2023年02月01日

いらだかの数珠


僧、これを見て、「ぜひ真の姿を顕さずば、いでいて目に物みせん」とて、いらだかの数珠にて叩き給へば(諸国百物語)、

とある、

いらだかの数珠、

は、

玉が角ばっている数珠、木製、揉むと高い音を発する、修験僧の持つ物、

とある(高田衛編・校注『江戸怪談集』)。

いらだかの数珠.bmp

(いらだかの数珠 精選版日本国語大辞典より)

いらだかの数珠、

は、

いらたかの数珠、

ともいい、

苛高数珠、

と当て、

山臥大に腹を立て……澳(おき)行く船に立ち向かって、いらたか誦珠(シュス)をさらさらと押揉(おしもみ)て(太平記)、

と、

いらたか誦珠、

とも当て、「数珠」は、

珠数、

とも当て、

念珠(ねんじゅ)、

とも言い、

いらたか念珠、

ともいう。約して、

いらたかずず、
いらたか、

ともいう(精選版日本国語大辞典・広辞苑)。また、「いらたか」は、

最多角、
伊良太加、
刺高、

などとも表記する(仝上)。

そろばんの玉のように平たく、かどが高くて、粒の大きい玉を連ねた数珠。修験者が用いるもので、もむと高い音がする、

とあり(仝上)、

通常は、数珠をもむときには音をたててはならないとされているが、修験道では悪魔祓いの意味で、読経や祈禱の際に、この数珠を両手で激しく上下にもんで音をたてる、

とある(世界大百科事典)。

「いらたか」は、

角が多い意(仝上)
高くかどばった意(精選版日本国語大辞典)、

とされるが、

もみ摺る音の高く聞こえることに由来する、

とする説(世界大百科事典)もある。しかし、これは後付け解釈ではないか。

「いらだか」は、

苛高、
刺高、

と当て、

いらたか、

とも訓ませる(デジタル大辞泉・岩波古語辞典)。

イラはイラ(刺)と同根、

とある。「いら」で触れたように、「いら」は、

刺(広辞苑・大言海・デジタル大辞泉・精選版日本国語大辞典)、
莿(岩波古語辞典・精選版日本国語大辞典)、

などと当て、

とげ、

の意と、

苛、

と当て、

苛立つ、
いらいら、
いらつく、

等々と使う、

かどのあるさま、
いらいらするたま、
甚だしいさま、

の意とがある(広辞苑)。この「いら(苛)」は、

形容詞、または、その語幹や派生語の上に付いて、角張ったさま、また、はなはだしいさま、

を表わし、

いらくさし、
いらひどい、
いらたか、

等々とつかわれる(精選版日本国語大辞典)とあり、

イラカ(甍)・イラチ・イラナシ・イララゲ(苛)などの語幹、

ともある(岩波古語辞典)ので、

苛、

と当てる「いら」は、

莿、
刺、

とあてる「いら」からきているものと思われる。

「いら」は多くの語を派生し、動詞として「いらつ」「いらだつ」「いらつく」「いららぐ」、形容詞として「いらいらし」「いらなし」、副詞として「いらいら」「いらくら」などがある、

とある(日本語源大辞典)。この「いら」の語源には、

イガと音通(和訓栞)、
イラは刺す義(南方方言史攷=伊波普猷)、
イタ(痛)の転語(言元梯)、

等々の諸説がある。ただ、

刺刺、

と当てる、

いらら、

という言葉がある(大言海)。平安後期の漢和辞書『字鏡』(じきょう)に、

木乃伊良良、

とあり、

草木の刺、

の状態を示す「擬態語」と考えると、

いら、

はそれが由来と考えていい。

『字鏡』には、

莿、木芒、伊良、

とある。「芒」(ぼう)は、

のぎ、

で、

穀物の先端、草木のとげ、けさき、

の意である(漢字源)。

どう考えても、「いら」の由来を「揉む音」とするのは無理筋ではあるまいか。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
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2023年02月02日

けうがる


武家に宮仕へさする上は、かねて覚悟の事なれども、かやうにけうがる責め様あるべき(諸国百物語)、

とある、

けうがる、

は、

残忍で面白半分な、

と注記がある(高田衛編・校注『江戸怪談集』)。

「けうがる」は、

希有がる、

とあてる、

けうがる、

かと思うが、この「けう」は、

希有、

と当て、

千歳希有(漢書・王莽傳)、

とある、漢語で、

きいう、
けう、

で、

稀有、

とも同義である(字源)。それをそのまま、

「琉球風炉に、チンカラ、なぞといふがありヤス」「ハテけうな名じゃな」(洒落本「文選臥坐(1790)」)、

と、

めったにないこと、
珍しいこと、

の意で使うが、

是に希有の想を発して禅師に白して言はく(「日本霊異記(810~24)」)、
いとあやしうけうのことをなんみ給へし(源氏物語)、

と、

不思議なこと、

の意や、

射手ども、けうのにぞ言ひあへりける(平家物語)、

と、

めったにないほど素晴らしいこと、

の意や、

御房は希有(けうの)事云ふ者かな(「今昔物語(1120頃)」)、

と、逆に、

(多く悪い事について)意外であること、とんでもないこと、

の意で使い、

正俊けうにしてそこをば遁れて鞍馬の奥に逃げ籠りたりけるが(平家物語)、

と、

やっとのことで、
九死に一生を得て、

と、かろうじて危地を脱した場合にも使う。この「けう」は、

「け」「う」は「希」「有」の呉音、

であるが、訛って、

けぶ、

ともいい、漢音の、

きゆう、

とも訓ます。「けう」は、

仏典を通じて受け入れられた語、

と見られるが、中世には、上述のように、「希有にして」「希有の命を生きる」のような慣用句が生じて、九死に一生を得るの意味で、軍記物語に多く用いられる(精選版日本国語大辞典)。

「けうがる」の、

「がる」は接尾語、

で、「希有」の意味から、

そこより水湧(わ)き出(い)づ。けうがりて、方二、三尺深さ一尺余ばかり掘りたれば(古本説話集)、

と、

珍しいことだと思う、
不思議に思う、

の意で使うが、室町時代、

きょうがる、

と発音されるに至り、

興がる、

と混同されて、

判官南都へ忍び御出ある事、けうがる風情(ふぜい)にて通らんとする者あり(義経記)、

と、

風変わりで興味深く感じる、
興味を覚える、

意で使うようになる(岩波古語辞典・学研全訳古語辞典)。その意味で、

残忍で面白半分な、

という上記の訳注は、かなりの意訳になる。

興がる、

は、

興がありの約まれる語なるべし、やうがりと云ふ語もあり、仮名本に多く、ケウガリと書けり(大言海)、
「興が有る」が変化して一語化したもの(精選版日本国語大辞典)、

などとあり、「興」を、

古き仮名文に、多くは、

けう、

と記し、だから、「きょうがる」も、

けうがる、

と表記する(大言海)ことからきた混同のように思える。

ただ、「興がる」は、

お前に参りて恭敬礼拝して見下ろせば、この滝は様かる滝の、けうかる滝の水(「梁塵秘抄(1179頃)」)、
けうがるかな。無証文事論ずるやうやはある(「明月記」建暦二年(1212)一一月一五日)、

と、

普通の在り方と異なる、
異常である、
風変わりである、
奇妙である、
常軌を逸している、
また、
予想と違う。意外である。普通と違っているので面白かったりあきれたりするさまである、

意や、

あやしがりて、すこしばかりかひほりて見に、そこよりみづわきいづ。けうがりて、ほう二三尺ふかさ一さくよばかりほりたれば(「古本説話集(1130頃)」)、

と、

不思議に思う、
あやしがる、

意や、

それそれ又ひかりたるはとおどしかけて興がりけるに(浮世草子・「武道伝来記(1687)」)、

と、

興味深く感じた気持を態度などに表わす、
おもしろがる、

意などで使うなど、

見なれぬことに面白がったり、意外さや不審さを抱いたりする、

意に用い、中世から近世初めには、

常識に反した突飛な言動を指して、

も用い、近世では、

とんでもないことの意で常軌を逸したことをなじる気持で使う、

例が多い(精選版日本国語大辞典)とあり、意味の上からも、表記の上からも、

希有がる、
と、
興がる、

とは重なるところが多いようである。

「希」 漢字.gif

(「希」 https://kakijun.jp/page/0778200.htmlより)


「希」(漢音キ、呉音ケ)は、

会意文字。「メ二つ(まじわる)+巾(ぬの)」で、細かく交差して織った布。すきまがほとんどないことから、微小で少ない意となり、またその小さいすきまを通して何かを求める意になった、

とある(漢字源)。別に、多少の異同はあるが、

会意。巾+爻(まじわる)で、目を細かく織った布を意味。隙間がほとんどないこと、即ち、「まれ」であることを意味。「のぞむ」は、めったにないことをこいねがうことから、

ともhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%B8%8C

会意。布と、(㐅は省略形。織りめ)とから成り、細かい織りめ、ひいて微少、「まれ」の意を表す。借りて「こいねがう」意に用いる、

とも(角川新字源)、

会意文字です(爻+布)。「織り目」の象形と「頭に巻く布きれにひもをつけて帯にさしこむ」象形(「布きれ」の意味)から、織り目が少ないを意味し、それが転じて(派生して・新しい意味が分かれ出て)、「まれ」を意味する「希」という漢字が成り立ちました。また、「祈(キ)」に通じ(同じ読みを持つ「祈」と同じ意味を持つようになって)、「もとめる」の意味も表すようになりました、

ともhttps://okjiten.jp/kanji659.htmlある。

なお、「興」(漢音キョウ、呉音コウ)は、「不興」で触れた。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
簡野道明『字源』(角川書店)

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2023年02月03日

卒都婆の杖


夜道旅道には、迷ひの物(さまよう霊や変化)に逢はぬためとて、卒都婆の杖をつねづね拵へ持ちけるが(諸国百物語)、

にある、

卒都婆の杖、

は、

卒都婆は、墓の後ろに供養のため、経文を書いて立てる長い板、「一見卒都婆、永離三悪通」(謡曲「卒都婆小町」)。卒都婆の杖は、とくにあつらえて、そのような経文を書き入れた六角棒、

と注記がある(高田衛編・校注『江戸怪談集』)。あまり辞書に載らないが、修行僧や、修験者が持つ杖を、

錫杖(しゃくじょう)、

といい、また四国八十八カ所などの巡礼の遍路が持つ杖を、

金剛杖(こんごうじょう、こんごうづえ)、
または、
遍路杖(へんろじょう)、

という。杖は、

卒都婆、

の意味に加え、

弘法大師(空海)の身代り、

との意味https://www.weblio.jp/content/%E4%BB%8F%E6%95%99%E3%81%AB%E3%81%8A%E3%81%91%E3%82%8B%E6%9D%96も持つという。確かに、遍路の白衣が死に装束とされたように、杖も、

道中で行き倒れたときに「墓標」とする意味、

があったhttps://ohenro.konenki-iyashi.com/category3/entry44.htmlとある。

その名残が、金剛杖の上部にあり、

四角に削られた4つの面には「梵字」で「空・風・火・水・地」の5文字、

が書かれており、

五輪の塔、

を表しているもので、墓標に掲げられた文字と同じ意味(仝上)である。

卒都婆.bmp

(卒都婆 大辞林より)

卒都婆、

は、

卒塔婆、
率塔婆、
卒堵婆
窣堵婆、

などとも表記し(広辞苑・大言海)、

そとうば、
そとば、

と訓ませる(仝上)が、

梵語stpaの音訳、

で、

藪斗婆、
窣都婆、

とも音写され、

高顕の義(大言海)、
頭の頂、髪の房などの義(日本国語大辞典)、

などとされ、

廟、
方墳、
円塚、
霊廟、
墳陵、

などと意訳する(大言海・日本国語大辞典)。本来、

仏舎利を安置したり、供養・報恩をしたりするために、土石や塼(せん)を積み、あるいは木材を組み合わせて造られた築造物、

つまり、

塔、

の意で、

塔婆、

ともいう(仝上)。それが転じて、

供養のため墓の後ろに立てる細長い板、

を指し、

板塔婆(いたとうば、いたとば)、

ともいいhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BF%E5%A1%94%E5%A9%86、上部は、

五輪卒都婆(五輪塔)、

を模して上部が塔状になっており、上から、

空(宝珠)・風(半円)・火(三角)・水(円)・地(四角)の五大、

を表す(仝上)とある。

五輪卒都婆.bmp

(五輪卒都婆(五輪塔) 精選版日本国語大辞典より)

「五輪卒都婆」は、

五輪塔、
五輪の石、
五輪の石塔、

ともいい、

卒塔婆の一つ、

だが、平安中期ごろ密教で創始された塔形で、

石などで、方・円・三角・半月・団(如意珠 にょいしゅ)の五つの形をつくり、それぞれ地・水・火・風・空の五輪(五大)にあて、下から積みあげた形のもの。多くはその表面に五大の種子(しゅじ)、すなわち梵字(ぼんじ)を刻む。これはもと大日法身の形相を表示したもの、

とある(精選版日本国語大辞典)。

仏陀の骨や髪または一般に聖遺物をまつるために土石を椀形に盛り、あるいは煉瓦を積んで作った建造物、

である、

梵語stūpa、

の、

塔(とう)、

は、

卒塔婆、
塔婆、

ともいうが、中国に伝えられて楼閣建築と結びつき、独特の木造・塼せん造などの層塔が成立し、日本では、

木造塔、

が多く、三重・五重の層塔や多宝塔・根本大塔などがある。地中や地表面上の仏舎利収容部、心柱、頂上の相輪に本来の塔の名残が見られる(広辞苑)とある。

タイ国のストゥーパ.jpg

(タイ国のストゥーパ https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%92%E5%A1%94%E5%A9%86より)


真身宝塔.jpg

(真身宝塔(法門寺(西安市) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E5%A1%94より)


法隆寺五重塔.jpg


なお、卒塔婆を使った死者供養の古層と言える形態に、枝や葉のついた生木を依代として墓前に刺す、

梢付塔婆(うれつきとうば)、
葉付塔婆、

などと呼ばれる風習があるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BF%E5%A1%94%E5%A9%86。これらは神式葬祭に使われる、

玉串の原型、

とも言われ、12世紀に密教と真言宗の教えが習合し、五輪塔を墓碑や供養塔として建てる風習が現れた。『餓鬼草紙』や『一遍聖絵』などには林立する木製の五輪卒塔婆が描かれている(仝上)。

木製の五輪卒塔(餓鬼草子) (2).jpeg

(木製の五輪卒塔婆(餓鬼草子) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BF%E5%A1%94%E5%A9%86より)

日本紀略(にほんきりゃく 平安時代に編纂された歴史書)康保(こうほう)四年(967)に、

五畿内幷伊賀伊勢等廿六箇國、可立率都婆六十基之由被下宣旨、高七尺、径八寸、

とあり、同永祚永祚(えいそ)元年(989)には、

摂政(兼家)於吉田、被立千本率都婆、

とある。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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2023年02月04日

