汝、早く此の娑婆を立ちさりて、火定(かじょう)に入るべし。その時来迎して、西方へ救ひとらん(諸国百物語)、
とある、
火定(かじょう)、
は、
火中禅定、
ともいい、
自ら焼身して、弥陀の世界にはいること、
と注記がある(高田衛編・校注『江戸怪談集』)。
火化、
ともいう(広辞苑)。
「西方」とは、いうまでもなく、
西方浄土、
の意である(仝上)。「禅定」で触れたように、
本来、
禅に同じ、
とある(岩波古語辞典)。「禅」は、
梵語dhyānaの音写、
とされ、その音訳、
禅那の略、
で(大言海)、
静慮、定・禅定などと訳す、
とある(岩波古語辞典)。つまり、「禅定」には、
禅と定、
の意味が重なっているらしく、
「禅」と「定」の合成語、
とあり(精選版日本国語大辞典)、「禅定」は、
dhyānaの訳語であるが、また、dhyāna を音訳した「禅那」を略した「禅」を「定」と合成したもので、「定」はもとsamādhi の訳語で、心を一つの対象に注いで、心の散乱をしずめるのが「定」、その上で、対象を正しくはっきりとらえて考えるのが「禅」、
とある(仝上)。「定」と訳すSamādhiは、「三昧」で触れたように、「三昧」とも訳されたりする。「禅定」は、
心を一点に集中し、雑念を退け、絶対の境地に達するための瞑想、また、その心の状態、
をいい(広辞苑・精選版日本国語大辞典)、
禅定に入る、
という言い方をする(仝上)が、
如来。無礙力無畏禅定解脱三昧諸法皆深成就故。云広大甚深無量(法華義疏)、
と、
散乱する心を統一し、煩悩の境界を離れて、静かに真理を考えること、
である(岩波古語辞典)。
入定(にゅうじょう)三昧、
ともいう(大言海)。「入定」は、
禅定(ぜんじょう)の境地にはいること、
をいう。
これは、大乗仏教の修行法である、
六波羅蜜の第五、
また、
三学(さんがく 戒・定・慧)の一つ、
である(精選版日本国語大辞典)とされ、仏道修行の、
三学、
六波羅蜜、
の一つとされる。「三学(さんがく)」は、
仏道修行者が修すべき三つの基本的な道、
つまり、
戒学(戒学は戒律を護持すること)、
定学(精神を集中して心を散乱させないこと)、
慧学(煩悩を離れ真実を知る智慧を獲得するように努めること)、
をいう。この戒、定、慧の三学は互いに補い合って修すべきものであるとし、
戒あれば慧あり、慧あれば戒あり、
などという(仝上・ブリタニカ国際大百科事典)。この三学が、大乗仏教では、基本的実践道である六波羅蜜に発展する。
火の中に身を投げ入れて死ぬこと、
とある、
火定、
に対して、
仏道修行者がみずから穴を掘り、土中に埋もれながら入定(にゅうじょう)すること、
を、
土定(どじょう)、
といい、
極楽往生を信じ、みずから海や川に身を投じて死ぬこと、
を、
水定(すいじょう)、
という(精選版日本国語大辞典・デジタル大辞泉)。
入定(にゅうじょう)、
は、上述したように、
禅定(ぜんじょう)の境地にはいること、
つまり、
心を統一集中させて、無我の境地にはいること、
だが、その意味を敷衍して、
大師の御入定の様を覗き見奉らせ給へば(「栄花物語(1028~92頃)」)、
と、
高僧の死、
をもいう(仝上)。
入定、
の対が、
禅定(ぜんじょう)から、もとの平常の状態にもどること、
で、
出定(しゅつじょう)、
という(仝上)。
(「火」 甲骨文字・殷 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%81%ABより)
「火」(漢音呉音カ、唐音コ)は、
象形、火が燃えるさまを描いたもの、
で(漢字源)、転じて「燃える」、「焼く」こと。更に転じて「火災」のこと(角川新字源)とある。
参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95