かづらきの神も在(ま)さば、岩橋をわたし給へと、独り言して力なく過ごし(新御伽婢子)、
にある、
かづらきの神、
は、
葛城の神、
と当て、
修験道祖といわれる役の行者のこと。葛城の山に岩橋を架けたという伝説がある、
と注記される(高田衛編・校注『江戸怪談集』)が、役の行者と葛城の神は異なり、明らかに間違っている。
「葛城の神」は、後世、
かつらぎの神、
とも訓ませ、
奈良県葛城山(かつらぎさん)の山神、
で、
一言主神(ひとことぬしのかみ)、
とされ(精選版日本国語大辞典)、昔、
役行者(えんのぎょうじゃ)の命で葛城山と吉野の金峰山(きんぷせん)との間に岩橋をかけようとした一言主神が、容貌の醜いのを恥じて、夜間だけ仕事をしたため、完成しなかったという伝説から、恋愛や物事が成就しないことのたとえや、醜い顔を恥じたり、昼間や明るい所を恥じたりするたとえなどにも用いられる、
とある(仝上)。この橋を、
かづらきや渡しもはてぬものゆゑにくめの岩ばし苔おひにけり(「千載和歌集(1187)」)、
と、
久米岩橋(くめのいわばし)、
という。橋が完成しないのに怒った行者は葛城の一言主神(ひとことぬしのかみ)を召し捕らえ、見せしめに呪術で葛で縛って、谷底に捨て置いた、との伝説がある。これを基にしたのが、能の、
葛城(かず(づ)らき)、
である(https://noh-oshima.com/tebiki/tebiki-kazuraki.html)。因みに、「役の行者」とは、7世紀後半の山岳修行者で、本名は、
役小角(えんのおづぬ)、
あるいは、
役優婆塞(えんのうばそく)、
ともいい、
修験道(しゅげんどう)の開祖、
で、『続日本紀(しょくにほんぎ)』文武(もんむ)天皇三年(699)5月24日条に、伊豆島に流罪された記事があり、実在した人物で、
大和国(奈良県)葛上(かつじょう)郡茅原(ちはら)郷に生まれ、葛城山(かつらぎさん 金剛山)に入り、山岳修行しながら葛城鴨(かも)神社に奉仕し、陰陽道(おんみょうどう)神仙術と密教を日本固有の山岳宗教に取り入れて、独自の修験道を確立した、
とされる(日本大百科全書)。吉野金峰山(きんぶせん)や大峰山(おおみねさん)他多くの山を開いたが、保守的な神道側から誣告(ぶこく)されて、伊豆大島に流されることになる。この経緯が、
葛城山神の使役、
や
呪縛(じゅばく)、
として伝えられたものとみなされる(仝上)。
葛城(かづらき)の神もしばしなど仰せらるるを、いかでかは筋かひ御覧ぜられむとて、なほ臥(ふ)したれば、御格子(みかうし)も参らず(枕草子)、
は、この伝説を踏まえて、恥ずかしがって明るくなると引っ込んでしまう清少納言を、中宮が冗談でこう呼んだのである。
「一言主神」は、
大和葛城の鴨氏の祭神、
である。延喜式神名帳には、
葛城坐一言主神社、
とあり、
吉凶を一言で託宣する神、
とされる(日本伝奇伝説大辞典)。初出は、古事記・雄略天皇条に、天皇が葛城山に巡幸された折、向こうの山の尾根から天皇や従者と似た服装の人々が登るのに出会い、天皇が、服装の無礼を責めると、対等の態度をとり、尊大なので、
その名告(の)れ、ここにおのおの名を告りて放たん、
と、告られると、
吾先に問はえき、故、吾先に名告をせむ。吾は悪事(まがごと)も一言、善事(よごと)も一言、言い離つ神。葛城の一言主の大神なり、
と申し、天皇は恐れ畏み、
恐(かしこ)し、輪が大神、うつしおみあらんとは覚らざりき、
と言い、太刀や弓矢、衣服を献上して和がなり、一言主神は馳せの山口まで還幸を見送った、とされる。こうした伝承について、
名を告ることは古代信仰観上服属を意味する、
として、
葛城氏と雄略天皇とが対立し、葛城氏が敗北した経緯を語るもの、とする説がある(仝上)。
(葛城一言主神社(奈良県御所市) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E8%A8%80%E4%B8%BBより)
参考文献;
乾克己他編『日本伝奇伝説大辞典』(角川書店)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95