの)とから成る。「斧(フ)」の原字。武器を手に持っているさまにより、一族をとりしまる者、ひいて「ちち」の意を表す、
ともある(角川新字源)が、
象形文字です。「手にムチを持つ」象形から、「一族の統率者、ちち」、「男子の総称」を意味する「父」という漢字が成り立ちました。古来、子供の為にムチや斧を持って獲物を狩りに行く男性の姿から「父」という漢字が生まれました、
とする説もある(https://okjiten.jp/kanji27.html)。
「母」は「同母(いろ)」で触れた。
参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
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2023年01月09日
かづらきの神
かづらきの神も在(ま)さば、岩橋をわたし給へと、独り言して力なく過ごし(新御伽婢子)、
にある、
かづらきの神、
は、
葛城の神、
と当て、
修験道祖といわれる役の行者のこと。葛城の山に岩橋を架けたという伝説がある、
と注記される(高田衛編・校注『江戸怪談集』)が、役の行者と葛城の神は異なり、明らかに間違っている。
「葛城の神」は、後世、
かつらぎの神、
とも訓ませ、
奈良県葛城山(かつらぎさん)の山神、
で、
一言主神(ひとことぬしのかみ)、
とされ(精選版日本国語大辞典)、昔、
役行者(えんのぎょうじゃ)の命で葛城山と吉野の金峰山(きんぷせん)との間に岩橋をかけようとした一言主神が、容貌の醜いのを恥じて、夜間だけ仕事をしたため、完成しなかったという伝説から、恋愛や物事が成就しないことのたとえや、醜い顔を恥じたり、昼間や明るい所を恥じたりするたとえなどにも用いられる、
とある(仝上)。この橋を、
かづらきや渡しもはてぬものゆゑにくめの岩ばし苔おひにけり(「千載和歌集(1187)」)、
と、
久米岩橋(くめのいわばし)、
という。橋が完成しないのに怒った行者は葛城の一言主神(ひとことぬしのかみ)を召し捕らえ、見せしめに呪術で葛で縛って、谷底に捨て置いた、との伝説がある。これを基にしたのが、能の、
葛城(かず(づ)らき)、
である(https://noh-oshima.com/tebiki/tebiki-kazuraki.html)。因みに、「役の行者」とは、7世紀後半の山岳修行者で、本名は、
役小角(えんのおづぬ)、
あるいは、
役優婆塞(えんのうばそく)、
ともいい、
修験道(しゅげんどう)の開祖、
で、『続日本紀(しょくにほんぎ)』文武(もんむ)天皇三年(699)5月24日条に、伊豆島に流罪された記事があり、実在した人物で、
大和国(奈良県)葛上(かつじょう)郡茅原(ちはら)郷に生まれ、葛城山(かつらぎさん 金剛山)に入り、山岳修行しながら葛城鴨(かも)神社に奉仕し、陰陽道(おんみょうどう)神仙術と密教を日本固有の山岳宗教に取り入れて、独自の修験道を確立した、
とされる(日本大百科全書)。吉野金峰山(きんぶせん)や大峰山(おおみねさん)他多くの山を開いたが、保守的な神道側から誣告(ぶこく)されて、伊豆大島に流されることになる。この経緯が、
葛城山神の使役、
や
呪縛(じゅばく)、
として伝えられたものとみなされる(仝上)。
葛城(かづらき)の神もしばしなど仰せらるるを、いかでかは筋かひ御覧ぜられむとて、なほ臥(ふ)したれば、御格子(みかうし)も参らず(枕草子)、
は、この伝説を踏まえて、恥ずかしがって明るくなると引っ込んでしまう清少納言を、中宮が冗談でこう呼んだのである。
「一言主神」は、
大和葛城の鴨氏の祭神、
である。延喜式神名帳には、
葛城坐一言主神社、
とあり、
吉凶を一言で託宣する神、
とされる(日本伝奇伝説大辞典)。初出は、古事記・雄略天皇条に、天皇が葛城山に巡幸された折、向こうの山の尾根から天皇や従者と似た服装の人々が登るのに出会い、天皇が、服装の無礼を責めると、対等の態度をとり、尊大なので、
その名告(の)れ、ここにおのおの名を告りて放たん、
と、告られると、
吾先に問はえき、故、吾先に名告をせむ。吾は悪事(まがごと)も一言、善事(よごと)も一言、言い離つ神。葛城の一言主の大神なり、
と申し、天皇は恐れ畏み、
恐(かしこ)し、輪が大神、うつしおみあらんとは覚らざりき、
と言い、太刀や弓矢、衣服を献上して和がなり、一言主神は馳せの山口まで還幸を見送った、とされる。こうした伝承について、
名を告ることは古代信仰観上服属を意味する、
として、
葛城氏と雄略天皇とが対立し、葛城氏が敗北した経緯を語るもの、とする説がある(仝上)。
(葛城一言主神社(奈良県御所市) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E8%A8%80%E4%B8%BBより)
参考文献;
乾克己他編『日本伝奇伝説大辞典』(角川書店)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
2023年01月10日
阿育王の七宝
倩(つらつら)思ふに阿育王(あいくおう)の七宝も命尽きんとする時、是をすくふ価なく(新御伽婢子)、
の
阿育王(あいくおう)、
は、古代インドの、
アショカ(アショーカ)王、
のことで、
父王の没後、兄弟を殺し、摩掲陀国王となった。その莫大な材の中の七つの宝、
と注記がある(高田衛編・校注『江戸怪談集』)。「七宝」とは、『南伝大蔵経』に、
輪宝・象宝・馬宝・マニ宝・玉女宝・居士宝・将軍宝、
とある(https://www.jstage.jst.go.jp/article/jeb1947/1956/32/1956_32_4/_pdf)。
摩掲陀国は、
マガダ国、
を指し、仏典上、
摩訶陀国、
と表記されている(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%AC%E3%83%80%E5%9B%BD)。
アショカ王の「阿育」は、
サンスクリット語Asoka(パーリ語Asoka)に相当する音写、
無憂王(むうおう)、
とも漢訳する(https://true-buddhism.com/history/ashoka/)のは、アショカの名前は花の、
アソッカ(無憂樹)、
に由来する(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%BC%E3%82%AB%E7%8E%8B)。また、
阿輸迦(あゆや)王、
阿輸迦(あしゆか)王、
ともいう(精選版日本国語大辞典・大辞泉)。
マウリヤ朝第3代の王、
で、
インド亜大陸をほぼ統一、
し、西はアフガニスタンから東はバングラデシュまで各地にアショーカ王の碑が残る(仝上)。
釈尊滅後およそ100年(または200年)に現れた、
という伝説があり、古代インドにあって仏教を守護した大王として知られる。
アショカ王が建立したとされる柱あるいは塔は、
アショーカ王の柱、
アショーカ・ピラー、
アショーカ塔、
阿育王塔、
等々と呼ばれるが、表面に碑文が刻まれており、仏教の歴史の解明にかかせない貴重な資料とさるれる(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%BC%E3%82%AB%E7%8E%8B)。また、釈尊の遺骨(舎利)をインド各地に分配して、
八万四千もの仏塔、
を建てたとされる(http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E3%82%A2%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%BC%E3%82%AB%E7%8E%8B)。