サイクリック宇宙論


高水裕一『時間は逆戻りするのか―宇宙から量子まで、可能性のすべて』を読む。

時間は逆戻りするのか.jpg

本書では、

時間を逆に進む世界はあるのか、
そもそも時間とは何か、

について考えをめぐらせていくのが目的(はじめに)とある。そして、

時間が過去から未来に進むのはあたりまえ、

とする常識をうたがっとほしい、とある(仝上)。しかし、そのために、現代の宇宙物理学を総覧し、復習させられることになる。

で、まずは、

時間、

そのものを、

方向、
次元数、
大きさ、

の三点から把握するところから始める。つまり、不可逆とされる、

時間の矢、

そして、空間が三次元なのに、時間が、

一次元、

であること、そして、時間も、空間と同様、進み方が速くなったり、遅くなったりする、つまり、時間も、空間同様、

絶対的なものではなく、相対的なものである、

ことである。そして、時間の不可逆性を示すのが、

エントロピー増大の法則、

である。これを前提にして、果たして時間は可逆的でありうるのかを検証していくのが、本書の旅である。

お定まりの、

相対性理論、
熱力学、
量子力学、

と辿り、

電磁気力、
強い力、
弱い力、
重力、

の四つの力を検討し、悲願の、四つの力を統合する、

Theory of Everything(大統一理論)、

を展望する(著者は「量子重力理論」と呼んでいる)。そのためのアイデアとなる仮説が、現時点では、

超弦理論(超 ひも 理論)、
と、
ループ量子重力理論、

となる。前者は、

9次元の空間と1次元の時間という、きわめて高次元の時空、

に対して、後者は、

空間も時間も飛び飛びの編み目のように離散的な構造で、「ノード」と呼ばれる点と、それらを格子状 に結ぶ「エッジ」と呼ばれる線からなるネットワークの時空、

とし、超弦理論では、

「9+1=10次元という高次元の時空を想定しますが、それは既存の4次元時空に、人工的にコンパクト化した6次元空間をくっつけたもの」

であり、その意味では、一般相対性理論からみちびかれた時空の概念を大きく変更するものではないのに対して、ループ量子重力理論は、

「時空の量子化をめざして、一般相対性理論とも量子力学とも異なる『飛び飛びの時空』という新たな時空モデルを構築」

しており、著者は、

「現状では、高次元の時空を考えることに、数学的な枠組みをつくれるという以上のメリットはないように思われます。率直にいえば私も、超弦理論は時空の本質を真剣に考えているとは思えず、ループ量子重力理論のほうに、相対性理論や量子力学にも通じる過激なまでの革新性を感じるのです。」

と、後者に肩入れしている。それは、ループ量子重力理論は、

重力が伝わる「場」、すなわち「重力場」の量子化、

で、

時間 にも素粒子サイズの「大きさ」があることを示しただけではなく、ついには時間の存在そのものを消す、

ことを示したところにあり、こうまとめる、

「時間とは、あらかじめ決められた特別な何かではない。時間は方向づけられてなどいないし、『現在』もなければ、『過去』も『未来』もない。だとするなら、いったい時間の何が残るのか。あるのはただ、観測されたときに決まる事象どうしの関係だけだ。ごく局所的な、Aという事象とBという事象の間の関係を述べているだけだ。これまでは量子力学の方程式も、時間の発展を前提としていたが、もはや時間は表舞台からきれいに姿を消してしまった。時間とは、関係性のネットワークのことである。」

他方、超弦理論では、

両端に何もない、ひも状の「開いた弦」、
と、
両端がくっついて輪になっている「閉じ た弦」、

の2種類のうち、「開いた弦」は、その端っこを「膜」のようなものにくっつけていることが計算上発見され、それを、

プレーン、

と呼び、

「私たちは9+1次元の時空に浮かぶ、平たい3+1次元のブレーンの上に拘束され、……この時空のほかの場所で起こる高次元の現象はすべて、いわば影絵のように、平たいブレーンの上に投影された3+1次元の現象として認識」

されるという世界像を描いた。そして、時間の矢の始まりとされる、

ビッグバン、

とは、

二枚のプレーンの衝突、

という、

サイクリック宇宙論、

へと発展していく。それは、

宇宙にはそもそも時間的な起点などはなく、収縮→衝突(ビッグバン)→ 膨張→収縮→…… というサイクルを、何度も繰り返している、

というものである。これは、マクロスケールで見た「時間の逆戻り」にひとつの回答を与えている、と著者は見ている。いまひとつは、

ミクロの量子世界、

での時間の逆戻りである。不確定性原理から見て、

「素粒子を個々に見れば時間が逆戻りしているものもあるけれども、多くの素粒子が集まりマクロの系になると、個々の逆戻りの効果は統計的に無視されてしまって、結果として時間は一方向にしか現れない」

ことになる。その意味で、今後ミクロの世界から、時間は見直されていく、と著者は見ている。

実は、時間について考える時、残されているのは、

人間原理、

と言われるものだ。量子力学では、

揺らいでいる素粒子は、観測者が見ることではじめて状態が一つに定まる、つまり固定化される、

とされる。では、この固定化を、誰が見たのか。この面でも、

サイクリック宇宙論、

は、

「歴史が何度も繰り返される宇宙では、現在の宇宙における過去と未来は、前回までのサイクルですでに関係づけられている」

と見なせ、

人間の生まれる前から人間にちょうどよいように宇宙がお膳立てされているのも、必然性があるように見える」

と、最適なモデルになっているとする。ただ、

宇宙の最初の観察者は誰か、

という疑問はまだ残るが、と。

結局、宇宙論を総覧し、

「白黒をつけるより、時間の思考を楽しみながら宇宙の不思議さに思いを馳せる」

ことで終わったことになるが。

なお、ケイティ・マック(吉田三知世訳)『宇宙の終わりに何が起こるのか』)、高水裕一『宇宙人と出会う前に読む本―全宇宙で共通の教養を身につけよう』、ルイーザ・ギルダー『宇宙は「もつれ」でできている-「量子論最大の難問」はどう解き明かされたか』)、吉田伸夫『宇宙に「終わり」はあるのか-最新宇宙論が描く、誕生から「10の100乗年」後まで』、吉田たかよし『世界は「ゆらぎ」でできている―宇宙、素粒子、人体の本質』、
鈴木洋一郎『暗黒物質とは何か』、ブライアン・グリーン『隠れていた宇宙』、岸根卓郎『量子論から解き明かす「心の世界」と「あの世」』、青木薫『宇宙はなぜこのような宇宙なのか』、佐藤勝彦『宇宙は無数にあるのか』、
大栗博司『重力とは何か』、等々については触れたことがある。

参考文献;
高水裕一『時間は逆戻りするのか―宇宙から量子まで、可能性のすべて』(ブルーバックスKindle版)

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2023年02月05日

法華経五の巻


右の手に水晶の珠数をつまぐり、左の手に法花経の五の巻を持ち、すでに広庭に出でられければ(諸国百物語)、

にある

法花経五の巻、

は、

法華経巻五は、「提婆達多品(だいばだったぼん)」。竜王の娘が、その徳行のゆえに菩提をとげる話が載り、女人成仏を説く条として古来有名、

と注記がある(高田衛編・校注『江戸怪談集』)。

「五の巻」は、

第五の巻(だいごのまき)、
五巻(ごのまき)、

とも表記し、この巻には、

悪逆な提婆達多(だいばだった)の成仏の予言や八歳の龍女が成仏することを説いて、法華経の広大な功徳を讚える提婆品、

が収められ(精選版日本国語大辞典)、この「提婆品(だいばぼん)」は、

悪人成仏、
女人成仏、

の根拠となる(岩波古語辞典)ので、

わづかに請じ寄せ給し法師してもよみ講せさせ給し提婆品、最勝王経、ここにして日々にかの御ためによません(宇津保物語970~999頃)」)、

などと、

特に重視され、法華八講などには第五巻を講ずる日は、

五巻日(ごかんのひ)、

といって薪行道(たきぎのぎょうどう)が行なわれる(精選版日本国語大辞典)とある。この日は、

法華八講では3日目、
三十講では13日目、

にあたり、悪人成仏、女人成仏を説く提婆品(だいばぼん)が講説され、特別な供養が行われる(デジタル大辞泉)。「法華八講」は、

法華経八巻を八座に分けて、一日を朝・夕の二座に分け、一度に一巻ずつ修し、四日間で講じる法会、

で(仝上)、起源は中国だが、日本では延暦一五年(796)年に奈良の石淵寺の勤操が4日間『法華経』を講義したのを最初とされる(ブリタニカ国際大百科事典)。さらに、

開経(導入)の無量義経、結経(補足)の観普賢経(かんふげんきよう)を加えて10座とした講讃が、

法華十講、

法華経28品に開結2経を加えて30日間に講ずる講讃が、

法華三十講、

となる(世界大百科事典)。「提婆品(だいばぼん・だいばほん)」は、

提婆達多品(だいばだったぼん)の略、

法華経二十八品中の第十二品。「妙法蓮華経」巻五の最初の品名。提婆達多や龍女の成仏を説くことにより、法華経の中でも功徳の勝れた一章として重視されている、

とある(仝上)。この、

提婆達多(だいばだった)、

は、

原名デーバダッタDevadattaの音写語、

で、略して、

提婆(だいば)、
また、
調達(じょうだつ)、
あるいは、
天授(てんじゅ)、

と訳す。ゴータマ・ブッダ(釈迦)と同時代の仏教の異端者。で、ブッダの従兄弟(いとこ)または義兄弟といわれ、出家してブッダの弟子となったが、のちブッダに反逆し、仏教教団の分裂を図った。マガダ国のアジャータシャトル(阿闍世 あじゃせ)王子を唆し、父王を殺させて王位につかせ、自らはブッダを殺害しようとしたが失敗し、やがて悶死(もんし)した、

とされ(日本大百科全書)仏典では、

生きながら地獄におちた極悪人、

とされるが、仏教から分立した禁欲主義的な宗教運動の組織者でもある(精選版日本国語大辞典)。

『妙法蓮華経』.jpg

(『妙法蓮華経』(鳩摩羅什訳 春日版)「序品第一」 日本大百科全書より)

法華経は、サンスクリット原典は、

サッダルマ・プンダリーカ・スートラSaddharmapundarīka-sūtra、

といい、

妙法蓮華経(みょうほうれんげきょう)の略称、

だが、原題は、

「サッ」(sad)は「正しい」「不思議な」「優れた」、「ダルマ」(dharma)は「法」、「プンダリーカ」(puṇḍarīka)は「清浄な白い蓮華」、「スートラ」(sūtra)は「たて糸:経」の意、

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%95%E8%8F%AF%E7%B5%8C

白蓮華のごとき正しい教え、

の意となる(世界大百科事典)。

白い蓮の花.jpg


この漢訳は、

竺法護(じくほうご)訳『正(しょう)法華経』10巻(286)、
鳩摩羅什(くまらじゅう)訳『妙法蓮華経(みょうほうれんげきょう)』7巻(406)、
闍那崛多(じゃなくった)他訳『添品(てんぼん)妙法蓮華経』7巻(601)、

三種が存在する。『妙法蓮華経(みょうほうれんげきょう)』が最も有名で、通常は同訳をさす。詩や譬喩・象徴を主とした文学的な表現で、一乗の立場を明らかにし、永遠の仏を説く(日本大百科全書)とある。

ただ、現行の『妙法蓮華経』は「提婆達多品(だいばだったぼん)」を加えているが、羅什訳原本にも他書にもなく、それを除くと、すべてのテキストが27章からなる(仝上)とある。

鳩摩羅什訳『妙法蓮華経』如来寿量品第十六・自我偈。.jpg

(鳩摩羅什訳『妙法蓮華経』如来寿量品第十六・自我偈 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%95%E8%8F%AF%E7%B5%8Cより)

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2023年02月06日

正行(しょうぎょう)


歌をよみ、詩をつくり、経論(きょうろん 仏の説いた経、それを祖述した論)、正行(しょうぎょう)まで、残らず読みわきまへ、慈悲の心ざし深かりし娘也(諸国百物語)、

にある、

正行、

は、

弥陀への読誦、観察、礼拝、称名、賛嘆の五つの行為を「正行」というが、本文はこれを経典の一つに誤解している、

と注記がある(高田衛編・校注『江戸怪談集』)。ただ、校注者が言っている、

読誦(どくじゆ)・観察・礼拝・称名・讚歎供養(さんたんくよう)、

の五つは、特に、

浄土門、

で、念仏者が修すべきこととされ、

称名を正定業(しょうじょうごう)とし、読誦・観察・礼拝・讃歎供養を助業(じよごう)、

とする、

弥陀浄土に往生する5種の正しい行い、

をいい、唐の僧、善導が観経に拠ってこの説をたてた(広辞苑・大辞泉)とされる。『観経疏』(善導)の就行立信釈(じゅぎょうりっしんしゃく)は、

行に就いて信を立つとは、然るに行に二種有り。一には正行、二には雑行なり。正行と言うは、専ら往生経に依りて行を行ずる者、これを正行と名づく。何者かこれなる。一心に専らこの『観経』、『弥陀経』、『無量寿経』等を読誦し、一心にかの国の二報荘厳に専注、思想、観察、憶念し、もし礼するには、すなわち一心に専らかの仏を礼し、もし口に称するには、すなわち一心に専らかの仏を称し、もし讃歎供養するには、すなわち一心に専ら讃歎供養す。これを名づけて正と為す。またこの正の中に就いて、また二種有り。一には一心に専ら弥陀の名号を念じて、行住坐臥に、時節の久近(くごん)を問わず、念念に捨てざる者、これを正定の業と名づく。彼の仏の願に順ずるが故に。もし礼誦(らいじゅ)等に依るをば、すなわち名づけて助業とす。この正助二行を除いて已外、自余の諸善を、ことごとく雑行と名づく。もし前の正助二行を修すれば、心常に親近して、憶念断えざれば名づけて無間とす。もし後の雑行を行ずれば、すなわち心常に間断す。回向して生ずることを得べしといえども、すべて疎雑の行と名づく、

と説くhttp://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E6%AD%A3%E8%A1%8C%E3%83%BB%E9%9B%91%E8%A1%8C。「正行」の反対が、

雑行(ぞうぎょう)、

で(「ぞう」「ぎょう」はそれぞれ「雑」「行」の呉音)、

阿弥陀仏以外の仏菩薩の名を称えるなど、正行(しょうぎょう)以外の諸善、また、それらを修めること

いい、『往生礼讃』(善導)は、

もし専を捨てて雑業を修せんと欲する者は、百の時希に一二を得、千の時希に三五を得。何を以ての故に。すなわち雑縁乱動し正念を失するに由るが故に。仏の本願と相応せざるが故に。教えと相違するが故に。仏語に順ぜざるが故に。係念相続せざるが故に。憶想間断するが故に。回願慇重真実ならざるが故に。貪・瞋・諸見の煩悩来たりて間断するが故に。慚愧・懺悔の心有ること無きが故なり…また相続してかの仏の恩を念報せざるが故に。心に軽慢を生じて業行をなすといえども常に名利と相応するが故に。人我みずから覆いて同行の善知識に親近せざるが故に。ねがいて雑縁に近づき往生の正行を自障し障他するが故なり、

と、雑行には一三の失があると説く(仝上)。『選択集』(法然)は、親疎対・近遠対・有間無間対・不回向回向対・純雑対の五番相対を立てて両者の価値を相対的に区別し、「正行」は、これを実践する行者と阿弥陀仏との関係が、

