一念五百生(ごひゃくしょう)、繋念無量劫(けねんむりょうこう)、恋慕執着(しゅうじゃく)の報ひをうけん事浅ましきかな(新御伽婢子)、
にある、
一念五百生、
は、
小さな思いが五百年もの間の報いをよび無量な業をつくる、の意の仏語、
とある(高田衛編・校注『江戸怪談集』)。
「隔生則忘(きゃくしょうそくもう)」で触れたように、「隔生則忘」は、
隔生即忘、
とも当て(広辞苑・精選版日本国語大辞典)、
そも隔生則忘とて、生死道隔てぬれば、昇沈苦楽悉くに忘れ(源平盛衰記)、
隔生則忘とは申しながら、また一年五百生(しょう)、懸念無量劫の業なれば、奈利(泥犂(ないり) 地獄)八万の底までも、同じ思ひの炎にや沈みぬらんとあわれなり(太平記)、
と、
普通一般の人は、この世に生まれ変わる時は、前世のことを忘れ去る、
という仏教用語である(仝上)。これを前提にしている。
「隔生」とは、
「きゃく」は「隔」の呉音、
とあり(精選版日本国語大辞典)、
法門の愛楽隔生にも忘るべからざる歟(「雑談集(1305)」)、
二世の契をたがへず、夫の隔生(ギャクシャウ)を待つと見へたり(浮世草子「当世乙女織(1706)」)、
などと、
生(しょう)を隔てて生まれかわること、
の意の仏語である(仝上)。
一念五百生、
は、
一念五百生繋念無量劫、
とつづけても言う。「繋念無量劫」の「繋念」は、
けいねん、
とも訓ませ、
執着心、
執念、
無量劫は、
非常に長い時間、
をさす(故事ことわざの辞典)。
「五百生」とは、
五百は、度数の多きを云ふ、
とあり(大言海)、
人は、五百回も六道の迷界で生まれかわること、
また、転じて、
五百生犬の身のくるしみをうけ(「観智院本三宝絵(984)」)、
と、
幾度も生まれかわる、非常に長い時間、
をいい(精選版日本国語大辞典)、
若佛子、故飲酒、而生酒過失無量、若自身手過酒器、與人飲酒者、五百世無手、何況自飲(大乗経典『梵網経』)、
と、
五百世(ごひゃくせ)、
ともいう(仝上)。
「一念五百生(いちねんごひゃくしょう)」は、
一ねん五百しゃうとて、もろもろの仏のいましめそしり給へる女に契りを結び侍るなり(仮名草子「女郎花物語(1592~1615頃)」)、
と、
わずか一度、心に妄想を抱いただけで、その人は五百回もの回数にわたって輪廻(りんね)し、その報いを受けるということ、
になる(精選版日本国語大辞典)が、「一念」は、
一ねむのうらめしきも、もしは哀れとも思ふにまつはれてこそは(源氏物語)、
と、
ひたすらに思いこんでいること、
執心、
執念、
の意だが、
ただ今の一念において直ちにする事の甚だしき難き(徒然草)、
と、
きわめて短い時間、
つまり、
60刹那、
あるいは、
90刹那、
をいう(広辞苑)ので、
ほんの一瞬の妄念が永遠の時間輪廻し続ける、
と、
一念、
と
五百生生、
を対に対比している。「繋念無量劫」も、同趣旨である。
因みに、「隔生則忘」は、生まれ変わり、つまり、
輪廻転生、
が前提になっている。輪廻転生とは、
六道(ろくどう/りくどう)、
と呼ばれる六つの世界を、
生まれ変わりながら何度も行き来するもの、
と考えられている(https://www.famille-kazokusou.com/magazine/manner/325)。六道は、
地獄(罪を償わせるための世界。地下の世界)、
餓鬼(餓鬼の世界。腹が膨れた姿の鬼になる)、
畜生(鳥・獣・虫など畜生の世界。種類は約34億種[9]で、苦しみを受けて死ぬ)、
修羅(阿修羅が住み、終始戦い争うために苦しみと怒りが絶えない世界)、
人間(人間が住む世界。四苦八苦に悩まされる)、
天上(天人が住まう世界)、
の六つ(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AD%E9%81%93)。で、
六道輪廻、
ともいう。大乗仏教が成立すると、六道に、
声聞(仏陀の教えを聞く者の意で、仏の教えを聞いてさとる者や、教えを聞く修行僧、すなわち仏弟子を指す)、
縁覚(仏の教えによらずに独力で十二因縁を悟り、それを他人に説かない聖者を指す)、
菩薩(一般的には菩提(悟り)を求める衆生(薩埵)を意味する)、
仏(「修行完成者」つまり「悟りを開き、真理に達した者」を意味する)、
を加え、六道と併せて十界を立てるようになった(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BC%AA%E5%BB%BB)。
ところで、「五百生」に関連して、
対面同席五百生(たいめんどうせきごひゃくしょう)、
という言葉がある(https://michinarumichini.amach.net/taimen-douseki-gohyakushou/)。仏陀のことばとされ、
対面したり同席したりする人は過去世で500回は関わりを持っている、
という意味である。
袖振り合うも多生の縁、
である。「多生曠劫(たしょうこうごう)」で触れたように、
長い年月多くの生死を繰り返して輪廻する、
意で、
何度も生をかえてこの世に生まれかわること、
つまり、
多くの生死を繰り返して輪廻する、
意(広辞苑)だが、「多生」は、
今生(こんじょう)、
に対し、
前世、また来生、
の意で(岩波古語辞典)、
来生に生まれ出づること、
今生以外の諸の世界に生まれること、
であり(大言海)、
多生に生まれ出でたる際に結びし因縁、
を、
多生の縁(えん)、
という(「他生」とするは誤用)。「曠劫(こうごう)」も、
非常に長い年月、
の意で、
永劫(えいごう)、
と同義になる。
(六道輪廻をあらわしたチベット仏教の仏画。恐ろしい形相をした「死」が輪廻世界を支配している https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BC%AA%E5%BB%BBより)
参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95