(ヴァイシャリーのアショーカ王柱。紀元前250年頃に建立された https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%BC%E3%82%AB%E7%8E%8Bより)
アショーカは99人の兄弟を殺した、
とされるが、アショーカ王時代の記録には、
彼の兄弟が何人も地方の総督の地位にあったこと、
が記されており、少なくとも兄弟の殆どを殺害したという仏典の伝説とは一致しない。また、仏教だけではなく、広くさまざまな宗教を保護したことがわかっている(仝上)。
アショカ王の財力については、
当時インド最大の鉄鉱石の産地、
であり、
肥沃なガンジス平原の中央に位置し、
農産物のほか鉱産物にも恵まれていた(仝上)とされ、こうした経済力を背景にマウリヤ朝はインド亜大陸のほぼ全域を統一できたとされるので、膨大であったとは推測できる。
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2023年01月11日
新発意(しぼち)
此の後、新発意(しぼち)と喝食(かつしき)と、つれだちて縁に出でたるよる(新御伽婢子)、
の、
新発意、
とは、
出家したばかりの小坊主、
とある(高田衛編・校注『江戸怪談集』)。なお、「喝食」については「沙喝」で触れたように、禅宗用語で、正確には、
喝食行者(かつじきあんじゃ、かっしきあんじゃ)、
といい、「喝」とは、
称える、
意で、禅寺で規則にのっとり食事する際、
浄粥(じようしゆく)、
香飯香汁(きようはんきようじゆ)、
香菜(きようさい)、
香湯(こうとう)、
浄水、
等々と食物の種類や、
再進(再請 さいしん お替わり、食べ始めてから五分~十分くらいしたところで再び浄人が給仕にやって来る)、
出生(すいさん 「さん」は「生」の唐宋音。「出衆生食」の略。自分が受けた食事の中からご飯粒を七粒ほど(「生飯(さば)」)取り出し施食会(せじきえ)を修し、一切の衆生に施すこと)、
収生(しゆうさん 出生の生飯(さば)を集める)、
折水(せつすい 食べ終わった器にお湯を入れて器を洗い、それを回収する)、
等々と食事の進め方を唱え(http://chokokuji.jiin.com/他)、
食事の種別や進行を衆僧に知らせること、
また、
その役名、
をいい、本来は年齢とは無関係であるが、禅宗とともに中国から日本に伝わった際、
日本に以前からあった稚児の慣習が取り込まれて、幼少で禅寺に入り、まだ剃髪をせず額面の前髪を左右の肩前に垂らし、袴を着用した小童が務めるものとされた、
とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%96%9D%E9%A3%9F・精選版日本国語大辞典・日本大百科全書)。
「新発意」は、
「しんぼち」の撥音の無表記、
つまり、
シンボチのンを表記しない形、
である(広辞苑・デジタル大辞泉)が、
シンボツイの転、
とある(岩波古語辞典)ので、
シンボツイ→シンボチ→シボチ、
という転訛の流れの中で、
しんぽっち、
しんぼち、
とも訓ませ(http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E6%96%B0%E7%99%BA%E6%84%8F)、あるいは、
しかも、もろもろの新発意(シンホツイ アラタニココロヲヲコス)の菩薩、ほとけの滅後におきて、もしこの語をきかば(「本仮名書き法華経(鎌倉中)」)、
と、
しんぼつい、
とも、
文政六年癸未四月真志屋五郎作新発意(シンボッチ)寿阿彌陀仏(森鴎外「寿阿彌の手紙(1916)」)、
と、
しんぼっち、
とも訓ませる(精選版日本国語大辞典)。
新たに発心(ほっしん)して仏門にはいった者、
仏門にはいってまもない者、
を指すので、必ずしも「小坊主」を指すわけではない。浄土真宗では、
得度した若い男子、
を新発意と呼ぶ。
「発意」(ほつい・はつい)は、漢語で、
卓然発意、忍苦受忍(浄住子)、
と、
心を起こす、
意で(字源)、和語では、
住民の発意による投票、
というように、
思いつくこと、
考え出すこと、
発案、
の意で、訛って、
ほっち、
ほち(ホッチの約)、
と、
発心(ほっしん)、
と同義で使う(広辞苑)。「発意」の意味を、仏門へ入る意に限定したのが、
新発意、
で、
初めて道心(菩提心ぼだいしん)を発おこして仏道に入ること、またその修行者、
を指すことになる(http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E6%96%B0%E7%99%BA%E6%84%8F)。
菩提が新発意した場合、
新発意の菩薩は五十二位中十信の位にあるもので、仏道修学の日が浅いことから、
新学の菩薩、
といい、『維摩経』中には、
其の神通を得たる菩薩は、即ち自ら形を変じて四万二千由旬と為し、獅子座に坐す。諸の新発意の菩薩及び大弟子は皆昇ること能わず、
とあり、『大智度論』には
般若波羅蜜随喜の義は新学の菩薩の前に説くべからず。何を以ての故に。若し少福徳善根の者ありて、是れ畢竟空の法を聞かば、即ち空を著して是の念を作さん、
とあり、『安楽集』に、
新発意の菩薩は機解軟弱なり。発心すと雖いえども、多く浄土に生ぜんと願ず、
と、それぞれ新発意の菩薩の立場を示している(仝上)とある。
「発(發)」(漢音ハツ、呉音ホツ・ホチ)は、
会意兼形声。癶(ハツ)は、左足と右足とがひらいた形を描いた象形文字。それに殳印(動詞の記号)を加えた字(音ハツ)は、左右にひらく動作をあらわす。發はそれを音符とし、弓を加えた字で、弓をはじいて発射すること。ぱっと離れてひらく意を含む、
とある(漢字源)。
形声。意符弓(ゆみ)と、音符癹(ハツ)とから成る。弓を射る、転じて、「おこる」意を表す。教育用漢字は省略形による、
とも(角川新字源)、
会意兼形声文字です(弓+癶+殳)。「弓」の象形と「上向きの両足」の象形と「手に木のつえを持つ」象形から「弓を引きはなつ」を意味する「発」という漢字が成り立ちました、
ともある(https://okjiten.jp/kanji526.html)が、ほぼ趣旨は同じである。
(「意」 金文・西周 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%84%8Fより)
「意」(イ)は、
会意文字。音とは、口の中に物を含むさま。意は「音(含む)+心」で、心中に考えをめぐらし、おもいを胸中にふくんで外に出さないことをしめす、
とある(漢字源)。別に、
会意。心と、音(おと、ことば)とから成り、ことばを耳にして、気持ちを心で察する意を表す。ひいて、知・情のもとになる意識の意に用いる、
とも(角川新字源)、
会意文字です(音+心)。「刃物と口の象形に線を一本加え、弦や管楽器の音を示す文字」(「音」の意味)と「心臓の象形」から言葉(音)で表せない「こころ・おもい」を意味する「意」という漢字が成り立ちました、
ともある(https://okjiten.jp/kanji435.html)。
参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
ラベル:新発意(しぼち) 初発心(しょほっしん)
2023年01月12日
夢は五臓の煩い
夢は五臓の虚よりなすなれば、はかなく、跡(あと)なき事のみにて、誠すくなし(新御伽婢子)、
の、
夢は五臓の虚、
は、
夢は五臓の煩(わづら)ひ(譬喩尽)、
の謂いのようである(高田衛編・校注『江戸怪談集』)。『譬喩尽(たとへづくし)』とは、松葉軒東井編の、
江戸後期の諺語辞典、
で、
天明六年(一七八六)序。寛政一一年(一七九九)頃まで増補、
とあり、
ことわざを中心に、詩歌・童謡・流行語・方言などの類に至るまで広く集めたもの、
とある(精選版日本国語大辞典)。
夢は五臓の疲れ、
ともいうが、
夢を見るのは、五臓の疲れが原因であることにたとえる、