①親しく、
②近しく、
③憶念が間断しておらず、
④ことさら回向する必要がなく、
⑤往生のための純粋な実践である、

が、「雑行」は、阿弥陀仏との関係が

①疎く、
②遠く、
③憶念が間断しており、
④回向しないかぎり往生行とはならず、
⑤他方の諸仏浄土への往生行であり極楽への純粋な往生行ではない、

とし、

然らば西方の行者、雑行を捨て正行を修すべきなり、

と結論づけている(仝上)。この意図は、

他力本願、

の趣旨で、「雑行」は、

私たちの行う善を阿弥陀仏の救いに役立てようとしている諸善万行、

いい、阿弥陀仏の救いに役立てようとする、

自力の心、

なので、「雑行」は、

自力の心でする諸善万行、

をいうhttps://www.shinrankai.or.jp/b/shinsyu/infoshinsyu/qa0425.htmとある。たとえば、

これだけ親に孝行しているから、
これだけ他人に親切しているから、
これだけ世の中のために尽くしているから、

阿弥陀仏は助けてくださるだろう等々と思ってやっているすべての善を、

雑行、

というのだからである(仝上)と。

浄土門でいう「正行」は、以上のようなものだが、その元々の意味は、

正行是法明門、至彼岸故(「正法眼蔵(1231~53)」)、

と、

悟りを得るための正しい行い、

あるいは、

仏教の実践修行としての正しい行い、

を指し(広辞苑・日本国語大辞典)、

八正道の一つ、

である、

正精進、

をいう(仝上)。

八正道(はっしょうどう)、

は、「正念に往生す」で触れたことだが、

八聖道(八聖道分)、
八支正道、
八聖道支、

ともいい、仏教を一貫する八つの実践徳目で、これによって悟りが得られ、理想の境地であるニルバーナ(涅槃 ねはん)に到達されると説く。つまり、

(1)正見(しょうけん 梵語samyag-dṛṣṭi) 正しいものの見方、根本となるのは四諦の真理などを正しく知ること、
(2)正思(しょうし 正思惟(しょうしゆい) 梵語amyak-saṃkalpa) 正しい思考、出離(離欲)、無瞋、無害を思惟すること、
(3)正語(しょうご 梵:語samyag-vāc) 正しいことば、妄語、離間語、粗悪語、綺語を避けること、
(4)正業(しょうごう 梵語samyak-karmānta) 正しい行い、殺生、盗み、非梵行(性行為)を離れること、
(5)正命(しょうみょう 梵語samyag-ājīva) 正しい生活、殺生などに基づく、道徳に反する職業や仕事はせず、正当ななりわいを持って生活を営むこと(命は単なる職業というよりも、生計としての生き方をさす)、
(6)正精進(しょうしょうじん 梵語samyag-vyāyāma) 正しい努力、「すでに起こった不善を断ずる」「未来に起こる不善を起こらないようにする」「過去に生じた善の増長」「いまだ生じていない善を生じさせる」という四つの実践を努力すること、
(7)正念(しょうねん 梵語samyak-smṛti) 正しい集中力、四念処(身、受、心、法)に注意を向けて、常に今現在の内外の状況に気づいた状態(マインドフルネス)でいること、
(8)正定(しょうじょう 梵語samyak-samādhi) 正しい精神統一、禅定(ぜんじょう)、正しい集中力(サマーディ)を完成すること。この「正定」と「正念」によってはじめて、「正見」が得られる、

とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E6%AD%A3%E9%81%93・世界大百科事典)。因みに、「四諦(したい)」とは、

四聖諦、
四真諦、
苦集滅道、

ともいいhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E8%AB%A6、人間の生存を苦と見定めた釈尊が、そのような人間の真相を四種に分類して説き示したもので、「諦」は、

梵語catur-ārya-satyaの訳、

で、

4つの・聖なる・真理(諦)、

を意味し、すなわち、

①苦諦(くたい、梵語duḥkha satya) 人間の生存が苦であるという真相。苦聖諦ともいう。人間の生存は四苦八苦を伴い、自己の生存は、自己の思いどおりになるものではないことを明かす。
②集諦(じったい、じゅうたい、梵語samudaya satya) 人間の生存が苦であることの原因は、愛にあるという真相。苦集聖諦ともいう。この愛とは、渇愛といわれるもので、ものごとに執着する心であり、様々なものを我が物にしたいと思う強い欲求である。このような欲求に突き動かされて行動することが、苦の原因であることを明かす、
③滅諦(めったい、梵語nirodha satya) 苦の原因である渇愛を滅することにより、苦がなくなるという真相。苦滅聖諦ともいう。渇愛を滅することで、生存に伴う苦しみが止滅し、覚りの境地に至ることを明かす、
④道諦(どうたい、梵: mārga satya) 渇愛を滅するための具体的な実践が八正道であるという真相。苦滅道聖諦ともいう。渇愛を滅し、苦である生存から離れるために行うべきことが、八正道であることを明かす。これが仏道、すなわち仏陀の体得した解脱への道となる、

とありhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E8%AB%A6http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E5%9B%9B%E8%AB%A6、この第四の「道諦(どうたい)」は、かならず、

八正道、

を内容とした。逆にいえば、

八正道から道諦へ、そして四諦説が導かれた、

とあり(日本大百科全書)。しかも四諦は原始仏教経典にかなり古くから説かれ、とくに初期から中期にかけてのインド仏教において、もっとも重要視されており、八正道―四諦説は、後代の部派や大乗仏教においても、けっして変わることなく、出家・在家の別なく、

仏教者の実践のあり方、

を指示して、今日に至っている(仝上)とある。

「正」 漢字.gif

(「正」 https://kakijun.jp/page/sei200.htmlより)

正鵠を射る」で触れたように、「正」(漢音セイ、呉音ショウ)は、

会意。「一+止(あし)」で、足が目標の線めがけてまっすぐに進むさまを示す。征(まっすぐに進の原字)、

とあり(漢字源)、「邪」の反対の意(字源)だが、「正」は、

的、

の意で、

射侯の中、弓の的の中の星、

の意である(仝上)。

終日射侯、不出正兮(齊風)、

と使われる。「射侯(しゃこう)」とは、

矢の的。侯は的をつける十尺四方の布、

とある(広辞苑)。ただ、別に、

「止」が意符、「丁」が声符の形声字で、本義は{征(討伐する)}。従来は、「-」(目標となる線)+「止」からなり「目標に向けてまっすぐ進むこと」を表すとされたが、甲骨文・金文中でこの字の上部は円形もしくは長方形で書かれ、それらの部分(すなわち「丁」字)が後に簡略化されて棒線となったに過ぎないことから、この仮説は誤りである、

との指摘https://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%AD%A3があり、

会意。止と、囗(こく=国。城壁の形。一は省略形)とから成り、他国に攻めて行く意を表す。「征(セイ)」の原字。ひいて、「ただす」「ただしい」意に用い、また、借りて、まむかいの意に用いる、

とも(角川新字源)、

会意文字です(囗+止)。「国や村」の象形と「立ち止まる足」の象形から、国にまっすぐ進撃する意味します(「征」の原字)。それが転じて(派生して・新しい意味が分かれ出て)、「ただしい・まっすぐ」を意味する「正」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji184.html

「行」 漢字.gif



「行」 甲骨文字・殷.png

(「行」 甲骨文字・殷 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E8%A1%8Cより)

「行」(「ゆく」「おこなう」意では、漢音コウ、呉音ギョウ、唐音アン、「人・文字の並び、行列」の意では、漢音コウ・呉音ゴウ・慣用ギョウ)は、

象形。十字路を描いたもので、みち、みちをいく、動いで動作する(おこなう)などの意を表わす。また、直線をなして進むことから、行列の意ともなる、

とある(漢字源)。別に、

象形。四方に道が延びる十字路の形にかたどり、人通りの多い道の意を表す。ひいて「ゆく」、転じて「おこなう」意に用いる、

とも(角川新字源)ある。

参考文献;
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)

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2023年02月07日

鎧通し


二尺七寸の正宗の刀に、一尺九寸の吉光の脇指を指しそへ、九寸五分の鎧通しを懐にさし(諸国百物語)、

の、

鎧通し、

は、

短刀、

と注記がある(高田衛編・校注『江戸怪談集』)が、確かに、

短刀の一種、

ではあるが、

鎧通し、

は、

戦場で組み打ちの際、鎧を通して相手を刺すために用いた分厚くて鋭利な短剣、

で、

反りがほとんどなく長さ九寸五分(約二九センチ)、

のものをいい、

馬手差(めてざ)し、
めて、

ともいう(大辞泉・大辞林)、

とあるが、厳密には少し違うようだ。

短刀、

は、

長さ一尺(約30.3cm)以下の刀の総称、

で、その「突き刺す」という用途から、

刺刀(さすが)、

佩用上(差し方)から、

懐刀・腰刀(こしがたな)、

拵えの形状から、

鞘巻(さやまき)、
合口または匕首(共にあいくちと読む。後者は中国語に由来)、

という(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%AD%E5%88%80・広辞苑)。基本は、

合口(合口拵/匕首拵 あいくちごしらえ)、

と呼ばれるように、鍔をつけない。この点が、後世の脇差(打刀の大小拵えの小刀)と異なる(仝上)。

突き刺すのに用いるところから、

刺刀(さすが)、

と呼ばれるものは、

刺刃、

とも表記されたりする(中国語では「刺刀」は「銃剣」のことをいう)が、

鎌倉時代、上位の騎馬武者に付き従う徒歩で戦う下級武士たちの間で、駆け回るのに便利な小型の剣として刺刀が流行した。彼らの主要武器は薙刀であったが、これを失ったときや乱戦になって薙刀などの長い武器が使えなくなった時に用いられ、

役割は、

脇差、

と同じであるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%BA%E5%88%80が、南北朝時代には、長大な、

大太刀、

などの大きな刀が人気を集め、刺刀も長大化し、

打刀(うちがたな)、

に発展していき、戦国時代になると、

槍などを使った徒歩による大規模集団戦に移行し、太刀から打刀に主流が変わり、

刺刀、

から、

脇差、

へと変わっていく(仝上)。「太刀」「打刀」については「かたな」で触れた。それにあわせ、刺刀の役割は、反りがなく重ね(刀身の断面形状)が厚い、

鎧通し、

の形式に発展していくことになる(仝上)。抜きやすいよう右腰に口を帯の下に差した刺刀は、

妻手指(えびらさし)、
または、
馬手差(めてざし 右手差しの意味)、

と呼ばれる。「鎧通し」と「馬手差」の違いは、

鍔の有無と栗型(刀の鞘口に近い差表(さしおもて)に付けた孔のある月形(つきがた)のもの。下緒(さげお)を通し、また、帯に深く差しこまないための当たりとする)、

とある(絵でみる時代考証百科)。

馬手差し.jpg

(馬手指を右腰に下から差す 『絵でみる時代考証百科』より)

「刺刀」から発展したものが、

脇差(わきざし、わきさし)、

で、

古くは太刀の差し添えとして使われ、打刀と同じく刃を上にして帯に差した。いわゆる、大小は、

長い打刀と短い脇差、

の2本差しで構成されたhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%84%87%E5%B7%AE。脇差も、

主兵装(本差)が破損などにより使えない時に使用される予備の武器、

を指した(仝上)。

短刀の拵と脇差の拵.jpg

(短刀の拵と脇差の拵 https://www.touken-world.jp/tips/53769/より)

鎧通し、

が、

「馬手差し」(めてざし)

とも呼ばれるのは、上記の経緯から、

甲冑を着用した相手と対峙する際に用いられた短刀、

だが、

右手で逆手に持って使用する、

ためで、

相手と組み合ったときに相手に奪われる恐れがあったため、腰に差す際は通常の刀剣と違って柄が後ろ、鐺(こじり鞘の先端部)が前に来るように身に着けた、

とあるhttps://www.touken-world.jp/tips/56904/

刃長寸5分(約28.8㎝)以下というのは、

肘までの長さ、

ということらしい。城攻の際は、

石垣の間に差して足場に利用した、

ともある(仝上)。

鎧通.jpg


鎧通の拵.jpg

(鎧通しの拵え https://www.touken-world.jp/tips/56904/より)

懐剣、

は、

隠剣(おんけん)、
懐刀(ふところがたな)、

とも呼ばれ、脇差を佩用できないときに懐に隠し持つ短刀のことをいうhttps://www.touken-world.jp/tips/53769/。刀剣鑑定家「本阿弥家」(ほんあみけ)では、4寸(約12cm)から5寸(約15cm)までの長さの短刀を懐剣として折紙に記載していた(仝上)という。

刀子(とうす 切削するための工具の一種)、
小柄小刀(こづかこがたな 日本刀に付属する小さい刀)、

も懐剣に分類されるらしい(仝上)。

懐剣・懐刀.jpg


身の長さが一尺(約30cm)を超えるが短刀の様式を持つものは、特に、

寸延短刀(すんのびたんとう)、

と呼ばれるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%AD%E5%88%80。現在の登録制度では、

脇差、

に分類されるが、短刀用途として作刀されたため、短刀の一種と見なされているhttps://www.touken-world.jp/tips/53769/

寸延短刀.jpg

(寸延短刀 https://www.touken-world.jp/tips/53769/より)

合口、

というのは、上述したように、

鍔(つば)の無い短刀のこと、

で、

鍔が無いために、柄と鞘がぴったり納まる様子から来ている、

が、

匕首(あいくち、ひしゅ)、

とも当てるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%95%E9%A6%96のは、中国の「匕首」(ひしゅ)と混同されたためだが、

「匕」は、もと、さじの意、

で(精選版日本国語大辞典)、暗器(身につけられる小さな武器)ではあるが、

横から見たときに匙のような形の刃先を持つ短刀、

なので、両者は、厳密には異なるようだ。ヤクザが用いていて、

ドス、

俗称されるのは「匕首」であるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%95%E9%A6%96。「ドス」というのは、

人を脅すために懐に隠し持つことから、「おどす(脅す)」の「お」が省略された語、

とある(語源由来辞典)。

因みに、拵えの、

鞘巻(さやまき)、

は、

鞘に葛藤(つづらふじ)のつるなどを巻きつけたもの、

をいう(デジタル大辞泉)が、中世には、

その形の刻み目をつけた漆塗り、

をいう(仝上)。

参考文献;
名和弓雄『絵でみる時代考証百科』(新人物往来社)

