もはや帰り候。女体にて身けがれて有り、行水(ぎょうずい)させ給へ(諸国百物語)、
の、
行水、
とは、
行水を使う、
カラスの行水、
と使う、
暑中などに、湯や水を入れたたらいに入って、身体の汗を流し去ること、
という意(広辞苑)だが、
行水(こうすい)、
は、
天下之言性也、則故而已矣。故者以利爲本。所惡於智者、爲其鑿也。如智者若禹之行水也、則無惡於智矣。禹之行水也、行其所無事也(孟子)
と、
水をやる、水を治め通ずる、
意(字源)や、
輒使行水(梁・高僧伝)、
と、
神仏に祈る時。水を浴びて身を浄める、
意(仝上)の漢語である。
「鉢から手を離して」を意味する古代インド言語のパーリー語を漢訳する際、
手自斟酌。食訖行水(自ら手に水を汲み、食事の後に終えて手を洗うこと)、
と訳され、
行水、
の字が当てられ(語源由来辞典)、ここから、潔斎のために清水で体を洗い清める行の意味で用いられ(仝上)、
修行人の行(ギヤウ)をするに、身を清むることより起これる語なり、水は湯水なり、水風呂も、湯水風呂なり、
となり(大言海)、
朝行水、念誦(ねんじゅ)の後、角殿へ参る(明月記)、
…講始也、……先是、行水、装束了(仝上)、
先帝をば、法皇になし奉るべしとて、……毎朝の御行水をめして(太平記)、
等々と、
神事や仏事などの前に、きよらかな水で身体を清めること、
つまり、
潔斎(けっさい)するに湯浴みすること、
の意で使い、転じて、
ただ湯を盥に盛りて、身の汗などを洗い拭ふこと、
の意となる(仝上)。湯ではなく水の行水を、
みづきぎゃうずゐ、
という(仝上)らしい。
(行水(歌川国貞(三代歌川豊国)「風流十二月ノ内 水無月」) https://www.kumon.ne.jp/kumonnow/topics/vol404/より)
「行水」は、古くは、
宗教的な意味から、穢(けがれ)をはらうため水浴をしてこれを禊(みそぎ みそそぎ)といい、行を行う前提としての精神的浄化行為であった、
とある(日本大百科全書)。これが祭事前の潔斎となり、平安時代には、
行水、
とよび、滝に打たれることなどもその一種であった(仝上)。単に、手を洗い、口をすすぐのみでも、
行水、
と称されることもあった(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A1%8C%E6%B0%B4)ともある。中世には現代の意味が生じ、江戸時代以降、一般家庭でもたらいなどに湯や水を入れて沐浴をすることが普及し、水上生活者のために小舟に据風呂(ぶろ)を設けた、
行水船(ぎょうずいぶね)、
も現れた(仝上・広辞苑)。
参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
簡野道明『字源』(角川書店)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95