とある(故事ことわざの辞典)。五臓とは、
肝臓・心臓・脾臓(ひぞう)・肺臓・腎臓(じんぞう)、
の五つをいう(仝上)。このことわざは、
悪い夢を見た人へのなぐさめとして用いることが多いようです、
とある(https://kotowaza.avaloky.com/pv_nig02_02.html)。
「ゆめ」については触れたことがあるが、
イメ(寝目)の転(広辞苑・岩波古語辞典)、
寝目(イメ)、又は寝見(イミ)の転(大言海)、
イメ(寝用)の転(卯花園漫録)、
イミネの略転か(日本釈名)、
ユはユウベ(夕)、ミはミル(見る)の意(和句解・日本釈名)、
ヨルミエの反(名語記)、
ユはユルム、しまりのない事を目で見る意から(日本声母伝)、
などとあり、
イは寝、メは目。眠っていて見るものの意(岩波古語辞典)、
寝見(イミエ)の約、沖縄にてはいまもイメ、イミと云ふ(大言海)、
と解釈できる。「い」は、
寝、
睡眠、
などと当て(大言海・岩波古語辞典)、
目を閉じて寝入ること、
寝るの、臥すことを、広く云ふと、稍異なり、寝寐(イス)ると重ねても云ふ、
とあり(大言海)、
人間の生理的な睡眠、類季語寝(ネ)はからだを横たえること、ネブリ(眠)は時・所・形かまわずする居眠り、
とある(岩波古語辞典)、「い(寝)」は、「臥す」とは違うということである。「い(寝)」は、
朝寝(アサイ)、
熟寝(ウマイ)、
安寝(ヤスイ)、
と熟語としての他、
玉手(たまで)差し枕(ま)き股長(ももなが)に寝(い)は寝(な)さむをあやにな恋ひ聞こし(古事記)、
と、
寝(イ)を寝(ネ)、
寝(イ)も寝ず、
といった句としても使う(仝上)とある。「な(寝)」は、「ぬ(寝)」と同じで、「ぬ(寝)」は、
なす(寝)のナと同根、
とあり(仝上)、
今造る久邇(くに)の都に秋の夜の長きに独り宿(ぬる)が苦しさ(万葉集)
と、
横になる、
意である(仝上 下二段活用 ね・ね・ぬ・ぬる・ぬれ・ねよ)。
「なす(寝)」は、
動詞「ぬ(寝)」に上代の尊敬の助動詞「す」が付いて音の変化したもの、
で(精選版日本国語大辞典)、
門に立ち夕占(ゆふけ)問ひつつ吾(あ)をまつとな(寝)すらむ妹(いも)を逢ひて早見む(万葉集)、
と、
「ぬ(寝)」の尊敬語、
で、
おやすみなさる、
の意とある(仝上)。因みに、
寝ぬ(いぬ)、
という言い方もあり、
名詞「い(寝)」と動詞「ぬ(寝)」との複合語、
で、
夕されば小倉の山に鳴く鹿はこよひは鳴かず寐宿(いね)にけらしも(万葉集)、
と、
寝る、
眠る、
意となる(精選版日本国語大辞典)。
「夢」(漢音ボウ、呉音ム)は、
会意文字。上部は、蔑(ベツ 細目 大きな目の上に、逆さまつげがはえたさまに戈を添えて、傷つけてただれた眼で、よく見えないこと、転じて、目にも留めないこと)の字の上部と同じで、羊の赤くただれた目。よく見えないことを表わす。夢はそれと冖(おおい)および夕(つき)を合わせた字で、よるの闇におおわれて物が見えないこと、
とある(漢字源)。別に、
象形。角(つの)のある人が寝台に寝ている形にかたどり、悪夢の意を表す、
とも(角川新字源)、
会意兼形声文字です(瞢の省略形+夕)。「並び生えた草の象形と人の目の象形」(「目がはっきりしない」の意味)と「月」の象形(「夜」の意味)から、「ゆめ」、「暗い」を意味する「夢」という漢字が成り立ちました、
ともある(https://okjiten.jp/kanji172.html)。
参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
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2023年01月13日
時めく
家、時めきて田園多く、子供五人持てり(新御伽婢子)、
の、
時めきて、
は、
繫栄していて、
と注記がある(高田衛編・校注『江戸怪談集』)。
「時めく」は、
今を時めく、
といった使い方をするが、
「めく」は接尾語、
で、「ときめく」で触れたように、
名詞・形容詞語幹・副詞について四段活用の動詞をつくる(岩波古語辞典)、
体言・副詞などについて、五段活用の動詞をつくる。特にそう見える、そういう感じがはっきりする(広辞苑)、
名詞・形容詞・形容動詞の語幹や擬声語・擬態語などに付いて「~のようになる」「~らしくなる」「~という音を出す」などの意の動詞を作る接尾辞(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E3%82%81%E3%81%8F)、
名詞や副詞、形容詞や形容動詞の語幹に付いて、…のような状態になる、…らしいなどの意を表す。「夏めく」「なまめく」「ことさらめく」「時めく」「ちらめく」「ひしめく」「ざわめく」(大辞林)、
等々とある。で、「時めく」は、
東宮の学士になされなどして、ときめく事二つなし(宇津保物語)、
と、
よい時機にあって声望を得、優遇される(岩波古語辞典)、
よい時に遭(あ)って全盛をほこる、よい時機にめぐりあって世間にもてはやされる(精選版日本国語大辞典)、
といった意味で使い、その派生で、
みささぎや、なにやときくに、ときめきたまへる人々、いかにと思ひやりきこゆるに、あはれなり(「蜻蛉日記(974頃)」)、
いつれの御時にか、女御更衣あまたさふらひ給けるなかに、いとやむことなききはにはあらぬが、すぐれて時めき給ふありけり(源氏物語)、
と、
主人・夫などから、特別に目をかけられる、
寵愛(ちょうあい)をうけて、はぶりがよくなる、
意や、
春宮に立たせ給ひなんと、世の人時明(トキメキ)あへりしに(太平記)、
と、
にぎやかにうわさする、
意でも使う(精選版日本国語大辞典)。「もてはやす」という語感であろうか。
この「時めく」と、
胸がときめく、
という、
一夜のことや言はむと、心ときめきしつれど(枕草子)、
と、
喜びや期待などで胸がどきどきする、
意で使う「ときめく」との関係については、「ときめく」で触れたように、「時めく」の、
語源は、「時+めく(そういう様子になる)」です。「良い時期に巡り合い、栄える」意味です。現代語では、喜びや期待などで、胸がどきどきする意です。トキメキは、その名詞形です、
と(日本語源広辞典)、
時めく→ときめく、
とする説がある。これでいくと、状態表現としての「栄えている」という、客体表現から、主体の感情表現に転じたということになる。しかし、どの辞書(広辞苑・大辞林・大辞泉・日本国語大辞典・岩波古語辞典)も、
時めく、
と
ときめく、
とは、別項を立てて区別している。
むしろ、「ときめく」は、どこか擬音語ないし擬態語の気配があるが、擬音語、
どきどき、
について、
「どきどき」は「はらはら」「わくわく」と合わせて使うことも多い。…また、「どきどき」からできた語に期待や喜びなどで心がおどる意の「ときめく」がある、
とある(擬音語・擬態語辞典)。「どきどき」は、
激しい運動や病気で心臓が鼓動する音、
あるいは
心臓の鼓動が聞こえるほど気持ちが高ぶる、
の意味で、心臓の「ドキドキ」の擬音語である。
とすると、「ときめき」は、
どき(どき)めき→ときめき、
と、転訛したことになる。さらに、
どきめき→時めき、
と転訛したということもありえる。他に、
動悸+めく、
とする説が、
「ときめき」は、「ときめく(動詞)」の名詞です。「ときめく」は、喜び・期待などで胸がドキドキすることで、「動悸」に「めく」がついた「動悸めく」がなまったものじゃないでしょうか。「○○めく」とは、○○のように見える、○○の兆しが見える、という意味。(春めく・おとぎ話めく・きらめく・さんざめく、など)、
や(http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1115078051)、さらに、