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2023年02月08日

みそみそ


数の蛇ども、集(たか)りかかって噛み殺し、みそみそとして、山のかたへ皆帰りて、別の事もなかりしと也(諸国百物語)、

の、

みそみそとして、

は、

落胆して、すごすごと、

とある(高田衛編・校注『江戸怪談集』)。

みそ.jpg


「みそみそ」は、

味噌のような状態になることによるか、

とあり(広辞苑)、

破れくずれたさま(広辞苑)、
細かくくずれるさま、ぐしゃぐしゃ(大辞泉・岩波古語辞典)、
破れ崩れたる状に云ふ語、メチャメチャ(大言海)、

等々と、

物が細かくくずれるさまを表わす語、

で(精選版日本国語大辞典)、上記引用のように、

「と」を伴って用いる、

こともある(仝上)。そうした擬態語から、

物尽きたりと云ふ事もなくて、みそみそとして、さて止みにけり(「愚管抄(1220)」)、

と、

ひっそり、ひそひそ(岩波古語辞典)、
勢いなどが弱まって静かになるさま、ひっそり(大辞泉)、

と、

物事の勢いなどが弱まって静かになるさまを表わす語、
弱弱しくくず折れるようなさまを表わす語、

との状態表現へシフトし、それをメタファにすれば、上記の引用のように、

すごすご、

というように、価値表現へとシフトしていくことはあり得ると思える。

なお、

みそみそ、

に、

味噌味噌、

と当て、「大上臈御名之事」(16C前)に、

あへもの、みそみそ、

とあり(精選版日本国語大辞典)、

和物(あえもの)をいう女房詞、

とある。これなら、

物が細かくくずれるさまを表わす語、

というのが、

和える、

つまり、

混ぜ合わせた状態、

から来た擬態語というのは意味が通じる気がする。

「みそみそ」が、

味噌、

から来たというが、

味噌」で触れたように、「味噌」自体が、

肉の肉醤、魚の魚醤、果実や草、海草の草醤、穀物の穀醤、

等々の、

醤(ひしお)、

のペースト状にしろ、奈良時代の文献にある、

未醤(みさう・みしょう)、

という、まだ豆の粒が残っている醤(ひしお)にしろ、

大豆を蒸してつき砕き、麹(こうじ)と塩を加えて発酵させた、

ペースト状にしろ、

みそみそ、

の、

物が細かくくずれるさまを表わす語、

という意味とはちょっと乖離があるような気がするのだが。

参考文献;
大野晋・佐竹昭広・前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
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2023年02月09日

集(たか)る


船人もみな、子たかりてののしる(土佐日記)、
数の蛇ども、集(たか)りかかって噛み殺し、みそみそとして、山のかたへ皆帰りて、別の事もなかりしと也(諸国百物語)、

などの、

集(たか)る、

は、

集まる、

意で、「古事記(712)」にも、

蛆(うじ)多加礼(タカレ)ころろきて、

と使われているが、

羶によて蟻がたかる(「古活字本荘子抄(1620頃)」)、

と、

寄り集まる、
むらがり集まる、

意や、転じて、

しばしば御ゆだんあるまじく候、おこりたかり候物にて候(「醍醐寺文書(室町時代)」)、

と、

病気になる、
病気がうつる、
病気がひろがる、

意や、さらに、

通りがかった仲間がそれを見つけて、男にたかる(川端康成「浅草紅団(1929~30)」)、

と、

人をおどしたり、泣きついたりして金品をせしめる、
恐喝(きょうかつ)する、
また、
食事などをおごらせたり遊興の費用を出させたりする、

という意でも使う。今日は、ほぼこの意で使う。

立ちかかる意かと云ふ、

という語源(大言海)から見ると、

寄り集まる、

という状態表現が、価値表現へ転じ、客体表現から主体表現、つまり、

何かに集まっているから、我身に集まってくる、

という、

他人事から我が事、

に転じた、と見える。

集、

という漢字の読み方には、

集(あつ)む(まる)、
集(つど)ふ(う)、
集(すだ)く、

とも訓ませる。

「すだく」は、

すたく、

とも訓ませ、

夏麻引く海上潟の沖つ洲に鳥は簀竹(すだけ)ど君は音もせず(万葉集)、
むぐらおひて荒れたるやどのうれたきはかりにも鬼のすだくなりけり(伊勢物語)、
藻にすだく白魚やとらば消ぬべき(芭蕉)、

などと、

多くのものが群がり集まる、

意と、

我やどにいたゐの水やぬるむらん底のかはづぞ声すだくなる(「曾丹集(11C初)」)、
答ふる者は夏草に、すだける虫の声ならで、外に音せん物もなし(浄瑠璃「源頼家源実朝鎌倉三代記(1781)」)、

などと、

多くの虫や鳥などが集まって鳴く、
多く集まってさわぐ、

意がある(精選版日本国語大辞典)。「すだく」で触れたように、本来は、

「ツドフ(集ふ)」と「スダク(集く)」と同源の語の変化(日本語源広辞典)。
「集(つど)ひ挈(た)くの約。集ひ居て動く義(大言海)

とあり、元々、

集まる、多く集う、

という意味で、

誤りて、鳴く、

とする(大言海)。だから、意味として、

虫集く、

は、

集まっている、

という意味だけで、

鳴く、

意味は本来なかった。因みに、「挈(た)ぐ」は、

手揚(たあ)ぐの約か、

として、

揚ぐ、もたぐ、

の意味とする(大言海)が、他の辞書には載らない。もし、この説通りなら、

ただ集まる、

という意味だけではなく、

もたげる、

という含意がある。だから、ただ集まる意味に、

騒ぐ、
あるいは、
騒がしい、

という含意が、もともとあった、と考えるべきなのかもしれない。「すだく」と、

つどふ(う)、

が同源とすると、あえて、

つどふ、

と使い分けて、含意を異にしたかったからということなのかもしれない。「つどふ」は、

国国の防人つどひ舟(ふな)乗りて別るを見ればいともすべなし(万葉集)、

と、

(一人の意向によって召し寄せられて)集合する、

意や、

ももしきの大宮人はいとまあれや梅をかざしてここにつどへり(万葉集)、

と、

(一つのものを中心に)寄り合う、会合する、

意や、

是を以ちて八百万の神、天安の河原に神集ひ集(ツドヒ)て〈集を訓みて都度比(ツドヒ)と云ふ〉(古事記)、

と、

ある目的をもって集まる、

意で使う。その語源は、

ツヅ(粒・珠)アフ(合)の転で、一つの緒に多くの珠が貫かれるのが原義か、類義語アツマルは、同質のものが寄り合う意(岩波古語辞典)、
ツ(津)+トフ(問・訪)、港や津に船や人が集まる意(日本語源広辞典・名言通・日本古語大辞典=松岡静雄)、
津訪(と)ふの義、舟に起こる(大言海)、
船がツに集まる意からで、ツはツ(津)、ドフは語尾(国語の語根とその分類=大島正健)、

等々あるが、由来は、

集(ツトツテ)于卓淳、撃新羅(神功紀)、

とあるように、

船が集まる、

という特殊な用例から来たのかもしれない。

「あつむ(まる)」は、

国邑の人民を召し集(アツメ)て(地蔵十輪経元慶点)、
これよりさきの歌を集めてなむ、万葉集となづけ(古今集・序)、

と、

散らばっている同質のものを一つ中心に寄せる、
一つにまとめる、

意で、

統率するために集合させる意、

の「つどふ」と区別している(岩波古語辞典)。転じて、

大伴、我家にありと有(ある)人あつめて(竹取物語)、

と、

多くの物や人を一箇所に寄せ合わせる、
まとめる、

意で使い(精選版日本国語大辞典)、転じて、

其人数をまつめ候時は、入がいを吹候者(上杉家文書)、

と、

纏める、
集める、

と当て、

まつめる、

とも訛る(仝上)。この語源は、

アは発語、因て、ツメとも、ツムともよめり、積むと義同じ(大言海・和訓栞)、
厚(あつ)むの活用(長むる、廣むる)(大言海)、
アツム(弥積)の義(言元梯)、
アマタ-ツム(積)から(和句解)、

等々、

積む、

と絡ませる説が多い(日本語源大辞典)。

集む、

で、

あぢきなしなげきなつめそうき事にあひくる身をばすてぬものから(古今集)、

と、

つむ、

と訓ませる用例(なげきを集める、ではなく、嘆き詰める、の意とする見解が現在は多いが)もあり、

あつめる、

意で、多く、

掻きつむ、
刈りつむ、

などと熟して用いられる(精選版日本国語大辞典)。

こうみてみると、確かに、「つどふ」→「すだく」と転訛したのかもしれないが、

あつむ、
つどう、
すだく、
たかる、

は、元々別々のものについて個別に言い、微妙に使い分けていたものだと思われる。それを「集」の字を当てたために、

あつまる、

という意味に収斂していったのではあるまいか。

「集」 漢字.gif

(「集」 https://kakijun.jp/page/shuu200.htmlより)

「集」(漢音シュウ、呉音ジュウ)は、

会意文字。元は、「三つの隹(とり)+木」の会意文字「雧」で、たくさんの鳥が木の上にあつまることをあらわす。現在の字体は、隹二つを省略した略字体、

とある(漢字源・https://ja.wiktionary.org/wiki/%E9%9B%86)。別に、意味は同じだが、

会意。雥(そう 多くの鳥。隹は省略形)と、木(き)とから成る。たくさんの鳥が木の上に止まるさまにより、多くの鳥が「あつまる」意を表す、

ともある(角川新字源)。

異字体として、

雧(古体)、

の他に、
㠍、
㯤、
䧶、
亼、
雦、
𠍱、

等々があり、「集」は、

聚、
輯、

の代用字としても使われる。したがって、「つどう」、「あつむ(まる)」に、

聚、

の字も当てる(大言海)。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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2023年02月10日

四天王


仏神三方、天神地祇、上は梵天帝釈、四大(しだい)の天王、日月星宿も御照覧候へ(諸国百物語)、

の、

仏神三方、天神地祇、上は梵天帝釈、四大の天王……、

は、

起請文、

などの、

誓いをとなえるための、神道、仏教の神々の名を上げる慣用語、

とある(高田衛編・校注『江戸怪談集』)。この嚆矢は、鎌倉時代の御成敗式目の末尾にある北条泰時(やすとき)らの連署起請文の、

梵天(ぼんてん)・帝釈(たいしゃく)・四大天王・惣(そう)日本国中六十余州大小神祇(じんぎ)、特伊豆・筥根(はこね)両所権現(ごんげん)、三島大明神・八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)・天満(てんまん)大自在天神、部類眷属(けんぞく)神罰冥罰(みょうばつ)各可罷蒙者也、仍起請文如件、

で、その後のモデル(日本大百科全書)となり、形式の整った中世のものは、

「敬白」「起請文之事」などと冒頭に置き、末尾は、「仍起請文如件」と結んで、署名判と年月日を記す。内容は、宣誓の具体的な事柄を記しもしそれに違背すればと書いて、神文(しんもん=誓詞)となり「梵天帝釈四大天王総而日本国中大小神祇」以下神仏名を列挙し、その罰をわが身に受ける旨を記す、

という構成をとる(精選版日本国語大辞典)。なお、

梵天は、梵天王、帝釈は、帝釈天で、共に護法神、

と注記がある(高田衛編・校注『江戸怪談集』)。この中の、

四大の天王、

とは、

四天王、

つまり、

持国天、増長天、広目天、多聞天(毘沙門天)、天地四隅の守護神、

とある(仝上)。なお「三方」については、「公卿(くぎょう)」で触れたように、

神供(じんぐ)や食器を載せるのに用いる膳具、折敷の下に台をつけたもの、

で、普通白木を用い、

三方に穴をあけたものを、

三方(さんぼう)、

四方に穴のあけたのを、

四方、

穴をあけないのを、

公卿、

という(広辞苑)。

四護神.jpg

(ビルマの四護神(四天王)を表した図 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E5%A4%A9%E7%8E%8Bより)

「四天王」は、略して、

四天、

ともいうが、「四天」は、

四時の天、

つまり、

春を蒼天(そうてん)、夏を昊天(こうてん)、秋を旻天(びんてん)、冬を上天(じょうてん)を総称、

していう意味になるが、また、仏語の、

四天下(してんげ)、

の略で、

須彌山(しゅみせん)を囲む八重の海・山の、最も外側の海の四方にあるという四つの大陸。東方の弗婆提(ふつばだい・ふばだい)、西方の瞿陀尼(くだに)または倶耶尼(くやに)、南方の閻浮提(えんぶだい)、北方の鬱単越(うったんおつ)または倶留(くる 瞿盧とも)の総称、

の意でもある。だから、四方、つまり、

東西南北、

の意で使い、それをメタファに、

蚊帳は、たうか、ろりん、ろけん、ほら、四天(シテン)ちへりは錦織或は金入織物のしつ(「評判記・色道大鏡(1678)」)、

と、

蚊屋の上部の四方のへり、

の意でも使う(精選版日本国語大辞典)。なお、「須弥四洲(しゅみししゅう)」については、「金輪際」で触れた。

須弥山の概念図.jpg


また、「四天」を、

よてん、

と訓ませると、

歌舞伎で、勇士・山賊・海賊・捕手などの激しく体を動かす役の着る、広袖で左右の裾が割れている衣装、

をいい(精選版日本国語大辞典)、

衽(おくみ 左右の前身頃の端につけたした半幅の布)がなく、裾の両脇に切れ目(スリット)が入っている、

のが特徴で(世界大百科事典)、

きらびやかな織物に馬簾(ばれん)という飾りふさのついたものと、木綿地で馬簾のつかないものとがある。また、黒一色の黒四天、赤系統の染模様で役者が手に花枝や花槍を持って出る花四天などの種類がある、

とある(精選版日本国語大辞典)。

『南総里見八犬伝』犬飼現八信道(市川右近).jpg

犬飼現八信道(市川右近 『南総里見八犬伝』 https://enmokudb.kabuki.ne.jp/phraseology/3284/より)


四天(よてん).bmp

(四天(よてん) 精選版日本国語大辞典より)

してん、

と訓むことは忌まれてきたらしい(世界大百科事典)が、

仏像の四天王の衣装からとった説、
黄檗(おうばく)宗の僧衣が裾のあたりで四つに裂けていて、四天と呼ぶのを移したとする説、

があり、仏教由来であることは間違いないようである(仝上)。

さて、四天王の略である、

四天、

は、

四大王(しだいおう)、
護世四王、

ともいい、仏教観における、

須弥山・中腹に在る四天王天の四方にて仏法僧を守護している四神、

つまり、

東方の持国天、
南方の増長天、
西方の広目天、
北方の多聞天(毘沙門天)、

を指し、

六欲天の第1天、四大王衆天(四王天)の主。須弥山頂上の忉利天(とうりてん)に住む帝釈天に仕え、八部鬼衆を所属支配し、その中腹で共に仏法を守護、

し、

持国天は、東勝身洲を守護する。乾闥婆、毘舎遮を眷属とする。
増長天は、南贍部洲を守護する。鳩槃荼、薜茘多(へいれいた)を眷属とする。
広目天は、西牛貨洲を守護する。龍神、富単那を眷属とする。
多聞天は、北倶盧洲を守護する(毘沙門天とも呼ぶ。原語の意訳が多聞天、音訳が毘沙門天)、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E5%A4%A9%E7%8E%8B

夜叉、羅刹を眷属とする。なお、「欲界」については、「三界」、「四天」については、「非想非々想天」でも触れた。

この「四天王」に擬して、

臣下、弟子などのなかで最もすぐれているもの四人の称。また、ある道、ある部門で才芸の最もすぐれているもの四人の称、

についても、四天王像が甲冑をつけ、武器をとり、足下に邪鬼を踏む武将姿であるところから、最初は優れた武将に対し、

源頼光の四天王(渡辺綱・坂田金時・碓井貞光・卜部季武)、
源義経の四天王(鎌田盛政・鎌田光政・佐藤継信・佐藤忠信)、
織田信長の四天王(柴田勝家・滝川一益・丹羽長秀・明智光秀)、
徳川家康の四天王(井伊直政・本多忠勝・榊原康政・酒井忠次)、

