倩(つらつら)思ふに阿育王(あいくおう)の七宝も命尽きんとする時、是をすくふ価なく(新御伽婢子)、
の
阿育王(あいくおう)、
は、古代インドの、
アショカ(アショーカ)王、
のことで、
父王の没後、兄弟を殺し、摩掲陀国王となった。その莫大な材の中の七つの宝、
と注記がある(高田衛編・校注『江戸怪談集』)。「七宝」とは、『南伝大蔵経』に、
輪宝・象宝・馬宝・マニ宝・玉女宝・居士宝・将軍宝、
とある(https://www.jstage.jst.go.jp/article/jeb1947/1956/32/1956_32_4/_pdf)。
摩掲陀国は、
マガダ国、
を指し、仏典上、
摩訶陀国、
と表記されている(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%AC%E3%83%80%E5%9B%BD)。
アショカ王の「阿育」は、
サンスクリット語Asoka(パーリ語Asoka)に相当する音写、
無憂王(むうおう)、
とも漢訳する(https://true-buddhism.com/history/ashoka/)のは、アショカの名前は花の、
アソッカ(無憂樹)、
に由来する(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%BC%E3%82%AB%E7%8E%8B)。また、
阿輸迦(あゆや)王、
阿輸迦(あしゆか)王、
ともいう(精選版日本国語大辞典・大辞泉)。
マウリヤ朝第3代の王、
で、
インド亜大陸をほぼ統一、
し、西はアフガニスタンから東はバングラデシュまで各地にアショーカ王の碑が残る(仝上)。
釈尊滅後およそ100年(または200年)に現れた、
という伝説があり、古代インドにあって仏教を守護した大王として知られる。
アショカ王が建立したとされる柱あるいは塔は、
アショーカ王の柱、
アショーカ・ピラー、
アショーカ塔、
阿育王塔、
等々と呼ばれるが、表面に碑文が刻まれており、仏教の歴史の解明にかかせない貴重な資料とさるれる(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%BC%E3%82%AB%E7%8E%8B)。また、釈尊の遺骨(舎利)をインド各地に分配して、
八万四千もの仏塔、
を建てたとされる(http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E3%82%A2%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%BC%E3%82%AB%E7%8E%8B)。
(ヴァイシャリーのアショーカ王柱。紀元前250年頃に建立された https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%BC%E3%82%AB%E7%8E%8Bより)
アショーカは99人の兄弟を殺した、
とされるが、アショーカ王時代の記録には、
彼の兄弟が何人も地方の総督の地位にあったこと、
が記されており、少なくとも兄弟の殆どを殺害したという仏典の伝説とは一致しない。また、仏教だけではなく、広くさまざまな宗教を保護したことがわかっている(仝上)。
アショカ王の財力については、
当時インド最大の鉄鉱石の産地、
であり、
肥沃なガンジス平原の中央に位置し、
農産物のほか鉱産物にも恵まれていた(仝上)とされ、こうした経済力を背景にマウリヤ朝はインド亜大陸のほぼ全域を統一できたとされるので、膨大であったとは推測できる。
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コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95