「ときめくっていうのは、「何かに心が揺り動かされて喜びとか期待を感じてドキドキする様子」の事を指して使われる表現だね。これと同じように語尾に「めく」がくっついている言葉っていうのは「◯◯みたいに見える」というような意味で使われる事が多いんだよね。「ときめく」の場合は、「とき」というのが「動悸」からきているという説があるんだよね。つまり「ドキドキしているように見える」という意味から「動悸めく」という言葉が生まれて、そこから派生して「ときめく」という表現になったと考えられるね、
等々がある(http://www.lance2.net/gogen/z581.html)。つまり、「ときめく」は、
動悸めく→ときめく、
の転訛とする。こう見ると、接尾語「めく」を中心に考えると、
時+めく、
動悸+めく、
と、「ときめく」と「時めく」が二系統でできたとする考え方もあるが、いまひとつ、元々擬音語のドキドキからきた、
どきどき+めく(あるいは、どき+めく)、
が、主体の、
いまの興奮状態を指し示す、
状態表現から、
その状態を外からの視線で見て、
もて囃されている、
と、客体表現に転じた、と見ることもできる。『語感の辞典』には、「ときめき」について、こうある。
心臓がドキドキする意から。宝くじに当たったことを知った瞬間の喜びより、それによる素晴らしい未来を想像して昂奮する方に中心がある、
ここにある語感は、いまの主体表現としての、
興奮した状態、
を、未来の主体表現、あるいは、未来の状態表現、
そういう状態にいる自分、
という含意がある。そこからは、外部の、他者の状態表現に転じやすくはないだろうか。
「時」(漢音シ、呉音ジ)は、「時」で触れたように、
会意兼形声。之(シ 止)は足の形を描いた象形文字。寺は「寸(手)+音符之(あし)」の会意文字で、手足をはたらかせて仕事をすること。時は「日+音符寺」で、日がしんこうすること。之(いく)と同系で、足が直進することを之といい、ときが直進することを時という、
とある(漢字源)。別に、
会意兼形声文字です(止+日)。「立ち止まる足の象形と出発線を示す横一線」(出発線から今にも一歩踏み出して「ゆく」の意味)と「太陽」の象形(「日」の意味)から「すすみゆく日、とき」を意味する漢字が成り立ちました。のちに、「止」は「寺」に変化して、「時」という漢字が成り立ちました(「寺」は「之」に通じ、「ゆく」の意味を表します)、
ともある(https://okjiten.jp/kanji145.html)。
参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
中村明『日本語語感の辞典』(岩波書店)
山口仲美編『擬音語・擬態語辞典』(講談社学術文庫)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
2023年01月14日
一念五百生
一念五百生(ごひゃくしょう)、繋念無量劫(けねんむりょうこう)、恋慕執着(しゅうじゃく)の報ひをうけん事浅ましきかな(新御伽婢子)、
にある、
一念五百生、
は、
小さな思いが五百年もの間の報いをよび無量な業をつくる、の意の仏語、
とある(高田衛編・校注『江戸怪談集』)。
「隔生則忘(きゃくしょうそくもう)」で触れたように、「隔生則忘」は、
隔生即忘、
とも当て(広辞苑・精選版日本国語大辞典)、
そも隔生則忘とて、生死道隔てぬれば、昇沈苦楽悉くに忘れ(源平盛衰記)、
隔生則忘とは申しながら、また一年五百生(しょう)、懸念無量劫の業なれば、奈利(泥犂(ないり) 地獄)八万の底までも、同じ思ひの炎にや沈みぬらんとあわれなり(太平記)、
と、
普通一般の人は、この世に生まれ変わる時は、前世のことを忘れ去る、
という仏教用語である(仝上)。これを前提にしている。
「隔生」とは、
「きゃく」は「隔」の呉音、
とあり(精選版日本国語大辞典)、
法門の愛楽隔生にも忘るべからざる歟(「雑談集(1305)」)、
二世の契をたがへず、夫の隔生(ギャクシャウ)を待つと見へたり(浮世草子「当世乙女織(1706)」)、
などと、
生(しょう)を隔てて生まれかわること、
の意の仏語である(仝上)。
一念五百生、
は、
一念五百生繋念無量劫、
とつづけても言う。「繋念無量劫」の「繋念」は、
けいねん、
とも訓ませ、
執着心、
執念、
無量劫は、
非常に長い時間、
をさす(故事ことわざの辞典)。
「五百生」とは、
五百は、度数の多きを云ふ、
とあり(大言海)、
人は、五百回も六道の迷界で生まれかわること、
また、転じて、
五百生犬の身のくるしみをうけ(「観智院本三宝絵(984)」)、
と、
幾度も生まれかわる、非常に長い時間、
をいい(精選版日本国語大辞典)、
若佛子、故飲酒、而生酒過失無量、若自身手過酒器、與人飲酒者、五百世無手、何況自飲(大乗経典『梵網経』)、
と、
五百世(ごひゃくせ)、
ともいう(仝上)。
「一念五百生(いちねんごひゃくしょう)」は、
一ねん五百しゃうとて、もろもろの仏のいましめそしり給へる女に契りを結び侍るなり(仮名草子「女郎花物語(1592~1615頃)」)、
と、
わずか一度、心に妄想を抱いただけで、その人は五百回もの回数にわたって輪廻(りんね)し、その報いを受けるということ、
になる(精選版日本国語大辞典)が、「一念」は、
一ねむのうらめしきも、もしは哀れとも思ふにまつはれてこそは(源氏物語)、
と、
ひたすらに思いこんでいること、
執心、
執念、
の意だが、
ただ今の一念において直ちにする事の甚だしき難き(徒然草)、
と、
きわめて短い時間、
つまり、
60刹那、
あるいは、
90刹那、
をいう(広辞苑)ので、
ほんの一瞬の妄念が永遠の時間輪廻し続ける、
と、
一念、
と
五百生生、
を対に対比している。「繋念無量劫」も、同趣旨である。
因みに、「隔生則忘」は、生まれ変わり、つまり、
輪廻転生、
が前提になっている。輪廻転生とは、
六道(ろくどう/りくどう)、
と呼ばれる六つの世界を、
生まれ変わりながら何度も行き来するもの、
と考えられている(https://www.famille-kazokusou.com/magazine/manner/325)。六道は、
地獄(罪を償わせるための世界。地下の世界)、
餓鬼(餓鬼の世界。腹が膨れた姿の鬼になる)、
畜生(鳥・獣・虫など畜生の世界。種類は約34億種[9]で、苦しみを受けて死ぬ)、
修羅(阿修羅が住み、終始戦い争うために苦しみと怒りが絶えない世界)、
人間(人間が住む世界。四苦八苦に悩まされる)、
天上(天人が住まう世界)、
の六つ(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AD%E9%81%93)。で、
六道輪廻、
ともいう。大乗仏教が成立すると、六道に、
声聞(仏陀の教えを聞く者の意で、仏の教えを聞いてさとる者や、教えを聞く修行僧、すなわち仏弟子を指す)、
縁覚(仏の教えによらずに独力で十二因縁を悟り、それを他人に説かない聖者を指す)、
菩薩(一般的には菩提(悟り)を求める衆生(薩埵)を意味する)、
仏(「修行完成者」つまり「悟りを開き、真理に達した者」を意味する)、
を加え、六道と併せて十界を立てるようになった(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BC%AA%E5%BB%BB)。
ところで、「五百生」に関連して、
対面同席五百生(たいめんどうせきごひゃくしょう)、
という言葉がある(https://michinarumichini.amach.net/taimen-douseki-gohyakushou/)。仏陀のことばとされ、
対面したり同席したりする人は過去世で500回は関わりを持っている、
という意味である。
袖振り合うも多生の縁、
である。「多生曠劫(たしょうこうごう)」で触れたように、