等々といったが、後に芸道その他にも広く用い、

和歌の四天王(頓阿(とんあ)、兼好、浄弁、慶運)、

などという(精選版日本国語大辞典・大言海)。なお、八部衆(はちぶしゅう)は、

仏教を守護する異形の神々、

で、

天竜八部衆、
竜神八部、

ともいい、

天(天部)、竜(竜神・竜王)、夜叉(やしゃ 勇健暴悪で空中を飛行する)、乾闥婆(けんだつば 香(こう)を食い、音楽を奏す)、阿修羅(あしゅら)、迦楼羅(かるら 金翅鳥で竜を食う)、緊那羅(きんなら 角のある歌神)、摩羅迦(まごらか 蛇の神)、

の八つをいう(百科事典マイペディア)。「迦楼羅」については「迦楼羅炎」で触れた。

東方持国天.jpg

(東方持国天(高砂市時光寺(播州善光寺)の四天王) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E5%A4%A9%E7%8E%8Bより)


南方増長天.jpg

(南方増長天(高砂市時光寺(播州善光寺)の四天王) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E5%A4%A9%E7%8E%8Bより)


西方広目天.jpg

(西方広目天(高砂市時光寺(播州善光寺)の四天王) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E5%A4%A9%E7%8E%8Bより)

北方多聞天.JPG

(北方多聞天(高砂市時光寺(播州善光寺)の四天王) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E5%A4%A9%E7%8E%8Bより)

なお「帝釈天(たいしゃくてん)」は、

梵天(ぼんてん)と並び称される仏法の守護神の一つ、

で、もとはバラモン教の神で、インド最古の聖典『リグ・ベーダ』のなかでは、

雷霆神(らいていしん)、

であり、

武神、

である。ベーダ神話に著名な、

インドラIndra、

が原名、阿修羅(あしゅら)との戦いに勇名を馳せ、仏教においては、

十二天の一つで、また八方天の一つ、

として東方を守り、

須弥山(しゅみせん)の頂上にある忉利天(とうりてん)の善見城(ぜんけんじょう)に住し、四天王を統率し、人間界をも監視する、

とされる(日本大百科全書)。「是生滅法」で触れた、『大乗涅槃経(だいじょうねはんぎょう)』「聖行品(しょうぎょうぼん)」にある、

雪山童子(せっさんどうじ)、

の説話で、帝釈天が羅刹(らせつ 鬼)に身を変じて童子の修行を試し励ます役割を演じている(仝上)。

帝釈天(左)と梵天(右).jpg

(帝釈天(左)と梵天(右) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%9D%E9%87%88%E5%A4%A9より)

「八方天」(はっぽうてん)とは、

八天、

ともいい、

四方・四隅の八つの方位にいて仏法を守護するという神、

つまり、

東方の帝釈天、南方の閻魔天、西方の水天、北方の毘沙門天、北東方の伊舎那天、南東方の火天、南西方の羅刹天、北西方の風天、

の総称(精選版日本国語大辞典)。「十二天(じゅうにてん)」とは、

一切の天龍・鬼神・星宿・冥官を統(す)べて世を護る一二の神、

をいい、

四方・四維の八天に、上下の二天および日・月の二天を加えたもの、

で、

東に帝釈天、東南に火天、南に閻魔天、西南に羅刹天、西に水天、西北に風天、北に多聞天(毘沙門天)、東北に大自在天、上に梵天、下に地天、および日天、月天、

の総称(仝上)である。

東寺講堂の帝釈天半跏像。.jpg

(東寺講堂の帝釈天半跏像 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%9D%E9%87%88%E5%A4%A9より)

帝釈天.bmp

(帝釈天(撮壌集(1454)) 精選版日本国語大辞典より)

帝釈天の像形は一定でないが、古くは、

高髻(こうけい 髪を全部引きあげて頭上に髻(もとどり)を結ぶ)、

で、唐時代の貴顕の服飾を着け、また外衣の下に鎧を着けるものもあるが、平安初期以降は密教とともに、

天冠をいただき、金剛杵(こんごうしょ)を持ち、象に乗る姿、

が普及した(仝上)「金剛杵」は「金剛の杵(しょ)」で触れた。また、帝釈天の眷属「那羅延」については触れたことがある。

参考文献;
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2023年02月11日

羅刹女(らせつにょ)


われは羅刹女(らせつにょ)と申す、鬼のゆかりにて候ふが、男には女の姿をなし、女には男の姿をなして、ひとをたぶらかし来たれと教えて(諸国百物語)、

の、

羅刹女、

は、

ひとをたぶらかして血肉を食うという鬼女、非常に美しい容貌をもつ、

と注記がある(高田衛編・校注『江戸怪談集』)。

羅刹私(らせつし)、
羅刹斯(らせつし)、

ともいい(精選版日本国語大辞典)、

女の羅刹、

である(デジタル大辞泉)。仏教では、

第一羅刹女誓救。第二従仏告諸羅刹女以下(「法華義疏(7C前)」)、

と、仏教の護持神として、

十羅刹女、

という、

法華経に説かれる法華経受持の人を護持する十人の女、

がある(精選版日本国語大辞典)。

初め、人の精気を奪う鬼女であったが、後に鬼子母神らとともに仏の説法に接し、法華行者を守る神女となったとされ、

藍婆(らんば 梵語Lambā)、
毘藍婆(びらんば 梵語Vilambā)、
曲歯(こくし 梵語Kūṭadantī)、
華歯(けし 梵語Puṣpadantī)、
黒歯(こくし 梵語Makuṭadantī)、
多髪(たほつ 梵語Keśinī)、
無厭足(むえんぞく 梵語Acalā)、
持瓔珞(じようらく 梵語Mālādhārī)、
皐諦(こうたい 梵語Kuntī)、
奪一切衆生精気(だついっさいしゅじょうしょうけ 梵語Sarvasattvojohārī)、

をいう(仝上・https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E7%BE%85%E5%88%B9%E5%A5%B3)。

普賢十羅刹女像.jpg


羅刹、此鬼行速、牙爪鋒芒、食人血肉、故云可畏也(慧琳音義)、

とある、

羅刹(らせつ)は、

サンスクリット語のラークシャサrākasa、
パーリ語のラッカサrakkhasa、

の音写で(日本大百科全書)、

速疾鬼、
可畏、

と訳す(精選版日本国語大辞典)。「ラークシャス」は、

古くは悪魔的な力、

の意味で用いられることがしばしばで、その他の邪悪な力と対等なものとして挙げられ、

打破する、
焼く、

などの動詞とともに現れ、打ち破るべき対象とされる(世界大百科事典)とあり、

インド神話に現れる悪鬼、

の一種。もとは、害する者、守る者の意。通力によって姿を変え、人を魅惑し血肉を食うという。

水をすみかとし、地を疾く走り、空を飛び、また闇夜(やみよ)に最強の力を発揮し夜明けとともに力を失うといわれ、しばしば夜叉(やしゃ)と同一視される、

とある(日本大百科全書)。のちに仏教では守護神となり、

十二天、

の一つに数えられ、像は神王形で甲冑をつけ、刀を持ち白獅子に乗った姿で描かれる(仝上)。

羅刹天像.jpg


因みに、十二天とは、「四天王」でも触れたが、12の天部は四方(東西南北)と四維(南東、南西、北西、北東)の8方と上方、下方の10方位に配置される十尊と日天(につてん)、月天(がつてん)で、

帝釈天(たいしやくてん 東)、
火天(かてん 南東)、
閻魔天(えんまてん 南)、
羅刹天(らせつてん 南西)、
水天(すいてん 西、バルナ)、
風天(ふうてん 北西)、
毘沙門天(びしやもんてん 北)、
伊舎那天(いしやなてん 北東)、
梵天(ぼんてん 上)、
地天(ちてん 下)、
日天、
月天、

となる(世界大百科事典)。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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2023年02月12日

奪衣婆(だつえば)


奪衣婆、

は、「三つ瀬の川」で触れたように、偽経「十王経」が、

葬頭河曲(さうづがはのほとり)、……有大樹、名衣領樹、影住二鬼、一名脱衣婆、二名懸衣翁(十王経)、

と説く、

川岸には衣領樹(えりょうじゅ)という大木があり、脱衣婆(だつえば)がいて亡者の着衣をはぎ、それを懸衣翁(けんえおう)が大木にかける。生前の罪の軽重によって枝の垂れ方が違うので、それを見て、緩急三つの瀬に分けて亡者を渡らせる、

という(日本大百科全書)、

三途(さんず)の川のほとりにいて、亡者の着物を奪い取り、衣領樹(えりょうじゅ)の上にいる懸衣翁(けんえおう)に渡すという鬼婆、

をいう(広辞苑)。

脱衣婆、

とも当て、

葬頭河(しょうずか・そうずか)の婆(はば)、
奪衣鬼、
脱衣婆(鬼)、
葬頭河婆(そうづかば)、
正塚婆(しょうづかのばば)、
姥神(うばがみ)、
優婆尊(うばそん)、

とも言う(広辞苑・https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%AA%E8%A1%A3%E5%A9%86)。

懸衣翁、

は、

その衣を衣領樹に掛け、その枝の高低によって罪の軽重を定める、

という(ブリタニカ国際大百科事典)。

亡者の生前の罪の軽重によって枝の垂れ方が異なる、

のだとされる(世界大百科事典)。奪衣婆の初出は、中国の偽経、

仏説閻羅王授記四衆逆修七往生浄土経(略して『預修十王生七経』)、

をもとに、日本で12世紀末で成立した偽経、

仏説地蔵菩薩発心因縁十王経、

であるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%AA%E8%A1%A3%E5%A9%86とされるが、『地蔵十王経』と内容が類似する、

十王経図巻、

が中国に存在するため、同経は単純に日本撰述とは言えない、

ようである(清水邦彦『「地蔵十王経」考』)。ただ、

「奈河津」「奪衣婆」、

といった語句、あるいは、

閻魔と地蔵との関係、

を除き、十王の本地仏といった発想は、中国の、

仏説預修十王生七経

には見られないなどから、その文言の多くは日本で形成されたと考えられる(仝上)とある。ただ、

『仏説閻羅王授記四衆逆修七往生浄土経』は日本に招聘された中国僧によって10世紀には説かれており、『法華験記』(1043年)には、奪衣婆と同様の役目を持つ「媼の鬼」という鬼女が登場することから、奪衣婆の原型は地蔵十王経成立以前から存在していたと考えられる、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%AA%E8%A1%A3%E5%A9%86ので、そうした奪衣婆像の集大成としてまとめられたものと見える。

『十王図』(土佐光信).jpg

(『十王図』(土佐光信)にある三途川。善人は橋を渡り、罪人は悪竜の棲む急流に投げ込まれている。左上、懸衣翁は亡者から剥ぎ取った衣服を衣領樹にかけて罪の重さを量っている https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E9%80%94%E5%B7%9Dより)


西福寺地蔵堂の奪衣婆像.jpg

(西福寺(川口市)地蔵堂の奪衣婆像 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%AA%E8%A1%A3%E5%A9%86より)

多くの地獄絵図に登場する奪衣婆は、胸元をはだけた容貌魁偉な老婆として描かれており、鎌倉時代以降、説教や絵解の定番の登場人物となるが、ただ、江戸末期になると、

民間信仰の対象、

とされ、奪衣婆を祭ったお堂などが建立され、民間信仰における奪衣婆は、

疫病除けや咳止め、特に子供の百日咳に効き目がある

といわれた(仝上)。

宗円寺(世田谷区)、
正受院(新宿区)、

は、奪衣婆を祀る寺として知られる(仝上)。柳田國男は、

奪衣婆信仰は日本に古くからあった姥神信仰が習合変化したもの、

としている(妹の力)し、『甲子夜話』の、

関の姥神(うばかみ)、

を紹介し、

関の姥神は当時咳の病を祈る神として居るが、実は三途の川の奪衣婆と共に道祖神の一変形である、

とする説を紹介し(山島民譚集)、この時期(江戸末期)に、

野路や里中の露台から取上げられて仏堂の奥に遷された姥神は、殆ど残らず新しい様式に作り換へられて居る。尾張熱田の裁断橋はもとは領地の地境の意味であらうが其の南の詰の姥子堂は今は時宗の僧侶の管守に帰し安阿弥作と云ふ奪衣婆の像が置いてある。此は川の名の精進川と云ふのから起こったのかも知れぬ。奥州外南部の恐山の地獄から出て北海へ流るる正津川の川口近く、茲にも正津川の婆とて同じ像を祀った姥堂がある、

と各地の例を挙げている(仝上)。

なお『十王経』の、

十王、

とは、

初七日、二七日、三七日、四七日、五七日、六七日、七七日(四十九日)、百ヶ日、一周忌、三回忌の節目毎に死者の生前の行いを審判する十人の冥府の王、

を指すhttps://www.kyohaku.go.jp/old/jp/theme/floor2_2/f2_2_koremade/butsuga_20180612.htmlとあり、インドの仏教においては、臨終から七日ごと、七週にわたって法要が行われていました。これが現在の葬送にも引き継がれている、

四十九日、

で、仏教が中国に伝わった後、儒教の、

百日忌・一周忌・三回忌の服喪期間、

とミックスされ、ローカル化し、九世紀頃に『預修十王生七経』という偽経が作られ、

十王信仰、

が成立した(仝上)。十王は、

 初七日 泰広王(本地 不動明王) 殺生について取り調べる。
 二七日 初江王(本地 釈迦如来) 偸盗(盗み)について取り調べる。
 三七日 宋帝王(本地 文殊菩薩) 邪淫の業について取り調べる。
 四七日 五官王(本地 普賢菩薩) 妄語(うそ)について取り調べる。
 五七日 閻魔大王(本地 地蔵菩薩) 六道の行き先を決定する。
 六七日 変成王(本地 弥勒菩薩) 生まれ変わる場所の条件を決定する。
 七七日 泰山王(本地 薬師如来) 生まれ変わる条件を決定する。
 百箇日 平等王(本地 観音菩薩)
 一周年 都市王(本地 勢至菩薩)
 三周年 五道転輪王(本地 阿弥陀如来)

となり、本地仏との対応関係は鎌倉時代に考え出されたhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E7%8E%8Bようであるhttp://www2q.biglobe.ne.jp/~kamada/juo.htm。特に、十王のうちの閻魔王は、地蔵菩薩の姿を変えた存在と考えられ、

閻魔王は罪を憎んで苛烈な審判を下す反面、地蔵は人を憎まず地獄に落ちた者にも地獄に分け入って慈悲を垂れます、

とある(仝上)。

生前に十王を祀れば、死して後の罪を軽減してもらえるという信仰もあり、それを、

預修、

と呼んでいた(仝上)とある。


「三途川」については「三つ瀬の川」で触れた。

参考文献;
栁田國男『増補 山島民譚集』(東洋文庫)
清水邦彦『「地蔵十王経」考』https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk1952/51/1/51_1_189/_pdf/-char/en

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

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2023年02月13日

加持


何とてさやうに加持し給ふぞ。とてもかなはぬ事也。はやはや止め給へ(諸国百物語)、

の、

加持、

は、

加持祈祷、

の意で、

祭壇に護摩の火をたき、陀羅尼を唱え、印を結び、心を三昧にむける、

と注記がある(高田衛編・校注『江戸怪談集』)。

加持祈祷.jpg

(「加持祈祷」 高田衛編・校注『江戸怪談集』(岩波文庫)より)