長い年月多くの生死を繰り返して輪廻する、
意で、
何度も生をかえてこの世に生まれかわること、
つまり、
多くの生死を繰り返して輪廻する、
意(広辞苑)だが、「多生」は、
今生(こんじょう)、
に対し、
前世、また来生、
の意で(岩波古語辞典)、
来生に生まれ出づること、
今生以外の諸の世界に生まれること、
であり(大言海)、
多生に生まれ出でたる際に結びし因縁、
を、
多生の縁(えん)、
という(「他生」とするは誤用)。「曠劫(こうごう)」も、
非常に長い年月、
の意で、
永劫(えいごう)、
と同義になる。
(六道輪廻をあらわしたチベット仏教の仏画。恐ろしい形相をした「死」が輪廻世界を支配している https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BC%AA%E5%BB%BBより)
参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
2023年01月15日
けつらふ
紅粉翠黛(こうふんすいたい)たる顔にいやまさりて、けつらひ、愁(うれ)へる眼(まなこ)、涙に浮き腫れたり(新御伽婢子)、
にある、
けつらひ、
は、
つくろい、粧い、
と注記がある(高田衛編・校注『江戸怪談集』)。紅粉翠黛は、
美しい顔の色、みどりのまゆずみをほどこした美しい眉、
とある(仝上)。「紅顔翠黛」と同義である。
「けつらひ」は、
けつらふ(う)、
の名詞化であるが、「けつらふ」は、辞書によっては載らなず(大言海・岩波古語辞典)、
けすらふ、
で載る(仝上)。ただ、
けつらふ、
は、
けすらふ、
と同じとある(広辞苑)。「けつらふ」は、
けづらふ、
ともいい(精選版日本国語大辞典)、
けすらふ、
は、
けずらふ、
ともいう(岩波古語辞典)。そして、「けすらふ」は、
擬ふ、
と当てる(大言海・岩波古語辞典)。
これをみると、
たけぶ(咆ぶ)→さけぶ(叫ぶ)、
くたす(腐す)→くさす(貶す)、
ちゃ(茶)→さ(茶)、
などと、
タ行(t)→サ行(s)間の子交(子音交替)
が起こったと見ることができる。たとえば、
「けつらふ」は、
我可然者と云れうとてみなけつらうたぞ(「寛永刊本蒙求抄(1529頃)」)、
と、
つくろった様子や態度をする、
きどる、
の意や、
まづは㒵(かほ)しろしろとけつらひて(「浮世草子・好色旅日記(1687)」)、
と、
つくろう、
めかす、
粧(よそお)う、
化粧する、
意で使う(精選版日本国語大辞典)。「けすらふ」は、
色色に染めたる物をかづきて身をけずらふ(「孝養集(平安後期)」)、
と、
粧ふ、
化粧する、
意で使う。易林節用集(1597)には、
擬、ケスラフ、姣、同、
とある。ただ、語源はわからない。
「擬」(漢音ギ、呉音ゴ)は、
会意兼形声。疑は「子+止(足)+音符矣(人が立ち止まり、振り返る姿)」からなる会意兼形声文字で、子どもに心が引かれて足をとめ、どうしようかと親が思案するさま。擬は「手+音符疑」で、疑の原義をよく保存する。疑は、「ためらう、うたがう」意に傾いた、
とある(漢字源)。別に、
会意兼形声文字です(扌(手)+疑)。「5本の指のある手」の象形と「十字路の左半分の象形(のちに省略)と人が頭をあげて思いをこらしてじっと立つ象形と角のある牛の象形と立ち止まる足の象形」(「人が分かれ道にたちどまってのろま牛のようになる」の意味)から、「おしはかる」を意味する「擬」という漢字が成り立ちました、
ともある(https://okjiten.jp/kanji1783.html)。
参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
2023年01月16日
是生滅法
既に半夜(はんや まよなか、子(ね)の刻から丑(うし)の刻まで)の鐘、是生滅法(ぜしょうめつほう)の響きを告げ、世間静かなるに(新御伽婢子)、
とある、
是生滅法、
は、
万物はすべて変転し生滅する、不変のものは一つとしてないという、涅槃経の四句偈のひとつ、
と注記がある(高田衛編・校注『江戸怪談集』)。普通、
是生滅法、
は、
ぜしょうめっぽう、
と訓ませ、
諸行無常(しょぎょうむじょう)、
是生滅法(ぜしょうめっぽう)、
生滅滅已(しょうめつめつい)、
寂滅為楽(じゃくめついらく)、
の四句偈(げ)の一つで(諸行は無常なり 是れ生滅の法なり 生滅を滅し已(お)わりて 寂滅を楽となす)、涅槃経の、「雪山童子」の説話で、
釈尊は過去世に雪山で修行していたので雪山童子(せっせんどうじ 雪山大士)と呼ばれるが、雪山に住していたとき帝釈天が羅刹(ラークシャサ)の形をして現れてこの偈の前半を説いたとき、さらに後半を教えてもらうために身を捨てた、
という伝説があるので(自分の身命を施す菩薩行の代表例として引用されることが多い)、
雪山偈(せっせんげ)、
と呼び(「雪山」はヒマラヤを指すとされる)、
諸行無常偈、
無常偈、
ともいい(http://www.joukyouji.com/houwa0604.htm)、偈の全体の意味は、三法印(仏教の根本にある三つの概念)の、
諸行無常(あらゆる物事(現象)は変化している。変化しない、固定的な物事は存在しない)、
諸法無我(あらゆる存在(ダルマ 法)の中には我(アートマン)は無い)、
涅槃寂静(煩悩の炎の吹き消されたさとりの境地(ニルヴァーナ 涅槃)は心が安らかに落ちついた(至福の)状態である)、
に近いとされ、法然は、
かりそめの色のゆかりの恋にだにあふには身をも惜しみやはする、
と詠い、俗説に、
いろはにほへとちりぬるを(色は匂えど散りぬるを)、
わかよたれそつねならむ(我が世誰ぞ常ならむ)、
うゐのおくやまけふこえて(有為の奥山今日越えて)、
あさきゆめみしゑひもせす(浅き夢見じ酔ひもせず)、
の、
いろはうた、
がこれを訳したものと言われ(仝上)、「無上偈」は、
諸行无常、是生滅法と云ふ音(こゑ)風のかに聞こゆ(「観智院本三宝絵(984)」)、
とか、
初夜の鐘を撞く時は諸行無常と響くなり、後夜の鐘を撞く時は是生滅法と響くなり(光悦本謡曲「三井寺(1464頃)」)、
とか、
初夜の鐘を撞く時は諸行無常と響くなり、後夜の鐘を撞く時は是生滅法と響くなり、晨朝(しんちょう)の響きは生滅滅已、入相(いりあい)は寂滅為楽と響くなり(長唄「娘道成寺」)、
等々と使われる(仝上・精選版日本国語大辞典)、
因みに、「偈」(げ サンスクリット語ガーターgāthāの音写の省略形)は、漢語では、
頌(じゅ)、
あるいは、
讃(さん)、
とも翻訳される、
仏典のなかで、仏の教えや仏・菩薩の徳をたたえるのに韻文の形式で述べたもの、
をいい、
偈陀(げだ)、
伽陀(かだ)、
とも音写し、意訳して、
偈頌(げじゅ)、
ともいい、対して散文部分を、
長行、
という(精選版日本国語大辞典・https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%81%88)とある。古来インド人は詩を好み、仏典においても、詩句でもって思想・感情を表現したものがすこぶる多い。漢語では、これを三言四言あるいは五言などの四句よりなる詩句で訳出される。たとえば、七仏通戒偈(しちぶつつうかいげ)で、
諸悪莫作(しょあくまくさ)、
諸善(しょぜん 衆善)奉行(ぶぎょう)、
自浄其意(じじょうごい)、
是諸仏教(ぜしょぶっきょう)、
とか、法身偈(ほっしんげ)で、
諸法従縁生(しょほうじゅうえんしょう)、
如来説是因(にょらいせつぜいん)、
是法従縁滅(ぜほうじゅうえんめつ)、
是大沙門説(ぜだいしゃもんせつ)、
と共に、「雪山偈」も仏教の根本思想を簡潔に表現したもの(日本大百科全書)とされる。四句から成るものが多いため、単に、
四句、
ともいう(精選版日本国語大辞典)。
「偈」(漢音ケイ・ケツ、呉音ゲ・ゲチ)は、