「加持(かぢ・かじ)」は、

梵語adhiṣṭhānaaの訳語、

で、原意は、

下に立つ、
支えとなる、

で、

所持、
加護、
護念、

などとも訳す(日本国語大辞典)仏語である。真言要記に、

加、諸仏大悲、來加行者持、行者信心、以感佛因、

とあり、それを、

「加」は、力を與ふること、「持」は、守りて失はざること(大言海)、
「加」は佛が衆生に応ずること、「持」は衆生がその仏の力を受けてうしなわないこと(岩波古語辞典)、
「加」は仏の大悲が衆生の宗教的素質に応ずることであり、「持」は信心する衆生が仏の加被力を受持すること(日本大百科全書)、

などとし、

加持の「加」は仏の慈悲の心がいつも衆生に注がれていることを意味し、その慈悲の心を良く感じ取ることができることを「持」と言う、

とあるhttps://www.homemate-research-religious-building.com/useful/glossary/religious-building/1994601/。それを、弘法大師は、

加持とは如来の大悲と衆生の信心とを表す、

といったhttps://www.yuushouji.com/okajiとある。それは、

仏さまがいつ何時でも私たちを見守ってくれるという“慈悲の心”が「加」であり、私たちが仏さまを信じ、精進努力していこうという“信心”が「持」であります。そして、この慈悲と信心が一つになったとき、加持の力が生ずる、

と(仝上)解釈されている。だから、

願いを持つ人の想いを仏に届け、仏に加護を求める行為、

なのであり、代表的なのは、

祭壇を組んで火を焚き、護摩木をくべて「真言」(マントラ)と呼ばれる経を唱える、

スタイルである(仝上)。「加持」は、本来、

菩薩が人びとを守ること、
加護すること、

の意(八十華厳経)であるが、真言密教の、

(「加」を仏、菩薩の大悲のはたらき、「持」を人の信心と解して)菩薩の力が信じる人の心に加わり、人がそれを受けとめること。また、真言行者が口に真言を誦し、意(こころ)に仏、菩薩を観じ、手に印を結んで、この三密(さんみつ)を行ずるとき、仏、菩薩の三密と平等相応して、相互に融け合い、一体となること、

という、

真言密教の修行法、

を指し、さらに、転じて、

真言密教で行なう修法上の呪禁の作法、

つまり、

三密相応させて、欲するものの成就を得る、

という

真言密教の祈祷、

である、

行者が手に印を結び、陀羅尼(だらに)を唱え、心を三昧にすることで、これによって事物を清めたり、願いがかなうように仏に祈ること(岩波古語辞典)、
印相を結び、独鈷、三鈷、五鈷を用ゐ、陀羅尼を唱へながら、観想を以て、佛力の加護を祈る呪法(大言海)、

をいい、さらに転じて、

行者を請して率て来て加持せしむるにやや久(ひさしく)ありて焼せむる事をまぬかれぬ(「観智院本三宝絵(984)」)、

と、民間信仰と混合して、

祈祷、

と同義に用い、

わざわいを除くため、神仏に祈ること、

つまり、

病人加持(病気治癒)、
井戸加持(井戸水の清め)、
帯(おび)加持(安産の祈祷)
虫切加持(子供の夜泣き・疳の虫封じ)、
ほうろく加持(頭痛除けと暑気払い)、

などを言うようになる(精選版日本国語大辞典)。

密教では、空海の、

加持者表如来大悲与衆生信心。仏日之影現衆生心水曰加。行者心水能感仏日名持(「即身成仏義(823~824頃)」)、

という、

即身成仏義(そくしんじょうぶつぎ)、

により、仏の大悲(だいひ)が衆生に加わり、衆生の信心に仏が応じて感応道交(かんのうどうこう)しあう、

ということを、

加持感応、

といい、

仏の大悲が衆生の宗教的素質に応ずるのが「加」であり、信心する衆生が仏の加被力を受持するのが「持」、

とし、本来、仏と衆生の本性とは、

平等不二、

であるとされ、仏の境地が衆生に直接体験されると考える。

行者の功徳力

如来の加持力

法界力、

の三力によって、われわれの行為とことばと心とが仏のそれらと合一することを、

三密(さんみつ)加持、

という。すなわち、

行者が手に仏の印契(いんげい)を結び(身密 しんみつ)、
仏の真言(しんごん)を唱え(口密 くみつ)、
心が仏の境地と同じように高められれば(意密いみつ)、

この身のままで仏になれる(即身成仏)と説く(日本大百科全書)。

金剛宝戒寺.jpg

(金剛宝戒寺 https://www.houkaiji.jp/kigan/より)

しかし一般には、「加持」は、上述のように、

祈祷(きとう)、

の意に用いられ、

加持祈祷、

と並称されるが、「加持祈祷」は、

加持、

祈祷、

と言う2つの用語を合わせた言葉で、

加持と祈祷は多少概念が異なる、

とあるhttp://web.flet.keio.ac.jp/~shnomura/hayatine/kaisetu.htm。「加持」は、

護念・加護と相応し、かかわり合うことを意味する仏教の言葉、

であるが、「祈祷」は、

自己を崇拝対象にゆだねる宗教行為をさす諸宗教にみられる概念、

である(仝上)。

「加持祈祷」は、密教と密接な関係を持つ、

修験道、

で広く行なわれ、修験道の祈祷は、基本的には、

修法者が印契や真言によって崇拝対象と同化した上で守護や除魔をはかる、

というものである。

修験道の加持には、大別して、

帯加持・武具加持など加持の対象物に超自然力を付与する加持、
と、
土砂加持・病者加持など除魔を目的とする加持、

があるとされている(仝上)。「加持祈祷」というと、山岳信仰に仏教(密教)や道教(九字切り)等の要素が混ざりながら成立した、

修験道、

が思い起こされるのは、象徴的である。

因みに、「陀羅尼」とは、

サンスクリット語ダーラニーdhāraīの音写、

で、

陀憐尼(だりんに)、
陀隣尼(だりんに)、

とも書き、

保持すること、
保持するもの、

の意で、

総持、
能持(のうじ)、
能遮(のうしゃ)、

と意訳し、

能(よ)く総(すべ)ての物事を摂取して保持し、忘失させない念慧(ねんえ)の力、

をいい(日本大百科全書)、仏教において用いられる呪文の一種で、比較的長いものをいう。通常は意訳せず、

サンスクリット語原文を音読して唱える、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%80%E7%BE%85%E5%B0%BC。ダーラニーとは、

記憶して忘れない、

意味なので、本来は、

仏教修行者が覚えるべき教えや作法、

などを指したが、これが転じて、

暗記されるべき呪文、

と解釈され、一定の形式を満たす呪文を特に陀羅尼と呼ぶ様になった(仝上)。だから、

一種の記憶術、

であり、一つの事柄を記憶することによってあらゆる事柄を連想して忘れぬようにすることをいい、それは、

暗記して繰り返しとなえる事で雑念を払い、無念無想の境地に至る事、

を目的とし(仝上)、

種々な善法を能く持つから能持、
種々な悪法を能く遮するから能遮、

と称したもので、

術としての「陀羅尼」の形式が呪文を唱えることに似ているところから、呪文としての「真言」そのものと混同されるようになった

とある(精選版日本国語大辞典)のは、

原始仏教教団では、呪術は禁じられていたが、大乗仏教では経典のなかにも取入れられた。『孔雀明王経』『護諸童子陀羅尼経』などは呪文だけによる経典で、これらの呪文は、

真言 mantra、

といわれたからだが、普通には、

長句のものを陀羅尼、
数句からなる短いものを真言(しんごん)、
一字二字などのものを種子(しゅじ)

と区別する(日本大百科全書)。この呪文語句が連呼相槌的表現をする言葉なのは、

これが本来無念無想の境地に至る事を目的としていたためで、具体的な意味のある言葉を使用すれば雑念を呼び起こしてしまうという発想が浮かぶ為にこうなった、

とする説が主流となっている(仝上)とか。その構成は、多く、

仏や三宝などに帰依する事を宣言する句で始まり、次に、タド・ヤター(「この尊の肝心の句を示せば以下の通り」の意味、「哆地夜他」(タニャター、トニヤト、トジトなどと訓む)と漢字音写)と続き、本文に入る。本文は、神や仏、菩薩や仏頂尊などへの呼びかけや賛嘆、願い事を意味する動詞の命令形等で、最後に成功を祈る聖句「スヴァーハー」(「薩婆訶」(ソワカ、ソモコなどと訓む)と漢字音写)で終わる、

とある(仝上)。

『大智度論(だいちどろん)』には、

聞持(もんじ)陀羅尼(耳に聞いたことすべてを忘れない)、
分別知(ふんべつち)陀羅尼(あらゆるものを正しく分別する)、
入音声(にゅうおんじょう)陀羅尼(あらゆる音声によっても左右されることがない)、

の三種の陀羅尼を説き、

略説すれば五百陀羅尼門、
広説すれば無量の陀羅尼門、

があり、『瑜伽師地論(ゆがしじろん)』は、

法陀羅尼、
義陀羅尼、
呪(じゅ)陀羅尼、
能得菩薩忍(のうとくぼさつにん)陀羅尼(忍)、

の四種陀羅尼があり、『総釈陀羅尼義讃(そうしゃくだらにぎさん)』には、

法持(ほうじ)、
義持(ぎじ)、
三摩地持(さんまじじ)、
文持(もんじ)、

の四種の持が説かれている(仝上)。しかし、日本における「陀羅尼」は、

原語の句を訳さずに漢字の音を写したまま読誦するが、中国を経たために発音が相当に変化し、また意味自体も不明なものが多い、

とある(精選版日本国語大辞典)。

なお、「陀羅尼」は、訛って、

寺に咲藤の花もやまんたらり(俳諧「阿波手集(1664)」)、

と、

だらり、

ともいう。

独鈷.png

(上から、独鈷杵(どっこしょ)・三鈷杵(さんこしょ)・五鈷杵(ごこしょ) https://www.kongohin.or.jp/mikkyohogu.htmlより)

なお、「独鈷」については「金剛の杵」で触れた。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

ラベル:加持 加持祈祷
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2023年02月14日

検校


奥嶋検校といふ人、そのむかし六十余まで、官一つもせざりし故、方々、稼ぎに歩くとて(諸国百物語)、
過分に金銀をまうけ、七十三にて、検校になり、十老の内までへ上り、九十まで生きられて(仝上)、

とある、

検校、

は、

座頭官位の最高職、

で、

十老、

は、

検校の中の長老職、全国座頭の惣頭職、

と注記がある(高田衛編・校注『江戸怪談集』)。

検校.bmp

(検校 精選版日本国語大辞典より)

「検校」は、

建業、

とも表記する(精選版日本国語大辞典)。

座頭の官位、

は、

座頭、
勾当、
別当、
検校、

の四階級からなり、金で官位を買うのが普通、

ともある(仝上)。

「検校」は、

此の語、撿挍、檢挍、檢校と三使用あり、語原に従ひて、檢校(検校)と定む、

とある(大言海)が、

撿挍(けんこう)、

は漢語で、

唐代の官名(唐書・百官志)、

とあり、

檢挍、

と同じとある(字源)。「検校(けんげう)」は、

点検典校、

の意からきており(日本大百科全書)、

点検し勘校する、

意として(広辞苑)、あるいは、

殿、左の馬寮うまづかさの検校(けんげう)し給ふ(宇津保物語)、

などと、

検査し監督する、

意で使うが、中国では、

経籍(けいせき)をつかさどる官名、

などに用いる。因みに、「経籍」は、

きょうしゃく、

とも、また、

「Physica……カノガクモンヲ スル qiǒjacu(きゃうじゃく)(「羅葡日辞書(1595)」)、

と、

きょうじゃく、

とも訓ませ、

経典やそのほかの文書、

の意である(精選版日本国語大辞典)。南北朝以来、

検校御史、
検校祭酒、

など、

正官を授けられずその任にあたるとき、仮官として検校の字を冠する、

という(世界大百科事典)。宋代には、

検校太師から検校水部員外郎まで多くの名目的な、

検校官、

があり、武官に文官の肩書として与え、また文官を武官に任命するときこれを加えた。元代の中書省には、

検校官、

という公文書を扱う官があり、明代の各官庁にも置かれ、清代には各府に置かれた(仝上)とある。

日本では、

事務を検知校量する、

ことから、

郡司、検校を加へず、違ふこと十事以上ならば即ちその任を解く(続日本紀)、

と、

平安・鎌倉時代の荘官(しょうかん)の職名に用いられた(仝上)。特に僧職の名として用いられる場合が多く、

寺社の事務を監督する職掌、

をいい(日本大百科全書)、

(石清水八幡の)馬場殿の御所あきたり。検校などが籠りたる折もあけば(「問はず語り(鎌倉時代の中後期)」)、

と、

東大寺・高野山・石清水・春日、

など重要な寺社に置かた(大辞林)、常置の職としては、寛平八年(896)、

東寺の益信(やくしん)が石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)検校に任ぜられた、

のが初出で、

高野山(こうやさん)、熊野三山、無動寺、

などにおいても、一山を統領する職名で、

法会(ほうえ)や修理造営の行事を主宰する者、

の呼称としても用いられる(仝上)。

いわゆる、

琵琶・管弦、および按摩・鍼治などを業とした盲人に与えられた官位の総称、

の意の、

盲官(もうかん)、

としての、

検校、

は、

仁明天皇(810~50年)の子である人康(さねやす)親王が若くして失明し、そのため出家して山科に隠遁した。その時に人康親王が盲人を集め、琵琶や管絃、詩歌を教えた。人康親王の死後、側に仕えていた盲人に検校と勾当の二官が与えられた、

のが嚆矢とされるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A4%9C%E6%A0%A1。室町時代には、

明石覚一(覚一検校)、

によって組織化されたといわれる盲目の琵琶法師(びわほうし)仲間、

当道(とうどう)座、

の長老も検校とよばれ、紫衣を着し、両撞木(モロシユモク)の杖をもつことが許された(大辞泉)。『師守(もろもり)記』貞治(じょうじ)二年(1363)の、

覚一(かくいち)検校、

が初見とされる(日本大百科全書)。

「当道(とうどう)」というのは、

その芸能が〈平曲〉としてとくに武家社会に享受され、室町幕府の庇護を受けるに及んで、平曲を語る芸能僧たちは宗教組織から離脱して自治的な職能集団を結成、宗教組織にとどまっていた盲僧と区別して、みずからを、

当道、

と呼称した(世界大百科事典)ことからきている。「当道」は、

特定の職能集団が自分たちの組織をいう語、

だが、したがって、狭義には特に、

室町時代以降に幕府が公認した盲人の自治組織、

をいい(ブリタニカ国際大百科事典)。そののち、

妙観、師道、源照、戸嶋、妙聞、大山、

の六派に分かれ、一種の「座」として存在し、その内部で階級制を生じ、

検校、別当、勾当、座頭、

の別を立て(仝上)、特に最高位の検校は、

職検校、
または、
総検校、

といい、1人と定められ、職屋敷を統括した(仝上)とある。江戸時代には当道座が幕府によって認められ、

惣(そウ)検校、

の下に、

検校・別当・勾当(こうとう)・座頭(ざとう)、

の官位があり(日本大百科全書)、さらに細分して、

16階73刻、

に制定された(ブリタニカ国際大百科事典)。

江戸には関八州の盲僧を管轄する、

惣録(そうろく)検校、
総検校、

も置かれ、

平曲のほか地歌、箏曲(そうきょく)、鍼灸(しんきゅう)、按摩(あんま)、

などに従事する者で官位を目ざす者は試験を受け、多額の金子(きんす)を納めてこの職名が授けられた(日本大百科全書)。検校になるためには、1000両を要するといわれ、総検校は10万石の大名と同等の格式があった(ブリタニカ国際大百科事典)。