会意兼形声。「人+音符曷(カツ 声をからしてどなる)」、
とある(漢字源)。
参考文献;
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
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2023年01月17日
かねこと
女も遠くしたひ又の日をかねことし、あかで別るる横雲の空など、名残り惜しみ(新御伽婢子)、
の、
かねこと、
は、
約束、
と注記がある(高田衛編・校注『江戸怪談集』)。
かねこと、
は、
兼ね言、
兼言、
予言、
などと当て(広辞苑・岩波古語辞典)、
ゆゆしきかねことなれど、尼君その程までながらへ給はむ(源氏物語)、
と、
前もって先を見越して言う言葉、予言、
の意で、その意味の外延として、
必ずこれをいひつけにもなど宣はせし御かねことどもいと忘れがたくて(栄花物語)、
と、
前もって言い置いた言葉、
豫(かね)て言ひ置ける言(ことば、)、
豫約の詞、
つまり、
約束、
の意でも使う(岩波古語辞典・大言海)。また、
昔せし我がかね事の悲しきは如何契りしなごりなるらん(「後撰和歌集(951~53)」)、
と、
かねごと、
とも訓ませる(大言海・精選版日本国語大辞典)。
兼ぬ、
は、
口語で、
兼ねる、
で、
現在のあり方を基点として、時間的・空間的に、一定の将来または一定の区域にわたる意、
とあり、
御子(みこ)の継(つ)ぎ継ぎ天(あめ)の下知らしまさむと八百万(やおよろず)千年(ちとせ)をかねて定めけむ奈良の都はかぎろひの春にしなれば(万葉集)、
と、
現在の時点で、今からすでに将来のことまで予定する、
見込む、
という意で使う(岩波古語辞典)。で、その延長線上で、
あらたまの年月(としつき)かねてぬばたまの夢(いめ)にし見えむ君が姿は(万葉集)、
と、
時間的に今から長期にわたる、
意で使い、それを空間的に使うと、
一町かねて辺りに人もかけられず(大鏡)、
と、
現在点を中心に一定の区域にわたる、
と、空間的か外延の広がりに使い、それを抽象化すれば、
一身に数芸をかねたれば(保元物語)、
と、
併せ持つ、
意となり、
大臣の大将をかねたりき(平治物語)、
と、
兼職、
の意となる(仝上)。それを心理的に援用すれば、
また人のこころをもかねむ給へかし(源平盛衰記)、
と、
(あちこちに)気を使う、
気をつかって人の気持ちをおしはかる、
意で使う。これの応用が、他の動詞の連用形に接続し複合動詞として用い、
納得しかねる、
何とも言いかねる、
と、
~しようとして、できない、~することがむずかしい、
意や、「~しかねない」などの形で、
悪口も言い出しかねない、
などと、
~するかもしれない。~しそうだ、
の意で使う(デジタル大辞泉)。
(「兼」 金文・春秋時代 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%85%BCより)
「兼」(ケン)は、
会意文字。「二本の禾(いね)+手」で、一書に併せ持つさまを示す、
とある(漢字源)。別に、
会意。秝(れき 二本のいね)と、又(ゆう 手)とから成り、二本のいねを手でつかむ、あわせもつ意を表す、
とも(角川新字源)、
会意文字です。「並んで植えられている稲の象形と手の象形」から、並んだ稲をあわせて手でつかむさまを表し、そこから、「かねる」を意味する「兼」という漢字が成り立ちました、
ともある(https://okjiten.jp/kanji1327.html)。趣旨は同じである。
参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
2023年01月18日
一跡
我が一跡を掠め取り、身の佇(たたず)み(置き所)もならず、所さへ追ひ失はれし(新御伽婢子)、
の、
一跡、
は、
財産のすべて、
あひかまへて、小分の(少額の)かけにし給ふな。身代一跡と定めらるべし(仝上)、
の、
身代一跡、
は、
全財産、
と、それぞれ注記がある(高田衛編・校注『江戸怪談集』)。
一跡、
の、
跡は、後裔(あと)の義、跡目と云ふ語も、これより出づ、
とある(大言海)ように、
其上大家の一跡、此の時断亡せん事勿体無く候(太平記)、
と、
家筋のつづき、
一系統、
という意味が本来の意で、転じて、
相摸入道の一跡(セキ)をば、内裏の供御料所に置かる(太平記)、
と、
後継ぎに譲る物のすべて、
遺産、
の意となり、転じて、
家一跡は申すに及ばず、女共の身のまはりまで、打ち込(ご)うでござるによって(狂言「子盗人」)、
博奕、傾城狂ひに一跡をほつきあげ(仮名草子「浮世物語(1665頃)」)、
などと、
全財産、
身代、
の意となった(仝上・精選版日本国語大辞典)。その意から、
ねぢぶくさ取出し、一跡(イッセキ)に八九匁あるこまがねの中へ銭壱弐文入れて(浮世草子「傾城色三味線(1701)」)、
と、
全体、
ありったけ、
の意(仝上)となり、視点が讓る側から、譲られる側に転じて、
身が一せきのせりふの裏を食はすしれ者(浄瑠璃「嫗山姥(1712頃)」)、
と、
自分だけが相伝した物、
さらに、
自分の占有、
特有、
独自、
の意に転じていく(仝上)。で、
一跡に、
と使うと、
一跡に一人ある子を、さんざん折檻して(浮世草子「石山寺入相鐘」)、
と、
ありったり、
の意で使う(岩波古語辞典)。
「跡」(漢音セキ、呉音シャク)は、
会意文字。亦は、胸幅の間をおいて、両脇にある下を指す指事文字。腋(エキ)の原字。跡は「足+亦」で、次々と間隔をおいて同じ形のつづく足あと、
とあり(漢字源)、「一跡」の意味に適う当て字になっている。別に、
会意兼形声文字です(足+亦)。「胴体の象形と立ち止まる足の象形」(「足」の意味)と「人の両わきに点を加えた文字」(「わき」の意味だが、ここでは、「積み重ねる、あと」の意味)から、「積み重ねられた足あと」を意味する「跡」という漢字が成り立ちました、
ともある(https://okjiten.jp/kanji1232.html)。
参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
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2023年01月19日
あなめ
小野小町が、秋風の吹くにつけても、あなめあなめなどと歌の上の句をつらねしためし、世をもつて伝へ知る所也(新御伽婢子)、
の、
あためあなめ、
とは、
小町の髑髏の目に薄が生え、夜になると、こういったという説話(袋草紙)から。あゝ、目が痛いの意。『通小町』にも「秋風の吹くにつけてもあなめあなめ小野とは言はじ薄生ひけり」、
とあると注記がある(高田衛編・校注『江戸怪談集』)。
(小野小町(狩野探幽『三十六歌仙額』) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E9%87%8E%E5%B0%8F%E7%94%BAより)
「あなめ」は、『江家次第』(大江匡房 平安時代後期の有職故実書)に、
小野小町の髑髏どくろの目から薄すすきが生えて「あなめあなめ」と言ったとある、
のが初見(広辞苑)で、
あな、目痛し、
あるいは、
あやにく、
の意という(仝上)とある。『江家次第』には、
(在五中将(「在五」は在原氏の五男の意。位が近衛中将であったところからいう、在原業平(ありわらのなりひら)のこと)、陸奥に到りて、小野小町の屍を求めしに)終夜有聲、曰、秋風之、吹仁付天毛(ふくにつけても)、阿那目、阿那目、後朝求之、髑髏目中有野蕨、在五中将、涕泣曰、小野止波不成(とはならじ)、薄生計理(すすきおひけり)、卽歛葬、
とあり、袖中抄(しゅうちゅうしょう 12世紀末)では、
あなめ、あなめとは、あなめいた、あなめいた、と云ふ也、
とあり、さらに、『和歌童蒙抄』(藤原範兼(のりかね) 平安末期の歌学書)には、
野中を行く人あり、風の音のやうにて、此歌を詠ずる聲聞ゆ、其薄を取捨てて、其頭を、清き處に置き歸る、其の夜の夢に、吾れは、小野小町と云はれし者なり、嬉しく、恩をかうぶりぬると云へり、
とあり、
此の小野を、玉造の小野と云ひし由、
とある(大言海)等々多少の異同がある。この「玉造」とは、『宝物集』(平康頼(やすより)説 鎌倉初期の仏教説話集)に、
玉造小町子壮衰書(たまつくりこまちこそうすいしょ 平安後期の漢詩文作品)、
が出典であるとして、
老後の衰えと貧窮、若年時の色好みと栄花、
が述べられているが、この、
玉造小町子、
と、
小野小町、
は新井白石が『牛馬問』で、問題視して初めて、混同が指摘されるまで、同一視されてきて、古く、『袋草紙』(藤原清輔 平安末期の歌学書)でも、小野は、
住所ノ名カ、
とし、「玉造」を、
その姓、
としている。そうした同一視の中で、『十訓抄』(じっきんしょう/じっくんしょう 鎌倉中期の教訓説話集)や『古今著聞集』(ここんちょもんじゅう 橘成季編の鎌倉時代の世俗説話集)に代表される、
若く、男性との交渉が盛んであった頃は比類のない驕りの生活で、衣食にも贅を尽くし、和歌を詠じての日々であった。多くの男たちを見下し、女御や后の位をのぞんだものの、両親、兄弟をつきつぎに失い、一人破れ屋に住む身となり、文屋康秀(ふんや の やすひで 平安時代前期の官人・歌人)の任国(三河)下向にも随行し、ついに山野を浪々することになった、
という(日本伝奇伝説大辞典)、
小町伝説、
が形成されていく。因みに、親密だった文屋康秀は、三河掾として同国に赴任する際に小野小町を誘った際、小町は、
わびぬれば身をうき草の根を絶えて誘ふ水あらばいなむとぞ思ふ、
と返事した(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E5%B1%8B%E5%BA%B7%E7%A7%80)。この逸話をもとにした話が、『古今著聞集』や『十訓抄』載せられるようになったようである。
(年老いた小野小町(「卒塔婆の月」(月岡芳年『月百姿』)) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E9%87%8E%E5%B0%8F%E7%94%BAより)
こうした伝説の中には、『奥義書』(藤原清輔(『袋草紙』の著者) 平安末期の歌学書)で、謡曲『通小町』を淵源とするらしい、
深草の四位の少将が、小町の「車の榻(しじ 牛車(ぎっしゃ)に付属する道具の名。牛を取り放した時、轅(ながえ)の軛(くびき)を支え、または乗り降りの踏台とするもの)に百夜通え」という言を実行し、思いの叶う百日目を目前の九十九日目に生命絶えた、
という説話が載るが、この女性の態度は、
平安朝の女性としてはこうした男性拒否の姿勢は一般的、
で、必ずしも「小町」と結びつけられていなかったのに、古今集や伊勢物語の古注釈で、
男を拒否する強い女としての小町、
として、この、
百夜通い説話、
が、小野小町と一体化されていくことになる(仝上)。
こうして出来上がった小町伝説が、謡曲の『卒塔婆小町』や浄瑠璃、歌舞伎などの「小町」物になっていくことになる。
柳田國男は、各地に伝わる小町伝説に、「神話上の隘路」で度触れたように、和歌を媒体とした、
霊験唱導者、
の存在を想定していた。
参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
乾克己他編『日本伝奇伝説大辞典』(角川書店)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
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2023年01月20日
頼母子
大欲不道の男あり。隣郷に、頼母子(たのもし)といふ事をむすび置きて、或る時そこへ行きぬ(新御伽婢子)、
とある、
頼母子、
は、
無尽、
ともいい、
一定の期日に一定の掛け金を出し合い、全員に順々に一定の融通をする組合、
と注記がある(高田衛編・校注『江戸怪談集』)が、正確には、「頼母子」は、
憑子、
憑支講、
頼子講、
とも当て、
一定の期日ごとに講の成員があらかじめ定めた額の掛金を出し、所定の金額の取得者を抽選や入れ札などで決め、全員が取得し終わるまで続けるもの。鎌倉時代に成立し、江戸時代に普及した。明治以降、農村を中心として広く行なわれた、
のを言い(精選版日本国語大辞典)、
頼母子講、
は、
頼母子の組合、
を指す(大言海)が、「頼母子」のみでも、
頼母子講、
の意味で使われる。「講」は、
もともと寺や寺院に集まって宗教教育を行っていた「講義」の意味、
とされ、時代とともに、次第に宗教色が薄れて、
単なる集まり、
を指すようになった(https://www.nihon-jm.co.jp/mujin/history/index.html)とある。
鎌倉時代の建治元年(1275年)12月の高野山文書に、高野山中のある寺院の風呂場の修繕資金を調達する為に、
憑支(たのもし)、
が組織されたとあり、この憑支(たのもし)の当て字が、
頼母子、
になる。
母と子のように相互に頼む(依存する)、
という相互扶助の意味となる(https://www.nihon-jm.co.jp/mujin/history/index.html)が、鎌倉時代には、
憑支・無尽銭、
の名称が文献に現れ、室町時代に下ると広く普及して民間一般に行われていた(日本大百科全書)とある。
色葉字類抄(平安末期)には、
頼、たのもし、
室町時代の意義分類体の辞書『下學集』には、
憑子(たのもし)、日本俗、出少錢取多錢、謂之憑子也、
節用集にも、
日本世俗、出少銭取多銭也、又云合力、
建武式目(延元元年/建武3年11月7日(1336年12月10日)、室町幕府の施政方針を示した式目)には、
無尽錢、田乃毛志、
とある。
(「たのもし」(武蔵国いるまの郡みよしのの里の人狩するとてはたのもしをして狩也「異本紫明抄(1252~67)」) 精選版日本国語大辞典より)
「頼母子」は、
貸稲(いらしいね・たいとう)の遺風なり、
とあり(大言海)、律令以前、
春に貸されて、秋に稲にて利息を納めしめられる、
もので、
出挙稲(すいことう)、
といい(仝上)、色葉字類抄(平安末期)に、
出挙、イラシ、
とあり仝上)、
処処の貸稲を罷(や)むべし(孝徳紀)
と載る。「無尽」は、
無尽錢、
ともいい、
質物を伴う貸し金で、「無尽銭土倉」という質屋もあり、おそらくは「無尽財」の名による寺院の貸付金に由来する、
とあり(日本大百科全書)、本来は由来を異にし、鎌倉時代の、
無利子の頼母子という互助法、
に対し、室町時代の、
土倉が担保をとり、利子をとったもの、
を無尽といったとの違いがあった(旺文社日本史事典)とされるが、室町時代以後は頼母子と同義に用いられるに至った(仝上)。だから、「頼母子」の由来は、
たのもしい(頼)(精選版日本国語大辞典)、
タノム、タノミの意(日本大百科全書)、
相救いてたのもしき意(大言海)、
等々と、互助の含意が由来になっている。
江戸時代以後は、明治・大正期にも及んで頼母子・無尽は多彩な発展を示し、根幹の仕組みは共通ながら種々の型が生じ、大別すると、
仲間の共済互助を本義とするか、
金融利殖を主目的とするか、
の両型に分けられ、明治期に入っては営業無尽とよばれる専門業者による形を分派させた(仝上)。
仲間の共済互助を本義とする頼母子・無尽には、
社寺建立その他公共的事業の資金調達を主目的とするもの、
と、
個人的融資救済を主旨とするもの、
があり、両者とも通例「親無尽(親頼母子)」の形をとり、