因みに、「平曲」というのは、

平家琵琶、
平語(へいご)、
平家、

とも呼ばれた、

琵琶を弾きながら、《平家物語》の文章を語る語り物音楽、

をいい(世界大百科事典)、

《平家物語》の詞章の改訂に着手した如一の弟子で〈天下無雙(むそう)の上手〉といわれた明石覚一(あかしかくいち)がさらに改訂・増補を重ね、〈覚一本〉とよばれる一本を完成し、一方流平曲の大成者として以後の平曲隆盛の基盤をつくった、

とされる(仝上)。

江戸時代には当道座の表芸たる平曲は下火になり、代わって地歌三弦や箏曲、鍼灸が検校の実質的な職業となったようだ。

平曲、三絃や鍼灸の業績が認められれば一定の期間をおいて検校まで73段に及ぶ盲官位が順次与えられたが、それには非常に長い年月を必要とするので、早期に取得するため金銀による盲官位の売買も公認された。最低位から検校になるまでには総じて、

719両、

が必要であったhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A4%9C%E6%A0%A1という。

江戸時代には地歌三弦、箏曲、胡弓楽、平曲の専門家として、三都を中心に優れた音楽家となる検校が多く、近世邦楽大発展の大きな原動力となり、また鍼灸医として活躍したり、学者として名を馳せた検校もいる。

絹本著色塙保己一像(住吉広定(弘貫).jpg

(絹本著色塙保己一像(住吉広定(弘貫) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A1%99%E4%BF%9D%E5%B7%B1%E4%B8%80より)

学者として有名な検校には、「群書類従」の編者、

塙保己一(保己一)、

音楽家としては、生田流箏曲の始祖、

生田検校(幾一)、

山田流箏曲の始祖、

山田検校(斗養一)、

鍼で管鍼法を確立した、

杉山和一(和一)、

地歌の「京流手事物」を確立、多くの名曲を残した、

松浦検校(久保一)、

将棋の戦法のひとつである石田流三間飛車の創始者、

石田検校、

等々がいるが、

勝海舟、男谷信友の曽祖父、

米山検校(銀一 男谷検校)、

もいる(仝上)。

杉山和一(冨士川游の『日本の医学史』1904年より).jpg

(杉山和一(冨士川游の『日本の医学史』(1904年) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%89%E5%B1%B1%E5%92%8C%E4%B8%80より)

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

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2023年02月15日

邪見


つねづね、女房に邪見にあたりて、食物も喰はせず(諸国百物語)、

の、

邪見、

は、

邪慳、

とも当て、

冷酷無慈悲、残忍なこと、

とある(高田衛編・校注『江戸怪談集』)。

邪険、

とも当てる(精選版日本国語大辞典)が、由来的には、仏語、

五見・十惑の一つ、

の、

因果の道理を無視する妄見、

をいい、

愍念邪見衆生、令住正見(法華経)、

と、


正見に対して、正理に違背する、一切の妄見を云ひ、特に、因果の理法を無視する妄見、

をいい(大言海)、正しくは、

邪見、

のようである。「五見(ごけん)」とは、

仏教で批判される五つの誤った見解(pañca dṛṣṭayaḥ)、

をいい、

①有身見(サンスクリット語satkāya-dṛṣṭi 実体的な自己が存在するという見解(我見)と一切の事物がその自己に属しているという見解(我所見)とを合わせたもの)、
②辺執見(サンスクリット語antagrāha-dṛṣṭi ①の後に起こるもので、我は死後も常住である(常見)、あるいは断絶する(断見)というどちらか一方の極端に偏った見解)、
③邪見(サンスクリット語mithyā-dṛṣṭi 因果のことわりを否定する見解)、
④見取見(サンスクリット語dṛṣṭi-parāmarśa-dṛṣṭi 自らの見解だけを最高とし、①②③をはじめとする誤った見解を真実であるとする見解)、
⑤戒禁取見(かいごんじゅけん サンスクリット語śīla-vrata- parāmarśa-dṛṣṭi 誤った戒律や誓いを守ることで涅槃に導かれるとする見解)、

とされ(http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E4%BA%94%E8%A6%8B・デジタル大辞泉)、特に、特に因果の道理を否定する見解はいちばん悪質なので、それを、

邪見、

という(ブリタニカ国際大百科事典)とある。

「十惑(じゅうわく)」は、根本煩悩である、

貪(とん)・瞋(し)・痴・慢・疑・見、

の六煩悩のうち、見を、

有身見・辺執見・邪見・見取見・戒禁取見、

の五見に分けて十と数えた、

十の煩悩、

をいう(精選版日本国語大辞典・仝上)。

「邪見」自体は、

貪著邪見(阿毗(毘)曇論)、

と、漢語で、

よこしまな考え、

の意があり、

天年(ひととなり)邪見にして三宝を不信(うけず)、

と、

よこしまであること、
不正な心、また、そのさま、

の意で使うが、転じて、

まことに人の心にひとを゜あはれむ心もなく、慳邪見ならば人にはあられず(春鑑鈔)、
世間の法には慈悲なき者を邪見の者という(日蓮遺文「顕謗法鈔」)、

などと、

思いやりがなくて無慈悲なこと、
意地悪でむごいこと、

の意で使う(日本国語大辞典)。現在では多く、

邪慳、

の字を用いる(仝上)。

「邪見」を用いた言い回しに、

邪見で物事にかど立てることを角にたとえた、

邪見の角、

や、

邪見が鋭く人を害することを刃にたとえた、

邪見の刃、

があるが、江戸時代の文化の頃、

無慈悲だ、

の意味で、

じやけんだのふの流言(はやりことば)は大町にもはかず(文化五年(1808)「やまあらし」)、

と、

邪見だ喃(じゃけんだのう)、

という言葉が吉原伏見町近辺の流行語であった(江戸語大辞典)とある。

「邪」 漢字.gif


「邪」(漢音シャ、呉音ジャ)は、

会意兼形声。牙は、食い違った組み木のかみあったさまを描いた象形文字。邪は「邑(むら)+音符牙」。もと琅邪という地名をあらわした字だが、牙の原義である食い違いの意をもあらわす、

とある(漢字源)が、地名から、借りて「よこしま」の意に用いる(角川新字源)とある。別に、

形声文字です(牙+阝(邑))。「きばの上下がまじわる」象形(「きば」の意味)と「特定の場所を示す文字と座りくつろぐ人の象形」(人が群がりくつろぎ住む「村」の意味)から、地名の「琅邪(ろうや)」の意味を表したが、借りて(同じ読みの部分に当て字として使って)、「よこしま」を意味する「邪」という漢字が成り立ちました、

とあるhttps://okjiten.jp/kanji1484.htmlのが分かりやすい。

なお、「慳」は、「慳貪」で触れた。「見」は、「目見(まみ)」で触れた。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
前田勇編『江戸語大辞典 新装版』(講談社)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
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ラベル:邪見 邪慳 五見 十惑
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2023年02月16日

弁才天


その子、母を弁才天にいはひ(斎)しより、その後はしづまりたると也(諸国百物語)、

の、

弁才天、

は、

弁財天女、

で、

民間では、水神、音楽神であるとともに、嫉妬する女神としての信仰があった、

とある(高田衛編・校注『江戸怪談集』)。

弁財天 (2).jpg

(弁財天 大辞林より)

「弁(辯)才」は、

梵語Sarasvat(薩囉薩伐底・薩羅婆縛底 サラサバティ)の訳語、

で(大言海・日本国語大辞典)、

天竺(インド)の神の名、

で、

聖河の化身、

といい(仝上)、のち、

学問・芸術の守護神、

となり、吉祥天とともにインドで最も尊崇された女神とされる(広辞苑)。仏教にはいって、

舌・財・福・智慧・延寿、

などを与え、

音楽・弁才・財福などをつかさどる女神、

とされ、

妙音天、
美音天、

ともいい(仝上・広辞苑)、

大弁才天、
弁天、

ともいう(仝上)その像は、

八臂(弓・箭・刀・・斧・杵・輪・羂索を持つ)、

また、鎌倉時代には、

二臂(二手で琵琶を持つ)、

の女神像が一般化するが、『金光明最勝王経』大弁財天女品によると、

頭上に白蛇をのせ、鳥居をつけた宝冠をかぶった八臂の女神で、持物は弓、箭、刀、さく、斧、長杵、鉄輪、羂索(けんじゃく)、

で、密教に入って、

二臂で琵琶を持った姿で胎蔵界曼荼羅外金剛部院、

にある(ブリタニカ国際大百科事典)。

羂索.bmp

(羂索 精選版日本国語大辞典より)

因みに、「羂索(けんじゃく)」は、

「羂」は「わな」の意、

の意で、

仏菩薩の、衆生を救い取る働きを象徴するもの、

とされ、色糸を撚(よ)り合わせた索の一端に鐶、他の一端に独鈷(どっこ)の半形をつけたもので、密教で用いる。不動明王、不空羂索観音、千手観音などがこれを持つ、

とある(精選版日本国語大辞典)。

後世、弁才天は、

吉祥天、

と混同され、また穀物の神である、

宇賀神、

とも同一視されて(仝上)、室町時代末期には、

福徳賦与の神、

つまり、

財福(福徳や財宝)を授ける女神とも考えて、

弁財、

の字を当て、

七福神の一、

に数えた(岩波古語辞典・日本国語大辞典)。「七福神」については触れた。

弁才(財)天女、

ともいう(仝上)。古来、

安芸の宮島、
大和の天の川、
近江の竹生島、
相模の江ノ島、
陸前の金華山、

を五弁天と称す(広辞苑)らしい。

天女の姿の弁財天、

というのは、江戸時代になり、七福神が信仰されるようになって認識されるようになったが、この天女姿の弁財天のルーツは、元々、七福神の女神が、

弁財天、

ではなく、

吉祥天(きちじょうてん)

だったため、天女姿をしていた吉祥天からきたものhttps://www.s-bunsan.jp/choeiza/column/column2021-1らしい。時代が進むにつれ、うまく日本の神様と習合して日本人に受け入れられた弁財天に対し、吉祥天信仰は徐々に薄れ、弁財天が代わりに七福神に入れられようである。その際に、吉祥天と同じ天女姿をした弁財天となったとみられている(仝上)。

吉祥天.jpg

(吉祥天 広辞苑より)

因みに、吉祥天(きちじょうてん・きっしょうてん)も、

バラモン教の女神で、のちに仏教に入った天女。顔かたちが美しく、衆生に福徳を与えるという女神、

であり、日本では金光明最勝王経会や吉祥悔過会の主尊としてまつられた例が多く、像容はふつう、

宝冠、天衣をつけ、右手を施無畏印、左手に如意宝珠をのせ、後世も美貌の女神、

として親しまれ、

奈良薬師寺の画像、
東大寺法華堂の塑像、
京都浄瑠璃寺の木像、

が名高い。

吉祥功徳、
吉祥天女、
吉祥女、
吉祥神、

等々とも呼ばれる(日本国語大辞典)。

なお、梵語Sarasvat(サラスバティー)という古代インドの女神は、元来、

水を湛(たた)える、

を意味する女性名詞にかかる形容詞であるが、固有名詞となって西北インドの、

インダス川の東方を流れていたサラスバティー川(現在のものとは別と考えられる)が女神として神格化されたもの、

となり(日本大百科全書・ブリタニカ国際大百科事典)、インド最古の聖典『リグ・ベーダ』では、河川神の中で最も有力な地位を占め(世界大百科事典)、

豊穣(ほうじょう)、生産、富、浄化の力をもつ、

とされ、後代には、

学問、技芸の神、雄弁と知恵の保護神、

として高い地位を与えられた(仝上)。これが、仏教に取りいれられて、弁才天となった。

サラスヴァティー.jpg

(サラスバティー https://www.s-bunsan.jp/choeiza/column/column2021-1より)

「サラスバティー」は、

ヴィーナ、

と呼ばれる琵琶に似た弦楽器を持っており、

サラスバティー河の流れる川のせせらぎ、

から、

流れるもの、

を連想する、

音楽や言葉などの才能をもたらす神、

とされたhttps://www.s-bunsan.jp/choeiza/column/column2021-1とある。弁才天の琵琶につながる。

弁才天坐像(宇賀弁才天).jpg

(弁才天坐像(宇賀弁才天) 竹生島・宝厳寺 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%81%E6%89%8D%E5%A4%A9より)

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
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2023年02月17日

紙燭


神前の灯明にて、紙燭をして、二階へあがりてみれば(諸国百物語)、

の、

紙燭、

は、

紙を撚(よ)って、それに火をつけて闇中のあかしにすること、

とある(高田衛編・校注『江戸怪談集』)。

紙燭、

は、

脂燭、

とも当て、

ししょく、

とも訓ますが、

シソク、

は、

(シショクの)ショクの直音化、

である(岩波古語辞典)。和名類聚抄(平安中期)に、

紙燭、族音、之曾玖、

とあるので、

シショク→シソク、

と転訛したことになる。

宮中などで夜間の儀式・行幸などの折に用いた照明具、

で(広辞苑)、

室内用のたいまつともいうべきもの、

とあり(岩波古語辞典)、

陰(ひそか)に湯津爪櫛(ゆつつまぐし)を取りて、其の雄柱を牽き折(か)きて秉炬(タヒ)として(日本書紀)、

の、

手火(たひ)の一種、

である(日本大百科全書)。

紙燭.jpg

(紙燭 広辞苑より)

松の細き材の、一尺五寸(45センチ)許なるが、端を焦し、油を塗りて、被を點(とぼ)す、樹を青紙にて巻く(大言海)、
松根や赤松を長さ約1尺5寸、太さ径約3分(9ミリ)の棒状に削り、先の方を炭火であぶって黒く焦がし、その上に油を塗って点火するもの。下を紙屋紙(こうやがみ)で左巻にした(広辞苑)、

ものだが、また、

紙縷(こより)に油を漬して點すもの(大言海)、
布や紙を撚(よ)り合わせて蝋(ろう)や油、あるいは松脂(まつやに)などを塗り込んでつくったもの(日本大百科全書)、

もあり、

スギの芯、マツの小枝、

なども使われた(仝上)とある。一般に使われたものに、

小灯、
小点、

と当てる、

コトボシ、

というものがある(仝上)。後の形態だと、

手燭(てしょく)、

小提灯(こぢょうちん)、

などがそれにあたる(精選版日本国語大辞典)が、

マツの「ヒデ」(マツの根の脂味(あぶらみ)の部分)を30~40センチメートルの手ごろな長さに切り、大人の親指ほどの細さに引き割って、その先端に火を点じ、

夜間室内の灯火に使った(仝上)とある。

なお、紙燭に火をともすことを、

さす、

という(学研全訳古語辞典)とある。

つとめて、蔵人所のかうやがみひき重ねて(枕草子)、

と、

紙屋紙(こうやがみ)、

というのは、

「かみやがみ(紙屋紙)」の変化した語、

で、

うるはしきかむやかみ、陸奥紙(みちのくにがみ)などのふくだめるに(源氏物語)、
ただうちの見参とて、かひやがみにかきたるふみの、ひごとにまいらするばかりを(今鏡)、
つとめて蔵人所のかや紙引かさねて(能因本枕)、