特定者への優先的給付を旨とした。それを親、講元、座元、施主などといい、趣旨に賛同しての加入者を子、講衆、講員などとよんだ。社寺寄進はもちろん個人融資でも、親は初回「掛金」の全額給付を受けるほか、初回を「掛捨(かけすて)」と称し「親」の掛金を免除するのがむしろ通例であった、
とある(日本大百科全書)。こうした特定者の救済互助の仕組みが頼母子・無尽の原型で、社寺への寄進行為とのかかわりも深かった。しかし2回目以後は講員相互の金融に移り、一定の講日に参集して所定の「掛金」を拠出しあい、特定者への給付が順次行われて満回に至る(仝上)とある。発起人を、
親、
講元、
称したが、別段特権はなく、むしろ信用度が仲間を集める要因であり、またそうでなければ頼母子講は発起できなかった(仝上)とある。
江戸時代には、主として関西では、
頼母子、
関東では、
無尽と称される傾向があり、その仕組みは、概略、
①発起人である講親(こおうや)が、仲間である講中(こうちゅう)を募集して一つの講を結成。
②講運営の円滑化のため、掟や定めを作成、
③月一回ないし年一回、会合を開き、一口あたり(一人一口と限らない)の掛け金を持ち寄る、
④初回は講親が、第二回以降後は、抽せん・くじ引きまたは入札によって、講中が各回の掛け金獲得。
⑤全口が掛け金を取得したときをもって満会と称し、講を解散する、
となり(https://komonjyo.net/life/mujin.html)、落札者は、
入札(いれふだ、にゅうさつ)やくじ引きに再び参加する権利を失いますが、掛け金を納める義務は負います。これは講に対する債務の弁済にあたるところから、落札した者に質物の差し入れ、また落札によって受ける金銭の利子支払いを求められ、
決め方は、
抽せん、
と、
入札、
とがあり、
抽せん・くじ引きは関東、入札は関西に多い、
とされ、入札の場合は、
資金を欲するものが低い入札価格をつければ落札者になりえる、
が、余り低い入札価格では結果的に高利資金となってしまい互助の意味がなくなる(仝上)。
参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
2023年01月21日
十二調子
宮(きゅう)商(しょう)角(かく)徴(ち)羽(う)の五音(ごいん)にもこえ十二調子にもはづれ、音楽、糸竹(しちく 「糸」は琴、琵琶などの弦楽器、「竹」は笙(しょう)、笛などの管楽器の総称)にものらぬとぞ(新御伽婢子)、
の、
五音、
は、
日本、中国で称した五音階、
で、
五声(ごせい)、
ともいう(高田衛編・校注『江戸怪談集』)。また、
十二調子(じゅうにちょうし)、
は、
雅楽に用いられた十二の音、一オクターブ間を一律(約半音)の差で十二に分けたもの、
と注記がある(仝上)。「十二調子」は、
十二律の俗称、
とある(広辞苑)。
(十二律比較 広辞苑より)
五音、
は、日本・中国の音楽で、低音から、
宮(きゅう)・商(しょう)・角(かく)・徴(ち)・羽(う)、
の5音を言い、また、その構成する音階をも指す(広辞苑)。五音(ごいん)に、
変徴(へんち 徴の低半音)・変宮(へんきゅう 宮の低半音)、
を加えた7音を、
七音(しちいん)、
または、
七声(しちせい)、
といい(仝上)、西洋音楽の階名で、宮をドとすると、商はレ、角はミ、徴はソ、羽はラ、変宮はシ、変徴はファ#に相当し、
宮・商・角・変徴・徴・羽・変宮はファ・ソ・ラ・シ・ド・レ・ミに相当、
し
西洋の教会旋法のリディアの7音に対応する、
とあり(広辞苑・https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E5%A3%B0)、
日本の雅楽や声明(しょうみょう)も使用する、
とする(仝上)。なお、「五声」は、
三分損益法(さんぶんそんえきほう)、
に基づいている(仝上)とある。『史記』に、
律數 九九八十一以為宮 三分去一 五十四以為徵 三分益一 七十二以為商 三分去一 四十八以為羽 三分益一 六十四以為角、
とあるが、これは、
完全5度の音程は振動比2:3で振動管の長さは2/3となる。すなわち、律管の3分の1を削除すると5度上の音ができ、加えると5度下の音ができる。前者を三分損一(去一)法、後者を三分益一法と称し、両者を交互に用いるのが三分損益法である、
とあり(日本大百科全書)、
5度上の音を次々に求めるピタゴラス定律法と同じ原理、
で、日本では、
損一の法を順八、益一の法を逆六、
といい、別名、
順八逆六の法、
と称する(仝上)とある。つまり、古代ギリシャでも古代中国でも音楽は盛んだったが、二つの異なる文化が、
周波数比が2:3である二つの音はよく調和する、
という全く同じ現象に到達していたのである(https://www.phonim.com/post/what-is-temperament)。現代では周波数が2:3であるような音は、
完全5度、
と呼ばれている(仝上)。
日本へは奈良時代にこの中国の五声が移入されたが、平安時代になると日本式の五声が生まれ、中国の五声の第五度(徴)を宮に読み替えた音階で、西洋音階のド・レ・ファ・ソ・ラに相当する。中国の五声を、
呂(りょ)、
日本式の五声を、
律(りつ)、
とよぶのが習わしとなった(仝上)。
因みに、音階中の各音の音程関係を規程する基準を、
音律、
というが、中国、日本の音律は、
十二律、
である。
「十二律」は、『前漢志』や『呂氏春秋(りょししゅんじゅう)』には、
4000年前黄帝の代に、伶倫(れいりん)が命を受け昆崙山(こんろんざん)の竹でつくった、
とあるが、中国では、
黄鐘(こうしょう)を基音、
として、
黄鐘(こうしょう)を三分損一して林鐘(りんしょう)、次に益一して太簇(たいそく)、
と、以下同様にして得て、
黄鐘(こうしょう)、大呂(たいりょ)、太簇(たいそく)、夾鐘(きょうしょう)、姑洗(こせん)、仲呂(ちゅうりょ)、蕤賓(すいひん)、林鐘(りんしょう)、夷則(いそく)、南呂(なんりょ)、無射(ぶえき)、応鐘(おうしょう)、
となる。前漢の京房(けいぼう)はこれを反復して、
六十律、
南朝宋の銭楽之(せんらくし)は、
三百六十律、
を求めた(仝上)という。日本では天平七年(735)吉備真備が『楽書要録』で伝えたのち、平安時代後期より雅楽調名に基づいて、
壱越(いちこつ)、断金(たんぎん)、平調(ひょうじょう)、勝絶(しょうせつ)、下無(しもむ)、双調(そうじょう)、鳧鐘(ふしょう)、黄鐘(おうしき)、鸞鏡(らんけい)、盤渉(ばんしき)、神仙(しんせん)、上無(かみむ)、
の名称が決められた(仝上)。ただ、中国では、
標準音の絶対音高が時代によって異なるので、律名をそのまま絶対的な音名ということはできない、
ようだが、日本独自の、
十二律、
十二調子、
は、
壱越 (いちこつ)がほぼ洋楽のニ音に相当し、以下、順に半音ずつ高くなっていくので、律名は音名といってもさしつかえない、
とある(ブリタニカ国際大百科事典)。しかし、
雅楽や声明、
を除けば、この12の律名はあまり用いられず、普通は、もっと実用的な、
一本(地歌・箏曲・長唄・豊後系浄瑠璃などでは黄鐘〈おうしき〉イ音、義太夫節では壱越ニ音)、
二本(変ロ音または嬰ニ音)、
三本(ロ音またはホ音)、
という名称が使われている(仝上)とある。
西洋音楽の音律理論は古代ギリシアのピタゴラス音律に始まり、求め方は十二律と同じだが、12番目の音は厳密には基準音より、わずかに高く、その差を、
ピタゴラスのコンマ、
といい、この、
長3度、長6度の不協和問題、
となり、これを解決するために、3倍と2倍のみを使って作った音律である、
ピタゴラス律、
に対し、基準の音から簡単な整数倍で作る、
純正律、
純正律が考案されていくことになる(仝上)。
(十二律 日本大百科全書より)
(十二調子 精選版日本国語大辞典)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95