と、訛って、

かんやがみ(紙屋紙)、
かいやがみ(紙屋紙)、
かやがみ(紙屋紙)、

などともいう。元来は、

奈良時代・平安初期まで、朝廷の紙屋院(かみやいん)で製した官庁用紙、

をいうが、平安時代には、

京都の紙屋院で造られた反故(ほご)紙を漉(す)き返した紙、

をいう。字を書いた故紙(こし)を漉き返したので薄墨色をしており、

薄墨紙(うすずみがみ)、

ともいわれ、特に綸旨(りんじ)はこの紙を用いて書かれることになっていたので、

綸旨紙、

ともいい、

宿紙(すくし・しゅくし)、
水雲紙(すいうんし)、
還魂紙(かんこんし)、

ともいう(精選版日本国語大辞典)。

なお、

紙燭が一、二寸(約三〜六センチ)燃える短い間に作る歌、

また、

それを作る競技、

に、

紙燭の歌(うた)、

というのがある(仝上)。

紙燭2.bmp

(紙燭 大辞林より)

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)

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コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
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2023年02月18日

芝草(しそう)


この(聖武天皇の)善行によって、空飛ぶ虫も芝草をくわえて寺の屋根をふき、地を走る蟻も砂金を積み上げて塔を建てた(日本霊異記)、

の、

芝草、

は、

しそう、

と訓み、

さいわいだけ、

の意で、

王者慈仁の時に生ずる、

と注記がある(景戒(原田敏明・高橋貢訳)『日本霊異記』)。

万年茸.jpg


紀伊国伊刀郡、芝草を貢れり。其の状菌に似たり(天武紀)、
押坂直と童子とに、菌羹(たけのあつもの)を喫(く)へるに由りて、病無くして寿し。或人の云はく、盖し、俗(くにひと)、芝草(シサウ)といふことを知らずして妄に菌(たけ)と言へるか(皇極紀)、

とある、

芝草、

は、

万年茸(まんねんだけ)、
幸茸(さいわいたけ)、

ともいい、

霊芝(れいし)の異称、
万年茸(まんねんたけ)の漢名、

であり(広辞苑)、

きのこの一種で、瑞相(ずいそう)をあらわすとされた草、

である(精選版日本国語大辞典)。他に、

門出茸(かどでたけ)、
仙草(せんそう)、
吉祥茸、
霊芝草、
赤芝(せきし)、
福草(さきくさ)、
桂芝(けいし)、
聖茸(ひじりたけ)

などの呼称でも呼ばれ(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9C%8A%E8%8A%9D・世界大百科事典・字源)、

福草(さきくさ)、
幸茸(さいわいたけ)、

と呼ぶようになったのは、

因露寝、兮産霊芝、象三徳兮應瑞圖、延寿命兮光此都(班固・霊芝歌)、

といった、中国文化の影響をうけてからのことである。中国最古の字書『説文解字』(後漢・許慎)には、

芝は神草なり、

とありhttp://www.ffpri-kys.affrc.go.jp/tatuta/kinoko/kinoko60.htm

霊芝、一名壽濳、一名希夷(続古今註)、

と、

寿潜、
希夷、
三秀、
菌蠢、

別名もある(仝上・字源)。

『説文解字』には、

青赤黄白黒紫、

の六芝、

とあり、『神農本草経』や『本草網目』に記されている霊芝の種類は、延喜治部省式の、

祥瑞、芝草、

の註にも、

形似珊瑚、枝葉連結、或丹、或紫、或黒、或黄色、或随四時變色、一云、一年三華、食之令眉壽(びじゅ)、

とあるように、

赤芝(せきし)、
黒芝(こくし)、
青芝(せいし)、
白芝(はくし)、
黄芝(おうし)、
紫芝(しし)、

とあるhttps://himitsu.wakasa.jp/contents/reishi/が、紫芝は近縁種とされ、他の4色は2種のいずれかに属するhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9C%8A%E8%8A%9Dとある。

霊芝(レイシ.jpg


担子菌類サルノコシカケ科(一般にマンネンタケ科とも)、

のキノコで、

北半球の温帯に広く分布し、山中の広葉樹の根もとに生じる。高さ約10センチ。全体に漆を塗ったような赤褐色または紫褐色の光沢がある。傘は腎臓形で、径五~一五センチメートル。上面には環状の溝がある。下面は黄白色で、無数の細かい管孔をもつ。柄は長くて凸凹があり、傘の側方にやや寄ったところにつく、

とあり(精選版日本国語大辞典)、乾燥しても原形を保ち、腐らないところから、

万年茸(まんねんだけ)、

の名がある。

庭にマンネンタケが生えると瑞兆とし、一家のあるじが旅立つときはマンネンタケを門先にさげて無事の帰還を祈る地方もあった、

といい、

カドデタケ、

の名はそこから出た(世界大百科事典)。

茎のつき方.jpg

(キノコの茎のつき方 デジタル大辞泉より)

成長し乾燥させたものを、

霊芝、

として用いるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9C%8A%E8%8A%9Dが、後漢時代(25~220)にまとめられた『神農本草経』に、

命を養う延命の霊薬、

として記載されて以来、中国ではさまざまな目的で薬用に用いられ、日本でも民間で同様に用いられてきたが、伝統的な漢方には霊芝を含む処方はない(仝上)とある。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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2023年02月19日

自度僧


むかし、山城国にひとりの自度僧がいた。名前はわからない(霊異記)、
石川の沙弥(さみ)は自度僧で本姓もあきらかではない(仝上)、

の、

自度僧、

は、

公の許可を受けないで、勝手に僧形となった人のこと、当時は僧尼は官の感得を受けている、

とあり(景戒(原田敏明・高橋貢訳)『日本霊異記』)、

私度僧、

ともいう(仝上)とある。

剃髪・出家して仏道を修行し(入道)、僧尼となることを、

得度(とくど)、

というが、律令時代には国家による一定の手続を要する許可制がとられていた。官の許可をえて得度したものを、

官度僧、

というのに対して、官の許可をえず私的に得度したものを、

私度僧、

といった。

私に入道し及び之を度する者は、杖(じよう)一百(戸婚律(ここんりつ))、

と私度を厳罰し(唐の戸婚律の規定をそのまま継受したもの)、また、

私度にかかわった師主(ししゅ 学問修行で、よりどころとなる師)、三綱(さんごう 仏教寺院において寺院を管理・運営し、僧尼を統括する上座(じょうざ)・寺主(じしゅ)・都維那(ついな・維那とも)の3つ僧職の総称)らを還俗(げんぞく 僧尼身分の剝奪)に処する、

ことを規定している。僧尼令(そうにりよう)には、

僧尼となれば課役免除の特典、

があり、課役をのがれるため、勝手に得度することを防止していた(世界大百科事典・日本大百科全書)。ただ、

私度僧、
と、
自度僧、

については、上記引用の『日本霊異記』に登場する、

自度の沙弥(しやみ)、

という場合の、

自度、

は、師主に就かないでみずから剃髪・出家したものを指し、

私度僧、

とは少し概念を異にする(仝上)ともある。なお、「沙弥」については、「沙喝」で触れたが、「僧尼令」のいうのは、

僧・尼の注釈に沙弥・沙弥尼を加えており、僧尼と同じ扱いをうけている、

とある。ただ、実際は僧の下に従属し、律師以上の僧官には従僧以下、沙弥と童子が配されていた(仝上)。

具足戒を受けず、沙弥のままいた人々も多く、また正式のルートによらないで出家した僧(私度僧)は私度の沙弥とか在家沙弥と呼ばれた(仝上)。私度の沙弥は、

8世紀以降とくに輩出し、ある者は正規の手続をへて官寺の僧となり、ある者は官寺や僧綱制の外縁にあって、古代の民間仏教を支える基礎となった、

とある(仝上)。

行基菩薩坐像.jpg

(行基菩薩坐像(唐招提寺) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A1%8C%E5%9F%BAより)

近年の研究によれば、

私度が実際に取り締まられた実例はなく、杖一百に処された者は1名も確認できない、

とある(仝上)が、

知識結とも呼ばれる新しい形の僧俗混合の宗教集団を形成して、近畿地方を中心に貧民救済や治水・架橋などの社会事業に活動したこと、

が、養老元年(717)4月23日、詔をもって、

小僧の行基と弟子たちが、道路に乱れ出てみだりに罪福を説いて、家々を説教して回り、偽りの聖の道と称して人民を妖惑している、

として、僧尼令違反で糾弾されて弾圧を受けた例があるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A1%8C%E5%9F%BA。しかし、行基とその集団の活動が大きくなっていき、

指導により墾田開発や社会事業が進展したこと、
豪族や民衆らを中心とした宗教団体の拡大を抑えきれなかったこと、
行基らの活動を朝廷が恐れていた「反政府」的な意図を有したものではないこと、

などから、朝廷は天平三年(731)に弾圧を緩め、翌年には河内国の狭山池の築造に行基の技術力や農民動員の力量を利用した(仝上)とある。

この例以外、政府に禁圧されなかった私度、褒章を受けた私度、私度として公文書に署名した者が確認でき、追加法を見ても、私度は実際には容認されていたと考えられる(日本大百科全書)との見方もある。

空海、
景戒(きょうかい 日本霊異記の編者)、
円澄(えんちょう)、

も、最初私度として活動し、のち官度に転じた(日本大百科全書)。確かに、養老年間(717~24)頃には僧俗の秩序を乱す行為として、僧尼令などによる弾圧の対象であったとされるが、

僧尼令違反を理由に処分されたのは行基、

のみで、天平三年(731)に、

行基の率いる私度僧集団からの得度、

が条件付きで認められるhttp://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E7%A7%81%E5%BA%A6%E5%83%A7など、次第にその存在が容認されるに至ったという経緯のようだ。

なお、『日本霊異記』については触れた。

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

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2023年02月20日

風流


大和國宇太の郡漆部(ぬりべ)の里に風流な女がいた。漆部造麿(みやつこまろ)の妻であった(霊異記)、

の、

風流、

は、ここでは、

世俗の名利に無関心で、いつも身を浄らかに持つ清浄高邁な行為をさしている、

とある(景戒(原田敏明・高橋貢訳)『日本霊異記』)。

風流(ふうりゅう)は、古くは、

ふりゅう、

とも訓んだ(大辞林)が、「風流」は、漢語で、

士女沾教化、黔首仰風流、自中興以來、功臣将相、継世而隆(後漢書・王暢傳)、

と、

先王の遺風餘流、
なごり、

の意や、

天下言風流者、以王樂為稱(晉書・樂廣傳)、

風雅、

の意でも使う(字源)。「風流」は、

風聲品流の略、

とあり(大言海)、

風聲品流能擅一世、謂之風流也(剪燈新話(せんとうしんわ 明代の怪異小説集)牡丹燈記)、

とするが、前後が逆で、古くは、

中国では、最も古くは先王の美風のなごりの意であったらしいが、やがて、俗ではない品格とか優美な魅力の意で使われた、

とあり(岩波古語辞典)、日本でも、室町時代編纂のいろは引きの国語辞典『運歩色葉集(うんぽいろはしゅう)』は、

風流、フウリュウ、遺風余風之義也、

とあり、風姿花伝では、

新しきを賞する中にも、またく風流を邪(よこしま)にする事なかれ、

と、遺風の意で使っている。しかし、早く万葉集以来、平安期でも、

風流、

を、

ミサヲ、
ミヤビヤカ、

と訓ませる(岩波古語辞典)など、

ここに前(さき)の采女あり、風流びたる娘子(おとめ)なり。左手に觴を捧げ、右手に水を持ち(万葉集)、
雖風流如野宰相、軽情如在納言、而皆以他才聞(古今集・漢序)、

と、

粗野・平凡ではない人品の良さ、風雅な情趣を解すること、

の意で使い、さらに、

その様例の車に似たりといへども、……風流詞を以て云ふべきにあらず(御堂関白日記)、
こがね・しろがねなど心を尽して、いかなることをがなと風流をしいでて(大鏡)、

と、

芸術的な衣装を凝らすことなどの意に転じていく。江戸後期の三都(京都・大阪・江戸)の風俗、事物を説明した類書(百科事典)『守貞謾稿』には、

夫男女ノ風姿タル、風流美麗ハ古今人ノ欲スル所ナリ、而カモ古人ハ、善美ニシテ流行ニ合ヒ、意匠ノ精シクシテ野卑ニ非ザル、乃チ之ヲ風流ト云フ、

とある。特に、

ふりゅう、

と訓む場合、室町時代の意義分類体の辞書『下學集』に、

風流、フウリュウ・フリュウ、風情義也、日本俗呼拍子物曰風流、

とあるように、平安時代末期以降、

みやびやかな、

の意が由来(広辞苑)らしいが、

御堂の庭に桟敷を打つて舞台をしき、種々の風流を尽さんとす(太平記)、

と、
和歌や物語を意匠化した作り物、

をさすようになり、

拍子物(はやしもの)を伴い、華麗な行粧・仮装をこらしてする祭礼、また、その拍子物、

をいい、後には、

趣向を凝らした祭礼の傘鉾、山車(だし)、

さらに、

それを取り巻いて踊ること、

をも称するようになる(岩波古語辞典)。「風流」(ふりゅう)は、だから、当初の、

祭礼の行列などで、服装や笠に施す華美な装飾、

の意から、

風情ある造り物、

を意味し(学研全訳古語辞典)、転じて、室町末期には、

造り物で飾った笠(カサ)・鉾(ホコ)などや仮装した者を中心に、囃し物を伴って群舞した集団的歌舞、

をいうようになった(広辞苑・日本国語大辞典)。

風流.bmp

(風流 精選版日本国語大辞典より)

風流踊(ふりゅうおどり)、
風流傘(ふりゅうがさ 趣向をこらし種々飾りたてた長柄の傘。祭礼の行列などに用いた)、
風流車(ふりゅうぐるま 種々の装飾を施した車。賀茂祭などの祭礼の行列に加わる)、

等々といった言葉がある(仝上)。そうした、

群舞、

は、

念仏踊・太鼓踊・獅子踊・小歌踊・盆踊・奴踊・練物、

などにもつながり(仝上)、

浮立、

とも当て(仝上)、現在も広く行われている。そうした流れの一つに、

寺院で、法会のあと僧侶・稚児たちが行った遊宴の歌舞、

である

延年舞、

がある(精選版日本国語大辞典・デジタル大辞泉)。

延年舞.bmp

(延年舞 精選版日本国語大辞典より)

平安中期に起こり、鎌倉、室町時代に盛んに行なわれ、

比叡山の延暦寺、奈良の東大寺・興福寺その他の大寺で、大法会(だいほうえ)のあとの遊宴の席で、余興として演じられた、

もので、伴奏楽器は、

銅鈸子(どうばっし 金属製シンバル)、
鼓、

などで、

大風流、
小風流、

の別がある(仝上)という。能楽にもとり入れられ、特別な場合に、

式三番(翁)に付加して行う演目、

で、狂言方が担当するので、

狂言風流、

ともいう(仝上)とある。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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